胸の奥の神意識がこの世を思いのままにできることを実感して恐怖を感じる

2020-12-26 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想中、神そのもの、あるいは神意識を胸の奥底に感じ、それは単に三世を見通せるというよりはこの世を思いのままに変更できるというもので、それには喜びというよりはむしろ恐怖を感じました。

恐ろしく感じましたが耐えられないほどではなく、おそらく数分ほどの間それを抱えていたらやがて恐怖が去ってゆき、神意識の影のようなものだけが胸の奥に残りました。

その意識がやってくるまでは最近の瞑想のように呼吸で雑念をなくしてエネルギーをアジナにまで通すという感じでやっておりましたが、ふと、このような神意識といいますか何か奥底の深い意識がやってきて、そういえば最初はちょっと想像にふけていたような気がして、漫画に出てくる神様たちのシーンが見えた後、胸の奥に不意に神意識らしきものが現れたのでした。

神意識というのが正しいのかどうかは分かりません。ヨーガで言うところのアートマンかもしれません。

瞑想を続けていると恐怖が出てくる、というお話は瞑想の本に色々と書いてありますが、それらと一致しているのかもしれませんし、そうではないのかもしれません。

とある本には、自分というものが消え去る瞬間に恐怖が出てくる、みたいなことが書いてありましたが、今回のものは自分がなくなると言う感じはそれほどなくて、この世を自由にできることに対しての恐怖ですね。

神意識は、この世界を見通してこの世をありのままに感じるというよりはこの世界をもっと積極的に思いのままに変更できる意識であるのかもしれません。

であれば、世界は神意識次第でどうとでもなるということですから、そのような大きな力は恐怖を伴って当然かも知れません。正しい意思の力がなければ大変なことになりますから。

パワーに溢れていますのでかなりのポジティブですが歓喜と言えるような感情的な喜びはあまりなくて、強大な力に対する恐怖ですね。絶大なる力。この世がいかようにもなる意識。この世が神意識によって作られた世界、と言うのもあながち間違いではないことが直感でわかりました。

この地球が卵のような脆いもので、その卵の地球を手のひらの上に乗せています。もしその気になれば地球の卵を握りつぶしてしまうこともできるのを感じますが、そんなことはもちろんせずに、手のひらを緩く広げたままにしておきます。そのように、力でどうこうしようと思えば何とでもできそうなことに対する恐怖があるわけです。宇宙意識の力は強大で、どうとでもできてしまいそうな実感があります。

それは、未来が「そうなる」というよりは、未来を「そうする」という感覚です。予知ではなく創造です。創造主という解釈はここから来たのかもしれないとも感じます。創造主が胸の中にいる感覚です。

その意識にある時、意識が見ているものはこの世界であり、世界のために何かをするという感覚に自然になります。世界のために行うことが当然であると感じます。その状態が優勢である時は私個人の利益の行動という感覚がほとんどなくて、私個人のためという感覚はどこか遠くにぽつんと置かれてあるような感覚で、世界に行き渡る意思として何かを意図したりする状態になっています。

かと言って実際に遠くのものが見えたりするわけではなく、感覚としてそのように認識される、ということです。同様に、実際に世界を自由にできたりするわけではなく、感覚としてそのように認識されるということです。

その、胸の奥にあるものは最初は胸の少し離れた後ろにあって、感じ始めた最初の瞑想の中で少しずつ身体に近づいてきて、その日は背中の後ろにくっつている感じでした。それが、次の日くらいには胸の中の少し後ろ側で感じられるような状態に変化しました。

瞑想中にこれらを強く感じて、瞑想が終わったらその感覚は薄れていって、奥の方に少しだけ感覚が残った感じです。

恐ろしさを感じたのは最初だけで、後はそれほどでもない感じです。

ただ、おそらくは今回のことは最初の接触と言いますか最初の実感でしかなくて、最初こそ強烈に感じられましたがまだ始まりに過ぎず、やがてはこの感覚が深まっていくのかな・・・ という気が致します。

創造というのは破壊と一体であって、何でも創造できるというのは何でも破壊できるということ。そこに創造と破壊の恐ろしさがあるわけです。シバ神的な破壊の面と創造の面が組み合わさった感じですね。

この「創造」の意識と一体になることができればその時はこの世の法則までも変えることができて、例えば空中に浮かぶなんて簡単なことだ、というインスピレーションが来ましたけど本当のことかどうかはわかりません。これはすぐそうなるというわけではなくて、そのようなポテンシャルがある、ということのようです。

ヴェーダでは「創造」と「破壊」と「維持」の3つの力が言われていて、瞑想中には創造と破壊は感じられましたが「維持」がなかったかな...? としばらく思っていたのですが、ふと気がつくと、どうやら「(卵を)握りつぶそうと思えば握りつぶせるけれども、握りつぶさない」というように認識した力こそが「維持」の力なのだ、と認識を改めました。

であれば、この深い、いわば宇宙意識とか神意識とか言えるかもしれないものは創造・維持・破壊の全ての力を持っていると言えます。ヒンドゥで言うところのシバ神(破壊)、ヴィシュヌ神(維持)、ブラフマー神(創造)によってシンボル化されている力です。

もしかしてそのうちどれかが優勢だったり違いがあるのかもしれないと思って1つづつ検証してみましたが、どれも均等だ、という結論に達しました。3つとも感じたのですが、最初に感じたシバ神のような破壊の面が優勢かのようにも見えてそれと同じくらい創造(ブラフマ)のエネルギーも感じましたし、その両者と匹敵するぐらいの維持の力(ヴィシュヌ)も感じました。時と場合により表に出る面が違うだけで、3つのエネルギーが同時に存在している気が致します。そして、それらは質としては別々の力なれど、エネルギーとしては均一の力であるように思います。

この意識がやってきた時、瞑想中に「この創造・破壊の意識と一体になりたいか?」と聞かれて、その恐ろしさに答えることを少し躊躇しました。「あ、いや・・・。それは・・・。」と、私の自我意識がまずは反応的に拒否しました。私のエゴ(自我)は「いや、怖いです。嫌です。」と言っているのを私の「観察する心」は眺めていました。自我が怖がり、拒絶を表しているのです。

しかし、私の思考する機能(ブッディ)は「これは怖いものであるがそれは創造と、創造の反対の面としての破壊であるから、それはヴェーダで語られているこの世の3つの属性である創造・維持・破壊を示している。これは真理に違いない。であれば受け入れるべき」と割と直感的に判断をし、私のエゴの反抗を抑えつつ、エゴが躊躇しながら何とか意思を働かせて小さく「はい」と答えたのでした。

するとそれは少し離れ、一部だけが残りました。

勇敢な人であれば即座に「はい」と答えていたのかもしれません。しかし、それは本当にこの世をいかようにも創造・破壊できてしまいそうな強大な力で、それをそのまま受け入れるにはあまりにもその質問は急で、特にその時は圧倒的な創造と破壊の力を感じて圧倒されていましたので、すぐに答えることができませんでした。すぐに答えることができればもっとすぐに一体になっていたのかもしれません。それはわかりません。

最初こそ躊躇しましたが、数日経ち、思い返してみると、やはりあれこそが根本の、いわゆる宇宙の本質に繋がるもので、そこを避けて通ることはできないと思います。

当日、最初の圧倒的な感覚はほとんど消えて少しだけ感覚が残りました。ですので最初はそれは一時的なものかなとも思っていたのですが、その後、瞑想を続けるうちに少しだけ感覚が深まってきています。今後、あの圧倒的な恐ろしくも創造的な力と一体になることがあるのか・・・ それは今後、見極めてゆきます。

少なくとも、再度同様の質問を聞かれたら、もうこの身がどうなってもかまわないので「はい」と答えようと思っています。

色々と分析した結果、避けるべきではなく通るべき道、おそらくここしかない道であると判断しましたので、であれば「はい」と答えるしかないわけです。