世界が自分を動かしているような感覚になる

2020-12-15 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ヨーガの説明で3つの要素、見るもの・見られるもの・見る手段が一体になる、みたいなお話があります。これはサマーディ(三昧)の説明なのですが、今まではわかるようでいてわからなくて、ヴィパッサナー状態のことかな、と漠然と理解しておりました。

文字通り読むと行動の主体と客体が消え失せ、行為そのものになる、とも読むことができますが、最近の私の状態によってようやくこのことが直接的に理解できるようになって、今までは理解が足りていなかったことに気が付きました。

最近はここ1年ほどスローモーションで視界が見えるヴィパッサナー状態が基本にあって、その状態から落ちることもあればその状態のまま生活することもあるのですが、次第にそのようなヴィパッサナー状態(サマーディ状態)でいることが多くなってきました。そうなってくると、最初は視界だけのヴィパッサナーあるいはサマーディとも呼べる状態でしたが、最近は、表現するのが難しいのですが、もっと「ふわふわ」とした感じになってきました。

視界は見ようと思えばスローモーションで見えるのですが、特に視覚を強く働かせようと思うときだけそうなって、今は以前ほどスローモーションのような感覚がなく、その一方で、体の中の感覚とか、漠然と周囲を感じる見えない結界というか気配を感じるアンテナのようなものが広がってきた感じです。まだ感覚は薄いですけどね。

そのアンテナは距離が離れるほど感覚が薄くなってゆくのですが、そのように視界だけでなく感覚までも遠くまで広がるようになってくると、自分がここにいるという感覚が薄れて「ふわふわ」とした感覚になってくるのです。

これはもちろん日によって深さが違いますけど、歩いていたり自転車に乗っている時に距離感がなくなったりするので、ちょっと危ないと思うこともあります。視界に意識を合わせてスローモーションで見ればそれなりに危険は避けられるのですが、そもそも感覚がふわふわしてきているのでそのように視界に意識を合わせるよりも感覚で周囲を把握していた方がよっぽど楽です。そのためにちょっとふわふわした状態になって、距離感も薄れて、乗り物を運転するのがちょっと危ない感じになってきています。この感覚に慣れていないだけですかね。

その状態で生活していてふと気が付いたのが「私」という感覚がとても薄くなっていることです。ふわふわと浮いていて、体を動かしていて、行為もしているのですが、体を動かしているという実感があまりないのです。ふわふわしています。

まるで、宇宙あるいは世界が私を動かしていて、私が動いているというより宇宙が動いているように感じるのです。もちろん私というのは個人ですから動くのは私という人の体ですが、人の体が動いているというよりは宇宙としての個人が動いている感覚なのです。もちろん周囲が勝手に動くわけではなく動くのは私の体だけですけど、宇宙が動いているかのような感覚になっています。周囲にあるものと自分の区別もあまりなくて、たまたま自分だけが動いた、という感覚です。

そうなると、感覚としては「ふわふわ」していて、それでいて、「主体」がなくて「客体」もなくて「動かす手段」もない感じです。探そうと思ってもそれらのいずれも見つかりません。

最近になって、ひょっとしたらこの状態がヨーガでの3つの状態のことなのかな、と思うようになりました。

例えば何気なく自転車に買い物に行く時、宇宙が私を動かしているので「わたし」という主体は見つからなくて、宇宙が自転車や自分の体を動かしているので「私が動かしているもの」、という「客体」も存在しなくて、「自転車をこぐ」という「動かす手段」も存在しなくて、宇宙が自転車をこいでいる状態なわけです。別に自転車だけでなく普段の生活でも割とそんな感じです。

この説明はヨーガの説明とは異なるかもしれませんけど、ヨーガでよく見る3つのお話の説明としては私としてはしっくりきます。

まあ、わかってしまえばなんてことはないですね。

職人さんとかで物事に熟練すれば「宇宙が私を動かして作品を作っている」という境地にまで到達しますけど、そのように職人さんが言っているのは何もその仕事のことだけを言っているわけではなくて、日常生活においてもそのように宇宙が自分を動かしている境地にいる、と言っているのですよね。

であれば、ヨーガではこのように3つの境地という言葉で説明していますけどそれは日本人には回りくどくて、日本人にはもっとストレートに説明および理解が可能で、要は「神様が私を動かして作品を作っている」とか「私が無心でいたら神様が手助けしてくれていつの間にかスポーツに勝たせてくれた」みたいなお話の方がよっぽど理解がしやすいと思います。

それを世界というのか神様というのかは人それぞれですけど、自分を超えた存在が自分を動かしているようになって自分とか相手とか何かしている、というような感覚が消え失せた状態があるわけです。それをヨーガではサマーディとかヴィパッサナーとか呼んでいるのだと思いますね。

改めて、この3つの言葉の意味を調べてみました。ヨーガスートラ1章41番ですね。

(1-41) そのヴィリッティがこうして無力になった(制御された)ヨーギーは、(さまざまの色の印象の前におかれた)水晶のように、うける者、うけること(の道具)、およびうけられるもの、(「自己」、心、および外界の対象)が集中して同一になる。「ラージャ・ヨーガ」 (スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著)

ここにあるように、まず自己とはSelfですのでアートマン、いわゆる魂のことですね。心はヨーガでいうマナス、そして外界の印象とはヨーガではヴィリッティと呼びます。これらの3つが同一になる、というのは、心(マナス)が純粋になって魂(アートマン)が外界の印象そのものを直接的に映し出すようになった状態であると言えます。

まさに、最近の状態がそのものであると言えます。