瞑想的な観点における自己認識の階梯

2021-06-13
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

1.物事への集中。ゾーン状態。激しい歓喜と熱中。エネルギーが不安定な状態。
2.静かな喜びへの変化。視界が映画のようになる
3.(一時的な)静寂の境地。エネルギーの安定。深い静けさとの共存の始まり。
4.ハートの目覚め。「創造・破壊・維持」としてハートの奥に現れる
5.ハートの「意識」が体を動かしていてそれこそがアートマン(真我)であると自覚する。いわゆる自己に目覚めた状態(Self Realization)。身心一如の状態。

実際はもっと細かな段階があるわけですけど、大きなところをざっくりとピックアップするとこのような階梯になるでしょうか。

エネルギーが不安定だったり安定したりというお話をヨーガではクンダリーニの目覚めとかエネルギーがブロックされているとか様々な表現で言ったりします。エネルギーが安定するまでの段階においてはアサナ(体操)としてのヨーガはとても助けになって、瞑想においても「集中」が基本になります。

瞑想とは基本的には「集中」から始めるもので、静寂の境地が達成されるまでは「集中」をずっと続ける方が好ましいと思います。

最初の段階でも瞑想の集中は効果があって、特に最初は雑念が多いですから集中することも困難でありますけど、その少しの集中を続けることでやがてエネルギーが安定してきます。エネルギーが安定するだけでなく、エネルギーが体の各所でブロックされていたりしますのでそれらを取り除くためにヨーガのアサナ(体位)が助けになったりします。

そうして、まずはエネルギーの安定をして静寂の境地に達するわけです。

その後はハートの目覚めがあって、最初は単に熱感を伴った感覚として、特に「創造・破壊・維持」として認識されるわけですけど、特に最近になって、そのハートが「創造・破壊・維持」から「意識」としての認識にに変わって、「意思」こそが「アートマン(自我)」なのだと自覚するようになりました。

ここまで来てようやく「私はアートマン(自我)である」ことを認識できるわけですね。

これこそが「自己認識」と言うのであれば、自己認識というのはなかなかに深い言葉なのだなと今更ながら思います。

言い方によって「深い静けさ」と言うこともできますし「沈黙」あるいは「自己認識」または「自己実現」と言ったり「私はアートマン(自我)です」と言ったりして、一見すると別々のお話のように見えますけど、瞑想の階梯から見ると割と同じ段階のことを言っているわけですね。

私はアートマンだと自覚するSelf Realization(自己実現あるいは自己認識)の段階がヴェーダンタで言うモクシャ(自由)と同じ段階のような気もしますけど確実に同じかどうかはまだわかりません。そこは今後の検証が必要なところです。現状では「個」としてのアートマンを自覚した段階ですので、理屈から言えばこの先に「全体」であるブラフマンとの合一という段階がありますので、モクシャ(自由)はブラフマンとの合一の方を意味しているのかもしれませんけど、そうは言いましても、この自己認識によって各種の束縛からほぼ開放されますのでヴェーダンタで言う最終目標のモクシャ(自由)に近いもののような気がしております。この辺りは様子を見たいと思います。

ちなみに、このSelf Realizationはよく「自己実現」として訳されていますけどそれは誤解があるような気がして、自己実現というのはスピリチュアル業界で定着してしまっている気が致しますけど元々は誤訳のような気がしてなりません。この状態のことを意味するのであれば「実現」ではなくて「自己認識」と言った方が正しいと思います。Self Realizationとは自己をアートマンだと自覚することなわけです。もちろんこの用語は色々なところで使われていますので違う意味で使われているところもあるでしょうけど、悟りという文脈で用いるとするならばこの解釈が正しいように思えます。自己実現(Self-Actualization)は心理学の用語で別の意味で使われていて、Self Realizationを誰かが自己実現と誤訳してしまって広まったのではないかなと思うのですけど、どうでしょうかね。

このSelf Realization(自己認識)としてのアートマンの自覚の段階を悟りとか覚醒とか言うこともできるのかもしれませんけど、この自己認識の段階はもっとシンプルで素朴で地味なものですので、よくある悟りだとか覚醒だとかいう煌びやかなイメージにはちょっと似合わない気が致します。地味すぎて見逃しがちですけど、実際のところ、この自己認識が一番重要なもののように思います。

ただ、地味ではありますけど頭の回転としては良くなりますし、ものがよく見えるようになります。ですから覚醒とか悟りとかいうのもあながち間違いではないですけど、本人からすればとても地味な感じなわけです。地味ですけど明晰でスッキリしていますので、本人は「普通」とか「みんなと一緒」とか「ただの当たり前のことでしかない」みたいな風に言いますけど、実際は、覚醒前とは違ってしまっているわけですね。世間で噂されているような煌びやかな悟りや覚醒のイメージとはちょっと違っていて、割と地味なものが実態なわけです。そう言っておかないと誤解が生じます。

地味さと明晰さが共存している状態とでも言えば良いでしょうかね。

結局のところ、変わったものと言えば自己のアートマンを自覚するようになったかどうかという違いだけで、それに付随して意識がクリアになったり明晰に物事を見て考えられるようになったりとか色々とあるにはありますけど、根本から言えばアートマンの自覚だけの違いでしかなくて、それは実のところ聖典が言うには自覚していないだけで最初からそうなのであって、何も変わっていなくて、ただ自覚しただけなのです。ですから存在としては変わったものは何もないということもできて、認識だけが変わった、あるいは、認識だけが変わる、とも言えるわけです。

ただ、本質的な意味においての「悟り」はまだな気が致しますね。おそらく「悟り」とはブラフマンとの合一あたりを言うのではないかなと思います。流派によって色々な悟りがありますけど、個人的にはそのくらいが悟りというのにふさわしい気が致します。

私の今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つですが、ここにきて、大体の階梯が明らかになって目的はほぼ達成したと言えると思います。