清浄な平穏の筈なのにどこか清浄になり切れない境地
基本的には静寂で平穏の筈なのにどこか清浄になり切れない境地の瞑想がここ最近は続いています。
これは湿気のようなもので、梅雨から晴れて晴れ晴れとした天気になった筈なのにどこかまだ梅雨の余韻と言いますか、何かまだ完全に晴れになり切れていない部分を感じているわけです。
これは油井真砂先生の著作に似たようなことが書いてあり、空になり切ったという煩悩それ自体が薄雲のようにかかってくる、と表現されていてまさに今の状況のような気が致します。同書によりますと以下のようにあります。
清濁一如の妙機が得られて居ないから、それで、つい空に著するといふことになる。(中略)空によつて生ずる「空病」としての煩惱である。「信心と坐禪(油井真砂 著)」
この後、「空」に対する最後の煩悩が空じられて、色即是空および煩悩即菩薩の境地に至れば大悟徹底される、と同書は説きます。
理屈ではその通りだなと思うのですけど、私の場合、まだどこかに薄雲のように最後の煩悩が残っているのを感じます。そのことを自覚できただけでも進歩とはいえますけど、ここが微妙で、手が届きそうで届かない、何か不思議なところであります。
こうした微妙な機微といふものは、自から言詮の彼方に於て自證(じしょう)・自得される筈のもの「信心と坐禪(油井真砂 著)」
ということで、確かに、誰かに聞いてもわかるものでもありませんし、書籍にもほとんど書いていなくて、自分だけが頼りな状況です。自分だけが頼りとは言ってもそれは人としてのお話で、信仰面でいえば神様に頼るといういわば他力本願の状況であるわけです。
少し今までは、梅雨の間に時折青空が見えて晴れ晴れとした空を見ていてまた梅雨に戻っていた、という感じでした。最近は梅雨が本格的に明けて、しかし、梅雨が開けたばかりの薄雲がかかっている状態なわけです。
ここから更に突破するには、他力本願で自他同一の境地になる必要があるのかなと思います。
これは湿気のようなもので、梅雨から晴れて晴れ晴れとした天気になった筈なのにどこかまだ梅雨の余韻と言いますか、何かまだ完全に晴れになり切れていない部分を感じているわけです。
これは油井真砂先生の著作に似たようなことが書いてあり、空になり切ったという煩悩それ自体が薄雲のようにかかってくる、と表現されていてまさに今の状況のような気が致します。同書によりますと以下のようにあります。
清濁一如の妙機が得られて居ないから、それで、つい空に著するといふことになる。(中略)空によつて生ずる「空病」としての煩惱である。「信心と坐禪(油井真砂 著)」
この後、「空」に対する最後の煩悩が空じられて、色即是空および煩悩即菩薩の境地に至れば大悟徹底される、と同書は説きます。
理屈ではその通りだなと思うのですけど、私の場合、まだどこかに薄雲のように最後の煩悩が残っているのを感じます。そのことを自覚できただけでも進歩とはいえますけど、ここが微妙で、手が届きそうで届かない、何か不思議なところであります。
こうした微妙な機微といふものは、自から言詮の彼方に於て自證(じしょう)・自得される筈のもの「信心と坐禪(油井真砂 著)」
ということで、確かに、誰かに聞いてもわかるものでもありませんし、書籍にもほとんど書いていなくて、自分だけが頼りな状況です。自分だけが頼りとは言ってもそれは人としてのお話で、信仰面でいえば神様に頼るといういわば他力本願の状況であるわけです。
少し今までは、梅雨の間に時折青空が見えて晴れ晴れとした空を見ていてまた梅雨に戻っていた、という感じでした。最近は梅雨が本格的に明けて、しかし、梅雨が開けたばかりの薄雲がかかっている状態なわけです。
ここから更に突破するには、他力本願で自他同一の境地になる必要があるのかなと思います。
精神修行は一つの流派に絞った方がいいのかどうか
最初は直感、あるいは近所にある通いやすいところを選んだらいいと思います。
ヨーガなどは定期的に通うことが必要ですから通いやすくないと続かないわけです。
その上で、他に興味があったら受けてもいいとは思います。
基本は、どの流派であっても同じ(の筈)です。
ですけど、表現方法はそれぞれ違いがあって、この種の微妙なお話は文脈が重要で、同じ言葉を使ってはいても人によって意味合いが異なったりするわけです。ですから、理解という面においては同じ流派に通う方がいいと思います。
自分にそれなりの理解ができてきた後であれば違った表現を聞いても同じことだとわかりますが、そうでないと、同じ意味を言っているのにも関わらず表現方法が違うからと言ってあそことここは違う、みたいな誤解が生じてしまう可能性があります。であれば、それほど理解ができていない段階においては同じ流派に通った方が良いわけです。
かと言って一生、その流派に居続けるべきかというと、それは人それぞれなわけです。
人によっては一生かかってもその流派を学びきれないでしょうし、人によってはポイントだけ掴んで他の流派に行って、ということを繰り返すこともあるでしょう。
ただ、多くの場合は1つの流派で割と十分で、と言いますは、この種のお話は結局のところ自分で行うことですので、自分が修行できる環境があれば十分と言えばそうなわけで、流派にこだわる必要はさほどないわけです。
自分に理解ができていない段階でいろいろなところを彷徨うと時間ばかり使ってしまいますので、とりあえず通いやすいところで何かしてみるのが良いと思います。
もちろん、選ぶ際は、しっかりした指導者がいて、変な指導者ではない、などという一般常識に照らし合わせることは必要です。
ヨーガなどは定期的に通うことが必要ですから通いやすくないと続かないわけです。
その上で、他に興味があったら受けてもいいとは思います。
基本は、どの流派であっても同じ(の筈)です。
ですけど、表現方法はそれぞれ違いがあって、この種の微妙なお話は文脈が重要で、同じ言葉を使ってはいても人によって意味合いが異なったりするわけです。ですから、理解という面においては同じ流派に通う方がいいと思います。
自分にそれなりの理解ができてきた後であれば違った表現を聞いても同じことだとわかりますが、そうでないと、同じ意味を言っているのにも関わらず表現方法が違うからと言ってあそことここは違う、みたいな誤解が生じてしまう可能性があります。であれば、それほど理解ができていない段階においては同じ流派に通った方が良いわけです。
かと言って一生、その流派に居続けるべきかというと、それは人それぞれなわけです。
人によっては一生かかってもその流派を学びきれないでしょうし、人によってはポイントだけ掴んで他の流派に行って、ということを繰り返すこともあるでしょう。
ただ、多くの場合は1つの流派で割と十分で、と言いますは、この種のお話は結局のところ自分で行うことですので、自分が修行できる環境があれば十分と言えばそうなわけで、流派にこだわる必要はさほどないわけです。
自分に理解ができていない段階でいろいろなところを彷徨うと時間ばかり使ってしまいますので、とりあえず通いやすいところで何かしてみるのが良いと思います。
もちろん、選ぶ際は、しっかりした指導者がいて、変な指導者ではない、などという一般常識に照らし合わせることは必要です。
無念無想を繰り返すことで日常生活での瞑想状態が継続するようになる
最初は一時的な「経験」なわけです。そのうち、次第に少しずつその瞑想状態は日常生活と融合します。
瞑想をして、最初は割と雑多な雑観・雑念が出てきますけどそれは自生のエネルギーの現れですので、それを抑えずにそのまま観察し、流し続けます。これは瞑想の基本で、雑念が現れてもそれに逆らわず受け流すという方法です。
そうして瞑想を続けていくと、不意に雑念が途切れて、エネルギーが少し高まって、背筋が少しピンと伸びて、頭が少し上に上がり、その直前と比べて少し静寂の境地が深まります。
これは程度問題で、ある程度の静寂の境地であっても多少の雑念は出てきて、それは自生のエネルギーですので出ては消えてゆく、そのような自然界の現象のようなものなわけです。それでもある程度の静寂の境地ということはできて、その静寂の境地にしても、雑念の量によって深さが変わってくるわけです。
雑念が少しあるけれども一応は静寂の境地の状態では、意識の上に薄い幕のようなものがヴェールとして被さっています。
そうして、上記のように不意にエネルギーが高まって静寂の境地が深まると、その薄いヴェールもう少し薄くなるわけです。元々薄いヴェールが更に薄くなってもまだ少しヴェールはあるのですけど、これは程度問題で、感覚的に、薄いヴェールが更に薄くなったと感じられるわけです。
元々はかなり厚い黒い暗いヴェールだったものがある程度の薄さになって静寂の境地と言えるような状態になって、それでも、更にそれを薄くしてゆく段階があるということだと思います。
元々静寂の境地というのは日常生活においてヴィパッサナーの観察状態が継続できる基礎になっているわけですけれども、それでも、日常生活でその状態を継続するのには限界がありました。ある程度の日常生活を続けると普通の昔の状態に少しずつ戻ってきて、またヴィパッサナー状態にするために瞑想をする、ということを繰り返してきたわけです。
今も瞑想をする必要があるところは変わらないのですけど、以前より、日常生活のヴィパッサナーが続くようになって、観察状態で日常生活をする時に必要な「努力」がかなり不要になってきたように思います。
これは程度問題ですので同じようなことを以前にも書いたように思いますけど、ここ最近は、程度は違えども、表現的には同じようなことをして静寂の境地を深めつつあります。
瞑想をして、最初は割と雑多な雑観・雑念が出てきますけどそれは自生のエネルギーの現れですので、それを抑えずにそのまま観察し、流し続けます。これは瞑想の基本で、雑念が現れてもそれに逆らわず受け流すという方法です。
そうして瞑想を続けていくと、不意に雑念が途切れて、エネルギーが少し高まって、背筋が少しピンと伸びて、頭が少し上に上がり、その直前と比べて少し静寂の境地が深まります。
これは程度問題で、ある程度の静寂の境地であっても多少の雑念は出てきて、それは自生のエネルギーですので出ては消えてゆく、そのような自然界の現象のようなものなわけです。それでもある程度の静寂の境地ということはできて、その静寂の境地にしても、雑念の量によって深さが変わってくるわけです。
雑念が少しあるけれども一応は静寂の境地の状態では、意識の上に薄い幕のようなものがヴェールとして被さっています。
そうして、上記のように不意にエネルギーが高まって静寂の境地が深まると、その薄いヴェールもう少し薄くなるわけです。元々薄いヴェールが更に薄くなってもまだ少しヴェールはあるのですけど、これは程度問題で、感覚的に、薄いヴェールが更に薄くなったと感じられるわけです。
元々はかなり厚い黒い暗いヴェールだったものがある程度の薄さになって静寂の境地と言えるような状態になって、それでも、更にそれを薄くしてゆく段階があるということだと思います。
元々静寂の境地というのは日常生活においてヴィパッサナーの観察状態が継続できる基礎になっているわけですけれども、それでも、日常生活でその状態を継続するのには限界がありました。ある程度の日常生活を続けると普通の昔の状態に少しずつ戻ってきて、またヴィパッサナー状態にするために瞑想をする、ということを繰り返してきたわけです。
今も瞑想をする必要があるところは変わらないのですけど、以前より、日常生活のヴィパッサナーが続くようになって、観察状態で日常生活をする時に必要な「努力」がかなり不要になってきたように思います。
これは程度問題ですので同じようなことを以前にも書いたように思いますけど、ここ最近は、程度は違えども、表現的には同じようなことをして静寂の境地を深めつつあります。
サマーディにおける想念の観察と動作の観察の割合の変化
以前は、日常生活におけるサマーディが想念の観察か動作の観察か、どちらか一方に比重が偏る感じでした。想念の観察を重視しているときは想念80:動作20くらいの観察になり、逆に、動作の観察を重視するときは想念20:動作80くらいの観察になっていました。それが、ここ最近は想念と動作の両方がそれなりに同時に観察できるようになってきたように思います。
これは日常生活でのお話ですけど、一応は、座った時の瞑想でもこの割合が効いてきます。ですけど座った瞑想の場合ばこの種のお話はあまり問題にならなくて、座った瞑想状態ではそもそも五感の入力が低下していますし、目を開けた瞑想であれば視覚の入力はありますけど目を瞑った瞑想でもすれば心の面が優位に観察されて五感の観察の割合がどうしても減少します。
しかしながら、普段の生活においては五感が普通に働きますので、その状態における観察では、五感に集中して五感優位で観察する時と、心の動きが優位で観察する時とがあって、今まではどちらか片方に偏っている状況でした。基本的に心というものは一つのことしか意識できなくて、心を観察するか、五感を観察するのか、どちらか一方が優勢だったように思います。
しかし、ここにきて、この割合が変化してきました。
今は、意識的にこの割合を変えることができて、想念50:動作50、などが可能になりました。
そうは言いましても完全にその割合というわけでもなくて時によって違うわけですけれども、両方の観察が継続するようになったように思います。
これは単なる割合ということ以上の意味合いがあるように思えて、それは、想念や動作よりも更に一歩上の階層で自分自身を観察(ヴィパッサナー)できるようになってきたのかな、と思っております。
表現として「同じ割合」としてしまうと、何か語弊があるような気もしております。
ヨーガでは肉体(粗大な体、ストゥーラ・シャリーラ)、微細な体(スークシュマ・シャリーラ)、原因体(カーラナ・シャリーラ)、アートマン(あるいはプルシャ)という体の階層がありますけど、サマーディがまだそれほどではない場合は五感の観察はできるものマインドの観察はまだしにくい状態にあって、次第にサマーディが深まってアートマンのサマーディに近づけば近づくほどマインドの観察もしやすくなるのかな、と解釈しています。
であれば、体感的には「同じ割合」ということにもなりますけど、五感もマインドもどちらも下の階層になって観察(ヴィパッサナー)できるようになればどちらも観察の感覚的には同じ割合、ということになるのかな、と解釈しています。
こうなるにつれて観察のしやすさも断然変わってきて、努力というものがどんどんと不要になってきて、日常生活と観察(ヴィパッサナー、サマーディ)が次第に融合されていくのを感じます。
これは日常生活でのお話ですけど、一応は、座った時の瞑想でもこの割合が効いてきます。ですけど座った瞑想の場合ばこの種のお話はあまり問題にならなくて、座った瞑想状態ではそもそも五感の入力が低下していますし、目を開けた瞑想であれば視覚の入力はありますけど目を瞑った瞑想でもすれば心の面が優位に観察されて五感の観察の割合がどうしても減少します。
しかしながら、普段の生活においては五感が普通に働きますので、その状態における観察では、五感に集中して五感優位で観察する時と、心の動きが優位で観察する時とがあって、今まではどちらか片方に偏っている状況でした。基本的に心というものは一つのことしか意識できなくて、心を観察するか、五感を観察するのか、どちらか一方が優勢だったように思います。
しかし、ここにきて、この割合が変化してきました。
今は、意識的にこの割合を変えることができて、想念50:動作50、などが可能になりました。
そうは言いましても完全にその割合というわけでもなくて時によって違うわけですけれども、両方の観察が継続するようになったように思います。
これは単なる割合ということ以上の意味合いがあるように思えて、それは、想念や動作よりも更に一歩上の階層で自分自身を観察(ヴィパッサナー)できるようになってきたのかな、と思っております。
表現として「同じ割合」としてしまうと、何か語弊があるような気もしております。
ヨーガでは肉体(粗大な体、ストゥーラ・シャリーラ)、微細な体(スークシュマ・シャリーラ)、原因体(カーラナ・シャリーラ)、アートマン(あるいはプルシャ)という体の階層がありますけど、サマーディがまだそれほどではない場合は五感の観察はできるものマインドの観察はまだしにくい状態にあって、次第にサマーディが深まってアートマンのサマーディに近づけば近づくほどマインドの観察もしやすくなるのかな、と解釈しています。
であれば、体感的には「同じ割合」ということにもなりますけど、五感もマインドもどちらも下の階層になって観察(ヴィパッサナー)できるようになればどちらも観察の感覚的には同じ割合、ということになるのかな、と解釈しています。
こうなるにつれて観察のしやすさも断然変わってきて、努力というものがどんどんと不要になってきて、日常生活と観察(ヴィパッサナー、サマーディ)が次第に融合されていくのを感じます。
両頬を意識してイダとピンガラを活性化させる
瞑想中、ほほをそれぞれ意識することでヨーガで言うところのイダとピンガラという主要なエネルギーのルートを活性化することができます。
イダとピンガラは胸より下の方から首の両側を経由して頬を通り、更には目の真ん中より外寄りを通って頭の上の方にまでエネルギーのルートが通じています。
イダとピンガラのルートには諸説あって、体の中をぐるぐると螺旋状に回転しているという説も流派によってはありますけど、私の自身の実感及び流派によってはただ単に体の左右を上下に通じているルートなわけです。
螺旋状に回っている、という流派の書籍を読むと「イダとピンガラは体の中でどのようなルートになっているのか意識できない」みたいなことが書いてありますけど、そんなことはないです。はっきりとイダとピンガラは意識できますので、意識できないということはそのくらいのレベルの人が書いたお話なのかな、という気も致します。
最初はイダとピンガラを意識できませんけど、これらははっきりと意識できるものです。
特に、ほほの辺りは意識しやすくて、肉体の見た目には出てきませんけど、エネルギー的にはアニメの「デビルマン」の目から伸びている筋がもっと下の喉の両脇および首、そして体の左右に通じていて、デビルマンの目の下の模様および両方の胸にある2つの模様とかは、ちょっと実際のイダとピンガラとは違いますけど、なんとなく雰囲気は出ていると思います。数十年前の古典バージョンの方のことです。
ヨーガの呼吸法のアヌローマヴィローマは片鼻づつ行う呼吸法ですけど、呼吸法というよりも実際はプラーナというエネルギーを扱う技法ですので、呼吸を伴わなくても意識でイダとピンガラを意識してエネルギーを透しさえすれば実際は同じことなわけです。
これは、イダとピンガラを知らなくてそうと意識しなくてもただほほを意識することで割と同じ効果が出たりしますので呼吸法として色々なところで教えられていて、主にリラックス法として伝えられていますけど、単なるリラックスだけではなくて、エネルギーを強烈に活性化させる手法な訳です。
最初は呼吸を伴った方がやりやすいと言えばそうで、クンバカ(止息)を伴う片鼻交互呼吸法(アヌローマヴィローマ)によってイダとピンガラが活性化するわけです。そして、ある程度のイダとピンガラの活性化が行われた後はクンダリーニが活性化します。
ヨーガでは意外に割とイダとピンガラが軽視されていてクンダリーニのことばかり気にされているように思いますけど、実際は、イダとピンガラが活性化することでクンダリーニが動き出すわけで、イダとピンガラなしのクンダリーニなどあり得ないわけです。ですからイダとピンガラをきちんと活性化するのはとても重要で、そのためにアヌローマヴィローマをしたり、あるいは、呼吸法としてではなく、直接的にイダとピンガラを意識することでイダとピンガラを活性化させるわけです。
最初は体の方にもルートが通っていませんから、最初はほほを意識しても何も起きないと思います。その時は、体の各所、少しずつ意識をして少しずつルートを通す必要があるわけです。
私の場合、最近の課題としては頬から頭頂にかけてのルートが細くなりがちで、瞑想で特に頬を意識することで頭頂のサハスララにまでエネルギーをしっかり通してあげるようにしています。
普通に眉間に意識を合わせるのが瞑想の基本ではありますのでそうしてエネルギーを通することで次第にイダとピンガラが活性化してゆきますけど、問題となっている箇所がはっきりしているのならばその箇所、この場合はイダとピンガラ、特に頬のああたりを意識してあげるとすぐにサハスララにまでエネルギーが通りますので、単純に眉間に意識しているより効率がいいように思います。
イダとピンガラ。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著) 」より

「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」の図

イダとピンガラは胸より下の方から首の両側を経由して頬を通り、更には目の真ん中より外寄りを通って頭の上の方にまでエネルギーのルートが通じています。
イダとピンガラのルートには諸説あって、体の中をぐるぐると螺旋状に回転しているという説も流派によってはありますけど、私の自身の実感及び流派によってはただ単に体の左右を上下に通じているルートなわけです。
螺旋状に回っている、という流派の書籍を読むと「イダとピンガラは体の中でどのようなルートになっているのか意識できない」みたいなことが書いてありますけど、そんなことはないです。はっきりとイダとピンガラは意識できますので、意識できないということはそのくらいのレベルの人が書いたお話なのかな、という気も致します。
最初はイダとピンガラを意識できませんけど、これらははっきりと意識できるものです。

ヨーガの呼吸法のアヌローマヴィローマは片鼻づつ行う呼吸法ですけど、呼吸法というよりも実際はプラーナというエネルギーを扱う技法ですので、呼吸を伴わなくても意識でイダとピンガラを意識してエネルギーを透しさえすれば実際は同じことなわけです。
これは、イダとピンガラを知らなくてそうと意識しなくてもただほほを意識することで割と同じ効果が出たりしますので呼吸法として色々なところで教えられていて、主にリラックス法として伝えられていますけど、単なるリラックスだけではなくて、エネルギーを強烈に活性化させる手法な訳です。
最初は呼吸を伴った方がやりやすいと言えばそうで、クンバカ(止息)を伴う片鼻交互呼吸法(アヌローマヴィローマ)によってイダとピンガラが活性化するわけです。そして、ある程度のイダとピンガラの活性化が行われた後はクンダリーニが活性化します。
ヨーガでは意外に割とイダとピンガラが軽視されていてクンダリーニのことばかり気にされているように思いますけど、実際は、イダとピンガラが活性化することでクンダリーニが動き出すわけで、イダとピンガラなしのクンダリーニなどあり得ないわけです。ですからイダとピンガラをきちんと活性化するのはとても重要で、そのためにアヌローマヴィローマをしたり、あるいは、呼吸法としてではなく、直接的にイダとピンガラを意識することでイダとピンガラを活性化させるわけです。
最初は体の方にもルートが通っていませんから、最初はほほを意識しても何も起きないと思います。その時は、体の各所、少しずつ意識をして少しずつルートを通す必要があるわけです。
私の場合、最近の課題としては頬から頭頂にかけてのルートが細くなりがちで、瞑想で特に頬を意識することで頭頂のサハスララにまでエネルギーをしっかり通してあげるようにしています。
普通に眉間に意識を合わせるのが瞑想の基本ではありますのでそうしてエネルギーを通することで次第にイダとピンガラが活性化してゆきますけど、問題となっている箇所がはっきりしているのならばその箇所、この場合はイダとピンガラ、特に頬のああたりを意識してあげるとすぐにサハスララにまでエネルギーが通りますので、単純に眉間に意識しているより効率がいいように思います。
イダとピンガラ。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著) 」より

「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」の図

未分化のスピリチュアルから合一へ
最初は、単に未分化の、割と原始的なスピリチュアルから始まります。ただ単に分離されていなくて、全てが同一に見えて、その時は、個というものはほとんどなく、所有という観点もあまりなく、ものや考え方などが単に共有されている世界です。
これは理想のように見えるかもしれませんが、実はただ単に原始的なだけで、今でも先住民族などの社会においてこの原始的なスピリチュアルは生き残っています。
先住民族だけでなく、社会としても、例えば韓国のような社会は割とこの傾向があって、社会として未分化のスピリチュアルの段階にいますので分離されていなくて、個というものがあるようでいてなくて、実際のところ、何もかもが自分のように思えてしまう状態な人が多いわけです。そのような状態ですから、韓国の人たちが日本由来の多くの事柄に対して「これは韓国の出自だ」とか主張してしまうのも、日本の人たちからすれば「一体何をバカなこと言っているのだ」ということになりますけど、韓国の当の人たちにしてみればただ単に見解が分離されていなくて、本当に自分がやった成果かのように見えているのです。ですからそれほど悪気があるわけでもなくて、割と本当に自分たちのものだと思っているわけです。現実にはもちろん違うわけですけれども。
そのような社会は韓国だけでなく、身近なところで言えば沖縄やアイヌの人たちにも同様の傾向があって、そのようなところは先祖の主要な霊たちと交流することが今でもできるわけですけれども、そのようなことができるベースとして、そもそも未分化のスピリチュアルという土台があって、先祖の霊であろうと素直に自分の受け入れる基礎があって、自分の体及び自分の魂と他の魂とを一時的に融合させることでスピリチュアルを実現しているという面があるわけです。
そのような割と同一の傾向がありますから、最近見た映像でいうと、何故か韓国の人がアイヌの先住民族の儀式に混ざって韓国旗を服につけながら儀式をしているという意味不明なことが起こるのも、韓国のその種の段階にいる人たちはアイヌであろうと何であろうと自分自身のことだと思ってしまう、未分化のスピリチュアルの段階にいて、アイヌの側としても割と同じ傾向があったりしますから、そのような意味不明なことであっても受け入れてしまったりするわけです。
そのような未分化の状態から、日本など割と先進諸国であるような分離の状態に移行します。この分離の状態は退化ではなくて、それもまた一つのスピリチュアルの段階とみなされます。割とこの分離は悪者扱いされることがスピリチュアル業界では多いような気が致しますけど、この分離を学んでこそ次の段階へと進めるわけです。
それは説明としてはヨーガやヴェーダでいうカリユガの時代の説明とか、フラワー・オブ・ライフの螺旋状の成長の説明、あるいは神智学による解釈などがそれに相当します。
これは西洋社会を上に見るためのうがった見方だという批判も一部にはありますけど私が幽体離脱して過去と未来の自分自身の成長を見た結果、どうやらこの種の、一時的にでも分離を経験することはスピリチュアル的にとても重要だと判断しましたので、このお話は、西洋優位という考え方に結びつくのは良くないですけど、単にスピリチュアル的な階梯ということであれば正しいように思います。
これから日本も含めて世界の社会全体は、一度分離を体験した上での合一のスピリチュアルの段階へと移行します。
それは元々の未分化のスピリチュアルとは違って、個というものをある程度の基本としつつも合一された、全てが一つであることを知った上でのスピリチュアルになるわけです。
ですけど、もちろんそれには個人差があって、最初の未分化の段階に取り残されている人とか、分離の状態に取り残される人も出るわけで、その時は、社会全体がまた分離と未分化をサイクルで繰り返すまではなかなか次の段階に行きにくくなりますので、カリユガとかそのような分離の個を体験しやすい時代に個をしっかりと経験しておくのがいいと思います。
個というと語弊がありますけど、論理思考と言っても良いです。個の分離と論理思考は割とペアになっていて、実際はペアではなくて合一においても論理は働きますけど、個の分離があると論理思考がやりやすい、という面があります。そろそろ個の分離もしにくくて合一の時代になりますので、まだ未体験の人は論理思考と個の分離をセットに今の時代に経験しておくと今後の時代を生きやすくなると思います。
これは理想のように見えるかもしれませんが、実はただ単に原始的なだけで、今でも先住民族などの社会においてこの原始的なスピリチュアルは生き残っています。
先住民族だけでなく、社会としても、例えば韓国のような社会は割とこの傾向があって、社会として未分化のスピリチュアルの段階にいますので分離されていなくて、個というものがあるようでいてなくて、実際のところ、何もかもが自分のように思えてしまう状態な人が多いわけです。そのような状態ですから、韓国の人たちが日本由来の多くの事柄に対して「これは韓国の出自だ」とか主張してしまうのも、日本の人たちからすれば「一体何をバカなこと言っているのだ」ということになりますけど、韓国の当の人たちにしてみればただ単に見解が分離されていなくて、本当に自分がやった成果かのように見えているのです。ですからそれほど悪気があるわけでもなくて、割と本当に自分たちのものだと思っているわけです。現実にはもちろん違うわけですけれども。
そのような社会は韓国だけでなく、身近なところで言えば沖縄やアイヌの人たちにも同様の傾向があって、そのようなところは先祖の主要な霊たちと交流することが今でもできるわけですけれども、そのようなことができるベースとして、そもそも未分化のスピリチュアルという土台があって、先祖の霊であろうと素直に自分の受け入れる基礎があって、自分の体及び自分の魂と他の魂とを一時的に融合させることでスピリチュアルを実現しているという面があるわけです。
そのような割と同一の傾向がありますから、最近見た映像でいうと、何故か韓国の人がアイヌの先住民族の儀式に混ざって韓国旗を服につけながら儀式をしているという意味不明なことが起こるのも、韓国のその種の段階にいる人たちはアイヌであろうと何であろうと自分自身のことだと思ってしまう、未分化のスピリチュアルの段階にいて、アイヌの側としても割と同じ傾向があったりしますから、そのような意味不明なことであっても受け入れてしまったりするわけです。
そのような未分化の状態から、日本など割と先進諸国であるような分離の状態に移行します。この分離の状態は退化ではなくて、それもまた一つのスピリチュアルの段階とみなされます。割とこの分離は悪者扱いされることがスピリチュアル業界では多いような気が致しますけど、この分離を学んでこそ次の段階へと進めるわけです。
それは説明としてはヨーガやヴェーダでいうカリユガの時代の説明とか、フラワー・オブ・ライフの螺旋状の成長の説明、あるいは神智学による解釈などがそれに相当します。
これは西洋社会を上に見るためのうがった見方だという批判も一部にはありますけど私が幽体離脱して過去と未来の自分自身の成長を見た結果、どうやらこの種の、一時的にでも分離を経験することはスピリチュアル的にとても重要だと判断しましたので、このお話は、西洋優位という考え方に結びつくのは良くないですけど、単にスピリチュアル的な階梯ということであれば正しいように思います。
これから日本も含めて世界の社会全体は、一度分離を体験した上での合一のスピリチュアルの段階へと移行します。
それは元々の未分化のスピリチュアルとは違って、個というものをある程度の基本としつつも合一された、全てが一つであることを知った上でのスピリチュアルになるわけです。
ですけど、もちろんそれには個人差があって、最初の未分化の段階に取り残されている人とか、分離の状態に取り残される人も出るわけで、その時は、社会全体がまた分離と未分化をサイクルで繰り返すまではなかなか次の段階に行きにくくなりますので、カリユガとかそのような分離の個を体験しやすい時代に個をしっかりと経験しておくのがいいと思います。
個というと語弊がありますけど、論理思考と言っても良いです。個の分離と論理思考は割とペアになっていて、実際はペアではなくて合一においても論理は働きますけど、個の分離があると論理思考がやりやすい、という面があります。そろそろ個の分離もしにくくて合一の時代になりますので、まだ未体験の人は論理思考と個の分離をセットに今の時代に経験しておくと今後の時代を生きやすくなると思います。
「みんな一緒」とか言うスピリチュアル
それはとても高いレベルでは確かにそうで、ヨーガやヴェーダンタでアートマンとかブラフマンとかプルシャとか言われる段階ではそうですけど、だからと言って、普段の生活で他の人と全てを分かち合うとか「みんな一緒」とかいうお話にはならないわけです。
それはしっかり勉強すればわかることで、そのようにヴェーダンタ等で言っているのは「どんな人であっても根源としてのアートマンあるいはブラフマン、またはイーシュワラとか言われている存在は同じ」と言うだけであって、例えば、獣であっても人間であっても土であっても石であっても水であっても空気であっても全てはアートマンだ、と言っているわけです。
土は土であって、石ではありません。
同様に、水は水であって、空気ではありません。
人間は人間であって、獣ではありませんし、石でもありません。
その根源を見れば全てアートマンですけど、そのことと「みんな一緒に」みたいなお花畑のスピリチュアルとは関係ないわけです。お花畑のスピリチュアルでは「みんな一緒」「ワンネス、楽しい楽しい、みんなで踊りましょう」みたいなことを言っていますけど、そうやって踊っていても踊っていなくても変わりなくみんな同じアートマンで、踊っているからだとか、踊っているからだとか、そのような「条件付け」に左右されないのがアートマンなわけです。
それはいわば理解するしかないものということもできて、感情的に理解するものではないわけです。
感情的なスピリチュアルはお花畑でワンネスとか言っていますけどお花畑であろうと何であろうと、スピリチュアルとは無縁の生活を送っていても、獣のような人であっても、全てはワンネスでアートマンなわけです。そのような条件付けを超えているのがアートマンなわけです。
よくわかっていない人がやっているお花畑のスピリチュアルは要は「自分が傷つきたくない」というところが拠り所で、自分が傷付けられない条件付けとして色々な制約を周囲に課しているわけです。自分も相手を傷つけませんので貴方も私を傷つけないでください、という、ある種の合意がそこになされるわけです。
ですけど、実際のところ、何をしても全てはアートマンなのですから、そのような条件付けをすればするほど敏感になってしまい、症状としては「キレやすく」なってしまうわけです。スピリチュアルとか言っておきながらすぐにキレる人の種類のうちの1つはこれが原因です。
世の中の宗教者を見ればお互いに仲が悪いでしょう。そのようなレベルにおいては感情面でのスピリチュアルをしていて、お互いに足を引っ張ってしまい、なかなか先に進めないわけです。
それはしっかり勉強すればわかることで、そのようにヴェーダンタ等で言っているのは「どんな人であっても根源としてのアートマンあるいはブラフマン、またはイーシュワラとか言われている存在は同じ」と言うだけであって、例えば、獣であっても人間であっても土であっても石であっても水であっても空気であっても全てはアートマンだ、と言っているわけです。
土は土であって、石ではありません。
同様に、水は水であって、空気ではありません。
人間は人間であって、獣ではありませんし、石でもありません。
その根源を見れば全てアートマンですけど、そのことと「みんな一緒に」みたいなお花畑のスピリチュアルとは関係ないわけです。お花畑のスピリチュアルでは「みんな一緒」「ワンネス、楽しい楽しい、みんなで踊りましょう」みたいなことを言っていますけど、そうやって踊っていても踊っていなくても変わりなくみんな同じアートマンで、踊っているからだとか、踊っているからだとか、そのような「条件付け」に左右されないのがアートマンなわけです。
それはいわば理解するしかないものということもできて、感情的に理解するものではないわけです。
感情的なスピリチュアルはお花畑でワンネスとか言っていますけどお花畑であろうと何であろうと、スピリチュアルとは無縁の生活を送っていても、獣のような人であっても、全てはワンネスでアートマンなわけです。そのような条件付けを超えているのがアートマンなわけです。
よくわかっていない人がやっているお花畑のスピリチュアルは要は「自分が傷つきたくない」というところが拠り所で、自分が傷付けられない条件付けとして色々な制約を周囲に課しているわけです。自分も相手を傷つけませんので貴方も私を傷つけないでください、という、ある種の合意がそこになされるわけです。
ですけど、実際のところ、何をしても全てはアートマンなのですから、そのような条件付けをすればするほど敏感になってしまい、症状としては「キレやすく」なってしまうわけです。スピリチュアルとか言っておきながらすぐにキレる人の種類のうちの1つはこれが原因です。
世の中の宗教者を見ればお互いに仲が悪いでしょう。そのようなレベルにおいては感情面でのスピリチュアルをしていて、お互いに足を引っ張ってしまい、なかなか先に進めないわけです。
原始的なスピリチュアルから合一へ
「みんな一緒」とか言うスピリチュアルが息づいているのは世界に少なくとも3つの種類があるように思います。
1つは先住民族の精神性
1つは宗教者たちの精神性
1つは他国への静かな侵略(工作)をする時に反発を減らすための道具
まず、割と原始的なワンネスのスピリチュアルは原始的な先住民族の暮らしの中に息づいています。そもそも、原始的な社会においては「所有」の感覚がありませんので、そもそもワンネスという概念が当たり前すぎるわけです。ワンネスというのはその社会においては絶対的に正しいわけです。
同様に、先住民族というわけではないですけど韓国のように国全体の精神性が未熟な場合も他者と自分の違いがわからなくて、同様の精神性が根底にあったりします。これは必ずしもスピリチュアルという形で現れないこともあって、生活習慣や周囲の国に対する対応としてそれらの精神性が表れてきます。例えば、日本由来のものを韓国の人が「韓国由来だ」と主張して特許を取ったり普通に韓国発祥として商標登録をしたり商売しようとしますけど、それは精神性がまだ未熟なので、他者と自分の区別ができない、そもそも最初からワンネスの状態で生きていて、他者が行ったものも全て「自分がやった」こととして認識してしまいますから、文章を読んだりしただけで「これは自分の考えだ」と思ったり、ちょっと勉強すると「これは自分が考えた」みたいに本気で思ってしまったりするわけです。韓国のような社会の精神文化はこのように先住民族と比べて考えてみるととてもよく理解できて、社会の根底として、いわばワンネスがあるわけです。これはいい意味ではなくて、先住民族のように自分たちのルールで生きているだけならばいいですけど現代のように他者や他国と交流が盛んな社会において韓国のように「あれもこれも韓国が発明した」みたいなメンタリティで主張されてしまうと周囲としては迷惑なわけです。私は割と、韓国と先住民族を同じカテゴリで考えています。
スピリチュアルの人は一定数この種の「原始的なところに帰りましょう」という主張に寄り添っていて先住民族のスピリチュアルを信奉していたりしますけど、実際のところ、それは一周遅れのスピリチュアルになります。
スピリチュアルは合一と分離、また一つ上のレベルでの合一と分離ということを螺旋状のように繰り返しながら成長します。割と原始的なスピリチュアルで合一を経験して、その後、分離を学ぶわけです。そしてその後、また一つ上のレベルにおける合一を学んでゆきます。
今の時代はカリユガとも呼ばれている分離の時代で、先住民族は割とそのような中でも合一の精神性を保ってきたわけですけれども、それは、せっかくカリユガで分離を経験できる時代だったのにしっかりと時代に即した学習をしてこなかった、とてももったいない状況なわけです。
これからどんどんと合一の時代になりますけど、その時、昔ながらの素朴なワンネスでしか生きてこなかった人と、一旦は分離を経験してそれからまた合一になった人との間でもはや乗り越えられない深い溝ができると思います。単なる素朴なワンネスと分離を経験してからの合一に至った人では物事に対する理解の深さが段違いで、素朴なワンネスの意識で生きている人が合一のワンネスに至った人を理解するのはとても困難かもしれません。そのくらい意識に差がありますし、そのくらい違ってしまうと、素朴なワンネスの意識で生きている人が合一のワンネスを全く理解できなくて誤解して解釈してしまうことすらあるように思います。もはやお互いに理解し合うことは難しくなるのかもしれません。
じゃあ、今世界に大勢いる物質的な物欲的な人はそのような分離のスピリチュアルの段階にいるかというとそうでもなくて、実際は、そのような大多数の物質的な人々はここで言っているお話よりもう1周か2周前の分離の状態にいるわけで、分離の段階とは言っても何周か違っているので、大局から見ればどちらもスピリチュアルの一段階ではありますけど物質しか見えていない人は獣に近くて、精神的なことがそれなりに分かった上で一旦分離を学んで更なる合一のスピリチュアルへと行こうとしている人とは寄って立つところが全然違っていて、似たようでいて全く違ったお話であるわけです。
1つは先住民族の精神性
1つは宗教者たちの精神性
1つは他国への静かな侵略(工作)をする時に反発を減らすための道具
まず、割と原始的なワンネスのスピリチュアルは原始的な先住民族の暮らしの中に息づいています。そもそも、原始的な社会においては「所有」の感覚がありませんので、そもそもワンネスという概念が当たり前すぎるわけです。ワンネスというのはその社会においては絶対的に正しいわけです。
同様に、先住民族というわけではないですけど韓国のように国全体の精神性が未熟な場合も他者と自分の違いがわからなくて、同様の精神性が根底にあったりします。これは必ずしもスピリチュアルという形で現れないこともあって、生活習慣や周囲の国に対する対応としてそれらの精神性が表れてきます。例えば、日本由来のものを韓国の人が「韓国由来だ」と主張して特許を取ったり普通に韓国発祥として商標登録をしたり商売しようとしますけど、それは精神性がまだ未熟なので、他者と自分の区別ができない、そもそも最初からワンネスの状態で生きていて、他者が行ったものも全て「自分がやった」こととして認識してしまいますから、文章を読んだりしただけで「これは自分の考えだ」と思ったり、ちょっと勉強すると「これは自分が考えた」みたいに本気で思ってしまったりするわけです。韓国のような社会の精神文化はこのように先住民族と比べて考えてみるととてもよく理解できて、社会の根底として、いわばワンネスがあるわけです。これはいい意味ではなくて、先住民族のように自分たちのルールで生きているだけならばいいですけど現代のように他者や他国と交流が盛んな社会において韓国のように「あれもこれも韓国が発明した」みたいなメンタリティで主張されてしまうと周囲としては迷惑なわけです。私は割と、韓国と先住民族を同じカテゴリで考えています。
スピリチュアルの人は一定数この種の「原始的なところに帰りましょう」という主張に寄り添っていて先住民族のスピリチュアルを信奉していたりしますけど、実際のところ、それは一周遅れのスピリチュアルになります。
スピリチュアルは合一と分離、また一つ上のレベルでの合一と分離ということを螺旋状のように繰り返しながら成長します。割と原始的なスピリチュアルで合一を経験して、その後、分離を学ぶわけです。そしてその後、また一つ上のレベルにおける合一を学んでゆきます。
今の時代はカリユガとも呼ばれている分離の時代で、先住民族は割とそのような中でも合一の精神性を保ってきたわけですけれども、それは、せっかくカリユガで分離を経験できる時代だったのにしっかりと時代に即した学習をしてこなかった、とてももったいない状況なわけです。
これからどんどんと合一の時代になりますけど、その時、昔ながらの素朴なワンネスでしか生きてこなかった人と、一旦は分離を経験してそれからまた合一になった人との間でもはや乗り越えられない深い溝ができると思います。単なる素朴なワンネスと分離を経験してからの合一に至った人では物事に対する理解の深さが段違いで、素朴なワンネスの意識で生きている人が合一のワンネスに至った人を理解するのはとても困難かもしれません。そのくらい意識に差がありますし、そのくらい違ってしまうと、素朴なワンネスの意識で生きている人が合一のワンネスを全く理解できなくて誤解して解釈してしまうことすらあるように思います。もはやお互いに理解し合うことは難しくなるのかもしれません。
じゃあ、今世界に大勢いる物質的な物欲的な人はそのような分離のスピリチュアルの段階にいるかというとそうでもなくて、実際は、そのような大多数の物質的な人々はここで言っているお話よりもう1周か2周前の分離の状態にいるわけで、分離の段階とは言っても何周か違っているので、大局から見ればどちらもスピリチュアルの一段階ではありますけど物質しか見えていない人は獣に近くて、精神的なことがそれなりに分かった上で一旦分離を学んで更なる合一のスピリチュアルへと行こうとしている人とは寄って立つところが全然違っていて、似たようでいて全く違ったお話であるわけです。
他国への侵略のためにワンネスを利用する人たち
原始的なスピリチュアルのお話の余談ですけど、この種の原始的な精神性は他国侵略のための道具として現代は使われている気が致します。
人々は呑気なもので、陽気に「ワンネス・ワンネス、踊って楽しい」とか言って浮かれていたりしますけど、実際のところ、そのようなワンネスの思想は、油断させて他者に色々提供して欲しい侵略者がばら撒いているものだったりするわけです。
ワンネスの発祥がいくつかあると前の記事に書きましたけど、先住民族のワンネスはそもそも宣伝なんてしない種類のものですし、宗教家たちにしても細々とやっているくらいです。その種のスピリチュアルは自分の中で完結していて、内面的なものですので、現代のように大々的に宣伝をしてワンネスだとかスピリチュアルだとか言っているのは何か裏があるということです。
そうは言いましても、そんな魂胆と資金投入でもなければワンネスだとかスピリチュアルだとかが広まらなかったのも事実ですので、外国への工作が最初の理由だったとはいえ、それに乗じてワンネスとかスピリチュアルが広まったのは最初に工作した人にとっても予想外だったことでしょう。
今は割とコントロールできなくなっている感じがしますが、それでも、スピリチュアルと聞いて何か胡散臭いのを感じる時があるのは、この種の他国への工作が背後にあったりするわけです。それに乗せられて動く人たちの方は割と純粋ですけど、工作して扇動している人たちがその背後にいるわけです。人々は割と世間知らずですから、そんなのに乗ってしまうわけです。かつて、有名な宗教団体の背後にイギリス情報部がいて立ち上げに関わったとかいう噂もそう間違いではないわけです。
そうは言いましても、多少は思想を広める土台を作ってくれたのは有難いことではあります。
人々は呑気なもので、陽気に「ワンネス・ワンネス、踊って楽しい」とか言って浮かれていたりしますけど、実際のところ、そのようなワンネスの思想は、油断させて他者に色々提供して欲しい侵略者がばら撒いているものだったりするわけです。
ワンネスの発祥がいくつかあると前の記事に書きましたけど、先住民族のワンネスはそもそも宣伝なんてしない種類のものですし、宗教家たちにしても細々とやっているくらいです。その種のスピリチュアルは自分の中で完結していて、内面的なものですので、現代のように大々的に宣伝をしてワンネスだとかスピリチュアルだとか言っているのは何か裏があるということです。
そうは言いましても、そんな魂胆と資金投入でもなければワンネスだとかスピリチュアルだとかが広まらなかったのも事実ですので、外国への工作が最初の理由だったとはいえ、それに乗じてワンネスとかスピリチュアルが広まったのは最初に工作した人にとっても予想外だったことでしょう。
今は割とコントロールできなくなっている感じがしますが、それでも、スピリチュアルと聞いて何か胡散臭いのを感じる時があるのは、この種の他国への工作が背後にあったりするわけです。それに乗せられて動く人たちの方は割と純粋ですけど、工作して扇動している人たちがその背後にいるわけです。人々は割と世間知らずですから、そんなのに乗ってしまうわけです。かつて、有名な宗教団体の背後にイギリス情報部がいて立ち上げに関わったとかいう噂もそう間違いではないわけです。
そうは言いましても、多少は思想を広める土台を作ってくれたのは有難いことではあります。
悪というものが何なのか見極める
原始的なスピリチュアルを利用して他国を思想的に侵略して骨抜きにするということが諜報部によって行われてきたわけですけど、もちろんそれをやっている国は自分で「そうです。工作しています」なんて言うわけありませんので、各自が自分で判断するしかないわけです。自分が「そんなのはない」と思うならそう判断すればいいだけのことです。
実際のところ、そのように工作があるかどうかの判断以前に、もっと簡単な判断基準があります。それは、相手が悪なのかどうかを判断する、ということです。
スピリチュアルな人は悪もワンネスとか言いたがりますけど、それはとてつもなく高いレベル、アートマンとかブラフマンとかいうレベルではそうですけど、そのレベルからみると、悪を成敗してもワンネスだし、悪を成敗しなくて悪が蔓延ってもそれすらもワンネスなのです。どうせどちらもワンネスなら悪を成敗した方が良いでしょう。そのくらいの簡単なお話なのに、スピリチュアルの悪しき思想で自分の行動に制限をかけてしまっている人は「悪を成敗する」という簡単なお話が理解できないどころか、「なんて酷いことをするのだ」と、悪を擁護したりするわけです。
本当にスピリチュアルを理解しているのならば、物事は全て無常であって究極的には善も悪もなく、ただこの現世の夢幻だと理解しておりますので、であればこの日常を清く正しく生きようとしますから、そうなれば、自然と悪は成敗するということになるわけです。
こんな簡単なことも理解できないでスピリチュアルにハマっている人は、悪というものが何なのか理解できていないわけで、そのように、悪というものを理解しないで生きているといつか悪に全てを奪われて捨てられることになるわけです。
国であれば、国土を奪われ、放浪の民になるわけです。ほんの少しの理解がなかっただけでそうなる危険性があるわけです。
それは「悪」というものが何なのか? そのことを理解せずに、「自分が相手に同情すれば相手もまた同情してくれるだろう」みたいな世間知らずの考えで悪に色々と与えてしまえば、悪は手に入れたが最後、二度とそれを返そうとはしませんから、例えば土地を一度手に入れたら二度と返そうとしませんし、日本の文化に同化しようとも思わないですし、日本人は邪魔だからどこか世界にでも出ていけ、とさえ思うわけです。
こういうことを言うと「なんて酷いことを言う人なのだ」とか言う人がいますけど、実際、そう言うことがモンゴルや香港、チベット、ポーランドで起こったのに日本は大丈夫なんて思うのはお花畑すぎやしませんか。
日本人の多くは「悪」というものを知らない、世間知らずなわけです。
悪、と言うのは暴力を振るう人ではありませんよ。そこが勘違いです。
悪、とは、表面上はにこやかにしているけれども、いざとなれば怒鳴ってキレて自分の権利のために相手をどん底にまで叩き落として粉々に粉砕して全てを奪おうと裏で考えている人のことです。
日本人は、悪と言うものが何なのか理解していないのです。
輝いていて立派に見えていても悪というのは存在しているのです。
その一方で、悪ではない人、本当に立派な人もいます。
そのあたりの区別が、目が曇っているとわからないのですよね。
日本は、特に政治の面で大阪の維新の会とか旧民主党とか色々なところで侵略されていますけど、それもこれも、国民が悪というものを理解していないからだと私などは思います。
この状況は、国民が悪というものをそれなりに理解し尽くすまで終わるでしょうね。
理解なしに、ただ単に天誅でそのような悪を排除したところで国民一人一人が賢くなって悪を排除するようにならなければまた同じことが起こります。
その理解のために、今のように外国の工作員が好き放題している現状は必要悪なのかもしれませんね。
ですけど、このままいくと、例えば東京都武蔵野市の外国人選挙のように酷い意味不明な状況になって急激に売国化が進むことになりますから、ある程度の手立ては打つ必要があるとは思います。
ですけど、大勢としてはこのままの状況を容認して、国民の意識が目覚めるしか売国奴を減らす方法はないように思います。
もしも売国奴に国を奪われたら、最悪、ユダヤ人のように国を持たない民族になって南米にでも移住する人が増えるかもしれないですよね。
そんなことあるわけない、とでも思っているのでしょうか? であれば世間知らずですよ。
今、自由を謳歌している状況を一人一人が守ろうとしなければ、そうなっても不思議ではないということです。
実際のところ、そのように工作があるかどうかの判断以前に、もっと簡単な判断基準があります。それは、相手が悪なのかどうかを判断する、ということです。
スピリチュアルな人は悪もワンネスとか言いたがりますけど、それはとてつもなく高いレベル、アートマンとかブラフマンとかいうレベルではそうですけど、そのレベルからみると、悪を成敗してもワンネスだし、悪を成敗しなくて悪が蔓延ってもそれすらもワンネスなのです。どうせどちらもワンネスなら悪を成敗した方が良いでしょう。そのくらいの簡単なお話なのに、スピリチュアルの悪しき思想で自分の行動に制限をかけてしまっている人は「悪を成敗する」という簡単なお話が理解できないどころか、「なんて酷いことをするのだ」と、悪を擁護したりするわけです。
本当にスピリチュアルを理解しているのならば、物事は全て無常であって究極的には善も悪もなく、ただこの現世の夢幻だと理解しておりますので、であればこの日常を清く正しく生きようとしますから、そうなれば、自然と悪は成敗するということになるわけです。
こんな簡単なことも理解できないでスピリチュアルにハマっている人は、悪というものが何なのか理解できていないわけで、そのように、悪というものを理解しないで生きているといつか悪に全てを奪われて捨てられることになるわけです。
国であれば、国土を奪われ、放浪の民になるわけです。ほんの少しの理解がなかっただけでそうなる危険性があるわけです。
それは「悪」というものが何なのか? そのことを理解せずに、「自分が相手に同情すれば相手もまた同情してくれるだろう」みたいな世間知らずの考えで悪に色々と与えてしまえば、悪は手に入れたが最後、二度とそれを返そうとはしませんから、例えば土地を一度手に入れたら二度と返そうとしませんし、日本の文化に同化しようとも思わないですし、日本人は邪魔だからどこか世界にでも出ていけ、とさえ思うわけです。
こういうことを言うと「なんて酷いことを言う人なのだ」とか言う人がいますけど、実際、そう言うことがモンゴルや香港、チベット、ポーランドで起こったのに日本は大丈夫なんて思うのはお花畑すぎやしませんか。
日本人の多くは「悪」というものを知らない、世間知らずなわけです。
悪、と言うのは暴力を振るう人ではありませんよ。そこが勘違いです。
悪、とは、表面上はにこやかにしているけれども、いざとなれば怒鳴ってキレて自分の権利のために相手をどん底にまで叩き落として粉々に粉砕して全てを奪おうと裏で考えている人のことです。
日本人は、悪と言うものが何なのか理解していないのです。
輝いていて立派に見えていても悪というのは存在しているのです。
その一方で、悪ではない人、本当に立派な人もいます。
そのあたりの区別が、目が曇っているとわからないのですよね。
日本は、特に政治の面で大阪の維新の会とか旧民主党とか色々なところで侵略されていますけど、それもこれも、国民が悪というものを理解していないからだと私などは思います。
この状況は、国民が悪というものをそれなりに理解し尽くすまで終わるでしょうね。
理解なしに、ただ単に天誅でそのような悪を排除したところで国民一人一人が賢くなって悪を排除するようにならなければまた同じことが起こります。
その理解のために、今のように外国の工作員が好き放題している現状は必要悪なのかもしれませんね。
ですけど、このままいくと、例えば東京都武蔵野市の外国人選挙のように酷い意味不明な状況になって急激に売国化が進むことになりますから、ある程度の手立ては打つ必要があるとは思います。
ですけど、大勢としてはこのままの状況を容認して、国民の意識が目覚めるしか売国奴を減らす方法はないように思います。
もしも売国奴に国を奪われたら、最悪、ユダヤ人のように国を持たない民族になって南米にでも移住する人が増えるかもしれないですよね。
そんなことあるわけない、とでも思っているのでしょうか? であれば世間知らずですよ。
今、自由を謳歌している状況を一人一人が守ろうとしなければ、そうなっても不思議ではないということです。
ワンネスと悪を区別する
この、一見すると似ても似つかないものが実社会では割と混同されていて、悪なのにワンネスだからと言って容認されている状況があります。と、言いますのは、悪というのは一見するとそうだと見抜きにくく、社会経験がないと悪がワンネスかのように見えてしまうからです。何故なら、悪の存在はワンネスを主張することで自分の悪を覆い隠そうとするからです。
ですけど、決定的なのは、悪は最初こそ柔和な態度を取っていますけど最終目標が達成できるようになるにつれて横暴な態度に出るようになります。大阪の橋下徹や大阪府知事の吉村 洋文などは割と本性が出てきた方で、もはや隠す必要もなくなって親中を表に出していますし大阪を中国に売り払うつもりなのでしょう。
このようなことを大阪の人が許すのは、表面上は経済だとか人口だとか色々と言われていますけど、根底としては、ワンネスと悪との区別がついていないからなのです。
その区別ができていない、というのは、世間知らず、ということでもあります。日本の中でだけ通用する、義理と人情などというものはあの種の外来種にはありませんから、色々と穏やかなことを言って人々を納得させた後に貰うものさえしっかり取ってしまったらそれを返すことはなく、人々は永遠に失って初めて怒りが湧き出ますけど、中国は一度手に入れたものは二度と返すことはなく、取り返すには戦争しかありません。
そうなる前に大阪の人は選挙で維新を落とすべきなのに、ワンネスと悪の区別がついていないから、そのことをもっとざっくりと言うのならば世間知らずですから全てを奪われようとしているのにそれを許してしまうわけです。
悪は時折キレて自分のわがままな主張を貫こうとする点ですから、そこをしっかり見抜いて、選挙で落とす必要があるわけです。
これはきっと、日本人の全てが学びとして通り抜けないといけない点なのかなと思っております。誰か英雄が出てきて排除してしまうと日本人の学びができませんので、悪と言うものは表面上は優しくて、それはまるでスターウォーズで皇帝が議会の喝采を持って独裁を受け入れたのと同様、世間知らずが悪の演説に魅入られることで社会を悪へと導き入れてしまうわけです。
スピリチュアルというとワンネスで全てを受け入れる、みたいなお話が常識みたいに思われていますけど、本当のスピリチュアルであれば悪を見抜いて悪を切るようになります。常識で思われているスピリチュアルと実態の姿とはかなり違うわけです。
本当のスピリチュアルというのは何であっても全てはワンネス、ということですから、表面上で他人を受け入れようが受け入れまいが何をしようが全てはワンネス、ということです。ですから、世間で言われているように、他人の意見を受け入れるかどうかは本来のワンネスとは関係がないわけです。
本質で言えば他者のものを全て奪おうとして表面上は柔和な態度を取っている人であっても、その本質はワンネスということではありますけど、だからと言って常識で思われているようにワンネスだから受け入れなさい、ということにはならなくて、実際は、ワンネスだからこそ何をしようが選択肢は全てオープンで全ての選択肢に対して自分の行動というものは開かれているわけです。ですから、受け入れない、というのもワンネスですし、もちろん受け入れてもワンネスですけど、スピリチュアルを本当に分かっている人はそのような悪の人を本質ではワンネスと理解しつつ現象面では受け入れることはないことがほとんどで、逆に、切ることの方が多いと思います。
実際のところ、ワンネスという言葉は本来の意味はあまり理解されていなくて、ただ単に悪が自分の本当の目的を覆い隠すために都合よく使っているだけという現状があります。ですから、実社会で、特に政治などでワンネス風のお話を持ち出す人の三分の一くらいは詐欺師だと思った方が実態には近くて、残りは、よく分かっていないけれどもとりあえず真似をしている人たちや、あるいはごく一部、1割に満たないくらいで本当のワンネスを言っている人もいます。ですけど、割と目立つ主張をしている場合は、目立つということは広告のためにお金を裏で使っているということですから、目立つお話でワンネスというのが出てきたら何か本当の目的、特に悪の目的が裏にあると思った方がいいわけです。
私は日本に生まれて日本人ですけど魂の経歴から言えば宇宙系ですので、日本に住んでいるとはいえ、地球観点から言えば私は「ゲスト」に過ぎないわけです。ですから、こうして日本に住んでいて日本の人たちを見て「何を茶番をしているのだろう」とか「どうして日本人は悪をのさぼらせているのだろう」とか思っていますけど、きっと、日本人のそれなりの割合の人が目覚めないといけない時期なのかな、と思っております。
ただ、今のままいくと日本は中国の属国になりますので、早いうちに多くの人、それは少数の人ではだめで、大多数が目覚めないと、この地球上に存在している日本という楽園が永遠に失われてしまうこともあり得ます。
日本人は「分け与える」とか「慈悲」とか「人情」がわかりますけど、外国人は分かりませんから奪うだけ奪ってきて、日本人に同化することはありません。
確かに、少数の人が日本に同化するパターンもありますけど、それは割合というもので、日本人と同じくらいの人口の中国人が大挙して日本に押し寄せたら中華街が日本中にできるだけのことで同化はないわけです。
今のうちに日本人が目覚めないと、法律あるいは条例ができた瞬間にその法律に則って大挙して中国人がやってきて日本を乗っ取り始めます。
あるいは、それがなかなかできないとなれば中国人民軍が中国人の資産を守るためとか何か名目をつけて日本に居座ったら甘い日本人はそれを我慢してしまうこともあり得ます。
どちらにせよ、今は危険な状況で、中国人も日本と同じとか思っていると全部奪われてしまうことになるわけです。
悪は本当の目的に気付かれそうになるとまず「そうではない」と否定から始まり、ワンネスを持ち出したり論舌で誤魔化そうとしますがそれもできなくなると攻撃し始めて怒鳴ったり恐喝したり個人攻撃をして反対意見を抹殺しようとするわけです。武蔵野市長の外国人参政権のお話にしても周囲から批判されて今は「そうではない」と誤魔化していますけど、理屈で言い返せなくなってきたらそのうち恫喝が始まりまるのも時間の問題だと思います。
今、先兵として日本に来ている人は割と日本に同化したり、あるいは、柔和な人が先に送られてきていますけど、本隊として日本に移住しようとしてきている人は日本人とはかけ離れた性質を持っていますから、そうなったら日本の社会は破綻に近づくわけです。
リベラルとか言う人も同じで、リベラルと悪の違いを人々は分かっていないわけです。ワンネスだとかリベラルだとか言って自分たちの悪を覆い隠そうとしているわけです。演説で他者を納得させようとする人は、どこか疑ってかかるくらいが今の社会には合っているようにも思います。
スピリチュアルな人の生き方としては、物事をありのままに捉えて、偏ることなく、演説などに魅入られて本質を見失うことなく、相手が何であるのかを行動と発言を合わせて理解し、必要とあれば悪を切ることも辞さない態度こそが本当のワンネスに根ざした生き方であると言えます。
能の敦盛、
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
この境地というのはワンネスに根ざしており、ワンネスだからこそ何をしてもよく、であれば、悪を切って正義に生きるのも人の本望である、という理解に立っているわけです。
そして、その理念を姿で現したものが「剣」であり、皇室の三種の神器の1つが剣であるのもこの種の正義を貫いて悪を斬るために必要なわけです。なんでもワンネスでいれば全てが解決すると思っているお花畑の人は、もう一つ進んで、統合された合一のスピリチュアルを基にしたワンネスに進むことでこのことを理解することができるようになります。
ですけど、決定的なのは、悪は最初こそ柔和な態度を取っていますけど最終目標が達成できるようになるにつれて横暴な態度に出るようになります。大阪の橋下徹や大阪府知事の吉村 洋文などは割と本性が出てきた方で、もはや隠す必要もなくなって親中を表に出していますし大阪を中国に売り払うつもりなのでしょう。
このようなことを大阪の人が許すのは、表面上は経済だとか人口だとか色々と言われていますけど、根底としては、ワンネスと悪との区別がついていないからなのです。
その区別ができていない、というのは、世間知らず、ということでもあります。日本の中でだけ通用する、義理と人情などというものはあの種の外来種にはありませんから、色々と穏やかなことを言って人々を納得させた後に貰うものさえしっかり取ってしまったらそれを返すことはなく、人々は永遠に失って初めて怒りが湧き出ますけど、中国は一度手に入れたものは二度と返すことはなく、取り返すには戦争しかありません。
そうなる前に大阪の人は選挙で維新を落とすべきなのに、ワンネスと悪の区別がついていないから、そのことをもっとざっくりと言うのならば世間知らずですから全てを奪われようとしているのにそれを許してしまうわけです。
悪は時折キレて自分のわがままな主張を貫こうとする点ですから、そこをしっかり見抜いて、選挙で落とす必要があるわけです。
これはきっと、日本人の全てが学びとして通り抜けないといけない点なのかなと思っております。誰か英雄が出てきて排除してしまうと日本人の学びができませんので、悪と言うものは表面上は優しくて、それはまるでスターウォーズで皇帝が議会の喝采を持って独裁を受け入れたのと同様、世間知らずが悪の演説に魅入られることで社会を悪へと導き入れてしまうわけです。
スピリチュアルというとワンネスで全てを受け入れる、みたいなお話が常識みたいに思われていますけど、本当のスピリチュアルであれば悪を見抜いて悪を切るようになります。常識で思われているスピリチュアルと実態の姿とはかなり違うわけです。
本当のスピリチュアルというのは何であっても全てはワンネス、ということですから、表面上で他人を受け入れようが受け入れまいが何をしようが全てはワンネス、ということです。ですから、世間で言われているように、他人の意見を受け入れるかどうかは本来のワンネスとは関係がないわけです。
本質で言えば他者のものを全て奪おうとして表面上は柔和な態度を取っている人であっても、その本質はワンネスということではありますけど、だからと言って常識で思われているようにワンネスだから受け入れなさい、ということにはならなくて、実際は、ワンネスだからこそ何をしようが選択肢は全てオープンで全ての選択肢に対して自分の行動というものは開かれているわけです。ですから、受け入れない、というのもワンネスですし、もちろん受け入れてもワンネスですけど、スピリチュアルを本当に分かっている人はそのような悪の人を本質ではワンネスと理解しつつ現象面では受け入れることはないことがほとんどで、逆に、切ることの方が多いと思います。
実際のところ、ワンネスという言葉は本来の意味はあまり理解されていなくて、ただ単に悪が自分の本当の目的を覆い隠すために都合よく使っているだけという現状があります。ですから、実社会で、特に政治などでワンネス風のお話を持ち出す人の三分の一くらいは詐欺師だと思った方が実態には近くて、残りは、よく分かっていないけれどもとりあえず真似をしている人たちや、あるいはごく一部、1割に満たないくらいで本当のワンネスを言っている人もいます。ですけど、割と目立つ主張をしている場合は、目立つということは広告のためにお金を裏で使っているということですから、目立つお話でワンネスというのが出てきたら何か本当の目的、特に悪の目的が裏にあると思った方がいいわけです。
私は日本に生まれて日本人ですけど魂の経歴から言えば宇宙系ですので、日本に住んでいるとはいえ、地球観点から言えば私は「ゲスト」に過ぎないわけです。ですから、こうして日本に住んでいて日本の人たちを見て「何を茶番をしているのだろう」とか「どうして日本人は悪をのさぼらせているのだろう」とか思っていますけど、きっと、日本人のそれなりの割合の人が目覚めないといけない時期なのかな、と思っております。
ただ、今のままいくと日本は中国の属国になりますので、早いうちに多くの人、それは少数の人ではだめで、大多数が目覚めないと、この地球上に存在している日本という楽園が永遠に失われてしまうこともあり得ます。
日本人は「分け与える」とか「慈悲」とか「人情」がわかりますけど、外国人は分かりませんから奪うだけ奪ってきて、日本人に同化することはありません。
確かに、少数の人が日本に同化するパターンもありますけど、それは割合というもので、日本人と同じくらいの人口の中国人が大挙して日本に押し寄せたら中華街が日本中にできるだけのことで同化はないわけです。
今のうちに日本人が目覚めないと、法律あるいは条例ができた瞬間にその法律に則って大挙して中国人がやってきて日本を乗っ取り始めます。
あるいは、それがなかなかできないとなれば中国人民軍が中国人の資産を守るためとか何か名目をつけて日本に居座ったら甘い日本人はそれを我慢してしまうこともあり得ます。
どちらにせよ、今は危険な状況で、中国人も日本と同じとか思っていると全部奪われてしまうことになるわけです。
悪は本当の目的に気付かれそうになるとまず「そうではない」と否定から始まり、ワンネスを持ち出したり論舌で誤魔化そうとしますがそれもできなくなると攻撃し始めて怒鳴ったり恐喝したり個人攻撃をして反対意見を抹殺しようとするわけです。武蔵野市長の外国人参政権のお話にしても周囲から批判されて今は「そうではない」と誤魔化していますけど、理屈で言い返せなくなってきたらそのうち恫喝が始まりまるのも時間の問題だと思います。
今、先兵として日本に来ている人は割と日本に同化したり、あるいは、柔和な人が先に送られてきていますけど、本隊として日本に移住しようとしてきている人は日本人とはかけ離れた性質を持っていますから、そうなったら日本の社会は破綻に近づくわけです。
リベラルとか言う人も同じで、リベラルと悪の違いを人々は分かっていないわけです。ワンネスだとかリベラルだとか言って自分たちの悪を覆い隠そうとしているわけです。演説で他者を納得させようとする人は、どこか疑ってかかるくらいが今の社会には合っているようにも思います。
スピリチュアルな人の生き方としては、物事をありのままに捉えて、偏ることなく、演説などに魅入られて本質を見失うことなく、相手が何であるのかを行動と発言を合わせて理解し、必要とあれば悪を切ることも辞さない態度こそが本当のワンネスに根ざした生き方であると言えます。
能の敦盛、
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
この境地というのはワンネスに根ざしており、ワンネスだからこそ何をしてもよく、であれば、悪を切って正義に生きるのも人の本望である、という理解に立っているわけです。
そして、その理念を姿で現したものが「剣」であり、皇室の三種の神器の1つが剣であるのもこの種の正義を貫いて悪を斬るために必要なわけです。なんでもワンネスでいれば全てが解決すると思っているお花畑の人は、もう一つ進んで、統合された合一のスピリチュアルを基にしたワンネスに進むことでこのことを理解することができるようになります。
邪念を拾った場合は体の周囲を円状に意識の剣で切ります
どこか外で変な意識体あるいは良くない想念を拾ってしまった場合、イメージの剣のようなものをイメージして体の周囲をぐるりと回転させるとエーテルコードが切れて急に緊張が解けます。
あとは、体の各所で緊張や筋肉の痛みがある場合はイメージの手でそこから何かを引き抜くような感じにしてあげると、そこに何かが取り憑いている場合は引き剥がされてその部分の緊張や筋肉の痛みが急になくなったりします。
これはもちろん原因にもよって、単に動きすぎの筋肉痛の場合は何も変わりませんけど、原因がよその知らない霊だったりそこらに浮かんでいる変な想念の雲だったりする場合は自分から引き離してあげると緊張が解けたり筋肉痛が劇的に治ったりするわけです。
西洋医学ではこの種のことは証明されていませんけど、実際、これはとてもよく効きます。
このようなことを物理的なことしか見えない唯物的な人に言うと「そんなことあるわけないだろ」とかゲラゲラ笑われたりしますけど、三次元の物理的な世界に生きている機械のような人にとっては見えない世界は存在しないに等しいのですから、物質しか見えていない人がそのように言ったところで、全く気にする必要はないわけです。
この種のお話はハンターハンターの比喩が割と正確で、「極寒の中に裸でいるのにそれに気がついていないようなもの」なわけです。物理的なことしかわからない人が「自分が裸だって? そんなことあるわけない」とか言っていても、気が付いていない人が何を言おうが関係ないわけです。そのように、気がついていない人はエネルギーを外部の意識体に奪われ続けますから元気がなくなっていって屍みたいになるか、あるいは他人からエネルギーを奪って生きるエネルギー・ヴァンパイアと化しますから、そのように物理的なことしかわからない人と付き合わない方がいいわけです。
見えない存在がそこら中にいて、特に都会にはうようよそんな意識体が漂っています。自分のエネルギーと波動が高まればあまり影響されなくはなりますけど時に自分のエネルギーが不意に下がるとその隙をついてすぐに変な意識体が取り付いてきます。ですから、エネルギーと波動が高まると影響されにくくなるので油断してしまいがちですけど、耐性が上がったというだけで変な意識体と想念の雲は変わらず存在していますから、自分が平気だと思っていても定期的に変なものがついていないかチェックするのがいいように思います。
最近の私のお話でいうと、左の脇腹が急に痛み出して、何か筋肉痛か何かかなと思ってマッサージやヨガで伸ばしたりしてみましたけど緊張がなかなか抜けなくて、これはもしや何か左の脇腹に刺さっているのではないかと思って意識の手で摘むようにして何かを引き抜いたら急に脇腹の緊張が取れたのです。そういう時もあります。
最近はエネルギーが高まってあまりそういう意識体に影響されにくくなっていましたので油断しておりました。
また、体全体が何かの雲に覆われて足を引っ張られているような感覚がしておりましたので、特に下半身から足にかけて、体の周囲をぐるりと回転するように意識の剣のようなもので切ったところ、急に意識が下に引っ張られる感覚が減って、肩が軽くなり、緊張がかなりほぐれました。死霊や悪霊は下の方から足を引っ張る感覚が強いように思いますけど、掴んでいるケーブルあるいは手のようなところを切れば簡単に離れます。死霊は元々ふにゃふにゃなオーラの体しかありませんから切っても問題ないわけです。
このように意識体に一旦取り憑かれるとケーブルを切ったり意識体を引き抜くだけでは十分ではなくて、その後、オーラの状態を安定させるべく瞑想する必要があるように思います。ですけど、ただ瞑想するだけでは回復に時間がかかりますので、第一の対処としてエーテルのケーブルを切ったり意識体を引き抜く、という外科手術的なことを最初にした方がいいように思います。
この種のお話は、知らなかったり認知できなかったりすると一生ずっとエネルギーを死霊や悪霊に吸い取られることにもなります。本人が唯物論者であったとしても現実はこの通りですから、唯物論者とか物理的なことしかわからない人たちは死霊や悪霊にとってみればカモでしかなくて、対処もしないでずっと寄生させてくれる嬉しい存在なわけです。
ですけど、ある程度のスピリチュアルの理解があるならばそのような非生産的な存在と関わっていても仕方がないと理解して、肉体は毎日必ず汚れますから毎日お風呂やシャワーを浴びるのと同様に、このような死霊や意識体はどうしても生活すれば多少は憑いてきてしまいますので取り憑かれたものを定期的に切り離すことが必要になるわけです。
あとは、体の各所で緊張や筋肉の痛みがある場合はイメージの手でそこから何かを引き抜くような感じにしてあげると、そこに何かが取り憑いている場合は引き剥がされてその部分の緊張や筋肉の痛みが急になくなったりします。
これはもちろん原因にもよって、単に動きすぎの筋肉痛の場合は何も変わりませんけど、原因がよその知らない霊だったりそこらに浮かんでいる変な想念の雲だったりする場合は自分から引き離してあげると緊張が解けたり筋肉痛が劇的に治ったりするわけです。
西洋医学ではこの種のことは証明されていませんけど、実際、これはとてもよく効きます。
このようなことを物理的なことしか見えない唯物的な人に言うと「そんなことあるわけないだろ」とかゲラゲラ笑われたりしますけど、三次元の物理的な世界に生きている機械のような人にとっては見えない世界は存在しないに等しいのですから、物質しか見えていない人がそのように言ったところで、全く気にする必要はないわけです。
この種のお話はハンターハンターの比喩が割と正確で、「極寒の中に裸でいるのにそれに気がついていないようなもの」なわけです。物理的なことしかわからない人が「自分が裸だって? そんなことあるわけない」とか言っていても、気が付いていない人が何を言おうが関係ないわけです。そのように、気がついていない人はエネルギーを外部の意識体に奪われ続けますから元気がなくなっていって屍みたいになるか、あるいは他人からエネルギーを奪って生きるエネルギー・ヴァンパイアと化しますから、そのように物理的なことしかわからない人と付き合わない方がいいわけです。
見えない存在がそこら中にいて、特に都会にはうようよそんな意識体が漂っています。自分のエネルギーと波動が高まればあまり影響されなくはなりますけど時に自分のエネルギーが不意に下がるとその隙をついてすぐに変な意識体が取り付いてきます。ですから、エネルギーと波動が高まると影響されにくくなるので油断してしまいがちですけど、耐性が上がったというだけで変な意識体と想念の雲は変わらず存在していますから、自分が平気だと思っていても定期的に変なものがついていないかチェックするのがいいように思います。
最近の私のお話でいうと、左の脇腹が急に痛み出して、何か筋肉痛か何かかなと思ってマッサージやヨガで伸ばしたりしてみましたけど緊張がなかなか抜けなくて、これはもしや何か左の脇腹に刺さっているのではないかと思って意識の手で摘むようにして何かを引き抜いたら急に脇腹の緊張が取れたのです。そういう時もあります。
最近はエネルギーが高まってあまりそういう意識体に影響されにくくなっていましたので油断しておりました。
また、体全体が何かの雲に覆われて足を引っ張られているような感覚がしておりましたので、特に下半身から足にかけて、体の周囲をぐるりと回転するように意識の剣のようなもので切ったところ、急に意識が下に引っ張られる感覚が減って、肩が軽くなり、緊張がかなりほぐれました。死霊や悪霊は下の方から足を引っ張る感覚が強いように思いますけど、掴んでいるケーブルあるいは手のようなところを切れば簡単に離れます。死霊は元々ふにゃふにゃなオーラの体しかありませんから切っても問題ないわけです。
このように意識体に一旦取り憑かれるとケーブルを切ったり意識体を引き抜くだけでは十分ではなくて、その後、オーラの状態を安定させるべく瞑想する必要があるように思います。ですけど、ただ瞑想するだけでは回復に時間がかかりますので、第一の対処としてエーテルのケーブルを切ったり意識体を引き抜く、という外科手術的なことを最初にした方がいいように思います。
この種のお話は、知らなかったり認知できなかったりすると一生ずっとエネルギーを死霊や悪霊に吸い取られることにもなります。本人が唯物論者であったとしても現実はこの通りですから、唯物論者とか物理的なことしかわからない人たちは死霊や悪霊にとってみればカモでしかなくて、対処もしないでずっと寄生させてくれる嬉しい存在なわけです。
ですけど、ある程度のスピリチュアルの理解があるならばそのような非生産的な存在と関わっていても仕方がないと理解して、肉体は毎日必ず汚れますから毎日お風呂やシャワーを浴びるのと同様に、このような死霊や意識体はどうしても生活すれば多少は憑いてきてしまいますので取り憑かれたものを定期的に切り離すことが必要になるわけです。
同調圧力をする間違ったスピリチュアル
意外にこの手の人は多くて、しかも、自分は相手に対して同調圧力をかける一方で自分は自由に生きたい、という二元性を持ちます。
そのような人が一緒になった時、スピリチュアルなことを言っているにも関わらず相手に対して同調圧力をかけるという不思議な状況が生まれます。
本質的に言えば、何をしようがそれはワンネスであって、獣のような人であっても天使のような人であってもどちらもワンネスなわけです。分け隔てをして、獣のような人はワンネスではなくて天使のような人がワンネス、というわけではないわけです。
ワンネスとかそういうことは、相手に求めることではなくて、自分の内に見出してゆくものなわけです。
自分でワンネスを見出したら同調圧力なんてかけなくなりますし、他人が獣のようであったとしてもワンネスとして認識されますから、獣のような人であっても天使のような人であってもワンネスなわけで、そうなったら同調圧力なんてかける必要がないわけです。
じゃあ、獣のような人と一緒にいた方が良いのか、というと、そういうことを言っているわけではなくて、それは波動の同調の法則がありますから、割と同じ波動の人が集まることになって、獣のような人と本来のワンネスで生きている人とはお互いに生活圏が異なるようになり、実際、お互いに「見えなくなって」行きます。
お互い、あまりにも波動が違う人のことを認識できなくなるわけです。
波動が高まってワンネスで生きるようになれば獣のような人とは割と無縁の生活になっていって、そもそも関わり合いがないのですから同調圧力とかからも割と無縁になります。
そのような人が一緒になった時、スピリチュアルなことを言っているにも関わらず相手に対して同調圧力をかけるという不思議な状況が生まれます。
本質的に言えば、何をしようがそれはワンネスであって、獣のような人であっても天使のような人であってもどちらもワンネスなわけです。分け隔てをして、獣のような人はワンネスではなくて天使のような人がワンネス、というわけではないわけです。
ワンネスとかそういうことは、相手に求めることではなくて、自分の内に見出してゆくものなわけです。
自分でワンネスを見出したら同調圧力なんてかけなくなりますし、他人が獣のようであったとしてもワンネスとして認識されますから、獣のような人であっても天使のような人であってもワンネスなわけで、そうなったら同調圧力なんてかける必要がないわけです。
じゃあ、獣のような人と一緒にいた方が良いのか、というと、そういうことを言っているわけではなくて、それは波動の同調の法則がありますから、割と同じ波動の人が集まることになって、獣のような人と本来のワンネスで生きている人とはお互いに生活圏が異なるようになり、実際、お互いに「見えなくなって」行きます。
お互い、あまりにも波動が違う人のことを認識できなくなるわけです。
波動が高まってワンネスで生きるようになれば獣のような人とは割と無縁の生活になっていって、そもそも関わり合いがないのですから同調圧力とかからも割と無縁になります。
日本列島が厄災の怨念に蝕まれている
瞑想中に見えたのですが、日本列島のほとんど、特に本州から九州北部の日本海側にかけて怨念のようなもので包まれているのが見えます。
それは、イメージでいうのならば、ゼルダの伝説・ブレスオブザワイルドに出てくる「怨念」の感じに似ていて、ドロドロとしたヘドロのような泡のような黒いモヤモヤが日本列島を覆っているわけです。
所々にその怨念が丸く膨らんでいて、ヘドロの海から泡が湧き出て破裂を繰り返すかのごとく日本列島から怨念の泡が幾度となく湧き出ているわけです。
ただ、それをよく見ると、それはどうやら日本列島から出ているものというよりは、外側から怨念が覆い被さっているようなのです。特に中国や韓国など半島や大陸系の怨念が大きいでしょうか。
ゼルダでは怨念は厄災ガノンから発せられて王国が蝕まれているという設定になっていますが、日本列島が厄災の半島や大陸から発せられた怨念に蝕まれている、という、割と似た感じになっています。
ですから、日本列島としては元々は清浄なのですけど、外側から来た怨念が覆い被さっている状況なわけです。
そのような状況でも日本を守る力というものがあって、それは何かと思って見てみると分かったのですが、それは「祈り」でした。
基礎として日本の人それぞれが発している祈りというものがありますが、それと合わせて重要なのが天皇陛下など特に霊的に強い力を持った人が発する祈りが日本列島を守っているようなのです。
それによって、怨念が日本に覆い被さってはいるものの少しずつ怨念が取り払われている状況で、そうは言いましてもまだまだ厚く怨念が被さっている状況なわけです。
現状を見ると、これからどうなるのかなかなか見通しが立ちませんね。そのようなこう着状態であると言えます。
ただ、どうやら、この怨念の厚い雲によって日本人の判断、特に重要なのが政治における判断なのですが、選挙における政治家を選ぶ判断が鈍らされているようなのです。それによって訳のわからない反日の政治家や売国奴を選ぶ、ということが多くなっているように思います。
そもそもの話をすれば、この世界は波動の法則が成り立っていますから、波動がかなり違えばお互いに「見えなくなって」ゆく訳です。ですから、日本列島がかなり高い波動を保っていれば半島や大陸の人々から日本は見えなくなってゆくわけで、似たような波動の部分があるからこそ共鳴してしまい、半島や大陸から怨念を受けたり(見える形あるいは見えない形での)侵略を受ける、ということになるわけです。その上で、たまにふらりと侵入してくる邪悪な存在に対しては「切る」ことで排除するわけです。
厄災で日本列島を覆うことで波動的に少しずつ一致させ、それによって日本列島の波動を下げて大陸や半島人から容易に識別できる土地になり、移住を可能にさせる、という段階を踏んでいるような気が致します。
それは単純に言えば侵略ということになりますけど、目に見える形での侵略だけでなく、日本列島の波動を下げるということがセットになっているわけです。
日本列島を怨念で覆うことで半島や大陸と波動的に一致させ、波動を一致させてしまえば侵略も苦労なく自然に行うことができるわけです。
日本側の対抗手段としては、まず怨念を断ち切ること。怨念を切るには「剣」が必要で、それに加えて、エネルギー的なパワーの源として「祈り」も必要になります。具体的な退散させる力としての剣、根源と繋がるための祈り、それに加えて、怨念に影響されないために、基礎としての、自らの清浄さを保つ心、それは「鏡」として象徴される心ですけど、鏡のような透明な、それでいて曇らされない、見た目には周囲の色を映していても鏡自体は曇りがないかのように、心も、心は周囲の色を映すけれども心自体は曇ることがない、そのような境地で怨念を受け取らないことが肝心になるわけです。
日本列島の場合は土地の全体が怨念に包まれていますから、特に力を持った人がまずは断ち切る必要があるわけです。
見たところ、基本は祈りの力がよく効くように思えて、このくらいになるともはや自分というのか日本列島を司る土地神というのかはわかりませんけど、そのような集合意識のようなものが日本列島に生きる人々、それは今上天皇のような霊的に優れた人ももちろん含まれていますけどそのような集合意識としての祈りが怨念を解除して行っているようなのです。
私もその集合意識に合致して祈りの気持ちに乗ってみると、その祈りというのはよく効いていて、その集合意識としてはもはや私というのか集合意識としての全体というのかもはやわからない感じになっているのですけど、私の意識ということも一応はできますけど集合意識として日本列島の怨念を退散させる手助けができるわけです。
どうやら、瞑想でそれなりの状態に達していても日常生活を送る上で割とすぐに意識に雲がかかり始めるのはこの日本列島を覆っている厚い怨念が一つの要因としてあるような気もしてまいりました。
であれば、怨念の雲が薄い北海道の特に太平洋岸に行くとか、東北でも割と太平洋岸はそれほどでもないですし、紀伊半島や四国及び九州の中央から南方にかけてもそうでもありませんので、そのようなところに行くのも瞑想にとっては良いかもしれません。
ですけど、そうは言いましても日本列島に被さっている厚い怨念の雲はどうにかしなければ更に厚くなりかねませんので、祈りというのが今は特に重要になっていると思います。
祈りと言っても難しく考える必要はなくて、要は浄化で、対象を思ってその邪念が祓われますようにと思いを向ければ浄化は自動的に起こってゆきます。それは自分で行う自分に対する瞑想と同じことで、その意識が広がってゆけば意識の中で日本列島が見えてきて、日本列島の浄化も同じように行うことができるわけです。
それは、イメージでいうのならば、ゼルダの伝説・ブレスオブザワイルドに出てくる「怨念」の感じに似ていて、ドロドロとしたヘドロのような泡のような黒いモヤモヤが日本列島を覆っているわけです。
所々にその怨念が丸く膨らんでいて、ヘドロの海から泡が湧き出て破裂を繰り返すかのごとく日本列島から怨念の泡が幾度となく湧き出ているわけです。
ただ、それをよく見ると、それはどうやら日本列島から出ているものというよりは、外側から怨念が覆い被さっているようなのです。特に中国や韓国など半島や大陸系の怨念が大きいでしょうか。
ゼルダでは怨念は厄災ガノンから発せられて王国が蝕まれているという設定になっていますが、日本列島が厄災の半島や大陸から発せられた怨念に蝕まれている、という、割と似た感じになっています。
ですから、日本列島としては元々は清浄なのですけど、外側から来た怨念が覆い被さっている状況なわけです。
そのような状況でも日本を守る力というものがあって、それは何かと思って見てみると分かったのですが、それは「祈り」でした。
基礎として日本の人それぞれが発している祈りというものがありますが、それと合わせて重要なのが天皇陛下など特に霊的に強い力を持った人が発する祈りが日本列島を守っているようなのです。
それによって、怨念が日本に覆い被さってはいるものの少しずつ怨念が取り払われている状況で、そうは言いましてもまだまだ厚く怨念が被さっている状況なわけです。
現状を見ると、これからどうなるのかなかなか見通しが立ちませんね。そのようなこう着状態であると言えます。
ただ、どうやら、この怨念の厚い雲によって日本人の判断、特に重要なのが政治における判断なのですが、選挙における政治家を選ぶ判断が鈍らされているようなのです。それによって訳のわからない反日の政治家や売国奴を選ぶ、ということが多くなっているように思います。
そもそもの話をすれば、この世界は波動の法則が成り立っていますから、波動がかなり違えばお互いに「見えなくなって」ゆく訳です。ですから、日本列島がかなり高い波動を保っていれば半島や大陸の人々から日本は見えなくなってゆくわけで、似たような波動の部分があるからこそ共鳴してしまい、半島や大陸から怨念を受けたり(見える形あるいは見えない形での)侵略を受ける、ということになるわけです。その上で、たまにふらりと侵入してくる邪悪な存在に対しては「切る」ことで排除するわけです。
厄災で日本列島を覆うことで波動的に少しずつ一致させ、それによって日本列島の波動を下げて大陸や半島人から容易に識別できる土地になり、移住を可能にさせる、という段階を踏んでいるような気が致します。
それは単純に言えば侵略ということになりますけど、目に見える形での侵略だけでなく、日本列島の波動を下げるということがセットになっているわけです。
日本列島を怨念で覆うことで半島や大陸と波動的に一致させ、波動を一致させてしまえば侵略も苦労なく自然に行うことができるわけです。
日本側の対抗手段としては、まず怨念を断ち切ること。怨念を切るには「剣」が必要で、それに加えて、エネルギー的なパワーの源として「祈り」も必要になります。具体的な退散させる力としての剣、根源と繋がるための祈り、それに加えて、怨念に影響されないために、基礎としての、自らの清浄さを保つ心、それは「鏡」として象徴される心ですけど、鏡のような透明な、それでいて曇らされない、見た目には周囲の色を映していても鏡自体は曇りがないかのように、心も、心は周囲の色を映すけれども心自体は曇ることがない、そのような境地で怨念を受け取らないことが肝心になるわけです。
日本列島の場合は土地の全体が怨念に包まれていますから、特に力を持った人がまずは断ち切る必要があるわけです。
見たところ、基本は祈りの力がよく効くように思えて、このくらいになるともはや自分というのか日本列島を司る土地神というのかはわかりませんけど、そのような集合意識のようなものが日本列島に生きる人々、それは今上天皇のような霊的に優れた人ももちろん含まれていますけどそのような集合意識としての祈りが怨念を解除して行っているようなのです。
私もその集合意識に合致して祈りの気持ちに乗ってみると、その祈りというのはよく効いていて、その集合意識としてはもはや私というのか集合意識としての全体というのかもはやわからない感じになっているのですけど、私の意識ということも一応はできますけど集合意識として日本列島の怨念を退散させる手助けができるわけです。
どうやら、瞑想でそれなりの状態に達していても日常生活を送る上で割とすぐに意識に雲がかかり始めるのはこの日本列島を覆っている厚い怨念が一つの要因としてあるような気もしてまいりました。
であれば、怨念の雲が薄い北海道の特に太平洋岸に行くとか、東北でも割と太平洋岸はそれほどでもないですし、紀伊半島や四国及び九州の中央から南方にかけてもそうでもありませんので、そのようなところに行くのも瞑想にとっては良いかもしれません。
ですけど、そうは言いましても日本列島に被さっている厚い怨念の雲はどうにかしなければ更に厚くなりかねませんので、祈りというのが今は特に重要になっていると思います。
祈りと言っても難しく考える必要はなくて、要は浄化で、対象を思ってその邪念が祓われますようにと思いを向ければ浄化は自動的に起こってゆきます。それは自分で行う自分に対する瞑想と同じことで、その意識が広がってゆけば意識の中で日本列島が見えてきて、日本列島の浄化も同じように行うことができるわけです。
邪悪な存在は火星に送られて数億年後まで隔離される
<そんなイメージが届いてきただけで、本当のことかはわかりません>
火星が今後、牢獄として使われるようです。そして、数億年後の火星の再生の時まで牢獄の何もないところで暮らし、「植物」からやり直すようです。植物とは言っても意識がうっすらとある存在として転生し、転生というよりも植物に取り憑くような状態になり、「笹の葉」あるいは「ススキの葉っぱ」みたいな植物がお互いに陣地を取り合って一生懸命喧嘩をしているような人生をまずは送るようです。そうは言いましても植物ですから大したことはできないのですけど、その植物くらいしか意識が宿ることができるところが最初はないようで、植物として自分のエゴを細々と満足させることになるようです。
これは瞑想中に降りてきたことですので本当のことかはわかりません。
数億年後とは言いましても意識体になった後のあの世の時間の流れは早いですし、意識だけになれば時空を越えることが一応はできますので、数億年ごとは言っても意外にあっという間、ということもできます。
その間、何もない荒野の火星をただ漂って、自分のエゴを満足させる相手も大してなく、ただ自分の意識があるだけの時間を延々と過ごすことになります。火星は広いですし火星の霊界はほとんど何もありませんので同様に火星送りになった他の意識体を見かけることはほとんどなく、ただ無の世界のようなところで延々と過ごすようになるようです。
実際のところ、死後、意識だけになれば火星から地球に移ったり、あるいは、もっと遠くの恒星から地球に移動するということも可能にはなるのですけど、邪悪な存在は意識が曇っていて意識がそれほど遠くまで行き渡りませんので、よって、自分がどこにいるのかもわからず、ずっと火星に閉じ込められた状態になって、どこにも行けないようです。
そして、実質的に閉じ込めるものは何もないのにも関わらず閉じ込められた状態になって、転生する肉体も火星には存在しませんので意識体のままずっと火星で暮らし、悶々としたまま数億年を過ごすようです。
これは最近世間を騒がせている武蔵野市の「松下 玲子」市長のことを見ていたら降りてきたもので、霊視とまではいきませんけどぼんやりと遠隔で瞑想中に「この人は一体何者なのだろう」と遠目で観察していたのですけど、まず最初に分かったのはこの人はとにかく邪悪な存在ということですけど、その次にふと降りてきたのが、今後、と言いますか既に霊界では実行中のようでありますけど、この人のように邪悪な存在は死後に隔離されて、具体的にはというと特殊な霊界警察みたいな人が火星に連れてゆき、そこに魂が放たれるようなのです。
今まではこのようなことは起きていなかったわけですけれども、実際のところ、今は地球が滅びるか、あるいは日本民族が侵略されて滅ぼされるか、みたいな瀬戸際まで来ておりますので、邪悪な存在は隔離することが決定されたようです。
実際のところ、地球の転生サイクルからすれば人類が滅ぼうがどうなろうが地球に生まれた人はまた割と地球に生まれるという転生サイクルに組み入れられているわけですけど、その地球の人生サイクルにそぐわない人は火星の転生サイクルへと強制的に移動させられるようなのです。
この隔離で地球滅亡や日本滅亡が阻止できるかどうかは別問題で、地球や日本が現在のタイムラインで滅亡したとしても終わりではなく別のタイムラインに意識が移るわけで、その時も同じ魂で転生サイクルが繰り返されるわけですけど、あの世の意識体のアストラルな世界では時空は超えておりますので別のタイムラインに移ることはできるのですけど、その場合でも、こうして火星に移動させられた意識体(いわゆる魂)はもはや火星の転生サイクルに閉じ込められるようなのです。
ですから、地球滅亡したり日本滅亡したとしてタイムラインが移動したとしても火星に移動させられた邪悪な魂が地球に戻ることはなく、火星に隔離された魂は火星で暮らすようになり、火星は牢獄のように今後使われるとのことで、実際、今も既にそのように使われ始めているようです。火星は荒野で何もありませんけど魂としての意識体であればあまり関係がなく存在し続けることができますけど、意識体の密度と言いますか、あの世の世界にも意識体がほとんどない状態ですので、邪悪な存在がずっと何も他に誰もいない世界で生き続けるわけです。ある意味、それは自由であるわけですけど、他に意識がない状態で、無為に、ずっと何億年も過ごすわけです。そうしているうちに意識が薄くなってゆき、もはやどうでもよくなってゆきます。
そうして隔離しなければ地球がますます破壊されてゆくから行われるわけです。隔離しなければ一部の邪悪な存在が市長のような力のある役職について邪悪な意図を持って社会を潰すようなことが継続されて行きますので、地上のことは地上の人の判断に任せられておりますのですぐにどうこうということはないようなのですけど、市長という立場にあって市を外国に売り渡すような外国人住民投票条例を早急に制定するようなことは大罪に値するので、死後、魂になったら隔離される、ということです。
実際、この宇宙というものはスピリチュアル的にも自由が保障されており、万人は何をすることができます。だからこそ、自分の行った自由というものには責任がつきまとうわけで、あまりにも身勝手な邪悪な行為に対してはこのように火星送りで数億年の牢獄生活を送ってもらい、その後は植物からやり直してもらう、という判断が行われたようです。
邪悪な存在が「この世界の人生は死ねば終わりで無に戻るだけだ」と思っているのであれば自由にそう思えばよくて、死後は関係ないのだと思うなら好きにすればいいだけのお話で、実際はこうして火星に隔離されたとしても本人は意識が曇っていて自分がどうなったのかすら気がつくことができない状態なわけですから、自分が火星にいようがどこにいようが、ただその状態を生きるしかない、受け身な状態なわけですから、火星に移動させられたとしても移動させられたことにすら気がつかないことだって多々あると想定されているわけです。実際、本人が気づくかどうかはあまり関係がなくて、とにかく強制的に移動させるだけのお話です。
この世界は本人の自由意志が尊重されていて基本は自分の自由意志に反して他人の魂を自由にすることはできないのですけど、力を持った立場で邪悪な意志を使って人々を混乱と恐怖そして搾取の手段として使ったのであれば大罪ですから、そのような邪悪な存在は審議の上、火星に隔離してほぼ無の状態に戻すのもやむなし、と判断されているようです。
実際、あの世は時空を超えておりますので数億年後の植物生活もうっすらと見えるのですけど、上記の通り、ただの「ススキの葉」みたいな存在に意識が宿っており、何も喋ることができず、意識ももはや人間の時のことは覚えておらず、原始的な存在に帰ってやり直しを行うようです。この地球の人生においては害されることもなく人生を桜花することができるかもしれませんけど、それは花火が消える前に少し強く輝く最後の光のようなもので、激しく光ったかと思えば、その邪悪な魂は隔離されて、一見すると輝かしく思える人生はこれで終わりなわけです。
この市長だけでなく、大陸系の徳のない人々、特に力を持った政治家、売国奴の政治家はマークされていて、ほぼ例外なく魂が火星送りになるようです。
とは言いましても、瞑想中に見えたことですので、本当のことかどうかはわかりません。
地球がそれで助かるかというと微妙なところで、割と焼石に水のようなところもあって、それでも、別のタイムラインでやり直す時に多少はマシになるように少しずつ、目立つところから、影響の大きなところから火星送りが実行されているようです。
邪悪なことをしていても火星送りにならなくてラッキーという人もいるでしょうし、逆に、それほどでなくてもたまたま目についたから火星送り、という場合もあるでしょう。そのあたり、もはや対象が多すぎて対処しきれなくなっており、目についたら割と構わず火星送りになっているようです。
霊界に邪悪な仲間がいて防御されている場合もありますけど、割と邪悪な存在というのは個別で分離、一人を好みますので隙が多くて、個別に捕まえて火星に送ることは割としやすい状況ではありますが、何せ数が多くて、全てを把握できない状況ですのでなかなか火星送りが追いついていない状況なわけです。
ですので、そもそも邪悪なことをしない方がいいのはそうなのですけど、たまたま邪悪なことをして監視員の目についたらすぐに火星送りになることもあるかと思いますので気をつけた方がいいと思います。この辺り、割と主観で動いているようです。客観的にリストを作って、みたいな悠長なことを言っていられる段階は既に超えていて、とにかく目についたところから構わず掃除をして火星送りにしていて、それでもまだ尚、これだけ邪悪な存在が多く地球を蝕んでいる状態のようなのです。
実際、スピリチュアル的な観点から言えば邪悪な存在すらも聖なる存在とその根源は一つでワンネスではあるのですけど、それはこうした数億年あるいはもっと長いスパンで言えばそうであるというお話で、根源のワンネスはさておき、数十年、数百年、数億年というスパンにおいては邪悪な存在は隔離して根源に戻す、ということも違和感なく霊界では行われているわけです。
それでも、まだこの地球や日本が滅亡する可能性がこのタイムラインで濃厚ですので油断できない状況なわけです。
実際のところ、日本列島の地域的意識の観点からすれば、日本列島を覆っている厄災を祈りによって浮き上がらせつつ弓か剣で叩いて少しずつ消す、あるいは、動物の体に寄生するダニを摘んで取り除くような感覚で掴んだ指で厄災をそのままに火星に放り捨てる、という感覚のように思いました。松下玲子のような厄災を火星送りにするのはそのようにダニを掴んで放り投げる感覚そのものでしたし、同様に、大阪の橋下徹のような詐欺師たちも火星送りの有力候補のようです。
瞑想の中で、日本列島からダニを摘んで引き離すだけで意識がクリアになって静寂が深まります。その上で、その掴んだものを押し潰してしまうのも忍びないですし汚いものが掴んだ手に広がって汚れても嫌ですので、火星にポイッと捨てるくらいがちょうどいいように思います。
実際のところ、今までかつて存在したタイムラインにはもっと邪悪な存在がいて今は割とマシな方のようですけど、それでもまだ小賢しい小悪人が沢山いて、松下玲子も橋下徹も所詮は小悪人の程度のようです。
そもそも、地球がコナゴナになって吹き飛んでいないのは日本のおかげなのにそんな日本から搾取しようとしてじわじわと侵略するなんて感謝が全然足りていないのではないですかね。日本がなかったらとっくの昔に地球は終わっていましたのに。
火星が今後、牢獄として使われるようです。そして、数億年後の火星の再生の時まで牢獄の何もないところで暮らし、「植物」からやり直すようです。植物とは言っても意識がうっすらとある存在として転生し、転生というよりも植物に取り憑くような状態になり、「笹の葉」あるいは「ススキの葉っぱ」みたいな植物がお互いに陣地を取り合って一生懸命喧嘩をしているような人生をまずは送るようです。そうは言いましても植物ですから大したことはできないのですけど、その植物くらいしか意識が宿ることができるところが最初はないようで、植物として自分のエゴを細々と満足させることになるようです。
これは瞑想中に降りてきたことですので本当のことかはわかりません。
数億年後とは言いましても意識体になった後のあの世の時間の流れは早いですし、意識だけになれば時空を越えることが一応はできますので、数億年ごとは言っても意外にあっという間、ということもできます。
その間、何もない荒野の火星をただ漂って、自分のエゴを満足させる相手も大してなく、ただ自分の意識があるだけの時間を延々と過ごすことになります。火星は広いですし火星の霊界はほとんど何もありませんので同様に火星送りになった他の意識体を見かけることはほとんどなく、ただ無の世界のようなところで延々と過ごすようになるようです。
実際のところ、死後、意識だけになれば火星から地球に移ったり、あるいは、もっと遠くの恒星から地球に移動するということも可能にはなるのですけど、邪悪な存在は意識が曇っていて意識がそれほど遠くまで行き渡りませんので、よって、自分がどこにいるのかもわからず、ずっと火星に閉じ込められた状態になって、どこにも行けないようです。
そして、実質的に閉じ込めるものは何もないのにも関わらず閉じ込められた状態になって、転生する肉体も火星には存在しませんので意識体のままずっと火星で暮らし、悶々としたまま数億年を過ごすようです。
これは最近世間を騒がせている武蔵野市の「松下 玲子」市長のことを見ていたら降りてきたもので、霊視とまではいきませんけどぼんやりと遠隔で瞑想中に「この人は一体何者なのだろう」と遠目で観察していたのですけど、まず最初に分かったのはこの人はとにかく邪悪な存在ということですけど、その次にふと降りてきたのが、今後、と言いますか既に霊界では実行中のようでありますけど、この人のように邪悪な存在は死後に隔離されて、具体的にはというと特殊な霊界警察みたいな人が火星に連れてゆき、そこに魂が放たれるようなのです。
今まではこのようなことは起きていなかったわけですけれども、実際のところ、今は地球が滅びるか、あるいは日本民族が侵略されて滅ぼされるか、みたいな瀬戸際まで来ておりますので、邪悪な存在は隔離することが決定されたようです。
実際のところ、地球の転生サイクルからすれば人類が滅ぼうがどうなろうが地球に生まれた人はまた割と地球に生まれるという転生サイクルに組み入れられているわけですけど、その地球の人生サイクルにそぐわない人は火星の転生サイクルへと強制的に移動させられるようなのです。
この隔離で地球滅亡や日本滅亡が阻止できるかどうかは別問題で、地球や日本が現在のタイムラインで滅亡したとしても終わりではなく別のタイムラインに意識が移るわけで、その時も同じ魂で転生サイクルが繰り返されるわけですけど、あの世の意識体のアストラルな世界では時空は超えておりますので別のタイムラインに移ることはできるのですけど、その場合でも、こうして火星に移動させられた意識体(いわゆる魂)はもはや火星の転生サイクルに閉じ込められるようなのです。
ですから、地球滅亡したり日本滅亡したとしてタイムラインが移動したとしても火星に移動させられた邪悪な魂が地球に戻ることはなく、火星に隔離された魂は火星で暮らすようになり、火星は牢獄のように今後使われるとのことで、実際、今も既にそのように使われ始めているようです。火星は荒野で何もありませんけど魂としての意識体であればあまり関係がなく存在し続けることができますけど、意識体の密度と言いますか、あの世の世界にも意識体がほとんどない状態ですので、邪悪な存在がずっと何も他に誰もいない世界で生き続けるわけです。ある意味、それは自由であるわけですけど、他に意識がない状態で、無為に、ずっと何億年も過ごすわけです。そうしているうちに意識が薄くなってゆき、もはやどうでもよくなってゆきます。
そうして隔離しなければ地球がますます破壊されてゆくから行われるわけです。隔離しなければ一部の邪悪な存在が市長のような力のある役職について邪悪な意図を持って社会を潰すようなことが継続されて行きますので、地上のことは地上の人の判断に任せられておりますのですぐにどうこうということはないようなのですけど、市長という立場にあって市を外国に売り渡すような外国人住民投票条例を早急に制定するようなことは大罪に値するので、死後、魂になったら隔離される、ということです。
実際、この宇宙というものはスピリチュアル的にも自由が保障されており、万人は何をすることができます。だからこそ、自分の行った自由というものには責任がつきまとうわけで、あまりにも身勝手な邪悪な行為に対してはこのように火星送りで数億年の牢獄生活を送ってもらい、その後は植物からやり直してもらう、という判断が行われたようです。
邪悪な存在が「この世界の人生は死ねば終わりで無に戻るだけだ」と思っているのであれば自由にそう思えばよくて、死後は関係ないのだと思うなら好きにすればいいだけのお話で、実際はこうして火星に隔離されたとしても本人は意識が曇っていて自分がどうなったのかすら気がつくことができない状態なわけですから、自分が火星にいようがどこにいようが、ただその状態を生きるしかない、受け身な状態なわけですから、火星に移動させられたとしても移動させられたことにすら気がつかないことだって多々あると想定されているわけです。実際、本人が気づくかどうかはあまり関係がなくて、とにかく強制的に移動させるだけのお話です。
この世界は本人の自由意志が尊重されていて基本は自分の自由意志に反して他人の魂を自由にすることはできないのですけど、力を持った立場で邪悪な意志を使って人々を混乱と恐怖そして搾取の手段として使ったのであれば大罪ですから、そのような邪悪な存在は審議の上、火星に隔離してほぼ無の状態に戻すのもやむなし、と判断されているようです。
実際、あの世は時空を超えておりますので数億年後の植物生活もうっすらと見えるのですけど、上記の通り、ただの「ススキの葉」みたいな存在に意識が宿っており、何も喋ることができず、意識ももはや人間の時のことは覚えておらず、原始的な存在に帰ってやり直しを行うようです。この地球の人生においては害されることもなく人生を桜花することができるかもしれませんけど、それは花火が消える前に少し強く輝く最後の光のようなもので、激しく光ったかと思えば、その邪悪な魂は隔離されて、一見すると輝かしく思える人生はこれで終わりなわけです。
この市長だけでなく、大陸系の徳のない人々、特に力を持った政治家、売国奴の政治家はマークされていて、ほぼ例外なく魂が火星送りになるようです。
とは言いましても、瞑想中に見えたことですので、本当のことかどうかはわかりません。
地球がそれで助かるかというと微妙なところで、割と焼石に水のようなところもあって、それでも、別のタイムラインでやり直す時に多少はマシになるように少しずつ、目立つところから、影響の大きなところから火星送りが実行されているようです。
邪悪なことをしていても火星送りにならなくてラッキーという人もいるでしょうし、逆に、それほどでなくてもたまたま目についたから火星送り、という場合もあるでしょう。そのあたり、もはや対象が多すぎて対処しきれなくなっており、目についたら割と構わず火星送りになっているようです。
霊界に邪悪な仲間がいて防御されている場合もありますけど、割と邪悪な存在というのは個別で分離、一人を好みますので隙が多くて、個別に捕まえて火星に送ることは割としやすい状況ではありますが、何せ数が多くて、全てを把握できない状況ですのでなかなか火星送りが追いついていない状況なわけです。
ですので、そもそも邪悪なことをしない方がいいのはそうなのですけど、たまたま邪悪なことをして監視員の目についたらすぐに火星送りになることもあるかと思いますので気をつけた方がいいと思います。この辺り、割と主観で動いているようです。客観的にリストを作って、みたいな悠長なことを言っていられる段階は既に超えていて、とにかく目についたところから構わず掃除をして火星送りにしていて、それでもまだ尚、これだけ邪悪な存在が多く地球を蝕んでいる状態のようなのです。
実際、スピリチュアル的な観点から言えば邪悪な存在すらも聖なる存在とその根源は一つでワンネスではあるのですけど、それはこうした数億年あるいはもっと長いスパンで言えばそうであるというお話で、根源のワンネスはさておき、数十年、数百年、数億年というスパンにおいては邪悪な存在は隔離して根源に戻す、ということも違和感なく霊界では行われているわけです。
それでも、まだこの地球や日本が滅亡する可能性がこのタイムラインで濃厚ですので油断できない状況なわけです。
実際のところ、日本列島の地域的意識の観点からすれば、日本列島を覆っている厄災を祈りによって浮き上がらせつつ弓か剣で叩いて少しずつ消す、あるいは、動物の体に寄生するダニを摘んで取り除くような感覚で掴んだ指で厄災をそのままに火星に放り捨てる、という感覚のように思いました。松下玲子のような厄災を火星送りにするのはそのようにダニを掴んで放り投げる感覚そのものでしたし、同様に、大阪の橋下徹のような詐欺師たちも火星送りの有力候補のようです。
瞑想の中で、日本列島からダニを摘んで引き離すだけで意識がクリアになって静寂が深まります。その上で、その掴んだものを押し潰してしまうのも忍びないですし汚いものが掴んだ手に広がって汚れても嫌ですので、火星にポイッと捨てるくらいがちょうどいいように思います。
実際のところ、今までかつて存在したタイムラインにはもっと邪悪な存在がいて今は割とマシな方のようですけど、それでもまだ小賢しい小悪人が沢山いて、松下玲子も橋下徹も所詮は小悪人の程度のようです。
そもそも、地球がコナゴナになって吹き飛んでいないのは日本のおかげなのにそんな日本から搾取しようとしてじわじわと侵略するなんて感謝が全然足りていないのではないですかね。日本がなかったらとっくの昔に地球は終わっていましたのに。
エネルギーが頭頂まで上がれば静寂の覚醒に至る
エネルギー上昇と静寂と覚醒とは表裏一体で、意識がクリアになればエネルギーが頭頂まで上がったということですしそれは同時に覚醒している、ということでもあります。覚醒というと色々と段階がありますけど、ひとまず、静寂の境地という段階における覚醒であればエネルギーが頭頂まで上がることによって起こるわけです。
覚醒という言葉だけですとお腹のマニプラ辺りにまでエネルギーが高まったとしても一応覚醒といえばそうで、胸のアナハタにまで上がっても一応覚醒ということもできますけど静寂の伴う意識の覚醒であれば頭にまでエネルギーが上がる必要があるわけです。
実際のところ、頭までエネルギーが上がったとしても悟りではなくて、3段階のうちの2つ目、アストラル次元、カーラナ次元、プルシャの次元という段階のうちカーラナ次元が頭頂のエネルギーに至ることによる覚醒に相当するわけです。
アストラル次元は感情と結びついていて、マニプラだとかスワディスタナ、あるいはアナハタであっても感情のそれぞれの面と結びついていて、マニプラやスワディスタナであれば性愛や愛着の愛だったりアナハタであればもう少し普遍的な愛になりますけどそれらはあくまでも感情面が主で、ヴィシュッダやアジナに至るとそれは静寂だったり論理だったり知的あるいは理屈の根源的なところに至るわけで、ヴィシュッダが境目でアストラル上界、そしてアジナに相当するのがカーラナ次元なわけです。
カーラナに至っても悟りではなくて、そうは言いましてもそのくらいに達すればそれなりの覚醒に至っていて、静寂の境地により物事はクリアに考えることができますし洞察力もあり、直感もよく働きます。
世間でゾーンとか言われている状態は一時的にカーラナに至った場合が多くて、ゾーンというからには継続するものではないことがほとんどですけど、ゾーン的な状態が当たり前になって割と常時覚醒の意識で生活することも可能なわけです。
このカーラナ次元の覚醒をサマーディということもできて、サマーディにも色々な段階がありますけど、一時的なサマーディによるゾーンを時々体験するような段階から始まって、やがてサマーディが当たり前になって、日常生活とサマーディが融合するわけです。
そのために、具体的には座った瞑想などをして、イダとピンガラにもエネルギーを通して頭頂にまでエネルギーを行き渡らせます。
日常生活を送るうちにエネルギーの通りが悪くなることもあり、瞑想をして、頭の近くにだけ通っていない時はそこだけ重点的に行えば頭頂にエネルギーが通りますし、あるいは、もっと調子が悪ければ胸の上のあたりから重点的にエネルギーを上げ直してあげる必要があるときもあります。それはどのような日常生活を送ったのか、日々の過ごし方にも影響を受けて、その時々においてエネルギーが通っていないところを通してあげてから、最終的には頭頂にまでエネルギーを上げることで静寂の境地に至るわけです。
実際、これがゴールではなくてあくまでもカーラナ次元のサマーディでしかありませんので、とは言いましてもそれなりに有効な状態ではありますけど、更なる上を目指す必要があるわけです。
覚醒という言葉だけですとお腹のマニプラ辺りにまでエネルギーが高まったとしても一応覚醒といえばそうで、胸のアナハタにまで上がっても一応覚醒ということもできますけど静寂の伴う意識の覚醒であれば頭にまでエネルギーが上がる必要があるわけです。
実際のところ、頭までエネルギーが上がったとしても悟りではなくて、3段階のうちの2つ目、アストラル次元、カーラナ次元、プルシャの次元という段階のうちカーラナ次元が頭頂のエネルギーに至ることによる覚醒に相当するわけです。
アストラル次元は感情と結びついていて、マニプラだとかスワディスタナ、あるいはアナハタであっても感情のそれぞれの面と結びついていて、マニプラやスワディスタナであれば性愛や愛着の愛だったりアナハタであればもう少し普遍的な愛になりますけどそれらはあくまでも感情面が主で、ヴィシュッダやアジナに至るとそれは静寂だったり論理だったり知的あるいは理屈の根源的なところに至るわけで、ヴィシュッダが境目でアストラル上界、そしてアジナに相当するのがカーラナ次元なわけです。
カーラナに至っても悟りではなくて、そうは言いましてもそのくらいに達すればそれなりの覚醒に至っていて、静寂の境地により物事はクリアに考えることができますし洞察力もあり、直感もよく働きます。
世間でゾーンとか言われている状態は一時的にカーラナに至った場合が多くて、ゾーンというからには継続するものではないことがほとんどですけど、ゾーン的な状態が当たり前になって割と常時覚醒の意識で生活することも可能なわけです。
このカーラナ次元の覚醒をサマーディということもできて、サマーディにも色々な段階がありますけど、一時的なサマーディによるゾーンを時々体験するような段階から始まって、やがてサマーディが当たり前になって、日常生活とサマーディが融合するわけです。
そのために、具体的には座った瞑想などをして、イダとピンガラにもエネルギーを通して頭頂にまでエネルギーを行き渡らせます。
日常生活を送るうちにエネルギーの通りが悪くなることもあり、瞑想をして、頭の近くにだけ通っていない時はそこだけ重点的に行えば頭頂にエネルギーが通りますし、あるいは、もっと調子が悪ければ胸の上のあたりから重点的にエネルギーを上げ直してあげる必要があるときもあります。それはどのような日常生活を送ったのか、日々の過ごし方にも影響を受けて、その時々においてエネルギーが通っていないところを通してあげてから、最終的には頭頂にまでエネルギーを上げることで静寂の境地に至るわけです。
実際、これがゴールではなくてあくまでもカーラナ次元のサマーディでしかありませんので、とは言いましてもそれなりに有効な状態ではありますけど、更なる上を目指す必要があるわけです。
オーラ視は目で見るような見ないような感覚で見る
オーラは、目で見ているような気もするけれども見ていないような気もする、という感覚で見ます。肉眼で見ようとすると自然にオーラも目に入りますけど、肉眼では見えていないような気もするけれども見えているような気もする、という感じでオーラが見えます。
オーラが「目で」見えているか? と聞かれると、目で見ているような気もするけれども目ではない何かで見ているような気もする、という感じで、はっきりとしたことは分かりません。
肉眼では見ていないような気もしていて、直感で見ているような気もしますけど、それも含めて肉眼のような気もしないでもありません。もしかしたら直感で見ていて肉眼で見ていないのかもしれませんけど、実はきっちりと肉眼で見えているのかもしれません。
古典的なオーラ視の方法として、少し暗くして他人の輪郭を見る、という方法があります。
それはオーラの中でも肉体に近いところのエーテルあるいはプラーナとか呼ばれている部分を見るもので、肉体の輪郭に沿ってうっすらと膜のようなものが見えます。
実際のところ、これはちょっと慣れれば誰にでも見えるもので、それがあるのが普通すぎてオーラと言われるまでそれがオーラだと気づいていない場合も多々あるように思います。オーラが元から見えていたとしても「そんなもの」としてスルーしている場合も多いように思います。
そんな、見える人にとっては当たり前のオーラですけど、実際、その存在に気づいていない人も多いわけです。
肉体とは別にエネルギー的な厚み及び強さがオーラの性質を決定していて、肉体が同じように見えていても、オーラがきちんと整っている人と、肉体優位でオーラがほとんど肉体の外側に出ていない人がいます。
オーラが弱い人は肉体の中及び皮膚の近くにほんの少しだけオーラの層があるだけの状態で、実のところ、地球に住んでいるほとんどの人はこの状態です。日本人はそれでもオーラが強い方ではありますけど、それでも、割と弱いオーラの人がほとんどだと思います。
特に男性はオーラが弱くて女性はオーラが元々強いのですけど、女性にしても夜の仕事をしている人はオーラが弱い傾向にあるように思います。女性は夜の仕事をするとオーラを削りながら生活することになりますのでエネルギーの枯渇が早いわけです。
一方、主婦はエネルギーをあまり消耗しませんのでオーラが綺麗に保たれてる傾向が強いですけど旦那にエネルギーを吸い取られたりしますとそれなりにエネルギーを消耗したりします。
いわゆる聖者あるいはそれなりに修行している人はオーラが強くて、肉体の輪郭の周囲に白いオーラの層が浮き出ていて、それが後光のようになっています。
これは、実のところわざわざオーラどうこう言わなくても何となく感じ取っている人が多くて、オーラを感じられないのであれば鈍い人、という感じだと思います。
一応は世間一般ではオーラなんてなくて肉体だけだ、みたいなお話になってはいますけど、日本人であればオーラを感じられるのが割と普通で、外国人とか、鈍い人とかがオーラなんてなくて物質しかないとか言っていたりしますけど、そんなことを言う人は鈍いだけなのであまり間に受けてオーラがあるとかないとか考えずに自分が感じるところに素直にいればいいだけだと思うわけです。
オーラの感知能力は瞑想の深さとも関連していて、瞑想を特にしていなくても日本人であれば感受能力が比較的高かったりしますから空気を読む延長線上で他人のオーラを感じ取ることができるわけです。その時、後光が見えたりオーラの強さが視覚情報と合わさって見えるかどうかは人それぞれなわけですけど、基本的には、瞑想状態でサマーディになって静寂の境地になっていれば視覚情報として他人のオーラを見るのも簡単のように思います。その逆に、意識が曇っているとこのようなオーラの感覚もそれに応じて鈍るように思います。
とは言いましても上に書きましたようにほとんどの人のオーラは弱いですので普段はあまりオーラを意識することはないのですけど、オーラが強い人が視界に入るとすぐにそれと分かります。
ヨーガや精神修行の団体にいる人の中でもオーラが強い人は実はそれほど多くなくて、それでも、いるにはいますので、なかなかこの世界も捨てたものではないと思います。
オーラが「目で」見えているか? と聞かれると、目で見ているような気もするけれども目ではない何かで見ているような気もする、という感じで、はっきりとしたことは分かりません。
肉眼では見ていないような気もしていて、直感で見ているような気もしますけど、それも含めて肉眼のような気もしないでもありません。もしかしたら直感で見ていて肉眼で見ていないのかもしれませんけど、実はきっちりと肉眼で見えているのかもしれません。
古典的なオーラ視の方法として、少し暗くして他人の輪郭を見る、という方法があります。
それはオーラの中でも肉体に近いところのエーテルあるいはプラーナとか呼ばれている部分を見るもので、肉体の輪郭に沿ってうっすらと膜のようなものが見えます。
実際のところ、これはちょっと慣れれば誰にでも見えるもので、それがあるのが普通すぎてオーラと言われるまでそれがオーラだと気づいていない場合も多々あるように思います。オーラが元から見えていたとしても「そんなもの」としてスルーしている場合も多いように思います。
そんな、見える人にとっては当たり前のオーラですけど、実際、その存在に気づいていない人も多いわけです。
肉体とは別にエネルギー的な厚み及び強さがオーラの性質を決定していて、肉体が同じように見えていても、オーラがきちんと整っている人と、肉体優位でオーラがほとんど肉体の外側に出ていない人がいます。
オーラが弱い人は肉体の中及び皮膚の近くにほんの少しだけオーラの層があるだけの状態で、実のところ、地球に住んでいるほとんどの人はこの状態です。日本人はそれでもオーラが強い方ではありますけど、それでも、割と弱いオーラの人がほとんどだと思います。
特に男性はオーラが弱くて女性はオーラが元々強いのですけど、女性にしても夜の仕事をしている人はオーラが弱い傾向にあるように思います。女性は夜の仕事をするとオーラを削りながら生活することになりますのでエネルギーの枯渇が早いわけです。
一方、主婦はエネルギーをあまり消耗しませんのでオーラが綺麗に保たれてる傾向が強いですけど旦那にエネルギーを吸い取られたりしますとそれなりにエネルギーを消耗したりします。
いわゆる聖者あるいはそれなりに修行している人はオーラが強くて、肉体の輪郭の周囲に白いオーラの層が浮き出ていて、それが後光のようになっています。
これは、実のところわざわざオーラどうこう言わなくても何となく感じ取っている人が多くて、オーラを感じられないのであれば鈍い人、という感じだと思います。
一応は世間一般ではオーラなんてなくて肉体だけだ、みたいなお話になってはいますけど、日本人であればオーラを感じられるのが割と普通で、外国人とか、鈍い人とかがオーラなんてなくて物質しかないとか言っていたりしますけど、そんなことを言う人は鈍いだけなのであまり間に受けてオーラがあるとかないとか考えずに自分が感じるところに素直にいればいいだけだと思うわけです。
オーラの感知能力は瞑想の深さとも関連していて、瞑想を特にしていなくても日本人であれば感受能力が比較的高かったりしますから空気を読む延長線上で他人のオーラを感じ取ることができるわけです。その時、後光が見えたりオーラの強さが視覚情報と合わさって見えるかどうかは人それぞれなわけですけど、基本的には、瞑想状態でサマーディになって静寂の境地になっていれば視覚情報として他人のオーラを見るのも簡単のように思います。その逆に、意識が曇っているとこのようなオーラの感覚もそれに応じて鈍るように思います。
とは言いましても上に書きましたようにほとんどの人のオーラは弱いですので普段はあまりオーラを意識することはないのですけど、オーラが強い人が視界に入るとすぐにそれと分かります。
ヨーガや精神修行の団体にいる人の中でもオーラが強い人は実はそれほど多くなくて、それでも、いるにはいますので、なかなかこの世界も捨てたものではないと思います。
ヴィパッサナー状態を保つための努力が減る
これは程度問題なのですが、ここ最近、またもやヴィパッサナー状態(観察状態)を保つために必要な努力の量が減ったように思います。
特に意識しなくても基本は薄いヴィパッサナー状態が保たれて、更にもう少し注意を向けるとヴィパッサナー状態が深まるのですが、それほど意図しなくてもそれなりの観察状態が継続されます。
例えば、階段を登る時、外を歩く時、ヴィパッサナー状態において視界や皮膚など観察されるものの感受の感覚は少し前とさほど変わらないといえばそうなのですが、その観察のために要する努力がまた一段と減って、特に意図しなくても薄い観察状態が続いています。
今後、おそらくは更に濃い観察状態へと少しずつ遷移してゆくのかなと思うのですが、その観察の深さは以前は努力を使って一時的に保たれていたのが、ここ最近は、これはもはや程度問題になってしまうのですけど、少し前ほどの努力が不要で、そもそも努力することなくても多少の観察状態が継続しています。
ですから、これを持ってして努力なしの観察状態、などと言ってしまっても良いのかもしれませんけど、それでも意図的にもっと深い微細な観察状態に入ることもできますので、まだまだ深まりがある以上は、この段階を持って「努力なし」と言うにはまだまだ早いような気も致しますし、その一方で、一応は努力なしといえばそうなのですから、努力なしの観察状態及びその深さ、と言う組み合わせで表現してもいいような気も致します。
ヨーガの本などを見ると単純に「努力なしのサマーディ」とだけ書かれてあったりしますけど、実際に体験してみるとそのような一枚岩ではなくて、今は努力なしですと薄い観察状態のサマーディになっていて、その今の状態をベースにして更に意図することで深いサマーディに入ってしっかりと観察することもできますので、意思の力の入れ具合によってサマーディの変化があると言う段階なのであればまだ過渡的な状態と言うことなのかもしれません。
ただ、そうして意図をしたりして思うのは、おそらくはサマーディの本質はそのような観察の「意図」及び「観察の深さ」そのものではなくて、観察の意図や深さからどんどんと離れてゆくことで、逆説的ではありますけど、離れてゆくが故に意図や観察の深さとは無縁になって観察状態が続くようになり、そのように観察と心や五感の働きが離れるが故にしっかりと全てを把握することができるようになる気が致します。
ヴィパッサナー状態が始まった頃は視界がスローモーションで感じられ、最初はそれ自体がヴィパッサナーかと思ったのですけど、その五感の動きそのものがヴィパッサナーというよりはその背後にある観察の動きが現れてきたが故に五感の動きをしっかりと把握できるようになった、ということです。理屈を考えればそれはその通りで、五感そのものは肉体やプラーナあるいはアストラル次元と結びついていて高次元のカーラナやプルシャのものではありませんのでヴィパッサナーやサマーディとは言ってもまだアストラル次元の働きでしかないわけです。
今回のことを思うに、日常生活で努力なしにヴィパッサナーの観察状態が続くということは観察の働きが強まったということであり、それは肉体やアストラル次元の五感や感情ではなくて少なくともカーラナ次元以上の働きが出てきた、ということかなと思っております。
その状態において以前のようにスローモーションで見ようとしたりしてもその意図や努力はあくまでも肉体やアストラル次元の五感に属するものですので、本来の観察の働きのカーラナ次元以上の動きとはあまり関係がないわけです。
そうは言いましてもそれらは密接に結びついておりますので現在の状態を測る上でこのような働きの状態を観察するのは無駄ではないと思います。
特に意識しなくても基本は薄いヴィパッサナー状態が保たれて、更にもう少し注意を向けるとヴィパッサナー状態が深まるのですが、それほど意図しなくてもそれなりの観察状態が継続されます。
例えば、階段を登る時、外を歩く時、ヴィパッサナー状態において視界や皮膚など観察されるものの感受の感覚は少し前とさほど変わらないといえばそうなのですが、その観察のために要する努力がまた一段と減って、特に意図しなくても薄い観察状態が続いています。
今後、おそらくは更に濃い観察状態へと少しずつ遷移してゆくのかなと思うのですが、その観察の深さは以前は努力を使って一時的に保たれていたのが、ここ最近は、これはもはや程度問題になってしまうのですけど、少し前ほどの努力が不要で、そもそも努力することなくても多少の観察状態が継続しています。
ですから、これを持ってして努力なしの観察状態、などと言ってしまっても良いのかもしれませんけど、それでも意図的にもっと深い微細な観察状態に入ることもできますので、まだまだ深まりがある以上は、この段階を持って「努力なし」と言うにはまだまだ早いような気も致しますし、その一方で、一応は努力なしといえばそうなのですから、努力なしの観察状態及びその深さ、と言う組み合わせで表現してもいいような気も致します。
ヨーガの本などを見ると単純に「努力なしのサマーディ」とだけ書かれてあったりしますけど、実際に体験してみるとそのような一枚岩ではなくて、今は努力なしですと薄い観察状態のサマーディになっていて、その今の状態をベースにして更に意図することで深いサマーディに入ってしっかりと観察することもできますので、意思の力の入れ具合によってサマーディの変化があると言う段階なのであればまだ過渡的な状態と言うことなのかもしれません。
ただ、そうして意図をしたりして思うのは、おそらくはサマーディの本質はそのような観察の「意図」及び「観察の深さ」そのものではなくて、観察の意図や深さからどんどんと離れてゆくことで、逆説的ではありますけど、離れてゆくが故に意図や観察の深さとは無縁になって観察状態が続くようになり、そのように観察と心や五感の働きが離れるが故にしっかりと全てを把握することができるようになる気が致します。
ヴィパッサナー状態が始まった頃は視界がスローモーションで感じられ、最初はそれ自体がヴィパッサナーかと思ったのですけど、その五感の動きそのものがヴィパッサナーというよりはその背後にある観察の動きが現れてきたが故に五感の動きをしっかりと把握できるようになった、ということです。理屈を考えればそれはその通りで、五感そのものは肉体やプラーナあるいはアストラル次元と結びついていて高次元のカーラナやプルシャのものではありませんのでヴィパッサナーやサマーディとは言ってもまだアストラル次元の働きでしかないわけです。
今回のことを思うに、日常生活で努力なしにヴィパッサナーの観察状態が続くということは観察の働きが強まったということであり、それは肉体やアストラル次元の五感や感情ではなくて少なくともカーラナ次元以上の働きが出てきた、ということかなと思っております。
その状態において以前のようにスローモーションで見ようとしたりしてもその意図や努力はあくまでも肉体やアストラル次元の五感に属するものですので、本来の観察の働きのカーラナ次元以上の動きとはあまり関係がないわけです。
そうは言いましてもそれらは密接に結びついておりますので現在の状態を測る上でこのような働きの状態を観察するのは無駄ではないと思います。
極度の緊張状態でも呼吸を保つ
エネルギー及び意識の覚醒を保つために、例え極度の緊張状態でも呼吸を保つことが重要に思います。
これはおそらく武道をしている方にとっては当たり前のことのような気も致しますが、武道をしてこなかった私にとってはなかなかこれは実のところ難しく、今まで、理屈で分かってはいても上手くできていませんでした。
極度の緊張になると呼吸が止まるかゆっくりになり、その結果、エネルギーの通りが悪くなって意識も少しずつ覚醒を失って時には朦朧となる、ということが度々起こっていたように思います。
今も基本的にはその理屈や構造はそのままで、呼吸と意識の覚醒とは密接に結びついているという点に関してはそのままなのですけど、最近は、極度の緊張状態が起こったとしても呼吸を意識的に保つことが少しずつ可能になってきたように思います。
そうは言いましても日常生活において普通に生活していればそのような極度の緊張状態になるということは少ないのですけど、それでも、時折起こる状態、あるいは意図的にそのような環境に身を置いたときの意識の保ち方に変化が生じてきたように思います。
具体的には、変な意識体に街中で不意に遭遇してしまった時に以前であれば呼吸が乱れて意識が朦朧となり、いわゆる悪霊に取り憑かれたとか成仏していない不浄霊に憑依されたみたいな状態になるのですけど、その時も、呼吸を保つことで意識を保つことができ、冷静になって自分の周囲を意識の剣で切るとか、自分のオーラの指で取り憑いている意識体を引き抜くみたいなことが割と素早く可能になってきます。
その訓練、というわけではないのですけど、ゲームで緊張状態になることもその意識の状態を保つのに一役買っているような気が致します。同じゲームをした時に以前と比べてどれだけ意識を保つことができるのか、という点においてゲームは現実に対する意識の訓練として少しは役立つようにも思います。同じことはおそらくドラマなどでも行うことができて、ドラマに没頭して意識が吸い込まれてしまう状態、あるいは、極度の緊張状態になって呼吸が止まってしまうのか、あるいは、意識の覚醒を保ち続けるのか、という点においてドラマも同様に覚醒を保つ訓練に一役買うような気が致します。
これはおそらく武道をしている方にとっては当たり前のことのような気も致しますが、武道をしてこなかった私にとってはなかなかこれは実のところ難しく、今まで、理屈で分かってはいても上手くできていませんでした。
極度の緊張になると呼吸が止まるかゆっくりになり、その結果、エネルギーの通りが悪くなって意識も少しずつ覚醒を失って時には朦朧となる、ということが度々起こっていたように思います。
今も基本的にはその理屈や構造はそのままで、呼吸と意識の覚醒とは密接に結びついているという点に関してはそのままなのですけど、最近は、極度の緊張状態が起こったとしても呼吸を意識的に保つことが少しずつ可能になってきたように思います。
そうは言いましても日常生活において普通に生活していればそのような極度の緊張状態になるということは少ないのですけど、それでも、時折起こる状態、あるいは意図的にそのような環境に身を置いたときの意識の保ち方に変化が生じてきたように思います。
具体的には、変な意識体に街中で不意に遭遇してしまった時に以前であれば呼吸が乱れて意識が朦朧となり、いわゆる悪霊に取り憑かれたとか成仏していない不浄霊に憑依されたみたいな状態になるのですけど、その時も、呼吸を保つことで意識を保つことができ、冷静になって自分の周囲を意識の剣で切るとか、自分のオーラの指で取り憑いている意識体を引き抜くみたいなことが割と素早く可能になってきます。
その訓練、というわけではないのですけど、ゲームで緊張状態になることもその意識の状態を保つのに一役買っているような気が致します。同じゲームをした時に以前と比べてどれだけ意識を保つことができるのか、という点においてゲームは現実に対する意識の訓練として少しは役立つようにも思います。同じことはおそらくドラマなどでも行うことができて、ドラマに没頭して意識が吸い込まれてしまう状態、あるいは、極度の緊張状態になって呼吸が止まってしまうのか、あるいは、意識の覚醒を保ち続けるのか、という点においてドラマも同様に覚醒を保つ訓練に一役買うような気が致します。
意識の剣で邪悪な存在を切る
瞑想の中で、自分の意識が広がって土地や地域に関する意識の視点と繋がってくると問題となってくるのがその土地あるいは地域に被さっている黒い邪悪な意識です。混沌に包まれたヘドロのような厄災が地域に覆い被さっているわけです。
例えば私の近くの市町村である武蔵野市に関して瞑想中に意識を飛ばしてみると、土地に黒いモヤモヤがかかっていて住民たちの判断が鈍ってしまい、松下玲子市長のような邪悪な存在が土地を支配してしまうわけです。
厄災は祓い退ける必要があるわけで、それは、瞑想で行うことができます。
意外に自分の意識は土地にまで繋がっていて、まず、意識の剣で土地に覆い被さっている黒いモヤモヤとしたヘドロを切ると少し切れて離れますので、それは火星にでもポイっと捨ててしまいます。
その後、そのまま瞑想を続けて、しばらくすると割と綺麗になって、そうすると今までモヤモヤのヘドロに包まれていて見えなかった松下市長のような邪悪な存在の姿が見えてくるのですがヘドロで包まれていてよく見えませんので、今度はその覆い被さっているヘドロのような黒い塊を意識の剣で切り落とします。そうすると少し姿がまた見えるようになって、更にまた剣でヘドロを切り落とすことを繰り返すことで姿が見えてきます。
実際のところ、このくらい黒い塊のヘドロのような厄災に包まれてしまうともはや自分本来の清浄な魂とヘドロの怨念・厄災との区別がつかないくらいになってしまいますので、ヘドロがなくなったことにより自分という存在がなくなってしまったかのような錯覚になってしまうわけですけど、実際のところ、瞑想で切り落としただけですので実社会にどれだけ影響が出ているのかわかりませんので、その辺りは割と実験的な感じで、今後、松下市長にどのような変化が出てくるのか興味深いところです。
ついでに、と言ってはなんですけど目についたところではニトリ社長が中国賛美していましたので試しに同様に少し切ってみて、あとは、岸田首相も移民政策推進したり変なこと言い出しましたので少し切ってみたのですがこのお二人は松下市長と比べてそこまで邪悪というわけでもないようですが発信力や権力があって気をつけてほしいのと勘違いを正すためにほんの少しお灸を据える程度しかしていませんけど。
今日やったばかりですので、特に変化がないのか、あるいは、どうなるのか。今後観察して行きます。
こういう他人は瞑想と意外に関係があって、最初はあんまり関係ないですけど、意識が広がってくると土地や権力あるいは多くの人々の意識というものが瞑想の妨げになってきますので、自分の瞑想が進むにつれてこういう土地や民族・社会集団の問題も解決する必要が出てくるように思います。
例えば私の近くの市町村である武蔵野市に関して瞑想中に意識を飛ばしてみると、土地に黒いモヤモヤがかかっていて住民たちの判断が鈍ってしまい、松下玲子市長のような邪悪な存在が土地を支配してしまうわけです。
厄災は祓い退ける必要があるわけで、それは、瞑想で行うことができます。
意外に自分の意識は土地にまで繋がっていて、まず、意識の剣で土地に覆い被さっている黒いモヤモヤとしたヘドロを切ると少し切れて離れますので、それは火星にでもポイっと捨ててしまいます。
その後、そのまま瞑想を続けて、しばらくすると割と綺麗になって、そうすると今までモヤモヤのヘドロに包まれていて見えなかった松下市長のような邪悪な存在の姿が見えてくるのですがヘドロで包まれていてよく見えませんので、今度はその覆い被さっているヘドロのような黒い塊を意識の剣で切り落とします。そうすると少し姿がまた見えるようになって、更にまた剣でヘドロを切り落とすことを繰り返すことで姿が見えてきます。
実際のところ、このくらい黒い塊のヘドロのような厄災に包まれてしまうともはや自分本来の清浄な魂とヘドロの怨念・厄災との区別がつかないくらいになってしまいますので、ヘドロがなくなったことにより自分という存在がなくなってしまったかのような錯覚になってしまうわけですけど、実際のところ、瞑想で切り落としただけですので実社会にどれだけ影響が出ているのかわかりませんので、その辺りは割と実験的な感じで、今後、松下市長にどのような変化が出てくるのか興味深いところです。
ついでに、と言ってはなんですけど目についたところではニトリ社長が中国賛美していましたので試しに同様に少し切ってみて、あとは、岸田首相も移民政策推進したり変なこと言い出しましたので少し切ってみたのですがこのお二人は松下市長と比べてそこまで邪悪というわけでもないようですが発信力や権力があって気をつけてほしいのと勘違いを正すためにほんの少しお灸を据える程度しかしていませんけど。
今日やったばかりですので、特に変化がないのか、あるいは、どうなるのか。今後観察して行きます。
こういう他人は瞑想と意外に関係があって、最初はあんまり関係ないですけど、意識が広がってくると土地や権力あるいは多くの人々の意識というものが瞑想の妨げになってきますので、自分の瞑想が進むにつれてこういう土地や民族・社会集団の問題も解決する必要が出てくるように思います。