実際にそうだと体感するのはそれなりに瞑想を日々続けてからのことにはなりますが、あらかじめ心とサマーディは別物だと理解しておくことが重要のように思います。
大きな違いとしては、心には集中がありますがサマーディには集中がない、ということです。
たまに、瞑想の流派で集中を否定していたりしますけど、それは最初からサマーディのお話をしているのであって、その根底を見ていくと、心とサマーディとが同じものであるかのような理解をしている混乱に行き着くわけです。
心の動きというのはフォーカスであり、目標に意識を向けするということであり、言い換えればそれは集中ということです。
そのような流派にしても大抵は「集中はある程度は必要」と言っていたりしますけど、その一方で、「集中はしない。観察する」とか説明していて、実際の教えを受けたりすると、どうも心とサマーディの違いがわかっていないのか、あるいは、わかってはいるけれども教える時にはそう説明しているだけなのかもしれないですけど、少なくともそのような流派において、最初に教えを受ける側としてはこれら心とサマーディの違いをはっきりと説明されることがあまりないわけです。
呼吸を観察する、とか、皮膚の感覚の観察をするとか、色々な手法がありますけど、心とサマーディの違いを説明されることはあまりないような気がしますし、瞑想の定義としてサマーディとはただの集中に過ぎないと説明される場合もあります。聖典にもそのように書かれてある時があって、文字通りに理解してしまうのもわからなくもありません。
サマーディの代わりにヴィパッサナという言葉を使っている流派もありますけど、どちらにせよそのようなサマーディあるいはヴィパッサナという状態に至るには手順があるわけで、至る前に、一応は心とサマーディ(あるいはヴィパッサナーと呼ぶこともある)の違いを理解しておく方がいいと思うわけです。
そうしないと、細かいところで瞑想の誤解が生じてしまいます。
例えば、サマーディには集中がないのだから瞑想において集中しない、という瞑想の説明がされたりしますが、これは聞く側にとてつもない混乱をもたらします。全てわかって説明しているなら説明不足で片手落ちですので教師として未熟ですし、あるいは、わかっていなくてこれが正しいと思っているのならば理解不足です。どちらにせよこのような説明を真に受けるべきではありません。
実際には、上に書いたように、心には集中があってサマーディには集中がない、ということですから、瞑想において心は集中して何かに繋ぎ止めておいて、その一方で、サマーディの状態に至るのならばサマーディとしての集中なしの観察状態が同時に発生する、ということです。
これは、心とサマーディが別物でありますから、心が集中していようがいまいがサマーディとして観察状態が続きますが、瞑想をそれなりに続けた方でしたら心がそれなりに強化されていてさまよい歩くことがあまりなくなっていますから、心をそれほど強化して集中して繋ぎ止めておかなくてもさほど動かなくなっているわけです。そのような心の力がある上で「手中しない」というのはありですけど、それに至っていないのならば心をしっかりと繋ぎ止めておく必要があるわけです。
流派によっては準備が整っていない人に対しても「集中しない。観察だ」とことさらに観察だけをさせようとしますので、心を繋ぎ止めておくことを否定されてしまうと心があちらこちらにさまよい歩き、ネガティブな思いあるいは活動的な反応的な思いの連鎖に囚われて混乱をきたしてしまうわけですね。
言葉としての説明ひとつひとつを見ていくと一見して正しいように見えても、全体を見ると間違って理解されている流派があるわけです。理屈を聞くとたしかに合っているかのように見えても、そこにいる人達の理解のほとんどが間違っている、ということもあるわけです。
まあ、喜劇のようなものですよね。あまりにもその誤解が広がっていて、何が正しいのかも判別できなくなっているのかもしれないです。
そうして誤解するだけならまだいいのですが、その流派で実際に瞑想をすることで、具体的には集中を否定されて瞑想をした結果、心を繋ぎ止めておくことを否定されて、精神的に混乱をきたしてしまう人が続出してしまうわけです。
瞑想の基本は集中だ、というのは、心を繋ぎ止めておく必要がある、ということです。心は訓練していない状態では猿のようにあちらこちらにふらふらと動く、という説明がよくされたりしますけど、サマーディの前に心を鍛える必要があるわけです。
実際のところ、心とサマーディは別物でありますから、心を鍛えなくてもサマーディだけ育てる、ということは理屈としては可能で、そのように直接的にサマーディを育てようとしている流派もあります。ですけど、心が訓練されていない覚者というのはいわば子供が悟っているようなもので、この世に生まれたのでありますから心も合わせて訓練した方がいいと私は思ったりするわけですけど、それは流派や個人の自由ですから好きにすればいいとは思いますが。
サマーディに達したら集中がなくなる、というのは、心とサマーディとが別物ではなく同じものだと誤解しているのであれば心で集中しなくなる、というような間違った理解をしてしまいます。そうではなくて、心は心で、サマーディはサマーディです。サマーディがあったとしても心の集中は存在していて、心の集中がなされていたとしてもサマーディとしての集中なしの観察が同時並行で存在できるわけです。
ですから、そのような状態を説明するために「ある程度は集中が必要」とか言うことは間違ってはいないですけど、そもそも心とサマーディとは別物だということをしっかりと理解しておかなければ心での集中は不要だとかいう誤解が生じてしまうわけです。
流派によっては集中瞑想をことさらに毛嫌いしているところもあって、そのような流派で「どうして集中瞑想がいけないのですか」と聞くと一瞬でキレられて怒鳴られる時もあります。キレるという時点で瞑想がそれほど進んでいなくて、単に不快な感情を抑圧しているだけの瞑想をしていることがわかるわけですけど、集中瞑想を否定している流派では瞑想が間違って教えられていて、感情を抑圧してサマーディっぽい観察状態を心の観察でそれっぽく作り出す、ということがなされていたりするわけです。これは何を言っているのか伝わらないかもしれないですけど、そもそも心とサマーディが別物だということがしっかりと理解されていない状態でサマーディを目指したのならば、心で観察するしかないわけです。それはサマーディという状態は最初は自分にはありませんから、ないのにも関わらず、説明だけ聞いてサマーディを真似しようとしたら心を抑圧して心でそれっぽい皮膚の観察状態を作り出すということをしてしまうわけです。これは疑似サマーディみたいなもので、本当のサマーディではなく、それっぽく真似ているだけです。このような不思議な状態が瞑想でできてしまうわけです。それも、心とサマーディとは別物だという理解が浸透していないが故に起きてしまう喜劇なのかなと思います。
心とサマーディというと、心は「働き」で、サマーディは「状態」ですので、それぞれ違うものを並列に並べていることに違和感を持たれた方もいらっしゃるかもしれません。このあたりは、チベット式の説明の方がすっきりするかもしれなくて、心とリクパ、という並べ方の方がいいかもしれません。
心はありきたりな思考の心のことで、リクパは心の本性のことで、リクパは最初は厚い雲に覆われていて多くの人には働いていないけれども誰にでも最初から存在していて心の浄化を進めることによって働きが現れてくるもので、リクパによってサマーディの状態が現れます。
心には集中があって、リクパには集中がなくて観察だけがあります。
実際にはリクパにもそれなりの集中というのがあって意識を向けたりもできますけど、心のように明確なものではありませんので、一応はこのように説明しておいていいと思います。
そのように、心のお話と、リクパ(あるいはサマーディ)のお話をごっちゃにしている流派がこの世にはそれなりにあるわけですけど、一方で、その違いをしっかりと認識してから瞑想するのが大切だと思うわけです。
実際のところ瞑想はただの集中だけではないのですけど、そうは言いましても特に最初は単なる集中で十分なわけですから、瞑想とは集中である、と言ってもそう差し支えなくて、伝統的にはそのように説明されているように思います。ですけど集中だけが瞑想ではなくて、リクパを働かせて観察状態になることでようやく本当の瞑想になるわけです。
ですから、瞑想で浄化という面もありますけど、瞑想と並行して浄化のための活動をすることも重要になってくるわけです。