無の境地に浸ることを許さないナーダ音の顕現

2022-07-09 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ゾーンによる感情的な歓喜に至り、感情的な至福が安定し、やがては無の境地になると夜はぐっすりと深くよく眠れるようになり、「安らかさ」を毎日のように体感することができるようになります。

それはスピリチュアルにおける一つのプラトーであり、一つの到達点でもあるわけです。無の境地というのは「安らぎ」の地点でもあり、それにより、文字通り、「思考(雑念)の停止した状態」によって「くつろぐ」という意味を再発見します。

しかし、無の境地すらも到達点ではなくて、やがて、その無への「眠り」を妨げるかの如く強烈な力でナーダ音が意識を呼び覚ますようになります。

実際のところ、この「無の境地」は仏教などで「そこにいつまでも安楽にしてはいけない」と言われている一つの禅定の段階に相当しているような気も致しますけど、そのように、途中においてとても安楽でそこにいつまでも留まりたいと思ってしまう段階があるわけです。

ナーダ音それ自体はヨーガを初めて割と最初のうちから聞こえるようになったりするものですけど、とある段階からナーダ音がよく聞こえるようになり、ナーダ音により瞑想中に眠りや無に落ち込むことを許さないようになります。

最初は、なんて邪魔なナーダ音なのだろうかと思ったりしたこともあったように思いますが、今から思えば、そのように安寧にたむろしていたら成長もなかったわけで、ナーダ音によって無理やり突き動かされたことは良かったことのように思います。

私の場合、無の境地になってからナーダ音が激しくなり、そしてクンダリーニが本格的に覚醒するという順番だったように思います。

クンダリーニが動き出してからは、最初は体全体が活性化しておりましたがやがてマニプラ優勢の状態に落ち着き、そして壁(ヨーガで言うところのグランティ)を突破してからはアナハタ優勢になり、そしてアジナ優勢になり、ヴィシュッダ(喉)が浄化能力を高めて行った結果、静寂の境地に至ったように思います。

ですが、静寂の境地すらもスピリチュアルの終着地点ではなく、その後、いわゆるハイヤーセルフの意識、あるいはアートマン、はたまた、創造・破壊・維持の公の意識と言っても良い意識が現れて一体化し、感謝、ありがたい、ただそれのみの状態に至ります。そして、これすらもまだ終着地点ではないわけです。

であれば、無の境地が終着地点であるわけもなく、静寂の境地がスピリチュアルの終着地点であるわけもないのです。