私がアートマン(真我)だという自覚と共に顕在意識の側は主の僕(しもべ)としての自覚も生まれるわけです。
これはどういうことかと言いますと、アートマン(真我)が自らの肉体及び顕在意識をダイレクトに動かしていると自覚するのと同時に、顕在意識の側も、アートマン(真我)をはっきりと意識するようになるからです。
アートマン(真我)からすれば肉体と顕在意識をダイレクトに動かしており、逆に、動かされている側の顕在意識からすればアートマン(真我)によって動かされているわけです。
もちろんこれは顕在意識がなくなるということではなく、顕在意識は存在していて、思考や感情は普通にあります。その裏で、アートマン(真我)が全てを把握していて意図していることを「(アートマンの)意識」として感じられるわけです。そこには、観察としての観照状態と、意図としての意識の両方の面があります。
顕在意識からすると、「アートマンから見られている」「アートマンの意識によって動かされている」という2つの面が自覚されているわけです。観照状態で満遍なく普遍的に常にダイレクトに見られているという自覚と、意図を持った意識によってダイレクトに動かされているという自覚が顕在意識の側にあるわけです。これは理屈のお話ではなく、実際に、顕在意識がそのことを自覚している、というお話です。
そして、それを比喩的に言い表すと、顕在意識の側からすれば「主の僕(しもべ)であることを自覚する」ということになります。
とは言いましても、この時の顕在意識とアートマン(真我)の意識は表裏一体であり、実際にはひとつづきの心でありますので、心の一面の動きとしてのそのような自覚があるわけです。もっとはっきり言うならば、思考する器官(ブッディ)と感じる心とは少し違う場所にあって、アートマン(真我)の動きを自覚しているのはその感じる方の心の動きになります。顕在意識と言ってしまうと思考する心と思われるでしょうし、それはそれほど間違いでもないのですけど、それよりは、感じる側の心がこうしたアートマンの自覚をすることになります。
実際は、顕在意識が思っているところの「私」と言う感覚は幻想であるとヨーガやヴェーダンタでは教えていて、もっと具体的に言いますと、いわゆる「心(顕在意識)」に相当するものはマナス(意)とブッディ(決定する能力)で、このうち、ブッディがあるからこそその反応としてアハンカーラ(エゴイズム)と言う「自分」と言う錯覚が生まれると言います。ですから、その錯覚としての「私」の感覚が現れるや否や、すぐにこうした「アートマンに見られている」「アートマンに動かされている」と言う感覚によって「私」の感覚がすぐに消滅するわけです。
実際のところそれはとても素早くて、思考をする度にその反応として「私」と言う感覚は常に少しずつ現れては来るのですが、その度にすぐに「ああ、私はアートマンに見られている」「アートマンに動かされている」と言う感覚がそこに加わりますので、思考が私であるという錯覚はそれ以上育たずにすぐに消えてゆくわけです。この反応は機能的なものですので常に化学反応のようにアハンカーラと言う動きとしてエゴイズムがその瞬間瞬間に生まれてはくるのですけど、すぐにこうしたアートマンの自覚によりすぐにその「私」と言う錯覚は消えてゆくわけです。
そのことを比喩的に言うならば「主の僕(しもべ)」と言えなくもないと思うわけです。誤解は多そうですけど。
それは全く真実ではあるのですけど、キリスト教の一部の流派が言っているようにどこか遠くの救世主のキリスト様に委ねるとかそういうお話ではなくて、ここで言っているキリストとは(一部のキリスト教の流派が主張しているような)誰の中にでも存在して誰しもが直接繋がることのできる「キリスト意識」のことで、ヨーガやヴェーダでいうところのプルシャとかアートマン(真我)などに対応するかと思います。
そのようなキリスト意識に委ねることを「主の僕(しもべ)」と呼ぶのであれば、半分は同じことを言っていると思われます。
半分、というのは、実際のところこの状態というのは顕在意識の側だけではなくアートマン(あるいはキリスト意識)の側からの働きかけもありますので、両方の側面があるわけなのですよね。
アートマン(キリスト意識、プルシャ)の側からすればダイレクトに体や顕在意識を動かしているということであり、一方、顕在意識からすれば主であるところのアートマンから動かされていますので僕、となるわけです。
ですけど、これは両方が対になっているものですので、片方だけを言ってしまうとよくわからないことになるわけです。
こういうお話をするとキリスト教徒の方々に「それは違う」みたいなお叱りを受けるかもしれませんし、キリスト教っぽく聞こえてしまうかもしれませんけど、これは比喩的な表現を借りてみた、というくらいのお話です。
確かに、現在の状態の半分を表現するにはこの表現もありのような気が致します。