その度に、「力を統べる法が欲しい」と答えます。
イメージで、力を手に入れて英雄になれるであろう画像を何度も何度も瞑想中に見せられます。具体的な未来世のような映像や、世間で言われている聖者たちが成した神にのみぞ為せるかのように思われる技。そして、はたまたアニメの魔法使いのような映像までも使って「力が欲しいか?」と何度も聞かれます。
ですが、冷めたものです。
私の中の平穏な意識は変わることなく、それを眺め続けています。
そして、聞かれる度に「力を統べる法が欲しい」と答えます。
そうすると、やがてその誘惑は去ってゆきます。
去っていったからといって、何も思いません。そのまま瞑想が続くだけです。
特にその回答をしたところで私に何か変化が起きるわけでもありません。法が欲しいと言ったからといってすぐに法という何某かが得られたわけでもありません。
ただの茶番のようです。
思えば、数年前くらいまではこのような映像に瞑想中は吸い込まれていたような気が致します。
今は、そんなの関係なく瞑想が続けられます。
ヨーガスートラでも言われているように、力に対する誘惑があったら退けなくてはならない、ということでしょう。禅でもこのような魔境の誘惑を突破しなくてはならない、と言われています。きっとそのようなことなのだと思います。
昔は力に対する欲望が強くて飲み込まれていたのかなと思いますが、今は茶番だとわかっていますので冷めたものです。かと言ってがっかりするわけでもなく、ただの映像として受け流すわけです。
かなり以前から同様の声で誘惑されていたと思いますが、時が経つにつれて冷めてきた感じです。何度も見るので割とスルー気味でしたけどぼちぼち見ていた気もします。割と最近にも同様のことがありました。それより以前も何度も誘惑されていましたし、数年前であれば割と飲み込まれていたように思います。
力への誘惑は魅力的でしたけど、今はもう茶番にしか思えません。