幸福と平安の小サイクルは繰り返される

2020-10-18 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

禅定のサイクルとして以下のようなお話があります。

1.幸福
2.(思考が止まることによる)喜び
3.(幸びが消えて)楽のある平安
4.(楽が消えて)平安のみ

禅定は特に2段階以降がサマーディと呼ばれますが、このような起伏の状態は禅定だけでなくそれ以前においても同様のサイクルが繰り返されているように思います。

この性質により、往々にしてサマーディ以前においても自分が禅定に達したのではないかという誤解をしてしまう可能性があるようにも思います。私も、禅定の定義がいまいちピンときていませんでしたが、今思えば、サマーディ以前においても自分が禅定に達したのかな? と思い違いしていた場合もあるような気が致します。

例えば、プラティヤハーラの段階で雑念が逃れようとする段階においても同様の4ステップを踏むような気が致します。

■プラティヤハーラ
→ 雑念から離れて一時的な幸福に至る
→ 雑念が一時的に止まって喜びを感じる
→ 雑念が一時的に止まって、喜びが減って楽がある平安
→ 雑念が一時的に止まって、楽が消えて平安な状態に至る

これらは、サマーディとある程度は同様のステップを辿るような気が致します。
ディヤーナ(瞑想)でも同様な気が致します。

■ディヤーナ
→→ 集中が高まり、一時的な幸福に至る
→→ 集中力が高まり、喜びを感じる
→→ 集中力が高まり、喜びが減って楽がある平安
→→ 集中力が高まり、楽が消えて平安な状態に至る

これと、サマーディはよく似ています。

■サマーディ
→→→ 観察力が高まり、幸福に至る。これは昨年末から視界がスローモーションで認識されるという段階に対応しているように思います。喜びのある状態です。五感が働き続けていて、「面白い」という感覚があります。
→→→ 観察力が高まり、喜びを感じる。これは最初にスローモーションで感じたような特別な状態から日常が映画になった段階に相当してるような気が致します。まだ面白いという感覚は残っていますが、最初の時のような特別感がなくなってきた段階です。自我が戸惑う、ということも起きます。
→→→ 観察力が高まり、喜びが減って楽がある平安。これはその後、「面白い」という感覚が次第に減っていって日常生活と融合してきた段階に相当しているような気が致します。
→→→ 観察力が高まり、楽が消えて平安な状態に至る。これは最近感じていて、面白いとか楽とかいう感覚がかなり消えていって、単に観察力だけが残ってきた感じが致します。この頃になると「自我が戸惑う」みたいなことはほとんどなくなってきて、普通な状態になってきたような気が致します。