スピリチュアルなワンネスの違い

2021-04-07 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

スピリチュアルではワンネスとかよく言われますけど、オーラ的な同一をワンネスと言っている場合と根源の本質が同一と言っている場合とがあり、それはかなり異なりますがごっちゃになって語られている場合が多いような気が致します。

オーラ的な同一は「同じになる」ということで、ものの考え方、習慣、雰囲気などを含めて同一化することをワンネスとそこでは呼んでいます。

一方で、根源が同一と言っている場合は姿形や考え方、習慣およびオーラまでさえも違っていても根源が同一であることをワンネスと呼んでいます。

ですから、本来、この2つは相容れない立場なのですよね。

ですけど、スピリチュアルでは割とこの2つが並列に語られていて、質的な同質のワンネスの先に根源のワンネスがある、みたいなお話になっています。

これは、誰かが根源にたどり着くためにはまず師匠や宗教団体などと質的に同一化した方がわかりやすい、というグル(師匠)と弟子のシステムが基盤にあるように思いますが、その場合、本人の成長はその団体に依存することになり、団体の全てが成長する時は一緒に自分も成長する、という進歩の仕方になります。

ですけど、そのお話と、根源が同一だというお話は、本来は別物なのですよね。

師匠と同一化、あるいは、お互いに学び合っている弟子たちとの間での同一化はよく起こることで、それはそれで否定しませんし、割とそこらであることだと思います。それは一蓮托生とでも言うべき間柄になることであって、そこでの雰囲気やオーラが割と同質化されることになります。そうして、本来の理解であるところの根源とのワンネスを探してゆく、という道はありますけど、そうしてオーラを同質化するというお話と根源が同一というお話は本質的には別のお話なわけです。

特にオーラを同質化していなくてもこの世にあるものは全て根源が同一でワンネスが既に達成されているのですから、その本質的なワンネスのためにオーラを同質化するワンネスは本質的には不要なわけです。ですけど、スピリチュアルではまるでこれらがそれぞれステップになっているかのように語られています。それはただ単に一緒になって成長してゆく仲間というかグループがあるというだけのお話で、それはオーラ的なワンネスのお話であって、根源のワンネスのお話とは別なわけです。

これはオーラ的なワンネスを否定しているわけではなくて、そういうお仲間や仲良しグループは普通にありますしあって良いものだとは思いますけど、ここで言いたいのは、ただ単に、それらは本質的には別ですよ、ということです。