スピリチュアルで現状を肯定してしまう罠

2021-08-27
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

よくあるお話ですけど、自分の欲望を正当化して現状を肯定するためにスピリチュアルを持ち出す人がある一定数いて、そのような方々がスピリチュアルの評判を地に落としています。こういうこと言うと一定数の方々から反感を買って、「そんな否定的なものはスピリチュアルではない」とか攻撃してきたりしますけど、この辺りはよく陥りがちなスピリチュアルの落とし穴なのですよね。

全肯定と言うお話はもうちょっと深いところのお話で、チベット式で説明するならば「もともとの始まりから清らか」と言う属性と「自然な状態においてあるがままで完成している」(「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」より)と言うことであるわけです。ですから、人間の欲望とは本来はほとんど関係ないお話なのですよね。

本来的に清らかであるがままで完成している、というお話は全てのこの世界のありよう全てについて当てはまりますから、地獄であっても天国であっても等しくそうであるわけです。

ですから、人間が自らの欲望を肯定しようが否定しようが関係なくこの世は全て本来的に清らかであるがままで完成している、と言うお話なのです。ですから、スピリチュアルを持ち出して全肯定しようがあるいは全くスピリチュアルのことを知らずとも関係なく等しく全てのこの世界のありようは本来的に清らかであるがままで完成しているわけです。

スピリチュアルで何でも正しくて全肯定と言うのは良くなるのも悪くなるのも全て個人の自由と言うお話で、欲望に生きることを正当化したからと言っても良くなるどころか真実を更なるヴェールで覆い隠してしまってますます混迷化するだけなのですよね。

この世は、そのように暗黒に包まれようが、あるいは光明に包まれようが関わりなく全てはありのままで完璧、ということであって、人間がどう思おうが自己正当化しようがしまいが関係ないわけなのですよね。

じゃあ、欲望あるいは自分が悪くなることをしているのを自己正当化するのならそれはただの欲望の権化でしかないわけですけど、スピリチュアルな人の中には自分の欲望を正当化するためにスピリチュアルの全肯定の理屈を持ち出す人が一定数いて、ですけど、それは正当化ではなくて、単に、良いも悪いも全ては本来的に清らかであるがままで完成している、と言うお話でありますから、正当化しようがしまいが現実は変わらないわけです。現実はというと欲望を追求しているだけですので、それ故にスピリチュアルの評判を落としているわけです。

こう言う間違ったスピリチュアルを信じている人は、結局のところ「自分を全て肯定してくれる人」「自分を全て受け入れてくれる人」「自分を全て理解してくれる人」を外に求めているわけで、何か一つでも「自分のことが分かっていない」と思われる節があれば「この人は違う!」と思って離れてゆくわけです。

教祖様になるためには全肯定して「いいよいいよ。あなたはそのままで完璧です」と言っていればいいわけですけど、そんな浅はかなスピリチュアルはそろそろ卒業した方がいいと思います。

本来的に清らかであるがままで完成しているとしても、人間の認識において現実が地獄と感じたり天国と感じたり、という違いが生じるわけです。ですから修行が必要になるわけで。

何も修行や努力もしないで自分の現状の肯定だけを求めて、自分を受け入れてくれる場所や人を求めるようなスピリチュアルが一定数あって、それは外に安らぎを求めるスピリチュアルですので、時にそういう場所が見つかったとしても、結局は何かに裏切られた感じを受けて離れていってしまったりするわけです。

一方、スピリチュアルとは自分の中にあるもので、安らぎや天国は自らの中にあるとわかれば他人に自分を受け入れてもらおうとかいう努力は消えてなくなります。

結局、スピリチュアルで何を求めるか、というゴールが大切な気が致します。

ただ単に「楽」になりたいという個人的な欲求が目標であればスピリチュアルもその程度のもので、そのゴールとして自己正当化と言うところに行き着くかもしれません。

一方、自分が変わることによってこの世を天国のようにしてしまおう、この世が天国と感じられる心持ちになりたい、と願って目標を立てるならば他人に自己を正当化してもらおうとして依存するのではなくて、自分の内側に天国を見出そうとするでしょう。

確かに、良いも悪いも全ては本来的に清らかであるがままで完成していても、そう言われてもあなたの現実はすぐには変わりませんし、穏やかな心の人はそのまま穏やかですし、いつも怒っている人は変わらずそのまま怒りっぽいままでしょう。真理とは、そのような多様な感情も含めて全てのありようがありのままで完成している、と言うことであって、悟っていてもいなくてもこの点は変わらなくて、それでは悟りとは何かというと、直接的にその真実を見出して「その通りだ」と思えるかどうか、と言うところに悟っているかどうかの違いがあるわけです。

悟っていなければ真実を見出しておらず混迷に包まれています。悟るというのは単に真実を見出すだけだということもできますし、心持ちが天国になる、ということもできます。それは自分の欲望を自己正当化するのとは天と地ほどの違いがあるわけです。

ここで悟る、と言っていますけど悟りにも段階があって流派によって解釈も違いますけど、ここではいわゆるサマーディ状態を基準にしています。

サマーディ以前であれば欲望を自己正当化しても虚しいだけですけど、サマーディ以降であれば先日のお話とも少し関連してきますけど、意図的に楽しんでみる、ということもあるにはあります。ただ、周囲から見たら違いはほとんどわからないかもしれませんけど。サマーディに達していて意図的に楽しんでみた時に周囲から欲望とみなされて非難されたとしたら同じように自己正当化するかもしれず、サマーディにまで達した人がする自己正当化はそれなりに正当性があるように私には思えます。ですけどサマーディ以前であれば欲望は欲望でしかなくて、サマーディ以前であれば欲望はなるべく抑えられるべきものであるわけです。

自分が自己を肯定しようがしまいが、誰かがあなたを肯定しようがしまいが、それに関わらず常に完璧ということです。誰かが自己を肯定しようが関係なく、常にありのままで完璧なわけです。ですから、スピリチュアルで自己を肯定するというのは必須事項ではありません。それは常に当然の如くありのままで完璧ですので自分が肯定するときにだけありのままで完璧なわけではないのです。誰が何をしようが常に完璧なわけです。

自由は自由なのですけど、真実を知れば知るほど行動が割と同じ方向に導かれるのも事実です。例えば、スピリチュアルを勉強する前は「人は個人」であって分離された存在だと思っていたものが実際は繋がっていて同じで、更に言えば「全てのは自分」だということがわかると他人に対してぞんざいな態度は取らなくなりますよね。ですから、自由だからと言って何でもしていいとはなりませんし、同様に、何をしようが完璧だからと言って何をしてもいいとはならないわけです。自分を肯定して何をしてもいいと思い込むのはスピリチュアル初心者だけで、自由と言えばそうなのですけど実際にはそこには真実を識別する力が必要なわけで、真実を知らなければ自由ということの意味もよくわからなかったりするわけです。