肉体の体も光である(同テーマ&時系列の前記事)

悟りを求めて心の静寂を追求する

2021-08-11
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

面白いもので、サマーディ以前の場合は悟りを内に求めていたのがサマーディ以降は悟りを外に求めるようになりました。

悟りは自らの中にある、というお話はよく聞くお話で、ない場所を探しても見つかりませんよ、とは昔からよく言われていたりします。例えば、有名なお話で、針を部屋の中で落とした人が家を出て明るいところで針を探している、という例え話があります。もちろん、落としたのは部屋の中なので部屋の中を探さないと針は見つからないのですけど、真理を求めている人はないところを探している、という古くからの例え話です。

それはそうで、サマーディ以前の場合は真理は自分の中にあるのですから自らの内側を探究しなければ真理は見つからないのに多くの人は外側の目に見える現象や聖地や他人あるいは宗教の偶像に対する崇拝を通じて真理を見つけようとしますけど、自らの内側にあるのだから内側を探さなければ見つかりませんよ、というお話は基本的にはその通りだと思います。

とは言いましても、言葉通りに受け取ってしまうと礼拝や儀式が全く無駄ということになってしまいますけどそれは例え話ですから、実際のニュアンスとしては、外側に見える現象や聖地や他人あるいは宗教の偶像であってもそれは自らの一部なのですから自らの内側のものとして理解するのが正しいわけです。

それは、段階的な、過渡的なお話として理解されるべきです。

最初、瞑想がそれほど進んでいなくてサマーディ以前の場合は悟りというものがよく分かりませんから、儀式に参加したり偶像礼拝したりしてみたりすることも悪いことでもなく、そうすることで自らの心が整っていくわけです。

上記のように言われたからと言って快楽に生きることを選んでしまう人も一定数いるわけで、そうであるとすれば、今の現代人に上記のようなことを言って変に誤解させてしまうのもよろしくないかな、という気も致します。

上記のお話はある程度の瞑想が進んで、だけれどもまだサマーディ以前の場合に有効で、その段階ではまだ周囲の人やものも自分自身だという自覚には達しておらず、自分と他人という区分けがあり、それは区分けというよりも自分が分かれて存在しているという錯覚なのですけど、そのような錯覚の元では上の例え話のように自らの内側を探しましょう、というお話は有効なわけです。

ですけど、サマーディ以降になるとそもそも自分という感覚は錯覚だったとわかりますから、そもそも上記の例え話は成り立たないわけです。そもそも存在しない自分というお話を持ち出してきて自らの中を探すとか言われたとしても、全てが自分なのだから、自分ではないところなんてどこにあるのでしょう、というお話になります。

サマーディ以前の場合は、もっと単純に考えて、自らが錯覚で自分という分離を生み出しているということをまずは理屈で理解した上で、とりあえずは自らの内側を探究しましょう、というくらいに捉えておくのが良いと思います。

内側の探求とは、基本的には心の静寂の追求です。

そして、サマーディ以後は周囲のものも自らだと理解して知覚し始めますから、そのような「補助輪」としての考え方からは卒業するわけです。最初は自らに近いところからその感覚は始まって、やがて広がっていきますから、特に最初は、自らのことを理解すればそれで十分なわけです。



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