喉に通るエネルギーを止めると静寂の境地になる
一つのテクニックとして、喉を上下に流れているエネルギーを喉の少し上で止めると頭の思考が止まって静寂の境地になります。喉そのものではなく、ちょっと後頭部に近い方の箇所にバルブのようなものがあって、そこを意識して締めるような感じにしてあげるとエネルギーが頭の方に行かなくなって思考が止まります。
そのまま止めたままにしてしまうと頭の光のオーラがなくなってきてしまいますので思考が止まった後はすぐに締めを開放してあげてエネルギーを再度通すようにします。
こうすることで、頭の思考が一旦止まって、それによって頭のモヤモヤあるいはモヤモヤとまでは行かないまでも水垢のように薄くついている汚れがかなり取れて意識がクリアになります。
これは、瞑想をそれほどしていない場合はそもそも喉のところのエネルギーが通っておりませんのでやろうとしてもほとんど感覚もなくて効果もないわけですけれども、基本はエネルギーを通す状態にしておくのが良いのですけど、一時的にエネルギーを止めることで頭のあたりのエネルギーを枯渇させて思考を止めて、モヤモヤとしたものあるいは水垢のような汚れですらもそれは基本的にはエネルギーの一形態ですから、エネルギーが枯渇しようとするとそのような汚れであっても消費されるわけです。池の水を一旦抜くと底が見えて掃除もできるのと同じように、汚れた水は一旦抜いて、再度水(エネルギー)を満たしてあげることで意識がクリアになります。
最近は私は2つの方向性のどちらに向かうか決めかねているのと同時にそれ自体が何なのかを見極めようとしているのですが、その1つは静寂の境地で、もう1つは、割と雑多な想念の基礎として浸透しているアートマンを追求するという方向性です。
静寂の境地を基本として更なる静寂の境地を追い求める方が良いのか、あるいは、雑多な想念を入れてその奥底にあるアートマンを見出す方が良いのか。そこは微妙なところです。
どちらもそれなりの根拠と効果があるような気がしてきていて、最近は割と「静寂の境地→雑多な想念とアートマン」という理解でいましたけど、もう終わりかと思っていた静寂の境地のそのまた奥に何かあるような気が最近はしてきていて、ひょっとしたらグルグルと回っているのかもしれない、という気もしてきています。
それは、ある段階において静寂の境地と思われていたものが次の段階になればそれは雑多な想念であるし、次の段階としての静寂の境地になっても、もしかしたらそれすらも次のレベルからしたら雑多な想念であるかもしれないわけです。
静寂の境地から雑多な想念に戻ってその奥底のアートマンを見出す、という理解でいたのですけど、実際には、静寂の境地だと思っていたものが次のレベルの雑多な想念だったのかもしれない、という理解になりつつあります。この辺りはとても微妙で、自分の感覚でしかないので、静寂の境地と思っていたものも主観的な感覚ですので、戻っていたと認知していた感覚が実は同じものを見ていて、よりはっきりと見えるようになってきたが故に戻っているように感じられていた、ということかもしれないわけです。静寂の境地だと思っていたものをはっきりと見極められるようになるとその静寂の境地は実はもう少し微細な雑多な想念でできていて、感覚としては戻ったような気がしていましたが、実は同じものかもしれないわけです。
喉の少し上でエネルギーを止めるというテクニックは喉にエネルギーが通った後であれば割とどの段階でも使えるような気がしてきていて、雑多な想念があるなと思ったらエネルギーを一時的に止めてみると思考が止まって、もしかしたらこれがヨーガでいう「ラヤ」状態かもしれませんけど、その状態で更に静寂の境地が深まるわけです。そして、静寂の境地が深まったら締まりを緩めてエネルギーを再度通してあげます。
そのまま止めたままにしてしまうと頭の光のオーラがなくなってきてしまいますので思考が止まった後はすぐに締めを開放してあげてエネルギーを再度通すようにします。
こうすることで、頭の思考が一旦止まって、それによって頭のモヤモヤあるいはモヤモヤとまでは行かないまでも水垢のように薄くついている汚れがかなり取れて意識がクリアになります。
これは、瞑想をそれほどしていない場合はそもそも喉のところのエネルギーが通っておりませんのでやろうとしてもほとんど感覚もなくて効果もないわけですけれども、基本はエネルギーを通す状態にしておくのが良いのですけど、一時的にエネルギーを止めることで頭のあたりのエネルギーを枯渇させて思考を止めて、モヤモヤとしたものあるいは水垢のような汚れですらもそれは基本的にはエネルギーの一形態ですから、エネルギーが枯渇しようとするとそのような汚れであっても消費されるわけです。池の水を一旦抜くと底が見えて掃除もできるのと同じように、汚れた水は一旦抜いて、再度水(エネルギー)を満たしてあげることで意識がクリアになります。
最近は私は2つの方向性のどちらに向かうか決めかねているのと同時にそれ自体が何なのかを見極めようとしているのですが、その1つは静寂の境地で、もう1つは、割と雑多な想念の基礎として浸透しているアートマンを追求するという方向性です。
静寂の境地を基本として更なる静寂の境地を追い求める方が良いのか、あるいは、雑多な想念を入れてその奥底にあるアートマンを見出す方が良いのか。そこは微妙なところです。
どちらもそれなりの根拠と効果があるような気がしてきていて、最近は割と「静寂の境地→雑多な想念とアートマン」という理解でいましたけど、もう終わりかと思っていた静寂の境地のそのまた奥に何かあるような気が最近はしてきていて、ひょっとしたらグルグルと回っているのかもしれない、という気もしてきています。
それは、ある段階において静寂の境地と思われていたものが次の段階になればそれは雑多な想念であるし、次の段階としての静寂の境地になっても、もしかしたらそれすらも次のレベルからしたら雑多な想念であるかもしれないわけです。
静寂の境地から雑多な想念に戻ってその奥底のアートマンを見出す、という理解でいたのですけど、実際には、静寂の境地だと思っていたものが次のレベルの雑多な想念だったのかもしれない、という理解になりつつあります。この辺りはとても微妙で、自分の感覚でしかないので、静寂の境地と思っていたものも主観的な感覚ですので、戻っていたと認知していた感覚が実は同じものを見ていて、よりはっきりと見えるようになってきたが故に戻っているように感じられていた、ということかもしれないわけです。静寂の境地だと思っていたものをはっきりと見極められるようになるとその静寂の境地は実はもう少し微細な雑多な想念でできていて、感覚としては戻ったような気がしていましたが、実は同じものかもしれないわけです。
喉の少し上でエネルギーを止めるというテクニックは喉にエネルギーが通った後であれば割とどの段階でも使えるような気がしてきていて、雑多な想念があるなと思ったらエネルギーを一時的に止めてみると思考が止まって、もしかしたらこれがヨーガでいう「ラヤ」状態かもしれませんけど、その状態で更に静寂の境地が深まるわけです。そして、静寂の境地が深まったら締まりを緩めてエネルギーを再度通してあげます。
極度の集中状態(ゾーン)にて歓喜が沸き起こる
瞑想というよりも技術職や職人などが何かの作業に上達して極度に集中するとゾーン状態になり、歓喜が沸き起こります。自らの心の中全てがその集中の対象と一体になり、感情としての喜びが奥底から湧き出てきます。
それは最初は何ヶ月かに一度あるいは1年に数回あるいは数年に一回、というように時々にしか起こりませんが、やがて、集中することによりすぐに何度でも毎日でも歓喜が沸き起こるようになります。
その状態では自らの奥底と繋がりますのでトラウマや何やらも含めて無意識の面が表に出てくるのですが、その一方で、作業の効率は上がりますし歓喜が沸き起こって喜びのオーラに満ち溢れます。集中して作業をすることがエネルギーを高める手段になり、奥底からエネルギーが沸き起こってくるのを感じます。ゾーン状態で何かに集中して作業することにより喜びと結果とが同時に現れてくるわけです。
これは味方によっては瞑想ですが明示的な瞑想をしていなくてもこのような歓喜が起こる時があって、とはいいましても瞑想をしていた方がよりはっきりと意図的にゾーン状態に入れるように思います。
瞑想をすることでポジティブになり、集中力が上がり、喜びに満ち溢れ、結果も出せるようになるわけです。
この種のことはマインドフルネスとして結果を追い求める瞑想という位置付けで多様に紹介されていますけど、実際のところ、そのような表面上の現れというのは瞑想における副産物であって悟りの道で現れる現象に過ぎないわけです。とは言いましてもこの現代社会を生きる上において役立つ道具であるのは確かなわけで、この種の現世利益を否定する人も大勢いますけど、私は、そんなこと言っていないで普通に利用したらいいと思っています。
特に最近の人はわざわざ瞑想とかいうと敬遠してしまいますし、普通に仕事をしながら効率よくポジティブにすることができて、いつの間にかそれが悟りの道に繋がっていた、というくらいでもいいと思うわけです。一番最初から悟りとか言っている必要はないと思いますし、気がついていなくても悟りの道を歩んでいることだって多々あるわけです。そしてふと気がついて真実を知ることもあるでしょうし、そんなに目的とかうるさく問わなくてもいいと思っています。そもそも仏教などの初心は割とブッダの出家時の悩みに即したものだったりしますし、ブッダの悩みが全てかと言えばそうでもないわけで、ブッダのストライクゾーンに当てはまらないからと言って否定する必要はないと思います。
話を戻しますと、この種のゾーン状態が瞑想の入り口になるわけです。
瞑想というと座って息を観察するだとかマントラを唱えるだとか皮膚の感覚を観察するだとか仏をイメージするとか色々ありますけど、それよりも、ゾーンに入るのが一番の早道だと思うわけです。特に最初の段階としては。
私の場合、瞑想やヨガを本格的に始める前は仕事においてゾーンに入って歓喜とエネルギーを感じていました。その頃でも子供の頃から色々と勉強はしていましたけど座った瞑想を本格的にはまだしていなくて、それでも、ゾーンくらいには入れていましたね。たぶんゾーンに初めて入ったのは高校生の頃で、大学とか就職してからもゾーンに入って仕事をしていて、最初は時々ゾーンに入るという感じでしたけど上に書きましたように割とすぐに毎日でもゾーンに入れるようになりました。
その後、ゾーンに入った時の歓喜が薄くなってきて、それは効果が薄れてきたというよりは自分の状態が良くなってきたのでゾーンの必要が次第になくなってきて、とは言いましてもゾーンは毎日のように続いていて、ゾーンの時とそれ以外の時の変化が次第に少なくなってきた、ということです。
私の場合、これが基礎にありますね。
その基礎の上に瞑想やヨガを始めたら割と数ヶ月でナーダ音が聞こえてきましたし、進歩も早かった気が致します。
それは最初は何ヶ月かに一度あるいは1年に数回あるいは数年に一回、というように時々にしか起こりませんが、やがて、集中することによりすぐに何度でも毎日でも歓喜が沸き起こるようになります。
その状態では自らの奥底と繋がりますのでトラウマや何やらも含めて無意識の面が表に出てくるのですが、その一方で、作業の効率は上がりますし歓喜が沸き起こって喜びのオーラに満ち溢れます。集中して作業をすることがエネルギーを高める手段になり、奥底からエネルギーが沸き起こってくるのを感じます。ゾーン状態で何かに集中して作業することにより喜びと結果とが同時に現れてくるわけです。
これは味方によっては瞑想ですが明示的な瞑想をしていなくてもこのような歓喜が起こる時があって、とはいいましても瞑想をしていた方がよりはっきりと意図的にゾーン状態に入れるように思います。
瞑想をすることでポジティブになり、集中力が上がり、喜びに満ち溢れ、結果も出せるようになるわけです。
この種のことはマインドフルネスとして結果を追い求める瞑想という位置付けで多様に紹介されていますけど、実際のところ、そのような表面上の現れというのは瞑想における副産物であって悟りの道で現れる現象に過ぎないわけです。とは言いましてもこの現代社会を生きる上において役立つ道具であるのは確かなわけで、この種の現世利益を否定する人も大勢いますけど、私は、そんなこと言っていないで普通に利用したらいいと思っています。
特に最近の人はわざわざ瞑想とかいうと敬遠してしまいますし、普通に仕事をしながら効率よくポジティブにすることができて、いつの間にかそれが悟りの道に繋がっていた、というくらいでもいいと思うわけです。一番最初から悟りとか言っている必要はないと思いますし、気がついていなくても悟りの道を歩んでいることだって多々あるわけです。そしてふと気がついて真実を知ることもあるでしょうし、そんなに目的とかうるさく問わなくてもいいと思っています。そもそも仏教などの初心は割とブッダの出家時の悩みに即したものだったりしますし、ブッダの悩みが全てかと言えばそうでもないわけで、ブッダのストライクゾーンに当てはまらないからと言って否定する必要はないと思います。
話を戻しますと、この種のゾーン状態が瞑想の入り口になるわけです。
瞑想というと座って息を観察するだとかマントラを唱えるだとか皮膚の感覚を観察するだとか仏をイメージするとか色々ありますけど、それよりも、ゾーンに入るのが一番の早道だと思うわけです。特に最初の段階としては。
私の場合、瞑想やヨガを本格的に始める前は仕事においてゾーンに入って歓喜とエネルギーを感じていました。その頃でも子供の頃から色々と勉強はしていましたけど座った瞑想を本格的にはまだしていなくて、それでも、ゾーンくらいには入れていましたね。たぶんゾーンに初めて入ったのは高校生の頃で、大学とか就職してからもゾーンに入って仕事をしていて、最初は時々ゾーンに入るという感じでしたけど上に書きましたように割とすぐに毎日でもゾーンに入れるようになりました。
その後、ゾーンに入った時の歓喜が薄くなってきて、それは効果が薄れてきたというよりは自分の状態が良くなってきたのでゾーンの必要が次第になくなってきて、とは言いましてもゾーンは毎日のように続いていて、ゾーンの時とそれ以外の時の変化が次第に少なくなってきた、ということです。
私の場合、これが基礎にありますね。
その基礎の上に瞑想やヨガを始めたら割と数ヶ月でナーダ音が聞こえてきましたし、進歩も早かった気が致します。
マインド(思考する心)が黙っている状態でも意識は働く
肉体の口が何も喋らず黙っているのと同じように、思考する心であるマインドも黙ることができます。
そのようにマインドが黙った状態でも意識は働いていて、観察をしています。
しかしながら、瞑想をそれほどしていなくて意識が曇っている場合はマインドが黙ることはほとんどないですし、意識の観察もほんの僅かにしか動いていないわけです。それは厚い雲で覆われているかのように意識が見えなくなっている状態で、厚い雲の中に含まれている感情が度々マインドに現れてきて心の声・雑念がループしている状態になっているわけです。
その厚い雲を取り払う手法としてヨーガなどではクリア(浄化)の手法があったり瞑想そのものを訓練して少しずつ意識を覆い隠している覆いを取り除いていくわけです。
これらのことはヨーガの聖典であるヨーガ・スートラに述べられているように「心の波を止めること」ではあるのですけど、ここで止めるのはマインド(ヨーガでいうチッタ)の揺らぎを止めることであって、日本語訳では「止滅」とか表現されていますけど、文字通り捉えてしまうと「心をなくしてしまうこと」みたいな誤解がよくあるのですけど、そういうことではないのですよね。
止滅というよりは、もっと簡単なお話で、日常生活において道徳的な人は無駄なお喋りをせずに黙って静かにいることができますよね。道徳で言っているのは肉体の言葉として黙ることですけど、ヨーガスートラでは心の声を黙って静かにいましょう、と言っているだけなのです。
もちろん、肉体の口が黙っていたとしても必要な時は喋ることができますし、それと同様に、マインドとしての心の声が黙っていたとしても必要な時はマインドが動いて思考することができるわけです。
よくある誤解として、「心をなくしてしまって、一体どうするつもりなのだろうか」という批判がありますけど、ヨーガ・スートラで言っているのはそういうことではなくて、もっと単純で、肉体の口が黙って静かにいるのと同じように、心のマインドも静かにしましょう、と言っているだけなのですよね。
そうして、心の声が静かになって黙ることができるようになる時、ヨーガスートラではその次の節で「その時、見るものはそれ本来の状態に留まる」と書いてあって、文字通り読むとよくわからなかったりしますけど、これも文字通りというよりはもっと単純なことで、意識を覆い隠している厚い雲を取り除けばその奥にある意識がそれ本来の状態に戻って意識が働き出す、と言っているだけなのですよね。
ですから、そのように心の声が静かになることと厚い雲を取り除くことは割と同時に進展して行くことということもできますし同じことを違った表現しているだけ、とも言えるわけです。
そうして、マインドの心が黙ることができるとその奥にある意識がありありと現れてきて、意識がマインドを動かして、かつ、意識がマインドを観察している、ということがはっきりと識別できるようになるわけです。
そのように、意識が背後にある状態でマインドが意識的に黙ることもできますし、意識的にマインドを使って思考することもできるわけです。マインドが意識的に黙る、というのは語弊があるかもしれませんけど、意識的に黙る、というよりは、意識を明示的に働かせずに静かな状態に保つことによってマインドを動かさない状態に意図する、というのが表現的には正しいかもしれません。
それは肉体の口が黙るのと同じで、肉体の口が黙る時は2つの方法があって、何か他のものに意識を集中させることで黙る方法と、あとは、単に静かに座って黙る方法とがありますけど、ここで言っているのは後者に近くて、意識がマインドを働かせないことによって黙ることができるわけです。
最初は、マインドとしての心の動きがなくなってしまうと何もないかのように感じられてしまって「自分がない」状態として感じられるかもしれません。それは意識が厚い雲に覆われていて意識があまり現れていないからそのように思うわけで、そのような状態では次々にマインドを働かせることによって「自分」としての存在を維持しているわけです。ですけど、ヨーガやヴェーダンタが伝えるところによればマインドは「自分」ではないのですよね。マインドはただの「道具」にしか過ぎなくて、「自分」は意識の方なわけです。
マインドとしての自分しか感じられなくて意識の方の自分を感じられない人が割と現代には多くて、そのような状態ですと、「マインドとしての自分をなくしてしまったら、それで一体どうすればいいというのか」みたいな誤解をしてしまうわけです。マインドは道具でしかなくて意識の方が自分なのですから、マインドが黙ったとしても意識としての自分は存在し続けるわけで、ですから、マインドが黙っても全く問題なくて必要な時に必要な思考をすれば良いだけなのですけど、マインドが自分だと思っている人は次々に思考を繰り広げて思考を止めようとしないわけです。そのようなマインドの働きの作用が「自分」という錯覚を作り上げているというのはヨーガ的に言えば「アハンカーラ」の働きで、マインドを働かせた反作用として本来ないものである感覚が生まれて「自分」という錯覚を作り上げているわけです。
そのような錯覚を乗り越えて、マインドが働かなくても自分が「意識」として存在していることを認識すればマインドが黙ろうが働こうがあまり関係がなくて、慣用句で言われているように「意識的な生活」を送ることができるわけです。
そのようにマインドが黙った状態でも意識は働いていて、観察をしています。
しかしながら、瞑想をそれほどしていなくて意識が曇っている場合はマインドが黙ることはほとんどないですし、意識の観察もほんの僅かにしか動いていないわけです。それは厚い雲で覆われているかのように意識が見えなくなっている状態で、厚い雲の中に含まれている感情が度々マインドに現れてきて心の声・雑念がループしている状態になっているわけです。
その厚い雲を取り払う手法としてヨーガなどではクリア(浄化)の手法があったり瞑想そのものを訓練して少しずつ意識を覆い隠している覆いを取り除いていくわけです。
これらのことはヨーガの聖典であるヨーガ・スートラに述べられているように「心の波を止めること」ではあるのですけど、ここで止めるのはマインド(ヨーガでいうチッタ)の揺らぎを止めることであって、日本語訳では「止滅」とか表現されていますけど、文字通り捉えてしまうと「心をなくしてしまうこと」みたいな誤解がよくあるのですけど、そういうことではないのですよね。
止滅というよりは、もっと簡単なお話で、日常生活において道徳的な人は無駄なお喋りをせずに黙って静かにいることができますよね。道徳で言っているのは肉体の言葉として黙ることですけど、ヨーガスートラでは心の声を黙って静かにいましょう、と言っているだけなのです。
もちろん、肉体の口が黙っていたとしても必要な時は喋ることができますし、それと同様に、マインドとしての心の声が黙っていたとしても必要な時はマインドが動いて思考することができるわけです。
よくある誤解として、「心をなくしてしまって、一体どうするつもりなのだろうか」という批判がありますけど、ヨーガ・スートラで言っているのはそういうことではなくて、もっと単純で、肉体の口が黙って静かにいるのと同じように、心のマインドも静かにしましょう、と言っているだけなのですよね。
そうして、心の声が静かになって黙ることができるようになる時、ヨーガスートラではその次の節で「その時、見るものはそれ本来の状態に留まる」と書いてあって、文字通り読むとよくわからなかったりしますけど、これも文字通りというよりはもっと単純なことで、意識を覆い隠している厚い雲を取り除けばその奥にある意識がそれ本来の状態に戻って意識が働き出す、と言っているだけなのですよね。
ですから、そのように心の声が静かになることと厚い雲を取り除くことは割と同時に進展して行くことということもできますし同じことを違った表現しているだけ、とも言えるわけです。
そうして、マインドの心が黙ることができるとその奥にある意識がありありと現れてきて、意識がマインドを動かして、かつ、意識がマインドを観察している、ということがはっきりと識別できるようになるわけです。
そのように、意識が背後にある状態でマインドが意識的に黙ることもできますし、意識的にマインドを使って思考することもできるわけです。マインドが意識的に黙る、というのは語弊があるかもしれませんけど、意識的に黙る、というよりは、意識を明示的に働かせずに静かな状態に保つことによってマインドを動かさない状態に意図する、というのが表現的には正しいかもしれません。
それは肉体の口が黙るのと同じで、肉体の口が黙る時は2つの方法があって、何か他のものに意識を集中させることで黙る方法と、あとは、単に静かに座って黙る方法とがありますけど、ここで言っているのは後者に近くて、意識がマインドを働かせないことによって黙ることができるわけです。
最初は、マインドとしての心の動きがなくなってしまうと何もないかのように感じられてしまって「自分がない」状態として感じられるかもしれません。それは意識が厚い雲に覆われていて意識があまり現れていないからそのように思うわけで、そのような状態では次々にマインドを働かせることによって「自分」としての存在を維持しているわけです。ですけど、ヨーガやヴェーダンタが伝えるところによればマインドは「自分」ではないのですよね。マインドはただの「道具」にしか過ぎなくて、「自分」は意識の方なわけです。
マインドとしての自分しか感じられなくて意識の方の自分を感じられない人が割と現代には多くて、そのような状態ですと、「マインドとしての自分をなくしてしまったら、それで一体どうすればいいというのか」みたいな誤解をしてしまうわけです。マインドは道具でしかなくて意識の方が自分なのですから、マインドが黙ったとしても意識としての自分は存在し続けるわけで、ですから、マインドが黙っても全く問題なくて必要な時に必要な思考をすれば良いだけなのですけど、マインドが自分だと思っている人は次々に思考を繰り広げて思考を止めようとしないわけです。そのようなマインドの働きの作用が「自分」という錯覚を作り上げているというのはヨーガ的に言えば「アハンカーラ」の働きで、マインドを働かせた反作用として本来ないものである感覚が生まれて「自分」という錯覚を作り上げているわけです。
そのような錯覚を乗り越えて、マインドが働かなくても自分が「意識」として存在していることを認識すればマインドが黙ろうが働こうがあまり関係がなくて、慣用句で言われているように「意識的な生活」を送ることができるわけです。
マインドの思考を働かせる感覚
自分の意識はハートのアナハタを中心にして周囲へと広がっており、自分の少し外側にまでその領域が達していますが遠くになるにつれて次第に薄くなって行きます。
一方、思考する心であるマインドが働く時も同様にハートのアナハタから水面の波紋あるいは衝撃波のように波が作られ、それが周囲へと広がってゆきます。
意識はより微細ではありますけど、思考する心とも一部重なっていて、意識がマインドに働きかけることによって意識よりもう少しだけ粗雑なマインドの機能が働いて思考の波を同じアナハタに作り出します。
意識が動く時も小さな波が作られますけど、マインドが動く時はもっと大きな波が作られます。
意識としての感覚はマインドよりももっと遠くにまで広がっていて、周囲から聞こえる心の声のような波をキャッチします。それははっきりと「外側」として感じられ、又、強さとしてはとても弱い思考の波です。
自分のマインドが黙って静かにしていても、そのような「外側」から来る心の声の波は止まることがないわけです。自分が黙ることができるのは自分のマインドの思考についてだけで、周囲から不意にやってくる思考の波を止めることはできないわけです。と言いますのも、「意識」は常に観察し続けるからです。
とは言いましても基本的には周囲からの雑音のような心の声はとても弱くて基本的には意識の妨げになりません。ただ、その雑念に共感してしまって自分の心のマインドを働かせてしまった場合は周囲からの雑念がトリガーとなって自分の思考のループが始まってしまいますけどそれなりに浄化が進めばそのようなループになることはなくて、ただ自分のマインドが静かに黙って意識が観察し続けるという瞑想をすることができるわけです。
そのように、明示的にマインドの思考を働かせるという感覚があるわけですけど、瞑想が進んでいない場合はその感覚がよく分からないわけです。
明示的、ということは、意識がそう意図することでマインドを働かせない、ということも意識的に行うことができるわけで、それは意識を働かせるというよりは意識を制御して律することでマインドを動かさない、という状態なわけです。それはマインドを動かさない、というよりは、意識を観察状態に保って意識をマインドを動かすように意図しない、ということでもあります。
マインドの思考を働かせるという感覚それ自体は観察ですけど、その一方で、意識は「働きかけ」という作用もありますので、意識でマインドに働きかけない、という状態がマインドが黙っている状態なわけです。
マインドが黙っても「観察」の状態は続きますので、意識は自分のマインドが黙っていることを観察して、それと同時に、周囲から入ってくる小さな雑念も観察しますけど、意識はマインドを働かせずに観察の状態を保ちます。それが瞑想です。
これは理屈だけのお話ではなくて、実際に瞑想の中で感じて識別できるお話なわけです。
一方、思考する心であるマインドが働く時も同様にハートのアナハタから水面の波紋あるいは衝撃波のように波が作られ、それが周囲へと広がってゆきます。
意識はより微細ではありますけど、思考する心とも一部重なっていて、意識がマインドに働きかけることによって意識よりもう少しだけ粗雑なマインドの機能が働いて思考の波を同じアナハタに作り出します。
意識が動く時も小さな波が作られますけど、マインドが動く時はもっと大きな波が作られます。
意識としての感覚はマインドよりももっと遠くにまで広がっていて、周囲から聞こえる心の声のような波をキャッチします。それははっきりと「外側」として感じられ、又、強さとしてはとても弱い思考の波です。
自分のマインドが黙って静かにしていても、そのような「外側」から来る心の声の波は止まることがないわけです。自分が黙ることができるのは自分のマインドの思考についてだけで、周囲から不意にやってくる思考の波を止めることはできないわけです。と言いますのも、「意識」は常に観察し続けるからです。
とは言いましても基本的には周囲からの雑音のような心の声はとても弱くて基本的には意識の妨げになりません。ただ、その雑念に共感してしまって自分の心のマインドを働かせてしまった場合は周囲からの雑念がトリガーとなって自分の思考のループが始まってしまいますけどそれなりに浄化が進めばそのようなループになることはなくて、ただ自分のマインドが静かに黙って意識が観察し続けるという瞑想をすることができるわけです。
そのように、明示的にマインドの思考を働かせるという感覚があるわけですけど、瞑想が進んでいない場合はその感覚がよく分からないわけです。
明示的、ということは、意識がそう意図することでマインドを働かせない、ということも意識的に行うことができるわけで、それは意識を働かせるというよりは意識を制御して律することでマインドを動かさない、という状態なわけです。それはマインドを動かさない、というよりは、意識を観察状態に保って意識をマインドを動かすように意図しない、ということでもあります。
マインドの思考を働かせるという感覚それ自体は観察ですけど、その一方で、意識は「働きかけ」という作用もありますので、意識でマインドに働きかけない、という状態がマインドが黙っている状態なわけです。
マインドが黙っても「観察」の状態は続きますので、意識は自分のマインドが黙っていることを観察して、それと同時に、周囲から入ってくる小さな雑念も観察しますけど、意識はマインドを働かせずに観察の状態を保ちます。それが瞑想です。
これは理屈だけのお話ではなくて、実際に瞑想の中で感じて識別できるお話なわけです。
自らが光であると自覚する
スピリチュアル等では自分が光だというのはよく言われていて神々しいオーラとか後光がするとかそういう比喩があったりしますけど、そういう他人に対する表現ではなくて、瞑想中に自分の感覚として自らが光であると自覚し始めました。
この時に他人から見たらどう写るのかは分かりませんけど、少なくとも、瞑想中に自らの中心が光を放っていることを自覚しています。
その光は2種類あって、アートマンとしての意識の基礎の光がまずあって、この光はそこまで激しくはないのですが自らを中心として薄く周囲にまで広がっています。
それに加えて、意思としての思考するマインドの光もまた自らを中心として存在しています。
アートマンの意識の光はそれほど変わることがなくて光り輝き続けています。
一方、思考する意思としてのマインドの光は、思考を意図する度に激しく揺れ動いて思考に合わせて輝いて瞬きます。
アートマンの意識の光が思考するマインドに働きかけ、それに応じるようにマインドが動き、それと同時に光が激しく瞬くのです。
どちらも光ではあるのですが階層が違うようで、アートマンの方は意思の光で、マインドの方は具体的な論理あるいは具体的な対象を持った思考の光です。
ここで肉体としての体とマインド(心としての体)、及びアートマンとしての意思、という3階層に分けてみますと、それぞれ、微細な方から粗雑な方へと意図する(命令する)ということを行なって粗雑な体を動かすわけです。
マインドが思考して体を動かします。
そして、マインドそのものは、アートマンの意識・意思が動くことでマインドが動き、思考します。
ですから、最初のスタート地点はアートマンの意識が働き、次にマインドの思考が働き、そして必要に応じて肉体の体が動きます。
自律神経などは自動的だったりしますけど、ここで言っているのは口とか諸々の意図的に動かす部分のお話で、マインドの思考が意図しなければ肉体の体が動かない、ということになります。
ですから、静かに黙って座る場合はマインドがそれなりに静かになってマインドが口で話すことを意図しない状態なわけです。更に進むと、マインドの奥にあるアートマンの意識が静かになってマインドを黙って静かにさせることができるわけです。
これは割と階層的に進むことです。最初は喋らずに静かに座っていてもマインドが激しく動いたりしますが、やがて、マインドそれ自体の動きも静かになってゆきます。
ヴェーダンタ的に言えばアートマンの意識は無限でそれ自体は穢れがないのですけど、実際はアートマンそれ単体で存在しているということはなくてこの世においてはヨーガで言うところの3つのグナと常に結びついていますから、比喩的にアートマンと言っているのは実際にはグナと結びついたイーシュワラなのですよね。こうなるとこの世との関連性が存在して、意識としてマインドに働きかけますけど、それと同時に、マインドからの入力をグナとして蓄積してサムスカーラという微細な感覚に溜め込んでしまったりするわけです。サムスカーラはアートマンの意識よりももっと粗雑なものなのですけど、そのサムスカーラがアートマンの意識を覆い隠すと意識が輝けなくなってしまうわけです。
グナがないとアートマンの意思はマインドに働きかけることができないのですが、グナが沢山あればそれだけでいいというわけでもなくて、グナがそれなりに純粋でないとアートマンの意識とマインドの意識が分断してしまったりするわけです。
グナは3グナと言われていますように純粋なサットヴァと活動的なラジャス、そして重いタマスとがありますけど、タマス優勢の場合はアートマンの意識がマインドになかなか届かなくてマインドの思考だけで生きてしまうわけです。サットヴァの意識は輝いていますけどそれはアートマンそのものではなくて、ですけどグナは多少は必要ですのでサットヴァの純粋な意識を通してアートマンはこの世の現実を知るわけです。
アートマンから見ると全て光なわけですけど、そうは言っても光を遮るものもあって、サットヴァは輝いていますけどタマスは黒くて光を遮るわけです。
アートマンの純粋な光がサットヴァの光と結びつき、タマスとラジャスを照らしている、とも言えますけど、本来は自ら光り輝くものはアートマンだけですので、サットヴァの光ですらもアートマンの光を映し出して光っているので、太陽に比喩されるアートマンに対してその他は夜に輝く月のようなものなわけです。
瞑想をしていると、アートマンの光が基礎として輝いていることがわかって、アートマンの意思が満遍なく満ちているところと重なるようにしてマインドの意識・意思が自らのハートに光って存在していて、どちらも光ではありますし、実際のところ激しく一時的に輝くのはアートマンの方というよりはマインドの光の方が激しく輝くように見えますけど、実際のところ、基礎として本来的に自ら輝いているのはアートマンの方なわけです。
この時に他人から見たらどう写るのかは分かりませんけど、少なくとも、瞑想中に自らの中心が光を放っていることを自覚しています。
その光は2種類あって、アートマンとしての意識の基礎の光がまずあって、この光はそこまで激しくはないのですが自らを中心として薄く周囲にまで広がっています。
それに加えて、意思としての思考するマインドの光もまた自らを中心として存在しています。
アートマンの意識の光はそれほど変わることがなくて光り輝き続けています。
一方、思考する意思としてのマインドの光は、思考を意図する度に激しく揺れ動いて思考に合わせて輝いて瞬きます。
アートマンの意識の光が思考するマインドに働きかけ、それに応じるようにマインドが動き、それと同時に光が激しく瞬くのです。
どちらも光ではあるのですが階層が違うようで、アートマンの方は意思の光で、マインドの方は具体的な論理あるいは具体的な対象を持った思考の光です。
ここで肉体としての体とマインド(心としての体)、及びアートマンとしての意思、という3階層に分けてみますと、それぞれ、微細な方から粗雑な方へと意図する(命令する)ということを行なって粗雑な体を動かすわけです。
マインドが思考して体を動かします。
そして、マインドそのものは、アートマンの意識・意思が動くことでマインドが動き、思考します。
ですから、最初のスタート地点はアートマンの意識が働き、次にマインドの思考が働き、そして必要に応じて肉体の体が動きます。
自律神経などは自動的だったりしますけど、ここで言っているのは口とか諸々の意図的に動かす部分のお話で、マインドの思考が意図しなければ肉体の体が動かない、ということになります。
ですから、静かに黙って座る場合はマインドがそれなりに静かになってマインドが口で話すことを意図しない状態なわけです。更に進むと、マインドの奥にあるアートマンの意識が静かになってマインドを黙って静かにさせることができるわけです。
これは割と階層的に進むことです。最初は喋らずに静かに座っていてもマインドが激しく動いたりしますが、やがて、マインドそれ自体の動きも静かになってゆきます。
ヴェーダンタ的に言えばアートマンの意識は無限でそれ自体は穢れがないのですけど、実際はアートマンそれ単体で存在しているということはなくてこの世においてはヨーガで言うところの3つのグナと常に結びついていますから、比喩的にアートマンと言っているのは実際にはグナと結びついたイーシュワラなのですよね。こうなるとこの世との関連性が存在して、意識としてマインドに働きかけますけど、それと同時に、マインドからの入力をグナとして蓄積してサムスカーラという微細な感覚に溜め込んでしまったりするわけです。サムスカーラはアートマンの意識よりももっと粗雑なものなのですけど、そのサムスカーラがアートマンの意識を覆い隠すと意識が輝けなくなってしまうわけです。
グナがないとアートマンの意思はマインドに働きかけることができないのですが、グナが沢山あればそれだけでいいというわけでもなくて、グナがそれなりに純粋でないとアートマンの意識とマインドの意識が分断してしまったりするわけです。
グナは3グナと言われていますように純粋なサットヴァと活動的なラジャス、そして重いタマスとがありますけど、タマス優勢の場合はアートマンの意識がマインドになかなか届かなくてマインドの思考だけで生きてしまうわけです。サットヴァの意識は輝いていますけどそれはアートマンそのものではなくて、ですけどグナは多少は必要ですのでサットヴァの純粋な意識を通してアートマンはこの世の現実を知るわけです。
アートマンから見ると全て光なわけですけど、そうは言っても光を遮るものもあって、サットヴァは輝いていますけどタマスは黒くて光を遮るわけです。
アートマンの純粋な光がサットヴァの光と結びつき、タマスとラジャスを照らしている、とも言えますけど、本来は自ら光り輝くものはアートマンだけですので、サットヴァの光ですらもアートマンの光を映し出して光っているので、太陽に比喩されるアートマンに対してその他は夜に輝く月のようなものなわけです。
瞑想をしていると、アートマンの光が基礎として輝いていることがわかって、アートマンの意思が満遍なく満ちているところと重なるようにしてマインドの意識・意思が自らのハートに光って存在していて、どちらも光ではありますし、実際のところ激しく一時的に輝くのはアートマンの方というよりはマインドの光の方が激しく輝くように見えますけど、実際のところ、基礎として本来的に自ら輝いているのはアートマンの方なわけです。
肉体の体も光である
最近は、主に瞑想の中で自らのマインドおよびアートマンが光であることを自覚し始めたわけですけれども、そうして少し瞑想をしていると、割とすぐに、自らの肉体の体も光であることを自覚し始めます。
それは理屈でどうこういうお話ではなくて、割と率直に「あ、光だ」と「わかる」ことであって、「確かに、よく言われているように、私は光だった」と、ただ単にシンプルに自覚するというお話です。
ですから、物理学とかを持ち出してきて量子力学で言われているように光と波動がどうのこうのこうのとか、そういうのも真実なのかもしれませんけどこれはもっと単純なお話で、この体は光だった、と、単純にそれを自覚するだけのお話なのです。
ですから、これ以上の難しいお話は特にないと言えばないのですけど、見ようによって色々な側面があって、光とは言っても体が実際にあるじゃないか、というお話はそれはそうなのですけど、それは光が一時的に体というものに遮られて輝きが今まで失われていただけのことで、本来的には体は光を放っているわけです。
体そのものが光か、というと今のところの感覚では、「たぶんそうだけれども、体という形、光とは違った姿を今は取っている」という感じです。ですから、光が元になっているのはおそらくそうなのですけど、その形はそう簡単に崩れることはなくて、固形の形態を取ってはいるものの、元は光なわけです。
私の場合、周囲にある固形の物体もおそらく光なのだろうは思いつつも周囲の物体に関してはそれほど自覚がなくて、光だと主に感じているのは自らの肉体の体までですけど、肉体の自らの体のことで言いますと、光と物理的な肉体とが混ざっているような感覚があります。
おそらくは、それほど瞑想していない状態では物理的な体が優勢で、瞑想することにより光が高まる、ということかなと思っております。ですから、周囲にある固形物は光をそれほど放っていないわけです。
今はまだまだですけど、おそらくはこれが進んでいけば自らの体が光として溶け去ったり時空を越えやすくなったり、ということもあるのかなと思いますが生きているうちにどこまで行くのかは分かりませんけど。
昔の文献を読むとミラレパなどは肉体を持ったままそのまま時空を越えられたり生きたまま光になって空間に溶け込んだりまた空間から現れたり、ということができるようになったというお話があって、私はまだまだそんな段階ではないですけど、おそらくはそういうこともこの延長線上では可能なのかなと思います。
それは理屈でどうこういうお話ではなくて、割と率直に「あ、光だ」と「わかる」ことであって、「確かに、よく言われているように、私は光だった」と、ただ単にシンプルに自覚するというお話です。
ですから、物理学とかを持ち出してきて量子力学で言われているように光と波動がどうのこうのこうのとか、そういうのも真実なのかもしれませんけどこれはもっと単純なお話で、この体は光だった、と、単純にそれを自覚するだけのお話なのです。
ですから、これ以上の難しいお話は特にないと言えばないのですけど、見ようによって色々な側面があって、光とは言っても体が実際にあるじゃないか、というお話はそれはそうなのですけど、それは光が一時的に体というものに遮られて輝きが今まで失われていただけのことで、本来的には体は光を放っているわけです。
体そのものが光か、というと今のところの感覚では、「たぶんそうだけれども、体という形、光とは違った姿を今は取っている」という感じです。ですから、光が元になっているのはおそらくそうなのですけど、その形はそう簡単に崩れることはなくて、固形の形態を取ってはいるものの、元は光なわけです。
私の場合、周囲にある固形の物体もおそらく光なのだろうは思いつつも周囲の物体に関してはそれほど自覚がなくて、光だと主に感じているのは自らの肉体の体までですけど、肉体の自らの体のことで言いますと、光と物理的な肉体とが混ざっているような感覚があります。
おそらくは、それほど瞑想していない状態では物理的な体が優勢で、瞑想することにより光が高まる、ということかなと思っております。ですから、周囲にある固形物は光をそれほど放っていないわけです。
今はまだまだですけど、おそらくはこれが進んでいけば自らの体が光として溶け去ったり時空を越えやすくなったり、ということもあるのかなと思いますが生きているうちにどこまで行くのかは分かりませんけど。
昔の文献を読むとミラレパなどは肉体を持ったままそのまま時空を越えられたり生きたまま光になって空間に溶け込んだりまた空間から現れたり、ということができるようになったというお話があって、私はまだまだそんな段階ではないですけど、おそらくはそういうこともこの延長線上では可能なのかなと思います。
悟りを求めて心の静寂を追求する
面白いもので、サマーディ以前の場合は悟りを内に求めていたのがサマーディ以降は悟りを外に求めるようになりました。
悟りは自らの中にある、というお話はよく聞くお話で、ない場所を探しても見つかりませんよ、とは昔からよく言われていたりします。例えば、有名なお話で、針を部屋の中で落とした人が家を出て明るいところで針を探している、という例え話があります。もちろん、落としたのは部屋の中なので部屋の中を探さないと針は見つからないのですけど、真理を求めている人はないところを探している、という古くからの例え話です。
それはそうで、サマーディ以前の場合は真理は自分の中にあるのですから自らの内側を探究しなければ真理は見つからないのに多くの人は外側の目に見える現象や聖地や他人あるいは宗教の偶像に対する崇拝を通じて真理を見つけようとしますけど、自らの内側にあるのだから内側を探さなければ見つかりませんよ、というお話は基本的にはその通りだと思います。
とは言いましても、言葉通りに受け取ってしまうと礼拝や儀式が全く無駄ということになってしまいますけどそれは例え話ですから、実際のニュアンスとしては、外側に見える現象や聖地や他人あるいは宗教の偶像であってもそれは自らの一部なのですから自らの内側のものとして理解するのが正しいわけです。
それは、段階的な、過渡的なお話として理解されるべきです。
最初、瞑想がそれほど進んでいなくてサマーディ以前の場合は悟りというものがよく分かりませんから、儀式に参加したり偶像礼拝したりしてみたりすることも悪いことでもなく、そうすることで自らの心が整っていくわけです。
上記のように言われたからと言って快楽に生きることを選んでしまう人も一定数いるわけで、そうであるとすれば、今の現代人に上記のようなことを言って変に誤解させてしまうのもよろしくないかな、という気も致します。
上記のお話はある程度の瞑想が進んで、だけれどもまだサマーディ以前の場合に有効で、その段階ではまだ周囲の人やものも自分自身だという自覚には達しておらず、自分と他人という区分けがあり、それは区分けというよりも自分が分かれて存在しているという錯覚なのですけど、そのような錯覚の元では上の例え話のように自らの内側を探しましょう、というお話は有効なわけです。
ですけど、サマーディ以降になるとそもそも自分という感覚は錯覚だったとわかりますから、そもそも上記の例え話は成り立たないわけです。そもそも存在しない自分というお話を持ち出してきて自らの中を探すとか言われたとしても、全てが自分なのだから、自分ではないところなんてどこにあるのでしょう、というお話になります。
サマーディ以前の場合は、もっと単純に考えて、自らが錯覚で自分という分離を生み出しているということをまずは理屈で理解した上で、とりあえずは自らの内側を探究しましょう、というくらいに捉えておくのが良いと思います。
内側の探求とは、基本的には心の静寂の追求です。
そして、サマーディ以後は周囲のものも自らだと理解して知覚し始めますから、そのような「補助輪」としての考え方からは卒業するわけです。最初は自らに近いところからその感覚は始まって、やがて広がっていきますから、特に最初は、自らのことを理解すればそれで十分なわけです。
悟りは自らの中にある、というお話はよく聞くお話で、ない場所を探しても見つかりませんよ、とは昔からよく言われていたりします。例えば、有名なお話で、針を部屋の中で落とした人が家を出て明るいところで針を探している、という例え話があります。もちろん、落としたのは部屋の中なので部屋の中を探さないと針は見つからないのですけど、真理を求めている人はないところを探している、という古くからの例え話です。
それはそうで、サマーディ以前の場合は真理は自分の中にあるのですから自らの内側を探究しなければ真理は見つからないのに多くの人は外側の目に見える現象や聖地や他人あるいは宗教の偶像に対する崇拝を通じて真理を見つけようとしますけど、自らの内側にあるのだから内側を探さなければ見つかりませんよ、というお話は基本的にはその通りだと思います。
とは言いましても、言葉通りに受け取ってしまうと礼拝や儀式が全く無駄ということになってしまいますけどそれは例え話ですから、実際のニュアンスとしては、外側に見える現象や聖地や他人あるいは宗教の偶像であってもそれは自らの一部なのですから自らの内側のものとして理解するのが正しいわけです。
それは、段階的な、過渡的なお話として理解されるべきです。
最初、瞑想がそれほど進んでいなくてサマーディ以前の場合は悟りというものがよく分かりませんから、儀式に参加したり偶像礼拝したりしてみたりすることも悪いことでもなく、そうすることで自らの心が整っていくわけです。
上記のように言われたからと言って快楽に生きることを選んでしまう人も一定数いるわけで、そうであるとすれば、今の現代人に上記のようなことを言って変に誤解させてしまうのもよろしくないかな、という気も致します。
上記のお話はある程度の瞑想が進んで、だけれどもまだサマーディ以前の場合に有効で、その段階ではまだ周囲の人やものも自分自身だという自覚には達しておらず、自分と他人という区分けがあり、それは区分けというよりも自分が分かれて存在しているという錯覚なのですけど、そのような錯覚の元では上の例え話のように自らの内側を探しましょう、というお話は有効なわけです。
ですけど、サマーディ以降になるとそもそも自分という感覚は錯覚だったとわかりますから、そもそも上記の例え話は成り立たないわけです。そもそも存在しない自分というお話を持ち出してきて自らの中を探すとか言われたとしても、全てが自分なのだから、自分ではないところなんてどこにあるのでしょう、というお話になります。
サマーディ以前の場合は、もっと単純に考えて、自らが錯覚で自分という分離を生み出しているということをまずは理屈で理解した上で、とりあえずは自らの内側を探究しましょう、というくらいに捉えておくのが良いと思います。
内側の探求とは、基本的には心の静寂の追求です。
そして、サマーディ以後は周囲のものも自らだと理解して知覚し始めますから、そのような「補助輪」としての考え方からは卒業するわけです。最初は自らに近いところからその感覚は始まって、やがて広がっていきますから、特に最初は、自らのことを理解すればそれで十分なわけです。
マントラがとても奥深くから小さい声で浸透して聞こえるようになった
以前は、マントラを唱える時は割と普通の心の思考するマインドで唱えていたように思います。
その時は割とはっきりとした思考する意識でのマントラが体の各所に浸透して、例えば下半身によく共鳴するマントラとか、アジナに反応するマントラとか、割と上半身全体からアジナにかけて共鳴するマントラとか、それぞれマントラにも特徴があったように思います。
最近は、割とどのマントラを唱えても同じで、思考する普通の意識ではなく、とても奥深いところにある意識がマントラを唱えるようになりました。
そうなりますと、体のどこにも反応するところがなくて体は空っぽで、そうは言いましても体はありますので皮膚の感覚は残っていてそれは感じているのですけど、マントラを唱えた時の内なる空間というものが「空っぽ」なのです。
体の中が空っぽで、その奥底からマントラが小さく響いています。
昔は、割とはっきりとした意識だったということは、割と小さな部屋で誰かが喋っているかのようでした。体が小さな部屋で、その中でマントラを唱えると体の各所が、まるで小さな部屋で喋っているかのように部屋の各所にまで響いたわけです。
今は、その部屋が、とてつもなく広くなったように思います。少なくとも体育館、あるいは、実際のところ壁なんてない、青く晴れた草原のようだとも言えるかもしれません。
その広い場所でマントラを唱えていて、それをとても遠くから聞いていますのでマントラがとてもとても小さく聞こえるわけです。
マントラが遠く・・・、というよりは、とても深いところから聞こえているように思います。
その、深いところから響くマントラを、小さい音として聞いています。
体の中は空っぽで、マントラが多少は時々何かに反響するような感覚も時折ありますけど、基本的には空っぽなところでマントラが小さく響いています。
今までは顕在意識がマントラを唱えていたのが、もしかしたら今は奥深いところの意識が唱えるようになった、とも言えるかもしれません。
これは別に、そのように意図したわけではありません。
普段の生活において、最近は、顕在意識というよりは奥深い意識を意識しながら生活してきました。いわゆるサマーディ状態ということでもありますけど、そのように、深い意識に気づくようにして生活する時間を増やしていたら、ふと気がついたらマントラがこのように変化したわけです。
この変化は予想していたものではなくて、少し数日ぶりかにマントラを唱えてみたら自然にこのようになりました。
思えば、これが自然な感じに思えます。顕在意識で唱えるマントラよりも深く遠くにまで静かに浸透するマントラになりました。
その時は割とはっきりとした思考する意識でのマントラが体の各所に浸透して、例えば下半身によく共鳴するマントラとか、アジナに反応するマントラとか、割と上半身全体からアジナにかけて共鳴するマントラとか、それぞれマントラにも特徴があったように思います。
最近は、割とどのマントラを唱えても同じで、思考する普通の意識ではなく、とても奥深いところにある意識がマントラを唱えるようになりました。
そうなりますと、体のどこにも反応するところがなくて体は空っぽで、そうは言いましても体はありますので皮膚の感覚は残っていてそれは感じているのですけど、マントラを唱えた時の内なる空間というものが「空っぽ」なのです。
体の中が空っぽで、その奥底からマントラが小さく響いています。
昔は、割とはっきりとした意識だったということは、割と小さな部屋で誰かが喋っているかのようでした。体が小さな部屋で、その中でマントラを唱えると体の各所が、まるで小さな部屋で喋っているかのように部屋の各所にまで響いたわけです。
今は、その部屋が、とてつもなく広くなったように思います。少なくとも体育館、あるいは、実際のところ壁なんてない、青く晴れた草原のようだとも言えるかもしれません。
その広い場所でマントラを唱えていて、それをとても遠くから聞いていますのでマントラがとてもとても小さく聞こえるわけです。
マントラが遠く・・・、というよりは、とても深いところから聞こえているように思います。
その、深いところから響くマントラを、小さい音として聞いています。
体の中は空っぽで、マントラが多少は時々何かに反響するような感覚も時折ありますけど、基本的には空っぽなところでマントラが小さく響いています。
今までは顕在意識がマントラを唱えていたのが、もしかしたら今は奥深いところの意識が唱えるようになった、とも言えるかもしれません。
これは別に、そのように意図したわけではありません。
普段の生活において、最近は、顕在意識というよりは奥深い意識を意識しながら生活してきました。いわゆるサマーディ状態ということでもありますけど、そのように、深い意識に気づくようにして生活する時間を増やしていたら、ふと気がついたらマントラがこのように変化したわけです。
この変化は予想していたものではなくて、少し数日ぶりかにマントラを唱えてみたら自然にこのようになりました。
思えば、これが自然な感じに思えます。顕在意識で唱えるマントラよりも深く遠くにまで静かに浸透するマントラになりました。
胸でオームを唱えていると小人が出現する
意識を胸に合わせ、奥深いところから 胸でオームを唱えていると、胸の奥に何やら人間のような形をした小人が光っていることに気がつきます。
元々、体全体の薄い感覚などはありましたし、胸を中心として体やマインドを動かしているという実感はありましたけど、胸の奥に何やら光った小人のような意識体がいることに気がついたのはごく最近のことです。
それは胸の奥底でオームを唱えれば唱えるほどはっきりと見えてきます。
オームだけでなくガヤトリ・マントラやチベットのマントラを唱えたりしていますが、不意に、どのマントラが聞いたのかはそれほど定かではありませんけど、意識体が胸の奥底にぽっかりと不意に、そしてやがて少しずつはっきりと現れてきます。
瞑想をする前は割とぼやけていますけど、座った瞑想を始めると割とすぐに意識体が現れ始め、マントラを数回唱えるとすぐにその小人のような意識体は白く輝き始めます。
これは、もしかしたら、ヨーガの聖典で言われている「胸の奥の小部屋」というものかもしれません。
それは有名なハート・チャクラ(アナハタ・チャクラ)とは違って、そのすぐそこにありますが、とても小さな小部屋です。 それを読んだ原典を探したのですがすぐには見つけられませんでしたのでいずれ見つけた時に記載します。
胸を中心にした感覚に関しては、今まで、いくつかの段階を経てきました。
1.創造・破壊・維持の意識の胸への広がり
2.意識が体をダイレクトに動かしていることの実感
これはこれで、いわゆるアートマン(真我)が自分を動かしていて、かつ、自分を観察している状態だと理解しておりました。
これに加えて、胸の奥に小人のような輝く存在がいたことにより、これが私のアートマンの本体なのかもしれない、という感じになってきました。
ヴェーダンタでは、個人は自我としてのジーヴァ及び分断された個としてのアートマン(真我)として表現されていてジーヴァの方は錯覚としての自我(エゴ)としての自分であり、一方、アートマンは実際には全体(ブラフマン)の一部としてのアートマンなわけです。
その、分断された、個としてのアートマンがこの輝く小人なのかもしれない、という気になてきました。
この種のことは、実際には何なのかは聖典に当たってみるのがよく、この記述と全く一致するような記述はなかなかありませんのでまだ仮説にしか過ぎないのですけど、これがアートマンの本体なのかな・・・? という気も致しますが、どうでしょうか。
元々、体全体の薄い感覚などはありましたし、胸を中心として体やマインドを動かしているという実感はありましたけど、胸の奥に何やら光った小人のような意識体がいることに気がついたのはごく最近のことです。
それは胸の奥底でオームを唱えれば唱えるほどはっきりと見えてきます。
オームだけでなくガヤトリ・マントラやチベットのマントラを唱えたりしていますが、不意に、どのマントラが聞いたのかはそれほど定かではありませんけど、意識体が胸の奥底にぽっかりと不意に、そしてやがて少しずつはっきりと現れてきます。
瞑想をする前は割とぼやけていますけど、座った瞑想を始めると割とすぐに意識体が現れ始め、マントラを数回唱えるとすぐにその小人のような意識体は白く輝き始めます。
これは、もしかしたら、ヨーガの聖典で言われている「胸の奥の小部屋」というものかもしれません。
それは有名なハート・チャクラ(アナハタ・チャクラ)とは違って、そのすぐそこにありますが、とても小さな小部屋です。 それを読んだ原典を探したのですがすぐには見つけられませんでしたのでいずれ見つけた時に記載します。
胸を中心にした感覚に関しては、今まで、いくつかの段階を経てきました。
1.創造・破壊・維持の意識の胸への広がり
2.意識が体をダイレクトに動かしていることの実感
これはこれで、いわゆるアートマン(真我)が自分を動かしていて、かつ、自分を観察している状態だと理解しておりました。
これに加えて、胸の奥に小人のような輝く存在がいたことにより、これが私のアートマンの本体なのかもしれない、という感じになってきました。
ヴェーダンタでは、個人は自我としてのジーヴァ及び分断された個としてのアートマン(真我)として表現されていてジーヴァの方は錯覚としての自我(エゴ)としての自分であり、一方、アートマンは実際には全体(ブラフマン)の一部としてのアートマンなわけです。
その、分断された、個としてのアートマンがこの輝く小人なのかもしれない、という気になてきました。
この種のことは、実際には何なのかは聖典に当たってみるのがよく、この記述と全く一致するような記述はなかなかありませんのでまだ仮説にしか過ぎないのですけど、これがアートマンの本体なのかな・・・? という気も致しますが、どうでしょうか。
意識と肉体が分離すると機械人間になる
たまたま見た動画で、悪魔に乗っ取られた人、みたいなお話が出ていましたけど、悪魔かどうかはともかくとして、意識と肉体が分離して意識が肉体に戻れなくなっているような人はぼちぼち現代にいらっしゃいますね。
そのような人の場合、最初、意識が体から離れやすくなって、幽体離脱しやすい状態になります。
意識と体が分離し始めているのですよね。
それは、意識が激しく葛藤しすぎるのと、体と意識とが調和していないために体に意識が定着できなくなって、時折、何かの拍子に体から意識が離れてしまうわけです。
これは「良くない幽体離脱」の例で、実際のところ意識の方は割と純粋で汚れが割とない存在ではあるのですけど、肉体にまつわるところに汚れが溜まったり、意識の方で意図的に肉体との調和を乱す方向を意図したりすると、最初はその感覚が面白いとか思ったりするかもしれませんけど、ふとある時に肉体と意識との結合が外れて、最初は幽体離脱してしまいます。
これは幽体離脱ができるとかそういうことを言っているのではなくて、この状態というのは、とても危険な状態であるということです。ですから、幽体離脱するために体と意識を分離させようとする、ということはしてはいけません。
幽体離脱しても、最初は意識を体に合わせれば割と戻ることができますけど、しっかりと体と意識の調和が取れている場合はそもそも幽体離脱なんてしませんし、戻る時も、かっちりと繋がることができます。
しかし、体と意識がズレていたり外れかけている場合は意識が体に戻る時も何やら噛み合わない感じですし、何度も同じことを繰り返しているうちに、戻りにくくなります。
なんとか戻れているから大丈夫かな・・・ と、たかを括っていると、やがて、不意に、急に体に戻れなくなります。
体に戻ろうとしても、体にバリアみたいなものができてしまい、弾かれるようになってしまって、体に戻れなくなります。
その時、他の意識体に乗っ取られたかというとそうでもなくて、何も意識体が入っていない体が肉体にまつわる反応と本能だけで生きるようになって、意識の方は体に存在しない状態になります。
ですけど、体は普通にありますので、機械人間のようになって人生は続くわけです。もはやその場合、まともな思考もできませんし、単なる反射的な人生になります。それは人生と呼べるのかすら良くわからない状態になるわけです。ですけど、意外にそのような状態でもすぐに死ぬということはなくて生きながらえるようになるわけです。意識が体に存在していないような人間になってしまうということです。
意識が幽体離脱したまま体に戻れなくなった場合、意識はある程度は再チャレンジして体に戻ろうとしますけど、それでも駄目なら諦めて、肉体を捨てることになります。肉体は生き続けますけど意識の方はあの世に戻ったり次の人生で再チャレンジするわけですね。
ですから、この世を生きて快楽に生きたり、肉体と意識を分離させるような激しい精神ショックを与えたり求めたりするのはとても危険で、植物人間あるいは機械人間を生み出すことになってしまうわけです。そのようなことを他人に強要するのであればそれは罪ですし、自分でそのようなショックを求めるのも愚かなことです。
動画で見たような「悪魔」が実際にいるかどうかは微妙なところで、半分くらいは、このように自分の意識が自分の元々の肉体から離れてしまって機械人間として人生を生きている場合も多々あるように思います。そうなりますと特定の習慣に従った行動しか取らないようになって知的な活動は皆無になりますから仕事もまともに行うことができなくなってしまいます。もしかしたらそのような場合に悪魔に肉体を乗っ取られる、みたいなこともあるのかもしれませんね。最初に肉体と精神・意識を分離させて肉体から意識を追い出し、空っぽになったところを悪魔が乗っ取る、というパターンは少ないまでもそれなりにあるように思います。
その中間はとても多くて、精神・意識が完全に分離はしていないまでも混乱して何をしているか自分でわからず快楽や欲望に耽っている、というのはあり過ぎて例を挙げるまでもありません。
そのような人の場合、最初、意識が体から離れやすくなって、幽体離脱しやすい状態になります。
意識と体が分離し始めているのですよね。
それは、意識が激しく葛藤しすぎるのと、体と意識とが調和していないために体に意識が定着できなくなって、時折、何かの拍子に体から意識が離れてしまうわけです。
これは「良くない幽体離脱」の例で、実際のところ意識の方は割と純粋で汚れが割とない存在ではあるのですけど、肉体にまつわるところに汚れが溜まったり、意識の方で意図的に肉体との調和を乱す方向を意図したりすると、最初はその感覚が面白いとか思ったりするかもしれませんけど、ふとある時に肉体と意識との結合が外れて、最初は幽体離脱してしまいます。
これは幽体離脱ができるとかそういうことを言っているのではなくて、この状態というのは、とても危険な状態であるということです。ですから、幽体離脱するために体と意識を分離させようとする、ということはしてはいけません。
幽体離脱しても、最初は意識を体に合わせれば割と戻ることができますけど、しっかりと体と意識の調和が取れている場合はそもそも幽体離脱なんてしませんし、戻る時も、かっちりと繋がることができます。
しかし、体と意識がズレていたり外れかけている場合は意識が体に戻る時も何やら噛み合わない感じですし、何度も同じことを繰り返しているうちに、戻りにくくなります。
なんとか戻れているから大丈夫かな・・・ と、たかを括っていると、やがて、不意に、急に体に戻れなくなります。
体に戻ろうとしても、体にバリアみたいなものができてしまい、弾かれるようになってしまって、体に戻れなくなります。
その時、他の意識体に乗っ取られたかというとそうでもなくて、何も意識体が入っていない体が肉体にまつわる反応と本能だけで生きるようになって、意識の方は体に存在しない状態になります。
ですけど、体は普通にありますので、機械人間のようになって人生は続くわけです。もはやその場合、まともな思考もできませんし、単なる反射的な人生になります。それは人生と呼べるのかすら良くわからない状態になるわけです。ですけど、意外にそのような状態でもすぐに死ぬということはなくて生きながらえるようになるわけです。意識が体に存在していないような人間になってしまうということです。
意識が幽体離脱したまま体に戻れなくなった場合、意識はある程度は再チャレンジして体に戻ろうとしますけど、それでも駄目なら諦めて、肉体を捨てることになります。肉体は生き続けますけど意識の方はあの世に戻ったり次の人生で再チャレンジするわけですね。
ですから、この世を生きて快楽に生きたり、肉体と意識を分離させるような激しい精神ショックを与えたり求めたりするのはとても危険で、植物人間あるいは機械人間を生み出すことになってしまうわけです。そのようなことを他人に強要するのであればそれは罪ですし、自分でそのようなショックを求めるのも愚かなことです。
動画で見たような「悪魔」が実際にいるかどうかは微妙なところで、半分くらいは、このように自分の意識が自分の元々の肉体から離れてしまって機械人間として人生を生きている場合も多々あるように思います。そうなりますと特定の習慣に従った行動しか取らないようになって知的な活動は皆無になりますから仕事もまともに行うことができなくなってしまいます。もしかしたらそのような場合に悪魔に肉体を乗っ取られる、みたいなこともあるのかもしれませんね。最初に肉体と精神・意識を分離させて肉体から意識を追い出し、空っぽになったところを悪魔が乗っ取る、というパターンは少ないまでもそれなりにあるように思います。
その中間はとても多くて、精神・意識が完全に分離はしていないまでも混乱して何をしているか自分でわからず快楽や欲望に耽っている、というのはあり過ぎて例を挙げるまでもありません。
私の周囲に広がるオーラが少し広がる
サマーディ状態で私の周囲は近くのものだけが「私」として認識されるわけですけれども、ここ最近の変化として、ほんの少しだけそれ以前よりも広い範囲が「私」として認識されるようになりました。
とは言ってもその変化は微妙で、もともとはっきりとした境目があるものではないですし、ですけど、ある程度まで広がった後にそこから更に離れると急に感覚がなくなっていくというある程度のオーラのゾーンというものはあって、その一応の境目のようなものが少し遠くにまで広がった、ということです。
これは程度問題ですし、瞑想状態で感じられるものですので、少し前がその範疇が例えば50cmだったとして、55cmか60cmになった、というくらいの小さな違いです。1mもないですけど30cmよりは広そう、というくらいの割と曖昧な主観ではありますけど、その主観で、少し前よりオーラが広がった感じが致します。
ですけど、ここで一応はオーラと表現していますけどこのゾーンはなんと表現したらいいのか微妙で、どこかで読んだ「ブッダ・ゾーン」とでも読んだ方がいい空間かもしれません。
これをオーラと表現してしまうと誤解があって、肉体に近いところにあるエネルギーとしてのオーラ、ヨーガでいうプラーナのエネルギーのオーラであれば以前と変わらなくて、プラーナは体の近くにぴったりと安定しているのがよくて、プラーナのオーラが揺れるということは不安定ということですのでよろしくないのですけど、そのように、プラーナのオーラに変化はないのです。
それよりも微細なところで、「私」の感覚が私の周囲へとサマーディ状態で広がっていて、その広がる感覚はプラーナよりもずっと微細で、周囲のもの、あるいは他の人であったとしてもそのゾーンにおいては(私にとっては)「私」になります。
近くにあるものが「私(わたし)」として認知され、近くにいる人も「私(わたし)」として私(わたくし)が認知するわけです。
その範囲が、ここ数日でほんのちょっとだけ広がった実感がありました。
とは言ってもその変化は微妙で、もともとはっきりとした境目があるものではないですし、ですけど、ある程度まで広がった後にそこから更に離れると急に感覚がなくなっていくというある程度のオーラのゾーンというものはあって、その一応の境目のようなものが少し遠くにまで広がった、ということです。
これは程度問題ですし、瞑想状態で感じられるものですので、少し前がその範疇が例えば50cmだったとして、55cmか60cmになった、というくらいの小さな違いです。1mもないですけど30cmよりは広そう、というくらいの割と曖昧な主観ではありますけど、その主観で、少し前よりオーラが広がった感じが致します。
ですけど、ここで一応はオーラと表現していますけどこのゾーンはなんと表現したらいいのか微妙で、どこかで読んだ「ブッダ・ゾーン」とでも読んだ方がいい空間かもしれません。
これをオーラと表現してしまうと誤解があって、肉体に近いところにあるエネルギーとしてのオーラ、ヨーガでいうプラーナのエネルギーのオーラであれば以前と変わらなくて、プラーナは体の近くにぴったりと安定しているのがよくて、プラーナのオーラが揺れるということは不安定ということですのでよろしくないのですけど、そのように、プラーナのオーラに変化はないのです。
それよりも微細なところで、「私」の感覚が私の周囲へとサマーディ状態で広がっていて、その広がる感覚はプラーナよりもずっと微細で、周囲のもの、あるいは他の人であったとしてもそのゾーンにおいては(私にとっては)「私」になります。
近くにあるものが「私(わたし)」として認知され、近くにいる人も「私(わたし)」として私(わたくし)が認知するわけです。
その範囲が、ここ数日でほんのちょっとだけ広がった実感がありました。
スピリチュアルの成長の歩みを当然のものとして受け入れる
スピリチュアルの階梯を学んで「こうなろう」と思い描いたり求めるところから始まりますけど、実際に成長したり自らの状態が大きく変わるのはそのような、顕在意識が「求める」気持ちがなくなって当然のものとして受け入れたときに大きく変わるような気が致します。
それは一回で終わるものではなくて、その時々において次の段階の状態が思い浮かんだりするわけですけれども、次の段階は一応は目標および方向性として見極めはしますけど、そのことを思い描いで「こうなるぞ」と思う必要はそれほどなくて、一応は方向性として確認するくらいで、成長を当然のものとして受け入れるといつの間にか自分が成長して状態が大きく変わる、という事が段階的に繰り返されるような気が致します。
その時々において、傍目にはそのような成長がとても難しく感じられる時もあり、そのそれぞれの階梯において階段のステップがとてつもなく大きくてとても無理だと感じられることもあったりしますけど、その時に、諦める必要もなくて、かと言って、簡単だと自分に思い込ませる必要もなくて、それも全てお導きによってなるようになる、というおおらかな気持ちでいればいいような気が致します。
それを流派によっては「他力」だとか「他力本願」あるいは「絶対者の祝福」とか「キリストの恵み」とか色々な名前で呼んだりするかもしれませんけど、それは表現としてそのように言っているだけで、実際には、自らの奥底の根源に委ねる、という点では変わりがないわけです。
ここで、実際には自らの根源に委ねているわけですけれども、顕在意識からしたら特に最初は根元の意識であるいわゆるアートマン(真我)とは切り離されておりますので、顕在意識のマインド(思考する心)からしたら他者・他力のように感じられるだけで、実際にはアートマン(真我)の働きによって導かれて成長してゆくわけです。
ですから、それは実際には自分自身であるのですけれども他者あるいは他力、はたまたキリストの導きのように感じられたりはしますけど、実際には、それはアートマン(真我)の働きであり、実際にはそのアートマン(真我)は「全体」であるブラフマンと同一でありますから、最初は個としての分かれたアートマン(真我)としてその「他力」あるいは「キリストの導き」は感じられますけど、実際には、その後、その導きは「全体」のものへと変わってゆくわけです。
その導きは段階的にずっと続くわけですけれども、最初こそ自我の動きによって「求める」という行動が必要なわけですがそのうち自我による求めから、アートマン(真我)による当然の働きとしてスピリチュアルな歩みが進むようになります。
それは一回で終わるものではなくて、その時々において次の段階の状態が思い浮かんだりするわけですけれども、次の段階は一応は目標および方向性として見極めはしますけど、そのことを思い描いで「こうなるぞ」と思う必要はそれほどなくて、一応は方向性として確認するくらいで、成長を当然のものとして受け入れるといつの間にか自分が成長して状態が大きく変わる、という事が段階的に繰り返されるような気が致します。
その時々において、傍目にはそのような成長がとても難しく感じられる時もあり、そのそれぞれの階梯において階段のステップがとてつもなく大きくてとても無理だと感じられることもあったりしますけど、その時に、諦める必要もなくて、かと言って、簡単だと自分に思い込ませる必要もなくて、それも全てお導きによってなるようになる、というおおらかな気持ちでいればいいような気が致します。
それを流派によっては「他力」だとか「他力本願」あるいは「絶対者の祝福」とか「キリストの恵み」とか色々な名前で呼んだりするかもしれませんけど、それは表現としてそのように言っているだけで、実際には、自らの奥底の根源に委ねる、という点では変わりがないわけです。
ここで、実際には自らの根源に委ねているわけですけれども、顕在意識からしたら特に最初は根元の意識であるいわゆるアートマン(真我)とは切り離されておりますので、顕在意識のマインド(思考する心)からしたら他者・他力のように感じられるだけで、実際にはアートマン(真我)の働きによって導かれて成長してゆくわけです。
ですから、それは実際には自分自身であるのですけれども他者あるいは他力、はたまたキリストの導きのように感じられたりはしますけど、実際には、それはアートマン(真我)の働きであり、実際にはそのアートマン(真我)は「全体」であるブラフマンと同一でありますから、最初は個としての分かれたアートマン(真我)としてその「他力」あるいは「キリストの導き」は感じられますけど、実際には、その後、その導きは「全体」のものへと変わってゆくわけです。
その導きは段階的にずっと続くわけですけれども、最初こそ自我の動きによって「求める」という行動が必要なわけですがそのうち自我による求めから、アートマン(真我)による当然の働きとしてスピリチュアルな歩みが進むようになります。
いつの間にかサハスララに手のひらの大きさほどのオーラの塊ができていた
瞑想していてふと気がついたら、いつの間にか頭頂にサハスララの感覚ができていて、そこに楕円形のゴムボールのような柔らかくも少し弾力性のあるぷにぷにとしたものが漂っていることに気がつきました。
そこからエネルギーが上下に微かに行き来していることを感じますけど、それほど強く通っているわけでもなく、じわじわと浸透しているという感じです。
いつの間にか開いていたのでしょうかね?
少し前までは指が1本か2本くらい開いているかどうか、というくらいだったように思います。
今は大きさとしては広がっていますけど、まだ完全に開いたというわけでもなさそうです。
開いた、というより、サハスララにまでオーラが充満した、という方が正しいのかもしれません。
ムーラダーラの方はもっとはっきりとしたエネルギーの流れが感じられて、ムーラダーラが開いた時は脈動もありましたので、サハスララが開いたというよりは、サハスララにオーラが充満した、という方が正しい気が致します。
「密教ヨーガ(本山博著)」によりますと、インドのとあるスワミはサハスララがチャクラだとは認めていない、とも書かれてありますので、サハスララはチャクラではなくて単なるエネルギーの通り道、あるいはアンテナのようなものなのかもしれないですね。そこはもう少し様子を見ていきます。
ヴィシュッダ(喉のスロートチャクラ)を境目としてオーラが頭の方にまでそれほど浸透していなかった時はヴィシュッダの下側で同様にオーラが充満していて頭の方に時々オーラが上がる、という状態だったのですが、それと似たような感覚があります。ヴィシュッダを境目として頭にオーラが上がるという状態だった時と、サハスララのあたりまでオーラが充満していてそれより上にオーラが時々少し上がる、というのは、場所は違えども、似たような感じではあります。ただ、ヴィシュッダの時は上に頭が肉体としてありましたけどサハスララの上は肉体としての体はありませんので、その違いがあるにはありますけど。
これ、先日あんでるせんのマスターに右手からエネルギーを送ってもらったことによりエネルギーが高まってオーラが更に充満してきたのかもしれない、とも思いますけどどうでしょうかね。
そこからエネルギーが上下に微かに行き来していることを感じますけど、それほど強く通っているわけでもなく、じわじわと浸透しているという感じです。
いつの間にか開いていたのでしょうかね?
少し前までは指が1本か2本くらい開いているかどうか、というくらいだったように思います。
今は大きさとしては広がっていますけど、まだ完全に開いたというわけでもなさそうです。
開いた、というより、サハスララにまでオーラが充満した、という方が正しいのかもしれません。
ムーラダーラの方はもっとはっきりとしたエネルギーの流れが感じられて、ムーラダーラが開いた時は脈動もありましたので、サハスララが開いたというよりは、サハスララにオーラが充満した、という方が正しい気が致します。
「密教ヨーガ(本山博著)」によりますと、インドのとあるスワミはサハスララがチャクラだとは認めていない、とも書かれてありますので、サハスララはチャクラではなくて単なるエネルギーの通り道、あるいはアンテナのようなものなのかもしれないですね。そこはもう少し様子を見ていきます。
ヴィシュッダ(喉のスロートチャクラ)を境目としてオーラが頭の方にまでそれほど浸透していなかった時はヴィシュッダの下側で同様にオーラが充満していて頭の方に時々オーラが上がる、という状態だったのですが、それと似たような感覚があります。ヴィシュッダを境目として頭にオーラが上がるという状態だった時と、サハスララのあたりまでオーラが充満していてそれより上にオーラが時々少し上がる、というのは、場所は違えども、似たような感じではあります。ただ、ヴィシュッダの時は上に頭が肉体としてありましたけどサハスララの上は肉体としての体はありませんので、その違いがあるにはありますけど。
これ、先日あんでるせんのマスターに右手からエネルギーを送ってもらったことによりエネルギーが高まってオーラが更に充満してきたのかもしれない、とも思いますけどどうでしょうかね。
サハスララにオーラが満ちると雑念が入ってこなくなる
瞑想をしてサハスララにオーラが満ちると、頭頂が妖怪アンテナのようにちょっとピンと立ったような感覚になって、その状態では雑念が入ってこなくなり、明示的な思考(ブッディ)のみが働くようです。
瞑想をしてしばらく観察していましたが、特に明示的な思考をしなければ単に呼吸や周囲のセミの音をただ聞いているだけの状態になり、目を開けて座っていると目の前の風景がそのまま飛び込んでくる状態です。
以前の、視界がスローモーションで認識されるヴィパッサナー状態とは違って特にスローモーションという感じはなく、ただありのままに見ている状態です。おそらくは以前は五感のうち視覚にだけ極度に集中することで視覚がスローモーションかのごとく感じられましたけど、今は特に明示的に視覚に集中することもなく、ただ見ているだけの状態です。意図的に視覚に意識を当てると今も視覚がスローモーション、と言いますか、語弊がありますけど、時間軸としては変わっていなくて普通のスピードなのですけど細かく動きが感じられる、という状態になります。ですので、意識的に視覚を働かせることでスローモーションのように見ることは今もできますけど、特に意識せずに普通に見ている時は、ただ、目の前のありのままを見ているだけの状態になります。
それは寂静の世界とも言えますけど、禅寺の日本庭園、あるいは短歌などの世界であるとも言えるかもしれません。私は歌は読みませんけど、ありのままを見る禅の世界に通じるものを感じます。
寂静の世界と言っても全ての感覚及び音などが止まってしまったわけではなく、セミの音などは変わらず聞こえてきますし、目に入ってくる景色は存在し続けます。
違いはといえば、心の中の雑念がなくなり、文字通りなくなって、明示的な思考(ヨーガでいうブッディ)のみが働く状態になります。
それが、サハスララにオーラを充満させた状態で起こります。
この状態ですと目を瞑った瞑想と目を開けた瞑想とでさほど違いはなくなって、目を瞑るとやりやすいだとか、目を開けた方がやりやすいだとか、そのような区別は特にないようです。若干、目を瞑った方が不安定になりやすい気も致しますので目を開けていた方がいいかな、という気も致します。
この、目を瞑った方がいいのか開けた方がいいのかは段階によって向き不向きがあって、瞑想を始めたら基本は目を瞑るのがいいとは思うのですけど、最近は割と目を開けていた方が調子がいいかな、というのが実感です。
瞑想をしてしばらく観察していましたが、特に明示的な思考をしなければ単に呼吸や周囲のセミの音をただ聞いているだけの状態になり、目を開けて座っていると目の前の風景がそのまま飛び込んでくる状態です。
以前の、視界がスローモーションで認識されるヴィパッサナー状態とは違って特にスローモーションという感じはなく、ただありのままに見ている状態です。おそらくは以前は五感のうち視覚にだけ極度に集中することで視覚がスローモーションかのごとく感じられましたけど、今は特に明示的に視覚に集中することもなく、ただ見ているだけの状態です。意図的に視覚に意識を当てると今も視覚がスローモーション、と言いますか、語弊がありますけど、時間軸としては変わっていなくて普通のスピードなのですけど細かく動きが感じられる、という状態になります。ですので、意識的に視覚を働かせることでスローモーションのように見ることは今もできますけど、特に意識せずに普通に見ている時は、ただ、目の前のありのままを見ているだけの状態になります。
それは寂静の世界とも言えますけど、禅寺の日本庭園、あるいは短歌などの世界であるとも言えるかもしれません。私は歌は読みませんけど、ありのままを見る禅の世界に通じるものを感じます。
寂静の世界と言っても全ての感覚及び音などが止まってしまったわけではなく、セミの音などは変わらず聞こえてきますし、目に入ってくる景色は存在し続けます。
違いはといえば、心の中の雑念がなくなり、文字通りなくなって、明示的な思考(ヨーガでいうブッディ)のみが働く状態になります。
それが、サハスララにオーラを充満させた状態で起こります。
この状態ですと目を瞑った瞑想と目を開けた瞑想とでさほど違いはなくなって、目を瞑るとやりやすいだとか、目を開けた方がやりやすいだとか、そのような区別は特にないようです。若干、目を瞑った方が不安定になりやすい気も致しますので目を開けていた方がいいかな、という気も致します。
この、目を瞑った方がいいのか開けた方がいいのかは段階によって向き不向きがあって、瞑想を始めたら基本は目を瞑るのがいいとは思うのですけど、最近は割と目を開けていた方が調子がいいかな、というのが実感です。
サマーディに居続けるテクチューとランドル
詳しい内容は分かりませんけど、チベット仏教、特にゾクチェンに属する教えの中にテクチューという修行方法があるようです。
それは2つの修行段階のうちの1つであり、1つ目としてテクチュー、2つ目にはトゥゲルがあり、テクチューの場合は初段階ということでサマーディ(三昧)に居続ける修行、とのことです。
一方、同じくゾクチェンの見解においてサマーディの深化の3つの段階がありますけど、どうやら私はランドルの段階にいるように思います。
ですから、私のいる段階の組み合わせとしてはテクチューとランドル、ということになると思います。
■修行方法
テクチュー(サマーディに居続ける)
トゥゲル(内容不明)
■サマーディの深化
チェルドル 最初の能力。「観察すると、それはみずからを解放する」
シャルドル 中間的な能力。「生じると同時に解放する」
ランドル 究極的な能力。「自然にみずからを解放する」
「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」より
私は今までもサマーディの状態を瞑想及びその後でしばらく継続できていたかと思いますけどその状態には段階があって、最初は時間をかけた瞑想でサマーディに至っていたものが、そのうちそれほど時間をかけなくてもサマーディ状態になり、そしてごく最近、サハスララにオーラが満ちた状態ではようやくランドルと言うのに相応しい状態になったのかな、と自分では思います。
そして、これらチェルドル・シャルドル・ランドルは全て修行でいうとおそらくテクチューに相当して、テクチュー+チェルドル、テクチュー+シャルドル、テクチュー+ランドル、という組み合わせになるのかな、とも思います。チベットのラマに聞いたわけではありませんけど、そのように考えるのが理に叶っているように思います。
ランドルがそのまま悟りではなくて、この先にトェデルと言う状態があって、それが悟りだとのことです。
トェデルは「概念の彼岸」ないし「空のような」という意味だ。トェデルとは主体と対象の完全な再統合である。だがそれだけではない。みずからのエネルギーとそのあらわれ方を支配することによって、もはや転生を必要とせず、今生において究極な悟りを成就する。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
今まで、このあたりがピンと来なかったのですけど、サハスララにオーラが満ちた状態で想念のエネルギーと周囲のエネルギーを観察できるようになると、確かにこの方向性で行けばこのようなことも可能なのでは、という確信のようなものが生まれてきます。
それは2つの修行段階のうちの1つであり、1つ目としてテクチュー、2つ目にはトゥゲルがあり、テクチューの場合は初段階ということでサマーディ(三昧)に居続ける修行、とのことです。
一方、同じくゾクチェンの見解においてサマーディの深化の3つの段階がありますけど、どうやら私はランドルの段階にいるように思います。
ですから、私のいる段階の組み合わせとしてはテクチューとランドル、ということになると思います。
■修行方法
テクチュー(サマーディに居続ける)
トゥゲル(内容不明)
■サマーディの深化
チェルドル 最初の能力。「観察すると、それはみずからを解放する」
シャルドル 中間的な能力。「生じると同時に解放する」
ランドル 究極的な能力。「自然にみずからを解放する」
「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」より
私は今までもサマーディの状態を瞑想及びその後でしばらく継続できていたかと思いますけどその状態には段階があって、最初は時間をかけた瞑想でサマーディに至っていたものが、そのうちそれほど時間をかけなくてもサマーディ状態になり、そしてごく最近、サハスララにオーラが満ちた状態ではようやくランドルと言うのに相応しい状態になったのかな、と自分では思います。
そして、これらチェルドル・シャルドル・ランドルは全て修行でいうとおそらくテクチューに相当して、テクチュー+チェルドル、テクチュー+シャルドル、テクチュー+ランドル、という組み合わせになるのかな、とも思います。チベットのラマに聞いたわけではありませんけど、そのように考えるのが理に叶っているように思います。
ランドルがそのまま悟りではなくて、この先にトェデルと言う状態があって、それが悟りだとのことです。
トェデルは「概念の彼岸」ないし「空のような」という意味だ。トェデルとは主体と対象の完全な再統合である。だがそれだけではない。みずからのエネルギーとそのあらわれ方を支配することによって、もはや転生を必要とせず、今生において究極な悟りを成就する。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
今まで、このあたりがピンと来なかったのですけど、サハスララにオーラが満ちた状態で想念のエネルギーと周囲のエネルギーを観察できるようになると、確かにこの方向性で行けばこのようなことも可能なのでは、という確信のようなものが生まれてきます。
エネルギー重視のスピリチュアル
パワーと言い換えても良いですし愛と言っても同じことですけどエネルギー重視のスピリチュアルというものがあって、一方、理屈重視のスピリチュアルというものがあります。
エネルギー重視のスピリチュアルは、エネルギーが高まりさえすればポジティブになって雑念は消えて悟りに至ることができる、というお話です。
一方、理屈重視のスピリチュアルは文字通り理屈で一歩一歩歩んで悟りを得る方法です。
個人的には理屈を学んだりしたこともありましたけど基本的にはエネルギー重視のスピリチュアルの道を歩んでいて、理屈は道しるべあるいは自分の状態の確かめとして使っています。
世の中には理屈で悟るという人もいて、ヨーガあるいはインドのヴェーダ的にはニャーナ(知識)の道、とか言われていたりしますけど、そういうお話もあるかと思います。
エネルギー重視のスピリチュアルは割と力技のようなところがあって、エネルギーが高まる前は単なる理屈のお話でしかなかったものがエネルギーが高まるだけで腑に落ちてよく理解できる、ということがよくあります。
ですから、理屈を勉強するのも良いですけどあまり頭でっかちになってしまうのも良くなくて、理屈を勉強するうちに自分がわかったと思ってしまったり既にそのような状態になっていると自分で自分を誤魔化してしまったり自己催眠のように自身を錯覚状態に陥らせてしまうこともあるわけです。
ですから理屈と実践とどちらも大切なわけですけれども、個人的には、エネルギーだけでも割と十分かなという気がしないでもないですけど道標としての理屈もかなり役立ってはきました。
この、理屈とエネルギーのお話には誤解があって、流派によってはエネルギーとかは関係なくて理屈だけで悟ることができるとか言ったりしていますけど、個人的に思うのは、エネルギーの面を抜きにして悟りはあり得ない、ということです。エネルギーを軽視している人は最初からエネルギッシュでパワーに溢れているからこそ理屈が重要と言っていたり、あるいは、言わないだけで途中でエネルギーに溢れる瞬間があったりして、それをエネルギーと言わずに知識に溢れる、あるいは、知識が起こる、みたいに言っているだけのことで、側から見たら同じことなわけです。少なくとも自分にはそう見えます。
エネルギーと言わずに「愛」という場合もありますけど、同じことかなと思います。エネルギーというと「他人に影響、他人を操作するエゴの力」というニュアンスが入る可能性がありますのでそれが嫌な場合は愛と言った方が意味が歪められずに伝わるのかもしれませんけど、純粋なエネルギーという意味であれば同じことです。
言い方は色々とあれど理屈とエネルギーのお話は両輪で、個人的に思うのは、理屈が先行することもあればエネルギーが先行することもありますけど、頭だけの理屈が先行したとしても実感としての理屈が先行することはなくて、頭だけの理屈が先行するかしないかはその時々ですけど、少なくともエネルギー的な高まりがあって初めて本当の実感を伴う理解が来るのだと思います。
言うなれば、理屈(任意)→エネルギー(必ず起こる)→実感(必ず起こる)、という順番ですかね。
理屈も時にはいいですけど、それより、エネルギーが高まればポジティブになって理屈も理解できるようになるわけです。
エネルギー重視のスピリチュアルは、エネルギーが高まりさえすればポジティブになって雑念は消えて悟りに至ることができる、というお話です。
一方、理屈重視のスピリチュアルは文字通り理屈で一歩一歩歩んで悟りを得る方法です。
個人的には理屈を学んだりしたこともありましたけど基本的にはエネルギー重視のスピリチュアルの道を歩んでいて、理屈は道しるべあるいは自分の状態の確かめとして使っています。
世の中には理屈で悟るという人もいて、ヨーガあるいはインドのヴェーダ的にはニャーナ(知識)の道、とか言われていたりしますけど、そういうお話もあるかと思います。
エネルギー重視のスピリチュアルは割と力技のようなところがあって、エネルギーが高まる前は単なる理屈のお話でしかなかったものがエネルギーが高まるだけで腑に落ちてよく理解できる、ということがよくあります。
ですから、理屈を勉強するのも良いですけどあまり頭でっかちになってしまうのも良くなくて、理屈を勉強するうちに自分がわかったと思ってしまったり既にそのような状態になっていると自分で自分を誤魔化してしまったり自己催眠のように自身を錯覚状態に陥らせてしまうこともあるわけです。
ですから理屈と実践とどちらも大切なわけですけれども、個人的には、エネルギーだけでも割と十分かなという気がしないでもないですけど道標としての理屈もかなり役立ってはきました。
この、理屈とエネルギーのお話には誤解があって、流派によってはエネルギーとかは関係なくて理屈だけで悟ることができるとか言ったりしていますけど、個人的に思うのは、エネルギーの面を抜きにして悟りはあり得ない、ということです。エネルギーを軽視している人は最初からエネルギッシュでパワーに溢れているからこそ理屈が重要と言っていたり、あるいは、言わないだけで途中でエネルギーに溢れる瞬間があったりして、それをエネルギーと言わずに知識に溢れる、あるいは、知識が起こる、みたいに言っているだけのことで、側から見たら同じことなわけです。少なくとも自分にはそう見えます。
エネルギーと言わずに「愛」という場合もありますけど、同じことかなと思います。エネルギーというと「他人に影響、他人を操作するエゴの力」というニュアンスが入る可能性がありますのでそれが嫌な場合は愛と言った方が意味が歪められずに伝わるのかもしれませんけど、純粋なエネルギーという意味であれば同じことです。
言い方は色々とあれど理屈とエネルギーのお話は両輪で、個人的に思うのは、理屈が先行することもあればエネルギーが先行することもありますけど、頭だけの理屈が先行したとしても実感としての理屈が先行することはなくて、頭だけの理屈が先行するかしないかはその時々ですけど、少なくともエネルギー的な高まりがあって初めて本当の実感を伴う理解が来るのだと思います。
言うなれば、理屈(任意)→エネルギー(必ず起こる)→実感(必ず起こる)、という順番ですかね。
理屈も時にはいいですけど、それより、エネルギーが高まればポジティブになって理屈も理解できるようになるわけです。
瞑想中に意識がなくならない
瞑想とは意識的に行うものですので瞑想中に意識がなくならない方が良いです。とは言いましてもこれは顕在意識で意図して行うものではありませんので、顕在意識の普通の心が「起きていなくてはならない」といくら念じてみてもあまり役には立たないもので、瞑想ができている状態が意識がなくならない状態だ、というだけのお話です。
ですから、目標として「意識が瞑想中になくならない」という状態の瞑想があったとしても、それに行き着くための手段がそのまま「意識がなくならないようにする」と直結しているわけではないのです。
ここに落とし穴があって、多くの流派では「意識がなくなってはダメだ」みたいな感じで強要して瞑想にて強制的に意識を起こすような手段を取っていますけど、残念なことではありますが個人的に思うのは、それは近道のようでいて実は遠回りなのではないか、あるいは、全く変わらないのではないか、と思うのです。
これは私の仮説でしかありませんので万人に通用するかどうかはわかりませんけど、強制的に意識を起こしたままにしようとしても普通はできません。
そうではなく、手段としては「リラックスする」という方法を取ることにより目標である「意識が起きたままにいる」「意識が瞑想中になくならない」に達することができるわけです。
一方、同じ目標に達するために「意識を起こしたままにしよう」とか「目を開けたままにする」とか色々な手法が考え出されていますけど、個人的に思うのは、それはなかなか大変なお話だと思うのです。
それよりは、意識がなくなるのであればそれはそれで良しとして、続けているうちに抗い難いエネルギーが自らの奥底から湧き上がってきて自然にそのように意識が目覚めた状態になりますから、そのようにエネルギー的な変化が起こる前に強制的に手法やら修行やらで自身の意思あるいは師匠の叱咤によって意識を目覚めさせようとしても、それは付け焼き刃でしかないのかなと、少し悲しい現実ではありますけど、そのように思うわけです。
それでは何が助けになるかというと、結局のところ単純なことで、自分の奥底に眠っているエネルギーと意識に頼るしかないわけです。その、自分の奥底にエネルギーというものが実は仏教などで言われている「他力」というもので、自分の中に眠っているけれどもそれは万人に繋がる「全体」としてのエネルギーのうちの自分に分けられた一部でありますから、それは自力でもあるし他力でもあるわけです。そのような自分の奥の意識に頼ってこそ瞑想が成長してゆくわけで、修行で強制的に意識を起こそうとしてもそれはそれほど役には立たないのではないかと思うわけです。
修行は、結局は自らが行うものであるわけで、それに適した手法というものも自分が知っていて、激しい修行も時には良いものかもしれませんけど、個人的には、意識の目覚めというものはリラックスして自然に起こるものかなと思っております。
そして、リラックスするには集中が必要です。何やら矛盾しているように聞こえるかもしれませんけど、まず集中してから歓喜に至り、それからリラックスするわけです。集中を基本としたリラックスの後に意識の目覚めがあります。最初は極度の集中から始まって、やがて自然にリラックスしたまま意識が鋭く冴えるようになります。
基本は自分自身の中にありますし、段階ごとに大切なものも違うわけです。
ですから、目標として「意識が瞑想中になくならない」という状態の瞑想があったとしても、それに行き着くための手段がそのまま「意識がなくならないようにする」と直結しているわけではないのです。
ここに落とし穴があって、多くの流派では「意識がなくなってはダメだ」みたいな感じで強要して瞑想にて強制的に意識を起こすような手段を取っていますけど、残念なことではありますが個人的に思うのは、それは近道のようでいて実は遠回りなのではないか、あるいは、全く変わらないのではないか、と思うのです。
これは私の仮説でしかありませんので万人に通用するかどうかはわかりませんけど、強制的に意識を起こしたままにしようとしても普通はできません。
そうではなく、手段としては「リラックスする」という方法を取ることにより目標である「意識が起きたままにいる」「意識が瞑想中になくならない」に達することができるわけです。
一方、同じ目標に達するために「意識を起こしたままにしよう」とか「目を開けたままにする」とか色々な手法が考え出されていますけど、個人的に思うのは、それはなかなか大変なお話だと思うのです。
それよりは、意識がなくなるのであればそれはそれで良しとして、続けているうちに抗い難いエネルギーが自らの奥底から湧き上がってきて自然にそのように意識が目覚めた状態になりますから、そのようにエネルギー的な変化が起こる前に強制的に手法やら修行やらで自身の意思あるいは師匠の叱咤によって意識を目覚めさせようとしても、それは付け焼き刃でしかないのかなと、少し悲しい現実ではありますけど、そのように思うわけです。
それでは何が助けになるかというと、結局のところ単純なことで、自分の奥底に眠っているエネルギーと意識に頼るしかないわけです。その、自分の奥底にエネルギーというものが実は仏教などで言われている「他力」というもので、自分の中に眠っているけれどもそれは万人に繋がる「全体」としてのエネルギーのうちの自分に分けられた一部でありますから、それは自力でもあるし他力でもあるわけです。そのような自分の奥の意識に頼ってこそ瞑想が成長してゆくわけで、修行で強制的に意識を起こそうとしてもそれはそれほど役には立たないのではないかと思うわけです。
修行は、結局は自らが行うものであるわけで、それに適した手法というものも自分が知っていて、激しい修行も時には良いものかもしれませんけど、個人的には、意識の目覚めというものはリラックスして自然に起こるものかなと思っております。
そして、リラックスするには集中が必要です。何やら矛盾しているように聞こえるかもしれませんけど、まず集中してから歓喜に至り、それからリラックスするわけです。集中を基本としたリラックスの後に意識の目覚めがあります。最初は極度の集中から始まって、やがて自然にリラックスしたまま意識が鋭く冴えるようになります。
基本は自分自身の中にありますし、段階ごとに大切なものも違うわけです。
集中もある程度瞑想に必要
語弊がありそうですので私自身はそれほどこの表現を今まで使ってきませんでしたが、これはサマーディ以降であれば正しいと言えます。
流派によっては集中瞑想を否定しているか、あるいは「ある程度は集中も必要」としていたりしますが、そう言えるのはサマーディ(三昧)以降のお話で、それ以前には集中しかないわけです。このお話は何度かしたと思います。
ですけど、流派によっては最初から「集中もある程度必要」とか「集中は不要」とか言われたりします。でも、瞑想を始めてすぐにそう言われても「なんのこっちゃ」となるのも当然かなと思います。
と、言いますのも、サマーディ以前の場合の観察というのは五感の観察のことですからサマーディ的な観察とは違うからです。五感の観察であればそれは単なる感覚の入力であって、瞑想を始めたばかりのころは観察は五感でしかないわけです。
ですから、五感の観察であれば誰にでもありますから、「集中もある程度必要」とかいわれても、なんのこっちゃ、となるわけです。
サマーディであれば努力は不要で観察し続けますから上記は正しいと言えますけど、それ以前の、特に瞑想初心者であれば努力と集中が必要なわけです。
ですけど、この基本がなかなか理解されにくくて、結局、集中することは必要なのかどうか、という堂々巡りのお話が瞑想者によって延々となされているのが現実だと思います。
答えはいつも言っていますけど集中が基本で、観察が付随してくる属性のようなものです。瞑想は集中と観察の両方から成り立っています。
悩ませる点として、「集中もある程度必要」と言っている流派があることです。
自分の流派だけを勉強して実践していればそういう悩みもないのかもしれないですけどこのご時世においてはいろいろな情報が入ってきますから悩んでしまったりするわけですね。
この、「集中はある程度は必要」というのは、サマーディ状態において集中をある程度保ったまま気付きを自動的に行う、という状態がそれに相当したりするのですけど、瞑想の流派によっては一番最初の段階で瞑想初心者に対して同じことを言いますから混乱してしまうわけです。同様のアドバイスは中級者以上のサマーディ状態であればそれは正しくて、私からしても、自分の状態を時々「集中はある程度必要だ」と自覚していたりしますので、この言葉はそのままサマーディ状態については正しいのですけど、瞑想初心者に向けた説明としては不適切なのかなと思うわけです。
また同様に、「集中は不要」というのもサマーディに慣れてくればそれもまた正しいと言えますけど、そうでなければ努力は必要ですよね。
瞑想初心者には集中しかないです。ある程度、みたいな曖昧な集中ではなくがっつりとした集中が特に最初は必要です。
かと言って、間違った集中をしてもいけないのですけどそれは個人的な指導で師匠などから教わるかあるいは失敗を繰り返して学んでゆくことで、ここで言葉で説明してもよくわからないでしょうから今は書きませんけど、確かに、失敗に導く集中というのもあるにはあります。
ですから、瞑想指導者から「集中もある程度必要」とか言われたからといって、割とスルーしておけばいいのかな、と個人的には思います。「ある程度」とか言っている時点で判断は瞑想実践者の方に委ねられているわけですし、あまり気にすることはないと思います。
そもそも、私が観察するところによると、そのように「集中もある程度必要」とか言っている瞑想手法はがっつり集中が必要なものだったりしますので、それを言葉上で「観察」と言っているだけだったりします。特に最初は瞑想は集中でしかありませんから、言葉で「観察」とか言ったとしても特に最初は観察になっていることはなくて集中ですから、観察と言ったところでサマーディ的な観察にはなっていないわけです。顕在意識の五感での観察ということであれば触覚や視覚などで観察することは常にしているわけですけれども、瞑想的な観察は五感のことではないですから、五感の観察をしていたとしても瞑想的な観察ではないわけです。
そのように説明をしている瞑想手法を分析してみますと、まず五感の入力をトリガーとしていてそれに反応する心の動きがあって、心の動きを観察するためにある程度の集中が必要です、みたいなお話になっているかと思います。ですけど、心の動きを観察、みたいなのは初心者にとって現実的ではなくて、顕在意識というのは1つしか心に描くことができませんから、実際には、観察ではなくて心の動きに集中する、ということになるわけです。観察というものがあるわけではなくて心の動きを操作する、あるいは、心が勝手に動いた時に「その後になるべく早く気づく」ということになるわけです。それは観察ということもできるのかもしれませんけど、心の動きを追いかけたり「実況中継」したりするような瞑想の仕方は結局は集中でしかないと思うわけです。顕在意識の心の観察は誰しも持っていますから、心の声を聞くことを観察と言っているのかもしれませんけど、それは観察というより心の声に集中することで実況中継や気づきを深める、という手法のように思います。それを観察という流派がいるのであればそれはそれでコンテキスト次第で成り立つとは思いますけど、そうした瞑想手法はサマーディの観察とは全く別物であるわけです。
と、こうして書いていてまた混乱をさせてしまったかもしれないですけど、要は、五感の観察を使った瞑想手法というものがあって、一方、サマーディの観察というものもあるわけで、瞑想で観察というとサマーディ的な観察がメインなわけで、とはいいましても、流派によっては五感の観察をもってして観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)と言っていたりするわけです。
ですから、瞑想のお話で「観察」と聞いた時、それが五感に関するものなのか、サマーディに関するものなのかコンテキストで見分ける必要があるわけです。
流派によっては集中瞑想を否定しているか、あるいは「ある程度は集中も必要」としていたりしますが、そう言えるのはサマーディ(三昧)以降のお話で、それ以前には集中しかないわけです。このお話は何度かしたと思います。
ですけど、流派によっては最初から「集中もある程度必要」とか「集中は不要」とか言われたりします。でも、瞑想を始めてすぐにそう言われても「なんのこっちゃ」となるのも当然かなと思います。
と、言いますのも、サマーディ以前の場合の観察というのは五感の観察のことですからサマーディ的な観察とは違うからです。五感の観察であればそれは単なる感覚の入力であって、瞑想を始めたばかりのころは観察は五感でしかないわけです。
ですから、五感の観察であれば誰にでもありますから、「集中もある程度必要」とかいわれても、なんのこっちゃ、となるわけです。
サマーディであれば努力は不要で観察し続けますから上記は正しいと言えますけど、それ以前の、特に瞑想初心者であれば努力と集中が必要なわけです。
ですけど、この基本がなかなか理解されにくくて、結局、集中することは必要なのかどうか、という堂々巡りのお話が瞑想者によって延々となされているのが現実だと思います。
答えはいつも言っていますけど集中が基本で、観察が付随してくる属性のようなものです。瞑想は集中と観察の両方から成り立っています。
悩ませる点として、「集中もある程度必要」と言っている流派があることです。
自分の流派だけを勉強して実践していればそういう悩みもないのかもしれないですけどこのご時世においてはいろいろな情報が入ってきますから悩んでしまったりするわけですね。
この、「集中はある程度は必要」というのは、サマーディ状態において集中をある程度保ったまま気付きを自動的に行う、という状態がそれに相当したりするのですけど、瞑想の流派によっては一番最初の段階で瞑想初心者に対して同じことを言いますから混乱してしまうわけです。同様のアドバイスは中級者以上のサマーディ状態であればそれは正しくて、私からしても、自分の状態を時々「集中はある程度必要だ」と自覚していたりしますので、この言葉はそのままサマーディ状態については正しいのですけど、瞑想初心者に向けた説明としては不適切なのかなと思うわけです。
また同様に、「集中は不要」というのもサマーディに慣れてくればそれもまた正しいと言えますけど、そうでなければ努力は必要ですよね。
瞑想初心者には集中しかないです。ある程度、みたいな曖昧な集中ではなくがっつりとした集中が特に最初は必要です。
かと言って、間違った集中をしてもいけないのですけどそれは個人的な指導で師匠などから教わるかあるいは失敗を繰り返して学んでゆくことで、ここで言葉で説明してもよくわからないでしょうから今は書きませんけど、確かに、失敗に導く集中というのもあるにはあります。
ですから、瞑想指導者から「集中もある程度必要」とか言われたからといって、割とスルーしておけばいいのかな、と個人的には思います。「ある程度」とか言っている時点で判断は瞑想実践者の方に委ねられているわけですし、あまり気にすることはないと思います。
そもそも、私が観察するところによると、そのように「集中もある程度必要」とか言っている瞑想手法はがっつり集中が必要なものだったりしますので、それを言葉上で「観察」と言っているだけだったりします。特に最初は瞑想は集中でしかありませんから、言葉で「観察」とか言ったとしても特に最初は観察になっていることはなくて集中ですから、観察と言ったところでサマーディ的な観察にはなっていないわけです。顕在意識の五感での観察ということであれば触覚や視覚などで観察することは常にしているわけですけれども、瞑想的な観察は五感のことではないですから、五感の観察をしていたとしても瞑想的な観察ではないわけです。
そのように説明をしている瞑想手法を分析してみますと、まず五感の入力をトリガーとしていてそれに反応する心の動きがあって、心の動きを観察するためにある程度の集中が必要です、みたいなお話になっているかと思います。ですけど、心の動きを観察、みたいなのは初心者にとって現実的ではなくて、顕在意識というのは1つしか心に描くことができませんから、実際には、観察ではなくて心の動きに集中する、ということになるわけです。観察というものがあるわけではなくて心の動きを操作する、あるいは、心が勝手に動いた時に「その後になるべく早く気づく」ということになるわけです。それは観察ということもできるのかもしれませんけど、心の動きを追いかけたり「実況中継」したりするような瞑想の仕方は結局は集中でしかないと思うわけです。顕在意識の心の観察は誰しも持っていますから、心の声を聞くことを観察と言っているのかもしれませんけど、それは観察というより心の声に集中することで実況中継や気づきを深める、という手法のように思います。それを観察という流派がいるのであればそれはそれでコンテキスト次第で成り立つとは思いますけど、そうした瞑想手法はサマーディの観察とは全く別物であるわけです。
と、こうして書いていてまた混乱をさせてしまったかもしれないですけど、要は、五感の観察を使った瞑想手法というものがあって、一方、サマーディの観察というものもあるわけで、瞑想で観察というとサマーディ的な観察がメインなわけで、とはいいましても、流派によっては五感の観察をもってして観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)と言っていたりするわけです。
ですから、瞑想のお話で「観察」と聞いた時、それが五感に関するものなのか、サマーディに関するものなのかコンテキストで見分ける必要があるわけです。
人生を楽しむことは瞑想に必要か
よくスピリチュアルでは「人生を楽しみましょう」みたいなことを言いますけど、それは実際のところ瞑想にどのように役に立つかと言いますと、サマーディ以前であれば混乱の元で欲望の元で俗世に縛り付けるための鎖のようなものですが、サマーディがそれなりに確固になった後であればそれは良い人生の経験となり、文字通り楽しむことができるようになります。
スピリチュアルを誤解している人は人生を楽しむための言い訳としてそのようなことを言いますけど、スピリチュアル初心者であれば大抵の場合は単なる言い訳でしかないわけです。もちろん、それなりにスピリチュアルな成長ができている人であれば人生を楽しむということは素晴らしいことになりますけど、人生を楽しむつもりがその楽しみに執着したりして欲望を肥大させるのだとしたらその楽しみは慎むべきものであるわけです。
楽しみにもいろいろあって、人の心を穏やかにさせる楽しみ(サットヴァな楽しみ)と活動的にさせる楽しみ(ラジャスな楽しみ)と落ち込ませるような楽しみ(タマスな楽しみ)とがあって、サットヴァであればそれなりに有益ですけどラジャスやタマスの場合は執着と欲望を肥大させることになりかねません。
実際にはこのあたりは、タマスで落ち込んでいる人はラジャスの活動的な生活をまず目指して、ラジャスな人はサットヴァな落ち着いた生活を目指すという順番にはなるのですけど、ここで言っている、人生を楽しむことができる、というのはサットヴァをも超えたサマーディの状態における楽しみのお話ですので、3つのグナ(サットヴァ、ラジャス、タマス)の楽しみのお話ではないのですよね。
サマーディ状態においては基本的にはありのままの状態を楽しみますけど、それほどサマーディが強くない状態においてはサットヴァの楽しみを意図的に行うことで人生を楽しみます。そして、たまにラジャスやタマスの楽しみを意図的に行うことで修行の一環にします。
サマーディ以前の場合の楽しみは渇望によって突き動かされる衝動的なもので、それはサットヴァだろうとラジャスだろうとタマスだろうと基本的には同じで、衝動的に行う本能による欲望による楽しみがサマーディ以前ですけど、サマーディ以降の場合は意図的に行うようになります。サマーディ以降であればもともと大して渇望とかはないのですけど、思考や理由、あるいは環境などにより意図的に何かを行うことを選び、そして意図的に行った行動の結果として楽しみます。実際のところ、行動そのものを楽しみますので結果はどちらでもよく、うまくいってもいかなくてもありのままを楽しむわけです。
サマーディ以前の渇望の場合は何か明確なゴールがあってそれに突き進みますから、失敗すると落ち込んだり自己嫌悪に陥ったり再度挑戦するような新たな渇望になったりしますけど、サマーディ以降であればなんであれありのままに受け入れますので、成功するにしても失敗するにしてもそのままを理解するだけになります。実際にはサマーディ状態では完全なる失敗というのはなくて、単に期待していた結果にならなかったというだけのことで、それすらも学びにしてしまえるわけです。サマーディ状態では新たな渇望というものは生み出さず、自らの行った結果を楽しくも淡々としたエネルギーに溢れた状態で受け入れるわけです。
このようなサマーディ状態が人生を楽しむということであって、スピリチュアルでそう言っているからと言って自らの欲望を自己正当化することではないわけです。実際のところ、自分の欲望を正当化するための言い訳としてスピリチュアルのお話を持ち出すスピリチュアル初心者もそれなりにいて、実際のところそれはそう悪いことではなくて、初心者にありがちな罠で、割と誰しもが陥るお話ですからそれほど悪者扱いする必要はなくて、それを超えて次の理解に達すればいいわけです。
スピリチュアルを誤解している人は人生を楽しむための言い訳としてそのようなことを言いますけど、スピリチュアル初心者であれば大抵の場合は単なる言い訳でしかないわけです。もちろん、それなりにスピリチュアルな成長ができている人であれば人生を楽しむということは素晴らしいことになりますけど、人生を楽しむつもりがその楽しみに執着したりして欲望を肥大させるのだとしたらその楽しみは慎むべきものであるわけです。
楽しみにもいろいろあって、人の心を穏やかにさせる楽しみ(サットヴァな楽しみ)と活動的にさせる楽しみ(ラジャスな楽しみ)と落ち込ませるような楽しみ(タマスな楽しみ)とがあって、サットヴァであればそれなりに有益ですけどラジャスやタマスの場合は執着と欲望を肥大させることになりかねません。
実際にはこのあたりは、タマスで落ち込んでいる人はラジャスの活動的な生活をまず目指して、ラジャスな人はサットヴァな落ち着いた生活を目指すという順番にはなるのですけど、ここで言っている、人生を楽しむことができる、というのはサットヴァをも超えたサマーディの状態における楽しみのお話ですので、3つのグナ(サットヴァ、ラジャス、タマス)の楽しみのお話ではないのですよね。
サマーディ状態においては基本的にはありのままの状態を楽しみますけど、それほどサマーディが強くない状態においてはサットヴァの楽しみを意図的に行うことで人生を楽しみます。そして、たまにラジャスやタマスの楽しみを意図的に行うことで修行の一環にします。
サマーディ以前の場合の楽しみは渇望によって突き動かされる衝動的なもので、それはサットヴァだろうとラジャスだろうとタマスだろうと基本的には同じで、衝動的に行う本能による欲望による楽しみがサマーディ以前ですけど、サマーディ以降の場合は意図的に行うようになります。サマーディ以降であればもともと大して渇望とかはないのですけど、思考や理由、あるいは環境などにより意図的に何かを行うことを選び、そして意図的に行った行動の結果として楽しみます。実際のところ、行動そのものを楽しみますので結果はどちらでもよく、うまくいってもいかなくてもありのままを楽しむわけです。
サマーディ以前の渇望の場合は何か明確なゴールがあってそれに突き進みますから、失敗すると落ち込んだり自己嫌悪に陥ったり再度挑戦するような新たな渇望になったりしますけど、サマーディ以降であればなんであれありのままに受け入れますので、成功するにしても失敗するにしてもそのままを理解するだけになります。実際にはサマーディ状態では完全なる失敗というのはなくて、単に期待していた結果にならなかったというだけのことで、それすらも学びにしてしまえるわけです。サマーディ状態では新たな渇望というものは生み出さず、自らの行った結果を楽しくも淡々としたエネルギーに溢れた状態で受け入れるわけです。
このようなサマーディ状態が人生を楽しむということであって、スピリチュアルでそう言っているからと言って自らの欲望を自己正当化することではないわけです。実際のところ、自分の欲望を正当化するための言い訳としてスピリチュアルのお話を持ち出すスピリチュアル初心者もそれなりにいて、実際のところそれはそう悪いことではなくて、初心者にありがちな罠で、割と誰しもが陥るお話ですからそれほど悪者扱いする必要はなくて、それを超えて次の理解に達すればいいわけです。
スピリチュアルで現状を肯定してしまう罠
よくあるお話ですけど、自分の欲望を正当化して現状を肯定するためにスピリチュアルを持ち出す人がある一定数いて、そのような方々がスピリチュアルの評判を地に落としています。こういうこと言うと一定数の方々から反感を買って、「そんな否定的なものはスピリチュアルではない」とか攻撃してきたりしますけど、この辺りはよく陥りがちなスピリチュアルの落とし穴なのですよね。
全肯定と言うお話はもうちょっと深いところのお話で、チベット式で説明するならば「もともとの始まりから清らか」と言う属性と「自然な状態においてあるがままで完成している」(「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」より)と言うことであるわけです。ですから、人間の欲望とは本来はほとんど関係ないお話なのですよね。
本来的に清らかであるがままで完成している、というお話は全てのこの世界のありよう全てについて当てはまりますから、地獄であっても天国であっても等しくそうであるわけです。
ですから、人間が自らの欲望を肯定しようが否定しようが関係なくこの世は全て本来的に清らかであるがままで完成している、と言うお話なのです。ですから、スピリチュアルを持ち出して全肯定しようがあるいは全くスピリチュアルのことを知らずとも関係なく等しく全てのこの世界のありようは本来的に清らかであるがままで完成しているわけです。
スピリチュアルで何でも正しくて全肯定と言うのは良くなるのも悪くなるのも全て個人の自由と言うお話で、欲望に生きることを正当化したからと言っても良くなるどころか真実を更なるヴェールで覆い隠してしまってますます混迷化するだけなのですよね。
この世は、そのように暗黒に包まれようが、あるいは光明に包まれようが関わりなく全てはありのままで完璧、ということであって、人間がどう思おうが自己正当化しようがしまいが関係ないわけなのですよね。
じゃあ、欲望あるいは自分が悪くなることをしているのを自己正当化するのならそれはただの欲望の権化でしかないわけですけど、スピリチュアルな人の中には自分の欲望を正当化するためにスピリチュアルの全肯定の理屈を持ち出す人が一定数いて、ですけど、それは正当化ではなくて、単に、良いも悪いも全ては本来的に清らかであるがままで完成している、と言うお話でありますから、正当化しようがしまいが現実は変わらないわけです。現実はというと欲望を追求しているだけですので、それ故にスピリチュアルの評判を落としているわけです。
こう言う間違ったスピリチュアルを信じている人は、結局のところ「自分を全て肯定してくれる人」「自分を全て受け入れてくれる人」「自分を全て理解してくれる人」を外に求めているわけで、何か一つでも「自分のことが分かっていない」と思われる節があれば「この人は違う!」と思って離れてゆくわけです。
教祖様になるためには全肯定して「いいよいいよ。あなたはそのままで完璧です」と言っていればいいわけですけど、そんな浅はかなスピリチュアルはそろそろ卒業した方がいいと思います。
本来的に清らかであるがままで完成しているとしても、人間の認識において現実が地獄と感じたり天国と感じたり、という違いが生じるわけです。ですから修行が必要になるわけで。
何も修行や努力もしないで自分の現状の肯定だけを求めて、自分を受け入れてくれる場所や人を求めるようなスピリチュアルが一定数あって、それは外に安らぎを求めるスピリチュアルですので、時にそういう場所が見つかったとしても、結局は何かに裏切られた感じを受けて離れていってしまったりするわけです。
一方、スピリチュアルとは自分の中にあるもので、安らぎや天国は自らの中にあるとわかれば他人に自分を受け入れてもらおうとかいう努力は消えてなくなります。
結局、スピリチュアルで何を求めるか、というゴールが大切な気が致します。
ただ単に「楽」になりたいという個人的な欲求が目標であればスピリチュアルもその程度のもので、そのゴールとして自己正当化と言うところに行き着くかもしれません。
一方、自分が変わることによってこの世を天国のようにしてしまおう、この世が天国と感じられる心持ちになりたい、と願って目標を立てるならば他人に自己を正当化してもらおうとして依存するのではなくて、自分の内側に天国を見出そうとするでしょう。
確かに、良いも悪いも全ては本来的に清らかであるがままで完成していても、そう言われてもあなたの現実はすぐには変わりませんし、穏やかな心の人はそのまま穏やかですし、いつも怒っている人は変わらずそのまま怒りっぽいままでしょう。真理とは、そのような多様な感情も含めて全てのありようがありのままで完成している、と言うことであって、悟っていてもいなくてもこの点は変わらなくて、それでは悟りとは何かというと、直接的にその真実を見出して「その通りだ」と思えるかどうか、と言うところに悟っているかどうかの違いがあるわけです。
悟っていなければ真実を見出しておらず混迷に包まれています。悟るというのは単に真実を見出すだけだということもできますし、心持ちが天国になる、ということもできます。それは自分の欲望を自己正当化するのとは天と地ほどの違いがあるわけです。
ここで悟る、と言っていますけど悟りにも段階があって流派によって解釈も違いますけど、ここではいわゆるサマーディ状態を基準にしています。
サマーディ以前であれば欲望を自己正当化しても虚しいだけですけど、サマーディ以降であれば先日のお話とも少し関連してきますけど、意図的に楽しんでみる、ということもあるにはあります。ただ、周囲から見たら違いはほとんどわからないかもしれませんけど。サマーディに達していて意図的に楽しんでみた時に周囲から欲望とみなされて非難されたとしたら同じように自己正当化するかもしれず、サマーディにまで達した人がする自己正当化はそれなりに正当性があるように私には思えます。ですけどサマーディ以前であれば欲望は欲望でしかなくて、サマーディ以前であれば欲望はなるべく抑えられるべきものであるわけです。
自分が自己を肯定しようがしまいが、誰かがあなたを肯定しようがしまいが、それに関わらず常に完璧ということです。誰かが自己を肯定しようが関係なく、常にありのままで完璧なわけです。ですから、スピリチュアルで自己を肯定するというのは必須事項ではありません。それは常に当然の如くありのままで完璧ですので自分が肯定するときにだけありのままで完璧なわけではないのです。誰が何をしようが常に完璧なわけです。
自由は自由なのですけど、真実を知れば知るほど行動が割と同じ方向に導かれるのも事実です。例えば、スピリチュアルを勉強する前は「人は個人」であって分離された存在だと思っていたものが実際は繋がっていて同じで、更に言えば「全てのは自分」だということがわかると他人に対してぞんざいな態度は取らなくなりますよね。ですから、自由だからと言って何でもしていいとはなりませんし、同様に、何をしようが完璧だからと言って何をしてもいいとはならないわけです。自分を肯定して何をしてもいいと思い込むのはスピリチュアル初心者だけで、自由と言えばそうなのですけど実際にはそこには真実を識別する力が必要なわけで、真実を知らなければ自由ということの意味もよくわからなかったりするわけです。
全肯定と言うお話はもうちょっと深いところのお話で、チベット式で説明するならば「もともとの始まりから清らか」と言う属性と「自然な状態においてあるがままで完成している」(「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」より)と言うことであるわけです。ですから、人間の欲望とは本来はほとんど関係ないお話なのですよね。
本来的に清らかであるがままで完成している、というお話は全てのこの世界のありよう全てについて当てはまりますから、地獄であっても天国であっても等しくそうであるわけです。
ですから、人間が自らの欲望を肯定しようが否定しようが関係なくこの世は全て本来的に清らかであるがままで完成している、と言うお話なのです。ですから、スピリチュアルを持ち出して全肯定しようがあるいは全くスピリチュアルのことを知らずとも関係なく等しく全てのこの世界のありようは本来的に清らかであるがままで完成しているわけです。
スピリチュアルで何でも正しくて全肯定と言うのは良くなるのも悪くなるのも全て個人の自由と言うお話で、欲望に生きることを正当化したからと言っても良くなるどころか真実を更なるヴェールで覆い隠してしまってますます混迷化するだけなのですよね。
この世は、そのように暗黒に包まれようが、あるいは光明に包まれようが関わりなく全てはありのままで完璧、ということであって、人間がどう思おうが自己正当化しようがしまいが関係ないわけなのですよね。
じゃあ、欲望あるいは自分が悪くなることをしているのを自己正当化するのならそれはただの欲望の権化でしかないわけですけど、スピリチュアルな人の中には自分の欲望を正当化するためにスピリチュアルの全肯定の理屈を持ち出す人が一定数いて、ですけど、それは正当化ではなくて、単に、良いも悪いも全ては本来的に清らかであるがままで完成している、と言うお話でありますから、正当化しようがしまいが現実は変わらないわけです。現実はというと欲望を追求しているだけですので、それ故にスピリチュアルの評判を落としているわけです。
こう言う間違ったスピリチュアルを信じている人は、結局のところ「自分を全て肯定してくれる人」「自分を全て受け入れてくれる人」「自分を全て理解してくれる人」を外に求めているわけで、何か一つでも「自分のことが分かっていない」と思われる節があれば「この人は違う!」と思って離れてゆくわけです。
教祖様になるためには全肯定して「いいよいいよ。あなたはそのままで完璧です」と言っていればいいわけですけど、そんな浅はかなスピリチュアルはそろそろ卒業した方がいいと思います。
本来的に清らかであるがままで完成しているとしても、人間の認識において現実が地獄と感じたり天国と感じたり、という違いが生じるわけです。ですから修行が必要になるわけで。
何も修行や努力もしないで自分の現状の肯定だけを求めて、自分を受け入れてくれる場所や人を求めるようなスピリチュアルが一定数あって、それは外に安らぎを求めるスピリチュアルですので、時にそういう場所が見つかったとしても、結局は何かに裏切られた感じを受けて離れていってしまったりするわけです。
一方、スピリチュアルとは自分の中にあるもので、安らぎや天国は自らの中にあるとわかれば他人に自分を受け入れてもらおうとかいう努力は消えてなくなります。
結局、スピリチュアルで何を求めるか、というゴールが大切な気が致します。
ただ単に「楽」になりたいという個人的な欲求が目標であればスピリチュアルもその程度のもので、そのゴールとして自己正当化と言うところに行き着くかもしれません。
一方、自分が変わることによってこの世を天国のようにしてしまおう、この世が天国と感じられる心持ちになりたい、と願って目標を立てるならば他人に自己を正当化してもらおうとして依存するのではなくて、自分の内側に天国を見出そうとするでしょう。
確かに、良いも悪いも全ては本来的に清らかであるがままで完成していても、そう言われてもあなたの現実はすぐには変わりませんし、穏やかな心の人はそのまま穏やかですし、いつも怒っている人は変わらずそのまま怒りっぽいままでしょう。真理とは、そのような多様な感情も含めて全てのありようがありのままで完成している、と言うことであって、悟っていてもいなくてもこの点は変わらなくて、それでは悟りとは何かというと、直接的にその真実を見出して「その通りだ」と思えるかどうか、と言うところに悟っているかどうかの違いがあるわけです。
悟っていなければ真実を見出しておらず混迷に包まれています。悟るというのは単に真実を見出すだけだということもできますし、心持ちが天国になる、ということもできます。それは自分の欲望を自己正当化するのとは天と地ほどの違いがあるわけです。
ここで悟る、と言っていますけど悟りにも段階があって流派によって解釈も違いますけど、ここではいわゆるサマーディ状態を基準にしています。
サマーディ以前であれば欲望を自己正当化しても虚しいだけですけど、サマーディ以降であれば先日のお話とも少し関連してきますけど、意図的に楽しんでみる、ということもあるにはあります。ただ、周囲から見たら違いはほとんどわからないかもしれませんけど。サマーディに達していて意図的に楽しんでみた時に周囲から欲望とみなされて非難されたとしたら同じように自己正当化するかもしれず、サマーディにまで達した人がする自己正当化はそれなりに正当性があるように私には思えます。ですけどサマーディ以前であれば欲望は欲望でしかなくて、サマーディ以前であれば欲望はなるべく抑えられるべきものであるわけです。
自分が自己を肯定しようがしまいが、誰かがあなたを肯定しようがしまいが、それに関わらず常に完璧ということです。誰かが自己を肯定しようが関係なく、常にありのままで完璧なわけです。ですから、スピリチュアルで自己を肯定するというのは必須事項ではありません。それは常に当然の如くありのままで完璧ですので自分が肯定するときにだけありのままで完璧なわけではないのです。誰が何をしようが常に完璧なわけです。
自由は自由なのですけど、真実を知れば知るほど行動が割と同じ方向に導かれるのも事実です。例えば、スピリチュアルを勉強する前は「人は個人」であって分離された存在だと思っていたものが実際は繋がっていて同じで、更に言えば「全てのは自分」だということがわかると他人に対してぞんざいな態度は取らなくなりますよね。ですから、自由だからと言って何でもしていいとはなりませんし、同様に、何をしようが完璧だからと言って何をしてもいいとはならないわけです。自分を肯定して何をしてもいいと思い込むのはスピリチュアル初心者だけで、自由と言えばそうなのですけど実際にはそこには真実を識別する力が必要なわけで、真実を知らなければ自由ということの意味もよくわからなかったりするわけです。
アストラルのサマーディからカラーナ(コーザル)の次元のサマーディへ
サマーディ(三昧)はヨーガ大家の本山博先生によればアストラルの次元とカラーナ(コーザル、原因)の次元とプルシャ(神霊)の次元とでそれぞれ異なるとのことです。
ヨーガでいうとサマーディとは単なる合一で、ヨーガ・スートラで述べられているように集中・瞑想・サマーディ(三昧)とありますけど、本山博先生によれば、アストラルの次元とカラーナの次元、そしてプルシャの次元でそれぞれサマーディが起きて成長してゆくので、細かく見れば3x3の階梯があるとのことなのです。この視点がないと、アストラルの次元でサマーディが起きたからと言ってゴールに達した、みたいな勘違いが生まれたりもするようです。
そして、アストラルのサマーディの場合は時空にまだ制限されていて、それなりに時空を越えることもできるけれども基本的は制限されていて、全体はわからない場合が多いとのことです。
これは、私の今の状態に一致するように思います。
これを超えてカラーナ(コーザル、原因)の次元になると「心が物理的次元の肉体や、アストラル次元の感情、想像の束縛を離れて自由となり、物事をそのままにみられるようになる」(本山博著作集8より)とのことです。
となれば、私は最近になってようやく時々この境地に達することができていて、特にサハスララにオーラが充満した時の瞑想中にこのような状態になって理知的な働きのみが動く状態になるように思います。それは主に瞑想中にだけ起きていて、普段はアストラルの次元のサマーディで生活しているように思いますけど、カラーナの次元のサマーディは瞑想中にのみ達することができているようです。
これをも超えて「プルシャとの合一としてのサマーディ」の段階があると本山博先生はおっしゃっていて、その段階になると物事が現れる前の状態がわかるようになると言い、それは言葉としては現れる前の状態とはいうものの、実際には、各種の未来の可能性や過去の出来事も含めて同時に全てがわかるようになるとのことです。
サマーディによって現れてくる状態はこれだけではないですけど、これらのヒントを元に自分の状態を当てはめてみると、どうやら私はアストラル次元のサマーディに普段生きていて瞑想中に時々カラーナの次元に到達できているようです。
ただ、この文脈的にはプルシャの次元は一度も垣間見たことがない気も致しますが、別の記述を見ますとプルシャの次元に該当する気もして、ちょっと微妙な感じでもあります。このような流派独自の表現についてはその流派の方に聞くのが一番いいのかもしれませんけど、本を読む限りはちょっと謎が残ります。
ヨーガでいうとサマーディとは単なる合一で、ヨーガ・スートラで述べられているように集中・瞑想・サマーディ(三昧)とありますけど、本山博先生によれば、アストラルの次元とカラーナの次元、そしてプルシャの次元でそれぞれサマーディが起きて成長してゆくので、細かく見れば3x3の階梯があるとのことなのです。この視点がないと、アストラルの次元でサマーディが起きたからと言ってゴールに達した、みたいな勘違いが生まれたりもするようです。
そして、アストラルのサマーディの場合は時空にまだ制限されていて、それなりに時空を越えることもできるけれども基本的は制限されていて、全体はわからない場合が多いとのことです。
これは、私の今の状態に一致するように思います。
これを超えてカラーナ(コーザル、原因)の次元になると「心が物理的次元の肉体や、アストラル次元の感情、想像の束縛を離れて自由となり、物事をそのままにみられるようになる」(本山博著作集8より)とのことです。
となれば、私は最近になってようやく時々この境地に達することができていて、特にサハスララにオーラが充満した時の瞑想中にこのような状態になって理知的な働きのみが動く状態になるように思います。それは主に瞑想中にだけ起きていて、普段はアストラルの次元のサマーディで生活しているように思いますけど、カラーナの次元のサマーディは瞑想中にのみ達することができているようです。
これをも超えて「プルシャとの合一としてのサマーディ」の段階があると本山博先生はおっしゃっていて、その段階になると物事が現れる前の状態がわかるようになると言い、それは言葉としては現れる前の状態とはいうものの、実際には、各種の未来の可能性や過去の出来事も含めて同時に全てがわかるようになるとのことです。
サマーディによって現れてくる状態はこれだけではないですけど、これらのヒントを元に自分の状態を当てはめてみると、どうやら私はアストラル次元のサマーディに普段生きていて瞑想中に時々カラーナの次元に到達できているようです。
ただ、この文脈的にはプルシャの次元は一度も垣間見たことがない気も致しますが、別の記述を見ますとプルシャの次元に該当する気もして、ちょっと微妙な感じでもあります。このような流派独自の表現についてはその流派の方に聞くのが一番いいのかもしれませんけど、本を読む限りはちょっと謎が残ります。
ゾーンで歓喜に入り能力を高める
瞑想の1つの目的として、ゾーンに入って能力を高める、というものがあります。ゾーンは意図せずして不意に入ることもありますが、意図的にゾーンに入ることができて、そのためには瞑想がよい方法ですので、ゾーンのためにアスリートあるいは職人はたまたビジネスマンや技術者が瞑想を行うことがあります。ですけど、この場合は瞑想は現世利益のための手段になってしまっているわけです。
この世界は完全に自由ですから誰かがそのように現世利益を追い求めてもそれすらも自由なのですけど、瞑想で解脱あるいは悟りを求めている人からしたらそのような能力的なお話は付随物で、悟りへの道の途中に出てくる副産物にすぎないわけです。とは言いましても現実にはマインドフルネス瞑想のようなもので現世利益をうたった瞑想が山のようにありますから、本来は途中の過程でしかないゾーンやあるいはリラックス、はたまた歓喜というものが最終結果として瞑想が理解されているのが現状かなと思います。
そうは言いましても、自分が気が付いていないだけで悟りを求めていた、という場合もあるでしょうし、顕在意識が現世利益を求めていたとしてもそう悪いことではないように私などは思ったりします。ですけど、現実問題、悟りを求めている方々は現世利益のために瞑想をしている人たちを苦々しく思っていたりする方もいるのも事実です。
このゾーンという領域は非常に微妙な段階で、悟りを求めている方ですらこの段階に留まってしまうことが多いように思います。ゾーンに入ることができて「楽」になったとか「歓喜」はたまた「リラックス」という状態で満足し、自分が既に目的を達成したと思い込んでいる人が意外に多いものです。とは言いましても、しばらくすれば自分が途中にいるだけでしかないことに気がつくでしょうし、基本は放っておけばいいのですけど、そうは言いましても、それほどのレベルの境地に達していない人が勘違いしている状況はめんどくさく感じることもあります。
「楽」だとか「歓喜」などがあって、ある程度のリラックスもできて、という状態になると一時的な快楽のようなものが瞑想や修行において感じられて、他人に対しても周囲の人は自分より劣っているかのような印象を受けがちなわけです。周囲の人が全て悟っているように思っていないのだとしたらこの段階にいるわけです。この次の段階とかになりますと周囲の人全てが悟っているかのように思えてきますけど、この「楽」とかの段階にいますと、周囲の人より自分の方が進んでいて自分がちょっと特別で他の人はまだ私の境地に達していないように感じてしまうものなのです。これは、そう感じてしまうのが仕方がないことですので、グルがそのように教えてあげて、そのように優越感を感じてしまうのならばそれはこの「楽」だとかそのあたりの段階にいるのだから、それは仕方がないので、そう思っていても他の人に対して自分の思いをそのまま伝えて「あなたはまだまだた」とかいうことを言わないようにしなさい、と指導すべきなのです。
この段階はそれなりのスピリチュアルの成長であることは確かで、それなりに経験を積み始めたのは確かですけど、それでも、まだまだな段階なわけです。
この段階では、最初こそ「自分は達成した」と思っているでしょうけど、そのうち「おかしいな。これで達成なのだろうか。何かまだやるべきことが残っているのではないだろうか」と疑問が出るようになります。そうしたら探求するかあるいは詳しい師匠に尋ねてみるのも良いかもしれませんけど、この段階の学習者・弟子というのは優越意識があって面倒で、グル・師匠もあまり相手にしたくないかもしれません。ですから、できるならばこれより前の段階で師匠をつけて、この段階に来たときに「あなたはまだまだなんだよ」と言ってもらえる師匠がいるとよいとは思いますけど、「師匠を見つけることができるのは幸運である」と言われているように、そうそう師匠は見つからないと思います。
だいたいアナハタ優勢になった頃から周囲が全員悟っているかのように思えてきて、その実感は少しずつ深まってゆくのですけど、それ以前は割と「自分が最高」、みたいな感覚から抜けきれていなかったように思います。ですから、アナハタ以前であれば気をつけるしかないように思います。
ゾーンで歓喜とか集中力が高まって能力が高まる、みたいなお話はそれ以前でも全然起こりますので、あまり勘違いしないことですね。
目的がゾーン状態で能力を高めることであればこのあたりのお話は関係なくて、単に集中を高めていけばゾーンに入れますから、それは好きにすればいいのかな、とも思います。
この世界は完全に自由ですから誰かがそのように現世利益を追い求めてもそれすらも自由なのですけど、瞑想で解脱あるいは悟りを求めている人からしたらそのような能力的なお話は付随物で、悟りへの道の途中に出てくる副産物にすぎないわけです。とは言いましても現実にはマインドフルネス瞑想のようなもので現世利益をうたった瞑想が山のようにありますから、本来は途中の過程でしかないゾーンやあるいはリラックス、はたまた歓喜というものが最終結果として瞑想が理解されているのが現状かなと思います。
そうは言いましても、自分が気が付いていないだけで悟りを求めていた、という場合もあるでしょうし、顕在意識が現世利益を求めていたとしてもそう悪いことではないように私などは思ったりします。ですけど、現実問題、悟りを求めている方々は現世利益のために瞑想をしている人たちを苦々しく思っていたりする方もいるのも事実です。
このゾーンという領域は非常に微妙な段階で、悟りを求めている方ですらこの段階に留まってしまうことが多いように思います。ゾーンに入ることができて「楽」になったとか「歓喜」はたまた「リラックス」という状態で満足し、自分が既に目的を達成したと思い込んでいる人が意外に多いものです。とは言いましても、しばらくすれば自分が途中にいるだけでしかないことに気がつくでしょうし、基本は放っておけばいいのですけど、そうは言いましても、それほどのレベルの境地に達していない人が勘違いしている状況はめんどくさく感じることもあります。
「楽」だとか「歓喜」などがあって、ある程度のリラックスもできて、という状態になると一時的な快楽のようなものが瞑想や修行において感じられて、他人に対しても周囲の人は自分より劣っているかのような印象を受けがちなわけです。周囲の人が全て悟っているように思っていないのだとしたらこの段階にいるわけです。この次の段階とかになりますと周囲の人全てが悟っているかのように思えてきますけど、この「楽」とかの段階にいますと、周囲の人より自分の方が進んでいて自分がちょっと特別で他の人はまだ私の境地に達していないように感じてしまうものなのです。これは、そう感じてしまうのが仕方がないことですので、グルがそのように教えてあげて、そのように優越感を感じてしまうのならばそれはこの「楽」だとかそのあたりの段階にいるのだから、それは仕方がないので、そう思っていても他の人に対して自分の思いをそのまま伝えて「あなたはまだまだた」とかいうことを言わないようにしなさい、と指導すべきなのです。
この段階はそれなりのスピリチュアルの成長であることは確かで、それなりに経験を積み始めたのは確かですけど、それでも、まだまだな段階なわけです。
この段階では、最初こそ「自分は達成した」と思っているでしょうけど、そのうち「おかしいな。これで達成なのだろうか。何かまだやるべきことが残っているのではないだろうか」と疑問が出るようになります。そうしたら探求するかあるいは詳しい師匠に尋ねてみるのも良いかもしれませんけど、この段階の学習者・弟子というのは優越意識があって面倒で、グル・師匠もあまり相手にしたくないかもしれません。ですから、できるならばこれより前の段階で師匠をつけて、この段階に来たときに「あなたはまだまだなんだよ」と言ってもらえる師匠がいるとよいとは思いますけど、「師匠を見つけることができるのは幸運である」と言われているように、そうそう師匠は見つからないと思います。
だいたいアナハタ優勢になった頃から周囲が全員悟っているかのように思えてきて、その実感は少しずつ深まってゆくのですけど、それ以前は割と「自分が最高」、みたいな感覚から抜けきれていなかったように思います。ですから、アナハタ以前であれば気をつけるしかないように思います。
ゾーンで歓喜とか集中力が高まって能力が高まる、みたいなお話はそれ以前でも全然起こりますので、あまり勘違いしないことですね。
目的がゾーン状態で能力を高めることであればこのあたりのお話は関係なくて、単に集中を高めていけばゾーンに入れますから、それは好きにすればいいのかな、とも思います。
キリストの愛と仏陀の慈愛
仏陀が慈愛を何故説くのかについて本山博先生の著作で興味深い記述を発見しました。
お釈迦様は慈愛を説きます。キリストも愛を説いたわけですが、キリストも父親が本当の父親ではなくて、母親が、今流に言えば私生児を生んだわけで、どこかふた親の愛情が足りなかったのではないか、釈迦の場合もそうだと思うのです。愛情に飢えている人が説教をするようになると、愛を説いたり慈愛を説いたりするのが習わしです。 「本山博著作集7」
これは目から鱗で、どうも私にはキリストや仏陀が説く愛や慈愛がしっくりこなかった理由がわかりました。愛や慈愛に満ちているのならばそもそも愛や慈愛なんて言い出さないのです。愛や慈愛に飢えているからこそ愛や慈愛が大切と言う、というのは割と盲点でした。キリストや仏陀が言うのだから正しい筈で、道徳的にもそれを否定するのははばかられるような状況ではありますけど、さすが大家の本山博先生は本質をずばりと突いてきます。こんなこと直接的に言える人はそうはいないように思います。
個人的に、愛とか慈愛とか言われても「ふうん・・・」としか思わなかったのですが、それは実は今もそうで、昔は「私は愛や慈愛が足りないのかな?」とも思ったりもしましたが、それは実際のところ今になってクンダリーニが活性化してサマーディ状態になりサハスララにオーラが満ちても実際のところ変わりませんので、実際のところこのようなことを忘れておりました。頭の中に「愛」とか「慈愛」という言葉は私の中でそれほど大切な位置を占めていなくて、クンダリーニなどのエネルギーの高まりという意味においてそれを別の言い方でいうのならば「愛」と言うこともできる、という文脈で愛を捉えておりました。慈愛というのも、慈愛というと自分と他人との「分離」を前提としているような気がしていて、本来的に自分と他人が同一であるのならばわざわざ「慈愛」なんて言わずに自分や親しい友人あるいは家族に接するように普通に何かを与えたりすればいいだけのことで、わざわざ「慈愛」なんて言うなんて大袈裟だなあ・・・ と心の片隅で思っていて、そんなことを言うなんて野暮なことはしていませんでしたので基本的に口には出さないでいたのですけど、この記述を読んで目から鱗でした。キリストや仏陀は愛に飢えていたから愛や慈愛を説いていたのだとすれば、私は実際のところ家族から人並みに愛されていたと思いますので、そりゃ家族の間に葛藤も多少はありましたけど基本は愛されていたと思いますので愛や慈愛への葛藤というものは基本的に私にはないのです。愛や慈愛に対する基本的な欲求というものがありませんからキリストや仏陀が説く愛や慈愛について「まあ、それはそうなのだけれども」みたいにあまり心を打たない感覚でなんとなく捉えておりました。今後、更に成長すればブッダやキリストが解くような愛や慈愛に満ち溢れた存在になるのかな? と漠然と考えたりしたこともありましたけど、同書によればどうやらブッダやキリストはその到達点だけでなく出発点として愛や慈愛への渇望からスタートしていたようで、であれば、私はそのスタート地点に立っておりませんので、通りで私は仏教やキリスト教のことを素晴らしいと思いつつも信者になっていない理由の1つがわかりました。
仏教ではよく三界(欲界、色界、無色界)ということを言うわけですが、(中略)これはある意味では、お釈迦様はやはり欲望の塊りのようなところがあったのかもしれない。(中略)本当は色界(物質界)の中の一つに過ぎない欲界が、欲界として強くもち上がってくるというのは、お釈迦様が非常に欲ということにこだわりをもっていたと思うのです。(中略)そんなことを言っても、物質的束縛というものがだいたい身体性ということだから、身体をもっているとどうしても欲望はできます。腹が減ったら御飯を食べたいと思う。つまり色界の中にすでに欲ぼうがあるのですが、欲望を超克すると、そこが色界だと言う。これはどこかに無理があるように思うのです。(中略)欲界と言わずに、欲界を色界の中に入れたらいいと思うのです。(中略)悟りの立場から言えば、欲界というものではなくて、色界と無色界の二つの世界における心の高まりを説明してあるわけです。 「本山博著作集7」
これまた明確な説明で、仏教の欲界というのは割とスルーしておりましたけど、こう言われてみますと確かに色界に含めるのがスマートのように思います。納得です。
欲ということそれ自体で言いますとサマーディ状態に達していても肉体を持っている限りは欲というのは出てきますし、何が違うかと言いますと欲が出てきてもそれに囚われずに欲望はすぐに消えてゆくかあるいはその欲が適切なもので生活に必要と判断したならば意識的にその欲を現実化することができるようになるということです。お腹が減ったからと言って食べずにいたら死んでしまいますよね。生活必需品を購入する欲はあって当然のものだと思いますし、生きる上で勉強のための欲というものもあります。欲から完全に離れる、みたいなお話を時々聞きますけど、実際は体がありますからそんなことは不可能なわけです。仏教が言うように完全には離れることはできないのに便宜上欲から離れたことにしてしまうと仏教でも大切にしている筈の「正直さ」から外れてしまい、修行に支障が出てしまうかもしれません。その結果、欲ということに対して鈍感になってしまうようなこともあるように思います。であれば、現実に即して、色界に含めるというのは理にかなっているように思います。
仏教では色界と無色界それぞれ四つの禅定の段階を経て瞑想が進んでゆくと説明されており、同書では最初の色界初禅について以下のような説明があります。
初禅
「欲望を離れ、不善のことがらを離れ(中略)」、これはヨーガで言う精神集中のごく初期の状態です。ここで「欲望を離れ、不善のことがらを離れ」とありますが、精神集中の段階ではそんなふうに欲望を離れられるわけはないと思うのです。誰でも皆、欲望の塊なのだから。ですから、「欲望を離れ」と書いてあるが、それは精神集中をして、何も思わない状態が1秒でも2秒でも出てきたような状態が初禅の状態ではないかと思います。「本山博著作集7」
ということで、やはり、欲界の次が色界というのではなくて欲界を色界に含めるのがよい、という同書の説明になっています。
仏教の方に言わせれば違うお話になるのかもしれませんけど、私が読んだ他の書物でも実際のところそれほど厳密に欲からの脱却を説いてはいなかったように思いますので、この解釈は正しいように思います。
実際のところ、このような真理の探究において真面目すぎるというのは割と重しになって、書物では一応そうは書いてはあるけれども実際のところは自分で経験してみて本当のところを理解する、という大雑把な態度が必要に思います。書物に書いてある状態に厳密にならないからと言って思い悩んだりするのは真理の道においてはマイナスで、書物に関しては割とざっくりとした理解を基本として、自分の経験を元にして理解できる部分を少しずつ増やしてゆく、というくらいでいいのではないかと思います。
宗教の信者であればその流派の全てを信じるかどうかというお話になるかと思いますが、真実の探究者であれば自分がわからないことは一旦理解はするものの受け入れるかどうかは自分が腑に落ちるまでは保留にしておくのが良いかと思います。
その意味で、仏教のお話は一旦は理解していたもののどこか部分的に違和感があって腑に落ちない部分があって、今回の記述でその違和感がそれなりに解消されたように思います。
仏教は仏教でとても優れた記述や解説がありますけど完全ではないということだと思います。
特にスタート地点では顕著で、スタート地点で「愛に飢えている」ところを根拠にしていますから、家族に恵まれて幸せに育った人にとって仏教の説教は響かなかったりするわけですね。これは私に当てはまると思います。一方、現代においては自分で選んで宗教を選ぶよりも二世・三世としてなんとなく宗教に属している方も多いと思われますので、自分は特に愛に飢えてはいないけれども家族がこの流派だから一応今は属しているけれども愛とか慈愛とかよくわからない、みたいな悩みがあるかもしれませんけど、このようなキリストや仏陀の生まれた背景を理解すると、信者の当人にいうと嫌がられるかもしれませんけど、個人的な理解としては有益な情報なのではないかと思います。
お釈迦様は慈愛を説きます。キリストも愛を説いたわけですが、キリストも父親が本当の父親ではなくて、母親が、今流に言えば私生児を生んだわけで、どこかふた親の愛情が足りなかったのではないか、釈迦の場合もそうだと思うのです。愛情に飢えている人が説教をするようになると、愛を説いたり慈愛を説いたりするのが習わしです。 「本山博著作集7」
これは目から鱗で、どうも私にはキリストや仏陀が説く愛や慈愛がしっくりこなかった理由がわかりました。愛や慈愛に満ちているのならばそもそも愛や慈愛なんて言い出さないのです。愛や慈愛に飢えているからこそ愛や慈愛が大切と言う、というのは割と盲点でした。キリストや仏陀が言うのだから正しい筈で、道徳的にもそれを否定するのははばかられるような状況ではありますけど、さすが大家の本山博先生は本質をずばりと突いてきます。こんなこと直接的に言える人はそうはいないように思います。
個人的に、愛とか慈愛とか言われても「ふうん・・・」としか思わなかったのですが、それは実は今もそうで、昔は「私は愛や慈愛が足りないのかな?」とも思ったりもしましたが、それは実際のところ今になってクンダリーニが活性化してサマーディ状態になりサハスララにオーラが満ちても実際のところ変わりませんので、実際のところこのようなことを忘れておりました。頭の中に「愛」とか「慈愛」という言葉は私の中でそれほど大切な位置を占めていなくて、クンダリーニなどのエネルギーの高まりという意味においてそれを別の言い方でいうのならば「愛」と言うこともできる、という文脈で愛を捉えておりました。慈愛というのも、慈愛というと自分と他人との「分離」を前提としているような気がしていて、本来的に自分と他人が同一であるのならばわざわざ「慈愛」なんて言わずに自分や親しい友人あるいは家族に接するように普通に何かを与えたりすればいいだけのことで、わざわざ「慈愛」なんて言うなんて大袈裟だなあ・・・ と心の片隅で思っていて、そんなことを言うなんて野暮なことはしていませんでしたので基本的に口には出さないでいたのですけど、この記述を読んで目から鱗でした。キリストや仏陀は愛に飢えていたから愛や慈愛を説いていたのだとすれば、私は実際のところ家族から人並みに愛されていたと思いますので、そりゃ家族の間に葛藤も多少はありましたけど基本は愛されていたと思いますので愛や慈愛への葛藤というものは基本的に私にはないのです。愛や慈愛に対する基本的な欲求というものがありませんからキリストや仏陀が説く愛や慈愛について「まあ、それはそうなのだけれども」みたいにあまり心を打たない感覚でなんとなく捉えておりました。今後、更に成長すればブッダやキリストが解くような愛や慈愛に満ち溢れた存在になるのかな? と漠然と考えたりしたこともありましたけど、同書によればどうやらブッダやキリストはその到達点だけでなく出発点として愛や慈愛への渇望からスタートしていたようで、であれば、私はそのスタート地点に立っておりませんので、通りで私は仏教やキリスト教のことを素晴らしいと思いつつも信者になっていない理由の1つがわかりました。
仏教ではよく三界(欲界、色界、無色界)ということを言うわけですが、(中略)これはある意味では、お釈迦様はやはり欲望の塊りのようなところがあったのかもしれない。(中略)本当は色界(物質界)の中の一つに過ぎない欲界が、欲界として強くもち上がってくるというのは、お釈迦様が非常に欲ということにこだわりをもっていたと思うのです。(中略)そんなことを言っても、物質的束縛というものがだいたい身体性ということだから、身体をもっているとどうしても欲望はできます。腹が減ったら御飯を食べたいと思う。つまり色界の中にすでに欲ぼうがあるのですが、欲望を超克すると、そこが色界だと言う。これはどこかに無理があるように思うのです。(中略)欲界と言わずに、欲界を色界の中に入れたらいいと思うのです。(中略)悟りの立場から言えば、欲界というものではなくて、色界と無色界の二つの世界における心の高まりを説明してあるわけです。 「本山博著作集7」
これまた明確な説明で、仏教の欲界というのは割とスルーしておりましたけど、こう言われてみますと確かに色界に含めるのがスマートのように思います。納得です。
欲ということそれ自体で言いますとサマーディ状態に達していても肉体を持っている限りは欲というのは出てきますし、何が違うかと言いますと欲が出てきてもそれに囚われずに欲望はすぐに消えてゆくかあるいはその欲が適切なもので生活に必要と判断したならば意識的にその欲を現実化することができるようになるということです。お腹が減ったからと言って食べずにいたら死んでしまいますよね。生活必需品を購入する欲はあって当然のものだと思いますし、生きる上で勉強のための欲というものもあります。欲から完全に離れる、みたいなお話を時々聞きますけど、実際は体がありますからそんなことは不可能なわけです。仏教が言うように完全には離れることはできないのに便宜上欲から離れたことにしてしまうと仏教でも大切にしている筈の「正直さ」から外れてしまい、修行に支障が出てしまうかもしれません。その結果、欲ということに対して鈍感になってしまうようなこともあるように思います。であれば、現実に即して、色界に含めるというのは理にかなっているように思います。
仏教では色界と無色界それぞれ四つの禅定の段階を経て瞑想が進んでゆくと説明されており、同書では最初の色界初禅について以下のような説明があります。
初禅
「欲望を離れ、不善のことがらを離れ(中略)」、これはヨーガで言う精神集中のごく初期の状態です。ここで「欲望を離れ、不善のことがらを離れ」とありますが、精神集中の段階ではそんなふうに欲望を離れられるわけはないと思うのです。誰でも皆、欲望の塊なのだから。ですから、「欲望を離れ」と書いてあるが、それは精神集中をして、何も思わない状態が1秒でも2秒でも出てきたような状態が初禅の状態ではないかと思います。「本山博著作集7」
ということで、やはり、欲界の次が色界というのではなくて欲界を色界に含めるのがよい、という同書の説明になっています。
仏教の方に言わせれば違うお話になるのかもしれませんけど、私が読んだ他の書物でも実際のところそれほど厳密に欲からの脱却を説いてはいなかったように思いますので、この解釈は正しいように思います。
実際のところ、このような真理の探究において真面目すぎるというのは割と重しになって、書物では一応そうは書いてはあるけれども実際のところは自分で経験してみて本当のところを理解する、という大雑把な態度が必要に思います。書物に書いてある状態に厳密にならないからと言って思い悩んだりするのは真理の道においてはマイナスで、書物に関しては割とざっくりとした理解を基本として、自分の経験を元にして理解できる部分を少しずつ増やしてゆく、というくらいでいいのではないかと思います。
宗教の信者であればその流派の全てを信じるかどうかというお話になるかと思いますが、真実の探究者であれば自分がわからないことは一旦理解はするものの受け入れるかどうかは自分が腑に落ちるまでは保留にしておくのが良いかと思います。
その意味で、仏教のお話は一旦は理解していたもののどこか部分的に違和感があって腑に落ちない部分があって、今回の記述でその違和感がそれなりに解消されたように思います。
仏教は仏教でとても優れた記述や解説がありますけど完全ではないということだと思います。
特にスタート地点では顕著で、スタート地点で「愛に飢えている」ところを根拠にしていますから、家族に恵まれて幸せに育った人にとって仏教の説教は響かなかったりするわけですね。これは私に当てはまると思います。一方、現代においては自分で選んで宗教を選ぶよりも二世・三世としてなんとなく宗教に属している方も多いと思われますので、自分は特に愛に飢えてはいないけれども家族がこの流派だから一応今は属しているけれども愛とか慈愛とかよくわからない、みたいな悩みがあるかもしれませんけど、このようなキリストや仏陀の生まれた背景を理解すると、信者の当人にいうと嫌がられるかもしれませんけど、個人的な理解としては有益な情報なのではないかと思います。
カラーナ(コーザル、原因)ではオーラのバランスが整う
本山博先生の著作に同様の記述がありましたが、確かに、サハスララにオーラが充満して体のオーラが上から下までバランスが取れている状態であれば(カラーナの特徴である)心の観察がきちんとできて理性(ブッディ)がよく働く状態になっているように思います。
クンダリーニが上がってきて下半身にオーラが満ちている状態・マニプラ以下が優勢な状態では活力が満ちているもののまだ性欲が完全にコントロールできておらず、アナハタ以上が優勢になってようやく制欲がかなり解消され、サハスララにまでオーラが満ちると制欲に悩まされることはほとんどなくなるように思います。
オーラのバランスが整うことを本山博先生は「下実上平」と言っています。
下実上平ははっきりと目が覚めている。光り輝いているような感じがして、ずーっと自分が一帯に拡がっているのです。アストラルの次元だとせいぜいこの部屋くらいにしか拡がらないが、カラーナの次元になると、もっとずーっと拡がって自分が非常に大きい感じがする。「本山博著作集8」より
一方、上半身だけ充実している状態を「上実下虚」と言い、その状態では感情のコントロールが効かず怒りやすくて肩が凝るとのことです。そして同様に下半身にオーラが充実している状態を「上虚下実」と言い、色情タイプだということです。
クンダリーニというと下から上に上がる、というのが基本ですけど、世の中には「上実下虚」などという人もいるわけです。それはトランスに陥りやすくてボーっとしていて体が不安定、とのことで、しかし自我が強いタイプとのことです。これは現代で言えばEDとか総合失調症と言えるかもしれません。
クンダリーニとは言わなくてもエネルギーが体の上下で充実しているのは重要で、充実していないと上記のうちのどちらかになってしまうように思います。上のパターンだけでなくて、背骨に沿ったスシュムナというエネルギールートが分断されてしまうと「上実・中虚・下実」になって頭と下半身それぞれでオーラが活性化されるもののお腹のあたりで繋がっていない、という混乱した状態も実際にはありそうです。そうなると実生活を送る上で困難が生じそうですね。
実際のところ、このあたりの知識がなくてオーラのバランスが崩れて病気になっている方もそれなりにいらっしゃるように思いますが、それが肉体が原因なのかオーラのバランスの原因なのかの判定はなかなか難しいので放置されているとは思いますが、少なくとも、自分で自分のメンテナンスはできた方がいいと思います。
カラーナ(コーザル、原因)のレベルにまでは行かなくとも、体とプラーナあるいは気のレベルで体を充実させて健康にするだけでも日常生活を豊かに暮らせるようになりますので、オーラを調整して体の全体にバランスよく行き渡らせることは重要に思います。
クンダリーニが上がってきて下半身にオーラが満ちている状態・マニプラ以下が優勢な状態では活力が満ちているもののまだ性欲が完全にコントロールできておらず、アナハタ以上が優勢になってようやく制欲がかなり解消され、サハスララにまでオーラが満ちると制欲に悩まされることはほとんどなくなるように思います。
オーラのバランスが整うことを本山博先生は「下実上平」と言っています。
下実上平ははっきりと目が覚めている。光り輝いているような感じがして、ずーっと自分が一帯に拡がっているのです。アストラルの次元だとせいぜいこの部屋くらいにしか拡がらないが、カラーナの次元になると、もっとずーっと拡がって自分が非常に大きい感じがする。「本山博著作集8」より
一方、上半身だけ充実している状態を「上実下虚」と言い、その状態では感情のコントロールが効かず怒りやすくて肩が凝るとのことです。そして同様に下半身にオーラが充実している状態を「上虚下実」と言い、色情タイプだということです。
クンダリーニというと下から上に上がる、というのが基本ですけど、世の中には「上実下虚」などという人もいるわけです。それはトランスに陥りやすくてボーっとしていて体が不安定、とのことで、しかし自我が強いタイプとのことです。これは現代で言えばEDとか総合失調症と言えるかもしれません。
クンダリーニとは言わなくてもエネルギーが体の上下で充実しているのは重要で、充実していないと上記のうちのどちらかになってしまうように思います。上のパターンだけでなくて、背骨に沿ったスシュムナというエネルギールートが分断されてしまうと「上実・中虚・下実」になって頭と下半身それぞれでオーラが活性化されるもののお腹のあたりで繋がっていない、という混乱した状態も実際にはありそうです。そうなると実生活を送る上で困難が生じそうですね。
実際のところ、このあたりの知識がなくてオーラのバランスが崩れて病気になっている方もそれなりにいらっしゃるように思いますが、それが肉体が原因なのかオーラのバランスの原因なのかの判定はなかなか難しいので放置されているとは思いますが、少なくとも、自分で自分のメンテナンスはできた方がいいと思います。
カラーナ(コーザル、原因)のレベルにまでは行かなくとも、体とプラーナあるいは気のレベルで体を充実させて健康にするだけでも日常生活を豊かに暮らせるようになりますので、オーラを調整して体の全体にバランスよく行き渡らせることは重要に思います。
心の声に気付く
自分の明示的な思考(ブッディ)とは別に、私に心の中で話しかけるもう1つの声があります。それに気付くことです。
実際のところ、この心の声というものはほぼ全ての人に聞こえている筈で、ただ、それが話しかけられていることに気付かずに自分の思考と思い込んでいるだけなのです。
ですから、ふと頭の中に思い浮かんだ思考があったとして、それが明示的な思考(ブッディ)でなかったとしたら、それは何がしかの意識体から話しかけられている可能性があります。
大抵の人は「そんなばかな」と思うでしょうし、「それは私の思考です」と思うかもしれませんけど、実際のところ、瞑想を続けていくと自らの明示的な思考というものは意識的に行うようになって、意識的に行わない思考がふと現れたのならばそれは自分の明示的な思考(ブッディ)ではないと気付くことができるわけです。
瞑想をそれほどしていない場合は自らの明示的な思考(ブッディ)と周囲の意識体からの呼びかけの声との区別がつきませんから全部自分の考えだと思い込んでいるだけのことで、実際は誰しもが聞いている声です。
段階で言いますと、日常生活での瞑想が当たり前になってサマーディ(三昧)の状態で常に観察状態で生きられるようになりますと思考の違いと呼びかけの心の声との違いを明確に区別することができるようになります。
これとは別に、自分自身の頭の中でグルグルと回る雑念というものもありますけど、ここで言っている明示的な思考(ブッディ)と呼びかけの心の声はグルグルまわる雑念とは別のものです。
明示的に心の中で呼びかけられる声があって、それはある種のヒントだったり答えそのものだったりします。
普通の人ですと「私は勘がいい」とか「私の能力はさすがに高い」とか思ったりするかもしれませんけど、自分の明示的な思考(ブッディ)で出した答えでないのだとしたらそれは周囲の存在に助けられていることがほとんどなわけです。いわゆる守護霊が出している導きの場合もあればもっとカジュアルなものもあって、性格とか導き手の性格みたいなものが出ます。仲良しの霊体が近くにいて一緒に暮らしていて「お節介おばさん」みたいにいろいろ教えてくる、みたいな軽いものの時もあります。
何か閃いたりすると有頂天になって「私って凄いアイデアマン」とか思ったりする時もあるかもしれませんけど、これらの違いを把握していないのならばそれ本当に自分が考え出したものなのか単に教えてもらったものなのか、わからないわけです。であれば、自尊心を駆り立てて自分が凄いとか思うことは愚かだったりもするわけです。
作曲家とかは顕著で、自分で何も作曲できなくても先代の霊があの世でインスピレーションを送ってくると自分は何もしないでも湧き上がってきます。そして、それを書き留めるだけで曲ができるわけです。ですけど、実際に凄いのは先代なわけで、自分はただ書き留めているだけだったりしますけど現代では作曲家として名前が出たりしますよね。自分で作曲する人ももちろん大勢いますけど、インスピレーションを受けているだけの人、あるいは半々だったり、色々なわけです。このような場合、教えてくれる相手も元は人間ですから、あまりにも「俺って凄い」みたいな態度で自尊心を駆り立ててゆくと教える方も嫌になってしまって「あとは自分で考えろ」と言って肝心のところを教えてくれなかったりします。実際のところ、これはよくあることのような気がいたします。というのも、これは普通の人間の関係と変わらないからです。目に見えないだけで普通の人間同士の付き合いですから、死んだ先代がかわいい孫・ひ孫・ひひひひひ孫みたいな子に教えたとしても、教えられる方が可愛くなかったら「もう好きにしろ」となりますよね。だから先代や家族や師匠など属している系統の先代に対して敬意を示すのは必要なのですけど、そうは言ってもお互い人間ですから、教える方にしても限界があって、教えられる方にも限界があるわけです。
ポイントとしては「心の声に気付くこと」そして「見えない存在も生きている人間と変わらない」というところですね。そうすれば、特に特別感なく普通に心の声を扱うことができます。
これとは別に、自分のハイヤーセルフあるいはアートマンとでも呼ぶべき自己の魂のようなものから湧き出てくる指示があって、それは声というより直接的な理解が瞬時に現れる形で直感のように現れますけど直感というほどの他人行儀の分離した感覚ではなくてそうするのが当然であると瞬時にわかる、というような種類のものですので、ふと「はっ」と気付くような直感ではなく、直接的に「そうである」ことがわかるようなもので、それも直感と言うならそうかもしれませんけど、直感というよりは直接的に「わかる」という種類のものです。それはそれとしてあって、ここでのお話は明示的な「声」として心の中で話しかけてくる声のお話です。
実際のところ、この心の声というものはほぼ全ての人に聞こえている筈で、ただ、それが話しかけられていることに気付かずに自分の思考と思い込んでいるだけなのです。
ですから、ふと頭の中に思い浮かんだ思考があったとして、それが明示的な思考(ブッディ)でなかったとしたら、それは何がしかの意識体から話しかけられている可能性があります。
大抵の人は「そんなばかな」と思うでしょうし、「それは私の思考です」と思うかもしれませんけど、実際のところ、瞑想を続けていくと自らの明示的な思考というものは意識的に行うようになって、意識的に行わない思考がふと現れたのならばそれは自分の明示的な思考(ブッディ)ではないと気付くことができるわけです。
瞑想をそれほどしていない場合は自らの明示的な思考(ブッディ)と周囲の意識体からの呼びかけの声との区別がつきませんから全部自分の考えだと思い込んでいるだけのことで、実際は誰しもが聞いている声です。
段階で言いますと、日常生活での瞑想が当たり前になってサマーディ(三昧)の状態で常に観察状態で生きられるようになりますと思考の違いと呼びかけの心の声との違いを明確に区別することができるようになります。
これとは別に、自分自身の頭の中でグルグルと回る雑念というものもありますけど、ここで言っている明示的な思考(ブッディ)と呼びかけの心の声はグルグルまわる雑念とは別のものです。
明示的に心の中で呼びかけられる声があって、それはある種のヒントだったり答えそのものだったりします。
普通の人ですと「私は勘がいい」とか「私の能力はさすがに高い」とか思ったりするかもしれませんけど、自分の明示的な思考(ブッディ)で出した答えでないのだとしたらそれは周囲の存在に助けられていることがほとんどなわけです。いわゆる守護霊が出している導きの場合もあればもっとカジュアルなものもあって、性格とか導き手の性格みたいなものが出ます。仲良しの霊体が近くにいて一緒に暮らしていて「お節介おばさん」みたいにいろいろ教えてくる、みたいな軽いものの時もあります。
何か閃いたりすると有頂天になって「私って凄いアイデアマン」とか思ったりする時もあるかもしれませんけど、これらの違いを把握していないのならばそれ本当に自分が考え出したものなのか単に教えてもらったものなのか、わからないわけです。であれば、自尊心を駆り立てて自分が凄いとか思うことは愚かだったりもするわけです。
作曲家とかは顕著で、自分で何も作曲できなくても先代の霊があの世でインスピレーションを送ってくると自分は何もしないでも湧き上がってきます。そして、それを書き留めるだけで曲ができるわけです。ですけど、実際に凄いのは先代なわけで、自分はただ書き留めているだけだったりしますけど現代では作曲家として名前が出たりしますよね。自分で作曲する人ももちろん大勢いますけど、インスピレーションを受けているだけの人、あるいは半々だったり、色々なわけです。このような場合、教えてくれる相手も元は人間ですから、あまりにも「俺って凄い」みたいな態度で自尊心を駆り立ててゆくと教える方も嫌になってしまって「あとは自分で考えろ」と言って肝心のところを教えてくれなかったりします。実際のところ、これはよくあることのような気がいたします。というのも、これは普通の人間の関係と変わらないからです。目に見えないだけで普通の人間同士の付き合いですから、死んだ先代がかわいい孫・ひ孫・ひひひひひ孫みたいな子に教えたとしても、教えられる方が可愛くなかったら「もう好きにしろ」となりますよね。だから先代や家族や師匠など属している系統の先代に対して敬意を示すのは必要なのですけど、そうは言ってもお互い人間ですから、教える方にしても限界があって、教えられる方にも限界があるわけです。
ポイントとしては「心の声に気付くこと」そして「見えない存在も生きている人間と変わらない」というところですね。そうすれば、特に特別感なく普通に心の声を扱うことができます。
これとは別に、自分のハイヤーセルフあるいはアートマンとでも呼ぶべき自己の魂のようなものから湧き出てくる指示があって、それは声というより直接的な理解が瞬時に現れる形で直感のように現れますけど直感というほどの他人行儀の分離した感覚ではなくてそうするのが当然であると瞬時にわかる、というような種類のものですので、ふと「はっ」と気付くような直感ではなく、直接的に「そうである」ことがわかるようなもので、それも直感と言うならそうかもしれませんけど、直感というよりは直接的に「わかる」という種類のものです。それはそれとしてあって、ここでのお話は明示的な「声」として心の中で話しかけてくる声のお話です。
プルシャの次元に上がろうとする時に遭遇する魔
本山博先生が説明するところによると、必ず「魔」に遭遇するとのことです。
魔というのは、カラーナの次元に上がってきた心が、プルシャの次元、より自由な、つまり物の次元を超えた世界に行こうとすると、それに入らないように邪魔をする力なのです。 「本山博著作集8」
同書の説明によると、カラーナの次元(コーザル、原因)というのは物の力が潜んでいて、物の力というものはとても強いので物の力から完全に脱却しようとすると邪魔をしてくる力があって、それを魔と呼んでいるようです。
これによると、私の今までの理解は少し違っていて、私はサマーディ状態で「自分」というものがなくなるときに恐怖を覚えることが「魔」だと思っていたのですけど、確かに方向性としてはそうなのですけど、次元としてカラーナ(コーザル、原因)からプルシャの次元(独立した意識の次元)に行く時に現れるのが「魔」だとしたら、私がまだ知らないもののような気がしてまいりました。
思えば、胸の奥の創造・破壊・維持の力を感じて何をも可能に感じられたことによる恐怖が少し前にありましたけど、これをもってして「魔」なのかなと思っておりましたが、もしかしたら「魔」というのはもっともっと怖いものなのかもしれません。とは言いましても今から心配しても仕方がないですし、心配するようなたちではありませんけど。
本山博先生の著作を読んでいると、私の今の段階が「カラーナの次元」に一致している点もあれば、一方で、一部は「プルシャの次元」の記述と一致している部分もあるような気がいたします。
思考をどのように感じられるかという点に関してはカラーナの次元のようにも思いますが、創造・破壊・維持の公の意識という点に関してはプルシャの次元のようにも思われます。
カラーナのお話はメンタルがどのくらい成長するかというお話ですので、もしかしたらこれらは多少は独立して前後して成長するものなのかもしれませんね。であれば両方それぞれ成長してきている、という解釈もできます。
私の場合、幼少期に多少は辛いメンタル生活を送っていましたのでもともとエゴはそれほど強くはなく、と言いますかもともと強かったエゴが疲れ果てて弱くなっていた時期がありましたので、それは不幸中の幸いで、その時に弱めたエゴのおかげでプルシャの次元に上がろうとした時の「魔」がとても弱いもので期間も短くあっという間に通過した、という解釈もできます。エゴが強い人にあの創造・破壊・維持の公の意識が現れたのならば強烈に「自分」を否定する抗い難い強い「公」の力と対峙して葛藤するかもしれなくて、「魔」というのに相応しいかもしれませんね。
かと言いまして、同書によれば以下のようにありますけど、私は自覚している範囲においてはアジナもサハスララも目覚めておりませんから、まだなのかもしれませんね。
プルシャとの合一は、アジナやサハスラーらが目覚めないと生じない。アジナが目覚めて三つの次元のカルマの存在を破らないと、プルシャとの合一は生じない。 「本山博著作集8」
サハスララにまでオーラは充満しつつあるものの、目覚めるという感覚の自覚がありませんのでプルシャとの合一はまだと思った方が良さそうです。
同書によれば以下のようにあります。
今まで東西のいろいろな神秘家たちは、アストラル次元の霊との一致とかカラーナ次元での霊の一致とかプルシャ、あるいは神様との一致という、三つの次元の違いを区別しないで、その三つの次元をみなくるめて、集中の状態、部分的に合一した状態(瞑想の状態)、完全に一致した状態(三昧)というふうに、「合一」という面からだけ説いてきました。(中略)ところが実際は、アストラルの次元の霊と一緒になる時でも、また、アストラル次元を超えてカラーナ次元の霊と一緒になる時でも、初めは自分と霊とが対立していて、次には部分的に合一して、それから霊そのもののようになって霊そのものがよく分かるようになるというふうに、それぞれの次元で三つの段階を経て一つになるのです。 「本山博著作集8」
となれば、私の場合、アストラルの次元を終えて、カラーナの次元の合一を始めた、と考えるのがやはり合理的のように思います。
であれば「魔」は次のプルシャの段階ですので、それはまだ、ということになります。
この辺りは推測も含まれておりますので今後様子を見ていきます。
魔というのは、カラーナの次元に上がってきた心が、プルシャの次元、より自由な、つまり物の次元を超えた世界に行こうとすると、それに入らないように邪魔をする力なのです。 「本山博著作集8」
同書の説明によると、カラーナの次元(コーザル、原因)というのは物の力が潜んでいて、物の力というものはとても強いので物の力から完全に脱却しようとすると邪魔をしてくる力があって、それを魔と呼んでいるようです。
これによると、私の今までの理解は少し違っていて、私はサマーディ状態で「自分」というものがなくなるときに恐怖を覚えることが「魔」だと思っていたのですけど、確かに方向性としてはそうなのですけど、次元としてカラーナ(コーザル、原因)からプルシャの次元(独立した意識の次元)に行く時に現れるのが「魔」だとしたら、私がまだ知らないもののような気がしてまいりました。
思えば、胸の奥の創造・破壊・維持の力を感じて何をも可能に感じられたことによる恐怖が少し前にありましたけど、これをもってして「魔」なのかなと思っておりましたが、もしかしたら「魔」というのはもっともっと怖いものなのかもしれません。とは言いましても今から心配しても仕方がないですし、心配するようなたちではありませんけど。
本山博先生の著作を読んでいると、私の今の段階が「カラーナの次元」に一致している点もあれば、一方で、一部は「プルシャの次元」の記述と一致している部分もあるような気がいたします。
思考をどのように感じられるかという点に関してはカラーナの次元のようにも思いますが、創造・破壊・維持の公の意識という点に関してはプルシャの次元のようにも思われます。
カラーナのお話はメンタルがどのくらい成長するかというお話ですので、もしかしたらこれらは多少は独立して前後して成長するものなのかもしれませんね。であれば両方それぞれ成長してきている、という解釈もできます。
私の場合、幼少期に多少は辛いメンタル生活を送っていましたのでもともとエゴはそれほど強くはなく、と言いますかもともと強かったエゴが疲れ果てて弱くなっていた時期がありましたので、それは不幸中の幸いで、その時に弱めたエゴのおかげでプルシャの次元に上がろうとした時の「魔」がとても弱いもので期間も短くあっという間に通過した、という解釈もできます。エゴが強い人にあの創造・破壊・維持の公の意識が現れたのならば強烈に「自分」を否定する抗い難い強い「公」の力と対峙して葛藤するかもしれなくて、「魔」というのに相応しいかもしれませんね。
かと言いまして、同書によれば以下のようにありますけど、私は自覚している範囲においてはアジナもサハスララも目覚めておりませんから、まだなのかもしれませんね。
プルシャとの合一は、アジナやサハスラーらが目覚めないと生じない。アジナが目覚めて三つの次元のカルマの存在を破らないと、プルシャとの合一は生じない。 「本山博著作集8」
サハスララにまでオーラは充満しつつあるものの、目覚めるという感覚の自覚がありませんのでプルシャとの合一はまだと思った方が良さそうです。
同書によれば以下のようにあります。
今まで東西のいろいろな神秘家たちは、アストラル次元の霊との一致とかカラーナ次元での霊の一致とかプルシャ、あるいは神様との一致という、三つの次元の違いを区別しないで、その三つの次元をみなくるめて、集中の状態、部分的に合一した状態(瞑想の状態)、完全に一致した状態(三昧)というふうに、「合一」という面からだけ説いてきました。(中略)ところが実際は、アストラルの次元の霊と一緒になる時でも、また、アストラル次元を超えてカラーナ次元の霊と一緒になる時でも、初めは自分と霊とが対立していて、次には部分的に合一して、それから霊そのもののようになって霊そのものがよく分かるようになるというふうに、それぞれの次元で三つの段階を経て一つになるのです。 「本山博著作集8」
となれば、私の場合、アストラルの次元を終えて、カラーナの次元の合一を始めた、と考えるのがやはり合理的のように思います。
であれば「魔」は次のプルシャの段階ですので、それはまだ、ということになります。
この辺りは推測も含まれておりますので今後様子を見ていきます。
カラーナ次元のサマーディ
本山博先生の記述を元に私の今の状態がカラーナ次元なのかどうか確かめてみました。
プラーナが、カラーナの身体の中ではバランスが取れた状態になる。(中略)ところが、アストラルの次元や物理的な次元の身体の状態になると(中略)バランスが崩れやすい。(中略)五つのプラーナや七つのチャクラがバランスの取れた状態にあって病気がないというのがカラーナの状態ですが、物理的な次元やアストラルの次元ではなかなかそういうふうにはいかない。 「本山博著作集8」
これは一つの状態で、サハスララにオーラが満ちる状態がカラーナと解釈しています。
カラーナ次元の存在との宗教体験としては、まず、「透明に近い、或いは白色の光や存在を感得する」ということが挙げられます。アストラルの次元では、生々しい色とか形、触覚、匂い等があります。(中略)ですから、色がついた何かが見えたとしたら、それはアストラルの次元の何かとつながりがついているということなのです。(中略)「形が強い力を持つ」(中略)「感情的なたかぶりがなく、平安である」(中略)「知的な内容の掲示が多い」(中略)「心が物理的次元の肉体や、アストラル次元の感情、想像の束縛を離れて自由となり、事象をそのままにみられるようになる」(中略)「自己に基づく愛、愛情ではなく、利他的な隣人愛が目覚めてくる」 「本山博著作集8」
白い光というのは割としょっちゅう見ておりますが、そういえば創造・破壊・維持のアナハタの光を見た時は特に透明と言いますか白に近い光だったように思います。
匂いとかがあるのは割と変な霊が来ている時が多くて、例えば変な霊が部屋に迷い込んできたり、よそで拾ってしまったりした時は変な感情や匂いもの時々しましたね。ですけど、最近はほとんどないです。
形が強い力を持つ、というのはまだよく分かりません。
感情なたかぶりがなく平音、というのは割とここずっとそうですけど、特に創造・破壊・維持の意識が出てきて以降は特にそれが深まった感じですね。
知的な内容の掲示が多い、というのは昔からですので、最近の違いはよくわかりません。
物事をありのままに見られるようになる、というのは、創造・破壊・維持の意識が出てから少し後に身体をダイレクトに動かしつつも直接的に観察している感覚が出てきましたので、それに該当する気がいたします。
この創造・破壊・維持の意識が出てきて以降は特に隣人愛が強くなった気がいたします。かと言って何かをしているというわけでもないのですけど、気持ちとして変わりました。
ここまで見ると、どうやら私はカラーナの次元のサマーディ(三昧)にいる、と考えるのが良さそうです。
一方、このカラーナは終わりではなく、この後に神霊そのものとも言える「プルシャの次元」およびその次には「宇宙霊あるいは絶対者」という段階があって、宇宙霊(絶対者)との一体化は完全には無理で一部の融合に留まるので、一応の到達点としては「プルシャの次元」ということになるようです。
ただ、本山博先生の著作によればカラーナのサマーディでは色々な能力が出てくると言いますが私は特にそのような心当たりはありませんね。直感と言いますか啓示は受けやすくなった感じではありますが、そのくらいです。
プラーナが、カラーナの身体の中ではバランスが取れた状態になる。(中略)ところが、アストラルの次元や物理的な次元の身体の状態になると(中略)バランスが崩れやすい。(中略)五つのプラーナや七つのチャクラがバランスの取れた状態にあって病気がないというのがカラーナの状態ですが、物理的な次元やアストラルの次元ではなかなかそういうふうにはいかない。 「本山博著作集8」
これは一つの状態で、サハスララにオーラが満ちる状態がカラーナと解釈しています。
カラーナ次元の存在との宗教体験としては、まず、「透明に近い、或いは白色の光や存在を感得する」ということが挙げられます。アストラルの次元では、生々しい色とか形、触覚、匂い等があります。(中略)ですから、色がついた何かが見えたとしたら、それはアストラルの次元の何かとつながりがついているということなのです。(中略)「形が強い力を持つ」(中略)「感情的なたかぶりがなく、平安である」(中略)「知的な内容の掲示が多い」(中略)「心が物理的次元の肉体や、アストラル次元の感情、想像の束縛を離れて自由となり、事象をそのままにみられるようになる」(中略)「自己に基づく愛、愛情ではなく、利他的な隣人愛が目覚めてくる」 「本山博著作集8」
白い光というのは割としょっちゅう見ておりますが、そういえば創造・破壊・維持のアナハタの光を見た時は特に透明と言いますか白に近い光だったように思います。
匂いとかがあるのは割と変な霊が来ている時が多くて、例えば変な霊が部屋に迷い込んできたり、よそで拾ってしまったりした時は変な感情や匂いもの時々しましたね。ですけど、最近はほとんどないです。
形が強い力を持つ、というのはまだよく分かりません。
感情なたかぶりがなく平音、というのは割とここずっとそうですけど、特に創造・破壊・維持の意識が出てきて以降は特にそれが深まった感じですね。
知的な内容の掲示が多い、というのは昔からですので、最近の違いはよくわかりません。
物事をありのままに見られるようになる、というのは、創造・破壊・維持の意識が出てから少し後に身体をダイレクトに動かしつつも直接的に観察している感覚が出てきましたので、それに該当する気がいたします。
この創造・破壊・維持の意識が出てきて以降は特に隣人愛が強くなった気がいたします。かと言って何かをしているというわけでもないのですけど、気持ちとして変わりました。
ここまで見ると、どうやら私はカラーナの次元のサマーディ(三昧)にいる、と考えるのが良さそうです。
一方、このカラーナは終わりではなく、この後に神霊そのものとも言える「プルシャの次元」およびその次には「宇宙霊あるいは絶対者」という段階があって、宇宙霊(絶対者)との一体化は完全には無理で一部の融合に留まるので、一応の到達点としては「プルシャの次元」ということになるようです。
ただ、本山博先生の著作によればカラーナのサマーディでは色々な能力が出てくると言いますが私は特にそのような心当たりはありませんね。直感と言いますか啓示は受けやすくなった感じではありますが、そのくらいです。
ゾーンの集中はアストラル次元のサマーディ(三昧)
本山博先生の記述に基づければ、ゾーン状態における極度の集中およびそれによる対象との合一はアストラル次元のサマーディ(三昧)であると解釈できます。
すべての現実の物はアストラルの次元をもっているわけですから、アストラルの次元において存在していることをアストラルの次元で見ているのと、現実の物理手形な次元において存在しているこれを物理的次元で見ているのとは違う。けれども、意味の上では一致している。(中略)意味の一致ということが非常に大事なのです。 「本山博著作集8」
ゾーン状態においては、その対象の内容がとてもよくわかり、理知的な感性が研ぎ澄まされて対象の本来の有り様だとか問題およびその解決方法までもが次第に明らかになります。それは自分の理性的な頭だけを使って論理的に考えているととても時間のかかるような結論であったとしても、ゾーン状態においては素早く理解して答えが導き出せるのです。それは、本山博先生がおっしゃるアストラル次元のサマーディ(三昧)と一致します。それは、一応は基本は物理的な対象との合一および理解ではありますが、純粋に理屈だけのお話、例えば設計図や設計書などというお話でも同様です。
時計をじーっと見て、時計と一つになった時には、もうすでに物の次元を超えてアストラルの次元に入り、三昧に入っている。そうでないとこの中には入れないのです。物の次元を超えた次元に入ると、この時計の中にスポッと入れる。それは物の次元で入るのではない。アストラルの次元に入ると、スポッと入れてしまうのです。入れたら、この中のネジの動きとかICの動きというものがみな分かる。(中略)本当に入れた時には、この時計を止めようと思ったら、止めることもできるのです。それが三昧の状態なのです。
この、現実との一致に関しては、特に仕事において判断を任されている場合にゾーンでの直視を元に普通の理性的な論理的な頭を使って検証しつつ判断を行う、ということを行います。
ゾーンが特に欧米のエリートにおいて注目されているのはここで、物事のあり様を直視してありのままに理解およびその解決法を素早く瞬時に出せるので判断が早くなり、結果として当然のことながら企業の成長につながるわけです。
真理を目指す者からすれば企業の利益とか個人的利益とかはそれほどの関心事ではありませんけど、企業の中にいますと物事の正確さというものが求められますのでゾーン状態で直視したものが正しいかどうかが常に検証を求められますので訓練になると思います。企業に入っていなければゾーンで直視したものが正しいかどうかなんて検証はそれほどされないかもしれず、霊能者がそう言ったとかいうお話にしても検証がどれだけされているか不明ですけど、企業におけるゾーンというお話であれば常にその発言および結果が厳しく問われるわけです。企業にいるというのは瞑想者にとって厳しい環境ではあると思うのですけど、ゾーン状態、それはつまりアストラル次元のサマーディの段階にあってはもしかしたら企業においてゾーン状態を極めるというのも一つの手法なのかもしれません。実際のところ私は10年来ずっとゾーンを仕事に活用してきましたのでゾーンは仕事に有用と思いますし、ゾーンによって随分と自分の感情を浄化できましたので仕事にも瞑想にも役立てることができて一石二鳥のように思いました。
実際のところ、私はゾーンで対象を理解することはあっても、物理的なものに対する理解および操作というのはできませんので、本山博先生がおっしゃるような意味での(アストラルの)三昧にはまだ達していないのかもしれません。
ゾーン状態では歓喜が沸き起こり、対象のことがよくわかり、感情的な高ぶりがあります。ですけそ、それは本山博先生のいうところのアストラルのサマーディ(三昧)のごく一部にしか過ぎなくて、それでも、それにより浄化は進みますから有用なのかなと思います。
ゾーン状態においては自分の心の奥底が「剥き出し」になって対象を直視しますから、心の奥底にあるトラウマ・抑圧された感情が吹き出してきたりします。それでも対象のことはよくわかりますし、半覚醒の状態で半分は無意識が思考を続けることで対象のことがよくわかり、解決に素早く導きます。
ゾーン状態とは言っても最初は単なる極度の集中状態における歓喜から始まって、やがては心の奥底にある本性が対象を直視するように変化します。その時、心がむき出しになっていますので周囲からの大きな怒鳴り声や騒音には敏感になりますので、やもすれば心に深刻なダメージを受けることもありますので周囲の理解も必要です。日本の会社の場合は騒がしかったり急に怒鳴って話しかけてくるような方もいらっしゃいますのでゾーンで仕事をしていたら邪魔が入って心が取り返しのつかない大きなダメージを受けることにもなりかねません。そこは注意した方がいいかと思います。
ゾーン状態では色々なことがわかって、他人のために役立てようという気持ちも自然に生まれます。
三昧に入るといろいろなことがわかって、こうしなければいけないということが自然に分かるから、その人を成り立たせてあげられるような叡智が湧いてくるはずなのです。それから、世の中が大きく、神様のマネージによってこう働いているのだということが分かれば、相手が成り立つように助けてあげようと思うようになるのです。「本山博著作集8」
最初は自分の利益のためにゾーンを求めて瞑想を始めたとしても、やがてはゾーンあるいはサマーディ(三昧)に達することで利他の気持ちが芽生えるわけです。
すべての現実の物はアストラルの次元をもっているわけですから、アストラルの次元において存在していることをアストラルの次元で見ているのと、現実の物理手形な次元において存在しているこれを物理的次元で見ているのとは違う。けれども、意味の上では一致している。(中略)意味の一致ということが非常に大事なのです。 「本山博著作集8」
ゾーン状態においては、その対象の内容がとてもよくわかり、理知的な感性が研ぎ澄まされて対象の本来の有り様だとか問題およびその解決方法までもが次第に明らかになります。それは自分の理性的な頭だけを使って論理的に考えているととても時間のかかるような結論であったとしても、ゾーン状態においては素早く理解して答えが導き出せるのです。それは、本山博先生がおっしゃるアストラル次元のサマーディ(三昧)と一致します。それは、一応は基本は物理的な対象との合一および理解ではありますが、純粋に理屈だけのお話、例えば設計図や設計書などというお話でも同様です。
時計をじーっと見て、時計と一つになった時には、もうすでに物の次元を超えてアストラルの次元に入り、三昧に入っている。そうでないとこの中には入れないのです。物の次元を超えた次元に入ると、この時計の中にスポッと入れる。それは物の次元で入るのではない。アストラルの次元に入ると、スポッと入れてしまうのです。入れたら、この中のネジの動きとかICの動きというものがみな分かる。(中略)本当に入れた時には、この時計を止めようと思ったら、止めることもできるのです。それが三昧の状態なのです。
この、現実との一致に関しては、特に仕事において判断を任されている場合にゾーンでの直視を元に普通の理性的な論理的な頭を使って検証しつつ判断を行う、ということを行います。
ゾーンが特に欧米のエリートにおいて注目されているのはここで、物事のあり様を直視してありのままに理解およびその解決法を素早く瞬時に出せるので判断が早くなり、結果として当然のことながら企業の成長につながるわけです。
真理を目指す者からすれば企業の利益とか個人的利益とかはそれほどの関心事ではありませんけど、企業の中にいますと物事の正確さというものが求められますのでゾーン状態で直視したものが正しいかどうかが常に検証を求められますので訓練になると思います。企業に入っていなければゾーンで直視したものが正しいかどうかなんて検証はそれほどされないかもしれず、霊能者がそう言ったとかいうお話にしても検証がどれだけされているか不明ですけど、企業におけるゾーンというお話であれば常にその発言および結果が厳しく問われるわけです。企業にいるというのは瞑想者にとって厳しい環境ではあると思うのですけど、ゾーン状態、それはつまりアストラル次元のサマーディの段階にあってはもしかしたら企業においてゾーン状態を極めるというのも一つの手法なのかもしれません。実際のところ私は10年来ずっとゾーンを仕事に活用してきましたのでゾーンは仕事に有用と思いますし、ゾーンによって随分と自分の感情を浄化できましたので仕事にも瞑想にも役立てることができて一石二鳥のように思いました。
実際のところ、私はゾーンで対象を理解することはあっても、物理的なものに対する理解および操作というのはできませんので、本山博先生がおっしゃるような意味での(アストラルの)三昧にはまだ達していないのかもしれません。
ゾーン状態では歓喜が沸き起こり、対象のことがよくわかり、感情的な高ぶりがあります。ですけそ、それは本山博先生のいうところのアストラルのサマーディ(三昧)のごく一部にしか過ぎなくて、それでも、それにより浄化は進みますから有用なのかなと思います。
ゾーン状態においては自分の心の奥底が「剥き出し」になって対象を直視しますから、心の奥底にあるトラウマ・抑圧された感情が吹き出してきたりします。それでも対象のことはよくわかりますし、半覚醒の状態で半分は無意識が思考を続けることで対象のことがよくわかり、解決に素早く導きます。
ゾーン状態とは言っても最初は単なる極度の集中状態における歓喜から始まって、やがては心の奥底にある本性が対象を直視するように変化します。その時、心がむき出しになっていますので周囲からの大きな怒鳴り声や騒音には敏感になりますので、やもすれば心に深刻なダメージを受けることもありますので周囲の理解も必要です。日本の会社の場合は騒がしかったり急に怒鳴って話しかけてくるような方もいらっしゃいますのでゾーンで仕事をしていたら邪魔が入って心が取り返しのつかない大きなダメージを受けることにもなりかねません。そこは注意した方がいいかと思います。
ゾーン状態では色々なことがわかって、他人のために役立てようという気持ちも自然に生まれます。
三昧に入るといろいろなことがわかって、こうしなければいけないということが自然に分かるから、その人を成り立たせてあげられるような叡智が湧いてくるはずなのです。それから、世の中が大きく、神様のマネージによってこう働いているのだということが分かれば、相手が成り立つように助けてあげようと思うようになるのです。「本山博著作集8」
最初は自分の利益のためにゾーンを求めて瞑想を始めたとしても、やがてはゾーンあるいはサマーディ(三昧)に達することで利他の気持ちが芽生えるわけです。
神霊(プルシャ)は強い力で入ってくる
本山博先生の著作によると、ある段階において神霊(プルシャ)の流入現象が起きるとのことです。
まだ本当に神霊(プルシャ)と一つになれる程にはなっていないのです。本当に一つになれるようになったら、神霊(プルシャ)の方から凄い力が入ってくるようになるのです。必ず流入というのが起きる。「本山博著作集8」
プルシャはまだ「個」としての感覚があるが、その一つ上の創造神に至ると個としての感覚はなくなるようです。
この、流入というものは感覚的なお話ですので、流入というからにはサハスララから入ってくる、というイメージなのですけど、どの場所から、というような記述は今のところ見つけられませんでした。アナハタおよび体全体に満ちる感覚というのであれば私の場合は胸の奥の神意識が現れた時が流入といえば流入だったかもしれませんけど、同じことかどうかはわかりません。
「合一」という点に関してはプルシャだけでなくカラーナの次元でも同様に起きるようですので、私の上記の体験がプルシャの体験である可能性もあればカラーナの体験だった可能性もあります。
・物質の次元
・アストラル次元 感情的な世界。一般的な感情のある霊。霊と合一するときもある。
・カラーナ(コーザル、原因)次元 カルマの原因となる世界。
・プルシャの次元 個としての神霊
・創造神 全体としての神
特にカラーナとプルシャの違いですが、以下のような記述が手がかりになります。
カラーナの次元というのは、形とか叡智とか愛というものがその心にとっては非常に大事なのです。ある形をとると、その形のところにエネルギーが集まってくる。そしてそのエネルギーが集まったところで、カラーナの次元の心がそれを統一する、秩序を与える 「本山博著作集8」
私の場合の創造・破壊・維持のアナハタの意識が出てきたものはプルシャの次元に相当する気もしますけど読みようによってはカラーナと解釈することもできます。ですけど、私のアナハタの意識は外部条件によって増えたり減ったりはしない普遍的なものですので、叡智とか愛とかに関しては該当はしますけど、非常に大切かというと、叡智や愛に依存しているわけではなくて叡智や愛そのものが私の創造・破壊・維持のアナハタの意識ですので、上記の記述でいうような条件付けされたようなものではないため、なんだかプルシャに相当すると考えた方がしっくりきます。
このあたりはまだ保留事項ですかね。様子を見ていきます。
まだ本当に神霊(プルシャ)と一つになれる程にはなっていないのです。本当に一つになれるようになったら、神霊(プルシャ)の方から凄い力が入ってくるようになるのです。必ず流入というのが起きる。「本山博著作集8」
プルシャはまだ「個」としての感覚があるが、その一つ上の創造神に至ると個としての感覚はなくなるようです。
この、流入というものは感覚的なお話ですので、流入というからにはサハスララから入ってくる、というイメージなのですけど、どの場所から、というような記述は今のところ見つけられませんでした。アナハタおよび体全体に満ちる感覚というのであれば私の場合は胸の奥の神意識が現れた時が流入といえば流入だったかもしれませんけど、同じことかどうかはわかりません。
「合一」という点に関してはプルシャだけでなくカラーナの次元でも同様に起きるようですので、私の上記の体験がプルシャの体験である可能性もあればカラーナの体験だった可能性もあります。
・物質の次元
・アストラル次元 感情的な世界。一般的な感情のある霊。霊と合一するときもある。
・カラーナ(コーザル、原因)次元 カルマの原因となる世界。
・プルシャの次元 個としての神霊
・創造神 全体としての神
特にカラーナとプルシャの違いですが、以下のような記述が手がかりになります。
カラーナの次元というのは、形とか叡智とか愛というものがその心にとっては非常に大事なのです。ある形をとると、その形のところにエネルギーが集まってくる。そしてそのエネルギーが集まったところで、カラーナの次元の心がそれを統一する、秩序を与える 「本山博著作集8」
私の場合の創造・破壊・維持のアナハタの意識が出てきたものはプルシャの次元に相当する気もしますけど読みようによってはカラーナと解釈することもできます。ですけど、私のアナハタの意識は外部条件によって増えたり減ったりはしない普遍的なものですので、叡智とか愛とかに関しては該当はしますけど、非常に大切かというと、叡智や愛に依存しているわけではなくて叡智や愛そのものが私の創造・破壊・維持のアナハタの意識ですので、上記の記述でいうような条件付けされたようなものではないため、なんだかプルシャに相当すると考えた方がしっくりきます。
このあたりはまだ保留事項ですかね。様子を見ていきます。
創造神の宗教による理解の違い
本山博先生の著作に同様の記述があり、興味深いです。
・ヨーガ系 プルシャが最上
・ヒンズー ブラフマンが創造神に相当するがブラフマンはアートマンと本質的に全く同じと考える。一人ひとりの人間の中でブラフマンがアートマンとして顕れて働いているという意味が強い。創造よりも顕現という考え方が強い。
・キリスト教 創造神と人間は、現在を犯す前の魂であったとしても、断絶がある。創造神は「創造する」という意味合いがとても強い。
「本山博著作集8」より抜粋
プルシャの上に創造神があって、ヨーガではプルシャが目的地ですがヒンズーのヴェーダンタなどではプルシャに相当するアートマンの上に創造神に相当するブラフマンがあるわけで、かと言って、創造神というものの捉え方にしても顕現なのか創造なのかで違いがあるわけですね。
本山博先生の世界観では顕現というよりも創造という意味合いにおける創造神が最高に位置付けられているようです。
そして、世界に存在する個別の神々は全てプルシャとして位置付けられていて、その上に絶対唯一である創造神がいるわけです。
これは一見すると一神教のように見えてしまうかもしれませんけど普通の人が考える神というのはプルシャ(神霊)相当ですから日本の八百万の神もプルシャに相当するわけで、それを超えたところに絶対唯一の創造神がいるわけですから、非常に理にかなっていると言えます。
人格神としてはプルシャ(神霊)で、「全体」としての唯一の神を創造神として位置づけるわけです。
これはもはや、一神教なのか多神教なのかという既存の区別を超えて両者の立場をも包括する解釈ですので世界宗教になり得る基盤としての考え方になり得るように思います。
・ヨーガ系 プルシャが最上
・ヒンズー ブラフマンが創造神に相当するがブラフマンはアートマンと本質的に全く同じと考える。一人ひとりの人間の中でブラフマンがアートマンとして顕れて働いているという意味が強い。創造よりも顕現という考え方が強い。
・キリスト教 創造神と人間は、現在を犯す前の魂であったとしても、断絶がある。創造神は「創造する」という意味合いがとても強い。
「本山博著作集8」より抜粋
プルシャの上に創造神があって、ヨーガではプルシャが目的地ですがヒンズーのヴェーダンタなどではプルシャに相当するアートマンの上に創造神に相当するブラフマンがあるわけで、かと言って、創造神というものの捉え方にしても顕現なのか創造なのかで違いがあるわけですね。
本山博先生の世界観では顕現というよりも創造という意味合いにおける創造神が最高に位置付けられているようです。
そして、世界に存在する個別の神々は全てプルシャとして位置付けられていて、その上に絶対唯一である創造神がいるわけです。
これは一見すると一神教のように見えてしまうかもしれませんけど普通の人が考える神というのはプルシャ(神霊)相当ですから日本の八百万の神もプルシャに相当するわけで、それを超えたところに絶対唯一の創造神がいるわけですから、非常に理にかなっていると言えます。
人格神としてはプルシャ(神霊)で、「全体」としての唯一の神を創造神として位置づけるわけです。
これはもはや、一神教なのか多神教なのかという既存の区別を超えて両者の立場をも包括する解釈ですので世界宗教になり得る基盤としての考え方になり得るように思います。