観照においては心の動きをはっきりと把握できますが、それは瞑想が進んで心の動きが緩やかになった時に可能になります。
その、はっきりとした心の動きの観照というのはどうやら2種類あるようです。
1つは、心そのものを観察できること。この段階では、心の動きはまだぼやっとしたものとしか感じられませんが、それでも観照と言えば観照です。
もう1つは、心の動きをその背後にあるアートマン(真我)がダイレクトに動かして観察していることを感じられること。これが本来の観照のような気がしてまいりました。
この2つは実際にはかなり明確に違っていて、最初のものは最初こそ観照かと思ったのですが今から思えば観照というよりは観察していた、というくらいのものだったようにも思います。
観照となると、はっきりとその背後にあるアートマン(真我)を認識できるようになります。
アートマン(真我)は、単に見ているだけでなく、意図を送り出してくる源でもあります。その両方の面があります。
心のように具体性はそこまでありませんが、意図がそこに感じられて、意図の源でありかつ観察者であります。
その、心の背後にあるアートマン(真我)を認識できて、働きかけてくる意図と観察という両面があることがはっきりと自覚できている状態が観照だと思います。