雑念のあまりない状態で瞑想をしたり日常生活を送る

2021-01-08
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

最近は、瞑想をするにしても日常生活を送るにしても雑念が減ってきています。

同様の表現で「雑念が減ってきた」ということは今までにも何度も段階的に変化してきていますが、この最近の状態は、それらとはまた違ったものです。言葉で言い表そうとすると似た表現になってしまいますが。

ここ最近は、意識的に意図を持って行動する際の意識は働きつつも雑念が減ってきています。

以前は割と、雑念が減ってきた時は意識的に雑念を抑えようという意図が働いていて、雑念を減らそうという意図と行動しようという意図とが共存できずに、意図としては1つだけで、雑念を抑えようという意図あるいは何かをはっきりと見ようという意図がある場合は雑念が減って、その時にヴィパッサナー状態になって例えば視界がスローモーションの映画のように見えたりしました。意図としての意思の状態によって雑念を抑えていた、とも言えますし、結果としてそうなっていた、とも言えます。どちらにせよ意図が必要だったわけですね。

最近は、瞑想をしたり日常生活を送る際に、意図としてはその時の瞑想だったり日常生活の目的があって意識もそれに向いているのですが、それとは別に、雑念を抑える別の力が働いているかのようです。

以前は、雑念というものを抑え込む力を発揮するために別の意図を使っていましたが、今は、特別に意図しなくても自動的に雑念を減らす作用が働いているようです。

これを、サマーディ的な言葉で表現するのであれば、以前は意図あるいは意識あるいは問いのあるサマーディ、いわゆるサヴィタルカ(問いのある)サマーディということになるかと思います。

最近は、この種の「問い」がなくなってきた感じです。完全になくなったというよりは移行期のような気も致しますが、次第に「問いのない」、いわゆるニルヴィタルカ・サマーディの方に近づいてきた感じも致します。

ヨーガスートラ
1-42) 音、意味、およびそこから生まれる知識が、まじりあって問いのあるサマーディ(とよばれる)。音はここでは、それをつたえる神経の流れである振動をさす。そして知識は、反応のことである。(中略)ことばと意味と知識のまじりあいから生まれる、主体と客体の二元性を保持している。
1-43) 問いのない、とよばれるサマーディは、記憶がきよめられたときに、すなわち(瞑想される対象の)意味だけがあらわれていて性質がまったくなくなったときに(くる)
「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」

スローモーションのヴィパッサナー状態と比較して理解すると、たとえば、ここで音となっているのは外界からの五感としての入力ですから視界の神経の信号に相当すると思います。その視界の神経の信号が脳に入ると意味が現れてきます。そしてやがて、その意味だけでなくそこに隠されているあるいは含意している知識が見えてきます。あるいは、知識が現れてくると言ってもいいと思います。

そのように、神経信号と単純な意味とそこに隠された知識(あるいは理解と言っても良い)という表層があるわけです。これらは、勉強のようにそうなっていると単純に暗記あるいは理解するものというよりは、実際に瞑想をして、そうなっていることを実感するという種類のものです。瞑想してこれらが正しいと確かめられた時にようやくこれらの内容が知識として身につくわけですね。

そうしてまずは、主体と客体が混じり合ったサマーディが来るということは、その段階は私のスローモーションのヴィパッサナー状態が相当しているように思います。その状態は、見る私と見ている対象という違いが存在していますから二元性を維持しています。

一方で、最近の状態はそのように特別に視界を意図しなくても自動的にそのようなヴィパッサナー状態が起こりますし、以前のように中心軸があるわけでもなく、以前の方がある意味激しさと焦点があってわかりやすいものでしたが、今は焦点が薄れてきていますので、一見すると以前より後退したかのような印象も最初は受けましたけど、その状態を続けていてわかったのは、きっとこれは二元性がなくなってきているのだな、と理解するようになりました。