最初は一時的な「経験」なわけです。そのうち、次第に少しずつその瞑想状態は日常生活と融合します。
瞑想をして、最初は割と雑多な雑観・雑念が出てきますけどそれは自生のエネルギーの現れですので、それを抑えずにそのまま観察し、流し続けます。これは瞑想の基本で、雑念が現れてもそれに逆らわず受け流すという方法です。
そうして瞑想を続けていくと、不意に雑念が途切れて、エネルギーが少し高まって、背筋が少しピンと伸びて、頭が少し上に上がり、その直前と比べて少し静寂の境地が深まります。
これは程度問題で、ある程度の静寂の境地であっても多少の雑念は出てきて、それは自生のエネルギーですので出ては消えてゆく、そのような自然界の現象のようなものなわけです。それでもある程度の静寂の境地ということはできて、その静寂の境地にしても、雑念の量によって深さが変わってくるわけです。
雑念が少しあるけれども一応は静寂の境地の状態では、意識の上に薄い幕のようなものがヴェールとして被さっています。
そうして、上記のように不意にエネルギーが高まって静寂の境地が深まると、その薄いヴェールもう少し薄くなるわけです。元々薄いヴェールが更に薄くなってもまだ少しヴェールはあるのですけど、これは程度問題で、感覚的に、薄いヴェールが更に薄くなったと感じられるわけです。
元々はかなり厚い黒い暗いヴェールだったものがある程度の薄さになって静寂の境地と言えるような状態になって、それでも、更にそれを薄くしてゆく段階があるということだと思います。
元々静寂の境地というのは日常生活においてヴィパッサナーの観察状態が継続できる基礎になっているわけですけれども、それでも、日常生活でその状態を継続するのには限界がありました。ある程度の日常生活を続けると普通の昔の状態に少しずつ戻ってきて、またヴィパッサナー状態にするために瞑想をする、ということを繰り返してきたわけです。
今も瞑想をする必要があるところは変わらないのですけど、以前より、日常生活のヴィパッサナーが続くようになって、観察状態で日常生活をする時に必要な「努力」がかなり不要になってきたように思います。
これは程度問題ですので同じようなことを以前にも書いたように思いますけど、ここ最近は、程度は違えども、表現的には同じようなことをして静寂の境地を深めつつあります。