この世の全てが知識で満ちている

2021-04-11 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

サンスクリットで言うところのニャーナ(知識)でこの世の全ての空間は満たされている、と聖典は言います。空気の何もないところや宇宙空間ですら全てはニャーナ(知識)で満たされており、時間と空間の制約を受けないものです。

それは聖典の言葉であり、言い換えればそれがブラフマンの全体であり、個としてのアートマンもその質を持っています。

今までは聖典の言葉としてこのニャーナ(知識)を理解しておりましたが、最近、この世界が映画のように思えるにつれ、次第に、遠くの世界まで空間が続いているかのような感覚が出てきました。とは言いましても具体的に遠くに何があるのかはわからないのですが、何か続いているような、空間が歪んでいるかのような感覚になってきました。

視界のところどころが歪んでいて、そこはどうやら一定ではないようなのです。

空間が遠くまで続いているという認識は遠くまで見えるかどうかとは関係がなくて、普通の近所の景色であってもその奥底に空間を超えて遠くまで遥かに延々と続いているのを感じます。

そのような感覚になってくると、空間が歪んでいるのを感じるのと同時に、この世が全て何かに満たされている、ということが直感的にわかってきます。

何に満たされているのかは「それ」としかいいようがないのですが、その感覚を聖典の言葉に当てはめてみれば「ニャーナ(知識)」と呼ぶのがしっくり来る気が致します。

空間の全てに満ち満ちている何かは、それを感じることによって知識のようなものを私の認識の中に生じさせます。何かある、という感覚、それと、そこにある違いを認識として生じさせるものが空間に満ちているとしたら、それを「知識(ニャーナ)」と呼んでも良いのかなと思います。

空間の全てが知識で満たされているということは聖典の言葉では知っておりましたが、実際に、こうした微細な感覚が育ってくる時に感じられる実際の認識は聖典の言葉とは全く違うものになります。

聖典の言葉は頭で理解したということであり、流派によっては超感覚的なものを否定して頭でしっかりと理解することで真理を探求すべしと言っているところもありますけど、私は個人的にはそうは思わなくて超感覚とまでは行かないまでも微細な感覚で実際に感じられるようにならないのであれば勉強する意味も半減するのではないかと思っております。勉強するだけでも無駄ではないとは思いますけどせっかくならば直接的に知りたいですよね。

私の場合、瞑想をしてまずは視界のヴィパッサナー状態になって動体視力がアップし、次に空間が歪んで感じられるようになって、そこで次にこうした「空間は知識で満たされれている」という実感が出てきました。

聖典の言葉は嘘ではなかったのだな、と今では思います。