瞑想中に見える光の解釈

2021-02-18 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想中には光を見ることが多くて、しかし、その解釈はなかなか難しいものがあります。

ヨーガの解釈ですとチャクラごとに色がついていたりしますけど、瞑想中にその色が見えてくるということは個人的にはあまりなかったように思います。しかし、瞑想中にチャクラの色が見えてくると言っている人もいらっしゃいますので、そういうこともあるかもしれません。

ヨーガの流派によっては、瞑想中に見えてくる光は重要ではないので無視する、としている所もあります。瞑想中の色の解釈は難しいですので、これはこれで、弟子たちに無用な詮索をさせないとか、あるいは、弟子たちが自分が修行が進んだと勘違いさせないためにも有効な手段になっているようにも思います。

ヨーガ系および神智学系を組み合わせた解釈として、灰色・黒色(あるいは紫色)・光、という三段階が個人的にはしっくりきます。

チベット系あるいはゾクチェンの解釈としてはティクレがあります。これは、上記の3段階目の光と一致しているようにも思います。

瞑想を始めたばかりの頃は灰色のもやもやとした感じが見えて、それは、ただ単にまぶたを通して外を見ているだけのような感覚だったり、あるいは、ふとしたことで光がフラッシュすることもあります。このような光を見ることで、初心者は「光だ!」と解釈してしまいがちですけど、実際には、そういう、たまに光を見ることはよくあります。

ですから、一部のヨーガの流派のように「光は重要ではない」としてしまうのは、それはそれで実践的で理にかなっているとも言えます。

そうは言いましても、自分の立ち位置をしっかりと見極めた方がいいと私なんかは思っておりますので、そのような「光」のような明確な「しるし」をそのようにばっさりと捨ててしまうのはもったいないと思っていて、光の見え方で成長の度合いが計れるのですから、使えるものは使いましょう、というのが私のスタンスです。

個人的には、上記に書いた、灰色・黒色(あるいは紫色)・光、という3段階がしっくりくるわけですけれども、最近で言うと、瞑想中に視界の各所に見えるフラッシュやランプの光のようなほのかな光がよく見えて、それと、日常生活中にはチベット(あるいはゾクチェン)で言うところのティクレという光の滴もよく見えます。

ティクレは青空を見上げた時に青空の手前にスクリーンのように目の表面の小さなごみが見えたりするのと同様に各所で光がフラッシュしたり光子が流れ星のように各方向に飛んでいくのが見えたりします。

個人的には子供の頃からこのようなティクレをよく見ていましたので特に目新しいものではないのですが、チベットでは瞑想法としてこのティクレが使われています。

ティクレを検索してみると、瞑想を始めるまでこのようなティクレを見たことがなくて驚いたというような記述が散見されますけど、個人的には子供の頃からティクレは普通に存在していましたし、ティクレという言葉自体には慣れ親しんでおりませんでしたがチベット特集のテレビ番組でそのような光を見る瞑想のお話を当時見たこともあって、あれが瞑想になるのか、と、漠然とその頃は理解しておりました。

ですので、瞑想が進むとティクレのような光が見えてくる、という言い方をしたりもしますけど、個人的には必ずしもそうとは思わなくて、現象およびテクニックとしての光の見え方はあって、それとは別に、瞑想中に見えてくる光がある、と思っています。

ティクレは2つの意味が含まれていて、青空を見上げた時に見えるティクレはテクニックで見えてくる光の方で、瞑想が進むと見えてくるティクレはもう少し違うもののように思います。とは言いましても、ティクレとは単に光の滴と言うような意味合いのようですので、どちらも光ですのでティクレとしては同じなのかもしれません。

どちらにせよ、光の解釈はちょっと難しい気も致しますので、ヨーガの一部の流派のように「重要ではない」と言ってしまうのも実用面から言えばあながち間違いではない気も致します。