死んだらどうなるのか?
割と色々なところで言われていますけど、死んだらどうなるのでしょうか? というお話です。
■死んだらどうなるのか?
死ぬと魂が体から抜け出ます。
死んだら無に戻るわけではありません。
死ぬことを異常に恐れている人も大勢いらっしゃいますけど、死ぬこと自体はそこまで大変なことでもありません。
死ぬこと自体よりも、やりたいことを果たせずに死ぬことの方が強いカルマを来世に残すような気が致します。
やり残して途中で死んだり殺されたりしたらその後悔や恨みの念が残ります。そして、それはカルマとして来世にまで引き継がれます。
体が死んで魂が抜け出ると、周囲の景色が見えます。そして宙に浮かんで葬式などを眺め、参加している人々が悲しんでいるのかそうでもないのか、何を話しているのかも含めてぷかぷかと浮かびながら観察することになります。よくある臨死体験みたいなものですね。それと同じようになります。
ですから、自分が男だったとして、妻が夫(自分)の死に対して喜んでいたら夫の魂は「ムキー」ってなるわけです(苦笑)
逆も同様で、自分が女だったとして、夫が妻(自分)の死に対して悲しんでいないなら夫の愛が本物じゃなかったことに悲しむわけです。
ですから、死ぬ時まで、そして、死んだ後も結婚相手は好きでいるのが理想ですよね。
そこまでお互いに好き合うのであれば、死んだ後もあの世で一緒に暮らすことになります。
■死後の幽界のコミュニティ
あの世の寿命はとても長いので、友人知人や元妻・元夫などの集まるコミュニティは割と巨大になっていくことがあります(苦笑)
例えば、元妻が何十人もいたり・・・。それはそれで大勢、ワイワイガヤガヤやって楽しいですけどね。地上みたいにお金の制約もないですし、特に苦労もなく楽しくずっと過ごすことが出来ます。
結婚相手が嫌いなら、死ぬと同時にバイバイです。それもまた自由。
魂に戻ったらその状態でどこにでも行くことが出来ますけど、基本は友人知人や元妻・元夫など仲が良い人たちがいるところで暮らすことになるのです。
ちなみに、死んだ時には、ある程度意識が進んだ魂であれば全て心得ていますので移動も自由自在で自分でみんなのいるところまで移動しますが、そこまで目覚めていない魂の場合は誰かが迎えに来ますので迎えにきた人(というか魂)に付いて行って懐かしい人たちと再会します。
目覚めの具合にもよりますが、あまり目覚めていないと死んだ後に周囲が見えなくて「真っ暗」で、ほんの少し先までしか見えなかったりします。目覚めの度合いに応じて遠くが見えます。たまに臨死体験で「真っ暗だった」とか言っている方がいらっしゃいますけど、どの程度見えるのかは精神の目覚めのレベル次第かなあ、という気がします。
死んだ後、かつての友人知人や元妻・元夫のところに戻るのは嫌だー と思えば、好きにすれば良いです。今生で生きている間に知り合った、気の合う異性とずっと共に過ごしても良いのです。まさに自由です。自由意志次第です。気の合う人たちと一緒にずっと暮らして、また地上に生まれたいと思ったら好きなように生まれ変わります。
生前に仮面夫婦を続けていて嫌で嫌でしょうがなかった元夫や元妻と一緒に暮らす必要はありません。
■死後の姿
ちなみに、死後の体は自分の好きなように変化できますので、自分が一番美しかった年齢の姿でいることが多いように思います。
ですから、めちゃくちゃ美人さんであればずーっと美人さんの姿のままです。素晴らしい世界。
ちょっとコンプレックスあれば姿を変えるのも自由自在ですけど、割と特徴はそのまま、ということが多い気がします。そうでないと相手が誰なのかよくわからなくなってしまいますし。
■精神的な自立が大切
ただし、生前に精神的に従属させられてしまった人の場合は死後もその関係が続く場合があります。
ですから、精神的な自立というのは何よりも大切だと思います。死後まで精神的に従属して強制・操作の関係を続けるなんて嫌ですよね?
■幽界から地上を助ける
ちなみに、ある程度のサイキックの力があればあの世から地球の出来事が覗けます。なんとなーく、感じるわけです。何かあれば友人知人や元妻・元夫たちが地上にまで降りてきて、地上に生まれ変わった人の手助けをします。それは、生きている時の手助けも死んだ瞬間(魂が抜け出た時)の手助けも同様です。基本は、友人知人や元妻・元夫たちが助けてくれます。
守護霊だけが守っている場合もありますけど、こうして友人知人や元妻・元夫たちが気になって地上の様子を見に来ていることも多いのです。守護霊は地上の生活に疎いこともありますので、地上の生活に詳しいのは友人知人や元妻・元夫の方です。
仏教とかで言いますとこのように人間の形が残っている死後の世界は割と低層の世界で、いわゆる幽界なわけですけど、そうは言っても、基本はこのように低い世界である幽界と地上を何度も何度も往復するのが基本なのではないかと思います。そうして、ある程度の浄化と言いますか、ある程度のレッスンを積んでレベルが上がったら更にもう一つ上の類魂のところに戻って、そして再度分霊を作って地上へと降りたり、あるいは、違う世界へとスピリットとして肉体としての体を持たずに生まれ変わったりするようです。
仏教では霊の気配があると未浄化霊とか悪霊の扱いをして成仏させようとしますけど、それは無駄だと思います(苦笑)
成仏というのは何度も何度も何百回も(何千回も?)転生してようやく次の世界へと行くわけですから、そりゃ、幽界に大勢の魂がいて当然なわけです。幽界の魂がいなくなるわけがありません。
■守護霊
守護霊ですけど、割と低い世界である幽界の霊が守護している場合もあるようですけど、それでもかなり修行を積んだ幽界の霊が付いているようです。割合まではわかりませんけど、本当に強力な守護霊は幽界ではなくて霊界のスピリットの方だと思います。人それぞれ、幽界の守護霊がついていたり霊界の守護霊がついていたりするようです。
修験道の修行者だったり仏教の行者だったり神道の巫女のような守護霊がついている場合は幽界の中でも上位のクラスの守護霊になりますね。一方、霊界の守護霊ですと地上のことに疎かったりしますけど色々とスピリチュアル的には頼りになります。
■生まれる時の計画
どんな人生を送るのか詳しく計画して生まれてくる場合もあれば、なんとなく面白そう、ということで生まれてくる場合もあります。
そして、死ぬ時に残ったカルマを幽体が引き取ります。
ですから、生きている間に苦しい生活はしない方が良いです。それは来世まで引きずりますから。
ということであれば、生まれる時に興味本位だけでなく、きちんと計画した方が良いです。経済的な面だけでも、最低は。
■感情や情愛に支配された世界
幽界はそれほど高い世界ではありませんので、感情や情愛が強い魂が多いです。
私の属しているコミュニティもその傾向が強くて、みんなワイワイ楽しく暮らしていつも笑っています。
それ以上の世界へとやがては行くわけですけど、幽界のコミュニティであっても十分楽しいところなわけです。
まあ、時には嫉妬とかも出ますけど、基本的にはみんないい人ばかりです。
■魂の消滅のお話
それとは別に、ちょっと怖い話をします。
地上に生まれている修行者・能力者たちの中には荒っぽい人がいて、空中を幽体の魂が飛んでいると誰それ構わず攻撃して「無」に戻してしまう人がいます。こうなってしまうと魂が根元まで消滅してしまい、生まれ変わりすらできません。まさに文字通り「消滅」です。こんな荒っぽいことはすべきではないと個人的には思うのですが、そのような方が実際いらっしゃるのですから危険性を表明しておくのは無駄ではありません。
これは地上に体を持って生まれてきている場合は特に心配はいりませんが、体がなくて幽体で地上を彷徨っている時はこのような荒っぽい人に消滅させられてしまう危険性があるということです。ですから、例えば幽体離脱してふらふらとそこらをうろつくのは、実はちょっと危険があるのです。死後に幽体の魂で人の姿をして地上をうろつくのも同様の危険があります。そうそうこんな荒っぽい人はいないですけど、いるにはいるので、運が悪いと遭遇するかもしれません。
守護霊として誰かについているのならば攻撃されることはほとんどないようですけど、一人で(1人の魂で)うろついていると未浄化の浮遊霊や悪霊と思われてしまって攻撃される危険性があるということです。消滅してしまうと生まれ変わることが出来ませんので、注意が必要です。知り合いの人生を手助けするなど守護霊的な立場で地上に関わる分にはさほど危険はないと言えます。
地上を探検して楽しみたいのならば幽体の霊のままでなくて、生まれてくるのが一番だと思います。三次元の制約はあって色々と大変ではありますけど、この種の「消滅」の危険性はありませんし。何百もの転生の経験が全て無に戻ってしまうと残念という言葉では言い表せないほどの悲劇になってしまいますから。
これは私が子供の頃に幽体離脱した際に知ったことを元にしています。
本当かどうかは保証しません。ただの夢かもしれませんしね。
■死んだらどうなるのか?
死ぬと魂が体から抜け出ます。
死んだら無に戻るわけではありません。
死ぬことを異常に恐れている人も大勢いらっしゃいますけど、死ぬこと自体はそこまで大変なことでもありません。
死ぬこと自体よりも、やりたいことを果たせずに死ぬことの方が強いカルマを来世に残すような気が致します。
やり残して途中で死んだり殺されたりしたらその後悔や恨みの念が残ります。そして、それはカルマとして来世にまで引き継がれます。
体が死んで魂が抜け出ると、周囲の景色が見えます。そして宙に浮かんで葬式などを眺め、参加している人々が悲しんでいるのかそうでもないのか、何を話しているのかも含めてぷかぷかと浮かびながら観察することになります。よくある臨死体験みたいなものですね。それと同じようになります。
ですから、自分が男だったとして、妻が夫(自分)の死に対して喜んでいたら夫の魂は「ムキー」ってなるわけです(苦笑)
逆も同様で、自分が女だったとして、夫が妻(自分)の死に対して悲しんでいないなら夫の愛が本物じゃなかったことに悲しむわけです。
ですから、死ぬ時まで、そして、死んだ後も結婚相手は好きでいるのが理想ですよね。
そこまでお互いに好き合うのであれば、死んだ後もあの世で一緒に暮らすことになります。
■死後の幽界のコミュニティ
あの世の寿命はとても長いので、友人知人や元妻・元夫などの集まるコミュニティは割と巨大になっていくことがあります(苦笑)
例えば、元妻が何十人もいたり・・・。それはそれで大勢、ワイワイガヤガヤやって楽しいですけどね。地上みたいにお金の制約もないですし、特に苦労もなく楽しくずっと過ごすことが出来ます。
結婚相手が嫌いなら、死ぬと同時にバイバイです。それもまた自由。
魂に戻ったらその状態でどこにでも行くことが出来ますけど、基本は友人知人や元妻・元夫など仲が良い人たちがいるところで暮らすことになるのです。
ちなみに、死んだ時には、ある程度意識が進んだ魂であれば全て心得ていますので移動も自由自在で自分でみんなのいるところまで移動しますが、そこまで目覚めていない魂の場合は誰かが迎えに来ますので迎えにきた人(というか魂)に付いて行って懐かしい人たちと再会します。
目覚めの具合にもよりますが、あまり目覚めていないと死んだ後に周囲が見えなくて「真っ暗」で、ほんの少し先までしか見えなかったりします。目覚めの度合いに応じて遠くが見えます。たまに臨死体験で「真っ暗だった」とか言っている方がいらっしゃいますけど、どの程度見えるのかは精神の目覚めのレベル次第かなあ、という気がします。
死んだ後、かつての友人知人や元妻・元夫のところに戻るのは嫌だー と思えば、好きにすれば良いです。今生で生きている間に知り合った、気の合う異性とずっと共に過ごしても良いのです。まさに自由です。自由意志次第です。気の合う人たちと一緒にずっと暮らして、また地上に生まれたいと思ったら好きなように生まれ変わります。
生前に仮面夫婦を続けていて嫌で嫌でしょうがなかった元夫や元妻と一緒に暮らす必要はありません。
■死後の姿
ちなみに、死後の体は自分の好きなように変化できますので、自分が一番美しかった年齢の姿でいることが多いように思います。
ですから、めちゃくちゃ美人さんであればずーっと美人さんの姿のままです。素晴らしい世界。
ちょっとコンプレックスあれば姿を変えるのも自由自在ですけど、割と特徴はそのまま、ということが多い気がします。そうでないと相手が誰なのかよくわからなくなってしまいますし。
■精神的な自立が大切
ただし、生前に精神的に従属させられてしまった人の場合は死後もその関係が続く場合があります。
ですから、精神的な自立というのは何よりも大切だと思います。死後まで精神的に従属して強制・操作の関係を続けるなんて嫌ですよね?
■幽界から地上を助ける
ちなみに、ある程度のサイキックの力があればあの世から地球の出来事が覗けます。なんとなーく、感じるわけです。何かあれば友人知人や元妻・元夫たちが地上にまで降りてきて、地上に生まれ変わった人の手助けをします。それは、生きている時の手助けも死んだ瞬間(魂が抜け出た時)の手助けも同様です。基本は、友人知人や元妻・元夫たちが助けてくれます。
守護霊だけが守っている場合もありますけど、こうして友人知人や元妻・元夫たちが気になって地上の様子を見に来ていることも多いのです。守護霊は地上の生活に疎いこともありますので、地上の生活に詳しいのは友人知人や元妻・元夫の方です。
仏教とかで言いますとこのように人間の形が残っている死後の世界は割と低層の世界で、いわゆる幽界なわけですけど、そうは言っても、基本はこのように低い世界である幽界と地上を何度も何度も往復するのが基本なのではないかと思います。そうして、ある程度の浄化と言いますか、ある程度のレッスンを積んでレベルが上がったら更にもう一つ上の類魂のところに戻って、そして再度分霊を作って地上へと降りたり、あるいは、違う世界へとスピリットとして肉体としての体を持たずに生まれ変わったりするようです。
仏教では霊の気配があると未浄化霊とか悪霊の扱いをして成仏させようとしますけど、それは無駄だと思います(苦笑)
成仏というのは何度も何度も何百回も(何千回も?)転生してようやく次の世界へと行くわけですから、そりゃ、幽界に大勢の魂がいて当然なわけです。幽界の魂がいなくなるわけがありません。
■守護霊
守護霊ですけど、割と低い世界である幽界の霊が守護している場合もあるようですけど、それでもかなり修行を積んだ幽界の霊が付いているようです。割合まではわかりませんけど、本当に強力な守護霊は幽界ではなくて霊界のスピリットの方だと思います。人それぞれ、幽界の守護霊がついていたり霊界の守護霊がついていたりするようです。
修験道の修行者だったり仏教の行者だったり神道の巫女のような守護霊がついている場合は幽界の中でも上位のクラスの守護霊になりますね。一方、霊界の守護霊ですと地上のことに疎かったりしますけど色々とスピリチュアル的には頼りになります。
■生まれる時の計画
どんな人生を送るのか詳しく計画して生まれてくる場合もあれば、なんとなく面白そう、ということで生まれてくる場合もあります。
そして、死ぬ時に残ったカルマを幽体が引き取ります。
ですから、生きている間に苦しい生活はしない方が良いです。それは来世まで引きずりますから。
ということであれば、生まれる時に興味本位だけでなく、きちんと計画した方が良いです。経済的な面だけでも、最低は。
■感情や情愛に支配された世界
幽界はそれほど高い世界ではありませんので、感情や情愛が強い魂が多いです。
私の属しているコミュニティもその傾向が強くて、みんなワイワイ楽しく暮らしていつも笑っています。
それ以上の世界へとやがては行くわけですけど、幽界のコミュニティであっても十分楽しいところなわけです。
まあ、時には嫉妬とかも出ますけど、基本的にはみんないい人ばかりです。
■魂の消滅のお話
それとは別に、ちょっと怖い話をします。
地上に生まれている修行者・能力者たちの中には荒っぽい人がいて、空中を幽体の魂が飛んでいると誰それ構わず攻撃して「無」に戻してしまう人がいます。こうなってしまうと魂が根元まで消滅してしまい、生まれ変わりすらできません。まさに文字通り「消滅」です。こんな荒っぽいことはすべきではないと個人的には思うのですが、そのような方が実際いらっしゃるのですから危険性を表明しておくのは無駄ではありません。
これは地上に体を持って生まれてきている場合は特に心配はいりませんが、体がなくて幽体で地上を彷徨っている時はこのような荒っぽい人に消滅させられてしまう危険性があるということです。ですから、例えば幽体離脱してふらふらとそこらをうろつくのは、実はちょっと危険があるのです。死後に幽体の魂で人の姿をして地上をうろつくのも同様の危険があります。そうそうこんな荒っぽい人はいないですけど、いるにはいるので、運が悪いと遭遇するかもしれません。
守護霊として誰かについているのならば攻撃されることはほとんどないようですけど、一人で(1人の魂で)うろついていると未浄化の浮遊霊や悪霊と思われてしまって攻撃される危険性があるということです。消滅してしまうと生まれ変わることが出来ませんので、注意が必要です。知り合いの人生を手助けするなど守護霊的な立場で地上に関わる分にはさほど危険はないと言えます。
地上を探検して楽しみたいのならば幽体の霊のままでなくて、生まれてくるのが一番だと思います。三次元の制約はあって色々と大変ではありますけど、この種の「消滅」の危険性はありませんし。何百もの転生の経験が全て無に戻ってしまうと残念という言葉では言い表せないほどの悲劇になってしまいますから。
これは私が子供の頃に幽体離脱した際に知ったことを元にしています。
本当かどうかは保証しません。ただの夢かもしれませんしね。
魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がある
上のお話は死んだらどうなって、霊体が結合したり分霊になったりするお話ですが、それとは別に、幽体の魂がそのまま転生する場合もあります。と言いますが、それが大多数です。
カウントの仕方にもよるのですが、赤ちゃんの生まれる数の割合で言いますと幽体がそのまま(結合・分霊というプロセスを経ずに)転生する場合の方が遥かに多いように思います。残りは残りは前記のように一旦グループソウルと融合してから分霊になって再度生まれる、とかその他の場合ですね。
ですから、死んだ後の魂がどうなるのかは諸説あるわけです。転生があるのかないのか? というお話も、あるようでいてないような・・・。全てはものの見方次第です。
・幽体がそのまま転生する場合:輪廻転生そのものですね。これが大多数です。
・幽体と魂(霊体)が一旦グループソウルと融合してから分霊を作って転生する場合:一旦「個」がなくなるので、これを輪廻転生と呼ぶのかは微妙なところです。これは少数のパターンです。
発達した魂ほど後者のパターンで一旦グループソウルと一体になってから転生しているような気が致します。人間としての人生にどっぷり浸かっているほど前者のパターンで幽体のまま(結合・分霊というプロセスを経ずに)転生しているような気が致します。
魂(霊体)はグループソウルとしての意識もあって、グループソウルの意識は人間の意識を拡大したものですので、それが人間相当だとするとグループソウルが転生を繰り返している、という見方もできます。グループソウルの一部が転生を繰り返して、分霊が1回だけでなく複数回転生してからグループソウルに帰る感じですね。分霊が単体で転生を繰り返すのは何十回やもっと長いこともあるようです。これは流石に把握しきれませんけど。
夢で見たここ1,000年くらいのグループソウルの記憶に基づいて言いますと、同じ意識を持った例が度々記憶の各所で出会っていますので、きっと少なくともそのくらいは個別の魂が転生を繰り返すのかな、とも思います。
一方で、かなり発達した霊は目的別にグループソウルから分離して各個の使命を果たし、終わったらグループソウルに戻ったりしているようです。
カウントの仕方にもよるのですが、赤ちゃんの生まれる数の割合で言いますと幽体がそのまま(結合・分霊というプロセスを経ずに)転生する場合の方が遥かに多いように思います。残りは残りは前記のように一旦グループソウルと融合してから分霊になって再度生まれる、とかその他の場合ですね。
ですから、死んだ後の魂がどうなるのかは諸説あるわけです。転生があるのかないのか? というお話も、あるようでいてないような・・・。全てはものの見方次第です。
・幽体がそのまま転生する場合:輪廻転生そのものですね。これが大多数です。
・幽体と魂(霊体)が一旦グループソウルと融合してから分霊を作って転生する場合:一旦「個」がなくなるので、これを輪廻転生と呼ぶのかは微妙なところです。これは少数のパターンです。
発達した魂ほど後者のパターンで一旦グループソウルと一体になってから転生しているような気が致します。人間としての人生にどっぷり浸かっているほど前者のパターンで幽体のまま(結合・分霊というプロセスを経ずに)転生しているような気が致します。
魂(霊体)はグループソウルとしての意識もあって、グループソウルの意識は人間の意識を拡大したものですので、それが人間相当だとするとグループソウルが転生を繰り返している、という見方もできます。グループソウルの一部が転生を繰り返して、分霊が1回だけでなく複数回転生してからグループソウルに帰る感じですね。分霊が単体で転生を繰り返すのは何十回やもっと長いこともあるようです。これは流石に把握しきれませんけど。
夢で見たここ1,000年くらいのグループソウルの記憶に基づいて言いますと、同じ意識を持った例が度々記憶の各所で出会っていますので、きっと少なくともそのくらいは個別の魂が転生を繰り返すのかな、とも思います。
一方で、かなり発達した霊は目的別にグループソウルから分離して各個の使命を果たし、終わったらグループソウルに戻ったりしているようです。
魂の成り立ちを理解してどこから魂が生まれてどこに行くのか知る事
悟りへの過程で「幸せ」だとか「平穏」などと言うものも達成されますが、それと合わせて、自分の魂の成り立ちを事実として確信してわかるようになります。
魂、いわゆるスピリットの認識が生まれ、スピリットとしての見識が生まれ、スピリットとしての視界が生まれ、スピリットとしての聴覚が生まれ、世界をスピリットの統合体として理解し、それらのスピリット、特に自分のスピリットがどこから生まれてどこへ帰ってゆくのか、どこへ行くのか。その過去と未来を知ることができるようになります。
確かに、「光の世界に入る」だとかゾクチェンでいうトクガルの境地だとか言うのもありますけど、その辺りになってくると自分のスピリットが動き出して自分が何者なのかをはっきりと認識し、それゆえに迷いもなくなり、自らが生まれた理由も行き先も知る事になるわけです。
ですから、その内容はもちろん人ごとに違うわけで、自分の場合の成り立ちと行き先をはっきりとスピリットとして認識できるようになって、その上で、単なる運命論とかではなくて自分の頭できっちりと考えて自分のスピリットがどこへ向かうのか考えることができるようになります。
ですから、「心の平穏」だとか「心の平和」とか言うのは、割と補助的なものになると思います。もちろん「集中力(サマタ)」とか「観察(ヴィパッサナー)」なんてのも悟りの一面を現しただけです。
スピリットとしての認識が生まれれば肉体としての五感は一段階「別」のものとして認識されますが、それは別にスピリットから見て上とか下とか階層で言い表すものではなくて、単に違うものとして五感が存在しています。スピリットからの視点が出てくればヴィパッサナーとかになりますけど、それが優越であるわけでもなくて、単に、それぞれの視点があるだけです。
そもそも死んだ後はスピリットとしての視点だけになって肉体は滅びますので、ほとんどの人はスピリットとしての聴覚や視覚を持っています。ですから、特に心配しなくても誰でもスピリットとしての認識力はあるわけですけれども、人によっては「この人生の間は使わないで頑張ってみます」みたいなお約束をしていて、そのような人が実はかなりいますのでスピリットなんてないと思っていますけど、単にその視点を意図的に封じ込めて地上での肉体の学びができるようにしているだけで、実際はほとんどの人は大差ないのです。
ただ、そうしてしまうとスピリットとしての視点を忘れてしまって、ちゃんと霊界に戻ればその封印を解いてもらえるのに幽界に留まって再度転生を繰り返したりしているものですからスピリットとしての視点が解放されずに人間的な生活を繰り返すわけです。
死んだ後は幽体になって割と肉体と同じような姿、しかし、自分が一番お気に入りの年齢で存在するようになります。大体は若い時の姿ですかね。そこから再度生まれたり分霊を作って分霊が転生したりしますけど、その状態だと霊界の事をあまり認識できていませんので地上の肉体としての生活を繰り返してしまうわけです。
どちらにせよ死んだらみんな悟れる可能性があるわけですが、生きているうちに混迷を極めてしまうと死んでも悟れません。地上を彷徨う亡霊になってしまったりするわけです。
できれば生きているうちにこの世の理を理解して自分が来た場所と行くべき場所を見極めることができれば大体は悟ったと言っていいと思います。
これ、単なるスピリチュアルのお話に聞こえるかもしれませんけど、単に勉強して知識として知っていることでもなければ信じることでもありませんし、チャネリングのようなもので頭の中にインスピレーションを与えられることでもないです。本当に自分のスピリットが物事や空間だけでなく時空をも超えて見通して直接的に周囲や過去・未来を認識して理解することなので、そうそうできないです。ここまで来れば、自分の魂・スピリットの生まれた成り立ちや目的・行き先までもがクリアになって悩みもほぼなくなるのです。とは言っても日常の小さな悩みは必ずありますのでそれはなくなりませんが、大きな視点ができる事により小さな事に悩まされにくくなるのです。
これらのことがわかれば実は善も悪もないと言うこの世の理が理解できて、自由になるのです。この段階での自由は常人には理解しがたいです。何をしてもいい、と言うのは、スピリットの理に従って生きると言うことでありますし、その状態になれば実は人間の顕在意識は何ら自由意志を持っていない事にも気づくわけです。ですから、悟った後は肉体の頭での自由な選択ではなくスピリットが自由に行動するようになります。肉体の頭はスピリットの選択に従うようになりますから一見したら肉体の頭は従属状態のように見えるかもしれませんが、ずっと昔から、そもそもの原初の状態の最初からそもそも肉体の頭は自由意志を持っておらずスピリットの意思があるだけだったのに自由意志があるように幻影で見えていただけだと気づきます。ですから、肉体の頭が自由に何をしてもいい、と言うのではなくて、スピリットがしたいように自由に生きるようになるわけです。それがこの世の理であり、それを理解したら本当に自由になるのです。
それを仏教では涅槃の知識だとか輪廻転生からの解放だとか言っていますけど、同じ事だと思います。スピリチュアルな観点と仏教の観点が違うだけで、割と同じことを語っているように思います。ヨーガやゾクチェンにしても修行の個人的認識の観点から語っているだけで、行き着く先は同じだと思います。ヴェーダンタだって先日書いた仮説が事実だとすればウパニシャッドはいわゆる「彼岸の知識」を伝えているわけで、同じ事だと思います。
悟り自体は単純ではありますが、単純であるが故に何をもって悟りとするのか、その判断が難しいこともあります。
平穏さも基本的にはやってきますが、疲れや体調不良と同じように精神的な疲れももちろんありますから常にMAX状態にいるわけでもありません。基本的には世間の雑多な出来事にそれほど惑わされなくなります。このような一時的な状態を見て悟りと判断するのは判断を誤らせる事になります。本質的なところでは悟りは能力とは関係がないですし一時的な状態とは関係がありませんが、よりわかりやすくて間違いのない判断基準としては、普遍的なスピリットの理を真に理解できたかどうか、と言う点で悟りを判断した方がいいようにも思います。それ自体が悟りというわけではないにせよ、悟れば高確率でこれらのことも理解して把握できるようになりますから、それなりの確度で悟りを客観的に判断できるような気が致します。
魂、いわゆるスピリットの認識が生まれ、スピリットとしての見識が生まれ、スピリットとしての視界が生まれ、スピリットとしての聴覚が生まれ、世界をスピリットの統合体として理解し、それらのスピリット、特に自分のスピリットがどこから生まれてどこへ帰ってゆくのか、どこへ行くのか。その過去と未来を知ることができるようになります。
確かに、「光の世界に入る」だとかゾクチェンでいうトクガルの境地だとか言うのもありますけど、その辺りになってくると自分のスピリットが動き出して自分が何者なのかをはっきりと認識し、それゆえに迷いもなくなり、自らが生まれた理由も行き先も知る事になるわけです。
ですから、その内容はもちろん人ごとに違うわけで、自分の場合の成り立ちと行き先をはっきりとスピリットとして認識できるようになって、その上で、単なる運命論とかではなくて自分の頭できっちりと考えて自分のスピリットがどこへ向かうのか考えることができるようになります。
ですから、「心の平穏」だとか「心の平和」とか言うのは、割と補助的なものになると思います。もちろん「集中力(サマタ)」とか「観察(ヴィパッサナー)」なんてのも悟りの一面を現しただけです。
スピリットとしての認識が生まれれば肉体としての五感は一段階「別」のものとして認識されますが、それは別にスピリットから見て上とか下とか階層で言い表すものではなくて、単に違うものとして五感が存在しています。スピリットからの視点が出てくればヴィパッサナーとかになりますけど、それが優越であるわけでもなくて、単に、それぞれの視点があるだけです。
そもそも死んだ後はスピリットとしての視点だけになって肉体は滅びますので、ほとんどの人はスピリットとしての聴覚や視覚を持っています。ですから、特に心配しなくても誰でもスピリットとしての認識力はあるわけですけれども、人によっては「この人生の間は使わないで頑張ってみます」みたいなお約束をしていて、そのような人が実はかなりいますのでスピリットなんてないと思っていますけど、単にその視点を意図的に封じ込めて地上での肉体の学びができるようにしているだけで、実際はほとんどの人は大差ないのです。
ただ、そうしてしまうとスピリットとしての視点を忘れてしまって、ちゃんと霊界に戻ればその封印を解いてもらえるのに幽界に留まって再度転生を繰り返したりしているものですからスピリットとしての視点が解放されずに人間的な生活を繰り返すわけです。
死んだ後は幽体になって割と肉体と同じような姿、しかし、自分が一番お気に入りの年齢で存在するようになります。大体は若い時の姿ですかね。そこから再度生まれたり分霊を作って分霊が転生したりしますけど、その状態だと霊界の事をあまり認識できていませんので地上の肉体としての生活を繰り返してしまうわけです。
どちらにせよ死んだらみんな悟れる可能性があるわけですが、生きているうちに混迷を極めてしまうと死んでも悟れません。地上を彷徨う亡霊になってしまったりするわけです。
できれば生きているうちにこの世の理を理解して自分が来た場所と行くべき場所を見極めることができれば大体は悟ったと言っていいと思います。
これ、単なるスピリチュアルのお話に聞こえるかもしれませんけど、単に勉強して知識として知っていることでもなければ信じることでもありませんし、チャネリングのようなもので頭の中にインスピレーションを与えられることでもないです。本当に自分のスピリットが物事や空間だけでなく時空をも超えて見通して直接的に周囲や過去・未来を認識して理解することなので、そうそうできないです。ここまで来れば、自分の魂・スピリットの生まれた成り立ちや目的・行き先までもがクリアになって悩みもほぼなくなるのです。とは言っても日常の小さな悩みは必ずありますのでそれはなくなりませんが、大きな視点ができる事により小さな事に悩まされにくくなるのです。
これらのことがわかれば実は善も悪もないと言うこの世の理が理解できて、自由になるのです。この段階での自由は常人には理解しがたいです。何をしてもいい、と言うのは、スピリットの理に従って生きると言うことでありますし、その状態になれば実は人間の顕在意識は何ら自由意志を持っていない事にも気づくわけです。ですから、悟った後は肉体の頭での自由な選択ではなくスピリットが自由に行動するようになります。肉体の頭はスピリットの選択に従うようになりますから一見したら肉体の頭は従属状態のように見えるかもしれませんが、ずっと昔から、そもそもの原初の状態の最初からそもそも肉体の頭は自由意志を持っておらずスピリットの意思があるだけだったのに自由意志があるように幻影で見えていただけだと気づきます。ですから、肉体の頭が自由に何をしてもいい、と言うのではなくて、スピリットがしたいように自由に生きるようになるわけです。それがこの世の理であり、それを理解したら本当に自由になるのです。
それを仏教では涅槃の知識だとか輪廻転生からの解放だとか言っていますけど、同じ事だと思います。スピリチュアルな観点と仏教の観点が違うだけで、割と同じことを語っているように思います。ヨーガやゾクチェンにしても修行の個人的認識の観点から語っているだけで、行き着く先は同じだと思います。ヴェーダンタだって先日書いた仮説が事実だとすればウパニシャッドはいわゆる「彼岸の知識」を伝えているわけで、同じ事だと思います。
悟り自体は単純ではありますが、単純であるが故に何をもって悟りとするのか、その判断が難しいこともあります。
平穏さも基本的にはやってきますが、疲れや体調不良と同じように精神的な疲れももちろんありますから常にMAX状態にいるわけでもありません。基本的には世間の雑多な出来事にそれほど惑わされなくなります。このような一時的な状態を見て悟りと判断するのは判断を誤らせる事になります。本質的なところでは悟りは能力とは関係がないですし一時的な状態とは関係がありませんが、よりわかりやすくて間違いのない判断基準としては、普遍的なスピリットの理を真に理解できたかどうか、と言う点で悟りを判断した方がいいようにも思います。それ自体が悟りというわけではないにせよ、悟れば高確率でこれらのことも理解して把握できるようになりますから、それなりの確度で悟りを客観的に判断できるような気が致します。
前世はあるような、ないような。昇天してグループソウルに還るのが基本
普通に思われているような前世は地上に囚われていて昇天できずに次の体を見つけるパターンですので、あまり良いものではありませんし、本来の魂の成長という観点からしたら割とマイナーケースになります。
似たようなもので、死後に魂が分離して、高次の部分が昇天して、低次の部分が地上に「影」のように残される場合があります。その場合、そのまま時間が経って風化する場合もありますし、やがて時間をかけて昇天する場合もあるにはありますけど昇天は難しくて、多くの場合はしばらく地上に残って、運が良ければ最初のパターンと同じように次の体を見つけて転生します。
また似た感じですけど、昇天するほどではないにせよ、あの世に存在している浄土とかいわゆる神界(日本人は、日本神界の転生者が多いです)にしばらく漂って生活した後に転生するパターンです。この場合も割と個性を保持しておりますので、いわゆる普通の転生と似ている面もあるにはありますけど、やはり昇天していないパターンです。これは一応は神界にまで上昇しますので昇天と似ていて勘違いされやすいですけど、昇天した場合は自分の属するグループソウルに溶け込んで個性を失う状態になります(一応、コアはその中に残ります)ので、やはり個性を残したままあの世を漂うという点からすれば、いかに神界といえども、昇天はしていない状態になります。
このような、昇天せずに地上を彷徨う、あの世を彷徨う、というのは普通にあって、天国のような神界であれば割と幸せに暮らせるといえばそうなのですけど、そうして転生を繰り返したとして、それは一応は前世ということになるにはなりますけど、その間に魂の分離も繰り返したりして高次の部分だけ昇天してグループソウルに帰ったりしますので、前世はあるといえばありますけど、完全な前世というわけでもないわけです。
完全に同じ人としての前世というのは、最初のパターンのように、部分的にでも昇天できずに丸ごと地上に残されてしまっている場合ですので、あまり良いものでもなく、分離して高次の部分が昇天したけれども低次の部分が地上に残されている場合は、前世とは言っても、前世のうち、よくない部分のみ引き継いだ今世であったりするわけです。はたまた、天界に行けたとしても、昇天できないのであれば、その程度、ということにもなります。
グループソウルは集合意識のようなものでもあり、グループソウルとしての意思というものもありますので、自分の属している分霊が低次の部分だけ地上に残されているのであれば、グループソウルの方から働きかけて、更なる分霊を作り出し、肉体はなくスピリット(魂)のまま、地上に残されている分霊に対して、助け舟に出す、ということも行われます。この場合、グループソウルからまた違った別の分霊が最初に作り出された後に、地上に残されてしまっている、低次の部分のみの分霊と合一して一つになるわけです。それを目指すわけです。この場合、生まれた時の魂の状態に対し、グループソウルから新たに分離した分霊の魂が加わり、融合した状態になるわけです。これが助け舟になるわけですけど、それは最初は高次のハイヤーセルフとして認識されたりガイドとして認識されたりします。ただ、すぐには融合できない場合がほとんどで、そうして助け舟を出した後にきちんと融合するには、まず低次の側、地上に残されている方がそれなりに努力して自分を浄化しなくてはならず、そうしないと、高次の側からは近づいていけないわけです。まず低次の側が努力して、その後、グループソウルの側から出されている助け舟としての分霊が最初はハイヤーセルフあるいはガイドとして認識され、最初は分かれているものの、やがて融合するわけです。融合できない場合はただ単にガイドとして近くに留まります。自分の属しているグループソウルが自分(分霊)のことを一番よくわかっているわけですから、自分のガイド、自分のハイヤーセルフに頼るのが一番なわけですけど、その大元を辿るとグループソウルなわけです。
地上に残される場合、地上から浄土あるいは神界にまで上昇する場合、そして昇天してグループソウルに還る、というパターンがあって、その基本形に加えて、グループソウルからの新たな分霊が地上で生まれたり、はたまた、既に地上にいる縁のある自分と同じグループソウルの分霊に対して手助けとして分霊が新たに作られてガイドになる、あるいは、一体となって融合する、という有機的な結合と回転・循環がなされているわけです。
こうしてみますと、前世とか、過去生というものはグループソウル全体としての経験の融合であって、個人のものではないということがわかります。時にグループソウルのとある分霊が何某かの経験をしたとしましょう。それが(昇天してグループソウルに融合した後に)グループソウル全体に共有されますから、そのグループソウルから新たに分かれた分霊は、その同じ記憶をほんのりと持つことになります。こうして、何人もグループソウルから分霊が作られたとすれば、同じ過去生の記憶を持つ人が何人も出てくるわけです。
歴史上の有名人が過去生のような気がする、というお話があったとしても、それが離れた時代のものであればあるほど、ただ単にグループソウルで記憶を共有しているだけ、という場合のことがほとんどなわけです。
普通に思われている、まったく同じ人が転生する、みたいなお話はあまりいいお話ではなくて、昇天できなくて地上に残されていて前世の記憶がある、という場合も普通にあるわけですけど、そのような状態はスピリチュアル的な魂の成長から見たらあまり重要ではないと言いますか、本筋ではありませんので、そういうことがあるからと言ってあまり気にする必要はなくて、そういうこともある、と思っておくくらいで十分なわけです。
本筋はやはり、死後にきちんと魂の全てが昇天してグループソウルに融合する、帰還することが本筋なわけで、そうなれば、経験は全てグループソウルに共有されるわけです。
似たようなもので、死後に魂が分離して、高次の部分が昇天して、低次の部分が地上に「影」のように残される場合があります。その場合、そのまま時間が経って風化する場合もありますし、やがて時間をかけて昇天する場合もあるにはありますけど昇天は難しくて、多くの場合はしばらく地上に残って、運が良ければ最初のパターンと同じように次の体を見つけて転生します。
また似た感じですけど、昇天するほどではないにせよ、あの世に存在している浄土とかいわゆる神界(日本人は、日本神界の転生者が多いです)にしばらく漂って生活した後に転生するパターンです。この場合も割と個性を保持しておりますので、いわゆる普通の転生と似ている面もあるにはありますけど、やはり昇天していないパターンです。これは一応は神界にまで上昇しますので昇天と似ていて勘違いされやすいですけど、昇天した場合は自分の属するグループソウルに溶け込んで個性を失う状態になります(一応、コアはその中に残ります)ので、やはり個性を残したままあの世を漂うという点からすれば、いかに神界といえども、昇天はしていない状態になります。
このような、昇天せずに地上を彷徨う、あの世を彷徨う、というのは普通にあって、天国のような神界であれば割と幸せに暮らせるといえばそうなのですけど、そうして転生を繰り返したとして、それは一応は前世ということになるにはなりますけど、その間に魂の分離も繰り返したりして高次の部分だけ昇天してグループソウルに帰ったりしますので、前世はあるといえばありますけど、完全な前世というわけでもないわけです。
完全に同じ人としての前世というのは、最初のパターンのように、部分的にでも昇天できずに丸ごと地上に残されてしまっている場合ですので、あまり良いものでもなく、分離して高次の部分が昇天したけれども低次の部分が地上に残されている場合は、前世とは言っても、前世のうち、よくない部分のみ引き継いだ今世であったりするわけです。はたまた、天界に行けたとしても、昇天できないのであれば、その程度、ということにもなります。
グループソウルは集合意識のようなものでもあり、グループソウルとしての意思というものもありますので、自分の属している分霊が低次の部分だけ地上に残されているのであれば、グループソウルの方から働きかけて、更なる分霊を作り出し、肉体はなくスピリット(魂)のまま、地上に残されている分霊に対して、助け舟に出す、ということも行われます。この場合、グループソウルからまた違った別の分霊が最初に作り出された後に、地上に残されてしまっている、低次の部分のみの分霊と合一して一つになるわけです。それを目指すわけです。この場合、生まれた時の魂の状態に対し、グループソウルから新たに分離した分霊の魂が加わり、融合した状態になるわけです。これが助け舟になるわけですけど、それは最初は高次のハイヤーセルフとして認識されたりガイドとして認識されたりします。ただ、すぐには融合できない場合がほとんどで、そうして助け舟を出した後にきちんと融合するには、まず低次の側、地上に残されている方がそれなりに努力して自分を浄化しなくてはならず、そうしないと、高次の側からは近づいていけないわけです。まず低次の側が努力して、その後、グループソウルの側から出されている助け舟としての分霊が最初はハイヤーセルフあるいはガイドとして認識され、最初は分かれているものの、やがて融合するわけです。融合できない場合はただ単にガイドとして近くに留まります。自分の属しているグループソウルが自分(分霊)のことを一番よくわかっているわけですから、自分のガイド、自分のハイヤーセルフに頼るのが一番なわけですけど、その大元を辿るとグループソウルなわけです。
地上に残される場合、地上から浄土あるいは神界にまで上昇する場合、そして昇天してグループソウルに還る、というパターンがあって、その基本形に加えて、グループソウルからの新たな分霊が地上で生まれたり、はたまた、既に地上にいる縁のある自分と同じグループソウルの分霊に対して手助けとして分霊が新たに作られてガイドになる、あるいは、一体となって融合する、という有機的な結合と回転・循環がなされているわけです。
こうしてみますと、前世とか、過去生というものはグループソウル全体としての経験の融合であって、個人のものではないということがわかります。時にグループソウルのとある分霊が何某かの経験をしたとしましょう。それが(昇天してグループソウルに融合した後に)グループソウル全体に共有されますから、そのグループソウルから新たに分かれた分霊は、その同じ記憶をほんのりと持つことになります。こうして、何人もグループソウルから分霊が作られたとすれば、同じ過去生の記憶を持つ人が何人も出てくるわけです。
歴史上の有名人が過去生のような気がする、というお話があったとしても、それが離れた時代のものであればあるほど、ただ単にグループソウルで記憶を共有しているだけ、という場合のことがほとんどなわけです。
普通に思われている、まったく同じ人が転生する、みたいなお話はあまりいいお話ではなくて、昇天できなくて地上に残されていて前世の記憶がある、という場合も普通にあるわけですけど、そのような状態はスピリチュアル的な魂の成長から見たらあまり重要ではないと言いますか、本筋ではありませんので、そういうことがあるからと言ってあまり気にする必要はなくて、そういうこともある、と思っておくくらいで十分なわけです。
本筋はやはり、死後にきちんと魂の全てが昇天してグループソウルに融合する、帰還することが本筋なわけで、そうなれば、経験は全てグループソウルに共有されるわけです。
転生の基本形と変則形
基本は、死後にしばらくあの世(いわゆるアストラル界)を漂った後、昇天してグループソウルに合流します。そうしてグループソウルから再度分霊が作られ、あの世にそのまま生きたり、地上に転生したりします。実際のところ、いわゆるあの世というのはそれ自体が普通の世界および人生の舞台になっていて、この地上のように固定化されていないものの、割と似通った世界でもあります。人(魂)によっては、グループソウルに合流することなくあの世をそのまま長い間、生きたりします。あの世から見るとこの世(地上の三次元世界)の方が割と特殊に見えるわけで、世界が違うだけで、それぞれ、独自の世界に生きていると言えます。
人によっては魂が綺麗でほとんどあの世を漂わずにそのまま昇天してグループソウルに帰還しますが、大抵の場合、そこまで魂が綺麗ではありませんので、あの世を漂うか、あるいは、高次の部分だけ昇天してグループソウルに帰還して、他の部分はあの世(アストラル界、幽界)に留まり、そこで割と普通に生活したりします。あの世はぼんやりとした世界で、そこで仲の良かった人と一緒に過ごすこともありますし、そうではない時もあります。仲の良い夫婦やお友達と楽しく暮らせる世界でもあります。昇天はすぐにはできない場合でも、こうして楽しく暮らしていけばやがて体の光が増して、文字通り体から光を発するようになって、空中に不意に浮いて上の方から降りてきているピカーという光に導かれるように登って行って、一緒に暮らしていたみんなに見送られるようにして昇天します。これは、キリスト教とかスピリチュアルで言われているイメージと割と同じで、光と共に上昇していって昇天するわけです。
そのように、あの世にしばらく留まる場合もありますが、基本は、死後はやがて昇天してグループソウルに帰るわけです。そして、グループソウルの中に溶け込んで合一します。その状態でもコアのようなものは残りますので、また分霊を作るときはそのコアを元に作られますが、時間が経つにつれてコアも同化していってよくわからなくなります。
そのグループソウルは個々の魂と思考の塊でもありますが、全体としての意思も持っています。そのグループソウルが「意図」をすることで分霊が作られ、時にアストラル界の魂として生きたり、はたまた、地上に転生する場合もあります。
地上に転生する場合、その目的に応じて単体で転生する場合もあれば、自分と同じ分霊をガイドあるいはハイヤーセルフ(言い方が違うだけで実態は割と同じ)として引き連れる場合もあるわけです。
自分の魂も、ガイド=ハイヤーセルフも元は同じグループソウルでありますから、親和性があるわけで、ガイドとして、いわゆるスピリットとして、アストラルの体を持ったままいた方が融通がきく場合も多々ありますので、融合せずにガイドとして動き回れる状態にいるわけです。一方、それはガイドとしてだけでなくハイヤーセルフという側面を持っていますから、必要に応じて、自分の元々の魂と融合することもできます。
これは時と場合によるようで、必要性に応じて異なり、どうやら、必ずしもハイヤーセルフと合一するわけでもないようです。私の場合はハイヤーセルフと合一して一体になりましたが、どうやら、もともとのオーラが十分にあって、合一しなくても使命を十分に果たせる場合とか、あるいは、ガイドとして自由に動けるスピリットのままでいた方がやりやすい場合は合一せずに分かれたままでいるようです。
とは言いつつも、一応は、最初は分かれているハイヤーセルフ(=ガイド)と合一するということを基本形として捉えても良いように思えます。
それに加えて変則的な場合も多々あって、グループソウルから分霊として分かれた後、更に2つに分かれて片方が受肉し、もう片方はスピリットのままガイドとして導く、という場合もあります。ですので、繰り返しになりますが、スピリチュアルが成長する過程で必ずハイヤーセルフ(=ガイド)と一体になるわけではなく、分かれていた方が都合が良い場合はずっと分かれているわけで、最初から決めている場合もあればそうでない時もあり、文字通り、時と場合によるわけです。ガイドが出現する時期も人によって異なるわけで、最初から分かれていてずっとガイドになって一生を過ごす場合もあれば、最初からいた上で途中で合一する場合もあり、一方、最初はガイドはいなかったものの、必要に応じて新たにグループソウルから分霊が作られた上で地上にいる個人と合一(ハイヤーセルフと合一)という場合もまたあるわけです。
こうしてみますと、前世とか、過去生というものはグループソウル全体としての経験の融合であって、個人のものではないということがわかります。そもそも、「私」という個人が今のこの肉体だけに縛られているという考え方ですとこのあたりは理解しにくくて、生まれる前はもちろん、生まれた後も有機的に魂の分離と結合を繰り返すわけです。とは言いましても分離と結合がしやすいのは死後の魂の状態ですから生まれた後は割と同じ魂を有する場合がほとんどなわけですけど、必要に応じてハイヤーセルフとの融合(グループソウルからの分霊との融合)が行われたりするわけです。こうなると、もはや、「わたし」という存在がこの世ですら同一とは言い難くなったりするわけです。もはや「わたし」など存在しない、と考えた方がスッキリすることも多く、実際、実態はそうで、この肉体に縛られた私という概念(ヴェーダンタでいうところのジーヴァ)は、理屈だけでなく、本当の本当にそれは幻想の私という概念に過ぎないものであることがわかります。
ヴェーダンタの問いかけ、あるいは、ラマナ・マハリシの問いかけにあるように「私とは誰か? 私とは何か?」という問いの答えが、ここにきて重要性を帯びてきます。
普通の人は自我としての私、いわゆるジーヴァを私と思っているわけですが、文字通り、寸分の疑いもなく、自分はジーヴァではない、と感じられて、自分は(ヴェーダンタで言う)アートマンである、あるいは、ハイヤーセルフである、ということを本当の意味で感じられると、もはやそこには「個」としてのジーヴァとしての自我の感覚はほんの少ししかなく、ほぼ8割から9割がアートマンあるいはハイヤーセルフの意識となるように思うのです。
理屈から言えばジーヴァとしての私の感覚はゼロの筈ですが実際のところこの地上を生きているわけですから否応にもジーヴァとしての自分を保持するしかなく、常に他者との違いを意識して気をつけて生活をするわけですからジーヴァとしての感覚は保持する方が良くて、この段階になると、気をつけていないとどんどんとジーヴァとしての自我の感覚がなくなっていきますから日常生活を送る上ですれ違いが多くなってきてしまい、割と意識して、気をつけて2割はジーヴァの感覚を残しておいた方がいいかなと思うわけです。
ですが、そのような日常生活の制約を除けば、心の中では自分はアートマン、自分はハイヤーセルフ、と言う自覚が増してきていて、そうなると、転生のこともアートマン主体、ハイヤーセルフ主体で考えられるようになりますので、グループソウルの分霊としての私がここにいる、という理解が正しいものであることがすんなりと受けいられるようになります。
人によっては魂が綺麗でほとんどあの世を漂わずにそのまま昇天してグループソウルに帰還しますが、大抵の場合、そこまで魂が綺麗ではありませんので、あの世を漂うか、あるいは、高次の部分だけ昇天してグループソウルに帰還して、他の部分はあの世(アストラル界、幽界)に留まり、そこで割と普通に生活したりします。あの世はぼんやりとした世界で、そこで仲の良かった人と一緒に過ごすこともありますし、そうではない時もあります。仲の良い夫婦やお友達と楽しく暮らせる世界でもあります。昇天はすぐにはできない場合でも、こうして楽しく暮らしていけばやがて体の光が増して、文字通り体から光を発するようになって、空中に不意に浮いて上の方から降りてきているピカーという光に導かれるように登って行って、一緒に暮らしていたみんなに見送られるようにして昇天します。これは、キリスト教とかスピリチュアルで言われているイメージと割と同じで、光と共に上昇していって昇天するわけです。
そのように、あの世にしばらく留まる場合もありますが、基本は、死後はやがて昇天してグループソウルに帰るわけです。そして、グループソウルの中に溶け込んで合一します。その状態でもコアのようなものは残りますので、また分霊を作るときはそのコアを元に作られますが、時間が経つにつれてコアも同化していってよくわからなくなります。
そのグループソウルは個々の魂と思考の塊でもありますが、全体としての意思も持っています。そのグループソウルが「意図」をすることで分霊が作られ、時にアストラル界の魂として生きたり、はたまた、地上に転生する場合もあります。
地上に転生する場合、その目的に応じて単体で転生する場合もあれば、自分と同じ分霊をガイドあるいはハイヤーセルフ(言い方が違うだけで実態は割と同じ)として引き連れる場合もあるわけです。
自分の魂も、ガイド=ハイヤーセルフも元は同じグループソウルでありますから、親和性があるわけで、ガイドとして、いわゆるスピリットとして、アストラルの体を持ったままいた方が融通がきく場合も多々ありますので、融合せずにガイドとして動き回れる状態にいるわけです。一方、それはガイドとしてだけでなくハイヤーセルフという側面を持っていますから、必要に応じて、自分の元々の魂と融合することもできます。
これは時と場合によるようで、必要性に応じて異なり、どうやら、必ずしもハイヤーセルフと合一するわけでもないようです。私の場合はハイヤーセルフと合一して一体になりましたが、どうやら、もともとのオーラが十分にあって、合一しなくても使命を十分に果たせる場合とか、あるいは、ガイドとして自由に動けるスピリットのままでいた方がやりやすい場合は合一せずに分かれたままでいるようです。
とは言いつつも、一応は、最初は分かれているハイヤーセルフ(=ガイド)と合一するということを基本形として捉えても良いように思えます。
それに加えて変則的な場合も多々あって、グループソウルから分霊として分かれた後、更に2つに分かれて片方が受肉し、もう片方はスピリットのままガイドとして導く、という場合もあります。ですので、繰り返しになりますが、スピリチュアルが成長する過程で必ずハイヤーセルフ(=ガイド)と一体になるわけではなく、分かれていた方が都合が良い場合はずっと分かれているわけで、最初から決めている場合もあればそうでない時もあり、文字通り、時と場合によるわけです。ガイドが出現する時期も人によって異なるわけで、最初から分かれていてずっとガイドになって一生を過ごす場合もあれば、最初からいた上で途中で合一する場合もあり、一方、最初はガイドはいなかったものの、必要に応じて新たにグループソウルから分霊が作られた上で地上にいる個人と合一(ハイヤーセルフと合一)という場合もまたあるわけです。
こうしてみますと、前世とか、過去生というものはグループソウル全体としての経験の融合であって、個人のものではないということがわかります。そもそも、「私」という個人が今のこの肉体だけに縛られているという考え方ですとこのあたりは理解しにくくて、生まれる前はもちろん、生まれた後も有機的に魂の分離と結合を繰り返すわけです。とは言いましても分離と結合がしやすいのは死後の魂の状態ですから生まれた後は割と同じ魂を有する場合がほとんどなわけですけど、必要に応じてハイヤーセルフとの融合(グループソウルからの分霊との融合)が行われたりするわけです。こうなると、もはや、「わたし」という存在がこの世ですら同一とは言い難くなったりするわけです。もはや「わたし」など存在しない、と考えた方がスッキリすることも多く、実際、実態はそうで、この肉体に縛られた私という概念(ヴェーダンタでいうところのジーヴァ)は、理屈だけでなく、本当の本当にそれは幻想の私という概念に過ぎないものであることがわかります。
ヴェーダンタの問いかけ、あるいは、ラマナ・マハリシの問いかけにあるように「私とは誰か? 私とは何か?」という問いの答えが、ここにきて重要性を帯びてきます。
普通の人は自我としての私、いわゆるジーヴァを私と思っているわけですが、文字通り、寸分の疑いもなく、自分はジーヴァではない、と感じられて、自分は(ヴェーダンタで言う)アートマンである、あるいは、ハイヤーセルフである、ということを本当の意味で感じられると、もはやそこには「個」としてのジーヴァとしての自我の感覚はほんの少ししかなく、ほぼ8割から9割がアートマンあるいはハイヤーセルフの意識となるように思うのです。
理屈から言えばジーヴァとしての私の感覚はゼロの筈ですが実際のところこの地上を生きているわけですから否応にもジーヴァとしての自分を保持するしかなく、常に他者との違いを意識して気をつけて生活をするわけですからジーヴァとしての感覚は保持する方が良くて、この段階になると、気をつけていないとどんどんとジーヴァとしての自我の感覚がなくなっていきますから日常生活を送る上ですれ違いが多くなってきてしまい、割と意識して、気をつけて2割はジーヴァの感覚を残しておいた方がいいかなと思うわけです。
ですが、そのような日常生活の制約を除けば、心の中では自分はアートマン、自分はハイヤーセルフ、と言う自覚が増してきていて、そうなると、転生のこともアートマン主体、ハイヤーセルフ主体で考えられるようになりますので、グループソウルの分霊としての私がここにいる、という理解が正しいものであることがすんなりと受けいられるようになります。
輪廻転生と魂の分裂・融合、そして昇天
<これは本当のことかどうかはわかりません。現在の理解をまとめたものです>
▪️前置き
一般に理解されている輪廻転生そのものは存在しないと言っても良いのですがそれに近しい現象はあるにはあって、その基本はというと、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、昇天した後にグループソウル(類魂)と一体になり、改めて分霊を作って転生する場合があるわけですが、それに加えて、魂(幽体)の分裂、という現象を加えるとわかりが良いと思います。
▪️分裂
死ぬと、(自分の中と言っても良いが、自分自身である)魂のレベルが割と一定の場合は1つの個体として保持され、一体として同じような道を辿ります。
一方で、(自分の、あるいは、誰かの)魂のレベルが割と一定ではなく(波動的に)上下に幅がある場合、かつ、それが「量」としてそれなりの質量のようなものを持つ場合、魂が死後に分裂し、それぞれ見合った階層でそれぞれの死後の過程を辿ります。
このように、分離をするかしないか、という過程が死後にまずあります。
肉体を持っていますと肉体が魂を結び付ける働きをしていますのである程度の波動の幅があっても肉体に全てが結びついていますが、魂になって波動体になると同じような波動同士でないと一体になっていることができませんので分離する、という側面があります。死後は意識がそれほど働いていませんので、この過程は割と自動的に行われるように思います。相当に意識を持って一体でいようと意識していない限りそうなりますし、はたまた、上位の意識の意思により分離される、という場合もあります。例えば、死後、グループソウルのワンネス意識からすれば、死後の魂がワンネス状態であるグループソウルに戻ってきてほしいと思って呼び寄せるわけです。しかし、重い波動の部分は上昇することができずに分裂するのです。これは必ず分離するかどうかはわかりませんが、グループソウルの意思によって大きく変わる部分もあれば、システム的にそうなるという面もあるように思います。
▪️昇天
まず、昇天できるほどに純化されている魂の場合、グループソウルに統合され、一体の状態、ワンネスに戻ります。これは、死後に魂が丸ごと純粋な場合です。あるいは、分裂して上澄みの部分だけが昇天する場合もあります。昇天してグループソウルに統合した後、グループソウルの意思に基づいて分霊が作られ、個別の魂として活動することもあります。これがグループソウルも含めた転生のようなものです。
▪️天国
そして、中間的なものとして(実際はもっと細かくも分かれるのですが)、ぼちぼち純粋な魂は地上を彷徨ったり、いわゆる「天国」に行って霊界の豊かな楽しい生活を送ります。これも同様に、魂の丸ごとがぼちぼち純粋な場合と、分裂した後にぼちぼち純粋な場合とがあります。分かれるためにはそれなりに(オーラ、魂としての)総量がないといけないのも同様で、概ね、総合的に見てぼちぼち純粋な場合は天国に行きます。この場合、しばらく天国で過ごした後に昇天してグループソウルに統合そしてワンネスになる場合もあれば、また地上に転生する場合もあります。天国にいる状態で幾つかの霊に分かれる、はたまた、分霊を作る、もしくは、天国にいる状態で、(基本的には自分にゆかりのある魂を)統合して一つになる(複数の魂を1つにまとめる)ということも時々あります。
▪️浮遊霊
更には、下層のものとして、単なる「思い」の塊、想念の塊、残骸のようなもの、影のようなもの、いわゆるアストラル(感情的)な質量の塊があります。そのような下層のゴミのようなものが魂(幽体)には付随していて、この場合、元は人間であっても欲望に塗れた価値観を持ち、食欲や性欲はたまた支配欲など、強欲な性格を持った部分が下層の魂として存在するわけです。この場合も、魂が丸ごとそうである場合と、分離した結果、残った部分がこれである場合とがあるわけです。この場合、いわゆる悪霊あるいは浮遊霊のような状態になって、意思をあまり持たず、盲目で、ぼやけた意識の、目覚めていない意識状態のままそこらを漂うことになります。天国にはいきません。この世の階層に近い世界にいるわけですが、実際のところ、本当に隔離されているわけではなくて、その人が盲目で暗闇の中にいるというだけで、近くには普通に楽しく暮らしている人もいるわけですが、その人はものが見えない状態ですので周囲を認知できないのです。その当人にとってみれば闇のような暗い世界、欲望だけが集まっている下層の霊界のようなところにいるように認知されますが、実際は、それほど隔離されているわけでもないのです。それは地上に割と近いところにあって、地上の人間に時折影響を及ぼしています。これがそのまま、あるいは、ある程度集まって1つの魂として転生する場合もあって、そうなると、人間であっても獣のような欲望に塗れた人格として転生します。
▪️生きている間の分離と合流
実は生きている間にも魂の一部が抜けたり合流したりすることがあって、魂が少しでも抜けると重々しい状態になって意識が朦朧となり、文字通り、(程度にもよりますが)意識が抜けた状態になります。はたまた、魂が合流した場合は生き生きとした状態になります。スピリチュアル業界ではウォークインと言ったりもしますが、必ずしも入れ替わる場合だけでなく、合流して一つにまとまる、という場合も普通にあります。はたまた、意図せずして他人のオーラをもらってしまってその人の性質の幾分かを譲り受けてしまう、ということも普通にあります。
これに加えて、生きていると、他者とのオーラの接触ということも起こります。それは必ずしも魂の接触ではないものの、人によってはオーラが広範囲にまとまりなくふらふらと広がっており、それが他の人のオーラと接触することによってその部分が文字通り「融合」され、お互いにカルマやトラウマあるいは良い部分など、全てにおいて一旦同一化された後に(距離を持つことで)また分離する、お互いにお互いのオーラを交換し合う、ということが起きて、これは、量としては1回1回は少ないものの、何度も何度も繰り返せばそれが魂の外郭部分に影響を与えて、低次のみならず高次の部分までもが他者と交換し合い、それによって自分が(他者からオーラをもらって)気分が良くなることもあれば(他者にオーラを取られて)苦しむこともあるのです。これは転生そのものではないですが、多少ながら他者と転生を共有している、という見方もできて、カルマとは転生の原因ですから、カルマを交換するということは他者と転生を(わずかながら)共有する、ということにもなるわけです。
ですから、死後に分離したり融合したり、という部分が大きいものの、生きている間に魂の融合や分離も少しずつ起きているわけです。
▪️「器」としての人間
これに加えて、「器」としての人間があって、器があって初めてそこに魂が入ることができるわけですが、盲目な人はそこまで自分の意思を持たない一方で、それなりに目覚めた人は自分で人生を選んで転生することになります。そして、器の側としては個人の意思があります。
これらは割とシステムのようなもので動いていて、機械的、法則として動いています。ですから、それぞれが自由に動いているように見えても、割と、理に叶って動いているのです。ですから、基本的なシステムの上に、個々の意思で持って融合するか分裂するかが決まるわけです。基本はシステムですので否応なくそうなってしまうこともあれば、ある程度は個人の意思が反映されるわけです。
▪️地上に残された浮遊霊
このようなシステムですから、下層の、浮遊霊のようなもの、影のようなもの、いわゆる幽霊、地上に残された不浄化の念のようなものは、実は、必ずしも未浄化霊というほどでもない場合も多々あるわけです。世間の一般の常識からすれば「死後はどうなるか」という1点で理解されていますけど、実のところ、死後はそれぞれの波動階層に分離されますから、誰であれどうしても不浄の部分を持っていて、不浄の部分は、それなりに、残骸として地上のどこかに残されるのです。そして、大抵の場合は時間があればそのようなものは風化して形を失い(エネルギーを失い、力を失い)、形のないエネルギー、いわゆる自然へと帰っていきます。ですから、地上の人が霊が見える人だったとして「幽霊が漂っている」と思っていても、大抵の場合、気にする必要はないのです。
割と人間の階層に近い、いわゆる残骸のようなものはその人の本来の意識を持っていることはほとんどなくて、想念体として(スピリチュアル的にはアストラル体)の感情としての残骸のようなものが残されることが多いように思います。それは複雑な思考の体系を持っていないのですが、と言いますのも、高次の意識はそのような場合には既に分離されてしまって残骸だけが残ってしまっている場合もあるからです。
この浮遊霊を助ける方がいいのか、放っておいて風化を待つ方がいいのかは、場合によりけりだと思います。浮遊霊の持っている意識の残骸が価値がないほどの単なる欲望や機械的な反応といった低次の感情であれば、それは放っておいて風化を待っても良いように思います。一方、浮遊霊であっても一定のオーラの総量を持つまでに融合が進んだ場合、それは、低次であったとしてもそれなりの(欲望の)意識を持つことがあって、これはその欲望に正直に動きますので放っておいても風化はなかなかせず、悪影響が大きいことになります。浮遊霊というのは厄介で、往々にして明確な意識を欠いていて基本的な欲求しかありませんので、それが強いオーラになるまで集合した場合、妖怪のような純粋な悪としての存在にまで成長することがあります。
空間的に余裕があって、単純な「想念の残りかす」のようなものが時間とともに風化できるのであれば放っておいても良いと思います。しかし、土地が浄化できる以上の浮遊霊・・・・ というよりは、単なる想念の残りかすのようなものが散乱している場合、それはもはや、高次の意識が抜けてしまった「抜け殻」である場合も多々ありますし、抜け殻とは言ってもそれなりの想念の力を保持しておりますので、何かの条件が重なってそれらが融合して一つになると強い力を持つことになりますし、誰かがたまたま通りすがりにその想念を拾ってしまった場合はその想念があたかもその人がそう願ったかのように勘違いして振る舞ってしまうことになり、生きている人がその「残りかす」「抜け殻」の想念をベースにして更に強い想念を発するようになってしまう、ということもあります。
人が多く死んだ土地には浮遊霊と言いますか「抜け殻」としての想念が多く漂っていて、時間が経つとそれはある程度は風化しますが、ある程度は誰か生きている人が拾うことで元の場所からなくなります。
世間で行われている「火による浄化」はこの種の想念の「残りかす」を消滅させる行為ですので、単に浄化として理解しているとしても、実際は、意図せずして、浮遊霊と同じようなものを自分の近くで消滅させて浄化しているわけです。一般には、自分のオーラを浄化させるだとか、空気を良くする、というように理解されているとしても、実態は、そこらで漂っている(意志を持たない)浮遊霊(の一部)を浄化していることでもあるわけです。
ですから、不浄化霊を成仏させる、なんてお話は眉唾で、確かに、その人が丸ごと欲望まみれで魂の全体が重々しくて天国にすら行けずに彷徨う場合もあるにはあるでしょうけど、それほどまでに欲望まみれの人が成仏できないのは自業自得なのではないでしょうか。そんな人が気軽に成仏できるのだとしたら修行なんていらなくなってしまいます。何事も分相応でありますから、生きているうちに欲望まみれで生きているのならば死後に天国に行けなかったり昇天できないのだとしても、それが相応であると言えます。この世界は割とシステムで動いていますから、そういう人であっても高次の純粋な意識が含まれているのだとしたら、その部分だけが分離して、高次の意識だけが昇天するなり天国に行って、残りの部分が浮遊霊として地上に残ります。ですから、不浄化の浮遊霊のことはそこまで気にする必要はなくて、あくまでも高次の部分、少なくとも天国に行けるくらいの意識とだけ相手をすればいいわけです。
未浄化の部分と天国に行ける部分とが混ざり合っている人(だった魂)の場合、未浄化の部分が重しになって天国に行けない、と言うこともあります。それなりのオーラの総量があれば未浄化の部分と天国行きの部分に分かれるのですが、そこまでの質量がない場合は分裂せずにいて、しかも天国に行くことができない、天国に行くには重い状態になりますので、未浄化の部分を浄化(と言うより実態は消滅に近いこともありますし、切り離すだけの場合もあります)してあげると天国に行ける場合もあります。
この世界には荒っぽい能力者がいて、浮遊霊を片っ端から消滅させている人がいます。側から見ると霊を消滅させるなんてとんでもない人だと思われるかもしれませんし、私もそう思っていた頃があります。しかし、そのような浄化作用は割と誰しもが行っていることで、体についた不浄なものを洗い流す、ということに関してはオーラだけでなく肉体としてももちろん同様で、それを浮遊霊に対しても行っていて、不浄なものを無に返す、という行為が実は浄化でもあるのだとしたら、一見すると荒っぽい行為に見えたとしても世の中の役に立っているという面もあるわけです。ただし、一見するとただの不浄霊で「誰かのオーラの残りかす」のようなものであったとしても、時に、それが誰かが意図的に学びとして行っている場合もあって、時に見分けが難しいこともありますので、誤射を避けるという意味において、基本は未浄化霊のようなものであっても(見分けがつかない、よくわからないのであれば)放っておくのが良いかと思います。
浮遊霊と言っても本当に抜け殻の場合と、多少は意識が残っている場合があるわけです。地上にいる霊能力者は、これらの違いがわかる場合もあれば、わからない場合もあります。物質に近い方が見やすいのは一般的にそうと言えばそうも言えなくもないですけど、それよりもむしろ、波動に近いものが見える、という方が正しくて、この種の浮遊霊や抜け殻は割とこの世に近いところにあるので、それらの割と普通の人間に近しい波動に共振する人はそのようなものが見えることもありますし、一方、それより上の、天国に住んでいて一時的に地上に来ているような(多少は)浄化されている霊を見るには自分も相応に浄化されている必要があります。霊能力者の波動が低ければ浮遊霊くらいしか見えませんし、その場合は、天国にいる霊(一時的に地上に降りてきている霊)は光り輝く存在として見えて、あまりよく見えません。自分の波動が高まればそのような天国にいる霊のことも見えるようになりますけど、そのくらいになりますと存在の波動の差が大きくて、ようやく天国に行けるくらいの霊と、グループソウルに合流する直前くらいの霊(昇天が間近の霊)、グループソウルから分離してきたばかりの霊、などでは波動の違いがあります。よって、必ずしも天国にいる霊が一律で見えるわけではなくて、姿が見える場合もあれば、波動の違いが大きいと、これまた同様に、単なる光の存在としてのみ感受される場合もあります。そして、ここで未浄化霊と言っているのは、天国に行くことができないくらいの重い波動の霊のことを言っているわけで、それは死後に丸ごとそうである場合もありますし、死後に分離して残された抜け殻がそうである場合とがあります。
そして、一見すると未浄化霊、浮遊霊、悪霊のように見えたとしても、質量としてその内側に中間的な部分(天国に行ける)や高次の部分(昇天できる)を所持していたりします。その高次の部分を含めて消滅させるのはやりすぎですけど、未浄化の部分を消滅させることで中間的なものや高次の部分が表面に出てきますので、重い質量の部分である未浄化の部分を消滅させるのは一見すると荒々しく見えるかもしれませんけど実は理に叶ったやり方であるようにも思えます。とは言いましても、そのようなことができる人はそう多くはありませんし、気をつけて粗大な未浄化の部分のみ消滅させるというやり方をしなければ間違って一緒に微細な部分をも消滅させてしまうということもあり、そうなれば良くないカルマを積むわけですから、一般的には手を出さない方が良いことではあります。
放っておけば基本的には自然に風化するので、集まって悪霊になるとかでなければ自然に風化するに任せれば良いわけです。死後に肉体が形を失うのと同様に、抜け殻のような(霊体のようにも一見すると見える)浮遊霊、悪霊の類は時間が経てば消えていきます。
基本は、波動の法則が成り立ちますから、自分の波動を高くしておけばそれほど未浄化霊とは関わり合いを持たないので、このような浮遊霊や悪霊の世界は気にしなくて良い、気にしなくて良くなるまで自分の波動を高める、ということを優先させれば良いと思います。
このような未浄化霊であったとしても周囲の助けがあれば波動が死後に(多少は)高くなって天国に行ける場合もありますが、それは確かに身内など知り合いであればそのような助けによって救われるということもあるでしょう。それはミクロな視点において救われた、ということでもあります。一方、マクロな視点に立ってみると、そのような未浄化霊を助けるまでもなく、既に、高次の部分は分離して死後に天国に行くなり昇天してグループソウルに帰っておりますので、いわば「残りかす」のような未浄化霊の(ように見える)部分を助けることがどれほど意味のあることなのか、わかりません。例えば、人生を生きた上での経験や知見のうち(割合は人によって違うにせよ)9割が死後に天国あるいはグループソウルに帰るとしたら、残りの1割がたとえば未浄化霊のようにして地上に残されたとして、その1割を助けることがその浮遊霊の助けになると言えば一応はそうですけど、マクロな視点からしたら些細なことなわけです。
そして、時に、地球の管理者が「この世界には、未浄化の部分が多くなってきた」と判断したのならば、システムとして、一旦全てを洗い流して綺麗にしてリセットし、またやり直すことも過去には何度もありました。これが地球規模での大災害になって大勢が一見すると死ぬわけですけど、実のところ、中間的な部分(天国)と高次の部分(グループソウル)には影響がなくて、文明はリセットされますけど、魂の部分に関しては影響がないわけです。大災害というのはあくまでも文明と未浄化の部分を洗い流すことにあります。このようなリセットはない方が良いわけですけど、あったとしても、魂の方にはさほど影響はないわけです。こうして、文明を新たにやり直す場合もありますし、一部のタイムラインのみリセットにして、大勢の魂が別のタイムライン(パラレル、似たような地球)に大量に移動する、ということもあります。霊の視点からしたらどちらも見えて、選択ができますので、面白そうな方を選ぶわけです。未開の大地での開拓と成長が好きならリセット後の世界を選ぶかもしれませんし、現在のような過渡期が好きならそれを選ぶ、など、それぞれの人(魂)の選択によって行く場所を自らの意思で変えるわけです。そうは言いましても、霊によって見えている範囲も違いますし、霊の世界は「知り合い」として関わった人との結びつきが強く働きますから、「誰かが知っている世界」に行くことが多くなります。時に、未開の惑星を興味深く探索する場合もあります。全ては自らの選択によっていかようにもなると言えばそうですけど、それでも、基本はグループソウルの意思に従うことが多いように思います。
▪️天国
一方、天国に行けるようなぼちぼち純粋な魂の場合は人間に近い思考が必ず残っていて、この場合は地上を漂うというよりは天上の世界、いわゆる天国とか天界とか呼ばれているところで住んでいて、時折、地上に転生している知り合いのところに降りてきて色々と話しかけたりします。この場合は霊と言っても人間と変わりがなくて複雑な思考ができますし、感情もあります。霊の状態ですと、人(霊)によっては多少は時空を越えることができて、未来のことなども多少は教えてくれたりします。これが世間で言われている輪廻転生に近いところではありますけど、天国はまだ中間的な世界で、実のところ地上の人間と比べても肉体を持っているかどうかくらいの違いしかなくて、霊の状態ですと想像力というものが強いために想像したらすぐに目の前に想像することができるファンタジーの世界ではありますので物質化・実体化という点では地上と大きな違いがあるとはいえ、意識という面では地上の人間とそこまで変わらないのです。
天国に行けるくらいの意識を持った霊の場合は指導霊的なこともできて、誰かに付き添って色々とヒントを与えたりすることもあります。その導き方は人(霊)それぞれで、指導の仕方にも色々とあるように、霊だって肉体がないだけで意識は生きている人と変わりませんから、指導霊としてのやり方も千差万別なわけです。
▪️グループソウルと分霊
カルマの縛りから解放されると昇天できます。その中間的なものとして天国がありますけど天国はまだ(ここで言う)昇天には相当しなくて、天国に行くことも昇天といえばそう言えるとは思いますけど、天国は昇天というほどのことでもなく割と普通に行けて、天国に行った後に、満足と愛の至福が十分に満たされたら天国にいる状態から更に昇天してグループソウルに帰還します。昇天する時は、文字通り、光の柱に包まれて、(天国にいる時に既に宙に浮いているわけですけど)更に上昇して(天国より)更に上の(それもまた天国と呼べるかもしれませんけど)世界、それはグループソウルの世界ですが、そこに上昇して合流、ワンネスになります。
昇天するにはかなりの浄化がなされていないといけませんけど、多少のカルマ(条件付けの部分)がわずかに一緒に上昇します。そしてそれが、わずかながらであったとしても次の行動へのきっかけになることも多少はありますが、基本的には、条件付けから離れた自由な部分がグループソウルを形成します(少なくとも私の場合はそうです)。これは私の属しているグループソウルはそうですけど、おそらくは、カルマの条件付けの部分が大きいグループソウルもあるように思えます。
グループソウルでは集合意識が働きますので、グループソウルの意思に基づいて分霊が作り出されることもあります。その時は、今まで分霊が知見を集めたことに基づいて判断されたり、はたまた、世の中を見て必要だと思ったことがグループソウルの意図に基づいて分霊が作り出されます。
▪️解脱、あるいは、ヴェーダンタのモークシャ(自由)
個人的な解釈に基づきますと、死後に昇天してグループソウルに合流できることが解脱あるいはモークシャ(自由)に相当すると思います。これはそれらの流派の解釈ではなくて個人的な解釈です。天国に行くことが解脱と解釈する流派もあるとは思いますけど、天国は割と普通に行けますし、そこにいる人は割と生きている人間とそこまで意識で変わりませんので、解脱というと(グループソウルへの)昇天が相当するのが合っているように思えます。
▪️大きな潮流
これは各自の意識、意思というものが関わっている以上、そこには大きな潮流のようなものがあって、例えば、高次の意識を持った人が多く転生して良い文明を興したかと思えば、その後、高次の意識が地球に興味を失って、低次の部分を切り離して高次だけ自分の星(あるいは世界、次元)に帰ってしまい、低次の意識だけが残されて、低次の意識の世界に次第に遷移する、ということが起こっている、あるいは、起こる可能性を感じるのです。そうなると、最初は高次の意識が降りてきて文明を作ったとしても、次第に、「分離」が起きて、高次の部分は学び終えて昇天してグループソウルに戻る一方で、低次の意識は分離後に地球に残される、という現象が起きるわけです。
このような状態であっても新たな高次の意識が降りてくるわけですが、それは各自の自由意思に委ねられておりますので個別で見たら自由なわけですが、それでも、全体としての潮流はあるわけです。
今は、この地球上において、高次の意識もあれば、低次の意識が優勢になっている状態であると言えます。それは必ずしも悪いことではなくて、高次の意識にしても低次と結びつくことで学ぶことがありますし、今は低次の意識であったとしても、元はといえば高次の意識と一体だったけれども残置物のように低次の部分が残されている場合があるわけです。
▪️グループソウルとしての「人格」と宇宙人
グループソウル全体としても「大きな人格」のようなものを持っており、その中には魂のコアのようなものが無数にありますからそれぞれの意識があるのですけど、それを束ねるものとしての人格があります。ですから、それぞれのグループソウルごとに考え方や理解が違っていて、それぞれのグループソウルでそれぞれ異なった(大きな)人格を成しています。
これは集合意識ともまた違っていて、文字通り、本当にそういう「大きな魂」を持った存在がいて、それは必ずしも土地と結びついているわけではなく、一見すると普通の人のようにも見える霊人が、そのオーラの総量としてはとてつもなく大きい場合があって、時には普通の人の数千などの魂を束ねるグループソウル(相当)だったりします。それは、実のところ、オーラの総量と知見においてはとてつもない違いがあるものの、この世は「大きなものの形が、小さいものの形にも宿る、逆もまた同様」と昔から言われているように、グループソウルとしての(魂とも言える)霊人と、個別の分霊としての魂あるいは霊人もしくは肉体に宿った魂、とでは、(オーラの総量や知見での違いは大きくあるものの)、存在としての形としては同じなわけです。そのような、大きな魂を持った存在がこの宇宙にはいて、地球に関与している魂の場合は地球の軌道上に(宇宙服など不要で)普通に素のままで(霊人として)漂っているわけですけど、その分霊が地上に多く転生してきているわけです。
この世界には宇宙の「非干渉の法則」があって惑星の運命はその惑星の住民に委ねられていますけど、例外規定があって、その惑星の住民として転生する場合は禁止事項に当てはまりませんので、(宇宙人の)分霊による転生、ということが行われているわけです。その場合、基本はその惑星の住民としての意識がありますので、その上で、各グループソウル(というか宇宙人)の意図が反映されるわけです。宇宙人と言っても、長い間、ずっと地球に関与しているのですから、波動の法則により、その宇宙人の波動は割と地球の波動に近い人であり、そこまで手の届かない存在でもなく、単に「良き人たち」であると思えば良いと思います。宇宙人にもいろいろあって、基本が霊人の人と、物質があるけれども地球の軌道上では宇宙船が非物質化している場合とがあります。
宇宙の存在にはいろいろな形態があって、霊人でいてグループソウルと分霊、という形式を取っている人と、割と長い期間、ずっと同じ魂をなるべく保持し続けようという存在がいて、やり方にも違いがあります。私の属するのはグループソウルと分霊を頻繁に作る方ですけど、どうやらそうではない場合もあるようで、その、私と違うやり方をしている方についてはそこまでわかりません。単なる私の勘違いで実はそこまで違いがないのかもしれませんが、そこまで他のグループソウルについては詳しくはありません。あくまでも自分のグループソウルでの出来事についての知見になります。
▪️集合意識
集合意識というのはグループソウルとごっちゃにされることがありますけど別物で、人々の想念が増えて一定の方向にまとまった時、それが集合意識として固定化され、共通認識(コンセンサス)が作られます。その結果、それを感じ取った存在たちが、いわゆる「許可」を得た形になって、それが実現かする「可能性」が生まれるわけです。実際にはその後で、それを働きかけるデーヴァ(神々)たちの意識と思考、選択があるわけですけど、少なくとも集合意識で「許可」を出していないと現実は起こらない(ことが多い)わけです。もっと巨大な力を持った存在による意識が動くことがあって、その場合は集合意識での許可をも超えて(例えば大災害などが)起こるわけですけど、集合意識の場合はもう少し力が弱くて、あくまでも雰囲気における「許可」とコンセンサスなわけです。
ですから、時にスピリチュアル業界で聞こえる「集合意識によって未来を作る」というお話は、地上の人間の「許可」のお話なわけです。集合意識そのものが、そのまま直接的に未来を作るというほどの力はなくて、集合意識というのはあくまでも「許可」の部分であり、その許可が出ていれば、周囲の存在、より高次の存在、巨大な力を有した「管理者」がその許可に基づいて、仕事(働きかけ)がしやすくなる、という種類のものなわけです。
集合意識というのは魂の集合ではなくて、いわば思考の「抜け殻」としての想念の(結果の)集合体ですから、それ自体は高次の意識を持たないわけです。ですが、それでも集まればそれなりの力になって、基本は「許可」になりますが、時に、人々を煽ることで感情を昂らせ、集合意識そのものはそこまでの力は持たないものの、その集合意識に同調した(肉体を持った)人々が実際に「行動」を起こすことで物理的な面における変化をもたらすことはあります。例えばフランス革命がそうなわけですけど、集合意識そのものにはそこまでの力はなくても、この世界は「モノ」の影響がとても強い世界ですから、集合意識に基づいて(肉体を持った)人間が行動をすれば世の中が変わるということは(もちろん)あります。(これは割と普通のことだと思います)
そして、その集合意識はグループソウルではなくて、あくまでも想念形態としての集合であるわけです。
▪️システムとしての潮流
そして大切なのは、これはシステムとして動いている以上、人々の波動が全体の傾向として良くなるのも悪くなるのも、一旦動き出したらなかなか変えられないことであるわけです。戦争から悲しみや憎しみが作られてまた違う戦争が起こる、というサイクルはこのようなシステムを元にしてそれが起こりますから、地上に苦しみの念が蓄積されてしまうわけです。一方、良くなる方にしても一旦動き出したらどんどんと良くなる、というサイクルが起こります。一時的に波動が異なる人がすれ違うことがあれど、基本的には波動の法則により同じような波動の人同士が結びつきます。
そのような安定方向への動きに対して、分離の動きも起こります。スピリチュアルでは統合を善とみなして分離を悪とみなす風潮が一般的にはありますが、実のところ、どちらも高次元(神と言っても良い)の動きであり、創造・破壊・維持の働きの1つでしかなくて、そのようなスピリチュアルな観念を超えてシステムとして高次元(神)の仕組みが存在するわけです。ですから、統合する動きも高次元(神)の動きであり、分離にしても高次元(神)の動きであり、(一見すると善と悪があるように見えても)(高次元、神の観点からすると)全ては完璧なわけです。
▪️システムの中で賢く生きる
このような動きにおいて、システムを理解した上で、うまく波に乗れば良いわけです。何をしても完璧であるわけですから、誰がどのような選択をしようともそれは完璧なわけで、(良くない行動をしたらカルマとして戻ってくるだけですから)、調和に従った行動を取れば良いわけです。波動が良ければそれに相応な行動になりますし、盲目な人は相応な(そうだとしても神の意思に従った)行動になるわけです。分離や破壊など、一見すると神に反しているような行動であっても高次の次元からすれば学びであり、全ては完璧なわけです。そうは言いましても、自分がわかっていつつ不幸な人生を選ぶ必要はありませんので、幸せな人生を選べば良いわけです。
この世のシステムは自然の摂理のように安定方向に進みますから、その安定方向というのは(一見すると悪のように見える人であったとしても)調和の方向へと進みます。ですから、たとえ不調和に見えたとしても少しずつ調和に向かっているわけです。もともとそれなりに波動が高い人はもっと高みを目指します。悪に向かっているような人は盲目なだけで自分に正直なわけですが、神からすると悪の人生はそこまで価値はなかったりします。
▪️神が悪を操るというレアケース
稀に、悪であっても、他の目的のために動かされている場合があります。それはケースバイケースです。英雄を殺す愚者、みたいなケースは実はこういう場合が多々あります。英雄それ自体は神が降りたものであることがほとんどですが、神が寿命を終えて後は他の人に任せるような場合に、他の人を神が操って英雄を殺す、ということが行われます。例えばジャンヌダルクが裁判で死刑になったようなケースです。
はたまた、悪のように見える行為であったとしても、それは神が「知りたい」という希望を反映してのものであり、全ては学びであるところの悪の場合もあります。その場合、神が学び終えれば急にその悪は「理解」と共に解消します。当人にとっては「目が覚める」ということになりますけど、実際のところは、その場合、(稀ですが)神が意識を下ろしてその実験をさせられていることがあるわけです。ですから、当人は「なんて愚かなことをしていたのか」と後悔するかもしれませんけど、実際のところは、神が知りたかったので、そのような不思議な思考を実体験で行動として行うことで結果を顕現させていたわけです。それは個人の人にとっては愚かな行為であったとしても、神にとっては「知る」という目的によって行われたことなわけで、学び終えれば、それの愚かな行動を取らなくなります。人生や理解は無数に数多くありますから、それぞれの場合において次々に学びが行われているわけです。そいうう場合も稀にあります。この場合、神が理解した筈なのに何故にまた同じような過ちが各地で繰り返されるのか、というお話があります。その理由としては、地上の人間の大部分は神と切り離された人生を送っていて、神が理解しても地上の人はそれぞれの観念、自分の価値観で動いている故に、神が理解したところで、地上の人間の行動はなかなか変わらないからです。まずシステムとして盲目な感情の想念が地上に蓄積しており、それに接触するなどして囚われると同じような問題を引き起こす、という面があります。特に、地上の盲目な人間はそれに簡単に影響されます。
また一方、神様が理解したとしても、地上の人と関わりがあって意思を持つような神様は割と低次の神様ですので、神様であってもそこまで広範囲のワンネスでもなく、限られた範囲でのワンネスなわけです。範囲は限られていても、神様は神様です。ですから、その(限られた範囲の)神様はまた上位の集合の神様のようなもの(上位の階層、神様にとっての更に高次の神様)に対して理解を共有しなければその知識は共有されないのです。しかしやがて上位の階層として理解が浸透し、地域的、世代的なところで共通認識が起こり、次第に問題は解消されていきます。
▪️翻弄される大衆
このようなシステムの中で、多くの人が翻弄されて、波に飲まれて天国に行ったり地上を彷徨ったりしているのが現状です。そして、すぐに昇天できる人はそこまで多くないように思います。システムがわかったなら、少なくとも天国に行けて、できれば昇天できるような人生を送るのが幸せだと私は思います。どう思うかも各自の自由意志が尊重されますので各自好きにすれば良いのですが、システムを知ったら(少なくとも)天国、そして可能であれば昇天を目指すのだと(個人的には)思います。
▪️各種の心理的な問題を真面目に考えすぎる必要はない
ですから、自分が抱えている問題は多種多様な原因によって発生しますので、自身の心理的な問題を真面目に捉えすぎる必要はないわけです。どこかから拾ってきてしまった想念で苦しむ場合もありますので。
▪️人口削減、みたいなお話とはあまり関係ない
昨今で陰謀論の界隈で噂されているこの種のお話とはほとんど関係がありません。大抵の場合は人間の側のエゴのお話ですから、輪廻のサイクルとは無関係です。ごく稀に、上記のように物質に近いところだけを大洪水などで一旦洗い流す、と言うことがこの世界では何回か行われてきましたけどそれは魂の削除でもなくて人口削減でもなくて、単純に、一旦、粗大な物質の部分だけリセットして文明をやり直す、というだけのお話です。中間的な部分(天国に行ける霊、魂)や更に高次のグループソウルはそのまま引き継がれて、大災害の影響を受けません。大災害の影響を受けるのは物質的な文明だけです。ですから、昨今、世間で騒がれている人口削減の陰謀論と輪廻転生のサイクルとは関係がないのです。
▪️人間は、魂の器
ですから、受精卵ができて胎児になった後に魂がお腹の中に入ってくるという、それ自体が、肉体は器であることを示しているわけです。生まれる時に宿った魂が基本となるわけですが、特に高次の部分は肉体から部分的に離れることがあります。離れる、という現象は世間でも(特に沖縄で)マブイを落とす、などと言ったりしますし、本州でも場所に限らず似たようなことは起こります。そして、魂(のかけら)が体に戻ってくる、ということもあります。
魂の一部でも体から離れると、意識が朦朧とした状態になります。そして、魂が一部でも戻ってくると、意識がはっきりしてきます。意識とは肉体に宿っているのではなく魂の機能の一部でありますから、魂(そしてオーラ)が少なくなると相応にメンタルは弱くなりますし、多くなると強くなります。
特にショックなことがあったり、耐えられない環境にいたりすると、ショックであれば突発的、あるいは、メンタルで耐えられない状況においては心が壊れて、高次の部分が体から(部分的にでも)体から離れてしまいます。それはある種、浮遊霊あるいは生き霊のようになって、本来は体の中に留まっているべき魂が体から離れてしまうわけです。完全に離れてしまうと肉体が死に至ったり、あるいは、機械的反応をするだけの痴呆のような状態になってしまいます。
この時、魂の視点からすると、幽体離脱したかのような状態になって、そこまで重症ではない場合は魂の方が肉体に戻ろうと思えば戻れる状態であることがほとんどです。しかし、あまりにも分離が激しくて波動が合わなくなってしまった場合、(あるいは、レアケースですが、魂が留守にしている場合に低級霊が入ってしまったりすると、)戻ろうとしても弾かれるような状況になってしまいます。
精神的な修行をする場合、特に最初は肉体および思考するマインドの側から働きかけをするのですが、それは、肉体側の視点から見た場合、「高次の意識が入ってきやすくする」、という効果があるわけです。肉体はどこまで行っても器でしかなくて、高次の意識がどれだけ入ってくるか、沢山入ることができるまでに純化できるかどうか、というところがポイントで、入ってくる、ということの他に、(いくらスピリチュアルに優れた人であっても)肉体から高次の意識が「抜ける」ということはいくらでも起こって、それは文字通り「一瞬」で起こることもあります。
高次の意識が抜ける時、それは往々にして、肉体の側のマインドがエゴという誤った感覚によって自尊心が高まった時に起こって、高次の意識からするとそのような個人のエゴは煩わしいものでしかなくて、エゴがあればあるほど高次の意識がマインドに届きにくくなるわけですから、ある程度までは辛抱強く意識を高次からマインドへと働きかけますけど、ある程度スピリチュアルがわかった人は特に相応にエゴが強くなるということがありますから、高次の意識が離れることで肉体は器でしかなくて、マインドにしても割と低次の働きであることを自覚させるわけです。高次の意識が抜けた瞬間、意識は重くなり、悲しくなり、人生に暗雲が立ち込めます。思考する(低次の)マインドは、「自分は肉体のちっぽけな存在だ」ということを意識して、器は器でしかないことを自覚するわけです。そして、器としての肉体および思考するマインドが「自分が優れている」というエゴという錯覚を捨てて、考えを改めて、高次の意識の意図を汲み取って人生に反映させます、と謙虚になると、また、高次の意識が戻ってきてくれることがほとんどです。
スピリチュアルでは、最初はハイヤーセルフ(あるいはアートマン)が自分の周囲に漂っている、というような言い方をすることがありますが、これは、自分の魂が体の中に収まっていなくて、分離している状態が割と今の人間では普通だからです。それを、自分の体と融合させて、体の中に収める、という段階を踏むことで(低次の)思考するマインドと、高次の意識とが融合します。もともと一つではあるのですけど、分離していて、それを融合する過程がスピリチュアルなわけです。
この融合は肉体が魂の器であるから起こるわけですけど、この種の「融合」はいろいろなスピリチュアルや精神的な流派で言われていて、ヨーガであれば「ダルマ・メガ・サマーディ」ですし、真言宗ですと大日如来との一体化がおそらくそれに相当するでしょうし、スピリチュアルな流派ではハイヤーセルフとロウアーセルフ(思考するマインド、低次であるエゴ)融合、みたいに言われていて、表現は違えども共通項があります。
輪廻転生の視点から言えば、高次の意識というのは肉体が形になる前から存在して、肉体の死を迎えた後も存在し続けるものです。しかし、肉体に近い想念体系としての「残りかす」「抜け殻」のような中間的なものは肉体が焼却炉で燃やされて灰になっても微細なものとしてしばらくは残って、数十年とかあるいはもっと漂うこともありますが、基本的には時間が経つにつれて力を失って消滅していきます。
ですから器としての肉体は死を迎えるとなくなるわけですけど、中間的な想念体系である「抜け型」のような意識、一般的に幽霊とか浮遊霊とか言われているものがそれに相当する場合もありますけど、それよりも、もっと機械的と言いますか、雲のような、単なる、モヤモヤっとしたものが「抜け殻」であるわけです。
そして、高次の意識がその抜け殻に伴っていることはほとんどないにしても、中間的な意識が残っている場合があって、その場合は、幽霊や浮遊霊っぽくなります。まだ意識が明確でなくて、意識があるけれども天国に行けるほど意識が純化されていない場合、浮遊霊のような感じになって地上を彷徨います。死後に、特に自殺をした場合に最後の動きを無限に再生する場合もこれですね。ですが、基本的には時間が経つとエネルギーを失って風化しますので、あまり気にする必要はなかったりします。
そのように、一見すると未浄化霊のように見えることであったとしても、大抵の場合は単なる「抜け殻」であって、機械的な動きをしているだけあり、高次の意識はそこから抜け出て天国に行ったり(稀にそのまま昇天する場合もなくもなくて)、どちらにせよ、そのような「抜け殻」に高次の意識は残っていないことがほとんどです。未浄化霊の場合は中間的な意識にしても大半が抜け出ていて、ほんの少しの中間的な意識が「重さに引きづられて一部が残ってしまった」というくらいのものであることが多く、機械的な動きをしている霊がいたとしても、大した価値がなかったりします。それは文字通り、中間的な意識や高次の意識が既に抜け出てしまった「抜け殻」(と、ほんの少しの、引きづられるようにしてこびりついている若干の中間的な意識)でしかないわけですから、そこに意義を見出す必要はあまりないわけです。
生きている間に頑張ってもらった肉体は死後に償却されてなくなりますけど、今まで長い間生きてきた間に貯めた想念体系としての「抜け殻」はそれなりに強いエネルギーを持っていることがあって、それが地上に「機械的な動き」として、いわゆる「念」のような形で残され、数十年、数百年単位で地上の人間に影響を及ぼすことがあります。
ですが、それはそのまま(天国に行ける程度の)中間的な意識というわけでもなく、ましてや、昇天できるほどの高次の意識というわけでもなく、あくまでも想念の抜け殻が地上に残っているだけですので、そこまでの深い意味を見出す必要はないわけです。そのように、実態としてはそうであっても地上の人間に長い期間、影響を及ぼすことがありますので、必要でしたら対処した方が良いわけです。
この種の、地上に残ってしまった「抜け殻」としての念は、魂の輪廻転生のサイクルの本筋とはあまり関係がありませんけど、それでも、昔に生きた人の念としてのエネルギーが次の世代の人間に影響を及ぼすことがあるわけです。これは魂としての輪廻転生サイクルではないにせよ、肉体に近いオーラの影響として、ほんの僅かではありますが、長い時間をかけて少しずつ他の人に同じエネルギーが転写されることになり、そういう影響があるのであれば、一応、輪廻転生のマイナーなサイクルの1つとして数えても良いのではないかと思います。
▪️小さいもの、大きなもの
小さいものの形と、大きなものの形や構造が似ている、ということは自然界においてよくあることです。魂の構造も、それに似た階層構造をしています。
生きている人間が魂を持つとして、それが属するグループソウルがあります。グループソウルは生きている人(分霊)の集合体でもあり、分霊は一時的に分離はしていますが、基本的に自分が属するグループソウルに戻る運命にあります。そうではない場合もありますが、基本的にはそうする意図を持つのが普通です。
このグループソウルは、生きている人間からしたらグループソウルのようにも見えますし、解釈によってはハイヤーセルフと言うこともできますけど、ハイヤーセルフというのは個人の魂の高次元の部分を意味するのが基本ですので、確かに自分自身の戻るところという意味においてはハイヤーセルフというのもそこまで間違いでもないのですけど、そこは誤解があるところですからグループソウルと言った方がわかりが良いように思います。
そのグループソウルは文字通り集合体なわけですけど、そのグループソウルそれ自体で1つの大きな人格(文字通り)をなしています。必ずしも霊体として大きいわけではないのですが、凝縮度、密度が違っていて、同じような霊体に見えたとしても、数多くのミクロコスモスのような意識が数多く詰まっているのがグループソウルとしての特徴です。実際のところ、見た目としての大きさは霊体としては変えることができますので見た目の大きさはあまり関係がなくて、見た目よりも、そこに詰まっている魂の量や密度が重要になってくるわけです。そのように、凝縮された形でのグループソウルがいて、それは個人の分霊からしたらグループソウルですけど、それは1人でもあるわけです。
そのグループソウル相当が1つの意識、一つの魂でもあって、それが、(必ずしも巨大とは限りませんが)1人の霊人として、(もちろん、宇宙人でもある)存在しているわけです。
そのように、高次の意識の集合体としてのグループソウルがあって、それもまた実は1人の人格であるわけです。
それが1人の人格であるとするならば、更に高次元というものもあって、地域的な神様(のような)意識、というのが空間に満ちています。それはおそらくは更には何階層にもなっているのでしょうけど、私が認知できるのはここまでですので、ひとまず、そのような認識で話を進めます。
・(空間を司る)神
創造神と言っても良い。
人格はないように認知されるが実はあるのかもしれない、そこは窺い知れないところ。
未知の領域ではあるが、空間そのものを司る、宇宙を司る神としての存在、意識もうっすらと感じる。創造・維持・破壊、の3つの動きの統合
・(地域的、分野など、限定された)神(=グループソウル、人格神)
(上記の)創造神の分け御魂、創造神の分霊。
(創造神と同様に)創造・維持・破壊、の3つの動きが、限定された範囲において働く。
・分霊 (=私のハイヤーセルフ、スピリット)
(上記)グループソウルから分かれた1つの分霊(が私のハイヤーセルフ)
(ヴェーダンタにおける)アートマン相当(真我)
(創造神やグループソウルと同様に)創造・維持・破壊、の3つの動きが、ごく限られた範囲において働く。
・顕在意識(思考するマインド、錯覚された自分という意識(=エゴ))
ハイヤーセルフとは分断された(と錯覚している)自分(という意識)
(ヴェーダンタにおける)ジーヴァ(錯覚した自分)
(創造神、グループソウル、ハイヤーセルフと同様に)自分のごくごく限られた範囲において創造・維持・破壊の3つの動きが働く。
思考の波、思念派、想念を発する。時に残留思念を作り出す。
このような階層において、それぞれ、顕在意識がかくあるように、高次の意識もあって、それぞれ、階層ごとに認知できる範囲において判断を下しつつ、人生を生きているわけです。
そして、下層の部分はサイクルが早いですけど高次になればなるほど長くなって、高次の側は次元を超えて多種多様な人生を選択しています。
ですから、高次の視点からすると輪廻転生はない、という表現も一応は可能なわけですが、どこかで区切った場合、それ以下の階層で輪廻している、という視点はあるわけです。
▪️個人としての立ち位置
このように概観を眺めてみると、世の中で理解されている輪廻転生もそこまで正しいわけではないものの、ある程度の現実を表現しているとも言えて、一方で、輪廻転生はないとしている流派が言っていることも、それはそれで、多少の真理を描き出しているように思うのです。実際のところ、輪廻転生のようなものはもっと細かいお話で、(自覚しているかどうかはともあれ)他者と触れ合う時にすらわずかの前世の交換は起きているわけです。
このような小さなサイクルがある一方、大きなところで、大元となる魂の輪廻、というところに軸を置いても良いのかなと思います。基本はグループソウルにあって、望めば自分ではないグループソウルと融合することもできますけど基本は元々自分が分離した大元である、縁のあるグループソウルと融合するのが基本になります。そして、グループソウルから分霊が作られるわけです。グループソウルそれ自体も「意識」をグループ全体として持っていて、個々に意識はありますので1つの意識ではなくてごちゃ混ぜの意識ではありますけど、それでも、全体としての「大きな意識」がそれら個別の意識を統合しているわけです。そして分霊になる時は1つのコアのようなものが中心になって周囲のオーラを集めて分霊になるわけですが、時に、小さなコアをいくつか束ねて生まれることもあり、この場合、精神分裂病のようにも見える複数人格を持ったりしますが、時間が経つにつれて1つのコアに統合されてゆくのが普通です。そのコアがいわゆる人格でもあって、基本はグループソウルのほとんどが割と同じような性格になりますけど、一応、転生するとなるとそのコアが基本になるわけです。
このような、グループソウルとしての輪廻、分霊、そして死後の分裂というサイクル、そして神の意思の観点とで理解すれば輪廻転生の全体像も見えてくるかと思います。
▪️前置き
一般に理解されている輪廻転生そのものは存在しないと言っても良いのですがそれに近しい現象はあるにはあって、その基本はというと、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、昇天した後にグループソウル(類魂)と一体になり、改めて分霊を作って転生する場合があるわけですが、それに加えて、魂(幽体)の分裂、という現象を加えるとわかりが良いと思います。
▪️分裂
死ぬと、(自分の中と言っても良いが、自分自身である)魂のレベルが割と一定の場合は1つの個体として保持され、一体として同じような道を辿ります。
一方で、(自分の、あるいは、誰かの)魂のレベルが割と一定ではなく(波動的に)上下に幅がある場合、かつ、それが「量」としてそれなりの質量のようなものを持つ場合、魂が死後に分裂し、それぞれ見合った階層でそれぞれの死後の過程を辿ります。
このように、分離をするかしないか、という過程が死後にまずあります。
肉体を持っていますと肉体が魂を結び付ける働きをしていますのである程度の波動の幅があっても肉体に全てが結びついていますが、魂になって波動体になると同じような波動同士でないと一体になっていることができませんので分離する、という側面があります。死後は意識がそれほど働いていませんので、この過程は割と自動的に行われるように思います。相当に意識を持って一体でいようと意識していない限りそうなりますし、はたまた、上位の意識の意思により分離される、という場合もあります。例えば、死後、グループソウルのワンネス意識からすれば、死後の魂がワンネス状態であるグループソウルに戻ってきてほしいと思って呼び寄せるわけです。しかし、重い波動の部分は上昇することができずに分裂するのです。これは必ず分離するかどうかはわかりませんが、グループソウルの意思によって大きく変わる部分もあれば、システム的にそうなるという面もあるように思います。
▪️昇天
まず、昇天できるほどに純化されている魂の場合、グループソウルに統合され、一体の状態、ワンネスに戻ります。これは、死後に魂が丸ごと純粋な場合です。あるいは、分裂して上澄みの部分だけが昇天する場合もあります。昇天してグループソウルに統合した後、グループソウルの意思に基づいて分霊が作られ、個別の魂として活動することもあります。これがグループソウルも含めた転生のようなものです。
▪️天国
そして、中間的なものとして(実際はもっと細かくも分かれるのですが)、ぼちぼち純粋な魂は地上を彷徨ったり、いわゆる「天国」に行って霊界の豊かな楽しい生活を送ります。これも同様に、魂の丸ごとがぼちぼち純粋な場合と、分裂した後にぼちぼち純粋な場合とがあります。分かれるためにはそれなりに(オーラ、魂としての)総量がないといけないのも同様で、概ね、総合的に見てぼちぼち純粋な場合は天国に行きます。この場合、しばらく天国で過ごした後に昇天してグループソウルに統合そしてワンネスになる場合もあれば、また地上に転生する場合もあります。天国にいる状態で幾つかの霊に分かれる、はたまた、分霊を作る、もしくは、天国にいる状態で、(基本的には自分にゆかりのある魂を)統合して一つになる(複数の魂を1つにまとめる)ということも時々あります。
▪️浮遊霊
更には、下層のものとして、単なる「思い」の塊、想念の塊、残骸のようなもの、影のようなもの、いわゆるアストラル(感情的)な質量の塊があります。そのような下層のゴミのようなものが魂(幽体)には付随していて、この場合、元は人間であっても欲望に塗れた価値観を持ち、食欲や性欲はたまた支配欲など、強欲な性格を持った部分が下層の魂として存在するわけです。この場合も、魂が丸ごとそうである場合と、分離した結果、残った部分がこれである場合とがあるわけです。この場合、いわゆる悪霊あるいは浮遊霊のような状態になって、意思をあまり持たず、盲目で、ぼやけた意識の、目覚めていない意識状態のままそこらを漂うことになります。天国にはいきません。この世の階層に近い世界にいるわけですが、実際のところ、本当に隔離されているわけではなくて、その人が盲目で暗闇の中にいるというだけで、近くには普通に楽しく暮らしている人もいるわけですが、その人はものが見えない状態ですので周囲を認知できないのです。その当人にとってみれば闇のような暗い世界、欲望だけが集まっている下層の霊界のようなところにいるように認知されますが、実際は、それほど隔離されているわけでもないのです。それは地上に割と近いところにあって、地上の人間に時折影響を及ぼしています。これがそのまま、あるいは、ある程度集まって1つの魂として転生する場合もあって、そうなると、人間であっても獣のような欲望に塗れた人格として転生します。
▪️生きている間の分離と合流
実は生きている間にも魂の一部が抜けたり合流したりすることがあって、魂が少しでも抜けると重々しい状態になって意識が朦朧となり、文字通り、(程度にもよりますが)意識が抜けた状態になります。はたまた、魂が合流した場合は生き生きとした状態になります。スピリチュアル業界ではウォークインと言ったりもしますが、必ずしも入れ替わる場合だけでなく、合流して一つにまとまる、という場合も普通にあります。はたまた、意図せずして他人のオーラをもらってしまってその人の性質の幾分かを譲り受けてしまう、ということも普通にあります。
これに加えて、生きていると、他者とのオーラの接触ということも起こります。それは必ずしも魂の接触ではないものの、人によってはオーラが広範囲にまとまりなくふらふらと広がっており、それが他の人のオーラと接触することによってその部分が文字通り「融合」され、お互いにカルマやトラウマあるいは良い部分など、全てにおいて一旦同一化された後に(距離を持つことで)また分離する、お互いにお互いのオーラを交換し合う、ということが起きて、これは、量としては1回1回は少ないものの、何度も何度も繰り返せばそれが魂の外郭部分に影響を与えて、低次のみならず高次の部分までもが他者と交換し合い、それによって自分が(他者からオーラをもらって)気分が良くなることもあれば(他者にオーラを取られて)苦しむこともあるのです。これは転生そのものではないですが、多少ながら他者と転生を共有している、という見方もできて、カルマとは転生の原因ですから、カルマを交換するということは他者と転生を(わずかながら)共有する、ということにもなるわけです。
ですから、死後に分離したり融合したり、という部分が大きいものの、生きている間に魂の融合や分離も少しずつ起きているわけです。
▪️「器」としての人間
これに加えて、「器」としての人間があって、器があって初めてそこに魂が入ることができるわけですが、盲目な人はそこまで自分の意思を持たない一方で、それなりに目覚めた人は自分で人生を選んで転生することになります。そして、器の側としては個人の意思があります。
これらは割とシステムのようなもので動いていて、機械的、法則として動いています。ですから、それぞれが自由に動いているように見えても、割と、理に叶って動いているのです。ですから、基本的なシステムの上に、個々の意思で持って融合するか分裂するかが決まるわけです。基本はシステムですので否応なくそうなってしまうこともあれば、ある程度は個人の意思が反映されるわけです。
▪️地上に残された浮遊霊
このようなシステムですから、下層の、浮遊霊のようなもの、影のようなもの、いわゆる幽霊、地上に残された不浄化の念のようなものは、実は、必ずしも未浄化霊というほどでもない場合も多々あるわけです。世間の一般の常識からすれば「死後はどうなるか」という1点で理解されていますけど、実のところ、死後はそれぞれの波動階層に分離されますから、誰であれどうしても不浄の部分を持っていて、不浄の部分は、それなりに、残骸として地上のどこかに残されるのです。そして、大抵の場合は時間があればそのようなものは風化して形を失い(エネルギーを失い、力を失い)、形のないエネルギー、いわゆる自然へと帰っていきます。ですから、地上の人が霊が見える人だったとして「幽霊が漂っている」と思っていても、大抵の場合、気にする必要はないのです。
割と人間の階層に近い、いわゆる残骸のようなものはその人の本来の意識を持っていることはほとんどなくて、想念体として(スピリチュアル的にはアストラル体)の感情としての残骸のようなものが残されることが多いように思います。それは複雑な思考の体系を持っていないのですが、と言いますのも、高次の意識はそのような場合には既に分離されてしまって残骸だけが残ってしまっている場合もあるからです。
この浮遊霊を助ける方がいいのか、放っておいて風化を待つ方がいいのかは、場合によりけりだと思います。浮遊霊の持っている意識の残骸が価値がないほどの単なる欲望や機械的な反応といった低次の感情であれば、それは放っておいて風化を待っても良いように思います。一方、浮遊霊であっても一定のオーラの総量を持つまでに融合が進んだ場合、それは、低次であったとしてもそれなりの(欲望の)意識を持つことがあって、これはその欲望に正直に動きますので放っておいても風化はなかなかせず、悪影響が大きいことになります。浮遊霊というのは厄介で、往々にして明確な意識を欠いていて基本的な欲求しかありませんので、それが強いオーラになるまで集合した場合、妖怪のような純粋な悪としての存在にまで成長することがあります。
空間的に余裕があって、単純な「想念の残りかす」のようなものが時間とともに風化できるのであれば放っておいても良いと思います。しかし、土地が浄化できる以上の浮遊霊・・・・ というよりは、単なる想念の残りかすのようなものが散乱している場合、それはもはや、高次の意識が抜けてしまった「抜け殻」である場合も多々ありますし、抜け殻とは言ってもそれなりの想念の力を保持しておりますので、何かの条件が重なってそれらが融合して一つになると強い力を持つことになりますし、誰かがたまたま通りすがりにその想念を拾ってしまった場合はその想念があたかもその人がそう願ったかのように勘違いして振る舞ってしまうことになり、生きている人がその「残りかす」「抜け殻」の想念をベースにして更に強い想念を発するようになってしまう、ということもあります。
人が多く死んだ土地には浮遊霊と言いますか「抜け殻」としての想念が多く漂っていて、時間が経つとそれはある程度は風化しますが、ある程度は誰か生きている人が拾うことで元の場所からなくなります。
世間で行われている「火による浄化」はこの種の想念の「残りかす」を消滅させる行為ですので、単に浄化として理解しているとしても、実際は、意図せずして、浮遊霊と同じようなものを自分の近くで消滅させて浄化しているわけです。一般には、自分のオーラを浄化させるだとか、空気を良くする、というように理解されているとしても、実態は、そこらで漂っている(意志を持たない)浮遊霊(の一部)を浄化していることでもあるわけです。
ですから、不浄化霊を成仏させる、なんてお話は眉唾で、確かに、その人が丸ごと欲望まみれで魂の全体が重々しくて天国にすら行けずに彷徨う場合もあるにはあるでしょうけど、それほどまでに欲望まみれの人が成仏できないのは自業自得なのではないでしょうか。そんな人が気軽に成仏できるのだとしたら修行なんていらなくなってしまいます。何事も分相応でありますから、生きているうちに欲望まみれで生きているのならば死後に天国に行けなかったり昇天できないのだとしても、それが相応であると言えます。この世界は割とシステムで動いていますから、そういう人であっても高次の純粋な意識が含まれているのだとしたら、その部分だけが分離して、高次の意識だけが昇天するなり天国に行って、残りの部分が浮遊霊として地上に残ります。ですから、不浄化の浮遊霊のことはそこまで気にする必要はなくて、あくまでも高次の部分、少なくとも天国に行けるくらいの意識とだけ相手をすればいいわけです。
未浄化の部分と天国に行ける部分とが混ざり合っている人(だった魂)の場合、未浄化の部分が重しになって天国に行けない、と言うこともあります。それなりのオーラの総量があれば未浄化の部分と天国行きの部分に分かれるのですが、そこまでの質量がない場合は分裂せずにいて、しかも天国に行くことができない、天国に行くには重い状態になりますので、未浄化の部分を浄化(と言うより実態は消滅に近いこともありますし、切り離すだけの場合もあります)してあげると天国に行ける場合もあります。
この世界には荒っぽい能力者がいて、浮遊霊を片っ端から消滅させている人がいます。側から見ると霊を消滅させるなんてとんでもない人だと思われるかもしれませんし、私もそう思っていた頃があります。しかし、そのような浄化作用は割と誰しもが行っていることで、体についた不浄なものを洗い流す、ということに関してはオーラだけでなく肉体としてももちろん同様で、それを浮遊霊に対しても行っていて、不浄なものを無に返す、という行為が実は浄化でもあるのだとしたら、一見すると荒っぽい行為に見えたとしても世の中の役に立っているという面もあるわけです。ただし、一見するとただの不浄霊で「誰かのオーラの残りかす」のようなものであったとしても、時に、それが誰かが意図的に学びとして行っている場合もあって、時に見分けが難しいこともありますので、誤射を避けるという意味において、基本は未浄化霊のようなものであっても(見分けがつかない、よくわからないのであれば)放っておくのが良いかと思います。
浮遊霊と言っても本当に抜け殻の場合と、多少は意識が残っている場合があるわけです。地上にいる霊能力者は、これらの違いがわかる場合もあれば、わからない場合もあります。物質に近い方が見やすいのは一般的にそうと言えばそうも言えなくもないですけど、それよりもむしろ、波動に近いものが見える、という方が正しくて、この種の浮遊霊や抜け殻は割とこの世に近いところにあるので、それらの割と普通の人間に近しい波動に共振する人はそのようなものが見えることもありますし、一方、それより上の、天国に住んでいて一時的に地上に来ているような(多少は)浄化されている霊を見るには自分も相応に浄化されている必要があります。霊能力者の波動が低ければ浮遊霊くらいしか見えませんし、その場合は、天国にいる霊(一時的に地上に降りてきている霊)は光り輝く存在として見えて、あまりよく見えません。自分の波動が高まればそのような天国にいる霊のことも見えるようになりますけど、そのくらいになりますと存在の波動の差が大きくて、ようやく天国に行けるくらいの霊と、グループソウルに合流する直前くらいの霊(昇天が間近の霊)、グループソウルから分離してきたばかりの霊、などでは波動の違いがあります。よって、必ずしも天国にいる霊が一律で見えるわけではなくて、姿が見える場合もあれば、波動の違いが大きいと、これまた同様に、単なる光の存在としてのみ感受される場合もあります。そして、ここで未浄化霊と言っているのは、天国に行くことができないくらいの重い波動の霊のことを言っているわけで、それは死後に丸ごとそうである場合もありますし、死後に分離して残された抜け殻がそうである場合とがあります。
そして、一見すると未浄化霊、浮遊霊、悪霊のように見えたとしても、質量としてその内側に中間的な部分(天国に行ける)や高次の部分(昇天できる)を所持していたりします。その高次の部分を含めて消滅させるのはやりすぎですけど、未浄化の部分を消滅させることで中間的なものや高次の部分が表面に出てきますので、重い質量の部分である未浄化の部分を消滅させるのは一見すると荒々しく見えるかもしれませんけど実は理に叶ったやり方であるようにも思えます。とは言いましても、そのようなことができる人はそう多くはありませんし、気をつけて粗大な未浄化の部分のみ消滅させるというやり方をしなければ間違って一緒に微細な部分をも消滅させてしまうということもあり、そうなれば良くないカルマを積むわけですから、一般的には手を出さない方が良いことではあります。
放っておけば基本的には自然に風化するので、集まって悪霊になるとかでなければ自然に風化するに任せれば良いわけです。死後に肉体が形を失うのと同様に、抜け殻のような(霊体のようにも一見すると見える)浮遊霊、悪霊の類は時間が経てば消えていきます。
基本は、波動の法則が成り立ちますから、自分の波動を高くしておけばそれほど未浄化霊とは関わり合いを持たないので、このような浮遊霊や悪霊の世界は気にしなくて良い、気にしなくて良くなるまで自分の波動を高める、ということを優先させれば良いと思います。
このような未浄化霊であったとしても周囲の助けがあれば波動が死後に(多少は)高くなって天国に行ける場合もありますが、それは確かに身内など知り合いであればそのような助けによって救われるということもあるでしょう。それはミクロな視点において救われた、ということでもあります。一方、マクロな視点に立ってみると、そのような未浄化霊を助けるまでもなく、既に、高次の部分は分離して死後に天国に行くなり昇天してグループソウルに帰っておりますので、いわば「残りかす」のような未浄化霊の(ように見える)部分を助けることがどれほど意味のあることなのか、わかりません。例えば、人生を生きた上での経験や知見のうち(割合は人によって違うにせよ)9割が死後に天国あるいはグループソウルに帰るとしたら、残りの1割がたとえば未浄化霊のようにして地上に残されたとして、その1割を助けることがその浮遊霊の助けになると言えば一応はそうですけど、マクロな視点からしたら些細なことなわけです。
そして、時に、地球の管理者が「この世界には、未浄化の部分が多くなってきた」と判断したのならば、システムとして、一旦全てを洗い流して綺麗にしてリセットし、またやり直すことも過去には何度もありました。これが地球規模での大災害になって大勢が一見すると死ぬわけですけど、実のところ、中間的な部分(天国)と高次の部分(グループソウル)には影響がなくて、文明はリセットされますけど、魂の部分に関しては影響がないわけです。大災害というのはあくまでも文明と未浄化の部分を洗い流すことにあります。このようなリセットはない方が良いわけですけど、あったとしても、魂の方にはさほど影響はないわけです。こうして、文明を新たにやり直す場合もありますし、一部のタイムラインのみリセットにして、大勢の魂が別のタイムライン(パラレル、似たような地球)に大量に移動する、ということもあります。霊の視点からしたらどちらも見えて、選択ができますので、面白そうな方を選ぶわけです。未開の大地での開拓と成長が好きならリセット後の世界を選ぶかもしれませんし、現在のような過渡期が好きならそれを選ぶ、など、それぞれの人(魂)の選択によって行く場所を自らの意思で変えるわけです。そうは言いましても、霊によって見えている範囲も違いますし、霊の世界は「知り合い」として関わった人との結びつきが強く働きますから、「誰かが知っている世界」に行くことが多くなります。時に、未開の惑星を興味深く探索する場合もあります。全ては自らの選択によっていかようにもなると言えばそうですけど、それでも、基本はグループソウルの意思に従うことが多いように思います。
▪️天国
一方、天国に行けるようなぼちぼち純粋な魂の場合は人間に近い思考が必ず残っていて、この場合は地上を漂うというよりは天上の世界、いわゆる天国とか天界とか呼ばれているところで住んでいて、時折、地上に転生している知り合いのところに降りてきて色々と話しかけたりします。この場合は霊と言っても人間と変わりがなくて複雑な思考ができますし、感情もあります。霊の状態ですと、人(霊)によっては多少は時空を越えることができて、未来のことなども多少は教えてくれたりします。これが世間で言われている輪廻転生に近いところではありますけど、天国はまだ中間的な世界で、実のところ地上の人間と比べても肉体を持っているかどうかくらいの違いしかなくて、霊の状態ですと想像力というものが強いために想像したらすぐに目の前に想像することができるファンタジーの世界ではありますので物質化・実体化という点では地上と大きな違いがあるとはいえ、意識という面では地上の人間とそこまで変わらないのです。
天国に行けるくらいの意識を持った霊の場合は指導霊的なこともできて、誰かに付き添って色々とヒントを与えたりすることもあります。その導き方は人(霊)それぞれで、指導の仕方にも色々とあるように、霊だって肉体がないだけで意識は生きている人と変わりませんから、指導霊としてのやり方も千差万別なわけです。
▪️グループソウルと分霊
カルマの縛りから解放されると昇天できます。その中間的なものとして天国がありますけど天国はまだ(ここで言う)昇天には相当しなくて、天国に行くことも昇天といえばそう言えるとは思いますけど、天国は昇天というほどのことでもなく割と普通に行けて、天国に行った後に、満足と愛の至福が十分に満たされたら天国にいる状態から更に昇天してグループソウルに帰還します。昇天する時は、文字通り、光の柱に包まれて、(天国にいる時に既に宙に浮いているわけですけど)更に上昇して(天国より)更に上の(それもまた天国と呼べるかもしれませんけど)世界、それはグループソウルの世界ですが、そこに上昇して合流、ワンネスになります。
昇天するにはかなりの浄化がなされていないといけませんけど、多少のカルマ(条件付けの部分)がわずかに一緒に上昇します。そしてそれが、わずかながらであったとしても次の行動へのきっかけになることも多少はありますが、基本的には、条件付けから離れた自由な部分がグループソウルを形成します(少なくとも私の場合はそうです)。これは私の属しているグループソウルはそうですけど、おそらくは、カルマの条件付けの部分が大きいグループソウルもあるように思えます。
グループソウルでは集合意識が働きますので、グループソウルの意思に基づいて分霊が作り出されることもあります。その時は、今まで分霊が知見を集めたことに基づいて判断されたり、はたまた、世の中を見て必要だと思ったことがグループソウルの意図に基づいて分霊が作り出されます。
▪️解脱、あるいは、ヴェーダンタのモークシャ(自由)
個人的な解釈に基づきますと、死後に昇天してグループソウルに合流できることが解脱あるいはモークシャ(自由)に相当すると思います。これはそれらの流派の解釈ではなくて個人的な解釈です。天国に行くことが解脱と解釈する流派もあるとは思いますけど、天国は割と普通に行けますし、そこにいる人は割と生きている人間とそこまで意識で変わりませんので、解脱というと(グループソウルへの)昇天が相当するのが合っているように思えます。
▪️大きな潮流
これは各自の意識、意思というものが関わっている以上、そこには大きな潮流のようなものがあって、例えば、高次の意識を持った人が多く転生して良い文明を興したかと思えば、その後、高次の意識が地球に興味を失って、低次の部分を切り離して高次だけ自分の星(あるいは世界、次元)に帰ってしまい、低次の意識だけが残されて、低次の意識の世界に次第に遷移する、ということが起こっている、あるいは、起こる可能性を感じるのです。そうなると、最初は高次の意識が降りてきて文明を作ったとしても、次第に、「分離」が起きて、高次の部分は学び終えて昇天してグループソウルに戻る一方で、低次の意識は分離後に地球に残される、という現象が起きるわけです。
このような状態であっても新たな高次の意識が降りてくるわけですが、それは各自の自由意思に委ねられておりますので個別で見たら自由なわけですが、それでも、全体としての潮流はあるわけです。
今は、この地球上において、高次の意識もあれば、低次の意識が優勢になっている状態であると言えます。それは必ずしも悪いことではなくて、高次の意識にしても低次と結びつくことで学ぶことがありますし、今は低次の意識であったとしても、元はといえば高次の意識と一体だったけれども残置物のように低次の部分が残されている場合があるわけです。
▪️グループソウルとしての「人格」と宇宙人
グループソウル全体としても「大きな人格」のようなものを持っており、その中には魂のコアのようなものが無数にありますからそれぞれの意識があるのですけど、それを束ねるものとしての人格があります。ですから、それぞれのグループソウルごとに考え方や理解が違っていて、それぞれのグループソウルでそれぞれ異なった(大きな)人格を成しています。
これは集合意識ともまた違っていて、文字通り、本当にそういう「大きな魂」を持った存在がいて、それは必ずしも土地と結びついているわけではなく、一見すると普通の人のようにも見える霊人が、そのオーラの総量としてはとてつもなく大きい場合があって、時には普通の人の数千などの魂を束ねるグループソウル(相当)だったりします。それは、実のところ、オーラの総量と知見においてはとてつもない違いがあるものの、この世は「大きなものの形が、小さいものの形にも宿る、逆もまた同様」と昔から言われているように、グループソウルとしての(魂とも言える)霊人と、個別の分霊としての魂あるいは霊人もしくは肉体に宿った魂、とでは、(オーラの総量や知見での違いは大きくあるものの)、存在としての形としては同じなわけです。そのような、大きな魂を持った存在がこの宇宙にはいて、地球に関与している魂の場合は地球の軌道上に(宇宙服など不要で)普通に素のままで(霊人として)漂っているわけですけど、その分霊が地上に多く転生してきているわけです。
この世界には宇宙の「非干渉の法則」があって惑星の運命はその惑星の住民に委ねられていますけど、例外規定があって、その惑星の住民として転生する場合は禁止事項に当てはまりませんので、(宇宙人の)分霊による転生、ということが行われているわけです。その場合、基本はその惑星の住民としての意識がありますので、その上で、各グループソウル(というか宇宙人)の意図が反映されるわけです。宇宙人と言っても、長い間、ずっと地球に関与しているのですから、波動の法則により、その宇宙人の波動は割と地球の波動に近い人であり、そこまで手の届かない存在でもなく、単に「良き人たち」であると思えば良いと思います。宇宙人にもいろいろあって、基本が霊人の人と、物質があるけれども地球の軌道上では宇宙船が非物質化している場合とがあります。
宇宙の存在にはいろいろな形態があって、霊人でいてグループソウルと分霊、という形式を取っている人と、割と長い期間、ずっと同じ魂をなるべく保持し続けようという存在がいて、やり方にも違いがあります。私の属するのはグループソウルと分霊を頻繁に作る方ですけど、どうやらそうではない場合もあるようで、その、私と違うやり方をしている方についてはそこまでわかりません。単なる私の勘違いで実はそこまで違いがないのかもしれませんが、そこまで他のグループソウルについては詳しくはありません。あくまでも自分のグループソウルでの出来事についての知見になります。
▪️集合意識
集合意識というのはグループソウルとごっちゃにされることがありますけど別物で、人々の想念が増えて一定の方向にまとまった時、それが集合意識として固定化され、共通認識(コンセンサス)が作られます。その結果、それを感じ取った存在たちが、いわゆる「許可」を得た形になって、それが実現かする「可能性」が生まれるわけです。実際にはその後で、それを働きかけるデーヴァ(神々)たちの意識と思考、選択があるわけですけど、少なくとも集合意識で「許可」を出していないと現実は起こらない(ことが多い)わけです。もっと巨大な力を持った存在による意識が動くことがあって、その場合は集合意識での許可をも超えて(例えば大災害などが)起こるわけですけど、集合意識の場合はもう少し力が弱くて、あくまでも雰囲気における「許可」とコンセンサスなわけです。
ですから、時にスピリチュアル業界で聞こえる「集合意識によって未来を作る」というお話は、地上の人間の「許可」のお話なわけです。集合意識そのものが、そのまま直接的に未来を作るというほどの力はなくて、集合意識というのはあくまでも「許可」の部分であり、その許可が出ていれば、周囲の存在、より高次の存在、巨大な力を有した「管理者」がその許可に基づいて、仕事(働きかけ)がしやすくなる、という種類のものなわけです。
集合意識というのは魂の集合ではなくて、いわば思考の「抜け殻」としての想念の(結果の)集合体ですから、それ自体は高次の意識を持たないわけです。ですが、それでも集まればそれなりの力になって、基本は「許可」になりますが、時に、人々を煽ることで感情を昂らせ、集合意識そのものはそこまでの力は持たないものの、その集合意識に同調した(肉体を持った)人々が実際に「行動」を起こすことで物理的な面における変化をもたらすことはあります。例えばフランス革命がそうなわけですけど、集合意識そのものにはそこまでの力はなくても、この世界は「モノ」の影響がとても強い世界ですから、集合意識に基づいて(肉体を持った)人間が行動をすれば世の中が変わるということは(もちろん)あります。(これは割と普通のことだと思います)
そして、その集合意識はグループソウルではなくて、あくまでも想念形態としての集合であるわけです。
▪️システムとしての潮流
そして大切なのは、これはシステムとして動いている以上、人々の波動が全体の傾向として良くなるのも悪くなるのも、一旦動き出したらなかなか変えられないことであるわけです。戦争から悲しみや憎しみが作られてまた違う戦争が起こる、というサイクルはこのようなシステムを元にしてそれが起こりますから、地上に苦しみの念が蓄積されてしまうわけです。一方、良くなる方にしても一旦動き出したらどんどんと良くなる、というサイクルが起こります。一時的に波動が異なる人がすれ違うことがあれど、基本的には波動の法則により同じような波動の人同士が結びつきます。
そのような安定方向への動きに対して、分離の動きも起こります。スピリチュアルでは統合を善とみなして分離を悪とみなす風潮が一般的にはありますが、実のところ、どちらも高次元(神と言っても良い)の動きであり、創造・破壊・維持の働きの1つでしかなくて、そのようなスピリチュアルな観念を超えてシステムとして高次元(神)の仕組みが存在するわけです。ですから、統合する動きも高次元(神)の動きであり、分離にしても高次元(神)の動きであり、(一見すると善と悪があるように見えても)(高次元、神の観点からすると)全ては完璧なわけです。
▪️システムの中で賢く生きる
このような動きにおいて、システムを理解した上で、うまく波に乗れば良いわけです。何をしても完璧であるわけですから、誰がどのような選択をしようともそれは完璧なわけで、(良くない行動をしたらカルマとして戻ってくるだけですから)、調和に従った行動を取れば良いわけです。波動が良ければそれに相応な行動になりますし、盲目な人は相応な(そうだとしても神の意思に従った)行動になるわけです。分離や破壊など、一見すると神に反しているような行動であっても高次の次元からすれば学びであり、全ては完璧なわけです。そうは言いましても、自分がわかっていつつ不幸な人生を選ぶ必要はありませんので、幸せな人生を選べば良いわけです。
この世のシステムは自然の摂理のように安定方向に進みますから、その安定方向というのは(一見すると悪のように見える人であったとしても)調和の方向へと進みます。ですから、たとえ不調和に見えたとしても少しずつ調和に向かっているわけです。もともとそれなりに波動が高い人はもっと高みを目指します。悪に向かっているような人は盲目なだけで自分に正直なわけですが、神からすると悪の人生はそこまで価値はなかったりします。
▪️神が悪を操るというレアケース
稀に、悪であっても、他の目的のために動かされている場合があります。それはケースバイケースです。英雄を殺す愚者、みたいなケースは実はこういう場合が多々あります。英雄それ自体は神が降りたものであることがほとんどですが、神が寿命を終えて後は他の人に任せるような場合に、他の人を神が操って英雄を殺す、ということが行われます。例えばジャンヌダルクが裁判で死刑になったようなケースです。
はたまた、悪のように見える行為であったとしても、それは神が「知りたい」という希望を反映してのものであり、全ては学びであるところの悪の場合もあります。その場合、神が学び終えれば急にその悪は「理解」と共に解消します。当人にとっては「目が覚める」ということになりますけど、実際のところは、その場合、(稀ですが)神が意識を下ろしてその実験をさせられていることがあるわけです。ですから、当人は「なんて愚かなことをしていたのか」と後悔するかもしれませんけど、実際のところは、神が知りたかったので、そのような不思議な思考を実体験で行動として行うことで結果を顕現させていたわけです。それは個人の人にとっては愚かな行為であったとしても、神にとっては「知る」という目的によって行われたことなわけで、学び終えれば、それの愚かな行動を取らなくなります。人生や理解は無数に数多くありますから、それぞれの場合において次々に学びが行われているわけです。そいうう場合も稀にあります。この場合、神が理解した筈なのに何故にまた同じような過ちが各地で繰り返されるのか、というお話があります。その理由としては、地上の人間の大部分は神と切り離された人生を送っていて、神が理解しても地上の人はそれぞれの観念、自分の価値観で動いている故に、神が理解したところで、地上の人間の行動はなかなか変わらないからです。まずシステムとして盲目な感情の想念が地上に蓄積しており、それに接触するなどして囚われると同じような問題を引き起こす、という面があります。特に、地上の盲目な人間はそれに簡単に影響されます。
また一方、神様が理解したとしても、地上の人と関わりがあって意思を持つような神様は割と低次の神様ですので、神様であってもそこまで広範囲のワンネスでもなく、限られた範囲でのワンネスなわけです。範囲は限られていても、神様は神様です。ですから、その(限られた範囲の)神様はまた上位の集合の神様のようなもの(上位の階層、神様にとっての更に高次の神様)に対して理解を共有しなければその知識は共有されないのです。しかしやがて上位の階層として理解が浸透し、地域的、世代的なところで共通認識が起こり、次第に問題は解消されていきます。
▪️翻弄される大衆
このようなシステムの中で、多くの人が翻弄されて、波に飲まれて天国に行ったり地上を彷徨ったりしているのが現状です。そして、すぐに昇天できる人はそこまで多くないように思います。システムがわかったなら、少なくとも天国に行けて、できれば昇天できるような人生を送るのが幸せだと私は思います。どう思うかも各自の自由意志が尊重されますので各自好きにすれば良いのですが、システムを知ったら(少なくとも)天国、そして可能であれば昇天を目指すのだと(個人的には)思います。
▪️各種の心理的な問題を真面目に考えすぎる必要はない
ですから、自分が抱えている問題は多種多様な原因によって発生しますので、自身の心理的な問題を真面目に捉えすぎる必要はないわけです。どこかから拾ってきてしまった想念で苦しむ場合もありますので。
▪️人口削減、みたいなお話とはあまり関係ない
昨今で陰謀論の界隈で噂されているこの種のお話とはほとんど関係がありません。大抵の場合は人間の側のエゴのお話ですから、輪廻のサイクルとは無関係です。ごく稀に、上記のように物質に近いところだけを大洪水などで一旦洗い流す、と言うことがこの世界では何回か行われてきましたけどそれは魂の削除でもなくて人口削減でもなくて、単純に、一旦、粗大な物質の部分だけリセットして文明をやり直す、というだけのお話です。中間的な部分(天国に行ける霊、魂)や更に高次のグループソウルはそのまま引き継がれて、大災害の影響を受けません。大災害の影響を受けるのは物質的な文明だけです。ですから、昨今、世間で騒がれている人口削減の陰謀論と輪廻転生のサイクルとは関係がないのです。
▪️人間は、魂の器
ですから、受精卵ができて胎児になった後に魂がお腹の中に入ってくるという、それ自体が、肉体は器であることを示しているわけです。生まれる時に宿った魂が基本となるわけですが、特に高次の部分は肉体から部分的に離れることがあります。離れる、という現象は世間でも(特に沖縄で)マブイを落とす、などと言ったりしますし、本州でも場所に限らず似たようなことは起こります。そして、魂(のかけら)が体に戻ってくる、ということもあります。
魂の一部でも体から離れると、意識が朦朧とした状態になります。そして、魂が一部でも戻ってくると、意識がはっきりしてきます。意識とは肉体に宿っているのではなく魂の機能の一部でありますから、魂(そしてオーラ)が少なくなると相応にメンタルは弱くなりますし、多くなると強くなります。
特にショックなことがあったり、耐えられない環境にいたりすると、ショックであれば突発的、あるいは、メンタルで耐えられない状況においては心が壊れて、高次の部分が体から(部分的にでも)体から離れてしまいます。それはある種、浮遊霊あるいは生き霊のようになって、本来は体の中に留まっているべき魂が体から離れてしまうわけです。完全に離れてしまうと肉体が死に至ったり、あるいは、機械的反応をするだけの痴呆のような状態になってしまいます。
この時、魂の視点からすると、幽体離脱したかのような状態になって、そこまで重症ではない場合は魂の方が肉体に戻ろうと思えば戻れる状態であることがほとんどです。しかし、あまりにも分離が激しくて波動が合わなくなってしまった場合、(あるいは、レアケースですが、魂が留守にしている場合に低級霊が入ってしまったりすると、)戻ろうとしても弾かれるような状況になってしまいます。
精神的な修行をする場合、特に最初は肉体および思考するマインドの側から働きかけをするのですが、それは、肉体側の視点から見た場合、「高次の意識が入ってきやすくする」、という効果があるわけです。肉体はどこまで行っても器でしかなくて、高次の意識がどれだけ入ってくるか、沢山入ることができるまでに純化できるかどうか、というところがポイントで、入ってくる、ということの他に、(いくらスピリチュアルに優れた人であっても)肉体から高次の意識が「抜ける」ということはいくらでも起こって、それは文字通り「一瞬」で起こることもあります。
高次の意識が抜ける時、それは往々にして、肉体の側のマインドがエゴという誤った感覚によって自尊心が高まった時に起こって、高次の意識からするとそのような個人のエゴは煩わしいものでしかなくて、エゴがあればあるほど高次の意識がマインドに届きにくくなるわけですから、ある程度までは辛抱強く意識を高次からマインドへと働きかけますけど、ある程度スピリチュアルがわかった人は特に相応にエゴが強くなるということがありますから、高次の意識が離れることで肉体は器でしかなくて、マインドにしても割と低次の働きであることを自覚させるわけです。高次の意識が抜けた瞬間、意識は重くなり、悲しくなり、人生に暗雲が立ち込めます。思考する(低次の)マインドは、「自分は肉体のちっぽけな存在だ」ということを意識して、器は器でしかないことを自覚するわけです。そして、器としての肉体および思考するマインドが「自分が優れている」というエゴという錯覚を捨てて、考えを改めて、高次の意識の意図を汲み取って人生に反映させます、と謙虚になると、また、高次の意識が戻ってきてくれることがほとんどです。
スピリチュアルでは、最初はハイヤーセルフ(あるいはアートマン)が自分の周囲に漂っている、というような言い方をすることがありますが、これは、自分の魂が体の中に収まっていなくて、分離している状態が割と今の人間では普通だからです。それを、自分の体と融合させて、体の中に収める、という段階を踏むことで(低次の)思考するマインドと、高次の意識とが融合します。もともと一つではあるのですけど、分離していて、それを融合する過程がスピリチュアルなわけです。
この融合は肉体が魂の器であるから起こるわけですけど、この種の「融合」はいろいろなスピリチュアルや精神的な流派で言われていて、ヨーガであれば「ダルマ・メガ・サマーディ」ですし、真言宗ですと大日如来との一体化がおそらくそれに相当するでしょうし、スピリチュアルな流派ではハイヤーセルフとロウアーセルフ(思考するマインド、低次であるエゴ)融合、みたいに言われていて、表現は違えども共通項があります。
輪廻転生の視点から言えば、高次の意識というのは肉体が形になる前から存在して、肉体の死を迎えた後も存在し続けるものです。しかし、肉体に近い想念体系としての「残りかす」「抜け殻」のような中間的なものは肉体が焼却炉で燃やされて灰になっても微細なものとしてしばらくは残って、数十年とかあるいはもっと漂うこともありますが、基本的には時間が経つにつれて力を失って消滅していきます。
ですから器としての肉体は死を迎えるとなくなるわけですけど、中間的な想念体系である「抜け型」のような意識、一般的に幽霊とか浮遊霊とか言われているものがそれに相当する場合もありますけど、それよりも、もっと機械的と言いますか、雲のような、単なる、モヤモヤっとしたものが「抜け殻」であるわけです。
そして、高次の意識がその抜け殻に伴っていることはほとんどないにしても、中間的な意識が残っている場合があって、その場合は、幽霊や浮遊霊っぽくなります。まだ意識が明確でなくて、意識があるけれども天国に行けるほど意識が純化されていない場合、浮遊霊のような感じになって地上を彷徨います。死後に、特に自殺をした場合に最後の動きを無限に再生する場合もこれですね。ですが、基本的には時間が経つとエネルギーを失って風化しますので、あまり気にする必要はなかったりします。
そのように、一見すると未浄化霊のように見えることであったとしても、大抵の場合は単なる「抜け殻」であって、機械的な動きをしているだけあり、高次の意識はそこから抜け出て天国に行ったり(稀にそのまま昇天する場合もなくもなくて)、どちらにせよ、そのような「抜け殻」に高次の意識は残っていないことがほとんどです。未浄化霊の場合は中間的な意識にしても大半が抜け出ていて、ほんの少しの中間的な意識が「重さに引きづられて一部が残ってしまった」というくらいのものであることが多く、機械的な動きをしている霊がいたとしても、大した価値がなかったりします。それは文字通り、中間的な意識や高次の意識が既に抜け出てしまった「抜け殻」(と、ほんの少しの、引きづられるようにしてこびりついている若干の中間的な意識)でしかないわけですから、そこに意義を見出す必要はあまりないわけです。
生きている間に頑張ってもらった肉体は死後に償却されてなくなりますけど、今まで長い間生きてきた間に貯めた想念体系としての「抜け殻」はそれなりに強いエネルギーを持っていることがあって、それが地上に「機械的な動き」として、いわゆる「念」のような形で残され、数十年、数百年単位で地上の人間に影響を及ぼすことがあります。
ですが、それはそのまま(天国に行ける程度の)中間的な意識というわけでもなく、ましてや、昇天できるほどの高次の意識というわけでもなく、あくまでも想念の抜け殻が地上に残っているだけですので、そこまでの深い意味を見出す必要はないわけです。そのように、実態としてはそうであっても地上の人間に長い期間、影響を及ぼすことがありますので、必要でしたら対処した方が良いわけです。
この種の、地上に残ってしまった「抜け殻」としての念は、魂の輪廻転生のサイクルの本筋とはあまり関係がありませんけど、それでも、昔に生きた人の念としてのエネルギーが次の世代の人間に影響を及ぼすことがあるわけです。これは魂としての輪廻転生サイクルではないにせよ、肉体に近いオーラの影響として、ほんの僅かではありますが、長い時間をかけて少しずつ他の人に同じエネルギーが転写されることになり、そういう影響があるのであれば、一応、輪廻転生のマイナーなサイクルの1つとして数えても良いのではないかと思います。
▪️小さいもの、大きなもの
小さいものの形と、大きなものの形や構造が似ている、ということは自然界においてよくあることです。魂の構造も、それに似た階層構造をしています。
生きている人間が魂を持つとして、それが属するグループソウルがあります。グループソウルは生きている人(分霊)の集合体でもあり、分霊は一時的に分離はしていますが、基本的に自分が属するグループソウルに戻る運命にあります。そうではない場合もありますが、基本的にはそうする意図を持つのが普通です。
このグループソウルは、生きている人間からしたらグループソウルのようにも見えますし、解釈によってはハイヤーセルフと言うこともできますけど、ハイヤーセルフというのは個人の魂の高次元の部分を意味するのが基本ですので、確かに自分自身の戻るところという意味においてはハイヤーセルフというのもそこまで間違いでもないのですけど、そこは誤解があるところですからグループソウルと言った方がわかりが良いように思います。
そのグループソウルは文字通り集合体なわけですけど、そのグループソウルそれ自体で1つの大きな人格(文字通り)をなしています。必ずしも霊体として大きいわけではないのですが、凝縮度、密度が違っていて、同じような霊体に見えたとしても、数多くのミクロコスモスのような意識が数多く詰まっているのがグループソウルとしての特徴です。実際のところ、見た目としての大きさは霊体としては変えることができますので見た目の大きさはあまり関係がなくて、見た目よりも、そこに詰まっている魂の量や密度が重要になってくるわけです。そのように、凝縮された形でのグループソウルがいて、それは個人の分霊からしたらグループソウルですけど、それは1人でもあるわけです。
そのグループソウル相当が1つの意識、一つの魂でもあって、それが、(必ずしも巨大とは限りませんが)1人の霊人として、(もちろん、宇宙人でもある)存在しているわけです。
そのように、高次の意識の集合体としてのグループソウルがあって、それもまた実は1人の人格であるわけです。
それが1人の人格であるとするならば、更に高次元というものもあって、地域的な神様(のような)意識、というのが空間に満ちています。それはおそらくは更には何階層にもなっているのでしょうけど、私が認知できるのはここまでですので、ひとまず、そのような認識で話を進めます。
・(空間を司る)神
創造神と言っても良い。
人格はないように認知されるが実はあるのかもしれない、そこは窺い知れないところ。
未知の領域ではあるが、空間そのものを司る、宇宙を司る神としての存在、意識もうっすらと感じる。創造・維持・破壊、の3つの動きの統合
・(地域的、分野など、限定された)神(=グループソウル、人格神)
(上記の)創造神の分け御魂、創造神の分霊。
(創造神と同様に)創造・維持・破壊、の3つの動きが、限定された範囲において働く。
・分霊 (=私のハイヤーセルフ、スピリット)
(上記)グループソウルから分かれた1つの分霊(が私のハイヤーセルフ)
(ヴェーダンタにおける)アートマン相当(真我)
(創造神やグループソウルと同様に)創造・維持・破壊、の3つの動きが、ごく限られた範囲において働く。
・顕在意識(思考するマインド、錯覚された自分という意識(=エゴ))
ハイヤーセルフとは分断された(と錯覚している)自分(という意識)
(ヴェーダンタにおける)ジーヴァ(錯覚した自分)
(創造神、グループソウル、ハイヤーセルフと同様に)自分のごくごく限られた範囲において創造・維持・破壊の3つの動きが働く。
思考の波、思念派、想念を発する。時に残留思念を作り出す。
このような階層において、それぞれ、顕在意識がかくあるように、高次の意識もあって、それぞれ、階層ごとに認知できる範囲において判断を下しつつ、人生を生きているわけです。
そして、下層の部分はサイクルが早いですけど高次になればなるほど長くなって、高次の側は次元を超えて多種多様な人生を選択しています。
ですから、高次の視点からすると輪廻転生はない、という表現も一応は可能なわけですが、どこかで区切った場合、それ以下の階層で輪廻している、という視点はあるわけです。
▪️個人としての立ち位置
このように概観を眺めてみると、世の中で理解されている輪廻転生もそこまで正しいわけではないものの、ある程度の現実を表現しているとも言えて、一方で、輪廻転生はないとしている流派が言っていることも、それはそれで、多少の真理を描き出しているように思うのです。実際のところ、輪廻転生のようなものはもっと細かいお話で、(自覚しているかどうかはともあれ)他者と触れ合う時にすらわずかの前世の交換は起きているわけです。
このような小さなサイクルがある一方、大きなところで、大元となる魂の輪廻、というところに軸を置いても良いのかなと思います。基本はグループソウルにあって、望めば自分ではないグループソウルと融合することもできますけど基本は元々自分が分離した大元である、縁のあるグループソウルと融合するのが基本になります。そして、グループソウルから分霊が作られるわけです。グループソウルそれ自体も「意識」をグループ全体として持っていて、個々に意識はありますので1つの意識ではなくてごちゃ混ぜの意識ではありますけど、それでも、全体としての「大きな意識」がそれら個別の意識を統合しているわけです。そして分霊になる時は1つのコアのようなものが中心になって周囲のオーラを集めて分霊になるわけですが、時に、小さなコアをいくつか束ねて生まれることもあり、この場合、精神分裂病のようにも見える複数人格を持ったりしますが、時間が経つにつれて1つのコアに統合されてゆくのが普通です。そのコアがいわゆる人格でもあって、基本はグループソウルのほとんどが割と同じような性格になりますけど、一応、転生するとなるとそのコアが基本になるわけです。
このような、グループソウルとしての輪廻、分霊、そして死後の分裂というサイクル、そして神の意思の観点とで理解すれば輪廻転生の全体像も見えてくるかと思います。
人生の目的を果たすことで輪廻転生のループを抜ける
世間には、輪廻転生のループを抜けて自由になることを説く流派が多数あるように思われます。その方法として色々ありますけど、一番良いのは、人生の元々の目的を果たすことです。グループソウルから分霊が作られる時、必ずそこには目的があります。目的と言っても大したことのないものから崇高なものまでいろいろですが、とにかく、何某かの目的があるわけです。そして、その目的を果たして満足すれば昇天できます。
実は、本来、そのくらい人生は簡単なものなのです。
理想的には、分霊が1回の人生で目的を全うすればそのまま昇天し、「やり直し」という意味における小さな単位の輪廻転生は発生しません。一方、その目的を見失ったり他者からの操作や強制あるいは価値観の押し付けなどで目的を見失うと目的を果たすことができなくて(グループソウルに戻る代わりに)もう一度やり直し、となって輪廻転生が(小さな単位で)ループします。
目的を果たした後、昇天してグループソウルに戻ることでグループソウルに新たな叡智が備わります。それがグループソウルとしての成長なわけです。そのためにグループソウルは活動しているわけです。単なる知識だけであれば見聞きするだけで一応は知ることはできますが、実際に体験することでそのことの本当の意味を深く知ることができます。そのようにして、グループソウルは知識だけでなく実際的な知恵をつけて成長してゆくわけです。
実は、本来、そのくらい人生は簡単なものなのです。
理想的には、分霊が1回の人生で目的を全うすればそのまま昇天し、「やり直し」という意味における小さな単位の輪廻転生は発生しません。一方、その目的を見失ったり他者からの操作や強制あるいは価値観の押し付けなどで目的を見失うと目的を果たすことができなくて(グループソウルに戻る代わりに)もう一度やり直し、となって輪廻転生が(小さな単位で)ループします。
目的を果たした後、昇天してグループソウルに戻ることでグループソウルに新たな叡智が備わります。それがグループソウルとしての成長なわけです。そのためにグループソウルは活動しているわけです。単なる知識だけであれば見聞きするだけで一応は知ることはできますが、実際に体験することでそのことの本当の意味を深く知ることができます。そのようにして、グループソウルは知識だけでなく実際的な知恵をつけて成長してゆくわけです。
人生の目的にとって、オーラの良し悪しは些細なこと
人生の目的は色々でありますから、結局、その目的を果たせば良いのです。よくある誤解として、波動を高めると良いのかどうか、というお話があります。確かに波動の良さは基礎にはなりますし、波動が悪いのであれば高める努力をすれば良いですけど、実のところコーザル(カーラナ、原因)というカルマの種としての観点からいうと、波動の良し悪しやオーラの良し悪しはほとんど関係ありません。波動を高めることそれ自体が目的の転生という場合もありますけど、実際には、もっと具体的な現実に即したことが目的になっている場合がほとんどです。
例えば、何らかのミッション(使命)をこなすときに波動が多少汚れたとしても使命を優先します。オーラが汚れるから使命を果たしたくありません、などというのは使命に背いているとも言えるのです。
ですから、昨今のスピリチュアルで「波動を良くしましょう」みたいなお話は、基礎の基礎のお話であるわけで、使命とは関係なく、むしろ、大変な使命を帯びている人はオーラが汚れている場合が多いように思います。実のところ、使命の遂行が優先であるならば多少オーラが汚れてもそれは許容されます。
何故、このようなことを言うと、昨今、オーラが汚れることを毛嫌いして困難なミッションを避けるライトワーカーが大勢いるように思うからです。例えば、西洋の邪悪なオーラを持っている人たちの懐に飛び込んで闇を光に変えていくミッション(使命)を与えられているのにも関わらず遠くから批判するばかりで、自分たちは(自分あるいは身近な人、はたまた依頼者の)オーラを綺麗にすることにばかり夢中でミッションを果たさない、みたいな場合も多いように思うのです。これは、もしその人が元々そのようなミッションを持って生まれたのだとしたら怠慢であるわけです。とは言いましても、多くの方はそのようなミッションを持っていませんので、持っていないのであればあまり気にすることはありません。各自の、自分が持っているミッション(使命)を果たすのが基本であるからです。
オーラの状態が悪いと良くない、なんて思うのは、本当に地球的な価値観だと思います。確かに、宇宙にいる人たちは波動が良いのはそうでありますけど、そういうのは分相応ですし、波動が荒々しかったり禍々しいことで良し悪しなんてありません。地球の荒々しい人と接していたらオーラもそれに合わせる必要があります。使命を持っているならば、尚更そうです。自分たちがどのようなオーラなのかということ以前に、相手に合わせているわけです。地球の人にとっては自分のオーラを浄化することが関心ごとかもしれませんけど、宇宙的な人からすれば、地球の波動に合わせているだけです。そうしなければ、お互いに、お互いを認知できなくて目の前にいても気付かれなかったりしますから、地球の階層まで降りてきているときに波動が悪いように思えたとしても、それで判断しないことです。肉体に近い部分は意図的な作り物のオーラのようなものである場合も多々あります。そもそも、波動というのは肉体に近い部分を感知しているだけで、奥深いところがどうなっているかなどは、ほとんどの人は他人のことはわかりません。他人のことをオーラで判断するのは、それが正しいことも多々あるとしても、それを判断基準にしすぎないことです。地球でスピリチュアルをしている人はオーラの良し悪しが関心ごとのような気がしますけど、実のところ本当に使命を持っている人はその使命が第一で、オーラのことは割と無頓着なことが多いです。この種の、オーラで判断、みたいなお話は過去からの経緯もあって誤解があって、ミスリードしている人が過去そして現在にも多くいるように思うのです。おそらく、そうしてオーラで判断したりオーラを良くすることをうたうことで商売になるからだと思います。実際、使命を持っている人にとってオーラはそこまで重要なお話ではありません。宇宙人の魂が地球に降りてきたら汚れてオーラが真っ黒になります。そのオーラの汚れは、普通のそこらの地球人より遙かに汚れます。と言いますのも、宇宙の人は基本的にワンネスですので地球人の黒いオーラをも受け入れてしまうからです。そして、地球人だけがオーラを基準に考えていて、本質を見落とすことが多いように思います。
ただ、大勢の人にとっての人生はミッション(使命)と言うほどの大層なお話はなくて、ただ単に、(地球の)人生に興味があったからとか、些細なことがカルマの種としてあって、それが発芽することで、その些細な目的のために転生していることがほとんどです。ですから、自分の目的がそうであれば、その目的に即して(それが他人に迷惑をかけないものであれば)自由にそのやりたいことを謳歌すれば良いわけです。
そして、人生の目的を果たすためにオーラの浄化が必要なのであれば、それは必要に応じて行えば良いと思います。ですけど、オーラの色や何やらで判断するのは、時には参考にはなりますけど、本質ではなかったりするわけです。
使命を持つと、困難な人生になってオーラも汚れます。それを避けているような人に使命は与えられないように思うのです。
例えば、何らかのミッション(使命)をこなすときに波動が多少汚れたとしても使命を優先します。オーラが汚れるから使命を果たしたくありません、などというのは使命に背いているとも言えるのです。
ですから、昨今のスピリチュアルで「波動を良くしましょう」みたいなお話は、基礎の基礎のお話であるわけで、使命とは関係なく、むしろ、大変な使命を帯びている人はオーラが汚れている場合が多いように思います。実のところ、使命の遂行が優先であるならば多少オーラが汚れてもそれは許容されます。
何故、このようなことを言うと、昨今、オーラが汚れることを毛嫌いして困難なミッションを避けるライトワーカーが大勢いるように思うからです。例えば、西洋の邪悪なオーラを持っている人たちの懐に飛び込んで闇を光に変えていくミッション(使命)を与えられているのにも関わらず遠くから批判するばかりで、自分たちは(自分あるいは身近な人、はたまた依頼者の)オーラを綺麗にすることにばかり夢中でミッションを果たさない、みたいな場合も多いように思うのです。これは、もしその人が元々そのようなミッションを持って生まれたのだとしたら怠慢であるわけです。とは言いましても、多くの方はそのようなミッションを持っていませんので、持っていないのであればあまり気にすることはありません。各自の、自分が持っているミッション(使命)を果たすのが基本であるからです。
オーラの状態が悪いと良くない、なんて思うのは、本当に地球的な価値観だと思います。確かに、宇宙にいる人たちは波動が良いのはそうでありますけど、そういうのは分相応ですし、波動が荒々しかったり禍々しいことで良し悪しなんてありません。地球の荒々しい人と接していたらオーラもそれに合わせる必要があります。使命を持っているならば、尚更そうです。自分たちがどのようなオーラなのかということ以前に、相手に合わせているわけです。地球の人にとっては自分のオーラを浄化することが関心ごとかもしれませんけど、宇宙的な人からすれば、地球の波動に合わせているだけです。そうしなければ、お互いに、お互いを認知できなくて目の前にいても気付かれなかったりしますから、地球の階層まで降りてきているときに波動が悪いように思えたとしても、それで判断しないことです。肉体に近い部分は意図的な作り物のオーラのようなものである場合も多々あります。そもそも、波動というのは肉体に近い部分を感知しているだけで、奥深いところがどうなっているかなどは、ほとんどの人は他人のことはわかりません。他人のことをオーラで判断するのは、それが正しいことも多々あるとしても、それを判断基準にしすぎないことです。地球でスピリチュアルをしている人はオーラの良し悪しが関心ごとのような気がしますけど、実のところ本当に使命を持っている人はその使命が第一で、オーラのことは割と無頓着なことが多いです。この種の、オーラで判断、みたいなお話は過去からの経緯もあって誤解があって、ミスリードしている人が過去そして現在にも多くいるように思うのです。おそらく、そうしてオーラで判断したりオーラを良くすることをうたうことで商売になるからだと思います。実際、使命を持っている人にとってオーラはそこまで重要なお話ではありません。宇宙人の魂が地球に降りてきたら汚れてオーラが真っ黒になります。そのオーラの汚れは、普通のそこらの地球人より遙かに汚れます。と言いますのも、宇宙の人は基本的にワンネスですので地球人の黒いオーラをも受け入れてしまうからです。そして、地球人だけがオーラを基準に考えていて、本質を見落とすことが多いように思います。
ただ、大勢の人にとっての人生はミッション(使命)と言うほどの大層なお話はなくて、ただ単に、(地球の)人生に興味があったからとか、些細なことがカルマの種としてあって、それが発芽することで、その些細な目的のために転生していることがほとんどです。ですから、自分の目的がそうであれば、その目的に即して(それが他人に迷惑をかけないものであれば)自由にそのやりたいことを謳歌すれば良いわけです。
そして、人生の目的を果たすためにオーラの浄化が必要なのであれば、それは必要に応じて行えば良いと思います。ですけど、オーラの色や何やらで判断するのは、時には参考にはなりますけど、本質ではなかったりするわけです。
使命を持つと、困難な人生になってオーラも汚れます。それを避けているような人に使命は与えられないように思うのです。
輪廻転生を繰り返すことで愛を知る
人生に満足すれば死後に昇天してグループソウルの元にその知識と見識を持ち帰ることになり、知識を得てひとつ利口になったグループソウルは喜びます。これが大きな輪廻転生としてのループのサイクルになるわけです。
最初はほんの些細なことであっても、人は、幸せや愛というものに必ず引かれます。最初は個人的なことや欲望が目的であったとしても、そうしてサイクルを繰り返すことにより、やがては目的は次第に他人や団体、利他的な愛へと移っていきます。そして奉仕の気持ちが少しずつ芽生えてきます。それは必ずそうなります。最初は愚かであっても、やがて少しずつ叡智を身につけていきます。そうして、グループソウルが成長していきます。それが輪廻転生の意義であるわけです。
最初はほんの些細なことであっても、人は、幸せや愛というものに必ず引かれます。最初は個人的なことや欲望が目的であったとしても、そうしてサイクルを繰り返すことにより、やがては目的は次第に他人や団体、利他的な愛へと移っていきます。そして奉仕の気持ちが少しずつ芽生えてきます。それは必ずそうなります。最初は愚かであっても、やがて少しずつ叡智を身につけていきます。そうして、グループソウルが成長していきます。それが輪廻転生の意義であるわけです。
人々が悟っていないのは学びのため
悟っていると人生ゲームのルールまでもが透けて見えて学びの中に没頭できません。物事の本質が分からなくて、映画やゲームを見ているかのように俯瞰的なものになります。
時に人は悟りたいと願って、人生を映画やゲームのように客観的に眺めたい、平常心でいたい、みたいなことを言いますけど、実のところ、悟っていないというのはとても幸せな状態でもあるわけです。気が付いていないだけで。
悟りの状態を隠されてまるでこの人生が全てで抗いようがなくてちっぽけな人間でしかないと錯覚している状態であればこそ愚かなことも「仕方なし」にすることができて、人生ゲームのコマとして動くことができるわけです。
実のところ、この世界はそのように悟りを捨てて制限された世界で自分の興味のあることを追求するために作られたとも言えます。
ですから、基本ルールとしては「悟りを捨てて私は生きます」というのがコンセンサスなわけですけど、時々ずるい人がいて、「実は悟ってますけどそれは秘密だからね。みんなは私の奴隷になってね」みたいな人がいたりして、ゲームを混乱させていたりします。
それを置いておけば、基本的には悟りを捨てるのがルールなわけです。割と紳士のルールのようなものでそれを破ったからと言って罰則はありませんけど、宇宙には基本ルールがあって、惑星の生命の意思を尊重して外からは介入しない、ということになっていますので地球のルールは尊重されています。
ですけど、地球で作ったルールですから、地球の人々の意思の力によってルールの書き換えも可能なわけです。もうこの古いルールは飽きました! というのであればルールを変更すればいいだけです。それは意思の力によって可能なわけです。
悟っている人が多い世界では不可能な学びをこの地球上で行うことができていたわけです。それは割と他の遠い惑星においても不可能だったりするわけです。
誤解があるといけませんので補足しておきますと、このような「一時的に悟りを捨てるゲーム」をしているのは一部の系統の人たちだけです。地球には色々な魂の系統があって、その一部が今の地球の意識の状態に合わせてこのようなゲームに参加しています。
ですから、そもそも悟っていない魂はこのゲームとは無関係です。
もともと悟っていて、悟りを一時的に捨てることで学ぶことがあると判断した魂がこの茶番のゲームに参加しているわけですね。周囲から眺めている宇宙人は茶番を見て面白がっていると思いますけど、まあ、それがそもそもの目的なわけですから、茶番に参加すると決めたわけですから茶番を演じきればいいだけのお話なわけです。
あと、一旦初めたら途中でリセットできないようになっているのは、そうしなければズルをしてチートしてパラメータを自分でいじって簡単ゲームにしてしまうからなんですよね。ゲームであることを一旦忘れないと本気でゲームをプレイできないので一旦ゲームであることを忘れることにしたわけです。ですからこの世界は厳しいですけど、まあ、それも全ても自分が選んで生まれてきたことで、途中で辞められないというのも自分でわかってそのような制限がかかっているわけです。
時に人は悟りたいと願って、人生を映画やゲームのように客観的に眺めたい、平常心でいたい、みたいなことを言いますけど、実のところ、悟っていないというのはとても幸せな状態でもあるわけです。気が付いていないだけで。
悟りの状態を隠されてまるでこの人生が全てで抗いようがなくてちっぽけな人間でしかないと錯覚している状態であればこそ愚かなことも「仕方なし」にすることができて、人生ゲームのコマとして動くことができるわけです。
実のところ、この世界はそのように悟りを捨てて制限された世界で自分の興味のあることを追求するために作られたとも言えます。
ですから、基本ルールとしては「悟りを捨てて私は生きます」というのがコンセンサスなわけですけど、時々ずるい人がいて、「実は悟ってますけどそれは秘密だからね。みんなは私の奴隷になってね」みたいな人がいたりして、ゲームを混乱させていたりします。
それを置いておけば、基本的には悟りを捨てるのがルールなわけです。割と紳士のルールのようなものでそれを破ったからと言って罰則はありませんけど、宇宙には基本ルールがあって、惑星の生命の意思を尊重して外からは介入しない、ということになっていますので地球のルールは尊重されています。
ですけど、地球で作ったルールですから、地球の人々の意思の力によってルールの書き換えも可能なわけです。もうこの古いルールは飽きました! というのであればルールを変更すればいいだけです。それは意思の力によって可能なわけです。
悟っている人が多い世界では不可能な学びをこの地球上で行うことができていたわけです。それは割と他の遠い惑星においても不可能だったりするわけです。
誤解があるといけませんので補足しておきますと、このような「一時的に悟りを捨てるゲーム」をしているのは一部の系統の人たちだけです。地球には色々な魂の系統があって、その一部が今の地球の意識の状態に合わせてこのようなゲームに参加しています。
ですから、そもそも悟っていない魂はこのゲームとは無関係です。
もともと悟っていて、悟りを一時的に捨てることで学ぶことがあると判断した魂がこの茶番のゲームに参加しているわけですね。周囲から眺めている宇宙人は茶番を見て面白がっていると思いますけど、まあ、それがそもそもの目的なわけですから、茶番に参加すると決めたわけですから茶番を演じきればいいだけのお話なわけです。
あと、一旦初めたら途中でリセットできないようになっているのは、そうしなければズルをしてチートしてパラメータを自分でいじって簡単ゲームにしてしまうからなんですよね。ゲームであることを一旦忘れないと本気でゲームをプレイできないので一旦ゲームであることを忘れることにしたわけです。ですからこの世界は厳しいですけど、まあ、それも全ても自分が選んで生まれてきたことで、途中で辞められないというのも自分でわかってそのような制限がかかっているわけです。
命の重さと輪廻転生
それなりに重いのは確かですけど、死んでも消滅するわけではなく、魂的には別にどうってことはありません。
ただ、死んで再度生まれ変わると子供になってその時代の学習をやり直さなくてはならないのでちょっとめんどくさい、という面はあります。
ですから、死んだところで大したことないといえばそうなのですが、色々と生まれる前の準備をしたり子供時代に学習をして大人になって、さあ、やりたいことをするぞ、となってから早々に死んでしまうと「おいおい。まだやりたいことをやっていないのに続きをやるためにはまたあの子供の頃の不自由な学習期間をしなくちゃならないのか」という、ちょっとした徒労感とめんどくさいなと思う気持ちが出てきます。
ですから、まあ、やりたいことができているのならば死なない方がいいと思います。一旦死ぬと同じ魂がそのまま生まれるとは限りませんからね。というのも、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので、後者であれば「わたし」という個は、厳密に言えばもう二度とないからなんですよね。後者であってもコアな部分があって、大体の雰囲気は似ますけど、それでも、全く同じではないですね。前者であれば同じと言えば同じですけど生まれる時代や環境や家族によって大きく性質が影響されますから、大人になった時の安定した感じとは違って、子供時代を通り抜けるというのは多少ながらリスクがあります。
前世でやり残したことをやりたいと思っても必ずしもその意思の通り続きができるわけではないのですね。
であれば、わざわざ死ぬという選択をしなくても、今の人生でやりたいことをできるかぎりした方がいいわけです。
人生、本当に詰んでしまった場合は死んでやり直した方がいいという場合もあるのかもしれませんけど、その時にメンタルで病んでいる場合は死ぬのは危険で、欲望や雑念が多いまま死ぬと彷徨う浮遊霊になってしまいます。
純粋に雑念なく悔恨なく安らかに死ぬことができるのであれば死んでやり直す、という手も一応は理屈としては可能なのですが、悩んで自殺なんかすると浮遊霊になるのがおちだと思いますので自殺はしない方がいいと思います。それに、その人生に関わった人たちに徒労感を与えることもありますし。ただ、こればかりは時と場合によりますので、なんともいえない面がありますが、割とそういう場合が多いように思います。ですから基本的には自殺はいけないと思いますけど、例外的に死んでやりなおす、という場合もあります。
死んでやり直す場合は、自殺ではなく高次の自分がそう判断して事故とか病気で死ぬことになりますから、死ぬという選択肢は自分ではしなくていいと思います。
顕在意識でそう判断する場合も一応あるにはあるのですが、それは大体の場合は宇宙人が「もう終了」と思ってそう判断する場合がほとんどのような気がして、ここでほとんどと言っているのは、自分の顕在意識で死を判断するという場合自体がそもそもレアケースで、そのレアケースのうちほとんどは宇宙人の場合、ということで、レアケースの中の更にレアケースというのはほとんどありませんので、まあ、自分で死を判断するなんてのは普通の人にとってはないと思った方がいいと思います。
地球人の場合、あるいは宇宙人であっても割と殆どの場合は高次の自分が判断してそれが三次元に降りてくる感じですから、自分で判断する必要はないと思います。
と、いうことで、死ぬという選択をする場合でも顕在意識で判断する必要はないということですね。それは基本的には高次の自分が判断してくれます。
生きているのならばそれは生きられるということです。
ですから、気持ちが落ち込んで自ら選んで死んでしまうのであれば地縛霊とか浮遊霊、あるいは悪霊さんになるということです。まあ、ご愁傷さまと言うしかないですね。ぼおおおおっと、ふらふらっ、と、この世をさまよい歩くようになっちゃうわけですね。怖い怖い。怖いと言うよりは怪談のように「冷たい」って感じですね。寒気がする霊になっちゃいます。
ですから、命というのは基本的には重くて1つしかないですよ、というのはある意味当たっていて、本当に自分そのもの、変わらない自分、というのは今回の人生あるいはグループソウルに戻らずにまた転生する場合だけ継続するもので、グループソウルにまで戻ってしまったら個というものは一旦は消え去るわけですね。個というのはこの世では一時的にはきちんと存在していて、ですけど、それはグループソウルに戻ればまた繋がるわけですよね。
死んだ後に消滅してしまってなくなってしまうわけではありませんけど、グループソウルに合流すればある意味なくなるというのは正しいお話ではあります。死んでグループソウルに合流すれば「あなた」という存在はなくなってしまいますからね。ですから、死んだら無になる、というお話は、完全な消滅ではなくて存続するという点は違いますけど「個」がなくなる、ということであれば正しいです。
そのようにグループソウルから分離して生まれた魂というのはエネルギーを持っていて、それなりに尊重されるわけです。ですから、魂の、命の重さというのはあるにはある。ですけど、それは天命と言い換えてもいいですけどグループソウルの時点で与えられた使命あるいは平たくいえば「やりたいこと」があって、その「やりたいこと」があるのであれば基本的には命は継続になるわけですね。それがそのまま命の重さになるわけで。
やりたいことが達成されれば早々に病気や事故になって死ぬこともあるでしょうし、あるいは、残りの人生は緩やかに生きて人生を楽しむかもしれません。それもまた、その魂の選択ですから、どちらがいいとか悪いとかいうわけでもなく、そうなっている、というだけのお話です。
「やりたいことができなければ死んだほうがマシ」なんて言いますけどそれは実のところ本当という面もあるのですけど、ただし、強い不満があったり未練を残したまま自殺すると浮遊霊や悪霊になるので自殺は止めておいた方がいいと思います。例えば子供をコントロールして子供のやりたいことをやらせない親なら子供は反発して親を幻滅させるか、あるいは、自由を得られないのであれば生きているのが無駄と悟って自殺して未浄化霊になったりします。そんなもんです。コントロールなんて不可能ですよ。他人をコントロールすると、結果として死にまで直結するわけです。そして、他人をコントロールしようとした場合、コントロールされる方は抵抗しますから、最後は廃人のように自分を見失うか、あるいは、最後の輝きを放つかのように抵抗を試みます。その抵抗で親なり誰がしかに仕返しをするか、あるいは、自ら死を選ぶ場合もあるわけです。
ただ、ちょっとこのあたり難しいのは、人生の残りの50年とか80年を他人にコントロールされたまま搾取された人生を送るよりは、しばらく未浄化霊になって彷徨ってから成仏したが結果としてプラスな場合があるにはあるのですよね・・・。これは自殺の幇助と取られてしまうと困るのですが、自殺は基本的に止めたほうがいいというのはその通りです。自殺すると未浄化霊になって、悪くすれば悪霊になったりしますから。ただ、この世に生きていても他人からコントロールされ続けると自分で考える力をどんどんと失ってしまいますから、それが半世紀も続くと考える力が弱まってしまい、次の人生における考える力が足りない状況にもなります。そうなるよりはさっさと逃げるか、逃げられないのならば死んだほうがマシ、というのは現実としてあります。ですけど、基本は死ぬのは良くなくて、逃げるか抵抗すべきだとは思います。
このあたりを私の場合の実例で少し話しますと、私の今生の30歳くらいまでのテーマは他人にコントロールされることを止めること、という課題がありましたね。私の今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つですけど、カルマの方の課題の1つとして、過去生で私をコントロールしてきた人に抵抗する、というノルマがありました。例えばそれは大学時代に隣の部屋に引っ越してきた人がかつて私をコントロールしてきた過去生のパートナーだったり、親は私を強烈にコントロールしようとしましたのでそのコントロールから逃れるのもノルマの1つでしたね。その他にも、ビジネスで大した役割を果たしていないビジネスパートナーにあまりにも大きな利益を与えない、未公開株を与えない、というノルマもありました。ものによっては私の若い頃に何度も自殺を考えたりもしましたけど、ノルマを1つづつこなしていったわけです。私が若い頃は、数え切れないくらい「自殺」を考えて、実際に行為に及んだことはありませんでしたけど、日によっては1日に何度も考えたりしたわけですから1年で少なくとも100回だとして10年前後で1,000回くらいは自殺を考えたと思います。それでも何とか生きてこれましたけど。頭で自死を考えても、それを行動する気には何故かなれなかったのですよね。落ち込んで学校に行く足が動かなくても、まず片腕だけ動かして、もう片方の腕もそこだけ動かして、次は右足だけ一歩踏み出して、次はもう片方の足を動かす・・・ として、何とか学校に行っていた頃もありましたっけ。今では遠い思い出ですけど。基本的には自殺は良くなくて、乗り越えるべきなわけです。昔はね、霊界の警察が自殺者を捕まえて牢獄していた時代があったとは思いますけど、今は自殺しても放置ですからね。地縛霊になったらそうそう助かりません。
色々書きましたけど、まとめますと
・自殺は止めましょう。
・死ぬべき時には死にます。
・生きているのならば人生は続行です。
ただ、死んで再度生まれ変わると子供になってその時代の学習をやり直さなくてはならないのでちょっとめんどくさい、という面はあります。
ですから、死んだところで大したことないといえばそうなのですが、色々と生まれる前の準備をしたり子供時代に学習をして大人になって、さあ、やりたいことをするぞ、となってから早々に死んでしまうと「おいおい。まだやりたいことをやっていないのに続きをやるためにはまたあの子供の頃の不自由な学習期間をしなくちゃならないのか」という、ちょっとした徒労感とめんどくさいなと思う気持ちが出てきます。
ですから、まあ、やりたいことができているのならば死なない方がいいと思います。一旦死ぬと同じ魂がそのまま生まれるとは限りませんからね。というのも、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので、後者であれば「わたし」という個は、厳密に言えばもう二度とないからなんですよね。後者であってもコアな部分があって、大体の雰囲気は似ますけど、それでも、全く同じではないですね。前者であれば同じと言えば同じですけど生まれる時代や環境や家族によって大きく性質が影響されますから、大人になった時の安定した感じとは違って、子供時代を通り抜けるというのは多少ながらリスクがあります。
前世でやり残したことをやりたいと思っても必ずしもその意思の通り続きができるわけではないのですね。
であれば、わざわざ死ぬという選択をしなくても、今の人生でやりたいことをできるかぎりした方がいいわけです。
人生、本当に詰んでしまった場合は死んでやり直した方がいいという場合もあるのかもしれませんけど、その時にメンタルで病んでいる場合は死ぬのは危険で、欲望や雑念が多いまま死ぬと彷徨う浮遊霊になってしまいます。
純粋に雑念なく悔恨なく安らかに死ぬことができるのであれば死んでやり直す、という手も一応は理屈としては可能なのですが、悩んで自殺なんかすると浮遊霊になるのがおちだと思いますので自殺はしない方がいいと思います。それに、その人生に関わった人たちに徒労感を与えることもありますし。ただ、こればかりは時と場合によりますので、なんともいえない面がありますが、割とそういう場合が多いように思います。ですから基本的には自殺はいけないと思いますけど、例外的に死んでやりなおす、という場合もあります。
死んでやり直す場合は、自殺ではなく高次の自分がそう判断して事故とか病気で死ぬことになりますから、死ぬという選択肢は自分ではしなくていいと思います。
顕在意識でそう判断する場合も一応あるにはあるのですが、それは大体の場合は宇宙人が「もう終了」と思ってそう判断する場合がほとんどのような気がして、ここでほとんどと言っているのは、自分の顕在意識で死を判断するという場合自体がそもそもレアケースで、そのレアケースのうちほとんどは宇宙人の場合、ということで、レアケースの中の更にレアケースというのはほとんどありませんので、まあ、自分で死を判断するなんてのは普通の人にとってはないと思った方がいいと思います。
地球人の場合、あるいは宇宙人であっても割と殆どの場合は高次の自分が判断してそれが三次元に降りてくる感じですから、自分で判断する必要はないと思います。
と、いうことで、死ぬという選択をする場合でも顕在意識で判断する必要はないということですね。それは基本的には高次の自分が判断してくれます。
生きているのならばそれは生きられるということです。
ですから、気持ちが落ち込んで自ら選んで死んでしまうのであれば地縛霊とか浮遊霊、あるいは悪霊さんになるということです。まあ、ご愁傷さまと言うしかないですね。ぼおおおおっと、ふらふらっ、と、この世をさまよい歩くようになっちゃうわけですね。怖い怖い。怖いと言うよりは怪談のように「冷たい」って感じですね。寒気がする霊になっちゃいます。
ですから、命というのは基本的には重くて1つしかないですよ、というのはある意味当たっていて、本当に自分そのもの、変わらない自分、というのは今回の人生あるいはグループソウルに戻らずにまた転生する場合だけ継続するもので、グループソウルにまで戻ってしまったら個というものは一旦は消え去るわけですね。個というのはこの世では一時的にはきちんと存在していて、ですけど、それはグループソウルに戻ればまた繋がるわけですよね。
死んだ後に消滅してしまってなくなってしまうわけではありませんけど、グループソウルに合流すればある意味なくなるというのは正しいお話ではあります。死んでグループソウルに合流すれば「あなた」という存在はなくなってしまいますからね。ですから、死んだら無になる、というお話は、完全な消滅ではなくて存続するという点は違いますけど「個」がなくなる、ということであれば正しいです。
そのようにグループソウルから分離して生まれた魂というのはエネルギーを持っていて、それなりに尊重されるわけです。ですから、魂の、命の重さというのはあるにはある。ですけど、それは天命と言い換えてもいいですけどグループソウルの時点で与えられた使命あるいは平たくいえば「やりたいこと」があって、その「やりたいこと」があるのであれば基本的には命は継続になるわけですね。それがそのまま命の重さになるわけで。
やりたいことが達成されれば早々に病気や事故になって死ぬこともあるでしょうし、あるいは、残りの人生は緩やかに生きて人生を楽しむかもしれません。それもまた、その魂の選択ですから、どちらがいいとか悪いとかいうわけでもなく、そうなっている、というだけのお話です。
「やりたいことができなければ死んだほうがマシ」なんて言いますけどそれは実のところ本当という面もあるのですけど、ただし、強い不満があったり未練を残したまま自殺すると浮遊霊や悪霊になるので自殺は止めておいた方がいいと思います。例えば子供をコントロールして子供のやりたいことをやらせない親なら子供は反発して親を幻滅させるか、あるいは、自由を得られないのであれば生きているのが無駄と悟って自殺して未浄化霊になったりします。そんなもんです。コントロールなんて不可能ですよ。他人をコントロールすると、結果として死にまで直結するわけです。そして、他人をコントロールしようとした場合、コントロールされる方は抵抗しますから、最後は廃人のように自分を見失うか、あるいは、最後の輝きを放つかのように抵抗を試みます。その抵抗で親なり誰がしかに仕返しをするか、あるいは、自ら死を選ぶ場合もあるわけです。
ただ、ちょっとこのあたり難しいのは、人生の残りの50年とか80年を他人にコントロールされたまま搾取された人生を送るよりは、しばらく未浄化霊になって彷徨ってから成仏したが結果としてプラスな場合があるにはあるのですよね・・・。これは自殺の幇助と取られてしまうと困るのですが、自殺は基本的に止めたほうがいいというのはその通りです。自殺すると未浄化霊になって、悪くすれば悪霊になったりしますから。ただ、この世に生きていても他人からコントロールされ続けると自分で考える力をどんどんと失ってしまいますから、それが半世紀も続くと考える力が弱まってしまい、次の人生における考える力が足りない状況にもなります。そうなるよりはさっさと逃げるか、逃げられないのならば死んだほうがマシ、というのは現実としてあります。ですけど、基本は死ぬのは良くなくて、逃げるか抵抗すべきだとは思います。
このあたりを私の場合の実例で少し話しますと、私の今生の30歳くらいまでのテーマは他人にコントロールされることを止めること、という課題がありましたね。私の今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つですけど、カルマの方の課題の1つとして、過去生で私をコントロールしてきた人に抵抗する、というノルマがありました。例えばそれは大学時代に隣の部屋に引っ越してきた人がかつて私をコントロールしてきた過去生のパートナーだったり、親は私を強烈にコントロールしようとしましたのでそのコントロールから逃れるのもノルマの1つでしたね。その他にも、ビジネスで大した役割を果たしていないビジネスパートナーにあまりにも大きな利益を与えない、未公開株を与えない、というノルマもありました。ものによっては私の若い頃に何度も自殺を考えたりもしましたけど、ノルマを1つづつこなしていったわけです。私が若い頃は、数え切れないくらい「自殺」を考えて、実際に行為に及んだことはありませんでしたけど、日によっては1日に何度も考えたりしたわけですから1年で少なくとも100回だとして10年前後で1,000回くらいは自殺を考えたと思います。それでも何とか生きてこれましたけど。頭で自死を考えても、それを行動する気には何故かなれなかったのですよね。落ち込んで学校に行く足が動かなくても、まず片腕だけ動かして、もう片方の腕もそこだけ動かして、次は右足だけ一歩踏み出して、次はもう片方の足を動かす・・・ として、何とか学校に行っていた頃もありましたっけ。今では遠い思い出ですけど。基本的には自殺は良くなくて、乗り越えるべきなわけです。昔はね、霊界の警察が自殺者を捕まえて牢獄していた時代があったとは思いますけど、今は自殺しても放置ですからね。地縛霊になったらそうそう助かりません。
色々書きましたけど、まとめますと
・自殺は止めましょう。
・死ぬべき時には死にます。
・生きているのならば人生は続行です。
生まれ変わるまでにどのくらいの期間を必要とするのか?
実際のところ、意識の大本である魂の状態になってしまえば時空を超えることができますので、この地上の感覚で期間というものではないのですが、それなりに長い期間、あの世で割と早く時間を過ごすことになります。
あの世の時間というのはこの地上時間よりも時間の経過が早く、割とあっという間に何年も過ぎていることがあります。
ですけど、いざ転生しようとしたら時空に囚われる必要はなくていつでも転生できるわけです。
とは言いましても、それほどスピリチュアル的に成長していない魂、あるいは時代をそれほど気にしていない魂、あるいは、たまたま現在の時間軸に生まれたいと思って生まれることにした魂があって、そのような場合は、特に時空を超えることなしにその時の時代に生まれることになります。
ある程度は時代を選んで生まれることができますので、次の転生が前の転生と被る、なんてことも普通に起こりますし、時代を逆転することもあります。
仏教とかキリスト教とかですと転生の期間が定められていて何十年とか何百年とか色々と説がありますけど、たしかにそのような場合も多いですけど、実際のところ、時空は超えられますのでそのような場合ばかりではないのですよね。
確かに、数的に言えばそのくらいの期間を開ける場合が多いのかもしれませんけど、それなりにスピリチュアルが成長していれば時空は超えられますので地上的な期間で転生の間隔を図ることはできないわけです。
その一方で、魂あるいは幽体の状態でそれなりに長い期間過ごす、というのは確かにその通りで、まずはあの世に行くと体の形を保ったまま友人知人および元のパートナーなど仲の良かった人たちの住んでいる場所に行くことになります。自分で行ける場合もあれば、死ぬと友人知人あるいは元のパートナーが迎えに来てそこに行く場合も多くあります。
そのように、あの世で割と天国のような時間を過ごす、というのがまずあります。
転生は、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので、割と多くのパターンにおいて、魂(幽体)がそのまま転生するように思います。たまにそのまま分霊を作って転生、という場合もありますし、一旦グループソウルに戻ってから再度分霊を作る、という場合もあります。
あの世で友人知人および元パートナーと仲良く過ごす時間はそれなりに長くて、数十年とか数百年とか普通にありますけど、いざ転生しようとしたらその時に時空を超えて転生することもできますので、地上からしたらその元の魂がどこの時代から来たのかわからなかったりするわけです。
とは言いましても、魂からしても割と時代を順番に追わないとその次代で当たり前になっている技術とか文化とかガジェット(機械のおもちゃ)とかの「当たり前」が理解できませんので、多くの人が歴史を辿って経験している、という面もあります。
同じ時代に割と被って転生している人もいれば、少し時代を開けたりする人もいます。
それは、地上の時間からしたら数十年とか数百年離れて転生というように見えるだけで、実際には、あの世ではもっと短いあるいはもっと長い時間を過ごしてきた、ということも普通にあります。
ですから、地上の感覚から物事を計って、「前世の人物が生まれていた期間が被っているから嘘」とか「たった十数年しか離れていなくてすぐに転生することなんてあり得ないからそれは嘘」みたいに判断はできないのですよね。
仏教とかキリスト教とかで言われている転生の期間というのは時間軸が一定であの世もこの世も一旦進んだら戻らないという前提に立っていますけど、実際は、意識の大本の魂は時空を超えていますから、たしかに幽体の時間としては何十年とか何百年の転生期間が空くのが普通なのですけど、地上の時間軸でそれを図ることはできないのですよね。
悔いがある人などは割とすぐに転生したりしますし、あの世で幽体のまま楽しく何百年も過ごす人もいますし、あるいは、もう人生に完全に満足して幽体からグループソウルに溶け込んで人格が一旦ほとんどグループソウルの集合意識になった後に意識が分離して分霊となって再度生まれる、という場合もあります。
幽体の場合でそのまま転生するのであれば転生の期間がそれなりにわかりますけど、グループソウルと溶け込んだ場合は、もともとグループソウルだった部分の転生の期間なんて測ることは不可能ですよね。もともとグループソウルでいて、そこに合流もすれば分離していますので、分離した分霊の前の転生の期間とか言っても、そんな厳密には出てこないわけです。
とは言いましても、グループソウルから分霊ができる場合は人格のコアみたいなものがあってそこに集まって分霊になりますので、そのコアのようなものはある程度の使いまわしと言いますか前に生きていた人生のコアがグループソウルの中に残っていて、その周囲に意識が集まって分霊になる、ということが行われますので、コアの転生期間ということであれば測れなくもありません。その場合は、それなりに長い期間の間ということにはなりますけど、割とまどろみの中にいて、しかし、そのまままどろんでいたらあっという間に何百年とか立ちますけど、地上あるいは幽体の人の意識が自分を呼んでいることに気がついたら割と早い時間で目覚めてその呼びかけに応えるべく分霊を作ったりします。
そのように、グループソウルに溶け込む場合もあれば幽体のまま転生する場合もあって、仏教やキリスト教が教えるように一概に転生期間を地上の時間で測ることはできないわけです。
あの世の時間というのはこの地上時間よりも時間の経過が早く、割とあっという間に何年も過ぎていることがあります。
ですけど、いざ転生しようとしたら時空に囚われる必要はなくていつでも転生できるわけです。
とは言いましても、それほどスピリチュアル的に成長していない魂、あるいは時代をそれほど気にしていない魂、あるいは、たまたま現在の時間軸に生まれたいと思って生まれることにした魂があって、そのような場合は、特に時空を超えることなしにその時の時代に生まれることになります。
ある程度は時代を選んで生まれることができますので、次の転生が前の転生と被る、なんてことも普通に起こりますし、時代を逆転することもあります。
仏教とかキリスト教とかですと転生の期間が定められていて何十年とか何百年とか色々と説がありますけど、たしかにそのような場合も多いですけど、実際のところ、時空は超えられますのでそのような場合ばかりではないのですよね。
確かに、数的に言えばそのくらいの期間を開ける場合が多いのかもしれませんけど、それなりにスピリチュアルが成長していれば時空は超えられますので地上的な期間で転生の間隔を図ることはできないわけです。
その一方で、魂あるいは幽体の状態でそれなりに長い期間過ごす、というのは確かにその通りで、まずはあの世に行くと体の形を保ったまま友人知人および元のパートナーなど仲の良かった人たちの住んでいる場所に行くことになります。自分で行ける場合もあれば、死ぬと友人知人あるいは元のパートナーが迎えに来てそこに行く場合も多くあります。
そのように、あの世で割と天国のような時間を過ごす、というのがまずあります。
転生は、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので、割と多くのパターンにおいて、魂(幽体)がそのまま転生するように思います。たまにそのまま分霊を作って転生、という場合もありますし、一旦グループソウルに戻ってから再度分霊を作る、という場合もあります。
あの世で友人知人および元パートナーと仲良く過ごす時間はそれなりに長くて、数十年とか数百年とか普通にありますけど、いざ転生しようとしたらその時に時空を超えて転生することもできますので、地上からしたらその元の魂がどこの時代から来たのかわからなかったりするわけです。
とは言いましても、魂からしても割と時代を順番に追わないとその次代で当たり前になっている技術とか文化とかガジェット(機械のおもちゃ)とかの「当たり前」が理解できませんので、多くの人が歴史を辿って経験している、という面もあります。
同じ時代に割と被って転生している人もいれば、少し時代を開けたりする人もいます。
それは、地上の時間からしたら数十年とか数百年離れて転生というように見えるだけで、実際には、あの世ではもっと短いあるいはもっと長い時間を過ごしてきた、ということも普通にあります。
ですから、地上の感覚から物事を計って、「前世の人物が生まれていた期間が被っているから嘘」とか「たった十数年しか離れていなくてすぐに転生することなんてあり得ないからそれは嘘」みたいに判断はできないのですよね。
仏教とかキリスト教とかで言われている転生の期間というのは時間軸が一定であの世もこの世も一旦進んだら戻らないという前提に立っていますけど、実際は、意識の大本の魂は時空を超えていますから、たしかに幽体の時間としては何十年とか何百年の転生期間が空くのが普通なのですけど、地上の時間軸でそれを図ることはできないのですよね。
悔いがある人などは割とすぐに転生したりしますし、あの世で幽体のまま楽しく何百年も過ごす人もいますし、あるいは、もう人生に完全に満足して幽体からグループソウルに溶け込んで人格が一旦ほとんどグループソウルの集合意識になった後に意識が分離して分霊となって再度生まれる、という場合もあります。
幽体の場合でそのまま転生するのであれば転生の期間がそれなりにわかりますけど、グループソウルと溶け込んだ場合は、もともとグループソウルだった部分の転生の期間なんて測ることは不可能ですよね。もともとグループソウルでいて、そこに合流もすれば分離していますので、分離した分霊の前の転生の期間とか言っても、そんな厳密には出てこないわけです。
とは言いましても、グループソウルから分霊ができる場合は人格のコアみたいなものがあってそこに集まって分霊になりますので、そのコアのようなものはある程度の使いまわしと言いますか前に生きていた人生のコアがグループソウルの中に残っていて、その周囲に意識が集まって分霊になる、ということが行われますので、コアの転生期間ということであれば測れなくもありません。その場合は、それなりに長い期間の間ということにはなりますけど、割とまどろみの中にいて、しかし、そのまままどろんでいたらあっという間に何百年とか立ちますけど、地上あるいは幽体の人の意識が自分を呼んでいることに気がついたら割と早い時間で目覚めてその呼びかけに応えるべく分霊を作ったりします。
そのように、グループソウルに溶け込む場合もあれば幽体のまま転生する場合もあって、仏教やキリスト教が教えるように一概に転生期間を地上の時間で測ることはできないわけです。
想念形態だけが一人歩きして次の人生を形作ることもあり得る
ヴェーダンタで言われているように本当の私は真我(アートマン)であるわけですけど、それは日本語でざっくり言うと魂のようなものであると言えます。
魂に相当するアートマン(真我)があって、その真我をベースにして(真我の上に)マインド(心)が存在しています。
心と言うと思考する機能(マインド)だけでなく魂のことも含意する時が日本語ですと時々文学表現であったりするように思いますけど、ここではマインドは思考する機能という位置付けの心であって、その思考する心(マインド)はアートマン(真我)を基礎に置いています。
アートマン(真我)という微細な核があって、それよりもほんの少しだけ粗大なものとしてのマインド(思考する心)があるわけです。
この構造において、想念形態というのはマインド(思考する心)および、アートマン(真我)とまではいかないまでももう少し微細なサムスカーラ(印象としての心)の組み合わせでできていて、この表現の仕方はヴェーダンタというよりは神智学的な表現になってしまいますけど、そのような、マインド(思考する心)とサムスカーラ(印象としての心)が一人歩きしてしまうことがあるのです。それをひとまずここでは想念形態と言っていますけどこれは確立された用語ではなくてどこかで聞いた言葉をとりあえず借りているだけですけど、マインドとサムスカーラのセットが一人歩きしてしまって次の人生を作り出すことがあるのです。
ヴェーダンタで言えば全てがアートマンであり個としての概念のアートマンが実は全体のブラフマンと同じ、ということですので、実際のところそれらのマインドやサムスカーラであってもアートマンではあるのですけど、実際のところ、引き継がれる成長したアートマンと、そうでもないアートマンがいるのかなと私は考えております。
これはヴェーダンタで言われていることではなくて私の感覚としてそのように理解しているということですけれども、経験を積んだアートマンはその引き継ぐマインドやサムスカーラも洗練されているけれども経験の少ないアートマンはマインドも機械的でサムスカーラも乱雑としている、というのが印象です。
厳密にテクニカルワードで言えばアートマンそれ自身は経験することがなくて永遠の存在ですので経験とは無縁なのですけれども、実際にはアートマンは必ずグナ(粗大な物質の3つの要素であるサットヴァ、ラジャス、タマス)と常に一緒にありますから、経験とも密接な関係を持っているわけです。
このようなアートマンとグナ及びマインドとサムスカーラの関係に置いて、アートマンそれ自身は純粋であったとしても、マインドとサムスカーラが一人歩きする時があるのです。
これは単純な輪廻転生として捉えることもできますけど、実際にはアートマンは輪廻転生をせずに永久に存在しますから、輪廻転生するというのは基本的にはサムスカーラとそれに付随するマインドの部分なのですよね。
これをもっと細かく見ていきますと、まず、人が死ぬ時に、最後まで残ったサムスカーラ(微細な印象)とマインド(思考する心)がそこに残されます。
世間で言われているように死んだら無になってサムスカーラ(微細な印象)もマインド(思考する心)も消えてなくなってしまう、というのは嘘で、実際には、サムスカーラとマインドが残ります。
その上で、それなりに精神的に熟していて落ち着いている人の場合はアートマンとサムスカーラとマインドが一体になって次の人生に入るか、あるいは、解脱にまで達していて昇天できる場合は転生せずにアートマンが「全体」あるいは「グループソウル」と言われているものに合一してサイクルを終えます。
ですけど、欲望や快楽に満ちた人生を送って精神が分離をしていたりしますと、アートマンと「サムスカーラとマインド」が切り離れるように思います。これは語弊がある表現かもしれませんけど、もっと微細に言いますと、「アートマンと純粋なサムスカーラと純粋なマインド」と「アートマンと混乱したサムスカーラと混乱したマインド」の、大きく分けて2つ(あるいはもっとそれ以上)に分裂するわけです。
そうして、片方はもう昇天して解脱に満ちた状態になるかもしれませんし、一方で、残された方は以前より悪いところだけになって地上に残され、輪廻転生を繰り返します。
この後者は、傍目から見ると「アートマンは昇天して、混乱したサムスカーラと混乱したマインドが地上に残された」ように見えます。実際はアートマンは全てのものに浸透してこの世の空間に満ちていますからアートマンでなくなるということはないのですけど、傍目には、混乱したマインドとサムスカーラだけが地上に取り残されて欲望と快楽に満ちた人生を繰り返すことになります。
こうなると混乱したマインドとサムスカーラは手のつけようがなくなって、切り離されて昇天した方のアートマンからしても悔いが残ることになり、一旦は昇天したけれどもまた微細な印象(サムスカーラ)が生み出されて分霊を作り出し、地上に行くことになったりします。
これを聞くと、また輪廻転生のサイクルに入るのであればそれは解脱とか昇天というのだろうか? という疑問が生じるかもしれませんけど、ここで行われているのはサムスカーラによる衝動的な欲求ではなくて選択的な判断であり、分霊を助けに行くという選択をすることもありますし、あるいは、グループソウルからするとまだ選択肢があって、もう1つは「見捨てる」、あるいは「(不純な存在であったとしても)グループソウルに合流させて受け入れる」、はたまた最後の手段として「消滅させる」という手もあります。
見捨てる場合は、もう、そのままです。放っておきます。もはや関与しません。
消滅させる時は、その分霊は失敗作ということで消して終わりです。経験などは直接は引き継がれませんけど、外目から観察はしていますので一応の反省はなされます。
グループソウルに合流させるという選択もあって、その場合はグループソウルがそのカルマの全てを受け入れて、それぞれのカルマを解消して行くことになります。
このように、混乱したサムスカーラ(微細な印象)とマインド(思考する心)というのは切り離されてその後はグループソウルの判断に委ねられるわけですけどどちらにせよ、このように分離してしまったサムスカーラとマインドというのは厄介なものでスピリチュアルなことがほとんど理解できなくて肉体が全てで欲望と快楽に生きる人間になりますから、周囲からしたら迷惑な存在であることは確かなわけです。
そのような機械人間になってしまうことが「分離」とかスピリチュアルでは言われていたりするわけですけど、それは心と魂が分離しているというスピリチュアルな意味も確かにありますけど、それに加えて、このように、本来のグループソウルが意図したところから分離してしまって想念形態が一人歩きして何度も転生を繰り返して欲望と快楽に生きている、という意味合いもあったりするわけです。
そのような快楽人間・機械のような欲望だらけの人間が増える世界というのがあって、今の世の中は日本以外では割とそれが優勢だったりもしますけど、日本にも外国の悪影響が現れていたりするわけです。
ここで言っているのは割と日本でよくあるようにスピリチュアル的に成熟したグループソウルの場合で、外国ですとグループソウル自体が欲望にまみれている場合もあったりしますから状況は違うのですけど、程度は違えども基本は一緒で、グループソウルが意図して分霊を作り出して転生するけれどもその転生で失敗したりすると純粋なアートマンだけがグループソウルに帰って行って、混乱したサムスカーラと混乱したマインドが想念形態としてこの世に生き続けて輪廻転生を繰り返し、欲望と快楽に満ちた人生を作り出すことがあるということです。
魂に相当するアートマン(真我)があって、その真我をベースにして(真我の上に)マインド(心)が存在しています。
心と言うと思考する機能(マインド)だけでなく魂のことも含意する時が日本語ですと時々文学表現であったりするように思いますけど、ここではマインドは思考する機能という位置付けの心であって、その思考する心(マインド)はアートマン(真我)を基礎に置いています。
アートマン(真我)という微細な核があって、それよりもほんの少しだけ粗大なものとしてのマインド(思考する心)があるわけです。
この構造において、想念形態というのはマインド(思考する心)および、アートマン(真我)とまではいかないまでももう少し微細なサムスカーラ(印象としての心)の組み合わせでできていて、この表現の仕方はヴェーダンタというよりは神智学的な表現になってしまいますけど、そのような、マインド(思考する心)とサムスカーラ(印象としての心)が一人歩きしてしまうことがあるのです。それをひとまずここでは想念形態と言っていますけどこれは確立された用語ではなくてどこかで聞いた言葉をとりあえず借りているだけですけど、マインドとサムスカーラのセットが一人歩きしてしまって次の人生を作り出すことがあるのです。
ヴェーダンタで言えば全てがアートマンであり個としての概念のアートマンが実は全体のブラフマンと同じ、ということですので、実際のところそれらのマインドやサムスカーラであってもアートマンではあるのですけど、実際のところ、引き継がれる成長したアートマンと、そうでもないアートマンがいるのかなと私は考えております。
これはヴェーダンタで言われていることではなくて私の感覚としてそのように理解しているということですけれども、経験を積んだアートマンはその引き継ぐマインドやサムスカーラも洗練されているけれども経験の少ないアートマンはマインドも機械的でサムスカーラも乱雑としている、というのが印象です。
厳密にテクニカルワードで言えばアートマンそれ自身は経験することがなくて永遠の存在ですので経験とは無縁なのですけれども、実際にはアートマンは必ずグナ(粗大な物質の3つの要素であるサットヴァ、ラジャス、タマス)と常に一緒にありますから、経験とも密接な関係を持っているわけです。
このようなアートマンとグナ及びマインドとサムスカーラの関係に置いて、アートマンそれ自身は純粋であったとしても、マインドとサムスカーラが一人歩きする時があるのです。
これは単純な輪廻転生として捉えることもできますけど、実際にはアートマンは輪廻転生をせずに永久に存在しますから、輪廻転生するというのは基本的にはサムスカーラとそれに付随するマインドの部分なのですよね。
これをもっと細かく見ていきますと、まず、人が死ぬ時に、最後まで残ったサムスカーラ(微細な印象)とマインド(思考する心)がそこに残されます。
世間で言われているように死んだら無になってサムスカーラ(微細な印象)もマインド(思考する心)も消えてなくなってしまう、というのは嘘で、実際には、サムスカーラとマインドが残ります。
その上で、それなりに精神的に熟していて落ち着いている人の場合はアートマンとサムスカーラとマインドが一体になって次の人生に入るか、あるいは、解脱にまで達していて昇天できる場合は転生せずにアートマンが「全体」あるいは「グループソウル」と言われているものに合一してサイクルを終えます。
ですけど、欲望や快楽に満ちた人生を送って精神が分離をしていたりしますと、アートマンと「サムスカーラとマインド」が切り離れるように思います。これは語弊がある表現かもしれませんけど、もっと微細に言いますと、「アートマンと純粋なサムスカーラと純粋なマインド」と「アートマンと混乱したサムスカーラと混乱したマインド」の、大きく分けて2つ(あるいはもっとそれ以上)に分裂するわけです。
そうして、片方はもう昇天して解脱に満ちた状態になるかもしれませんし、一方で、残された方は以前より悪いところだけになって地上に残され、輪廻転生を繰り返します。
この後者は、傍目から見ると「アートマンは昇天して、混乱したサムスカーラと混乱したマインドが地上に残された」ように見えます。実際はアートマンは全てのものに浸透してこの世の空間に満ちていますからアートマンでなくなるということはないのですけど、傍目には、混乱したマインドとサムスカーラだけが地上に取り残されて欲望と快楽に満ちた人生を繰り返すことになります。
こうなると混乱したマインドとサムスカーラは手のつけようがなくなって、切り離されて昇天した方のアートマンからしても悔いが残ることになり、一旦は昇天したけれどもまた微細な印象(サムスカーラ)が生み出されて分霊を作り出し、地上に行くことになったりします。
これを聞くと、また輪廻転生のサイクルに入るのであればそれは解脱とか昇天というのだろうか? という疑問が生じるかもしれませんけど、ここで行われているのはサムスカーラによる衝動的な欲求ではなくて選択的な判断であり、分霊を助けに行くという選択をすることもありますし、あるいは、グループソウルからするとまだ選択肢があって、もう1つは「見捨てる」、あるいは「(不純な存在であったとしても)グループソウルに合流させて受け入れる」、はたまた最後の手段として「消滅させる」という手もあります。
見捨てる場合は、もう、そのままです。放っておきます。もはや関与しません。
消滅させる時は、その分霊は失敗作ということで消して終わりです。経験などは直接は引き継がれませんけど、外目から観察はしていますので一応の反省はなされます。
グループソウルに合流させるという選択もあって、その場合はグループソウルがそのカルマの全てを受け入れて、それぞれのカルマを解消して行くことになります。
このように、混乱したサムスカーラ(微細な印象)とマインド(思考する心)というのは切り離されてその後はグループソウルの判断に委ねられるわけですけどどちらにせよ、このように分離してしまったサムスカーラとマインドというのは厄介なものでスピリチュアルなことがほとんど理解できなくて肉体が全てで欲望と快楽に生きる人間になりますから、周囲からしたら迷惑な存在であることは確かなわけです。
そのような機械人間になってしまうことが「分離」とかスピリチュアルでは言われていたりするわけですけど、それは心と魂が分離しているというスピリチュアルな意味も確かにありますけど、それに加えて、このように、本来のグループソウルが意図したところから分離してしまって想念形態が一人歩きして何度も転生を繰り返して欲望と快楽に生きている、という意味合いもあったりするわけです。
そのような快楽人間・機械のような欲望だらけの人間が増える世界というのがあって、今の世の中は日本以外では割とそれが優勢だったりもしますけど、日本にも外国の悪影響が現れていたりするわけです。
ここで言っているのは割と日本でよくあるようにスピリチュアル的に成熟したグループソウルの場合で、外国ですとグループソウル自体が欲望にまみれている場合もあったりしますから状況は違うのですけど、程度は違えども基本は一緒で、グループソウルが意図して分霊を作り出して転生するけれどもその転生で失敗したりすると純粋なアートマンだけがグループソウルに帰って行って、混乱したサムスカーラと混乱したマインドが想念形態としてこの世に生き続けて輪廻転生を繰り返し、欲望と快楽に満ちた人生を作り出すことがあるということです。
守護霊とガイド
守護霊とかガイドというのは広義では同じことで、導いてくれる見えない存在のことです。ですけど、日本語で守護霊というとご先祖様というイメージが強く出てしまいますけど、実際はそれに限らないわけです。
ご先祖様という場合も多々ありますけど、実際には、仲が良かった人があの世に行っても仲良く暮らしていて、ふとした時に地上の生活を覗き込んだり地上に転生した人の周囲でたむろしている時に気がついた人があれやこれや指摘する、というのが実情のような気がいたします。
ですから、そのような霊が周囲にいる場合は、まるで生きている人が近くにいて細かいことのお節介をしてくれるのと同じような感じなのです。
・近所のお節介おばさん
・仲の良い友達(男友達、女友達)
・お互いに気に入って気になっていた異性
それはその人がどのような人付き合いをしてきたかによって変わってきて、例えば、仲が良かった近所のおばさんが死後に近くにいていろいろとお世話になっている場合もありますし、仲の良かった女友達が近くにいて仲良く暮らしている場合もあります。もちろん妻や夫がずっと一緒にいる、ということもありますけど、個人的には妻はたくさんいますけど夫の姿は見えません。
これは他の人も同じかどうかはわかりませんけど、私の場合、妻だったり仲の良かった女友達が近くにいて、楽しくくらしています。一方、夫、というのは見えません。ですから、私のあの世でのコミュニティでは私だけが男で周囲の何十人、見えている人数は一定ではないですけど30人とか常にいて、多いときは50人近くの時もあるのですけど、基本的には全員女性です。なんてハーレムなのでしょうと思うかもしれませんけど、他の人もそうなのかどうかはわかりません。
私は性格的に、嫉妬深い男とヒステリーな女が嫌いですので、私のあの世のコミュニティには基本的にはそういう人はいないのですけど、それは元を辿れば、生きている時の人付き合いでそのような人とは仲良くならなかったのであの世でもそのような人付き合いが続いているわけです。
あの世に行ったからといってすぐに何か良くなるとか、死んだら解放されるとか、そういうことはなくて、基本的には生きている時の延長線だと思います。
人付き合いと同じで、最初はそれほど仲が良くなくても、次第に少しずつ仲良くなってゆくわけです。そして、あの世でもその関係が続いたり、また数百年後に同じ時代に人生を送ったりします。
ですから、人と人との付き合いは死んだら終わるものではなくて、何世代にもわたって続いてゆくものだと思った方がいいわけです。実際そうなわけです。
恋人などで一目惚れ、というのがありますけど、私がみたところ、前世での繋がりがなければ一目惚れというのはありえないと思います。前世での繋がりがなくて初対面だった場合は、関係性を育ててゆく必要があるわけです。そして、関係性が育ったら来世あるいは数百年後とかに一目惚れあるいは最初から仲が良い、なんてこともあるかもしれませんけど、どちらにせよ、最初はゼロからのスタートですので、関係性というのは少しずつ育ててゆく必要があるわけです。
誤解を元にした関係だったり、依存関係だったりもあの世に引きずりますから、良い関係を常日頃から育てる心持ちと態度が必要になってきます。これはかなり重要で、詐欺師が来世でも同じ相手に詐欺を働く場合もよくあるわけです。一方、良い関係というのも来世に引き継がれます。
守護霊とかガイドというのは、結局、周囲にいる霊のことですので、どうすればいいのか、という指南は、周囲に単にいる仲の良かった、あるいは、付き纏っている存在からの見えない指南になるわけです。ですから、それほど良くない存在からの指南であればそれなりですし、自分のことがよくわかっている存在からの指南であれば的を得ているわけです。
そのように、守護霊と一般的に言われていますけど基本的には仲の良かった存在のことで、生まれている時に何がしかの関係があった霊なわけです。それは必ずしも直接的ではないかもしれず、親が関係していたとか、孫だったとか、そういう関係の場合もあります。
一方、ガイドと言われているのはもうひとつレベルが高くなって、ある程度のスピリチュアルな理解がある存在からの指南になります。守護霊は大抵の人には誰がしかついていますけど、ガイドはついている人とそうでない人がいて、本当にガイドと呼べるレベルにあるのは何某か修行をしてきた霊であるとか天使とか、そういう存在ですね。ガイドがいる人は何がしかの縁があってついていて、ガイドがいなくてもそう悲観する必要はないと思いますけど、ガイドがいるのであればありがたく思う方がいいと思います。
ガイドという言い方は他でしているかどうかはわかりませんけど、私はこんなニュアンスで書いています。
ご先祖様という場合も多々ありますけど、実際には、仲が良かった人があの世に行っても仲良く暮らしていて、ふとした時に地上の生活を覗き込んだり地上に転生した人の周囲でたむろしている時に気がついた人があれやこれや指摘する、というのが実情のような気がいたします。
ですから、そのような霊が周囲にいる場合は、まるで生きている人が近くにいて細かいことのお節介をしてくれるのと同じような感じなのです。
・近所のお節介おばさん
・仲の良い友達(男友達、女友達)
・お互いに気に入って気になっていた異性
それはその人がどのような人付き合いをしてきたかによって変わってきて、例えば、仲が良かった近所のおばさんが死後に近くにいていろいろとお世話になっている場合もありますし、仲の良かった女友達が近くにいて仲良く暮らしている場合もあります。もちろん妻や夫がずっと一緒にいる、ということもありますけど、個人的には妻はたくさんいますけど夫の姿は見えません。
これは他の人も同じかどうかはわかりませんけど、私の場合、妻だったり仲の良かった女友達が近くにいて、楽しくくらしています。一方、夫、というのは見えません。ですから、私のあの世でのコミュニティでは私だけが男で周囲の何十人、見えている人数は一定ではないですけど30人とか常にいて、多いときは50人近くの時もあるのですけど、基本的には全員女性です。なんてハーレムなのでしょうと思うかもしれませんけど、他の人もそうなのかどうかはわかりません。
私は性格的に、嫉妬深い男とヒステリーな女が嫌いですので、私のあの世のコミュニティには基本的にはそういう人はいないのですけど、それは元を辿れば、生きている時の人付き合いでそのような人とは仲良くならなかったのであの世でもそのような人付き合いが続いているわけです。
あの世に行ったからといってすぐに何か良くなるとか、死んだら解放されるとか、そういうことはなくて、基本的には生きている時の延長線だと思います。
人付き合いと同じで、最初はそれほど仲が良くなくても、次第に少しずつ仲良くなってゆくわけです。そして、あの世でもその関係が続いたり、また数百年後に同じ時代に人生を送ったりします。
ですから、人と人との付き合いは死んだら終わるものではなくて、何世代にもわたって続いてゆくものだと思った方がいいわけです。実際そうなわけです。
恋人などで一目惚れ、というのがありますけど、私がみたところ、前世での繋がりがなければ一目惚れというのはありえないと思います。前世での繋がりがなくて初対面だった場合は、関係性を育ててゆく必要があるわけです。そして、関係性が育ったら来世あるいは数百年後とかに一目惚れあるいは最初から仲が良い、なんてこともあるかもしれませんけど、どちらにせよ、最初はゼロからのスタートですので、関係性というのは少しずつ育ててゆく必要があるわけです。
誤解を元にした関係だったり、依存関係だったりもあの世に引きずりますから、良い関係を常日頃から育てる心持ちと態度が必要になってきます。これはかなり重要で、詐欺師が来世でも同じ相手に詐欺を働く場合もよくあるわけです。一方、良い関係というのも来世に引き継がれます。
守護霊とかガイドというのは、結局、周囲にいる霊のことですので、どうすればいいのか、という指南は、周囲に単にいる仲の良かった、あるいは、付き纏っている存在からの見えない指南になるわけです。ですから、それほど良くない存在からの指南であればそれなりですし、自分のことがよくわかっている存在からの指南であれば的を得ているわけです。
そのように、守護霊と一般的に言われていますけど基本的には仲の良かった存在のことで、生まれている時に何がしかの関係があった霊なわけです。それは必ずしも直接的ではないかもしれず、親が関係していたとか、孫だったとか、そういう関係の場合もあります。
一方、ガイドと言われているのはもうひとつレベルが高くなって、ある程度のスピリチュアルな理解がある存在からの指南になります。守護霊は大抵の人には誰がしかついていますけど、ガイドはついている人とそうでない人がいて、本当にガイドと呼べるレベルにあるのは何某か修行をしてきた霊であるとか天使とか、そういう存在ですね。ガイドがいる人は何がしかの縁があってついていて、ガイドがいなくてもそう悲観する必要はないと思いますけど、ガイドがいるのであればありがたく思う方がいいと思います。
ガイドという言い方は他でしているかどうかはわかりませんけど、私はこんなニュアンスで書いています。
昇天した時のお話
前にも少し言及したと思いますが、昇天した時のお話をします。
私のあの世の住居には過去生の元妻が沢山いて仲良く暮らしているのですけど、ある時、優しい妻たちに囲まれて、とてつもなく幸せで、ただただ平穏で、満足して、充実の極みの状態であの世でしばらく微笑んで暖かい気持ちにずっと包まれていました。
そうすると、どれほど時間が経ったでしょうか。
もともとそのような満足の状態では私の体や周囲にいる元妻の体は輝いていて、体の周囲にうっすらと光を放っている状態でしたけど、ある時、更に私の体が激しく光り出したのです。
もともと人にはオーラというものがあって、少なからず輝いています。肉体をまとっていてもその周囲には必ずオーラの層があって、肉体の周囲というよりはオーラの方が本体でオーラの中に肉体があるような感じではありますけど、死後であっても、そのような、本体としての肉体に近いアストラル・ボディ(微細な体)があって、そのアストラルボディの周囲に白い輝くオーラがあるわけです。
ここでは死後のお話ですので、本体としてはアストラル・ボディで、その周囲に輝きがあって、光っていて、その輝きが一層、激しく光出したということです。
死後の世界というものは階層構造になっていて、まず、死後には幽体とも言われるアストラル・ボディになります。この状態では肉体は失われてはいますけど個というものはまだはっきりとあって、生きている時と実はそこまで変わらない世界でもあります。性別はもちろんありますし、肉体に近い形でアストラル・ボディが存在します。
この世界では自分の体も意思で自由に変えられますので、自分が理想とする年齢の美しい姿あるいは格好良い姿、あるいはその住んでいる集団で認識されやすい姿を選んで生活しています。時に、相手に思い出してもらうように姿を変えたり、お遊びで形を変えたりして楽しんだりすることもあります。
そのような、ある意味、地上よりももっと自由なアストラル界、あるいは幽界と言われている世界があって、その世界は地上のような制約がありませんので自分の意思によって自由に作られて、自由に生きることのできる世界になります。
地上の生活で観念に囚われていたりするとその制約が死後も続きますし、逆に、地上で自由な生活及び考え方をしていればあの世に行っても更に自由に暮らすことができます。
地上では財産や嫉妬など様々な制約があって一夫一婦制が現在は主流ですけど、あの世には数百年くらい生きている人やあるいはもっと古い人がいて、その時代、特に上の階級になればなるほど一夫多妻の社会で暮らしていた経験がありますので、そのような人にとってはあの世で一夫多妻で生活することに何ら違和感がないわけです。
そもそも、上の階層になればなるほど独占欲とかから無縁になっていきますから、そんな恋愛の奪い合いみたいなお話とは次第に無縁になっていくわけです。死後の世界であっても、地上で生きている間に嫉妬や奪い合いの愛に明け暮れていた人は、死後に制約がなくなって実際には何も奪われるものがなくなったとしても生きている時の観念がしばらくずっと続いて、死後の世界でも奪い合いの恋愛の茶番を繰り返すことになったりもします。仏教で言われているように、食い意地が張っている人は餓鬼の世界みたいな状態に落ち込んだりしますけど、それは誰かが縛り付けているわけではなくて、自分の観念がそのような世界を作り出しているだけなわけです。地獄に落ちるお話も同様で、そのような世界は自分で自分に限界を設けているだけなわけです。
そのような多彩なアストラル界(幽界)があって、その上に、コーザル界(原因の世界、カーラナ次元)があります。コーザルより上は複数階層になっていて、コーザル界と言っても一つではないのですけど、私が属しているグループソウルの場合は、グループソウルの起点となるのがいわゆるこのコーザル界に相当する世界になります。
コーザル界にはまだ人格があって、ある種、神に近い存在ではありますけどこの世全てを統べる創造神みたいなところまでは行かなくて、あくまでも人格を持った、神に近い、天使に近いとも言える存在として私のグループソウルは人格神に近い形で存在しています。
その、コーザル界のグループソウルに帰ることが「昇天」なわけです。
死後、しばらくアストラル界で生活していて、アストラル界の寿命が尽きる、というと語弊がありますけど、寿命が尽きて死ぬというよりは、満足して昇天してコーザル界のグループソウルに帰る、という方が正確なように思います。
そのように昇天するとき、(元々死後のアストラル界では最初から空中に浮いているわけですけれども)光に包まれると共に上空へと登ってゆき、そのまま光の中に消えていったように思います。
そのように昇天してグループソウルに帰るとアストラル界には何も残らなくて、妻たちが「あれ? 光に包まれて、上に登っていったけど、どこに行ってしまったの?」と、キョロキョロしているのが見えます。
私はグループソウルに帰った後、集合意識として、自分の経験をグループソウルの「全体」と共有するわけです。
ですけど、私の「コア」としての意識は集合意識の中にあって、そのコアの意識はグループソウルとは割と独立して、一部の「部分」としてはそれ単体で動くことができるわけです。そのような多くの「個」の集合としてのグループソウルがあるわけです。
そうしていると、アストラル界の妻たちが自分を探しているのが見えました。
程なくして、どのくらい経ったかわかりませんけど、もう一度、自分の明確な意思を持って、同じコアと、それとグループソウルの一部を引き連れながら再度、アストラルボディとして分離をしたのです。
そうして、一旦はグループソウルと合流して、コアは同じですのでどこか面影はあるものの、ある種、少し違った感じの私がアストラル・ボディを伴って、いわゆる「分霊」としてアストラル界に現れました。
この後、いくつかの地上への転生がありましたけどアストラル・ボディとしてはこれが今の私の系統になっていて、もちろんグループソウルとしては多様な人生があるのですけど、分霊になってからの転生はそれほど多くないわけです。それでも、グループソウルとしての人生及び記憶は多々ありますのでそれを含めると色々とわかるわけですけれども、最後に分霊を作ってからは割と短めなわけです。
個人的なことにはなりますが、この辺りの経緯は2つか3つくらいシナリオがあって、個人的には細かなところで腑に落ちていない部分がありますのでそこは今後の探求箇所にはなりますけど大まかにはこのような感じになっています。
私のあの世の住居には過去生の元妻が沢山いて仲良く暮らしているのですけど、ある時、優しい妻たちに囲まれて、とてつもなく幸せで、ただただ平穏で、満足して、充実の極みの状態であの世でしばらく微笑んで暖かい気持ちにずっと包まれていました。
そうすると、どれほど時間が経ったでしょうか。
もともとそのような満足の状態では私の体や周囲にいる元妻の体は輝いていて、体の周囲にうっすらと光を放っている状態でしたけど、ある時、更に私の体が激しく光り出したのです。
もともと人にはオーラというものがあって、少なからず輝いています。肉体をまとっていてもその周囲には必ずオーラの層があって、肉体の周囲というよりはオーラの方が本体でオーラの中に肉体があるような感じではありますけど、死後であっても、そのような、本体としての肉体に近いアストラル・ボディ(微細な体)があって、そのアストラルボディの周囲に白い輝くオーラがあるわけです。
ここでは死後のお話ですので、本体としてはアストラル・ボディで、その周囲に輝きがあって、光っていて、その輝きが一層、激しく光出したということです。
死後の世界というものは階層構造になっていて、まず、死後には幽体とも言われるアストラル・ボディになります。この状態では肉体は失われてはいますけど個というものはまだはっきりとあって、生きている時と実はそこまで変わらない世界でもあります。性別はもちろんありますし、肉体に近い形でアストラル・ボディが存在します。
この世界では自分の体も意思で自由に変えられますので、自分が理想とする年齢の美しい姿あるいは格好良い姿、あるいはその住んでいる集団で認識されやすい姿を選んで生活しています。時に、相手に思い出してもらうように姿を変えたり、お遊びで形を変えたりして楽しんだりすることもあります。
そのような、ある意味、地上よりももっと自由なアストラル界、あるいは幽界と言われている世界があって、その世界は地上のような制約がありませんので自分の意思によって自由に作られて、自由に生きることのできる世界になります。
地上の生活で観念に囚われていたりするとその制約が死後も続きますし、逆に、地上で自由な生活及び考え方をしていればあの世に行っても更に自由に暮らすことができます。
地上では財産や嫉妬など様々な制約があって一夫一婦制が現在は主流ですけど、あの世には数百年くらい生きている人やあるいはもっと古い人がいて、その時代、特に上の階級になればなるほど一夫多妻の社会で暮らしていた経験がありますので、そのような人にとってはあの世で一夫多妻で生活することに何ら違和感がないわけです。
そもそも、上の階層になればなるほど独占欲とかから無縁になっていきますから、そんな恋愛の奪い合いみたいなお話とは次第に無縁になっていくわけです。死後の世界であっても、地上で生きている間に嫉妬や奪い合いの愛に明け暮れていた人は、死後に制約がなくなって実際には何も奪われるものがなくなったとしても生きている時の観念がしばらくずっと続いて、死後の世界でも奪い合いの恋愛の茶番を繰り返すことになったりもします。仏教で言われているように、食い意地が張っている人は餓鬼の世界みたいな状態に落ち込んだりしますけど、それは誰かが縛り付けているわけではなくて、自分の観念がそのような世界を作り出しているだけなわけです。地獄に落ちるお話も同様で、そのような世界は自分で自分に限界を設けているだけなわけです。
そのような多彩なアストラル界(幽界)があって、その上に、コーザル界(原因の世界、カーラナ次元)があります。コーザルより上は複数階層になっていて、コーザル界と言っても一つではないのですけど、私が属しているグループソウルの場合は、グループソウルの起点となるのがいわゆるこのコーザル界に相当する世界になります。
コーザル界にはまだ人格があって、ある種、神に近い存在ではありますけどこの世全てを統べる創造神みたいなところまでは行かなくて、あくまでも人格を持った、神に近い、天使に近いとも言える存在として私のグループソウルは人格神に近い形で存在しています。
その、コーザル界のグループソウルに帰ることが「昇天」なわけです。
死後、しばらくアストラル界で生活していて、アストラル界の寿命が尽きる、というと語弊がありますけど、寿命が尽きて死ぬというよりは、満足して昇天してコーザル界のグループソウルに帰る、という方が正確なように思います。
そのように昇天するとき、(元々死後のアストラル界では最初から空中に浮いているわけですけれども)光に包まれると共に上空へと登ってゆき、そのまま光の中に消えていったように思います。
そのように昇天してグループソウルに帰るとアストラル界には何も残らなくて、妻たちが「あれ? 光に包まれて、上に登っていったけど、どこに行ってしまったの?」と、キョロキョロしているのが見えます。
私はグループソウルに帰った後、集合意識として、自分の経験をグループソウルの「全体」と共有するわけです。
ですけど、私の「コア」としての意識は集合意識の中にあって、そのコアの意識はグループソウルとは割と独立して、一部の「部分」としてはそれ単体で動くことができるわけです。そのような多くの「個」の集合としてのグループソウルがあるわけです。
そうしていると、アストラル界の妻たちが自分を探しているのが見えました。
程なくして、どのくらい経ったかわかりませんけど、もう一度、自分の明確な意思を持って、同じコアと、それとグループソウルの一部を引き連れながら再度、アストラルボディとして分離をしたのです。
そうして、一旦はグループソウルと合流して、コアは同じですのでどこか面影はあるものの、ある種、少し違った感じの私がアストラル・ボディを伴って、いわゆる「分霊」としてアストラル界に現れました。
この後、いくつかの地上への転生がありましたけどアストラル・ボディとしてはこれが今の私の系統になっていて、もちろんグループソウルとしては多様な人生があるのですけど、分霊になってからの転生はそれほど多くないわけです。それでも、グループソウルとしての人生及び記憶は多々ありますのでそれを含めると色々とわかるわけですけれども、最後に分霊を作ってからは割と短めなわけです。
個人的なことにはなりますが、この辺りの経緯は2つか3つくらいシナリオがあって、個人的には細かなところで腑に落ちていない部分がありますのでそこは今後の探求箇所にはなりますけど大まかにはこのような感じになっています。
ハイヤーセルフの更に上位の存在
6次元のハイヤーセルフと繋がって一体になるプロセスを徐々に経てきているわけですけれども、そのハイヤーセルフの更に大元になるようなグループソウルがあります。そのグループソウルとは、ハイヤーセルフから見たら「雲」のようなモヤモヤしたものですけど、実際には、そのグループソウル自体が一人の人格を持っていて、例えるならば、ハイヤーセルフは容量の小さな電池でグループソウルは容量的に大きな電池、と言うこともできます。ですから、その質としてはそれほど変わらないように思うのです。
自分のハイヤーセルフがグループソウルから分離して分霊になるわけですけれども、その分霊はまたグループソウルに戻ることが期待されています。そのまま分離したままの場合もありますけど、割と多くの場合はグループソウルにまた戻るように思います。
そのようにハイヤーセルフとグループソウルという関係がある時、グループソウルからしたら自分から一時的に分かれた分霊が別の人生を送っているわけで、時折、その分霊の人生を興味を持って「外」から眺めることになります。
そして、ハイヤーセルフとしての、分霊としての人生を終えたらグループソウルと一体になり、その後は「同化」することにより経験を取り込みます。その時、分霊のまま連続して何回か人生を繰り返してからグループソウルに戻ることが多いように思えて、戻る時は、単に戻る時と昇天して戻る時があるように思います。
戻り方には色々なパターンがあって、結局はオーラの同一化、融合化ですのでどのようにも一体化は可能なのですけど、ハイヤーセルフの方が能動的に単に戻る時は自身のことを忘れていない時で、その時は波動が落ちていない場合が多くて、波動が落ちている時はハイヤーセルフは自分というものを忘れていて昇天という形で実のところグループソウルからの導きでようやく戻ることができるように思います。その一方で、波動に関係なくお互いの意思・同意で戻る時も多々あるように思います。
そんなグループソウルなのですけれどもハイヤーセルフからしたら雲のようにも見え、と同時に、グループソウルとしての人格、人の形をした存在のようにも見えます。どちらも正しくて、ハイヤーセルフとしての分霊の自分を生きていると、時折、グループソウルが自分(ハイヤーセルフ)の人生を上から覗き込んでいる、と感じる時があります。
その時は、生きている自分からしたらちょっと上空から「大きな顔」が現れて、ちょっと「下」を覗き込んでいるような感じで下目になってこちらを上から興味深く見下ろしているのを時折感じます。その瞬間は「見られている」のを感じて、どんな存在がこちらを見ているのかもはっきりとわかるわけですけれども、グループソウルとしての意識体が大きな顔、それは具体的なイメージを伴った顔なわけですけれども、大きな顔がこちらを見下ろして、しかも、感想をその都度何か言って(思って)いるのまで伝わってくるわけです。
その感想はこちらの参考にもなって、時空を超えた存在であるグループソウルの意思、それは人格としての自分の根源の意志でもあるわけですけれども、その認知は大概の場合は自分より優れていますので参考になるわけです。とは言いましても、そもそも自分としてのハイヤーセルフが分霊として分かれたのはグループソウルが何かを知りたかったからなのであって、今の人生で細かく知ろうとしている事柄に関してはグループソウルよりも自分の方が詳しかったりします。まだ分霊として分かれた状態ではその細かな部分の知見はグループソウルに伝わっていなくてきちんと伝わるには死後に分霊がグループソウルに融合するまで待たないといけないですけど、それでも、グループソウルが時空を超えて感想を伝えてくれることは分霊の自分としては生き方の参考になるわけです。
自分のハイヤーセルフがグループソウルから分離して分霊になるわけですけれども、その分霊はまたグループソウルに戻ることが期待されています。そのまま分離したままの場合もありますけど、割と多くの場合はグループソウルにまた戻るように思います。
そのようにハイヤーセルフとグループソウルという関係がある時、グループソウルからしたら自分から一時的に分かれた分霊が別の人生を送っているわけで、時折、その分霊の人生を興味を持って「外」から眺めることになります。
そして、ハイヤーセルフとしての、分霊としての人生を終えたらグループソウルと一体になり、その後は「同化」することにより経験を取り込みます。その時、分霊のまま連続して何回か人生を繰り返してからグループソウルに戻ることが多いように思えて、戻る時は、単に戻る時と昇天して戻る時があるように思います。
戻り方には色々なパターンがあって、結局はオーラの同一化、融合化ですのでどのようにも一体化は可能なのですけど、ハイヤーセルフの方が能動的に単に戻る時は自身のことを忘れていない時で、その時は波動が落ちていない場合が多くて、波動が落ちている時はハイヤーセルフは自分というものを忘れていて昇天という形で実のところグループソウルからの導きでようやく戻ることができるように思います。その一方で、波動に関係なくお互いの意思・同意で戻る時も多々あるように思います。
そんなグループソウルなのですけれどもハイヤーセルフからしたら雲のようにも見え、と同時に、グループソウルとしての人格、人の形をした存在のようにも見えます。どちらも正しくて、ハイヤーセルフとしての分霊の自分を生きていると、時折、グループソウルが自分(ハイヤーセルフ)の人生を上から覗き込んでいる、と感じる時があります。
その時は、生きている自分からしたらちょっと上空から「大きな顔」が現れて、ちょっと「下」を覗き込んでいるような感じで下目になってこちらを上から興味深く見下ろしているのを時折感じます。その瞬間は「見られている」のを感じて、どんな存在がこちらを見ているのかもはっきりとわかるわけですけれども、グループソウルとしての意識体が大きな顔、それは具体的なイメージを伴った顔なわけですけれども、大きな顔がこちらを見下ろして、しかも、感想をその都度何か言って(思って)いるのまで伝わってくるわけです。
その感想はこちらの参考にもなって、時空を超えた存在であるグループソウルの意思、それは人格としての自分の根源の意志でもあるわけですけれども、その認知は大概の場合は自分より優れていますので参考になるわけです。とは言いましても、そもそも自分としてのハイヤーセルフが分霊として分かれたのはグループソウルが何かを知りたかったからなのであって、今の人生で細かく知ろうとしている事柄に関してはグループソウルよりも自分の方が詳しかったりします。まだ分霊として分かれた状態ではその細かな部分の知見はグループソウルに伝わっていなくてきちんと伝わるには死後に分霊がグループソウルに融合するまで待たないといけないですけど、それでも、グループソウルが時空を超えて感想を伝えてくれることは分霊の自分としては生き方の参考になるわけです。
結婚相手との将来が見えたとして、それでも結婚するのかどうか
スピリチュアルになればなるほどこの種の悩みが少しは出てきます。
やがて、人は完璧なものではないということに気が付いて、こだわることをやめて、その時々の良い関係を保つ、というところに落ち着くわけですけれども、そうなる前は、全てにおいて完璧を求めようとして、ちょっとの失敗や葛藤が将来に横たわっていることを見抜くと何事にも躊躇してしまいがちです。
この種のお話は、見えれば見えるほど悩みが出てきて、「あぁ、あんな感じになるのなら、別に、いいかな・・・」って感じで辞めてしまうことが割と多いわけです。
いわゆる前世(グループソウルのとある分霊の人生)のお話になってしまいますけど、とある結婚相手がいて、その妻は子供が欲しいとずっと言っていました。過去生とは言っても私の属するグループソウルの由来の過去生のうちの1人のことですけど、その当時から私は未来が見えましたので、子供が生まれるとどうなるか、生まれないとどうなるか、をわかった上で選択したのでした。その妻は子供がいないのであれば割と大人しい一生を過ごすのですけど、子供を作った場合はかなりヒステリーになって、子供の面倒をあまり見ようとしない私に対して怒鳴りつけるようになって、女の高いキーキー声で目を三角にしながらいつもピリピリするようになることが見通せましたので、そんな面倒なお話になるのは御免でしたので子供を作ろうという誘いに乗ることはなく、一生、子供は作らなかったのでした。実際、そんなヒステリーがなければ子供を作っても良かったのですけど、そんな女は苦手で勘弁ですので子供は作らなかったのでした。そうしたら浮気を疑われて、銀行口座から沢山のお金を勝手に持ち出して探偵を長い間雇って執拗に浮気を見つけようとするような疑い深い女だったのですが、まぁ、私は割とそういうのは見て見ぬふりをする方ですので、探偵の尾行に気付いても放っておいたのですが、あまりにもしつこいので探偵にこっちから話しかけたり、探偵がバーの外で待ち構えていたりすると、「君、ずっと外で待っていたら寒いだろ。バーの中に入りなさい」と言って店に入れて、店の端っこでずっと座って監視させた後にコーヒー代を出してあげていたりしました。その妻は育ちがいいので金銭感覚がおかしくて、昼ごはんや夜ご飯に友人と1万円とかのランチやディナーに行くのが普通の生活をしていたので銀行のお金を使い過ぎだと言ったら「なんて酷い」とか言い出すような世間知らずの上に嫉妬深くて、もう、ちょっと勘弁してよ、と思っていたのですけど、子供がいなければそれなりに大人しい面もあったので、まぁ、いいか、と思ってその一生を終えたのでした。
あるいは、今世でのお話で、結婚してしまうとやりたかったことが出来ずに人生が詰まってしまう、とわかる場合は結婚ルートを取らずにその女を避けるようにしてその後を過ごす、なんてのは割と何度もありました。割と、ここ10回とか20回以上の人生で、本当にやりたいことが結婚で妨げられて、結婚それ自体は割と幸せで妻も綺麗で優しくてそれ自体には不満がないどころかかなり満足な人生ではあったのですけど、実際のところ、ここ20回以上の人生は、本当にやりたいことを実現できなくて「人生、やり直し!!!」を何度も繰り返していて、ようやく今世になってその無限ループから抜け出すことが出来た、というように思います。
私を好きになってもらった女の人にはとても申し訳ないですけど、特に今世の場合、ほとんどの場合において女性とくっついて結婚とかしてしまうと本来やりたかったこと、特にそれはスピリチュアルな面における成長なわけですけど、成長が阻害されてしまって、それでも一見すると「とても優しい妻と結婚する幸せな家庭」ができるわけですけれども、実のところ、それはこの無限ループに陥ってしまう前に立てた目的の達成にはならないのですよね。
結婚としての幸せと、人生の目的というものは一致していることもあれば、一致していないこともある、ということは抑えておく必要があると思います。幸せな家庭を作って幸せに一生を終えることが必ずしもスピリチュアルな成長とは限らなくて、私の場合、それによって無限ループに落ちていたように思います。特にここ20回か30回の人生では割と無限ループ状態で、本当であれば時代を変えて色々と経験すべきだったところが、ここ20回か30回くらいは時代も変えずに、日本の高度成長期に合わせて同じような人生を何度も何度も繰り返してゲームクリアを目指して再挑戦していたように思います。
それで、毎回、スピリチュアル的にはミッション失敗なのですけど、その失敗の度に「性格の良い、とても可愛い美人の妻」を何人も連れて帰るものですから、同じ時代の妻が私のあの世のコミュニティにどんどん増えて溢れかえって、なんだか凄いことになっています。ミッション失敗の度に優しい妻が増えるわけで、なかなか、妻にとってもそれはびっくりで、死んであの世に行ってみたら美人の元妻が沢山いて和気藹々と暮らしているのですから、最初は「なんだこれ・・・???」と、頭が追いつかないようです。
基本的にそんな時でも結婚相手とどうなるのかくらいは最初から見えていて、幸せな人生を見据えて結婚するわけですけど、それでも、人生の無限ループに入る前に立てたそもそものスピリチュアルな目的はなかなか思い出せないようです。
私の場合、何かおかしいなぁ・・・ と思いつつもあの世のコミュニティは優しい元妻が沢山いていつも楽しく暮らしていますのであまりそう言ったことに時間をかけてゆっくりと向き合う時間も持てなくて、それで、「ちょっと、やりたいことがあるので、一人で転生してもいいかなぁ?」と聞くと、大抵の場合は妻たちが「またまたぁー。何言ってるのー。そんなこと言って、誰か連れて帰ってくるのでしょうー? あらあら。おほほほほ」みたいに返されることがほとんどでした。実際、説得して、「ちょっと、一人になりに地上に行くよ」とか言ってもその度に実際に可愛い妻を何度も連れ帰ってきていましたのでそれはほんとその通りなのですけど、ここにきて、ようやく一人でしばらく過ごすことができて本来の自分の根源を見出せてきたように思います。
色々と思い出した結果わかったことは色々とあるのですけど、割と突拍子もないことが私の真実で、思い出すには少し時間を要しました。
ただ、今だからこそわかるのですけど、スピリチュアルな成長には必ずしも一人になる必要はなくて、満足していればやがて昇天することもできますので、昇天すればグループソウルに戻ることができて、確かに一人になって精神性を高めるという方法も亜るにはあるのですけど、その両方をやってみた結果、どうも、私には皆と仲良くする方が一人で瞑想するより昇天とかしやすいのかな、という気もしてきています。
それに加えてそもそもの人生の目的というお話もあって、無限ループに陥る前に立てた目的、それは知的な探求でもあったわけですけど、いわゆるこの世の人間の苦悩を理解する、ということが根底にあって、そのために「仕事」というものを実際にやってみることで理解するという大きな目的があって、その上で、無限ループに陥ってしまったりもしましたけど、ようやく無限ループを抜けられたような気が致します。
元々の認識、そもそも考えていた手段で目的が達成されるとは限らなくて、この場合、無限ループから抜け出すには、おそらく早い方法としては一人になって修行なりをするのが時間的に近道だったのかなと思っていて、今の人生も割とその方向性に従っているわけですけれども、時間がかかったとしても優しい妻たち皆の縁の力で目的を達成することもあるわけで、具体的には、昇天という形でこの世の転生のループを抜けてグループソウルに戻るということですけど、本当は数回の人生で人間の営みを学ぶつもりだったのが、数十回とか予想以上に昇天までかかってしまったりはしましたけど、結果として昇天まで行けたということで、まぁ、かかってしまったものはもう仕方がないかな、という気がしております。
無限ループに陥る前の目的はグループソウルから与えられた目的で、分霊になる時の目的でもあるわけで、それは無限ループに近いことをしたのちに「昇天」という形で完遂したのですけど、その後、私が昇天していなくなってしまった後に私を探す元妻たちの声を遠くから聞いたことにより再度分霊を作って地上に降りてきたわけですけど、それはコアとしては私自身ですのでほとんど同じではあるもののグループソウルに一旦は合流していますので、同じようでいて、ちょっと違う私であるわけです。それでも元妻は私だと認識してくれていると言いますか、直感としてはそのことを理解しつつも、そもそも一度転生をすると地上の生活で性格がちょっと変わったりすることもよくありますので、その辺りの少しの違いはさほど気にならないようです。そうして分霊を作って生まれたわけですが、分霊ができた段階では単純に分かれただけでしたけど、その後に、もう1つ、大きな仕事が与えられて、グループソウルのカルマの引き受けと悟りへの階梯を確かめるというミッションを新たに与えられて今の人生を遂行しているわけです。
そんな状況であるために、申し訳ないですけど、元妻の転生者と会ったり、あるいは、可愛い性格の良い子を見つけたとしても今回ばかりはそのままくっつくわけにはいかなくて、未来を見通して幸せな家庭ができることがわかったとしても我慢して、今回の人生のミッションを優先させているわけです。
やがて、人は完璧なものではないということに気が付いて、こだわることをやめて、その時々の良い関係を保つ、というところに落ち着くわけですけれども、そうなる前は、全てにおいて完璧を求めようとして、ちょっとの失敗や葛藤が将来に横たわっていることを見抜くと何事にも躊躇してしまいがちです。
この種のお話は、見えれば見えるほど悩みが出てきて、「あぁ、あんな感じになるのなら、別に、いいかな・・・」って感じで辞めてしまうことが割と多いわけです。
いわゆる前世(グループソウルのとある分霊の人生)のお話になってしまいますけど、とある結婚相手がいて、その妻は子供が欲しいとずっと言っていました。過去生とは言っても私の属するグループソウルの由来の過去生のうちの1人のことですけど、その当時から私は未来が見えましたので、子供が生まれるとどうなるか、生まれないとどうなるか、をわかった上で選択したのでした。その妻は子供がいないのであれば割と大人しい一生を過ごすのですけど、子供を作った場合はかなりヒステリーになって、子供の面倒をあまり見ようとしない私に対して怒鳴りつけるようになって、女の高いキーキー声で目を三角にしながらいつもピリピリするようになることが見通せましたので、そんな面倒なお話になるのは御免でしたので子供を作ろうという誘いに乗ることはなく、一生、子供は作らなかったのでした。実際、そんなヒステリーがなければ子供を作っても良かったのですけど、そんな女は苦手で勘弁ですので子供は作らなかったのでした。そうしたら浮気を疑われて、銀行口座から沢山のお金を勝手に持ち出して探偵を長い間雇って執拗に浮気を見つけようとするような疑い深い女だったのですが、まぁ、私は割とそういうのは見て見ぬふりをする方ですので、探偵の尾行に気付いても放っておいたのですが、あまりにもしつこいので探偵にこっちから話しかけたり、探偵がバーの外で待ち構えていたりすると、「君、ずっと外で待っていたら寒いだろ。バーの中に入りなさい」と言って店に入れて、店の端っこでずっと座って監視させた後にコーヒー代を出してあげていたりしました。その妻は育ちがいいので金銭感覚がおかしくて、昼ごはんや夜ご飯に友人と1万円とかのランチやディナーに行くのが普通の生活をしていたので銀行のお金を使い過ぎだと言ったら「なんて酷い」とか言い出すような世間知らずの上に嫉妬深くて、もう、ちょっと勘弁してよ、と思っていたのですけど、子供がいなければそれなりに大人しい面もあったので、まぁ、いいか、と思ってその一生を終えたのでした。
あるいは、今世でのお話で、結婚してしまうとやりたかったことが出来ずに人生が詰まってしまう、とわかる場合は結婚ルートを取らずにその女を避けるようにしてその後を過ごす、なんてのは割と何度もありました。割と、ここ10回とか20回以上の人生で、本当にやりたいことが結婚で妨げられて、結婚それ自体は割と幸せで妻も綺麗で優しくてそれ自体には不満がないどころかかなり満足な人生ではあったのですけど、実際のところ、ここ20回以上の人生は、本当にやりたいことを実現できなくて「人生、やり直し!!!」を何度も繰り返していて、ようやく今世になってその無限ループから抜け出すことが出来た、というように思います。
私を好きになってもらった女の人にはとても申し訳ないですけど、特に今世の場合、ほとんどの場合において女性とくっついて結婚とかしてしまうと本来やりたかったこと、特にそれはスピリチュアルな面における成長なわけですけど、成長が阻害されてしまって、それでも一見すると「とても優しい妻と結婚する幸せな家庭」ができるわけですけれども、実のところ、それはこの無限ループに陥ってしまう前に立てた目的の達成にはならないのですよね。
結婚としての幸せと、人生の目的というものは一致していることもあれば、一致していないこともある、ということは抑えておく必要があると思います。幸せな家庭を作って幸せに一生を終えることが必ずしもスピリチュアルな成長とは限らなくて、私の場合、それによって無限ループに落ちていたように思います。特にここ20回か30回の人生では割と無限ループ状態で、本当であれば時代を変えて色々と経験すべきだったところが、ここ20回か30回くらいは時代も変えずに、日本の高度成長期に合わせて同じような人生を何度も何度も繰り返してゲームクリアを目指して再挑戦していたように思います。
それで、毎回、スピリチュアル的にはミッション失敗なのですけど、その失敗の度に「性格の良い、とても可愛い美人の妻」を何人も連れて帰るものですから、同じ時代の妻が私のあの世のコミュニティにどんどん増えて溢れかえって、なんだか凄いことになっています。ミッション失敗の度に優しい妻が増えるわけで、なかなか、妻にとってもそれはびっくりで、死んであの世に行ってみたら美人の元妻が沢山いて和気藹々と暮らしているのですから、最初は「なんだこれ・・・???」と、頭が追いつかないようです。
基本的にそんな時でも結婚相手とどうなるのかくらいは最初から見えていて、幸せな人生を見据えて結婚するわけですけど、それでも、人生の無限ループに入る前に立てたそもそものスピリチュアルな目的はなかなか思い出せないようです。
私の場合、何かおかしいなぁ・・・ と思いつつもあの世のコミュニティは優しい元妻が沢山いていつも楽しく暮らしていますのであまりそう言ったことに時間をかけてゆっくりと向き合う時間も持てなくて、それで、「ちょっと、やりたいことがあるので、一人で転生してもいいかなぁ?」と聞くと、大抵の場合は妻たちが「またまたぁー。何言ってるのー。そんなこと言って、誰か連れて帰ってくるのでしょうー? あらあら。おほほほほ」みたいに返されることがほとんどでした。実際、説得して、「ちょっと、一人になりに地上に行くよ」とか言ってもその度に実際に可愛い妻を何度も連れ帰ってきていましたのでそれはほんとその通りなのですけど、ここにきて、ようやく一人でしばらく過ごすことができて本来の自分の根源を見出せてきたように思います。
色々と思い出した結果わかったことは色々とあるのですけど、割と突拍子もないことが私の真実で、思い出すには少し時間を要しました。
ただ、今だからこそわかるのですけど、スピリチュアルな成長には必ずしも一人になる必要はなくて、満足していればやがて昇天することもできますので、昇天すればグループソウルに戻ることができて、確かに一人になって精神性を高めるという方法も亜るにはあるのですけど、その両方をやってみた結果、どうも、私には皆と仲良くする方が一人で瞑想するより昇天とかしやすいのかな、という気もしてきています。
それに加えてそもそもの人生の目的というお話もあって、無限ループに陥る前に立てた目的、それは知的な探求でもあったわけですけど、いわゆるこの世の人間の苦悩を理解する、ということが根底にあって、そのために「仕事」というものを実際にやってみることで理解するという大きな目的があって、その上で、無限ループに陥ってしまったりもしましたけど、ようやく無限ループを抜けられたような気が致します。
元々の認識、そもそも考えていた手段で目的が達成されるとは限らなくて、この場合、無限ループから抜け出すには、おそらく早い方法としては一人になって修行なりをするのが時間的に近道だったのかなと思っていて、今の人生も割とその方向性に従っているわけですけれども、時間がかかったとしても優しい妻たち皆の縁の力で目的を達成することもあるわけで、具体的には、昇天という形でこの世の転生のループを抜けてグループソウルに戻るということですけど、本当は数回の人生で人間の営みを学ぶつもりだったのが、数十回とか予想以上に昇天までかかってしまったりはしましたけど、結果として昇天まで行けたということで、まぁ、かかってしまったものはもう仕方がないかな、という気がしております。
無限ループに陥る前の目的はグループソウルから与えられた目的で、分霊になる時の目的でもあるわけで、それは無限ループに近いことをしたのちに「昇天」という形で完遂したのですけど、その後、私が昇天していなくなってしまった後に私を探す元妻たちの声を遠くから聞いたことにより再度分霊を作って地上に降りてきたわけですけど、それはコアとしては私自身ですのでほとんど同じではあるもののグループソウルに一旦は合流していますので、同じようでいて、ちょっと違う私であるわけです。それでも元妻は私だと認識してくれていると言いますか、直感としてはそのことを理解しつつも、そもそも一度転生をすると地上の生活で性格がちょっと変わったりすることもよくありますので、その辺りの少しの違いはさほど気にならないようです。そうして分霊を作って生まれたわけですが、分霊ができた段階では単純に分かれただけでしたけど、その後に、もう1つ、大きな仕事が与えられて、グループソウルのカルマの引き受けと悟りへの階梯を確かめるというミッションを新たに与えられて今の人生を遂行しているわけです。
そんな状況であるために、申し訳ないですけど、元妻の転生者と会ったり、あるいは、可愛い性格の良い子を見つけたとしても今回ばかりはそのままくっつくわけにはいかなくて、未来を見通して幸せな家庭ができることがわかったとしても我慢して、今回の人生のミッションを優先させているわけです。
タイムラインをやり直しても魂の記憶は消えない
特に夫婦間の絆において、あまり気分の良くないことが起こったとして、それをタイムラインで遡って回避したとしても魂の記憶は消えないのです。これは何においても当てはまります。
例えば、妻あるいは彼女がいたとして、女の方は既に処女ではなくて男が童貞だったとします。女の方がすぐに果てる男を見た時に「ふふふ」と見下したとしたら、その記憶は魂に刻まれてしまうことがあるわけです。それは、たとえ、タイムラインを遡ってやり直して、女が処女のうちにゲットするようなタイムラインに上書きしたとしても、魂の記憶としては、最初の見下された記憶が刻まれて残ってしまうわけです。
ですから、タイムラインを遡ることで表層は上書きできますけど、魂というレベルにおいては全ての記憶は残されていて、それは消えないのです。
表層では大人しくて優しい妻のように見えたとしても、どこか気弱で、何かに頼っていなくては押しつぶされそうで、夫が定年になるまでどこか不安で、夫が定年になって始めて不安がなくなって本当に安心したような妻でしたけど、特に仲が悪いということもなく、あの世に行ってからも一緒でしたけど、それでも、魂というレベルにおいては過去の記憶は消えないのです。
これは、誰しもが全てわかるのかというと、それは分かりません。他のタイムラインのことを識別できない人もいるのかもしれませんけど、私にとっては他のタイムラインをある程度認識するのは普通のことですけど他の人にとっては今のタイムラインが全てなのかもしれませんし、実は皆さん同じように認識しているけれどもスルーしているだけなのかもしれません。
こうして、魂の記憶として残ってしまうと、どこか、態度にふと出てしまうものなのです。優しい妻ではあるけれど、「あぁ、あの時、見下されたな・・・」と、それがたとえ、他のタイムラインの出来事であったとしても、妻は自身ではそんなことしていないと思っていて記憶に全くなかったとしても、魂のレベルではその記憶は残されていて、ふとした時に、本当に信頼できるかどうかというところで、ちょっとした仕草に出てしまうわけです。
そうした仕草が重なってしまうと、そうした優しい妻であったとしても少しずつ不満が溜まってくるらしく、私のあの世のコミュニティにおいては過去の妻がたくさんいますけど、その妻はもっと自分を特別扱いしてほしいという不満が溜まってきて、そこまでではないですけど嫉妬と不満が少しずつ出てきて、ちょっと面倒な感じになってきました。
ここに来て思うことは、タイムラインを遡ってやり直すことで表層の失敗を取り消すことはできても、深いところでの本質の面でいうとやり直すことはそこまで重要ではない、ということです。
本質のお話は魂のレベルのお話で、タイムラインとは関係なく時空を超えて存在している普遍の意識ですから、タイムラインをやり直すかどうかというのは時間と空間の中のお話ですので表層に過ぎないのですよね。
私のこの教訓としては、妻とか結婚するとかそういうレベルにおいてはタイムラインを遡るというのはあまり意味を持たないのだな、ということです。結局、美人で大人しくて優しい妻だとしても「ふふふ」と見下すような人というところがその妻の本当の本当の本質だとしたら、その本質が最初に分かっていたのだとしたら、タイムラインを遡って回避するなんてことをせずに、最初からその人は選ばない方が良かったのかもしれないのです。
このあたり、人の笑顔の意味を読み取る、という点においてこの時点では経験が足りなくて、特に、心の奥で何かを思っていて利益のために笑顔でいるような人の笑顔の意味を読み取るという点において理解が足りなかったように思います。
表層では大人しくても裏で何かを企んでいる、みたいな人の本性を読み取るのが私は割と苦手で、それを知るためにここしばらくの人生を繰り返していたとも言えて、特に今回の人生では、割と周囲に性格の悪い人が多い環境を選ぶことで性格の悪さと笑顔という関係を深く学んだように思います。
例えば、妻あるいは彼女がいたとして、女の方は既に処女ではなくて男が童貞だったとします。女の方がすぐに果てる男を見た時に「ふふふ」と見下したとしたら、その記憶は魂に刻まれてしまうことがあるわけです。それは、たとえ、タイムラインを遡ってやり直して、女が処女のうちにゲットするようなタイムラインに上書きしたとしても、魂の記憶としては、最初の見下された記憶が刻まれて残ってしまうわけです。
ですから、タイムラインを遡ることで表層は上書きできますけど、魂というレベルにおいては全ての記憶は残されていて、それは消えないのです。
表層では大人しくて優しい妻のように見えたとしても、どこか気弱で、何かに頼っていなくては押しつぶされそうで、夫が定年になるまでどこか不安で、夫が定年になって始めて不安がなくなって本当に安心したような妻でしたけど、特に仲が悪いということもなく、あの世に行ってからも一緒でしたけど、それでも、魂というレベルにおいては過去の記憶は消えないのです。
これは、誰しもが全てわかるのかというと、それは分かりません。他のタイムラインのことを識別できない人もいるのかもしれませんけど、私にとっては他のタイムラインをある程度認識するのは普通のことですけど他の人にとっては今のタイムラインが全てなのかもしれませんし、実は皆さん同じように認識しているけれどもスルーしているだけなのかもしれません。
こうして、魂の記憶として残ってしまうと、どこか、態度にふと出てしまうものなのです。優しい妻ではあるけれど、「あぁ、あの時、見下されたな・・・」と、それがたとえ、他のタイムラインの出来事であったとしても、妻は自身ではそんなことしていないと思っていて記憶に全くなかったとしても、魂のレベルではその記憶は残されていて、ふとした時に、本当に信頼できるかどうかというところで、ちょっとした仕草に出てしまうわけです。
そうした仕草が重なってしまうと、そうした優しい妻であったとしても少しずつ不満が溜まってくるらしく、私のあの世のコミュニティにおいては過去の妻がたくさんいますけど、その妻はもっと自分を特別扱いしてほしいという不満が溜まってきて、そこまでではないですけど嫉妬と不満が少しずつ出てきて、ちょっと面倒な感じになってきました。
ここに来て思うことは、タイムラインを遡ってやり直すことで表層の失敗を取り消すことはできても、深いところでの本質の面でいうとやり直すことはそこまで重要ではない、ということです。
本質のお話は魂のレベルのお話で、タイムラインとは関係なく時空を超えて存在している普遍の意識ですから、タイムラインをやり直すかどうかというのは時間と空間の中のお話ですので表層に過ぎないのですよね。
私のこの教訓としては、妻とか結婚するとかそういうレベルにおいてはタイムラインを遡るというのはあまり意味を持たないのだな、ということです。結局、美人で大人しくて優しい妻だとしても「ふふふ」と見下すような人というところがその妻の本当の本当の本質だとしたら、その本質が最初に分かっていたのだとしたら、タイムラインを遡って回避するなんてことをせずに、最初からその人は選ばない方が良かったのかもしれないのです。
このあたり、人の笑顔の意味を読み取る、という点においてこの時点では経験が足りなくて、特に、心の奥で何かを思っていて利益のために笑顔でいるような人の笑顔の意味を読み取るという点において理解が足りなかったように思います。
表層では大人しくても裏で何かを企んでいる、みたいな人の本性を読み取るのが私は割と苦手で、それを知るためにここしばらくの人生を繰り返していたとも言えて、特に今回の人生では、割と周囲に性格の悪い人が多い環境を選ぶことで性格の悪さと笑顔という関係を深く学んだように思います。
妻の本当の性格を確かめるためにタイムラインを遡る
妻が本当に自分のことが好きで優しいのか、生活のために笑顔で満足した生活をしているだけなのか、本当に妻は性格が良いのか、それを確かめるためにタイムラインを遡ることがあります。
まあ、実のところ、妻の本性を確かめるというよりも、人というものの性質を知ることが本来の目的で、私は、他人が笑顔でいるとその本性を読み取るということが本当に苦手なのです。今も割と苦手で時々騙されたりしますけど、昔よりは理解できるようになったように思います。
そもそも、ある程度のスピリチュアルになってくると世の中の人全てが悟っているかのように見えてきてしまいますので、実のところ性格が悪い人であったとしても聖人が普通に振る舞っているかのように見えてしまうのです。そうすると、何やら悩んでいたり変な態度をしたとしてもほとんど気にならなくて、何かやってるな、というくらいしか思わないわけです。そのような状態で他人の性格の悪さというものを理解するというのは本当に難しくて、特に、笑顔で接してくる人を見ると、その本性を見抜くのはとても難しく感じていたわけです。と、言いますか、特に疑問も持たずにちょっと作り笑顔かもしれないと思うことがあるくらいでした。
そうなってくると、ある程度の関係を持った後では本性を理解するということがかなり難しくて、本当の姿を知るためにタイムラインを遡って、相手がまだ油断している段階でその人が本当はどういう人なのかを遠目で確かめる、ということを時々したりします。
その、とある妻の場合においては、もはや関係を持った後では割と大人しく優しく笑顔でいて本当の性格を見抜くことができませんでしたので、他のタイムラインで、それほど仲良くなる前の段階で、ちょっと私の性格が悪く見えてしまうかもしれませんけど、ちょっと色々と矢継ぎ早に質問したり疑問を投げかけたりして、そのようにちょっと面倒くさそうに(見える)人に接した時に、その妻が、他のタイムラインにおいてまだお互いに知らない筈の状態でどのように私に接するのか、少しストレスを感じた時にどのような本性が出てくるのかを見ることでその妻の本性を見抜こうとしたのでした。
その妻がちょっと面倒臭そうな表情をし始めて、それでも、もうちょっとストレスかけると本性が見れるかなと思いつつ、ちょっと性格が悪く見えてしまうかもしれませんけど、もう少し色々と質問をしたりして、これはどうなの、あれはどうなの、と言って疑問を投げかけていると、ふとした時にちょっとイラッとして「ちょっと! めんどくさい!」と軽く怒ってきました。
ふむ。これがこの子が怒った時の状態か・・・ と、その時、内面が見えた気がしました。
結局、心が読めてタイムラインが見通せたとしても、他人の状態というのを正確に読み取るのは本当に難しいのです。心が読めるというのは表層ですから心でどう思っていたとしても本当の意識というものは心と一緒だったりそうでなかったり本当の意図は別にあったりして、心が読めるからこそ惑わされることもあるわけです。
ずっと、妻の本当のところが理解できないでいましたけど、こうしてタイムラインを遡ることで妻の性格をより知ることができて、「あぁ、キレる側の子なんだな」と理解できて、ちょっと覚めたのでした。
まあ、実のところ、妻の本性を確かめるというよりも、人というものの性質を知ることが本来の目的で、私は、他人が笑顔でいるとその本性を読み取るということが本当に苦手なのです。今も割と苦手で時々騙されたりしますけど、昔よりは理解できるようになったように思います。
そもそも、ある程度のスピリチュアルになってくると世の中の人全てが悟っているかのように見えてきてしまいますので、実のところ性格が悪い人であったとしても聖人が普通に振る舞っているかのように見えてしまうのです。そうすると、何やら悩んでいたり変な態度をしたとしてもほとんど気にならなくて、何かやってるな、というくらいしか思わないわけです。そのような状態で他人の性格の悪さというものを理解するというのは本当に難しくて、特に、笑顔で接してくる人を見ると、その本性を見抜くのはとても難しく感じていたわけです。と、言いますか、特に疑問も持たずにちょっと作り笑顔かもしれないと思うことがあるくらいでした。
そうなってくると、ある程度の関係を持った後では本性を理解するということがかなり難しくて、本当の姿を知るためにタイムラインを遡って、相手がまだ油断している段階でその人が本当はどういう人なのかを遠目で確かめる、ということを時々したりします。
その、とある妻の場合においては、もはや関係を持った後では割と大人しく優しく笑顔でいて本当の性格を見抜くことができませんでしたので、他のタイムラインで、それほど仲良くなる前の段階で、ちょっと私の性格が悪く見えてしまうかもしれませんけど、ちょっと色々と矢継ぎ早に質問したり疑問を投げかけたりして、そのようにちょっと面倒くさそうに(見える)人に接した時に、その妻が、他のタイムラインにおいてまだお互いに知らない筈の状態でどのように私に接するのか、少しストレスを感じた時にどのような本性が出てくるのかを見ることでその妻の本性を見抜こうとしたのでした。
その妻がちょっと面倒臭そうな表情をし始めて、それでも、もうちょっとストレスかけると本性が見れるかなと思いつつ、ちょっと性格が悪く見えてしまうかもしれませんけど、もう少し色々と質問をしたりして、これはどうなの、あれはどうなの、と言って疑問を投げかけていると、ふとした時にちょっとイラッとして「ちょっと! めんどくさい!」と軽く怒ってきました。
ふむ。これがこの子が怒った時の状態か・・・ と、その時、内面が見えた気がしました。
結局、心が読めてタイムラインが見通せたとしても、他人の状態というのを正確に読み取るのは本当に難しいのです。心が読めるというのは表層ですから心でどう思っていたとしても本当の意識というものは心と一緒だったりそうでなかったり本当の意図は別にあったりして、心が読めるからこそ惑わされることもあるわけです。
ずっと、妻の本当のところが理解できないでいましたけど、こうしてタイムラインを遡ることで妻の性格をより知ることができて、「あぁ、キレる側の子なんだな」と理解できて、ちょっと覚めたのでした。
何世代もスピリチュアルな修行をして成長する
私のグループソウルの記憶の中に、インドのとある村でスワミ(修行僧)をした記憶があります。そこで弟子になった一人がとにかく出来が悪くて、瞑想で長く座っていると雑念とかに苦しめられて、そもそも座ることが苦手だったりして、いわゆる不肖の弟子だった、かわいい弟子がいました。
それはかなり昔のことで、私のグループソウルはその後も何度も同じアシュラムに転生したことがあるのですが、記憶によれば、最初にそこでスワミになってから十人以上の肖像画があった気がしますので、その不肖の弟子がいた頃はかなり昔だったように思います。
とは言いましてもあの世には時間はあってないようなものですからその子にとっては割と最近の転生の可能性もありますけど、実際のこの世の時間軸で言うとそれなりに時間が経っているようなのです。
実際、その子と今世でたまたま再会して、とは言いましてもグループソウルの繋がりであって私自身の直接の過去世の繋がりと言うわけではないですけど、それでも、ある程度の当時の気持ちが再現されてくるわけです。
どうやら相手はこちらに気づいていませんでしたのでわざわざ言うなんて野暮なことはしませんでしたけど、あの当時は不肖の弟子だったのが、今は割と心が安定して、立派にやっているようでした。実は今世においてもスワミをしていて、当時もその後、一応はスワミになったのですけど、今世でもまたやっていると言うことは、随分とスワミをすることが気に入ったのかもしれません。
もともとはかなり出来が悪くて、その一つの人生だけでも一応のぼちぼちの境地には達して、でも、まだまだなのはそうだとしても、今まで地道な成長ん続けているわけです。
すぐに劇的はスピリチュアルな成長ができなくても、少しずつ修行していけば成長して行けるという好例だと思います。
それはかなり昔のことで、私のグループソウルはその後も何度も同じアシュラムに転生したことがあるのですが、記憶によれば、最初にそこでスワミになってから十人以上の肖像画があった気がしますので、その不肖の弟子がいた頃はかなり昔だったように思います。
とは言いましてもあの世には時間はあってないようなものですからその子にとっては割と最近の転生の可能性もありますけど、実際のこの世の時間軸で言うとそれなりに時間が経っているようなのです。
実際、その子と今世でたまたま再会して、とは言いましてもグループソウルの繋がりであって私自身の直接の過去世の繋がりと言うわけではないですけど、それでも、ある程度の当時の気持ちが再現されてくるわけです。
どうやら相手はこちらに気づいていませんでしたのでわざわざ言うなんて野暮なことはしませんでしたけど、あの当時は不肖の弟子だったのが、今は割と心が安定して、立派にやっているようでした。実は今世においてもスワミをしていて、当時もその後、一応はスワミになったのですけど、今世でもまたやっていると言うことは、随分とスワミをすることが気に入ったのかもしれません。
もともとはかなり出来が悪くて、その一つの人生だけでも一応のぼちぼちの境地には達して、でも、まだまだなのはそうだとしても、今まで地道な成長ん続けているわけです。
すぐに劇的はスピリチュアルな成長ができなくても、少しずつ修行していけば成長して行けるという好例だと思います。
女性は、男性に強く愛されると悟りに近づく
信頼によって、特に女性は心の扉が開きます。
それは、スピリチュアル的に言えばチャクラが開く、ということでもあります。
何もスピリチュアルなことがわからなくても、むしろ、スピリチュアルなことがわからない人の方が割とチャクラが開いている、という現実もあるように思います。
スピリチュアルどうこう言っている人は単なる趣味だったり追いかけだったり気まぐれだったりして、それよりは、普通の生活をしていて家族と楽しく暮らしたりして信頼できる家族の関係を作っている人の方が遥かに実際はスピリチュアルのレベルが高い、なんてことは普通にあります。
ですから、スピリチュアルな知識をどれだけ持っているか、という面と、実際のスピリチュアルなレベルとは、実際、そこまで相関関係はないのです。
割と昔の、日本的な女性というのはチャクラが開いている傾向があって、そうは言いましても割と開いているのはスワディスタナだったりせいぜいマニプラだったりしますけど、それでも、開いていないよりかなりマシなわけです。
一方で、チャクラが全然開いていない女性というのももちろん存在していて、そういう人の場合、エネルギーに乏しくて、感情が希薄で、恥ずかしげというのもあまりなくて、裸体に色気がなくて、ただの人形のような女性に見えたりすることもありますけど、チャクラが開いているかどうかで随分と違うわけです。
ですけど、チャクラというのは最初は開いていなくても開くことができて、特に、男性に深く愛されているとそれが信頼関係の扉になって、信頼が一定に達して相手に深く委ねることができるようになるとチャクラの開きが加速され、その信頼と委ねがそれなりに積み重なると今まで閉じていたチャクラが開いて、急に活性化されるわけです。
そのチャクラの開きは、まるで太陽の光がお腹の中から湧き出ているか激しく煌煌と輝いているかのようにも感じられて、それと同時に、エネルギーの高まりも一気に出てきて、人生が激しい熱いものへと変わってゆくわけです。
実際のところ、こうして愛されて開くチャクラは下のものですのでそれだけですとまだコントロールがしにくくて、そのチャクラのエネルギーを上のチャクラまで繋げて昇華することで悟りに近づくわけですけど、下のチャクラだけであったとしてもチャクラがほとんど開いていない状態と比べたら遥かにマシなわけで、それだけでも、この人生を豊かに暮らすことができるようになります。
このとき、浄化がそこまで進んでいないと性欲に溺れる危険性がありますのでしっかりとしたパートナーに掴まっていることも大切な時期にはなりますけど、きっとこの段階は誰しもが気をつけて通り抜ける時期かと思いますので、それぞれ、この、ある種、危うい時期を安全に通り抜けるのが良いと思います。
▪️あの世のコミュニティのサポートでこの世の苦労を乗り越える
ただし、この世界は知らないと落ちる落とし穴というものがありますから、危険を避けるためにもスピリチュアルな知識を持っていた方がいいとは思いますが、それでも、そもそも正しい生活をしていて家族などとの信頼関係をしっかりと築けている方はその人生で家族だった人があの世のコミュニティでも関係が継続して、来世においてもそのコミュニティからのサポートが得られますのでそこまで悪いことにならないわけです。
例えば、コミュニティで楽しく暮らしていた一人の女の子がいて、ある日、「私、地上で遊んでくるねー」と言って、急に転生していきました。
あの世のコミュニティにあっても、時空を超えて未来を読めるかどうかは人それぞれで、人によっては現在の時間軸しか見れなかったりしますけど、時空を超えて未来を読むと、その子が苦労して、かなり疲れた顔で帰ってくるのが見えたわけです。
具体的には、若い頃に何か変な男に捕まって夜の仕事を始めて、若いうちはお客さんとキャッキャキャッキャ言って楽しんでいたけれども年を取るにつれて相手にされなくなって、気づいたら収入が激減していて中年以降はお金がなくなってきて、仕事もなかなかなくてお金に苦労して、晩年はかなり疲れた感じになって一生を終えて帰ってくるのが見えました。
そこで、私が、その子が出かけて行ったすぐ後に「あぁ、○○ちゃん、大変なことになるから、誰か、面倒見に行ってあげて」と、コミュニティのみんなに言ったら「え? 何のこと???」みたいな感じで、みんなキョトンとしていたのでした。誰も手を上げないというか、「どういうことだろ?」なよくわからない感じが続いたのですけど、この状況はなかなか説明しにくいなぁ・・・ と思っていたら、その子と割と仲良くあの世のコミュニティで暮らしていた子が「じゃあ、私行くよ」と言ってくれたので、「お願い。地上でも友達になって支えてあげて」とお願いして、その子の友達として転生してくれることになったのでした。
二人とも女の人として転生したのですけど、ふとしたことで二人は知り合って、仲良くなって、色々と助ける関係になったのでした。
その他にも、転生する家庭を選ぶときにコミュニティのサポートで良さそうな家庭を選ぶとか、職業の就職において良いように都合してあげるだとか、時と場合にもよりますけどコミュニティのサポートが手厚く行われたりするわけです。
▪️仏教などが言っている先祖供養より現世の人間関係を大切にする方が良い
現世で信頼関係を築いた人間関係の多くはあの世のコミュニティに引き継がれます。ですから、先祖供養という意味においては過去の人生から繋がってきたコミュニティの人たちに感謝することは基本として大切ではありますけど、それよりも、現世での人間関係の方がよっぽど大切なわけです。
仏教ではあくまでも肉体としての先祖の供養ですけど、実際のあの世のコミュニティは血の繋がりによる制約はなくて、単に仲の良かった人たちで一緒に暮らす、というだけのお話ですので、仏教のお墓はほとんど重要視されておりません。
仏教のお墓はただ単に肉体としての遺骨を収めるだけで、死後に魂がコミュニティを作る時は時間と場所に制約されませんから、お墓がどこにあろうともあまり関係がないわけです。親戚でコミュニティを作るという制約は全く存在しなくて、親戚で仲の良い人がいることももちろんありますけど、親戚以外で仲がいいという時ももちろんあるでしょう。
特に夫婦関係においては、しっかりとした信頼関係を築いた場合はコミュニティにその関係がそのまま引き継がれて、次の転生などの時にあの世のコミュニティから色々とサポートを受けられるわけです。
それは、損得勘定を超えた関係で割と無償の提供になります。そもそもあの世には制約がなくて願いさえすれば(他の人の魂以外であれば)何でも瞬時に現れますからお金とかに行動が制約されないわけです。ですから、コミュニティによる転生者へのサポートにしても、本人がしたいからしている、という、本当に単純な理由で、何かそれによって利益を得るためにサポートしているとかそういうことではなくて、サポートするのが楽しいからしている、という、単純な理由でサポートしているわけです。サポートだとすら思っていなくて、気になるからどうにかしたいと思う、とか、世話したい、とか、それぞれの衝動に従って行動するわけです。
夫婦関係とかですとこの世では1対1が基本となっていて、あの世のコミュニティに戻った時に過去生の妻とかが沢山いて自分以外の妻とかが仲良くしているのを見ると最初はびっくりして「一体、何事?」とか思うかもしれませんけど、それは浮気とかではなくて、過去生の別の妻だったりするわけです。
この辺り、あの世のコミュニティの形に慣れていないと地上の1対1の関係性を再度持ち出してしまうこともあって、頭のいい子ですとすぐに勘付くのですけど、状況を理解するのに時間がかかる子もいたりします。
そういう理解のハードルはありますけど基本的にこの地上の関係がそのままあの世でも継続して、それが来世にも継続して、良い関係が更に深まって、そうなるにつれ、相手の良いところも悪いところも知り尽くして、対処もうまくできるようになったりするわけです。
それは、スピリチュアル的に言えばチャクラが開く、ということでもあります。
何もスピリチュアルなことがわからなくても、むしろ、スピリチュアルなことがわからない人の方が割とチャクラが開いている、という現実もあるように思います。
スピリチュアルどうこう言っている人は単なる趣味だったり追いかけだったり気まぐれだったりして、それよりは、普通の生活をしていて家族と楽しく暮らしたりして信頼できる家族の関係を作っている人の方が遥かに実際はスピリチュアルのレベルが高い、なんてことは普通にあります。
ですから、スピリチュアルな知識をどれだけ持っているか、という面と、実際のスピリチュアルなレベルとは、実際、そこまで相関関係はないのです。
割と昔の、日本的な女性というのはチャクラが開いている傾向があって、そうは言いましても割と開いているのはスワディスタナだったりせいぜいマニプラだったりしますけど、それでも、開いていないよりかなりマシなわけです。
一方で、チャクラが全然開いていない女性というのももちろん存在していて、そういう人の場合、エネルギーに乏しくて、感情が希薄で、恥ずかしげというのもあまりなくて、裸体に色気がなくて、ただの人形のような女性に見えたりすることもありますけど、チャクラが開いているかどうかで随分と違うわけです。
ですけど、チャクラというのは最初は開いていなくても開くことができて、特に、男性に深く愛されているとそれが信頼関係の扉になって、信頼が一定に達して相手に深く委ねることができるようになるとチャクラの開きが加速され、その信頼と委ねがそれなりに積み重なると今まで閉じていたチャクラが開いて、急に活性化されるわけです。
そのチャクラの開きは、まるで太陽の光がお腹の中から湧き出ているか激しく煌煌と輝いているかのようにも感じられて、それと同時に、エネルギーの高まりも一気に出てきて、人生が激しい熱いものへと変わってゆくわけです。
実際のところ、こうして愛されて開くチャクラは下のものですのでそれだけですとまだコントロールがしにくくて、そのチャクラのエネルギーを上のチャクラまで繋げて昇華することで悟りに近づくわけですけど、下のチャクラだけであったとしてもチャクラがほとんど開いていない状態と比べたら遥かにマシなわけで、それだけでも、この人生を豊かに暮らすことができるようになります。
このとき、浄化がそこまで進んでいないと性欲に溺れる危険性がありますのでしっかりとしたパートナーに掴まっていることも大切な時期にはなりますけど、きっとこの段階は誰しもが気をつけて通り抜ける時期かと思いますので、それぞれ、この、ある種、危うい時期を安全に通り抜けるのが良いと思います。
▪️あの世のコミュニティのサポートでこの世の苦労を乗り越える
ただし、この世界は知らないと落ちる落とし穴というものがありますから、危険を避けるためにもスピリチュアルな知識を持っていた方がいいとは思いますが、それでも、そもそも正しい生活をしていて家族などとの信頼関係をしっかりと築けている方はその人生で家族だった人があの世のコミュニティでも関係が継続して、来世においてもそのコミュニティからのサポートが得られますのでそこまで悪いことにならないわけです。
例えば、コミュニティで楽しく暮らしていた一人の女の子がいて、ある日、「私、地上で遊んでくるねー」と言って、急に転生していきました。
あの世のコミュニティにあっても、時空を超えて未来を読めるかどうかは人それぞれで、人によっては現在の時間軸しか見れなかったりしますけど、時空を超えて未来を読むと、その子が苦労して、かなり疲れた顔で帰ってくるのが見えたわけです。
具体的には、若い頃に何か変な男に捕まって夜の仕事を始めて、若いうちはお客さんとキャッキャキャッキャ言って楽しんでいたけれども年を取るにつれて相手にされなくなって、気づいたら収入が激減していて中年以降はお金がなくなってきて、仕事もなかなかなくてお金に苦労して、晩年はかなり疲れた感じになって一生を終えて帰ってくるのが見えました。
そこで、私が、その子が出かけて行ったすぐ後に「あぁ、○○ちゃん、大変なことになるから、誰か、面倒見に行ってあげて」と、コミュニティのみんなに言ったら「え? 何のこと???」みたいな感じで、みんなキョトンとしていたのでした。誰も手を上げないというか、「どういうことだろ?」なよくわからない感じが続いたのですけど、この状況はなかなか説明しにくいなぁ・・・ と思っていたら、その子と割と仲良くあの世のコミュニティで暮らしていた子が「じゃあ、私行くよ」と言ってくれたので、「お願い。地上でも友達になって支えてあげて」とお願いして、その子の友達として転生してくれることになったのでした。
二人とも女の人として転生したのですけど、ふとしたことで二人は知り合って、仲良くなって、色々と助ける関係になったのでした。
その他にも、転生する家庭を選ぶときにコミュニティのサポートで良さそうな家庭を選ぶとか、職業の就職において良いように都合してあげるだとか、時と場合にもよりますけどコミュニティのサポートが手厚く行われたりするわけです。
▪️仏教などが言っている先祖供養より現世の人間関係を大切にする方が良い
現世で信頼関係を築いた人間関係の多くはあの世のコミュニティに引き継がれます。ですから、先祖供養という意味においては過去の人生から繋がってきたコミュニティの人たちに感謝することは基本として大切ではありますけど、それよりも、現世での人間関係の方がよっぽど大切なわけです。
仏教ではあくまでも肉体としての先祖の供養ですけど、実際のあの世のコミュニティは血の繋がりによる制約はなくて、単に仲の良かった人たちで一緒に暮らす、というだけのお話ですので、仏教のお墓はほとんど重要視されておりません。
仏教のお墓はただ単に肉体としての遺骨を収めるだけで、死後に魂がコミュニティを作る時は時間と場所に制約されませんから、お墓がどこにあろうともあまり関係がないわけです。親戚でコミュニティを作るという制約は全く存在しなくて、親戚で仲の良い人がいることももちろんありますけど、親戚以外で仲がいいという時ももちろんあるでしょう。
特に夫婦関係においては、しっかりとした信頼関係を築いた場合はコミュニティにその関係がそのまま引き継がれて、次の転生などの時にあの世のコミュニティから色々とサポートを受けられるわけです。
それは、損得勘定を超えた関係で割と無償の提供になります。そもそもあの世には制約がなくて願いさえすれば(他の人の魂以外であれば)何でも瞬時に現れますからお金とかに行動が制約されないわけです。ですから、コミュニティによる転生者へのサポートにしても、本人がしたいからしている、という、本当に単純な理由で、何かそれによって利益を得るためにサポートしているとかそういうことではなくて、サポートするのが楽しいからしている、という、単純な理由でサポートしているわけです。サポートだとすら思っていなくて、気になるからどうにかしたいと思う、とか、世話したい、とか、それぞれの衝動に従って行動するわけです。
夫婦関係とかですとこの世では1対1が基本となっていて、あの世のコミュニティに戻った時に過去生の妻とかが沢山いて自分以外の妻とかが仲良くしているのを見ると最初はびっくりして「一体、何事?」とか思うかもしれませんけど、それは浮気とかではなくて、過去生の別の妻だったりするわけです。
この辺り、あの世のコミュニティの形に慣れていないと地上の1対1の関係性を再度持ち出してしまうこともあって、頭のいい子ですとすぐに勘付くのですけど、状況を理解するのに時間がかかる子もいたりします。
そういう理解のハードルはありますけど基本的にこの地上の関係がそのままあの世でも継続して、それが来世にも継続して、良い関係が更に深まって、そうなるにつれ、相手の良いところも悪いところも知り尽くして、対処もうまくできるようになったりするわけです。
様々な階層の守護霊による助け
私が普段認識している魂の世界は概ね3階層で、分けようと思えばもっと分けることもできますし別世界みたいな感じでよその世界もありますけど、ひとまずの区分と思って聞いてください。
まず、生きている人に一番近いのが、過去生からの繋がりで一緒だった妻とか仲の良い人たちで作られるコミュニティです。この世界は割とこの世の姿に似ていて、実のところ空中に浮いてはいるのですけど、各人のイメージで周囲に実態というか幻影みたいなものを作り出してこの地上の世界に似たような姿を周囲に映し出して生活している世界です。
ですから、地上で一軒家に住んでいて部屋にこたつがあったりテーブルがあったりするとそのイメージで部屋が作られて、それは常にあるわけではなくて必要な時にパッと現れてそこに実際に誰かが入り込んで一時的にその環境下で生活をして、満足したらすぐにそのイメージが消えて静かな状態に戻る、ということを繰り返します。
家もあれば道も山もあって、全てはイメージで瞬時に作られて、実のところ限界などないのですけど、イメージでなんとなく限界あるいは制限を作り出すこともあったりします。地面もあったりなかったりで、普段は空中に浮いているのですけど、体操やヨガをしようとすると地面があった方がいいですので必要ならすぐに地面が現れる感じですね。全てはイメージでどうとでもなるわけです。
自分の体や姿すらも自由にできますけど基本的には生前の姿にある程度は似ている姿で生きるのが普通で、それも、自分が一番気に入っていて気力に満ち溢れた姿でいるのが基本な気がします。ただ、コミュニティ的に特定のイメージの姿をした方が相手に認知されやすい場合などはその場合によって姿を選ぶときがあって、例えば、晩年に知り合った人とのコミュニティの場合は、相手に認知されやすいように、基本は若い姿でいるのですけど、相手に「ん?誰だっけ」と思われたら一瞬だけ年寄りの姿に戻って「あぁ、あの人か」みたいに認知してもらうこともあります。
そのように、生前に知り合った人たちで作られるコミュニティがあります。これが一番この地上の世界に近いコミュニティです。そこから再度、地上に転生することもありますし、分霊を作って転生することもありますし、あるいは、もっと上位の魂に向かって昇天して帰ってゆくこともあります。
■天上界と根源の光のハイヤーセルフあるいはグループソウル
次の階層として存在しているのが、もっと天上界に近い、いわゆる天使あるいは神様に近い階層です。このくらいになりますと寿命も知恵も高くて、天使と呼ばれる時もありますし、あるいは、いわゆる天界みたいに呼ばれることもあります。日本の場合は日本の天界から転生している人が多くて、日本の、いわゆる昔風の日本の人たちの雰囲気はまさに日本の天界に住んでいる人たちの気質にとてもよく似たものです。どこか陽気で、しかし、男は時にカミナリオヤジでキツいことを言ったり昔の武士みたいにちょっと融通が利かなかったり、そして、女性はというと陽気だったり方向音痴だったり旦那を尻に敷いたり気が強かったり、日本にいる女性のバリエーションそのものだったりします。
まあ、これら2つの階層は違うようでいて割と繋がっていて、本人たちが認知しさえすればお互いに行き来できるものになります。
そして、更にこのバリエーションとして、地球のあらゆる人種のそれぞれのコミュニティ、あるいは、地球外のコミュニティまで多種多様に存在していて、はっきり言って把握できないほど多く存在しています。
この、多種多様なコミュニティのうち、波動が高いものがあって、それは、根源の魂の光としてのコミュニティになっています。これが、第三階層です。これは比喩的に言えば大天使あるいは根源の光ということになりますけど、多くの魂が連なったグループソウル、あるいは、集合的なハイヤーセルフとしての魂の根源になります。それは強く光り輝いていて、エネルギーが強く、エネルギー量、そして、光の輝きもとても大きいものになります。この根源から分霊が作られて地上に転生し、そして、役目を終えて昇天した魂はこの根源の魂のグループに帰ってゆきます。
この魂の根源のグループには名前があってないようなもので、名前を言っても「ない」としか帰ってこなくて、もはや個としての名前は存在していなくて、それでも、その根源から分霊として地上に転生したときは数々の名前で呼ばれるときがあります。それは、転生して体や個としての意識を持った時に一時的につけられた名前で、その根源としては集合意識であって名前はないのです。時に比喩的に名前を付けられることもありますけど、本当のところで言えば、名前を付けられるようなものではないのです。
そのように、第3階層までありますけど、この地上に生を受けて、仲良くなった人たちとのコミュニティで生活をして、そしてやがては満足して昇天し、天のグループソウル(あるいはハイヤーセルフ)に戻ってゆくわけです。そして、またハイヤーセルフから分霊が必要に応じて作られる、というサイクルを繰り返すわけです。
■昇天してグループソウルとしてのハイヤーセルフに還る魂
人が生きているのはこうしてまたハイヤーセルフに戻ってゆくためで、分霊が作られて地上に転生しているのはハイヤーセルフが何かを願った結果であり、願いは大抵の場合は知識であり、知るという目的を果たして満足したらその成果を持ってハイヤーセルフに帰ってゆくわけです。その他にも、地上を救うだとかそういう特殊な使命を帯びて転生する人もいるにはいますけど、大抵の場合は知識欲求によって転生することが多いのかな、という気が致します。
そうして、地上に生まれた使命を果たした魂は満足し、昇天して死後に空に浮かんでハイヤーセルフに帰還するわけです。死んだら既に空中に浮かんでいるわけですけど、空中に浮かんでいる状態で、更に上に浮かんでゆき、昇天するのです。これは、説明を聞くとなんのこっちゃと思われるかもしれませんけど、次元が上昇する時に、既に浮いている死後の体が更に上に登って行って、光に包まれて、それを見ている他の人からすると消えてしまったかのように見えますけど、実際のところ、高次元のハイヤーセルフのところに戻るわけです。
そうすると、ハイヤーセルフの自分としては集合意識になっておりますので、その意識から見ると、元いた場所の知り合いや妻たちが「あれ? 上に登っていって光に包まれて消えて行ったけど、一体、どこに行ってしまったの? 何が起きたのだろう?」と不思議に思っているのが集合意識から全てを観察することができます。
しばらく、その状態でハイヤーセルフの集合意識と情報交換をし、転生した時の記憶や経験をグループソウル(=ハイヤーセルフ)として蓄積します。その後、場合によってはそのままハイヤーセルフのまま留まりますけど、私の場合、妻たちが寂しがっているのが見えましたので、少しした後に、コアはそのままで、ですけど、コアの周囲としてはハイヤーセルフ(=グループソウル)の意識を引き連れて、全く同じではないですけど再度、分霊を作って妻たちのところまで降りてきました。
この場合、一旦ハイヤーセルフ(=グループソウル)と融合してしまうと完全に昔と同じように分離することはほとんど不可能で、ですけど、コアのようなものがありますから、割と似たような、ですけど、完全には同じではない自分として分霊を再度作ることができるわけです。
ですから、元妻たちは口でははっきりとはそうは言わないですけど「あれ、同じ人だと思うけど、どこか違うな」みたいなところを感じ取っている人もいるとは思っていて、それはそうで、コアは同じですけどハイヤーセルフと一旦融合して再度分離した以上は同じ人ではありようがないわけです。
そのように、昇天と分霊というのは融合と再分裂という魂の結合と分離を伴っていて、しかも、グループソウルと混ざり合うことで経験や記憶もお互いに交換されて、全く同じ人としての分霊になることはあり得ないわけですけど、コアとしては割と同じ人として人生が続くことになるわけです。
■魂と守護霊の3階層の世界における様々な助け
このような階層において、まず、過去の妻や家族あるいは仲の良い人が人間に近い守護霊としてサポートしてくれます。これが第一階層としての守護霊。
次に、ハイヤーセルフ繋がりでお願いをしてより具体的な中間的な適切な魂にサポートを依頼することがあります。ハイヤーセルフ(=グループソウル)はそれより下の階層の個別の分霊から見るとグループソウルに見えますけど、そのグループソウルそれ自体も集合意識で一人の大きな人格のようなものを有しており、そのハイヤーセルフあるいはグループソウルとしてのいわゆる人格っぽい集合意識の周囲にも、同じように神格化されても良いほどの集合意識としての他のハイヤーセルフがいて、そのオーラの量にはそれぞれ差がありますけどハイヤーセルフ同士で付き合いがあって、その、他のハイヤーセルフとの繋がりで、地上の転生のサポートをしてくれる人が適切に選ばれて、かなりの高次のサポートがついてくれたりします。
ハイヤーセルフは人格化と一応は言っていますけど個としての存在があるようでいてない、人格化された、とは言っても名前はあるようでいてない、そのような関係における繋がりで遠くの知り合い、とは言っても集合意識ですから自他の区別はあまりなくて、違うハイヤーセルフとは言ってもそれほど自他の区別のない、そのような繋がりにおいて適切な人が知り合いのハイヤーセルフのインスピレーションも借りて適切に選ばれて、依頼をしてくれるわけです。依頼するからには相手も同意が必要ですけど、同意してくれれば、サポートの人がハイヤーセルフとしてのコミュニティからついてくれることになるわけです。それは過去の妻や仲の良い人たちで作られる階層の地上の浮世のサポートとは役割が違って、過去の妻とかは割と現世的な日常生活のお節介やきがほとんどですけど、この種のハイヤーセルフ繋がりのサポートの場合はもっと根源的な、スピリチュアルな過去・現在・未来という視点を通じたサポートになって、精神的な向上を目指したサポートになります。これが第二階層としての守護霊です。
そして第三階層として、人の根源として魂のレベルで常に繋がっている、ハートで繋がるハイヤーセルフとしてのサポートがあります。これは守護霊というよりは自分の根源そのものであってハイヤーセルフそのものでもありますけど、コアとしては同じでオーラとしても同一で、実のところずっとハイヤーセルフとは繋がっていて、それを守護霊と比喩的に言うこともできますけど、実際のところ、自分自身でもあります。この階層もあります。
更に補足としては、ハイヤーセルフの別の分霊が人生をサポートしてくれたりすることもあります。ただ、他の分霊がサポートしてくれるよりも、頻度としては、自分自身の魂が時空を超えて過去や未来をサポートすることの方が場合としては多くて、例えば、生まれる前に人生を俯瞰して計画してあらかじめ未来の自分に対してサポートを入れたり、あるいは、一旦うまくいかなかったタイムラインを書き換えるために過去に戻って自分をサポートすることもあります。これも見ようによっては守護霊のようなもので、このようなサポートも存在するわけです。
まず、生きている人に一番近いのが、過去生からの繋がりで一緒だった妻とか仲の良い人たちで作られるコミュニティです。この世界は割とこの世の姿に似ていて、実のところ空中に浮いてはいるのですけど、各人のイメージで周囲に実態というか幻影みたいなものを作り出してこの地上の世界に似たような姿を周囲に映し出して生活している世界です。
ですから、地上で一軒家に住んでいて部屋にこたつがあったりテーブルがあったりするとそのイメージで部屋が作られて、それは常にあるわけではなくて必要な時にパッと現れてそこに実際に誰かが入り込んで一時的にその環境下で生活をして、満足したらすぐにそのイメージが消えて静かな状態に戻る、ということを繰り返します。
家もあれば道も山もあって、全てはイメージで瞬時に作られて、実のところ限界などないのですけど、イメージでなんとなく限界あるいは制限を作り出すこともあったりします。地面もあったりなかったりで、普段は空中に浮いているのですけど、体操やヨガをしようとすると地面があった方がいいですので必要ならすぐに地面が現れる感じですね。全てはイメージでどうとでもなるわけです。
自分の体や姿すらも自由にできますけど基本的には生前の姿にある程度は似ている姿で生きるのが普通で、それも、自分が一番気に入っていて気力に満ち溢れた姿でいるのが基本な気がします。ただ、コミュニティ的に特定のイメージの姿をした方が相手に認知されやすい場合などはその場合によって姿を選ぶときがあって、例えば、晩年に知り合った人とのコミュニティの場合は、相手に認知されやすいように、基本は若い姿でいるのですけど、相手に「ん?誰だっけ」と思われたら一瞬だけ年寄りの姿に戻って「あぁ、あの人か」みたいに認知してもらうこともあります。
そのように、生前に知り合った人たちで作られるコミュニティがあります。これが一番この地上の世界に近いコミュニティです。そこから再度、地上に転生することもありますし、分霊を作って転生することもありますし、あるいは、もっと上位の魂に向かって昇天して帰ってゆくこともあります。
■天上界と根源の光のハイヤーセルフあるいはグループソウル
次の階層として存在しているのが、もっと天上界に近い、いわゆる天使あるいは神様に近い階層です。このくらいになりますと寿命も知恵も高くて、天使と呼ばれる時もありますし、あるいは、いわゆる天界みたいに呼ばれることもあります。日本の場合は日本の天界から転生している人が多くて、日本の、いわゆる昔風の日本の人たちの雰囲気はまさに日本の天界に住んでいる人たちの気質にとてもよく似たものです。どこか陽気で、しかし、男は時にカミナリオヤジでキツいことを言ったり昔の武士みたいにちょっと融通が利かなかったり、そして、女性はというと陽気だったり方向音痴だったり旦那を尻に敷いたり気が強かったり、日本にいる女性のバリエーションそのものだったりします。
まあ、これら2つの階層は違うようでいて割と繋がっていて、本人たちが認知しさえすればお互いに行き来できるものになります。
そして、更にこのバリエーションとして、地球のあらゆる人種のそれぞれのコミュニティ、あるいは、地球外のコミュニティまで多種多様に存在していて、はっきり言って把握できないほど多く存在しています。
この、多種多様なコミュニティのうち、波動が高いものがあって、それは、根源の魂の光としてのコミュニティになっています。これが、第三階層です。これは比喩的に言えば大天使あるいは根源の光ということになりますけど、多くの魂が連なったグループソウル、あるいは、集合的なハイヤーセルフとしての魂の根源になります。それは強く光り輝いていて、エネルギーが強く、エネルギー量、そして、光の輝きもとても大きいものになります。この根源から分霊が作られて地上に転生し、そして、役目を終えて昇天した魂はこの根源の魂のグループに帰ってゆきます。
この魂の根源のグループには名前があってないようなもので、名前を言っても「ない」としか帰ってこなくて、もはや個としての名前は存在していなくて、それでも、その根源から分霊として地上に転生したときは数々の名前で呼ばれるときがあります。それは、転生して体や個としての意識を持った時に一時的につけられた名前で、その根源としては集合意識であって名前はないのです。時に比喩的に名前を付けられることもありますけど、本当のところで言えば、名前を付けられるようなものではないのです。
そのように、第3階層までありますけど、この地上に生を受けて、仲良くなった人たちとのコミュニティで生活をして、そしてやがては満足して昇天し、天のグループソウル(あるいはハイヤーセルフ)に戻ってゆくわけです。そして、またハイヤーセルフから分霊が必要に応じて作られる、というサイクルを繰り返すわけです。
■昇天してグループソウルとしてのハイヤーセルフに還る魂
人が生きているのはこうしてまたハイヤーセルフに戻ってゆくためで、分霊が作られて地上に転生しているのはハイヤーセルフが何かを願った結果であり、願いは大抵の場合は知識であり、知るという目的を果たして満足したらその成果を持ってハイヤーセルフに帰ってゆくわけです。その他にも、地上を救うだとかそういう特殊な使命を帯びて転生する人もいるにはいますけど、大抵の場合は知識欲求によって転生することが多いのかな、という気が致します。
そうして、地上に生まれた使命を果たした魂は満足し、昇天して死後に空に浮かんでハイヤーセルフに帰還するわけです。死んだら既に空中に浮かんでいるわけですけど、空中に浮かんでいる状態で、更に上に浮かんでゆき、昇天するのです。これは、説明を聞くとなんのこっちゃと思われるかもしれませんけど、次元が上昇する時に、既に浮いている死後の体が更に上に登って行って、光に包まれて、それを見ている他の人からすると消えてしまったかのように見えますけど、実際のところ、高次元のハイヤーセルフのところに戻るわけです。
そうすると、ハイヤーセルフの自分としては集合意識になっておりますので、その意識から見ると、元いた場所の知り合いや妻たちが「あれ? 上に登っていって光に包まれて消えて行ったけど、一体、どこに行ってしまったの? 何が起きたのだろう?」と不思議に思っているのが集合意識から全てを観察することができます。
しばらく、その状態でハイヤーセルフの集合意識と情報交換をし、転生した時の記憶や経験をグループソウル(=ハイヤーセルフ)として蓄積します。その後、場合によってはそのままハイヤーセルフのまま留まりますけど、私の場合、妻たちが寂しがっているのが見えましたので、少しした後に、コアはそのままで、ですけど、コアの周囲としてはハイヤーセルフ(=グループソウル)の意識を引き連れて、全く同じではないですけど再度、分霊を作って妻たちのところまで降りてきました。
この場合、一旦ハイヤーセルフ(=グループソウル)と融合してしまうと完全に昔と同じように分離することはほとんど不可能で、ですけど、コアのようなものがありますから、割と似たような、ですけど、完全には同じではない自分として分霊を再度作ることができるわけです。
ですから、元妻たちは口でははっきりとはそうは言わないですけど「あれ、同じ人だと思うけど、どこか違うな」みたいなところを感じ取っている人もいるとは思っていて、それはそうで、コアは同じですけどハイヤーセルフと一旦融合して再度分離した以上は同じ人ではありようがないわけです。
そのように、昇天と分霊というのは融合と再分裂という魂の結合と分離を伴っていて、しかも、グループソウルと混ざり合うことで経験や記憶もお互いに交換されて、全く同じ人としての分霊になることはあり得ないわけですけど、コアとしては割と同じ人として人生が続くことになるわけです。
■魂と守護霊の3階層の世界における様々な助け
このような階層において、まず、過去の妻や家族あるいは仲の良い人が人間に近い守護霊としてサポートしてくれます。これが第一階層としての守護霊。
次に、ハイヤーセルフ繋がりでお願いをしてより具体的な中間的な適切な魂にサポートを依頼することがあります。ハイヤーセルフ(=グループソウル)はそれより下の階層の個別の分霊から見るとグループソウルに見えますけど、そのグループソウルそれ自体も集合意識で一人の大きな人格のようなものを有しており、そのハイヤーセルフあるいはグループソウルとしてのいわゆる人格っぽい集合意識の周囲にも、同じように神格化されても良いほどの集合意識としての他のハイヤーセルフがいて、そのオーラの量にはそれぞれ差がありますけどハイヤーセルフ同士で付き合いがあって、その、他のハイヤーセルフとの繋がりで、地上の転生のサポートをしてくれる人が適切に選ばれて、かなりの高次のサポートがついてくれたりします。
ハイヤーセルフは人格化と一応は言っていますけど個としての存在があるようでいてない、人格化された、とは言っても名前はあるようでいてない、そのような関係における繋がりで遠くの知り合い、とは言っても集合意識ですから自他の区別はあまりなくて、違うハイヤーセルフとは言ってもそれほど自他の区別のない、そのような繋がりにおいて適切な人が知り合いのハイヤーセルフのインスピレーションも借りて適切に選ばれて、依頼をしてくれるわけです。依頼するからには相手も同意が必要ですけど、同意してくれれば、サポートの人がハイヤーセルフとしてのコミュニティからついてくれることになるわけです。それは過去の妻や仲の良い人たちで作られる階層の地上の浮世のサポートとは役割が違って、過去の妻とかは割と現世的な日常生活のお節介やきがほとんどですけど、この種のハイヤーセルフ繋がりのサポートの場合はもっと根源的な、スピリチュアルな過去・現在・未来という視点を通じたサポートになって、精神的な向上を目指したサポートになります。これが第二階層としての守護霊です。
そして第三階層として、人の根源として魂のレベルで常に繋がっている、ハートで繋がるハイヤーセルフとしてのサポートがあります。これは守護霊というよりは自分の根源そのものであってハイヤーセルフそのものでもありますけど、コアとしては同じでオーラとしても同一で、実のところずっとハイヤーセルフとは繋がっていて、それを守護霊と比喩的に言うこともできますけど、実際のところ、自分自身でもあります。この階層もあります。
更に補足としては、ハイヤーセルフの別の分霊が人生をサポートしてくれたりすることもあります。ただ、他の分霊がサポートしてくれるよりも、頻度としては、自分自身の魂が時空を超えて過去や未来をサポートすることの方が場合としては多くて、例えば、生まれる前に人生を俯瞰して計画してあらかじめ未来の自分に対してサポートを入れたり、あるいは、一旦うまくいかなかったタイムラインを書き換えるために過去に戻って自分をサポートすることもあります。これも見ようによっては守護霊のようなもので、このようなサポートも存在するわけです。
誰それの有名人の生まれ変わり、というのお話は大抵は眉唾
中には本当もありますけど、そうは言っても、100%というのはほとんどありません。と言いますのは、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合があって、有名人というのがそれなりに大義を成した人だった場合、その魂は往生して昇天してグループソウルに帰りますから、一旦グループソウルに帰った場合はグループの中に一旦は溶け込んで、コアの部分は一応は温存されますけど、コアを元に新たな魂が分離したとして、それは同じ人ではあり得ないのです。
コアが同じならば同じ人、という理屈は一応は成り立つと言えばそうかもしれませんけど、私はその場合は同じ人とは考えなくて、単にコアが同じ人、として考えます。
その、コアが同じ人の転生の回数というのは見方によって変わってきて、全く縁のない人にとってみれば転生の1回目ということになりますし、それはそれで違和感がなくてそう言われたとすれば「それはそうですね」となるのですけど、同じコアが以前の分霊の時に知り合った人が「コアが同じで再度グループソウルから分離した分霊」と再度知り合いになる時に、コアが同じだから同じ人で転生を繰り返していると考えるのか、あるいは、コアが同じだけれどもグループソウルから再分離したので違う人と考えるのか、あるいは、単純に「コアが同じ」と考えるだけで転生をカウントしないのか、それとも、一部が同じ魂だから転生をカウントする、あるいはそれはカウントしない、と考えるかで転生の回数のカウントの仕方が違ってくるのです。
ですから、「誰それの有名人の生まれ変わり」みたいに単純化できるものでもなくて、実際のところ、言おうと思えばグループソウルが同じところに属していさえすればそのようなことは言えてしまうわけで、となると、考え方次第では「誰それ有名人の生まれ変わり」というのは、とてもとても多く存在することになります。
ですけど、一般の人の転生のイメージというのは同じ人がそのまま100%転生する、というイメージになりますから、そのように、同じ魂がそのまま転生するというのは昇天できなくて彷徨っている場合に限られていて、それは、あるとしても、そこまで良いことではないのです。昇天できないからこそグループソウルに戻ることができなくて、それ故に100%の転生を繰り返しているということですから、褒められたものでもないのです。
あるいは、聖なる存在が死んだ時には魂が分離することもあります。聖なる部分が昇天してグループソウルあるいは元々属していた神様のところに入って、残りが地上に残って転生を繰り返す場合もあります。この場合でも、残された転生した方の生まれ変わりだとしたら昇天できなかった部分が転生しているということになりますから、有名人の生まれ変わりだと言われて喜んでばかりもいられないわけです。
■昇天するといわゆる転生はしない
この、魂の遍歴を「魂のコア」と「所属しているグループソウル」にまで辿った上で誰それの有名人とどのくらいの関係があるのかまで判別することができれば自分自身の魂の経歴を知ることで自分自身の成長の糧にもできるでしょうけど、単に占い師やスピリチュアルカウンセラーに誰それの生まれ変わりだと指摘されたところで、それがどのくらい正確かというと、眉唾なことが多いとは思います。
例えば、有名どころでいうとジャンヌ・ダルクは死後に3つに分かれました。三分の一の純粋な神の意識はグループソウル(ハイヤーセルフ)に戻って神の意識と一体となりました。この場合、海の中に川が流れ込むのと同様に、個体としての存在はなくなってハイヤーセルフ(グループソウル)のみになります。よって、この上位の三分の一の部分はもう転生しないのです。中間の三分の一はそれでも高貴な魂でしたのでヨーロッパの現在フランスにある、とある貴族の娘として生まれ変わりました。火炙りになったことによって苦しみの念が残ってしまった下方の三分の一はしばらくあの世を漂った後、とある2人の日本の神様にとあるお願いをされて、その要請を受ける形でとある有名な、日本人なら誰でも知っている武将として生まれて名を挙げました。純粋な三分の一はその後は生まれ変わることなく神の意識として存在し続け、中間の三分の一はヨーロッパで何度か転生を繰り返しました。日本の武将として生まれた下方の三分の一の部分は、それはそれでその後苦労をしました。そして、それぞれの転生と人生でそれぞれ魂の分裂や統合、昇天、および、グループソウルからの分霊が追加で加わる、など、各種の変化があります。そのように、生まれ変わりというのは単純ではないのです。
ですので、色々と実際はあるのですけど、ざっくばらんに言ってしまえば、自分の今の人生は一度きりというのはそう間違いでもなくて、魂は継続はしますけど、今の個性と魂そのままで生きられるのは割と今回それっきりだったりするわけです。昇天せずに転生する場合は割と同じ個性で生まれ変わりますけど、それは昇天できなかったということで割と失敗の部類に入ってしまいますので、成功した人生であれば昇天してグループソウル(ハイヤーセルフ)に戻りますので、昇天をベースに考えるならば今の個性での人生は一度きりと考えてしまってもそう間違いでもないわけです。
歴史上の有名人がスピリチュアル的に偉大であればあるほど丸ごと昇天する可能性あるいは分裂して神に近い部分だけが昇天してグループソウル(ハイヤーセルフ)に戻る可能性が高くなりますので、偉大であれば偉大であるほど転生という可能性が少なくて、スピリチュアル的にそうでもなくて単に影響力があったという場合は転生している可能性がそこそこあります。どちらにせよ、転生というのは必ずしも良いものでもなくて、本来は一回で使命を果たすべきなわけです。
一方、グループソウル(ハイヤーセルフとも言う)に統合した後、特定の目的があって再度分霊ができることがあります。その場合、同じコアの場合は生まれ変わりと言えなくもなくて、昇天しても生まれ変わる、と見なそうと思えば見なせるわけですけど、それは世間一般で言われているような「そのままの生まれ変わり」ではないわけです。昇天してから再度分霊ができる場合は「特徴、あるいは、目の雰囲気、顔の雰囲気が似ている」というくらいの類似性はあって、コアが同じ場合はもっとよく似ることになります。ですけど、それが世間一般で言われている「そのまま100%の生まれ変わり」かというと、そうではないわけです。
この辺りを分かった上で、コアが同じ場合に便宜的に「生まれ変わり」と表現することはそこまで間違いではないにせよ、誤解のあるお話かなと思います。
意図的に、前の人生に似せて分霊を作ることもあります。この場合、前の分霊の時との繋がりを重視する目的があったりします。そのコアにしてもどのくらい強く引き継ぐのかによって変わってきて、言い換えれば、コアとその周辺も含めて引き継ぐのか、コアの近くだけを引き継ぐのかでも分霊の性質が変わってきます。
この辺りは、きちんと見ていかないとわかるようなわからないようなお話になりますので、ざっくばらんに話すときは説明が大変だったりしますので簡単に「生まれ変わりがある」と言っても良いし「ない」と言っても良いのですけど、実際には細かく見ないとどうなっているのかはわからないわけです。
コアが同じならば同じ人、という理屈は一応は成り立つと言えばそうかもしれませんけど、私はその場合は同じ人とは考えなくて、単にコアが同じ人、として考えます。
その、コアが同じ人の転生の回数というのは見方によって変わってきて、全く縁のない人にとってみれば転生の1回目ということになりますし、それはそれで違和感がなくてそう言われたとすれば「それはそうですね」となるのですけど、同じコアが以前の分霊の時に知り合った人が「コアが同じで再度グループソウルから分離した分霊」と再度知り合いになる時に、コアが同じだから同じ人で転生を繰り返していると考えるのか、あるいは、コアが同じだけれどもグループソウルから再分離したので違う人と考えるのか、あるいは、単純に「コアが同じ」と考えるだけで転生をカウントしないのか、それとも、一部が同じ魂だから転生をカウントする、あるいはそれはカウントしない、と考えるかで転生の回数のカウントの仕方が違ってくるのです。
ですから、「誰それの有名人の生まれ変わり」みたいに単純化できるものでもなくて、実際のところ、言おうと思えばグループソウルが同じところに属していさえすればそのようなことは言えてしまうわけで、となると、考え方次第では「誰それ有名人の生まれ変わり」というのは、とてもとても多く存在することになります。
ですけど、一般の人の転生のイメージというのは同じ人がそのまま100%転生する、というイメージになりますから、そのように、同じ魂がそのまま転生するというのは昇天できなくて彷徨っている場合に限られていて、それは、あるとしても、そこまで良いことではないのです。昇天できないからこそグループソウルに戻ることができなくて、それ故に100%の転生を繰り返しているということですから、褒められたものでもないのです。
あるいは、聖なる存在が死んだ時には魂が分離することもあります。聖なる部分が昇天してグループソウルあるいは元々属していた神様のところに入って、残りが地上に残って転生を繰り返す場合もあります。この場合でも、残された転生した方の生まれ変わりだとしたら昇天できなかった部分が転生しているということになりますから、有名人の生まれ変わりだと言われて喜んでばかりもいられないわけです。
■昇天するといわゆる転生はしない
この、魂の遍歴を「魂のコア」と「所属しているグループソウル」にまで辿った上で誰それの有名人とどのくらいの関係があるのかまで判別することができれば自分自身の魂の経歴を知ることで自分自身の成長の糧にもできるでしょうけど、単に占い師やスピリチュアルカウンセラーに誰それの生まれ変わりだと指摘されたところで、それがどのくらい正確かというと、眉唾なことが多いとは思います。
例えば、有名どころでいうとジャンヌ・ダルクは死後に3つに分かれました。三分の一の純粋な神の意識はグループソウル(ハイヤーセルフ)に戻って神の意識と一体となりました。この場合、海の中に川が流れ込むのと同様に、個体としての存在はなくなってハイヤーセルフ(グループソウル)のみになります。よって、この上位の三分の一の部分はもう転生しないのです。中間の三分の一はそれでも高貴な魂でしたのでヨーロッパの現在フランスにある、とある貴族の娘として生まれ変わりました。火炙りになったことによって苦しみの念が残ってしまった下方の三分の一はしばらくあの世を漂った後、とある2人の日本の神様にとあるお願いをされて、その要請を受ける形でとある有名な、日本人なら誰でも知っている武将として生まれて名を挙げました。純粋な三分の一はその後は生まれ変わることなく神の意識として存在し続け、中間の三分の一はヨーロッパで何度か転生を繰り返しました。日本の武将として生まれた下方の三分の一の部分は、それはそれでその後苦労をしました。そして、それぞれの転生と人生でそれぞれ魂の分裂や統合、昇天、および、グループソウルからの分霊が追加で加わる、など、各種の変化があります。そのように、生まれ変わりというのは単純ではないのです。
ですので、色々と実際はあるのですけど、ざっくばらんに言ってしまえば、自分の今の人生は一度きりというのはそう間違いでもなくて、魂は継続はしますけど、今の個性と魂そのままで生きられるのは割と今回それっきりだったりするわけです。昇天せずに転生する場合は割と同じ個性で生まれ変わりますけど、それは昇天できなかったということで割と失敗の部類に入ってしまいますので、成功した人生であれば昇天してグループソウル(ハイヤーセルフ)に戻りますので、昇天をベースに考えるならば今の個性での人生は一度きりと考えてしまってもそう間違いでもないわけです。
歴史上の有名人がスピリチュアル的に偉大であればあるほど丸ごと昇天する可能性あるいは分裂して神に近い部分だけが昇天してグループソウル(ハイヤーセルフ)に戻る可能性が高くなりますので、偉大であれば偉大であるほど転生という可能性が少なくて、スピリチュアル的にそうでもなくて単に影響力があったという場合は転生している可能性がそこそこあります。どちらにせよ、転生というのは必ずしも良いものでもなくて、本来は一回で使命を果たすべきなわけです。
一方、グループソウル(ハイヤーセルフとも言う)に統合した後、特定の目的があって再度分霊ができることがあります。その場合、同じコアの場合は生まれ変わりと言えなくもなくて、昇天しても生まれ変わる、と見なそうと思えば見なせるわけですけど、それは世間一般で言われているような「そのままの生まれ変わり」ではないわけです。昇天してから再度分霊ができる場合は「特徴、あるいは、目の雰囲気、顔の雰囲気が似ている」というくらいの類似性はあって、コアが同じ場合はもっとよく似ることになります。ですけど、それが世間一般で言われている「そのまま100%の生まれ変わり」かというと、そうではないわけです。
この辺りを分かった上で、コアが同じ場合に便宜的に「生まれ変わり」と表現することはそこまで間違いではないにせよ、誤解のあるお話かなと思います。
意図的に、前の人生に似せて分霊を作ることもあります。この場合、前の分霊の時との繋がりを重視する目的があったりします。そのコアにしてもどのくらい強く引き継ぐのかによって変わってきて、言い換えれば、コアとその周辺も含めて引き継ぐのか、コアの近くだけを引き継ぐのかでも分霊の性質が変わってきます。
この辺りは、きちんと見ていかないとわかるようなわからないようなお話になりますので、ざっくばらんに話すときは説明が大変だったりしますので簡単に「生まれ変わりがある」と言っても良いし「ない」と言っても良いのですけど、実際には細かく見ないとどうなっているのかはわからないわけです。
人生は一度きり、というのはある意味正しい
いわゆる魂は継続して、経験も愛も記憶も肉体の死で消えたりはしないのですけど、それでも、人生は一度きりというのはある意味正しいと言うこともできます。
転生パターンは2つあるわけですけど、魂(幽体)がそのまま再度転生する場合は昇天できなくて人生やり直しになるということもできて、そうでなくて人生を往生して昇天する場合はグループソウルの中に溶け込みますので、今生きている個性と記憶と経験を持った「私」という存在は今回の人生一度っきりと言えばそれはそうなのです。
グループソウルにまで視点を広げれば人生は何度もあると言えばそうなのですけど、グループソウルから分霊を作って個として生きている私という存在に関して言えば、コアが同じ場合はそれなりに似ることはありますけど、全く同じ個人という意味においては人生は基本的に一度きりなわけです。
昇天できなくて人生をループしている場合もありますので、この場合、個性も含めて同じような個としての転生があります。ただし、それは誉められたものではなくて、1人の人生ゲームであらかじめ自分で設定した目標をクリアできなくて、いわば卒業試験に受からなくて昇天できずに人生の輪廻転生ループに入ってしまっているのです。
■2つの輪廻転生のループ(苦しみのループと知識のループ)
仏教やインドのヒンドゥ教あるいはヴェーダでは輪廻転生のループから抜け出して自由(モクシャ)あるいは悟りを得ることが重要視されていますけど、輪廻転生のループをしている場合というのは人生に満足できていなくて人生の目的を達成できなくて人生やり直しをしているということなわけです。
ですから、仏教やヴェーダで自由(モクシャ)や悟りを得た場合に行き着くのは昇天及びグループソウルとの合流で、それは一応は「輪廻転生の終焉」と言えばそれはそうなのですけど、それは個として人生ゲームを卒業できないでループに陥っているところからの脱出としての意味合いしかなくて、もっと大きな視点が描けていないのです。
もう1つ大きな輪廻転生のループがあって、グループソウルが目的に即して分霊を作って人生を送る、というループがあります。これは卒業がないと言っても良く、このグループソウルのループが終わる時は宇宙が全てを学び終わって宇宙が不要になる時と言っても良いくらい長く永遠に近い月日を必要としますので、人間の意識からするとこのループの終焉など考える必要がないくらい永遠に近いわけです。
そのように、グループソウルとしての輪廻転生には終わりがなくて、それは普通の人間が苦しみのうちに輪廻転生ループしているのと違って、グループソウルの分霊及び輪廻転生というのは全て「学び」のために行われている、という違いがあります。
仏教やヴェーダで輪廻転生のループから抜け出す、というお話は欲望だとか苦しみだとか執着だとか、現世的な苦しみから抜け出してループから抜けるというお話であるわけです。
それはそれであって、一方、グループソウルとしてはそれよりも一つ上の階層に視点があって、グループソウルの視点というのは「知識」「探求」「意識」であるわけです。意識することで探求し、知識を得るのです。そして、そのために分霊を作り出して探求したりします。
転生パターンは2つあるわけですけど、魂(幽体)がそのまま再度転生する場合は昇天できなくて人生やり直しになるということもできて、そうでなくて人生を往生して昇天する場合はグループソウルの中に溶け込みますので、今生きている個性と記憶と経験を持った「私」という存在は今回の人生一度っきりと言えばそれはそうなのです。
グループソウルにまで視点を広げれば人生は何度もあると言えばそうなのですけど、グループソウルから分霊を作って個として生きている私という存在に関して言えば、コアが同じ場合はそれなりに似ることはありますけど、全く同じ個人という意味においては人生は基本的に一度きりなわけです。
昇天できなくて人生をループしている場合もありますので、この場合、個性も含めて同じような個としての転生があります。ただし、それは誉められたものではなくて、1人の人生ゲームであらかじめ自分で設定した目標をクリアできなくて、いわば卒業試験に受からなくて昇天できずに人生の輪廻転生ループに入ってしまっているのです。
■2つの輪廻転生のループ(苦しみのループと知識のループ)
仏教やインドのヒンドゥ教あるいはヴェーダでは輪廻転生のループから抜け出して自由(モクシャ)あるいは悟りを得ることが重要視されていますけど、輪廻転生のループをしている場合というのは人生に満足できていなくて人生の目的を達成できなくて人生やり直しをしているということなわけです。
ですから、仏教やヴェーダで自由(モクシャ)や悟りを得た場合に行き着くのは昇天及びグループソウルとの合流で、それは一応は「輪廻転生の終焉」と言えばそれはそうなのですけど、それは個として人生ゲームを卒業できないでループに陥っているところからの脱出としての意味合いしかなくて、もっと大きな視点が描けていないのです。
もう1つ大きな輪廻転生のループがあって、グループソウルが目的に即して分霊を作って人生を送る、というループがあります。これは卒業がないと言っても良く、このグループソウルのループが終わる時は宇宙が全てを学び終わって宇宙が不要になる時と言っても良いくらい長く永遠に近い月日を必要としますので、人間の意識からするとこのループの終焉など考える必要がないくらい永遠に近いわけです。
そのように、グループソウルとしての輪廻転生には終わりがなくて、それは普通の人間が苦しみのうちに輪廻転生ループしているのと違って、グループソウルの分霊及び輪廻転生というのは全て「学び」のために行われている、という違いがあります。
仏教やヴェーダで輪廻転生のループから抜け出す、というお話は欲望だとか苦しみだとか執着だとか、現世的な苦しみから抜け出してループから抜けるというお話であるわけです。
それはそれであって、一方、グループソウルとしてはそれよりも一つ上の階層に視点があって、グループソウルの視点というのは「知識」「探求」「意識」であるわけです。意識することで探求し、知識を得るのです。そして、そのために分霊を作り出して探求したりします。
自分が到達できるスピリチュアルの到達点は自分の属するグループソウル次第
この認識はかなり重要で、世間でスピリチュアルの手法やらノウハウやら知識が公開されていますけど、それは本人が属するグループソウルの成長の段階で頭打ちするのです。
よく、スピリチュアルで「世界」だとか「全体」だとか「宇宙」とか言われているのは、本人たちもきっと薄々と気づいているのかもしれないですけど、そこで言っている諸々の「全体」という概念は、ほとんどの場合、グループソウルのことを「全体」だと言っているのです。
・主観「(瞑想などで)宇宙と一体になった」
・主観「(瞑想などで)世界と一体になった」
・主観「(瞑想などで)全体と一体になった」
このどれもが、実際は「グループソウルと一体になった」と言っている場合がほとんどのように思います。
実際のところ、他人に属するグループソウルとは意図的にそうしない限りはそうそう重なり合わないのです。
他人のオーラと融合させる手法というものも存在していて、それはそれであるのですけど、他人とオーラを融合させない方が良いのです。これは宇宙の法則でもあって、そうそう他人とオーラを融合させるべきではないのです。他人とオーラを融合させると自分とは全く関係ないカルマや葛藤及びトラウマを引き受けたりすることになりますから、オーラを融合させないのが基本にあるべきなわけです。
その前提に立った上で、自分及び属するグループソウルの認識がどの程度かというと話は単純で、自分が到達できるスピリチュアルの階梯というのは自分が属するグループソウルの意識の階梯になります。自分というのはグループソウルの分霊でありますから、意識のレベルというものもグループソウルと基本的には同等なわけです。
ですから、グループソウルが到達していない意識レベルに到達するためには頑張って認識を深めたり修行したり勉強したりする必要がありますし、他人と比べた場合は、グループソウルが違えば意識のレベルも異なるのは当然なわけです。
そうなってくると、スピリチュアルでよく言われている手法、クンダリーニだとかハイヤーセルフだとかいうお話は、悲しいことですけど、属するグループソウルによっては割と簡単だったり当たり前のことだったりしますけど、そうでない場合ももちろんあるわけです。
それは人それぞれ、グループソウルの辿ってきた歴史にもよるのですけど、大きく分けると地球由来のグループソウルと宇宙を転々としてきたグループソウルではレベルが大きく違っています。
スピリチュアルはグループソウルのレベルでまず頭打ちになって、グループソウルがまだ到達していない部分をそれぞれの分霊が修行したり色々と勉強してそれ以上を目指すわけです。
昨今では唯物論的な世界になってスピリチュアルのレベルが下がりやすくなっていますけど、その場合でも、スピリチュアルの修行や勉強をするとグループソウルが既に達しているレベルまでは割とすぐに戻すことができます。
■スピリチュアルが単なる想像でしかない事も多い
地球由来のスピリチュアルの場合、「信仰」「崇拝」という形を取ることが多いように思います。ですから、地球由来で育ったグループソウルの場合はこちらの形を取る場合が多いのも当然のように思います。こちらの場合、スピリチュアルとは言っても想像して楽しんだりファッションやら形を真似る、という形式になることが多いように思います。それはそれでそこまで悪いことではないですけど、真似たり崇拝及び信仰という形を取るわけです。多くの場合、どこまで行ってもスピリチュアルで言われていることは「想像」でしかなくて、それで一生を終える場合も多々あります。それでも、そのような探求を何世も行えば少しずつ成長してゆくので無駄にはなりません。そうであったとしても、瞑想をして少しでも雑念が少ない生活を送れて幸せな気分になれるのであれば、それでも割と十分すぎるのではないかとも思うのです。地球由来の魂の場合、「静寂の境地」が一つの到達点であるように思います。そのため、多くの宗教で「静寂の境地」が悟りに相当すると謳われているのでしょう。
一方、スピリチュアルで言われている手法を本当に実践できるのは宇宙由来のグループソウル(及び一部の地球由来のグループソウル)で、こちらの場合は本当にクンダリーニが覚醒したりハイヤーセルフと繋がったりして、スピリチュアルで言われていることを実践できるわけです。こちらの場合、静寂の境地を「基礎」としてクンダリーニを活性化させたりハイヤーセルフと繋がったり幽体離脱したり意識が次元を超えたりして、本当のスピリチュアルを実践できるわけです。
長年、スピリチュアルなことが表に出ずに秘密にされてきたのも、スピリチュアルな知識を地球由来の魂が知ったところで理解できないですし自分達の欲望を叶えるために使うだけですので教えるだけ無駄になる、という背景があるように思います。記録や言い伝えによりますと、過去に何度もスピリチュアルな知識を人々の求めに応じて与えてみたことがあったが、そのどれも失望の結果に終わった、ということで、それ以来、安易にスピリチュアルの知識は伝えないという伝統が出来上がったとのことです。
昨今、時代は変わって「もはや秘密ではない」とスピリチュアルの先人たちが知識を公開し始めました結果として私たちも様々な書物を読むことができますが、必ずしも誰しもが理解できるわけではないわけですし、誰しもが実践できるわけでもないわけです。
よく、スピリチュアルで「世界」だとか「全体」だとか「宇宙」とか言われているのは、本人たちもきっと薄々と気づいているのかもしれないですけど、そこで言っている諸々の「全体」という概念は、ほとんどの場合、グループソウルのことを「全体」だと言っているのです。
・主観「(瞑想などで)宇宙と一体になった」
・主観「(瞑想などで)世界と一体になった」
・主観「(瞑想などで)全体と一体になった」
このどれもが、実際は「グループソウルと一体になった」と言っている場合がほとんどのように思います。
実際のところ、他人に属するグループソウルとは意図的にそうしない限りはそうそう重なり合わないのです。
他人のオーラと融合させる手法というものも存在していて、それはそれであるのですけど、他人とオーラを融合させない方が良いのです。これは宇宙の法則でもあって、そうそう他人とオーラを融合させるべきではないのです。他人とオーラを融合させると自分とは全く関係ないカルマや葛藤及びトラウマを引き受けたりすることになりますから、オーラを融合させないのが基本にあるべきなわけです。
その前提に立った上で、自分及び属するグループソウルの認識がどの程度かというと話は単純で、自分が到達できるスピリチュアルの階梯というのは自分が属するグループソウルの意識の階梯になります。自分というのはグループソウルの分霊でありますから、意識のレベルというものもグループソウルと基本的には同等なわけです。
ですから、グループソウルが到達していない意識レベルに到達するためには頑張って認識を深めたり修行したり勉強したりする必要がありますし、他人と比べた場合は、グループソウルが違えば意識のレベルも異なるのは当然なわけです。
そうなってくると、スピリチュアルでよく言われている手法、クンダリーニだとかハイヤーセルフだとかいうお話は、悲しいことですけど、属するグループソウルによっては割と簡単だったり当たり前のことだったりしますけど、そうでない場合ももちろんあるわけです。
それは人それぞれ、グループソウルの辿ってきた歴史にもよるのですけど、大きく分けると地球由来のグループソウルと宇宙を転々としてきたグループソウルではレベルが大きく違っています。
スピリチュアルはグループソウルのレベルでまず頭打ちになって、グループソウルがまだ到達していない部分をそれぞれの分霊が修行したり色々と勉強してそれ以上を目指すわけです。
昨今では唯物論的な世界になってスピリチュアルのレベルが下がりやすくなっていますけど、その場合でも、スピリチュアルの修行や勉強をするとグループソウルが既に達しているレベルまでは割とすぐに戻すことができます。
■スピリチュアルが単なる想像でしかない事も多い
地球由来のスピリチュアルの場合、「信仰」「崇拝」という形を取ることが多いように思います。ですから、地球由来で育ったグループソウルの場合はこちらの形を取る場合が多いのも当然のように思います。こちらの場合、スピリチュアルとは言っても想像して楽しんだりファッションやら形を真似る、という形式になることが多いように思います。それはそれでそこまで悪いことではないですけど、真似たり崇拝及び信仰という形を取るわけです。多くの場合、どこまで行ってもスピリチュアルで言われていることは「想像」でしかなくて、それで一生を終える場合も多々あります。それでも、そのような探求を何世も行えば少しずつ成長してゆくので無駄にはなりません。そうであったとしても、瞑想をして少しでも雑念が少ない生活を送れて幸せな気分になれるのであれば、それでも割と十分すぎるのではないかとも思うのです。地球由来の魂の場合、「静寂の境地」が一つの到達点であるように思います。そのため、多くの宗教で「静寂の境地」が悟りに相当すると謳われているのでしょう。
一方、スピリチュアルで言われている手法を本当に実践できるのは宇宙由来のグループソウル(及び一部の地球由来のグループソウル)で、こちらの場合は本当にクンダリーニが覚醒したりハイヤーセルフと繋がったりして、スピリチュアルで言われていることを実践できるわけです。こちらの場合、静寂の境地を「基礎」としてクンダリーニを活性化させたりハイヤーセルフと繋がったり幽体離脱したり意識が次元を超えたりして、本当のスピリチュアルを実践できるわけです。
長年、スピリチュアルなことが表に出ずに秘密にされてきたのも、スピリチュアルな知識を地球由来の魂が知ったところで理解できないですし自分達の欲望を叶えるために使うだけですので教えるだけ無駄になる、という背景があるように思います。記録や言い伝えによりますと、過去に何度もスピリチュアルな知識を人々の求めに応じて与えてみたことがあったが、そのどれも失望の結果に終わった、ということで、それ以来、安易にスピリチュアルの知識は伝えないという伝統が出来上がったとのことです。
昨今、時代は変わって「もはや秘密ではない」とスピリチュアルの先人たちが知識を公開し始めました結果として私たちも様々な書物を読むことができますが、必ずしも誰しもが理解できるわけではないわけですし、誰しもが実践できるわけでもないわけです。
悟る前の最後の転生は障害を持つ可能性がある
障害を持つことでその能力を完全に否定して、それ故に、高次の能力に目覚めて、それが悟りへの鍵になることがあります。この種のお話は流派によっては語り継がれていることで、「最後の転生は身体障害者」なんていう説もあったりしますけど、それは当たらずも遠からず、と言ったところかと思います。
実際のところ、身体障害者として最後に転生をする前は悟っていないわけで、悟っていないからこそ、最後の悟りに至るために五感あるいは霊的な五感に相当する能力を封じて上の波動階層の感覚を目覚めさせようとしているわけです。
その障害が肉体の五感に関するものであれば霊的な五感がそれなりに開けるでしょうし、その障害が霊的な五感に相当するものであったとすれば、霊感を超えた、ヨーガでいうプルシャあるいはヴェーダンタで言うところのアートマンの領域に目覚めるかもしれません。
一つ上の階層が目覚めるためには、必ずしもその一つ手前の能力が無くならなくてはならないわけではないのですけど、無くなることでその感覚に頼ることができなくなりますから、一つ上の能力を常に求めざるを得ないわけです。それはもちろん人によって、求めずに諦めている人もいらっしゃるかもしれませんけど、悟りのために障害を持って生まれた場合は必然的に上の能力を求めるように思います。
その他にも、単にカルマを負って障害を持って生まれる場合もあって、それはそんなに悟りと障害と関係がなかったりしますけど、悟りのために障害を持って生まれた場合は、このように、上の能力を目覚めさせる強制的な訓練になります。
肉体の能力で言えばわかりやすくて、例えば肉眼の視覚がない人の場合はそれ以上の感覚的能力を求めるでしょうし、一方で、元々霊的な視野(霊視)と霊的な聴覚(霊聴)がある場合でもそれ以上の領域に開けてゆくためには一時的に霊的な能力を一部制限してそれ以上の波動領域に繋がっていけるように訓練する場合があるわけです。
これは、それなりの基礎があって、その上で、割と自分で選ぶことで障害を持って生まれるわけです。
■霊的な能力をあえて封じて転生することで悟りに近づく
実際のところ、障害を持たずして生まれてそのまま悟ることができるならばそれで十分なわけで、何がしかの原因によりそれまでの人生においてずっと何度も成長ができなくて、停滞していて、どうしても成長が阻害されているか、あるいは、転生する度に波動が落ちていてかなり辛い状況になっている場合、その停滞や落ち込みを打破するためのスパルタ式の修行がこの種の障害を持った人生に相当するわけです。
肉体の障害にせよ、霊的な障害にせよ、今まで見えたり聞こえたりしていたものができなくなるわけですから、最初はとても怖いのです。例えば、霊視できていて悪霊を避けたり霊聴で警告を聞けた人がそれができなくなったりすると、とても怖い状況の一生を過ごさなくてはならないわけです。その人生を選ぶ前には途轍もない恐怖があって、実際、生まれてからも何も霊視できない、何も霊聴できない、という暗闇のような状況に陥ると、それでも肉体の五感は満足ですから肉体の感覚に頼らざるを得なくなって、一応は生活できるわけですけど、今まで包まれていた霊的な世界から切り離されて、今まで当たり前だった霊的感覚が希薄な状況で生活するしかなくなるわけです。
そうなると、それなりの確率で物理的な快楽にはまったり、物欲及びエゴが拡大して堕落してゆきます。ですから、実のところそのような障害を持つ人生というのはかなりのハイリスクではあるのですけど、その分、高く成長できる可能性があるのです。
外から見ると、そうして霊視や霊聴を制限された人というのは普通の人にしか見えなくて、特に、ちょっと霊能力が出てきた人と比べたとしても霊的能力は劣っていたりしますから、全然成長していない素人あるいはただの物理的な人間にしか見えなかったりします。そう思われたとしても無理はなくて、そもそもこの今の世の中にはこの種の修行をしている人はほとんどいませんし、そのような修行が存在していることすらほとんどの人は知らなかったりします。
もはや、最近ではあまり使われなくなった「霊界の特殊なマント」というものがあって、霊的能力を制限して転生することができるわけです。それは特殊なマントラと(手の)印が鍵になっていて、そんなに難しいものではないですけど、印とマントラを唱えると封印が解けるわけです。あるいは、死後に肉体から離れると封印が解かれます。
特に今のご時世ですと簡単に堕落してしまいますのでこの修行はお勧めしないのですけど、一部ではこのような手法で修行をしている人も稀にいて、例えば、お坊さんの修行をしていて何も成長しない凡人のように思われていた人が実はこのマントを使っていて、それ故に何も霊的能力が現れてこなかった、ということがあります。
人は、霊的能力でその人の霊的成長やスピリチュアルの成長度合いを測ったりしますけど、必ずしもそれで測れることばかりではないわけです。
実際のところ、身体障害者として最後に転生をする前は悟っていないわけで、悟っていないからこそ、最後の悟りに至るために五感あるいは霊的な五感に相当する能力を封じて上の波動階層の感覚を目覚めさせようとしているわけです。
その障害が肉体の五感に関するものであれば霊的な五感がそれなりに開けるでしょうし、その障害が霊的な五感に相当するものであったとすれば、霊感を超えた、ヨーガでいうプルシャあるいはヴェーダンタで言うところのアートマンの領域に目覚めるかもしれません。
一つ上の階層が目覚めるためには、必ずしもその一つ手前の能力が無くならなくてはならないわけではないのですけど、無くなることでその感覚に頼ることができなくなりますから、一つ上の能力を常に求めざるを得ないわけです。それはもちろん人によって、求めずに諦めている人もいらっしゃるかもしれませんけど、悟りのために障害を持って生まれた場合は必然的に上の能力を求めるように思います。
その他にも、単にカルマを負って障害を持って生まれる場合もあって、それはそんなに悟りと障害と関係がなかったりしますけど、悟りのために障害を持って生まれた場合は、このように、上の能力を目覚めさせる強制的な訓練になります。
肉体の能力で言えばわかりやすくて、例えば肉眼の視覚がない人の場合はそれ以上の感覚的能力を求めるでしょうし、一方で、元々霊的な視野(霊視)と霊的な聴覚(霊聴)がある場合でもそれ以上の領域に開けてゆくためには一時的に霊的な能力を一部制限してそれ以上の波動領域に繋がっていけるように訓練する場合があるわけです。
これは、それなりの基礎があって、その上で、割と自分で選ぶことで障害を持って生まれるわけです。
■霊的な能力をあえて封じて転生することで悟りに近づく
実際のところ、障害を持たずして生まれてそのまま悟ることができるならばそれで十分なわけで、何がしかの原因によりそれまでの人生においてずっと何度も成長ができなくて、停滞していて、どうしても成長が阻害されているか、あるいは、転生する度に波動が落ちていてかなり辛い状況になっている場合、その停滞や落ち込みを打破するためのスパルタ式の修行がこの種の障害を持った人生に相当するわけです。
肉体の障害にせよ、霊的な障害にせよ、今まで見えたり聞こえたりしていたものができなくなるわけですから、最初はとても怖いのです。例えば、霊視できていて悪霊を避けたり霊聴で警告を聞けた人がそれができなくなったりすると、とても怖い状況の一生を過ごさなくてはならないわけです。その人生を選ぶ前には途轍もない恐怖があって、実際、生まれてからも何も霊視できない、何も霊聴できない、という暗闇のような状況に陥ると、それでも肉体の五感は満足ですから肉体の感覚に頼らざるを得なくなって、一応は生活できるわけですけど、今まで包まれていた霊的な世界から切り離されて、今まで当たり前だった霊的感覚が希薄な状況で生活するしかなくなるわけです。
そうなると、それなりの確率で物理的な快楽にはまったり、物欲及びエゴが拡大して堕落してゆきます。ですから、実のところそのような障害を持つ人生というのはかなりのハイリスクではあるのですけど、その分、高く成長できる可能性があるのです。
外から見ると、そうして霊視や霊聴を制限された人というのは普通の人にしか見えなくて、特に、ちょっと霊能力が出てきた人と比べたとしても霊的能力は劣っていたりしますから、全然成長していない素人あるいはただの物理的な人間にしか見えなかったりします。そう思われたとしても無理はなくて、そもそもこの今の世の中にはこの種の修行をしている人はほとんどいませんし、そのような修行が存在していることすらほとんどの人は知らなかったりします。
もはや、最近ではあまり使われなくなった「霊界の特殊なマント」というものがあって、霊的能力を制限して転生することができるわけです。それは特殊なマントラと(手の)印が鍵になっていて、そんなに難しいものではないですけど、印とマントラを唱えると封印が解けるわけです。あるいは、死後に肉体から離れると封印が解かれます。
特に今のご時世ですと簡単に堕落してしまいますのでこの修行はお勧めしないのですけど、一部ではこのような手法で修行をしている人も稀にいて、例えば、お坊さんの修行をしていて何も成長しない凡人のように思われていた人が実はこのマントを使っていて、それ故に何も霊的能力が現れてこなかった、ということがあります。
人は、霊的能力でその人の霊的成長やスピリチュアルの成長度合いを測ったりしますけど、必ずしもそれで測れることばかりではないわけです。
昇天によってグループソウルと合流することが仏教の解脱に相当
仏教は輪廻転生を抜け出すことを解脱と言っていたりして、ブッダ自身は輪廻転生を認めたのかどうかという議論は確かにありますけど、流派としては解脱のことを言っていたりすると思います。そのように、輪廻転生のサイクルから抜け出すことが私の解釈で言うと上のように対応していると思っていて、それはヴェーダンタで言うところのモクシャ(自由)とも一致していると思います。
これはあくまでも、個人的な解釈です。
解脱にせよモクシャ(自由)にせよその後どうなるかまではあまり言っていなくて、単に輪廻転生から解放される、みたいなことを言っているかと思います。世間の普通の人の状態においては欲望や葛藤などカルマが多く眠っていて、そのカルマが次の転生の引き金になって次々に輪廻転生の歯車を回すことになる、という解釈ですね。
私が思うにサイクルが2つくらいあると思っていて、まず、地球の普通の輪廻転生のサイクルで、それは仏教やヴェーダンタが言うように欲望や葛藤などカルマが原因でぐるぐると回ります。この場合、昇天はせず、グループソウルとの合流もせず、単に個としての魂(ソウル)が転生を繰り返すわけです。
一方、人生の全てに満足したり、あるいは欲望を放棄することで死後に昇天することができます。それが解脱とかモクシャ(自由)とか言われていることに相当していて、それは、私の解釈では、昇天することで自分が属している高次のグループソウルに溶け込みます。そうして、グループソウルの中に自他のない状態になるわけです。ですけど、一応のコアみたいなものはグループソウルになったとしてもあるにはあって、そのコアをグループソウルの意思によって分離させて再度分霊を作ることができたりします。
この、分霊を作り出すことは仏教やヴェーダンタではそれほど深く言っていなくて、解脱あるいはモクシャ(自由)になってグループソウルに合流したらそれで終わりではなくて、その後、グループソウルの意思に基づいてまた別の個体として分霊が作り出されたりするわけです。
ですから、グループソウルとしての人生は解脱やモクシャ(自由)の後も続くわけです。グループソウル全体としての霊的なスピリチュアルの成長の度合いと言うものもあって、解脱やモクシャ(自由)が当たり前の段階に達していれば大抵は普通に昇天してグループソウルに戻ってきます。一方、それほど成長していないグループソウルに属している魂の場合はなかなか帰還せずに地上での転生を仏教が言うようにグルグルと繰り返したりします。
この地球というのは特殊な環境で、地球に慣れていない魂の場合、例えグループソウルのスピリチュアルのレベルが高かったとしても地球というものがあまりにも面白いために転生を繰り返してしまう、ということもあります。
どちらにせよ、転生のサークルはよく知られている普通の転生サイクルの他に、グループソウルとしてのサイクルもあります。
グループソウルの上には更に高次元のものがあるにはありますけど、こうして三次元世界に住んでいる我々からするととても認識できるものではありませんので、ひとまずはグループソウルくらいまでを認識するので十分かなと思います。それですら私たち地上の人間からするととてつもない光と英知と能力に満ちているのですから。
これはあくまでも、個人的な解釈です。
解脱にせよモクシャ(自由)にせよその後どうなるかまではあまり言っていなくて、単に輪廻転生から解放される、みたいなことを言っているかと思います。世間の普通の人の状態においては欲望や葛藤などカルマが多く眠っていて、そのカルマが次の転生の引き金になって次々に輪廻転生の歯車を回すことになる、という解釈ですね。
私が思うにサイクルが2つくらいあると思っていて、まず、地球の普通の輪廻転生のサイクルで、それは仏教やヴェーダンタが言うように欲望や葛藤などカルマが原因でぐるぐると回ります。この場合、昇天はせず、グループソウルとの合流もせず、単に個としての魂(ソウル)が転生を繰り返すわけです。
一方、人生の全てに満足したり、あるいは欲望を放棄することで死後に昇天することができます。それが解脱とかモクシャ(自由)とか言われていることに相当していて、それは、私の解釈では、昇天することで自分が属している高次のグループソウルに溶け込みます。そうして、グループソウルの中に自他のない状態になるわけです。ですけど、一応のコアみたいなものはグループソウルになったとしてもあるにはあって、そのコアをグループソウルの意思によって分離させて再度分霊を作ることができたりします。
この、分霊を作り出すことは仏教やヴェーダンタではそれほど深く言っていなくて、解脱あるいはモクシャ(自由)になってグループソウルに合流したらそれで終わりではなくて、その後、グループソウルの意思に基づいてまた別の個体として分霊が作り出されたりするわけです。
ですから、グループソウルとしての人生は解脱やモクシャ(自由)の後も続くわけです。グループソウル全体としての霊的なスピリチュアルの成長の度合いと言うものもあって、解脱やモクシャ(自由)が当たり前の段階に達していれば大抵は普通に昇天してグループソウルに戻ってきます。一方、それほど成長していないグループソウルに属している魂の場合はなかなか帰還せずに地上での転生を仏教が言うようにグルグルと繰り返したりします。
この地球というのは特殊な環境で、地球に慣れていない魂の場合、例えグループソウルのスピリチュアルのレベルが高かったとしても地球というものがあまりにも面白いために転生を繰り返してしまう、ということもあります。
どちらにせよ、転生のサークルはよく知られている普通の転生サイクルの他に、グループソウルとしてのサイクルもあります。
グループソウルの上には更に高次元のものがあるにはありますけど、こうして三次元世界に住んでいる我々からするととても認識できるものではありませんので、ひとまずはグループソウルくらいまでを認識するので十分かなと思います。それですら私たち地上の人間からするととてつもない光と英知と能力に満ちているのですから。
生まれ変わり(輪廻転生)を認めない流派
キリスト教あるいはエル⚪︎⚪︎⚪︎系の秘密結社などでは生まれ変わりを基本的に認めていなくて、キリスト教ですと裁きを受けてどうのこうのとか、あるいは、人生は一度だけ、みたいな教えもあります。一方、輪廻転生を言っているようでいて言っていないかのような微妙な立場の仏教があったり、はたまた、明確に生まれ変わりを支持しているスピリチュアリズムもあります。
これは、それぞれある意味正しくて、一面を示していると言えます。
確かに、高次元の目で見れば、この現在の自分という分身で地上の人生を生きるのは一回だけ、という見方もあながち間違いではありません。
一方、生まれて死んで、昇天できなくて地上を浮遊霊として彷徨い歩いたり、地上の人生をやり直す場合もあります。
キリスト教においても、死ぬ前に告解をして罪の赦しを受けなければ死後に天国に行けない、とされている場合もありますから、天国に行けずに地上で転生を繰り返すパターンもあると解釈できなくもありません。キリスト教ですと死後の世界が基本的に否定されていて死後の世界はドラキュラとか怖い世界のお話と結びついていますけど、最近はスピリチュアリズムによってあの世の人との交信が試みられており、その筋の人にとっては死後の世界があることは当然のように受け止められていたりします。
実際のところ、生きているこの世も含めて、世界は大体3階層、あるいは4階層に分かれていると言えます。
・地上の物理的なこの世界、この地球、生きている人間の世界
・いわゆる、あの世(ここは2分割できます)
・昇天した世界
これですと3分類ですが、4分割すると以下のようになります。
・地上の世界
・死後、地上に囚われている未浄化霊
・いわゆるあの世。雲の上の世界
・高次の世界。グループソウルの世界
キリスト教などがいうように、理想的には地上での人生は一回で、死後に昇天して高次の世界へと帰るのが本来良いわけです。しかし、途中の世界で引っかかってしまうと、いわゆる輪廻転生のような状態になります。
一番良くないのが未浄化霊で、この場合、転生もうまくできない場合もあります。次にあるのは、いわゆる普通のあの世、霊界です。霊界と言っても色々な世界があって、日本の場合は日本神界があったりして、それぞれ特色のある人たちが暮らしています。割と普通に、元気に暮らしています。
高次の世界は、普通の霊界から更に「昇天」すると行けます。グループソウルの世界とも言っても良く、大きな意識の中に溶け込みます。
そして、高次の世界であっても、理由があれば下の世界に現れてきます。その時々の目的に応じて肉体を得たり、分霊として働いたり、ということを繰り返します。
ですから、生まれ変わり(輪廻転生)があるとも言えますしないとも言えますが、普通の人が考えているような自分の個性そのままが転生するという場合は割と低次のお話で、高次になればなるほど分霊や合流を繰り返して、同じ個性での転生というのはなくなります。それでもコアはある程度引き継がれますので性質は多少は似ることもありますけど、必ずしもそうでもないわけです。
補足: (2023/6/11)
高次の世界から地上の世界を見ようと思えば見れます。時には昔話で出てくるように天から地上を「見下ろす」ような感じだったり、はたまた、サイキック的に映像を脳裏に雲状の鏡のようなものに映し出したりして観察できます。あるいは、誰かの意識に重なって主観の視点で他者の意識を観察することもできます。ですから、上記の段階の全てが「主観」の視点ではなくて、客観の第三者の視点もあるわけです。それぞれの階層において相応のリモート・ビューイングの形があって、見下ろす形式だったりカメラのような映像だったり、はたまた、特定の人物の視点に重なってその人の視点で観察することもあります。この最後のものは分かりにくくて、ひょっとしたら自分かと勘違いしてしまうかもしれませんけど、他人に重なってその人の主観の視点で観察する、という場合と、実際にその人で生きた記憶がある、というのは別物なわけです。
このようなものが重なり合っていますので、脳裏に浮かんでいたり過去生のような記憶が本当に自分に属するものなのか、あるいは、単に観察しただけのものなのか、かなり分かりにくくなっています。
・地上に転生中 → サイキックで第三者視点のリモートビューイング、あるいは他人の主観に重なって1人称視点にて他人の意見をテレパス状態で把握。過去生と勘違いしやすい。
・あの世、雲の上 → 同上。 地上をサイキックで「見下ろす」のが基本。 地上に転生中の時より遥かにやりやすい。見ているものを過去生だと勘違いすることはあまりない。
・高次のグループソウルの世界 → 同じ。更にやりやすい。過去生との勘違いはほとんどない。
他者を観察するときは近くに意識を移動させて外から眺めるのが基本で、その時は最三者視点のカメラで映像が見えますが、その状態で、誰かの意識と重なることでその人が何を思っているのかを知ることができ、その時は主観の視点になるわけです。
また、自分自身に関しては主観視点はもちろんありますが、自分自身の観察であってもアストラル的な状態ですと第三者視点になります。と言いますか、主観と第三者視点が両方あるような感じになります。主観と第三者視点は別々なのですけど意識という点で統合されています。ですから、自分を第三者的に観察していたとして、それが自分の意識という場合もあれば、もしかしたら勘違いで外から眺めていただけの場合もあるわけです。
高次の意識で一時的に重なっているとなかなか区別がつきにくいですけど、恒常的にある自分の意識を一応自分と言っていて、他者の自由意志で動いている他者を一応は他人と言いますけど、一時的に同じになる場合もあります。その時に、それを自分というのか他人というのか、その一時的に重なっているときは見分けがつかない感じにはなりますけど、割とすぐに離れて、そうなれば、たとえ一時的に重なっていたとしても、他者はやっぱり他者なわけです。
これは、それぞれある意味正しくて、一面を示していると言えます。
確かに、高次元の目で見れば、この現在の自分という分身で地上の人生を生きるのは一回だけ、という見方もあながち間違いではありません。
一方、生まれて死んで、昇天できなくて地上を浮遊霊として彷徨い歩いたり、地上の人生をやり直す場合もあります。
キリスト教においても、死ぬ前に告解をして罪の赦しを受けなければ死後に天国に行けない、とされている場合もありますから、天国に行けずに地上で転生を繰り返すパターンもあると解釈できなくもありません。キリスト教ですと死後の世界が基本的に否定されていて死後の世界はドラキュラとか怖い世界のお話と結びついていますけど、最近はスピリチュアリズムによってあの世の人との交信が試みられており、その筋の人にとっては死後の世界があることは当然のように受け止められていたりします。
実際のところ、生きているこの世も含めて、世界は大体3階層、あるいは4階層に分かれていると言えます。
・地上の物理的なこの世界、この地球、生きている人間の世界
・いわゆる、あの世(ここは2分割できます)
・昇天した世界
これですと3分類ですが、4分割すると以下のようになります。
・地上の世界
・死後、地上に囚われている未浄化霊
・いわゆるあの世。雲の上の世界
・高次の世界。グループソウルの世界
キリスト教などがいうように、理想的には地上での人生は一回で、死後に昇天して高次の世界へと帰るのが本来良いわけです。しかし、途中の世界で引っかかってしまうと、いわゆる輪廻転生のような状態になります。
一番良くないのが未浄化霊で、この場合、転生もうまくできない場合もあります。次にあるのは、いわゆる普通のあの世、霊界です。霊界と言っても色々な世界があって、日本の場合は日本神界があったりして、それぞれ特色のある人たちが暮らしています。割と普通に、元気に暮らしています。
高次の世界は、普通の霊界から更に「昇天」すると行けます。グループソウルの世界とも言っても良く、大きな意識の中に溶け込みます。
そして、高次の世界であっても、理由があれば下の世界に現れてきます。その時々の目的に応じて肉体を得たり、分霊として働いたり、ということを繰り返します。
ですから、生まれ変わり(輪廻転生)があるとも言えますしないとも言えますが、普通の人が考えているような自分の個性そのままが転生するという場合は割と低次のお話で、高次になればなるほど分霊や合流を繰り返して、同じ個性での転生というのはなくなります。それでもコアはある程度引き継がれますので性質は多少は似ることもありますけど、必ずしもそうでもないわけです。
補足: (2023/6/11)
高次の世界から地上の世界を見ようと思えば見れます。時には昔話で出てくるように天から地上を「見下ろす」ような感じだったり、はたまた、サイキック的に映像を脳裏に雲状の鏡のようなものに映し出したりして観察できます。あるいは、誰かの意識に重なって主観の視点で他者の意識を観察することもできます。ですから、上記の段階の全てが「主観」の視点ではなくて、客観の第三者の視点もあるわけです。それぞれの階層において相応のリモート・ビューイングの形があって、見下ろす形式だったりカメラのような映像だったり、はたまた、特定の人物の視点に重なってその人の視点で観察することもあります。この最後のものは分かりにくくて、ひょっとしたら自分かと勘違いしてしまうかもしれませんけど、他人に重なってその人の主観の視点で観察する、という場合と、実際にその人で生きた記憶がある、というのは別物なわけです。
このようなものが重なり合っていますので、脳裏に浮かんでいたり過去生のような記憶が本当に自分に属するものなのか、あるいは、単に観察しただけのものなのか、かなり分かりにくくなっています。
・地上に転生中 → サイキックで第三者視点のリモートビューイング、あるいは他人の主観に重なって1人称視点にて他人の意見をテレパス状態で把握。過去生と勘違いしやすい。
・あの世、雲の上 → 同上。 地上をサイキックで「見下ろす」のが基本。 地上に転生中の時より遥かにやりやすい。見ているものを過去生だと勘違いすることはあまりない。
・高次のグループソウルの世界 → 同じ。更にやりやすい。過去生との勘違いはほとんどない。
他者を観察するときは近くに意識を移動させて外から眺めるのが基本で、その時は最三者視点のカメラで映像が見えますが、その状態で、誰かの意識と重なることでその人が何を思っているのかを知ることができ、その時は主観の視点になるわけです。
また、自分自身に関しては主観視点はもちろんありますが、自分自身の観察であってもアストラル的な状態ですと第三者視点になります。と言いますか、主観と第三者視点が両方あるような感じになります。主観と第三者視点は別々なのですけど意識という点で統合されています。ですから、自分を第三者的に観察していたとして、それが自分の意識という場合もあれば、もしかしたら勘違いで外から眺めていただけの場合もあるわけです。
高次の意識で一時的に重なっているとなかなか区別がつきにくいですけど、恒常的にある自分の意識を一応自分と言っていて、他者の自由意志で動いている他者を一応は他人と言いますけど、一時的に同じになる場合もあります。その時に、それを自分というのか他人というのか、その一時的に重なっているときは見分けがつかない感じにはなりますけど、割とすぐに離れて、そうなれば、たとえ一時的に重なっていたとしても、他者はやっぱり他者なわけです。
2つのグループソウルの解釈
グループソウルとは自分の魂が死後に昇天して帰って融合するところという意味です。
グループソウル繋がりの人と会うことはそうそうありません。稀です。
元々はこのような意味だったかと思いますが、スピリチュアルの解釈は割と自由ですので、ざっくばらんに「縁の深い魂」という意味で解釈されることも多々あるように思います。この場合、融合とかはあまり関係がなくて、例えば、たまたま過去生で近くにいて縁が深くなった、という場合などがあります。
本来の意味におけるグループソウル繋がりの人とはお互いに理解が早くて分かり合えます。そのような人と出会えた場合、かつ、相手がグルのような立場だったりすると幸運で、スピリチュアルな導きにおいても、そのような人から引き上げられればすぐに上の階層に行くこともできたりします。同じグループソウルの人はお互いの状態がよくわかりますので、霊的な導き手として向いています。普通に(他のグループソウルの)グルと接するより、遥かに自分の成長のスピードが違うわけです。
そのように同じグループソウルに属しているグルに出会えた場合、グルの導きによってグループソウルが到達している地点にまでは割と簡単に引き上げてもらえる、元の状態にまで戻してもらえる、下がっていた波動が元にまで引き上げてもらえる、ということがあるように思います。ですので、霊的なグルが同じグループソウルに属している場合は導き手として理想的のように思います。
ただ、グループソウルによってはそのようなスピリチュアルな成長をそもそもしていない場合がありますので、その場合は、地道にやっていくことになります。それはもう、人それぞれですから、致し方ないですね。
一般的にはグループソウル繋がりというのはそうそうありませんから相手と分かり合えなくても「そんなものだ」と思った方が良いわけで、分かり合える相手という方が稀なわけです。
その一方で、スピリチュアルがそれなりに発達すればグループソウルとしての所属が違っていても相手のことがよくわかるようになりますけど、それとこれとは別のお話です。グループソウルが同じであればより深くすぐに分かり合えますけど、グループソウルが違うと基本的なところが違いますから、わかるにはわかりますし、見ようと思えば見えたり理解できたりもしますけど、そこまで興味がなければそれほど労力をかけませんし、普通は、グループソウルが違えば興味がないか、理解したとしてもそれほど時間をかけずに少し理解するくらいがせいぜいなわけです。
一方で、別の解釈における「単に縁の深い魂」という意味におけるグループソウルというのは本来の意味におけるグループソウルとしては別ですから、(グループソウルが同じだからすぐに理解し合えるというよりは)縁が深いので付き合いが長くてお互いが分かり合える、というお話なのです。
グループソウル繋がりの人と会うことはそうそうありません。稀です。
元々はこのような意味だったかと思いますが、スピリチュアルの解釈は割と自由ですので、ざっくばらんに「縁の深い魂」という意味で解釈されることも多々あるように思います。この場合、融合とかはあまり関係がなくて、例えば、たまたま過去生で近くにいて縁が深くなった、という場合などがあります。
本来の意味におけるグループソウル繋がりの人とはお互いに理解が早くて分かり合えます。そのような人と出会えた場合、かつ、相手がグルのような立場だったりすると幸運で、スピリチュアルな導きにおいても、そのような人から引き上げられればすぐに上の階層に行くこともできたりします。同じグループソウルの人はお互いの状態がよくわかりますので、霊的な導き手として向いています。普通に(他のグループソウルの)グルと接するより、遥かに自分の成長のスピードが違うわけです。
そのように同じグループソウルに属しているグルに出会えた場合、グルの導きによってグループソウルが到達している地点にまでは割と簡単に引き上げてもらえる、元の状態にまで戻してもらえる、下がっていた波動が元にまで引き上げてもらえる、ということがあるように思います。ですので、霊的なグルが同じグループソウルに属している場合は導き手として理想的のように思います。
ただ、グループソウルによってはそのようなスピリチュアルな成長をそもそもしていない場合がありますので、その場合は、地道にやっていくことになります。それはもう、人それぞれですから、致し方ないですね。
一般的にはグループソウル繋がりというのはそうそうありませんから相手と分かり合えなくても「そんなものだ」と思った方が良いわけで、分かり合える相手という方が稀なわけです。
その一方で、スピリチュアルがそれなりに発達すればグループソウルとしての所属が違っていても相手のことがよくわかるようになりますけど、それとこれとは別のお話です。グループソウルが同じであればより深くすぐに分かり合えますけど、グループソウルが違うと基本的なところが違いますから、わかるにはわかりますし、見ようと思えば見えたり理解できたりもしますけど、そこまで興味がなければそれほど労力をかけませんし、普通は、グループソウルが違えば興味がないか、理解したとしてもそれほど時間をかけずに少し理解するくらいがせいぜいなわけです。
一方で、別の解釈における「単に縁の深い魂」という意味におけるグループソウルというのは本来の意味におけるグループソウルとしては別ですから、(グループソウルが同じだからすぐに理解し合えるというよりは)縁が深いので付き合いが長くてお互いが分かり合える、というお話なのです。
今の人生は過去の人生からの積み重ね
偶然というものはありますし、たまたま与えられた環境という必然のように見える運もありますが、それよりも、基本的には今の人生というのは過去の人生からの積み重ねなわけです。
実のところ、生まれ変わりというのは世間で言われているようなものではなくて、グループソウルに合流してから再度そのグループソウルから分霊が作られる、というのが基本にありますので今の分霊としての人生は基本的に今の一回それっきりではあるのですけど、例外的に分霊のまま何回か転生を繰り返す場合もありますし、グループソウル経由での経験の蓄積というものもありますので、世間の理解の姿とは異なってはいるものの、ざっくばらんに言ったときにいわゆる生まれ変わりは、あるにはあるわけです。
そのような、大雑把にざっくばらんに言った時の生まれ変わりという意味において、今の人生というのはグループソウルが各人生で積み上げた過去の人生からのつまみ食いを基礎にしていて、今までグループソウルからそれぞれ分霊が作られて人生を経験して、その基礎があるからこそ、グループソウルからまた別の分霊が作られた時に過去の経験が少しずつ生きてくるわけです。
ですから、直接的な過去生の経験というのは分霊のまま転生を積み重ねるという例外的な場合(とは言いましてもそれが多い人というのもいるにはいるのですが)を除けば基本的にはなくて、基本的にはグループソウル経由の過去の経験のつまみ食いとして今のこの現在の分霊としての個の自分の過去生が成り立っているわけです。
それはほとんどの場合、つまみ食いであって、必ずしも直接的な過去生ではないにせよ、そうは言ってもグループソウルは均一に普遍に存在しているわけではなくて濃淡があって、更にはコアのようなものがあって、コアが同一であれば割と同じような人になって分霊が作られることになります。コアが違っていても同じグループソウルから生まれた分霊であれば割と似ていますけど、コアが同じであればかなり似ることになります。
そうして、今の分霊としての人生は過去のグループソウルの経験に準拠しているわけですけど、今の人生が終わった後は昇天してグループソウルに帰るわけで、その時、今の人生の経験がグループソウルに吸収されて学びとして共有されるわけです。
ですから、グループソウルの経験が豊富であればその上に更に知見を積み重ねることになります。
一方、人と人との繋がりにおいても同様で、グループソウルは大きな一人の集合意識を形成しているわけですけど、他のグループソウルに属する分霊と仲良くなると、グループソウル同士で付き合いが始まって、それぞれのグループソウルから分かれた分霊同士が協力し合うようになります。
人生において、何故か助けてくれる人がいるだとか、恵まれた人生を送るだとかいうのは、かなりの部分において過去からの積み重ねで、以前の人生においてどこかのグループソウルの分霊が助けてくれたとか助けたとか、そのような関係があるからこそ、今回の人生において無償の援助をしてくれたりするわけです。
ですから、今の人生においても、商売や人付き合いをドライにするばかりではなくて、可能な限りで他人を助けることです。今の世の中では必ずしも無償というのは難しいにしても、誠実な相手であれば、その関係が長く来世にまで続くように、なるべく助けてあげることです。
そうすることで人生が豊かになり、助けてくれる人が増えて、自然に豊かになってゆきます。信用できる仲間を増やすことで、今回の人生だけでなく、来世においても安心した人生を送ることができるようになります。
実のところ、生まれ変わりというのは世間で言われているようなものではなくて、グループソウルに合流してから再度そのグループソウルから分霊が作られる、というのが基本にありますので今の分霊としての人生は基本的に今の一回それっきりではあるのですけど、例外的に分霊のまま何回か転生を繰り返す場合もありますし、グループソウル経由での経験の蓄積というものもありますので、世間の理解の姿とは異なってはいるものの、ざっくばらんに言ったときにいわゆる生まれ変わりは、あるにはあるわけです。
そのような、大雑把にざっくばらんに言った時の生まれ変わりという意味において、今の人生というのはグループソウルが各人生で積み上げた過去の人生からのつまみ食いを基礎にしていて、今までグループソウルからそれぞれ分霊が作られて人生を経験して、その基礎があるからこそ、グループソウルからまた別の分霊が作られた時に過去の経験が少しずつ生きてくるわけです。
ですから、直接的な過去生の経験というのは分霊のまま転生を積み重ねるという例外的な場合(とは言いましてもそれが多い人というのもいるにはいるのですが)を除けば基本的にはなくて、基本的にはグループソウル経由の過去の経験のつまみ食いとして今のこの現在の分霊としての個の自分の過去生が成り立っているわけです。
それはほとんどの場合、つまみ食いであって、必ずしも直接的な過去生ではないにせよ、そうは言ってもグループソウルは均一に普遍に存在しているわけではなくて濃淡があって、更にはコアのようなものがあって、コアが同一であれば割と同じような人になって分霊が作られることになります。コアが違っていても同じグループソウルから生まれた分霊であれば割と似ていますけど、コアが同じであればかなり似ることになります。
そうして、今の分霊としての人生は過去のグループソウルの経験に準拠しているわけですけど、今の人生が終わった後は昇天してグループソウルに帰るわけで、その時、今の人生の経験がグループソウルに吸収されて学びとして共有されるわけです。
ですから、グループソウルの経験が豊富であればその上に更に知見を積み重ねることになります。
一方、人と人との繋がりにおいても同様で、グループソウルは大きな一人の集合意識を形成しているわけですけど、他のグループソウルに属する分霊と仲良くなると、グループソウル同士で付き合いが始まって、それぞれのグループソウルから分かれた分霊同士が協力し合うようになります。
人生において、何故か助けてくれる人がいるだとか、恵まれた人生を送るだとかいうのは、かなりの部分において過去からの積み重ねで、以前の人生においてどこかのグループソウルの分霊が助けてくれたとか助けたとか、そのような関係があるからこそ、今回の人生において無償の援助をしてくれたりするわけです。
ですから、今の人生においても、商売や人付き合いをドライにするばかりではなくて、可能な限りで他人を助けることです。今の世の中では必ずしも無償というのは難しいにしても、誠実な相手であれば、その関係が長く来世にまで続くように、なるべく助けてあげることです。
そうすることで人生が豊かになり、助けてくれる人が増えて、自然に豊かになってゆきます。信用できる仲間を増やすことで、今回の人生だけでなく、来世においても安心した人生を送ることができるようになります。
ハイヤーセルフと自分を同一視するかどうか
ハイヤーセルフという概念は少し謎めいていて、ガイドと解釈されることもあれば、そのままの意味で高次の自己と解釈されることもあります。私の今の理解としては、最初はガイドとして自分と離れたものとして認識されるけれども、肉体および下位の次元の意識としての普通のマインドとしての顕在意識が浄化されてトラウマや穢れが取り除かれていけばやがてハイヤーセルフと肉体およびマインドも繋がって位置的にもハートに留まって合一するのだと思います。そうして合一してしまえばもはやガイドとしてではなくハイヤーセルフとが一体となって意識として存在および高次の意思を発現するようになるわけです。
ですから、ハイヤーセルフは確かに自分ではあるものの最初は別の存在、そしてそれはチャネリングだとか心の中の対話として認識され、少し離れたものとして識別されるわけです。
人によってはこのあたりのことが見分けられていなくて全て自分で、単に「自分は勘が鋭い」とか思っているだけの人も割とよくいたりしますけど、実際のところ、離れているかどうか、くっついて同一になっているかどうか、という点はスピリチュアル的にかなり重要なわけです。
最初からハイヤーセルフは自分自身だと言えばそれはそうなのですけど、かと言って、ハイヤーセルフは最初は自分と重なってはいなくて、少し離れているのです。それが割と普通の状態と言えばそうで、それでも割と普通に日常生活を送れたりしますから、そこまで支障はなくて、そのまま人生を終える人が大半のように思います。
スピリットとしての自分とハイヤーセルフは、同じといえば同じですけど、違うと言えば違うわけです。人は低次意識のマインドとしての自分と高次としての意識としてのハイヤーセルフとがあって、スピリチュアルで目指すのはその合一であるわけですけど、低次のマインドはそれ自体でも一応の意識はあって、物理的な目に見えるものに強く結びついてはいますけど、それはそれでマインドという意識が形作られているわけです。
そして、その、低次のマインドは一人歩きしますので、死後、マインドと高次の自分であるハイヤーセルフが合一している人は低次のマインドとハイヤーセルフが一体となって行動するか、あるいは、合一していない場合は高次のハイヤーセルフは自由に動き回りますけど低次のマインドが影のようにしばらく地上に残ったりします。死後に、意識が分離してしまうわけですね。この場合、低次のマインドは自分といえば自分ですけど分離してしまっているので、割と別の人になってしまった、とも言えるわけです。
生きている間、低次のマインドが中心で生きていた場合は死後もその意識のままですから、ハイヤーセルフを認識することもなかなか難しく、そもそも、そのような分離の状態のまま死んでしまうとハイヤーセルフと低次のマインドとは切り離されますから、低次のマインドはなかなか助けられることはないわけです。そのような場合に浮遊霊になったり彷徨い歩いたりすることになります。この場合、親族や縁のある人、あるいは、たまたま出会った能力者に助けられるということがあれば良いですけど、なければ、低次のマインドはしばらく地上を彷徨い歩くことになります。
そのようなことにならないよう、生きているうちにスピリチュアルに目覚めてハイヤーセルフと合一した方が良いのです。そうすれば、死後に速やかにハイヤーセルフに導かれて自由に動き回ったり縁のある人(の霊)と楽しく幸せに過ごすことができるようになりますし、そうして死後の世界すら満足すれば、やがて昇天して自分の属するグループソウルに帰還することも速やかに行えるわけです。
ですから、ハイヤーセルフは確かに自分ではあるものの最初は別の存在、そしてそれはチャネリングだとか心の中の対話として認識され、少し離れたものとして識別されるわけです。
人によってはこのあたりのことが見分けられていなくて全て自分で、単に「自分は勘が鋭い」とか思っているだけの人も割とよくいたりしますけど、実際のところ、離れているかどうか、くっついて同一になっているかどうか、という点はスピリチュアル的にかなり重要なわけです。
最初からハイヤーセルフは自分自身だと言えばそれはそうなのですけど、かと言って、ハイヤーセルフは最初は自分と重なってはいなくて、少し離れているのです。それが割と普通の状態と言えばそうで、それでも割と普通に日常生活を送れたりしますから、そこまで支障はなくて、そのまま人生を終える人が大半のように思います。
スピリットとしての自分とハイヤーセルフは、同じといえば同じですけど、違うと言えば違うわけです。人は低次意識のマインドとしての自分と高次としての意識としてのハイヤーセルフとがあって、スピリチュアルで目指すのはその合一であるわけですけど、低次のマインドはそれ自体でも一応の意識はあって、物理的な目に見えるものに強く結びついてはいますけど、それはそれでマインドという意識が形作られているわけです。
そして、その、低次のマインドは一人歩きしますので、死後、マインドと高次の自分であるハイヤーセルフが合一している人は低次のマインドとハイヤーセルフが一体となって行動するか、あるいは、合一していない場合は高次のハイヤーセルフは自由に動き回りますけど低次のマインドが影のようにしばらく地上に残ったりします。死後に、意識が分離してしまうわけですね。この場合、低次のマインドは自分といえば自分ですけど分離してしまっているので、割と別の人になってしまった、とも言えるわけです。
生きている間、低次のマインドが中心で生きていた場合は死後もその意識のままですから、ハイヤーセルフを認識することもなかなか難しく、そもそも、そのような分離の状態のまま死んでしまうとハイヤーセルフと低次のマインドとは切り離されますから、低次のマインドはなかなか助けられることはないわけです。そのような場合に浮遊霊になったり彷徨い歩いたりすることになります。この場合、親族や縁のある人、あるいは、たまたま出会った能力者に助けられるということがあれば良いですけど、なければ、低次のマインドはしばらく地上を彷徨い歩くことになります。
そのようなことにならないよう、生きているうちにスピリチュアルに目覚めてハイヤーセルフと合一した方が良いのです。そうすれば、死後に速やかにハイヤーセルフに導かれて自由に動き回ったり縁のある人(の霊)と楽しく幸せに過ごすことができるようになりますし、そうして死後の世界すら満足すれば、やがて昇天して自分の属するグループソウルに帰還することも速やかに行えるわけです。
転生のあるなし
見ている階層によって転生のあるなしが変わります。アートマン以上には転生はありませんが、それより下は物質ですから始まりと終わりがあります。そして、始まりと終わりのことを、見ようによっては転生と呼ぶこともできます。それでも、アートマンは継続して存在していますから始まりも終わりもないわけです。
一部の流派でこのあたりの理解が混乱していて、例えば転生はないとしている流派も多々ありますけど、世間で言われている転生がないと、そのまま理解していたりします。それらの流派では、アートマンのことを言っているのではなく、文字通り、人間がこの世に生まれるのが1回だけで転生はない、と教えているのです。何やら神の意識があって、それが地上に降りて転生するのが1度だけ、という教えが基本です。キリスト教では死後に審判を待つ、みたいな教えですし、とある流派は、それに似たような感じで、地上に生まれるのは1度だけ、みたいに教えていたりします。
実のところ、転生はないとするのは、キリスト教にせよ何にせよ「砂漠(で生まれた)の宗教」の特徴です。それを踏襲して「地上に生まれるのが1回だけ」と解釈している流派が宗教にせよスピリチュアルにせよ多々あるのですけど、稀に、そのような説明と同時に、例えば「生まれてから数百万年を宇宙を漂って・・・」 みたいな説明も同時にされることもあって、話の辻褄が合っていないのです。数百万年も宇宙にいて地上に生まれるのがたったの1度だけと言われて、そんなこと信じる方が難しいです。数百万年も意識が存在していれば、1回だけでなく何がしかあるでしょう。
この種のお話は、それらの流派が自分たちに都合の良いように解釈していることが多々あるように思うのです。
・過去の転生の人生を「なかったこと」にしたい傲慢な気持ち。過去に目を背けたい気持ち。
・(転生はない、今回の人生が一度きり、と考えることで)他者と同格、同等であると考えることができるため。
・(転生はないと考えることにより、他者と同格であると思うことができ)劣等感が拭われるため、そう思いたい。(実は錯覚であるのですが)(実際には、他人との間にそうそう超えられない壁があることも多々あります。)
・(団体の側からすれば、転生を一回だけにした方が恐怖で)人々を操りやすい
・実際、その範疇しか把握できないから、当人にとっては転生はなく人生は1度きりに見えるため、自分に正直。(これ自体はそこまで悪いことでもない)
・他の流派で聞いた、「生まれることもなければ、死ぬこともない」というお話を自分勝手に都合よく解釈している。きちんと理解していない。
そのような、自己都合の「転生はない」系のお話を乗り越える必要があるように思います。そのためには、基本としてアートマンなどの階層のお話を理解した上で、アートマンの階層のお話と人間の自我(エゴ)のお話の混乱をも乗り越える必要があるわけです。
ご都合主義の流派は、エゴの話で何故か「生まれることもなければ、死ぬこともない」という混乱したことを言っていて、それは実はアートマンの特徴なのに、何故かエゴの階層で語っている、ということを行なっていたりします。それは、なんとなくわかるようでいて実は違っていて、エゴを強化して勘違いさせる効果があるため、結果、こういうことを言っていたり言われていたりするとエゴが増大して厄介な人になる可能性があります。初心者向けのざっくり説明であればそういう言い方もありかもしれませんけど、だとしたら、言う側も、ざっくり説明だということを踏まえた上で説明すれば少しは話し方が違ってくる筈ですが、どうも、言っている側もこのあたりの理屈をきちんと理解していないようなのです。
ただ、それを言っている本人、特に団体の中心部にいる創始者のような人実は直感で全てをわかっていたりすることも時としてあるので事態が厄介なのですけど、言っている本人が「言葉」を適切に使わずに、なんとなくの雰囲気で語っている(それでも本人は直感でわかっている)という状況は、周囲を混乱させるのです。創始者は分かっているからよくても、後からそれを聞いた人が間違って解釈してしまうわけです。
このお話は実は簡単で、アートマン以上は転生はなく、生まれることもなければ、死ぬこともない、永遠の満ちている意識、それがアートマン(真我)なわけですけど、一方、エゴ(自我、ジーヴァ)は滅する限られた存在なわけです。それを、ジーヴァの意識に向かって「貴方は神であるから、貴方は永遠で、死ぬこともなければ、生まれたこともない」というから、意味不明なわけです。結果、「それを知っている」という自尊心が拡大して、厄介な存在になってしまいます。エゴが「そうか、自分が好き勝手にしていいんだ」と思い込んでしまうかもしれないのです。その辺りは、常識のある人なら何かおかしいと気がつくわけですけど、気が付かない人もいるわけです。
例えば、私が話した、とある講師は「貴方は、永遠の存在で、神なのよ!」みたいにワクワク感を伴って喜んで話していましたけど、それって、意味が全然違っていて、意味を知っていたら、そういうワクワクな表現にはならないと思うのですけど・・・ と思いながら聞いていたことがあります。野暮なのでそこまでツッコミませんでしたけど。そうして、エゴに対して「貴方は神です。永遠です」とか言ったとしてもスピリチュアル的にあまり意味はなくて、むしろ、自尊心が増えるだけで有害で、知識が謙虚さを阻害するという場合もあるわけです。エゴが知っている風になってしまうけれども、実は、あまりよくわかっていない、という状況になるわけです。それでいてエゴは自分が知識を得たことで尊大になっていますから、他者の聞く耳を持たないほど厄介になってしまうこともあります。
エゴは所詮は思考の反作用である(ヨーガで言う)アハンカーラであり、ヴェーダンタであるジーヴァであり、仮初の私であり、本当の自分ではないのです。ですから、エゴ(ジーヴァ)は永遠でもなんでもないのです。そして、エゴ(ジーヴァ)の意識に対して「貴方は永遠なのです」などと、間違ったことを教え込むスピリチュアル団体もあるのです。エゴはは幻想であるのですけど、そのエゴの意識に対して「貴方は永遠なのです」などと教えてもあまり意味がないように思います。それよりも、エゴとアートマン(真我)の違いを冷静に教えた方がよほど有用に思います。
エゴが鎮まるのが最初のハードルで、エゴが鎮まるとハイヤーセルフ(真我)が近づくことができて、そして、エゴとハイヤーセルフの融合が起こるわけですけど、そうなると、ハイヤーセルフの側がある程度の神の意識になっていますので、一応、限られた範囲における神(の意識の一部)というのはその通りなわけですけど、エゴとハイヤーセルフが分離している状態では(エゴの意識は)神ではないわけです。
そして、ハイヤーセルフの意識は神(の一部)であるわけですから、永遠で、死ぬこともなければ生まれたこともない、というのはその通りなわけですけど、エゴが勘違いして「 自分(エゴ)が永遠なのだ」と勘違いしたら分離が深まるだけなのです。
よって
・ハイヤーセルフに転生はない
・エゴ(自我)に転生はある
ということが基本になるわけですけど、中間的な部分もあって、コアの部分は転生においても引き継がれ、特にコアは似たような性質になります。
条件付けのようなカルマ的な部分も中間的なものとして引き継がれます。グループソウルには昇天して帰還する場合のみならず、死後にそのまま意図して帰還する場合もあって、その場合、浄化の過程を経ずしてグループソウルに合流しますので、条件付けのカルマが多少は蓄積されることになります。条件付けと言っても悪いことだけでなくて、良い意図なども条件付けの一つでありますから、良き習慣も(そして悪い習慣も)引き継がれます。
ハイヤーセルフとかその上のお話はかなりスピリチュアルに成長した後のお話で、そこまで成長していない段階では、神ではないわけです。
確かにこの世の全ては神の一部ではあるのですけど、だからと言って自分の顕在意識のエゴは神意識の認知ではないわけです。
エゴは所詮はブッディ(思考)の反作用でしかなくて永遠ではありませんし、肉体よりも長い期間で循環しますけどそれでも始まりと終わりがあります。始まりも終わりもないのはアートマンで、肉体やアストラル体そしてコーザル体(カーラナ)までは物資ですので始まりと終わりがあり、よって、世間で言われている転生そのものではないですけど一応は転生と呼んでも良さそうな循環は存在するわけです。
一部の流派でこのあたりの理解が混乱していて、例えば転生はないとしている流派も多々ありますけど、世間で言われている転生がないと、そのまま理解していたりします。それらの流派では、アートマンのことを言っているのではなく、文字通り、人間がこの世に生まれるのが1回だけで転生はない、と教えているのです。何やら神の意識があって、それが地上に降りて転生するのが1度だけ、という教えが基本です。キリスト教では死後に審判を待つ、みたいな教えですし、とある流派は、それに似たような感じで、地上に生まれるのは1度だけ、みたいに教えていたりします。
実のところ、転生はないとするのは、キリスト教にせよ何にせよ「砂漠(で生まれた)の宗教」の特徴です。それを踏襲して「地上に生まれるのが1回だけ」と解釈している流派が宗教にせよスピリチュアルにせよ多々あるのですけど、稀に、そのような説明と同時に、例えば「生まれてから数百万年を宇宙を漂って・・・」 みたいな説明も同時にされることもあって、話の辻褄が合っていないのです。数百万年も宇宙にいて地上に生まれるのがたったの1度だけと言われて、そんなこと信じる方が難しいです。数百万年も意識が存在していれば、1回だけでなく何がしかあるでしょう。
この種のお話は、それらの流派が自分たちに都合の良いように解釈していることが多々あるように思うのです。
・過去の転生の人生を「なかったこと」にしたい傲慢な気持ち。過去に目を背けたい気持ち。
・(転生はない、今回の人生が一度きり、と考えることで)他者と同格、同等であると考えることができるため。
・(転生はないと考えることにより、他者と同格であると思うことができ)劣等感が拭われるため、そう思いたい。(実は錯覚であるのですが)(実際には、他人との間にそうそう超えられない壁があることも多々あります。)
・(団体の側からすれば、転生を一回だけにした方が恐怖で)人々を操りやすい
・実際、その範疇しか把握できないから、当人にとっては転生はなく人生は1度きりに見えるため、自分に正直。(これ自体はそこまで悪いことでもない)
・他の流派で聞いた、「生まれることもなければ、死ぬこともない」というお話を自分勝手に都合よく解釈している。きちんと理解していない。
そのような、自己都合の「転生はない」系のお話を乗り越える必要があるように思います。そのためには、基本としてアートマンなどの階層のお話を理解した上で、アートマンの階層のお話と人間の自我(エゴ)のお話の混乱をも乗り越える必要があるわけです。
ご都合主義の流派は、エゴの話で何故か「生まれることもなければ、死ぬこともない」という混乱したことを言っていて、それは実はアートマンの特徴なのに、何故かエゴの階層で語っている、ということを行なっていたりします。それは、なんとなくわかるようでいて実は違っていて、エゴを強化して勘違いさせる効果があるため、結果、こういうことを言っていたり言われていたりするとエゴが増大して厄介な人になる可能性があります。初心者向けのざっくり説明であればそういう言い方もありかもしれませんけど、だとしたら、言う側も、ざっくり説明だということを踏まえた上で説明すれば少しは話し方が違ってくる筈ですが、どうも、言っている側もこのあたりの理屈をきちんと理解していないようなのです。
ただ、それを言っている本人、特に団体の中心部にいる創始者のような人実は直感で全てをわかっていたりすることも時としてあるので事態が厄介なのですけど、言っている本人が「言葉」を適切に使わずに、なんとなくの雰囲気で語っている(それでも本人は直感でわかっている)という状況は、周囲を混乱させるのです。創始者は分かっているからよくても、後からそれを聞いた人が間違って解釈してしまうわけです。
このお話は実は簡単で、アートマン以上は転生はなく、生まれることもなければ、死ぬこともない、永遠の満ちている意識、それがアートマン(真我)なわけですけど、一方、エゴ(自我、ジーヴァ)は滅する限られた存在なわけです。それを、ジーヴァの意識に向かって「貴方は神であるから、貴方は永遠で、死ぬこともなければ、生まれたこともない」というから、意味不明なわけです。結果、「それを知っている」という自尊心が拡大して、厄介な存在になってしまいます。エゴが「そうか、自分が好き勝手にしていいんだ」と思い込んでしまうかもしれないのです。その辺りは、常識のある人なら何かおかしいと気がつくわけですけど、気が付かない人もいるわけです。
例えば、私が話した、とある講師は「貴方は、永遠の存在で、神なのよ!」みたいにワクワク感を伴って喜んで話していましたけど、それって、意味が全然違っていて、意味を知っていたら、そういうワクワクな表現にはならないと思うのですけど・・・ と思いながら聞いていたことがあります。野暮なのでそこまでツッコミませんでしたけど。そうして、エゴに対して「貴方は神です。永遠です」とか言ったとしてもスピリチュアル的にあまり意味はなくて、むしろ、自尊心が増えるだけで有害で、知識が謙虚さを阻害するという場合もあるわけです。エゴが知っている風になってしまうけれども、実は、あまりよくわかっていない、という状況になるわけです。それでいてエゴは自分が知識を得たことで尊大になっていますから、他者の聞く耳を持たないほど厄介になってしまうこともあります。
エゴは所詮は思考の反作用である(ヨーガで言う)アハンカーラであり、ヴェーダンタであるジーヴァであり、仮初の私であり、本当の自分ではないのです。ですから、エゴ(ジーヴァ)は永遠でもなんでもないのです。そして、エゴ(ジーヴァ)の意識に対して「貴方は永遠なのです」などと、間違ったことを教え込むスピリチュアル団体もあるのです。エゴはは幻想であるのですけど、そのエゴの意識に対して「貴方は永遠なのです」などと教えてもあまり意味がないように思います。それよりも、エゴとアートマン(真我)の違いを冷静に教えた方がよほど有用に思います。
エゴが鎮まるのが最初のハードルで、エゴが鎮まるとハイヤーセルフ(真我)が近づくことができて、そして、エゴとハイヤーセルフの融合が起こるわけですけど、そうなると、ハイヤーセルフの側がある程度の神の意識になっていますので、一応、限られた範囲における神(の意識の一部)というのはその通りなわけですけど、エゴとハイヤーセルフが分離している状態では(エゴの意識は)神ではないわけです。
そして、ハイヤーセルフの意識は神(の一部)であるわけですから、永遠で、死ぬこともなければ生まれたこともない、というのはその通りなわけですけど、エゴが勘違いして「 自分(エゴ)が永遠なのだ」と勘違いしたら分離が深まるだけなのです。
よって
・ハイヤーセルフに転生はない
・エゴ(自我)に転生はある
ということが基本になるわけですけど、中間的な部分もあって、コアの部分は転生においても引き継がれ、特にコアは似たような性質になります。
条件付けのようなカルマ的な部分も中間的なものとして引き継がれます。グループソウルには昇天して帰還する場合のみならず、死後にそのまま意図して帰還する場合もあって、その場合、浄化の過程を経ずしてグループソウルに合流しますので、条件付けのカルマが多少は蓄積されることになります。条件付けと言っても悪いことだけでなくて、良い意図なども条件付けの一つでありますから、良き習慣も(そして悪い習慣も)引き継がれます。
ハイヤーセルフとかその上のお話はかなりスピリチュアルに成長した後のお話で、そこまで成長していない段階では、神ではないわけです。
確かにこの世の全ては神の一部ではあるのですけど、だからと言って自分の顕在意識のエゴは神意識の認知ではないわけです。
エゴは所詮はブッディ(思考)の反作用でしかなくて永遠ではありませんし、肉体よりも長い期間で循環しますけどそれでも始まりと終わりがあります。始まりも終わりもないのはアートマンで、肉体やアストラル体そしてコーザル体(カーラナ)までは物資ですので始まりと終わりがあり、よって、世間で言われている転生そのものではないですけど一応は転生と呼んでも良さそうな循環は存在するわけです。
信仰心のあるなしと輪廻転生
転生の仕組みを理解して、ある程度の認識に到達すると否応なく信仰心が芽生えてきます。それは誰か「他者」に対する信仰心や依存心、操作されているという操作・非捜査の関係のことではなく、自分自身のハイヤーセルフ(真我)と一体になる、という意味における信仰心なわけです。それは文字通り自分自身ですから操作をされるとかされないとか信じるとか信じないとかいう概念を超えて、自分自身を信頼して自分自身の人生を生きる、ということなわけです。
実のところ、真我(アートマン、ハイヤーセルフ(に目覚める前であればエゴ(ヴェーダンタでいうところのジーヴァ、錯覚した自分、ヨーガでいうアハンカーラ)が前面に出ていて、このような説明をされるとジーヴァの意識が「そうか、自分は自由にしていいのか」みたいにジーヴァ(アハンカーラ、エゴ)が勘違いをしてしまうことがあります。そう言われたとして「エゴが自分勝手にして良いなんて、何かおかしいぞ」とエゴがまず気付くのが第一歩で、であれば、本当のところは何なのかを探し求める姿勢が必要なわけです。
実のところジーヴァは勘違いをしているだけでその上のハイヤーセルフ(真我)と同じといえばそうなのですけど顕在意識の上では分離があって、ジーヴァの勘違いをやめて真実を見出すとジーヴァ(エゴ)とハイヤーセルフが一体になります。
そして、信仰心とは、ハイヤーセルフの神々しさに対してするものなわけです。ハイヤーセルフとは創造・維持・破壊の意識が融合した高次元の意識ですから、それは神々しくも恐ろしくもあり、かつ、平和に満ちていて、(自分の近くの)空間に満たされていて、更には、創造的な活力に満ちたものなわけです。
スピリチュアルな団体において技術(スキル)や儀式、魔術、そして「効果」にフォーカスして信仰心を謳っていないところはまだこの領域に達していなくて、普通にスピリチュアルをやっていたとしても、ハイヤーセルフに近づけば必ず、このような創造・破壊・維持の意識に出会って、そうなると、必ず信仰心に目覚めます。
それは誰かを拝むということではなく、自分のハイヤーセルフの神々しさに振れることによる信仰心であり、そのくらいになりますと操作・被操作の関係の段階からはとっくに抜け出ていますので操作・非捜査の罠にハマることは基本的にはなく(完全にないとは言い切れませんが)、自分自身への、ハイヤーセルフへの信仰心に目覚めるのです。
これは、ジーヴァ(エゴ)の観点からのハイヤーセルフです。
この段階に達していない場合に信仰心を求めると、そこには往々にして依存関係が発生しがちです。ですから、信仰心とは自然発生的であるべきで、信仰心がなくてもそこまで問題がないのですりその代わりに、信頼、ベーダンタで言うところのシュラッダー、教えを信頼すること、特に聖典の教えを信頼すると言う姿勢は必要かと思います。それでも、自分で確かめたもの以外は、理解はすれども本当かどうかの判断は保留する、と言う科学の姿勢は必要かと思います。
それでも、信じていなくてもその段階になれば必ず信仰心に目覚めますから、信仰心を無理して持とうとする必要はなく、(修行や聖典の勉強などやるべきことをやりつつ)信仰心が目覚めるまで待てば良いわけです。
実のところ、真我(アートマン、ハイヤーセルフ(に目覚める前であればエゴ(ヴェーダンタでいうところのジーヴァ、錯覚した自分、ヨーガでいうアハンカーラ)が前面に出ていて、このような説明をされるとジーヴァの意識が「そうか、自分は自由にしていいのか」みたいにジーヴァ(アハンカーラ、エゴ)が勘違いをしてしまうことがあります。そう言われたとして「エゴが自分勝手にして良いなんて、何かおかしいぞ」とエゴがまず気付くのが第一歩で、であれば、本当のところは何なのかを探し求める姿勢が必要なわけです。
実のところジーヴァは勘違いをしているだけでその上のハイヤーセルフ(真我)と同じといえばそうなのですけど顕在意識の上では分離があって、ジーヴァの勘違いをやめて真実を見出すとジーヴァ(エゴ)とハイヤーセルフが一体になります。
そして、信仰心とは、ハイヤーセルフの神々しさに対してするものなわけです。ハイヤーセルフとは創造・維持・破壊の意識が融合した高次元の意識ですから、それは神々しくも恐ろしくもあり、かつ、平和に満ちていて、(自分の近くの)空間に満たされていて、更には、創造的な活力に満ちたものなわけです。
スピリチュアルな団体において技術(スキル)や儀式、魔術、そして「効果」にフォーカスして信仰心を謳っていないところはまだこの領域に達していなくて、普通にスピリチュアルをやっていたとしても、ハイヤーセルフに近づけば必ず、このような創造・破壊・維持の意識に出会って、そうなると、必ず信仰心に目覚めます。
それは誰かを拝むということではなく、自分のハイヤーセルフの神々しさに振れることによる信仰心であり、そのくらいになりますと操作・被操作の関係の段階からはとっくに抜け出ていますので操作・非捜査の罠にハマることは基本的にはなく(完全にないとは言い切れませんが)、自分自身への、ハイヤーセルフへの信仰心に目覚めるのです。
これは、ジーヴァ(エゴ)の観点からのハイヤーセルフです。
この段階に達していない場合に信仰心を求めると、そこには往々にして依存関係が発生しがちです。ですから、信仰心とは自然発生的であるべきで、信仰心がなくてもそこまで問題がないのですりその代わりに、信頼、ベーダンタで言うところのシュラッダー、教えを信頼すること、特に聖典の教えを信頼すると言う姿勢は必要かと思います。それでも、自分で確かめたもの以外は、理解はすれども本当かどうかの判断は保留する、と言う科学の姿勢は必要かと思います。
それでも、信じていなくてもその段階になれば必ず信仰心に目覚めますから、信仰心を無理して持とうとする必要はなく、(修行や聖典の勉強などやるべきことをやりつつ)信仰心が目覚めるまで待てば良いわけです。
ハイヤーセルフの視点から見たジーヴァ(エゴ)
アートマン(真我)とも呼ばれるハイヤーセルフは生まれることもなければ死ぬこともない永遠かつ満ちている存在なわけですけど、その視点からすると(ヴェーダンタで言う)ジーヴァ(普通の意識における私、仮初の私、エゴ)は儚くて、生まれては死ぬ存在であります。
基本的にハイヤーセルフから見るとジーヴァ(エゴ)は勝手に動いていて、なかなか思い通りに動いてくれない存在だったりします。しかし、時に、強制的に運命を操ることでジーヴァ(エゴ)が意図しなかった現実へと導きます。
ハイヤーセルフの視点からすると時間と空間を超えているのですが、この地上の出来事に関してはジーヴァ(エゴ)および肉体を通じて(ハイヤーセルフが)世界に働きかけを行いますので、まず、(ハイヤーセルフが)ジーヴァ(エゴ)とうまく繋がる必要があるわけです。
最初はなかなかジーヴァ(エゴ)に繋がるのが難しく、特に現代ですと人々が自由気ままに生きているためにハイヤーセルフの声が(自分の)ジーヴァ(エゴ)に届きにくい状態になっておりますので苦労をするのですが、そこは根気よく働きかけを(ハイヤーセルフが)行っています。
そして、稀に、ジーヴァ(エゴ)の側が気がついて、あるいは、もともと修行している人だったりする場合に、ジーヴァ(エゴ)とハイヤーセルフとが融合することが可能になります。そうなると割と自由にハイヤーセルフの意識をジーヴァ(エゴ)に反映することができて、それぞれが、それぞれの視点の元に、調和した意識で日常を過ごすことが可能になります。ここが一つのスピリチュアルの目的地でもあります。
そして肉体の死後は肉体に近い部分は滅んだり分離したりしますけどハイヤーセルフは死なずに存続します。そして、ハイヤーセルフがグループソウルに戻ったり、戻らずにそのまま転生、ということもあります。それは、グループソウルに戻れるほどに順化されているかどうかという前提条件はありますけど、戻ろうと思えば戻れるほど純化されていたとしても当人の意思によって戻らず、あるいは、戻る前に分裂することも時にはあります。しかし、原則で言いますと、戻れるならば丸ごとグループソウルに戻るのが基本であります。それぞれ、なるべく戻れるところに相応に落ち着くわけです。
基本的にハイヤーセルフから見るとジーヴァ(エゴ)は勝手に動いていて、なかなか思い通りに動いてくれない存在だったりします。しかし、時に、強制的に運命を操ることでジーヴァ(エゴ)が意図しなかった現実へと導きます。
ハイヤーセルフの視点からすると時間と空間を超えているのですが、この地上の出来事に関してはジーヴァ(エゴ)および肉体を通じて(ハイヤーセルフが)世界に働きかけを行いますので、まず、(ハイヤーセルフが)ジーヴァ(エゴ)とうまく繋がる必要があるわけです。
最初はなかなかジーヴァ(エゴ)に繋がるのが難しく、特に現代ですと人々が自由気ままに生きているためにハイヤーセルフの声が(自分の)ジーヴァ(エゴ)に届きにくい状態になっておりますので苦労をするのですが、そこは根気よく働きかけを(ハイヤーセルフが)行っています。
そして、稀に、ジーヴァ(エゴ)の側が気がついて、あるいは、もともと修行している人だったりする場合に、ジーヴァ(エゴ)とハイヤーセルフとが融合することが可能になります。そうなると割と自由にハイヤーセルフの意識をジーヴァ(エゴ)に反映することができて、それぞれが、それぞれの視点の元に、調和した意識で日常を過ごすことが可能になります。ここが一つのスピリチュアルの目的地でもあります。
そして肉体の死後は肉体に近い部分は滅んだり分離したりしますけどハイヤーセルフは死なずに存続します。そして、ハイヤーセルフがグループソウルに戻ったり、戻らずにそのまま転生、ということもあります。それは、グループソウルに戻れるほどに順化されているかどうかという前提条件はありますけど、戻ろうと思えば戻れるほど純化されていたとしても当人の意思によって戻らず、あるいは、戻る前に分裂することも時にはあります。しかし、原則で言いますと、戻れるならば丸ごとグループソウルに戻るのが基本であります。それぞれ、なるべく戻れるところに相応に落ち着くわけです。
階層の結びつきの強さと死後の分離
死後に分裂するかどうかは基本的にはオーラの波動の周波数帯ごとの質量で決まるわけですが、それに加えて、波動の階層に分離があって違う周波数帯に偏りがあって分離しやすくなっているのか、あるいは、満遍なくきっちりと結びついているのか、しっかりと(分離なく)自我(エゴ)とハイヤーセルフが繋がっているかどうかでも決まります。
満遍なくエゴとハイヤーセルフが繋がっている場合は地上にあまり残らずに丸ごと天国に行く場合が多いように思います。そして、しばらく天国で暮らしたのち、満足を得て光の柱が立って上昇し、昇天し、グループソウルに還ります。これは割と理想的な在り方です。
尚、そうしてグループソウルに帰ることで輪廻転生の1サイクルを終えて知見をグループソウルにフィードバックすることができるわけですから、分霊を送り出したグループソウルからすれば、戻ってきたことで「帰還」「成功」であるわけです。ミッションを成功することもあれば、もちろん失敗で戻ることもありますが、基本的には、成功も失敗も含めて知見を得たことで歓迎されます。そのためにも、まず、満遍なくエゴ(自我)とハイヤーセルフとを融合する必要があるわけです。
満遍なくエゴとハイヤーセルフが繋がっている場合は地上にあまり残らずに丸ごと天国に行く場合が多いように思います。そして、しばらく天国で暮らしたのち、満足を得て光の柱が立って上昇し、昇天し、グループソウルに還ります。これは割と理想的な在り方です。
尚、そうしてグループソウルに帰ることで輪廻転生の1サイクルを終えて知見をグループソウルにフィードバックすることができるわけですから、分霊を送り出したグループソウルからすれば、戻ってきたことで「帰還」「成功」であるわけです。ミッションを成功することもあれば、もちろん失敗で戻ることもありますが、基本的には、成功も失敗も含めて知見を得たことで歓迎されます。そのためにも、まず、満遍なくエゴ(自我)とハイヤーセルフとを融合する必要があるわけです。
分離と意識
意思として、分離するかどうか、というところも死後に分離するかどうかに関係してきます。これは、盲目で意思の力が弱い人はなすがままになりますし、意思の強い人は選択の力が強く働きます。とは言いましても、ある程度までは意思の力が働きますが、エゴとハイヤーセルフの分離がそれなりにある場合は中間的な階層(天国)に上がれない部分はどうしてもあるわけで、その時、高次の方からしたら(粗大な部分を)分離するかどうか決めることができて、粗大な部分のために地上あるいは中間的な階層に留まるか、あるいは、分離して、可能な部分だけ天国に行く、ということを選択できる人もいます。あるいは、波動的な統合が弱くて分離が激しいと否応なく分かれることもあります。
そして、分かれると低次の側である想念の抜け殻のようなものが地上に残り、(天国に行けるくらいの)中間的な意識が天国に行きます。そして、場合によっては高次の側だけが天国に行ったり昇天したりしますが、高次の部分の分離がほとんどない場合もあります。この辺りは、意識的に分離しようが波動的になすがままに分離しようが、どちらも同じようなことになります。
そして、分かれると低次の側である想念の抜け殻のようなものが地上に残り、(天国に行けるくらいの)中間的な意識が天国に行きます。そして、場合によっては高次の側だけが天国に行ったり昇天したりしますが、高次の部分の分離がほとんどない場合もあります。この辺りは、意識的に分離しようが波動的になすがままに分離しようが、どちらも同じようなことになります。
死後すぐ昇天するケース
特に意図しない場合、死後に(天国と昇天に)分離せずに丸ごと昇天のケースはそこまで多くないように思います。それよりも丸ごと天国(そして時間をかけた後に昇天)が多くて、他のパターンとしては死後に(いきなり)天国と昇天に分かれるケースもあるにはありますが、これまた、少ないように思います。
昇天とは言っても、一旦天国の状態を挟むと昇天とあえて言ったり(私は)していますけど、それは、天国に行けるくらいの中間的な意識にとっては昇天という一段階を踏む必要があるというだけで、魂の状態によっては昇天という過程を経ずしてもグループソウルに戻ることができます。それは昇天とは言わないまでも、波動的に、問題なく戻れる状態にあることが基本にあって、あとは、意思として地上や天国に一部でも残すことを選択せずに丸ごとグループソウルで引き受ける、という意図がある場合にはそうなります。
ただ、やり方としては天国を一旦挟んだ方が地上界での学びを消化して理解へと変わったり、良くない感情を(天国にいる間に)手放して、それなりに浄化してからグループソウルに戻った方がグループソウルの側からしたら整理された状態で分霊が戻ってくるので刺激が少なくてスムーズ、という面も多少はあるようですが、そこまで気にしてない場合も多々あるように思います。これはメリット・デメリットというよりも、グループソウルが早く結果を知りたい、と思うかどうかと、分霊の側が早く戻りたいと思うかどうかにも関わっているように思います。
昇天とは言っても、一旦天国の状態を挟むと昇天とあえて言ったり(私は)していますけど、それは、天国に行けるくらいの中間的な意識にとっては昇天という一段階を踏む必要があるというだけで、魂の状態によっては昇天という過程を経ずしてもグループソウルに戻ることができます。それは昇天とは言わないまでも、波動的に、問題なく戻れる状態にあることが基本にあって、あとは、意思として地上や天国に一部でも残すことを選択せずに丸ごとグループソウルで引き受ける、という意図がある場合にはそうなります。
ただ、やり方としては天国を一旦挟んだ方が地上界での学びを消化して理解へと変わったり、良くない感情を(天国にいる間に)手放して、それなりに浄化してからグループソウルに戻った方がグループソウルの側からしたら整理された状態で分霊が戻ってくるので刺激が少なくてスムーズ、という面も多少はあるようですが、そこまで気にしてない場合も多々あるように思います。これはメリット・デメリットというよりも、グループソウルが早く結果を知りたい、と思うかどうかと、分霊の側が早く戻りたいと思うかどうかにも関わっているように思います。
抜け殻パターンなど
基本的には、地上に想念の「抜け殻」が残るかどうかがポイントで、地上に残るか天国に行くかが大きな分かれ道で、一部は分かれて昇天するかどうか、という点が加わるように思います。ですから、満遍なく繋がっていて天国に行く、というケースが次点でしょうか。
パターン
・丸ごとグループソウルに戻るパターン(理想的)
・丸ごと天国に行くパターン(日本人の場合、これが多いです。日本の場合の基本)
そして、相当数の時間を経た後、昇天してグループソウルに帰る、あるいは、転生する、もしくは分霊を作る、分霊が転生する。
・地上に想念体型の抜け殻を残し、分離した中間的な部分が天国に行く。分離パターン
・地上を彷徨い歩く、天国に行けない。(欲望にまみれた人生を送った場合、盲目な場合)
パターンは色々とありますが、日本人の場合は波動が良い方が多いので、基本的に天国に行けます。
パターン
・丸ごとグループソウルに戻るパターン(理想的)
・丸ごと天国に行くパターン(日本人の場合、これが多いです。日本の場合の基本)
そして、相当数の時間を経た後、昇天してグループソウルに帰る、あるいは、転生する、もしくは分霊を作る、分霊が転生する。
・地上に想念体型の抜け殻を残し、分離した中間的な部分が天国に行く。分離パターン
・地上を彷徨い歩く、天国に行けない。(欲望にまみれた人生を送った場合、盲目な場合)
パターンは色々とありますが、日本人の場合は波動が良い方が多いので、基本的に天国に行けます。
知り合いの助けで天国に行く
本人は割と盲目であったとしても、それなりに仲の良かった人が天国に行ける人の場合、特に夫婦で仲が良かった場合など、片方が天国に行けるのであれば、もう片方が死んだ時に地上の暗闇の中にやってきて、天国に連れて行ってくれることが多々あります。見捨てられているような一人ぼっちではない限りは誰がしか家族やら何某かの繋がりがあるのが普通で、そうなると、本人はそこまで目覚めていなくても天国に行けたりします。
自分の意思で天国に行ける方が天国に行った後も行動の範囲が広がって良いのですけど、少なくとも知り合いに天国に行ける人がいれば、割と助けてくれて天国に連れて行ってくれるわけです。
生きている間にとてもストレスを感じていたり疲れる相手だったりすると「どうしようかなぁ・・・」みたいに悩まれることもあります。もっとすると、嫌いだと放っておかれたりします。そこは生きている時の人間関係そのものですね。
ですから、生きているうちに、なるべく人との付き合いは良くしていくことです。特に家族は、尊徳関係なしに助けてくれるような関係になっているのが理想です。死後はお金や制約がありませんから、お金だけで結びついていた関係はすぐに自由になって離れていきます。一方、生きている間に良い思いを沢山させてくれた人の近くには大勢が付き添うことになります。ですから、生きている間に、なるべく奉仕をしておくのが良いと思います。
霊能力者とかお坊さんが霊を成仏させるとか言いますけど、そんな手間かけなくても知り合いの方が天国にいれば天国にいる知り合いの方から(縁のある方の死に)気がついて迎えに来てくれるわけです。
自分の意思で天国に行ける方が天国に行った後も行動の範囲が広がって良いのですけど、少なくとも知り合いに天国に行ける人がいれば、割と助けてくれて天国に連れて行ってくれるわけです。
生きている間にとてもストレスを感じていたり疲れる相手だったりすると「どうしようかなぁ・・・」みたいに悩まれることもあります。もっとすると、嫌いだと放っておかれたりします。そこは生きている時の人間関係そのものですね。
ですから、生きているうちに、なるべく人との付き合いは良くしていくことです。特に家族は、尊徳関係なしに助けてくれるような関係になっているのが理想です。死後はお金や制約がありませんから、お金だけで結びついていた関係はすぐに自由になって離れていきます。一方、生きている間に良い思いを沢山させてくれた人の近くには大勢が付き添うことになります。ですから、生きている間に、なるべく奉仕をしておくのが良いと思います。
霊能力者とかお坊さんが霊を成仏させるとか言いますけど、そんな手間かけなくても知り合いの方が天国にいれば天国にいる知り合いの方から(縁のある方の死に)気がついて迎えに来てくれるわけです。
煽りのオーラと接触しない
世間で激しい笑いや面白い感情と共に他人を巻き込む、いわゆるインフルエンサーの人がいますけど、あの種の人は一見するとポジティブそうに見えて、他者とオーラを一体にすることで周囲と一連托生になっているのです。ですから、オーラを一体にするかというところで実は各個人の選択があるべきなのですが、実際には無自覚にオーラの一致ごなされて、意思と言うのはオーラの強い方に引っ張られますから、複数人数で一連托生になっている人たち、それは一人と会っても一連托生に巻き込まれるわけでけと、誰かと会うことで少しずつ巻き込まれてしまうわけです。
それが本人の選択ならば、それは個人の自由ですから好きにすれば良いわけですけと、その場合、おそらくは次世代にかけても一連托生の縁が続くわけです。そのように長く続くものである故に、それは、本来ならば意図的に選択すべきことなわけで、特に、つまらないインフルエンサーに無意識に巻き込まれないことは重要なわけです。
この世界には、自分の利益のために他人を煽るつまらない人が大勢いますから、他人の煽りに乗らない、無闇に他人に関わらない、他人に無闇に興味を持たない、でないと無闇に他人に関わると時に一連托生になり得る、というくらいの姿勢が必要かと思います。
こうしてオーラが接触すると、輪廻転生のサイクルに影響します。
それが本人の選択ならば、それは個人の自由ですから好きにすれば良いわけですけと、その場合、おそらくは次世代にかけても一連托生の縁が続くわけです。そのように長く続くものである故に、それは、本来ならば意図的に選択すべきことなわけで、特に、つまらないインフルエンサーに無意識に巻き込まれないことは重要なわけです。
この世界には、自分の利益のために他人を煽るつまらない人が大勢いますから、他人の煽りに乗らない、無闇に他人に関わらない、他人に無闇に興味を持たない、でないと無闇に他人に関わると時に一連托生になり得る、というくらいの姿勢が必要かと思います。
こうしてオーラが接触すると、輪廻転生のサイクルに影響します。
基本、他人に口出ししない
他人と関わる時、聞かれた時は答えても良いと思います。その場合でも、当人の選択を尊重することは基本です。それはスピリチュアルに限らず一般常識でもその通りなわけです。
自分は情の気持ちで善意だったとしても、基本的には相手のことを思うことは何であれオーラの接触が起こる可能性があります。ちょっと口出ししただけでもオーラの交換が起こることがあります。ですから、基本は、あまり無闇に他人に興味を持たないことです。自分より波動の高いお話を興味を抱くようにした方が良いわけです。
そうして他の人のオーラと接触すると、輪廻転生に影響します。自分より波動の低い人のオーラと接触すると苦しみますし、高いオーラの人と接したところでその「理解」を消化できずに、わかった風に一瞬なるものの実はよくわかっていない、という状態になって、混乱してしまうことが多々あります。飛び級してもあまり良いことはないわけです。むしろ、途中の基礎がないと元のところまですぐに戻ってしまったり、理解とオーラの状態が一致せずに苦しむことになります。
この種のお話も霊障であることがあって、高い波動に触れて何やら成長した気がしても実は当人の本質は元のままなので、時間が経つと元に戻ってしまうわけです。
低い波動に触れた場合にも時間が経てば元々の自分の波動のところまで回復しますけど、そもそも、そんな無駄な苦労を招き入れる必要はないわけです。
ですから、求められた時を除いて、求められたとしても応じるかどうかは自分の意思で確認した上で応じるとして、基本は、他人に興味を持たずに口出しをしない、というのが基本であるべきなわけです。
他人に口を出してしまうと、相手のみならず、自分の輪廻転生に影響が出る可能性があります。
自分は情の気持ちで善意だったとしても、基本的には相手のことを思うことは何であれオーラの接触が起こる可能性があります。ちょっと口出ししただけでもオーラの交換が起こることがあります。ですから、基本は、あまり無闇に他人に興味を持たないことです。自分より波動の高いお話を興味を抱くようにした方が良いわけです。
そうして他の人のオーラと接触すると、輪廻転生に影響します。自分より波動の低い人のオーラと接触すると苦しみますし、高いオーラの人と接したところでその「理解」を消化できずに、わかった風に一瞬なるものの実はよくわかっていない、という状態になって、混乱してしまうことが多々あります。飛び級してもあまり良いことはないわけです。むしろ、途中の基礎がないと元のところまですぐに戻ってしまったり、理解とオーラの状態が一致せずに苦しむことになります。
この種のお話も霊障であることがあって、高い波動に触れて何やら成長した気がしても実は当人の本質は元のままなので、時間が経つと元に戻ってしまうわけです。
低い波動に触れた場合にも時間が経てば元々の自分の波動のところまで回復しますけど、そもそも、そんな無駄な苦労を招き入れる必要はないわけです。
ですから、求められた時を除いて、求められたとしても応じるかどうかは自分の意思で確認した上で応じるとして、基本は、他人に興味を持たずに口出しをしない、というのが基本であるべきなわけです。
他人に口を出してしまうと、相手のみならず、自分の輪廻転生に影響が出る可能性があります。
自分が興味のない人と無理に付き合わない
このようなこと言うと、私の言っていることを勘違いして「他人に興味を持たないなんて、なんて酷いことを言う人なんだ」と言う方もおられるかもしれません。実のところ、一律にそのような常識と同調圧力があるからこそ、本来は交わる必要のない、交わる価値のない人達の間でオーラの交換が起こって、波動が低い人にとっては(高い波動のオーラをもらって)元気になって良いかもしれませんですけど、相対的に波動が高い方の人は他者の低い波動のオーラをもらってしまって苦しむわけです。
基本、他者とは無闇に関わりを持たずに、関わりは選択的に行う、という当たり前のことを言っているだけで、その選択と意思が優先されるとすれば「皆と仲良くすべき」とか言う道徳のお話よりも(自由と選択が)優先されるべきなわけです。ですが、特に教育の場面においては一律に「仲良くしなさい」という身勝手な理屈が優先していて、子供の精神的な成長を阻害しているように思うのです。このような、大人の勝手な子供への身勝手な躾けと教育方針がいつの間にか一般常識かのようになっていて、いつしか人間の自由意思と非干渉の法則よりも上かのように誤って扱われてしまっていて、それ故に、操作・被捜査の関係が(特に教区の現場で)正当化されてしまっているように思います。
望まない人間関係を持つと、輪廻転生に影響が出ます。
▪️自由意志と子供の成長
特に、子供はこのあたりがわかっていないことが多いですから、誰かが「興味無いと言ってるでしょ」と言ってもそれに理解を示すどころか、他の子や時に先生までもが「仲良く一緒に遊びなさい」とか言う無理解と同調圧力をかけてしぶしぶ従って一緒に遊ぶことで「大人は喜び、一方、子供たちは操作・被操作の権力ヒエラルキーが構成されることが多々あるわけですが、そうして付き合わされる方は大迷惑なのです。大人たちの世界においては操作・被操作が当たり前だったかもしれませんし、(大人たちの教育方針として)子供達の中にヒエラルキーを作ることで秩序を作る、という方針が教員たちの間にあるのかもしれない、と勘ぐってしまうほどです。ですが、この種の、ヒエラルキー構造による子供の関係の秩序化というのは昭和の考え方であって、今の子供達に合っていないと言えます。
とは言いましても、そもそも子供はこのあたりをわかっていないですし、大人もわかっていないことが多々あるので、子供の成長を阻害していることに無自覚だったりするのです。子供はまだ自由意志が曖昧ですけど、このような同調圧力の中で生きていると自我が目覚めず、スピリチュアル的に言うとグラウンディングが弱くなって、男なら思春期に男らしくなることができなかったり、女も思春期に女らしくなることができなくなったりします。
結果、自由意志がなくて性に無自覚なLGBTが増えてしまうのも、自由意志を潰して自我を目覚めさせないという教育にその一旦があったりするわけです。
実のところ、この宇宙の基本原則は自由と非干渉の法則ですから、「皆と仲良くすべき」みたいな道徳より、自由と非干渉の法則の方が上に来るのです。このことがわかっていなくて、自由意志よりも操作・被操作のヒエラルキー関係を優先することで、結果、自由意志を許さない、という方針で教育にせよ仕事にせよ行われていることがあまりにも多いように思うのです。
自由意志の優先度が下がるのだとしたら、身勝手な人に搾取されて操作と被操作の関係が正当化されてしまうことでしょう。それは詐欺師や他人を奴隷にしたい人だけが喜ぶ論理であって、実際は、他人と関わるかどうかと言う最初の時点から選択の自由があるのです。
ですから、執拗に関わって来る搾取者に対しては脇を甘くしない姿勢が大切なわけです。それは大人はもちろん、子供に対してもそうで、とは言いましても子供は基本的なところが分かっていないことも多いですから、大人が守ったり導いてあげる必要があると思います。ですが、大人もこのあたりがよく分かっていないことが多く、どうしようもない状況になっているように思います。
操作・被操作の関係になってしまうと、輪廻転生に影響が出ます。自分の人生を生きられず、他者に搾取される人生は本来その人がやりたかったことができないばかりか、他者を勘違いさせて自己正当化を加速させることになり、学びの機会を奪ってしまうことにもなります。
今の世の中は、会社や社会の地位が高いのにも関わらず何もわかっていない、他者を操作することにだけ長けている人が大勢いるわけですが、それは、脇の甘い善人がそれを許しているから、という面もあるのです。そのような状況では、本来の学びをどちらの側も(操作している側も被操作の側も)することが困難になり、学びが少ないということは、輪廻転生で同じような人生を送ることが長引くことになります。
他者を操作している側は、他者を操作することで現世的な利益を得ることができるので自己正当化して、そのコンファタブル・ゾーンを出ない、そこから外れることを極端に怖がる、自分の地位を脅かす者に対してヒステリーになるほど敏感に反応する、ということを繰り返し、そこから抜け出ることができずに学びがなかなか進まず、輪廻転生でその課題をクリアできずに転生の回数がどんどん増えてゆきます。
被操作の側にしても、自分がやりたい人生を送れずに、他者から強制された人生を送っていては本来の目的が達成できず、生まれるときに立てた目標が達成できずに「人生失敗」になる可能性が増えるわけです。
それもこれも、自由意志を優先させずに操作・被操作の関係を甘んじて受け入れていたからこそ起こった悲劇ですけど、実のところ、それすらも、甘んじて受け入れたという自由意志があるからこそ現実として継続しているのですから、ことあるごとに「私はこんなことは許可しない、拒否する」と宣言すれば良いのです。
とは言いましても急に行うと暮らしや職業に困難が出るかもしれませんから、今までずっと自由意志を蔑ろにしていたのであれば少しずつ自由意志を強めていけば良いわけです。
基本、他者とは無闇に関わりを持たずに、関わりは選択的に行う、という当たり前のことを言っているだけで、その選択と意思が優先されるとすれば「皆と仲良くすべき」とか言う道徳のお話よりも(自由と選択が)優先されるべきなわけです。ですが、特に教育の場面においては一律に「仲良くしなさい」という身勝手な理屈が優先していて、子供の精神的な成長を阻害しているように思うのです。このような、大人の勝手な子供への身勝手な躾けと教育方針がいつの間にか一般常識かのようになっていて、いつしか人間の自由意思と非干渉の法則よりも上かのように誤って扱われてしまっていて、それ故に、操作・被捜査の関係が(特に教区の現場で)正当化されてしまっているように思います。
望まない人間関係を持つと、輪廻転生に影響が出ます。
▪️自由意志と子供の成長
特に、子供はこのあたりがわかっていないことが多いですから、誰かが「興味無いと言ってるでしょ」と言ってもそれに理解を示すどころか、他の子や時に先生までもが「仲良く一緒に遊びなさい」とか言う無理解と同調圧力をかけてしぶしぶ従って一緒に遊ぶことで「大人は喜び、一方、子供たちは操作・被操作の権力ヒエラルキーが構成されることが多々あるわけですが、そうして付き合わされる方は大迷惑なのです。大人たちの世界においては操作・被操作が当たり前だったかもしれませんし、(大人たちの教育方針として)子供達の中にヒエラルキーを作ることで秩序を作る、という方針が教員たちの間にあるのかもしれない、と勘ぐってしまうほどです。ですが、この種の、ヒエラルキー構造による子供の関係の秩序化というのは昭和の考え方であって、今の子供達に合っていないと言えます。
とは言いましても、そもそも子供はこのあたりをわかっていないですし、大人もわかっていないことが多々あるので、子供の成長を阻害していることに無自覚だったりするのです。子供はまだ自由意志が曖昧ですけど、このような同調圧力の中で生きていると自我が目覚めず、スピリチュアル的に言うとグラウンディングが弱くなって、男なら思春期に男らしくなることができなかったり、女も思春期に女らしくなることができなくなったりします。
結果、自由意志がなくて性に無自覚なLGBTが増えてしまうのも、自由意志を潰して自我を目覚めさせないという教育にその一旦があったりするわけです。
実のところ、この宇宙の基本原則は自由と非干渉の法則ですから、「皆と仲良くすべき」みたいな道徳より、自由と非干渉の法則の方が上に来るのです。このことがわかっていなくて、自由意志よりも操作・被操作のヒエラルキー関係を優先することで、結果、自由意志を許さない、という方針で教育にせよ仕事にせよ行われていることがあまりにも多いように思うのです。
自由意志の優先度が下がるのだとしたら、身勝手な人に搾取されて操作と被操作の関係が正当化されてしまうことでしょう。それは詐欺師や他人を奴隷にしたい人だけが喜ぶ論理であって、実際は、他人と関わるかどうかと言う最初の時点から選択の自由があるのです。
ですから、執拗に関わって来る搾取者に対しては脇を甘くしない姿勢が大切なわけです。それは大人はもちろん、子供に対してもそうで、とは言いましても子供は基本的なところが分かっていないことも多いですから、大人が守ったり導いてあげる必要があると思います。ですが、大人もこのあたりがよく分かっていないことが多く、どうしようもない状況になっているように思います。
操作・被操作の関係になってしまうと、輪廻転生に影響が出ます。自分の人生を生きられず、他者に搾取される人生は本来その人がやりたかったことができないばかりか、他者を勘違いさせて自己正当化を加速させることになり、学びの機会を奪ってしまうことにもなります。
今の世の中は、会社や社会の地位が高いのにも関わらず何もわかっていない、他者を操作することにだけ長けている人が大勢いるわけですが、それは、脇の甘い善人がそれを許しているから、という面もあるのです。そのような状況では、本来の学びをどちらの側も(操作している側も被操作の側も)することが困難になり、学びが少ないということは、輪廻転生で同じような人生を送ることが長引くことになります。
他者を操作している側は、他者を操作することで現世的な利益を得ることができるので自己正当化して、そのコンファタブル・ゾーンを出ない、そこから外れることを極端に怖がる、自分の地位を脅かす者に対してヒステリーになるほど敏感に反応する、ということを繰り返し、そこから抜け出ることができずに学びがなかなか進まず、輪廻転生でその課題をクリアできずに転生の回数がどんどん増えてゆきます。
被操作の側にしても、自分がやりたい人生を送れずに、他者から強制された人生を送っていては本来の目的が達成できず、生まれるときに立てた目標が達成できずに「人生失敗」になる可能性が増えるわけです。
それもこれも、自由意志を優先させずに操作・被操作の関係を甘んじて受け入れていたからこそ起こった悲劇ですけど、実のところ、それすらも、甘んじて受け入れたという自由意志があるからこそ現実として継続しているのですから、ことあるごとに「私はこんなことは許可しない、拒否する」と宣言すれば良いのです。
とは言いましても急に行うと暮らしや職業に困難が出るかもしれませんから、今までずっと自由意志を蔑ろにしていたのであれば少しずつ自由意志を強めていけば良いわけです。
エゴとしての自由意志とハイヤーセルフとしての自由意志
最初はエゴとしての自由意志ですけど、やがて、ハイヤーセルフとしての自由意志と融合して1つになります。それらが分離している間は何が正しくて何が間違っているのか判断が困難なことがありますけど、スピリチュアルの成長と共に両者のギャップが少なくなり、やがて融合して1つの意思になります。
そうなると、大体の場合は輪廻転生のサイクルから解き放たれて「自由(ヴェーダンタで言うモクシャ)」になって、輪廻するもしないも自由意志に委ねられる状態になります。
とは言いましても、最初は段階を踏む必要があって、まずはエゴとしての自由意志の確立が必要で、そうすると(普通は)思春期に自分の性に目覚めて、男なら男らしく、女なら女らしくなるのです。それがムーラダーラ・チャクラ(ルート・チャクラ)に相当して、まず自分の性に目覚めることが第一なわけです。そのためには、自由意志、特にエゴとしての自由意志が確立することが必要なわけですけど、それを阻害してるのが操作・被操作の関係であり、自由意志を優先させることでまずはエゴとしての自由意志を目覚めさせる必要があるわけです。
それだけですと自分勝手な人になってしまいますけど、もちろんそこで終わりではなくて上のチャクラをも活性化させることで「良き人」として少しずつ成長していき、やがて、ハイヤーセルフとしての意志とも融合して1つの大きな意志としてまとまることで、「自由(ヴェーダンタでいうモクシャ)」を得るわけです。
そうすることで、一応、輪廻転生としてのサイクルは一旦終わる、と言うこともできて、もちろんその後も選択的に意思の力で転生があるといえばあるのですけどそれ以前のような自動的な衝動的な反応的な欲求・欲望に基づく転生ではなくて、ハイヤーセルフとしての意思が選択的に行う転生になるという点において、全く別物なわけです。
ここがスピリチュアルの(一定の)到達点であり、ひとまず、ここを目指すべきなわけです。
そうなると、大体の場合は輪廻転生のサイクルから解き放たれて「自由(ヴェーダンタで言うモクシャ)」になって、輪廻するもしないも自由意志に委ねられる状態になります。
とは言いましても、最初は段階を踏む必要があって、まずはエゴとしての自由意志の確立が必要で、そうすると(普通は)思春期に自分の性に目覚めて、男なら男らしく、女なら女らしくなるのです。それがムーラダーラ・チャクラ(ルート・チャクラ)に相当して、まず自分の性に目覚めることが第一なわけです。そのためには、自由意志、特にエゴとしての自由意志が確立することが必要なわけですけど、それを阻害してるのが操作・被操作の関係であり、自由意志を優先させることでまずはエゴとしての自由意志を目覚めさせる必要があるわけです。
それだけですと自分勝手な人になってしまいますけど、もちろんそこで終わりではなくて上のチャクラをも活性化させることで「良き人」として少しずつ成長していき、やがて、ハイヤーセルフとしての意志とも融合して1つの大きな意志としてまとまることで、「自由(ヴェーダンタでいうモクシャ)」を得るわけです。
そうすることで、一応、輪廻転生としてのサイクルは一旦終わる、と言うこともできて、もちろんその後も選択的に意思の力で転生があるといえばあるのですけどそれ以前のような自動的な衝動的な反応的な欲求・欲望に基づく転生ではなくて、ハイヤーセルフとしての意思が選択的に行う転生になるという点において、全く別物なわけです。
ここがスピリチュアルの(一定の)到達点であり、ひとまず、ここを目指すべきなわけです。
アストラル(感情)の一致とコーザル(カーラナ、原因、カルマ)の一致
スピリチュアル、特に神智学などで言われている分類を元にしますと、アストラル体の体は感情を司るのです。そして、カルマたる因縁や条件付けの原因となっているのはそれより1段階微細なコーザル体(カーラナ、原因体)です。
アストラル体は散漫に(肉体の体の近くに)広く拡散していて、近くにいる人(のアストラル体)に不用心に接触して融合し、どちらも「同じ感情」を共有します。その結果、何某かの条件付けが両者で共有されたり、同じ感情を持つに至ります。これはマーケティングの手法としてよく使われていて、タレントは割と「使い捨て」で「特定の条件付け」を持つように「躾」をされ、その条件付けをしたタレントがテレビ番組などに解き放たれると、大衆が「同じ感情、同じ条件付け」を持つようになり、結果、物が沢山売れたりする状況が生まれます。そのタレントは条件付けの中心でありますからなかなかその条件付けから離れることが難しく、他の役割(他の条件付け)をマーケッターから指示されることもありますけど、色々な条件付けが混ざってしまうと、やがて、時に精神的におかしくなってしまうことがあり、そうなるとタレントは捨てられます。それでも新しいタレントは次々に供給されますからそれでも問題ないわけです。
同様に、アストラル体は知人や地域的に影響力を持つ人が感情の階層で他人と同室になることで影響力を高める、ということを行なっていたります。アメ横の売り子や、掛け声や楽しい雰囲気でものを売る人がこの種類にあたります。
このように、アストラル体であったとしても他者と融合すると、部分的なアストラル体の一致が起こり、他者の感情と自分の感情が一時的に(文字通り)合一され、そして切り離される時には(自分ではあるが相手でもある)感情を持ち帰ることになります。
それは、僅かであっても、輪廻転生に影響します。
一方、スピリチュアルなレベルになりますともう少し踏み込んで、原因のカルマとしての融合があります。それがコーザル体(カーラナ、原因体)で、これになりますと感情はなくて、(行動、現象の)原因となる「種」という意味において、それはカルマであるわけです。
実際のところ、私の理解においては、このコーザル体(カーラナ)が幽体離脱した時の「体」に相当するのではないか、と思っております。実のところ、私は幽体離脱を文字通り「幽体」と最初(昔)は理解していたのですが、実際、そこで行われている現象を見てみると、それは感情(アストラル体)でもなく、かと言って、高次のハイヤーセルフ(プルシャ)だけでもないわけで、となれば、コーザル体(カーラナ)が基本となって、それに高次のハイヤーセルフ(プルシャ)が重なっているのではないかと思うのです。
この、コーザル体の一致というのはなかなか起きないわけですけど、スピリチュアルで上達すると意図的に他者とオーラと共有して、情報やカルマを交換しあえたりします。(感情としてはアストラル体ですが)スピリチュアルで意図するのは往々にしてコーザル体としてのオーラになるわけです。これはメリットもあればデメリットもあります。
・自分の情報が相手に(必ず)伝わってしまう。
・知見、能力などの一部が相手に伝わってしまう、身元がばれる。
・相手の情報が入手できる。
これは理屈を考えれば当然のことで、一部のオーラ(コーザル体)が一致したことで、その部分は、文字通り「自分と相手の融合」になるわけですから、その部分は、自分でもあるし相手でもある、しかしながら元々の自分でもなければ元々の相手のオーラでもないわけです。
これのどこが悪いのか、と思われるかもしれませんけど、こういうことをすると、知見の低い方(波動が悪い方)が(波動が高い人の)ストーカーになる可能性があります。
と言いますのも、知見というものができるには時間がかかりますから、オーラの部分的な一致で入手した知見と言いますのは(一応は)「わかる」けれども、何故そうなのかが真にはわからない、という種類のものになるからです。1からその理屈、理解にたどり着くことができないわけです。オーラの融合で入手した情報は「結果」はわかりますけど、根本のところは理解していないのです。
相手の情報が入手できたとしても、その知見は自分で生み出したものではありませんから、そのことを自覚的に行なっていて、そんなものだと思えるならば良いですが、これらの仕組みに無頓着である場合、どうにかしてその知見を手に入れるためには「他者から奪い取る」ことで結果を出そうとしてしまう人が一定数いるわけで、それ故にストーカーになったり、成果泥棒になったり、はたまた、パワハラ、モラハラでネチネチと他人を強制して操って結果を得る、という人が現れてしまうわけです。
ですから、そもそも、最初から、「他者に興味を持たない(他者とオーラを融合しない)」ことが何よりも重要なのです。
そうでなければ、時に数世代、あるいはもっと長い時間にわたってストーカーされて成果泥棒されてしまうことにもなります。
例を出しますと、私の場合、遥か昔の(グループソウルのとある分霊)の人生で私から成果泥棒をしていた人が、ノコノコと私の今回の人生の同級生になったのですけど、案の定、色々と嫌らしいことを私はされたものの、中学卒寮以降は連絡を経って、それっきりです。その後も、この種の、成果泥棒、モラハラ、というのは割と長い間私を悩ませましたけど、30年前はかなり酷くて抵抗が難しいほど縛られていましたが、その呪縛から離れて、今も少しはありますけどあしらうようになって次第に落ち着いてきて、そろそろほぼ完全に卒業しそうな雰囲気です。
そのように、アストラル体(感情)のみならず、コーザル(カーラナ、原因体)を他者と一致させてしまうと輪廻転生に激しく影響します。コーザル体の一致はアストラル体よりも影響が大きいため、安易に(往々にして成果を焦って)そういうことをしない方が良いと思われます。
アストラル体は散漫に(肉体の体の近くに)広く拡散していて、近くにいる人(のアストラル体)に不用心に接触して融合し、どちらも「同じ感情」を共有します。その結果、何某かの条件付けが両者で共有されたり、同じ感情を持つに至ります。これはマーケティングの手法としてよく使われていて、タレントは割と「使い捨て」で「特定の条件付け」を持つように「躾」をされ、その条件付けをしたタレントがテレビ番組などに解き放たれると、大衆が「同じ感情、同じ条件付け」を持つようになり、結果、物が沢山売れたりする状況が生まれます。そのタレントは条件付けの中心でありますからなかなかその条件付けから離れることが難しく、他の役割(他の条件付け)をマーケッターから指示されることもありますけど、色々な条件付けが混ざってしまうと、やがて、時に精神的におかしくなってしまうことがあり、そうなるとタレントは捨てられます。それでも新しいタレントは次々に供給されますからそれでも問題ないわけです。
同様に、アストラル体は知人や地域的に影響力を持つ人が感情の階層で他人と同室になることで影響力を高める、ということを行なっていたります。アメ横の売り子や、掛け声や楽しい雰囲気でものを売る人がこの種類にあたります。
このように、アストラル体であったとしても他者と融合すると、部分的なアストラル体の一致が起こり、他者の感情と自分の感情が一時的に(文字通り)合一され、そして切り離される時には(自分ではあるが相手でもある)感情を持ち帰ることになります。
それは、僅かであっても、輪廻転生に影響します。
一方、スピリチュアルなレベルになりますともう少し踏み込んで、原因のカルマとしての融合があります。それがコーザル体(カーラナ、原因体)で、これになりますと感情はなくて、(行動、現象の)原因となる「種」という意味において、それはカルマであるわけです。
実際のところ、私の理解においては、このコーザル体(カーラナ)が幽体離脱した時の「体」に相当するのではないか、と思っております。実のところ、私は幽体離脱を文字通り「幽体」と最初(昔)は理解していたのですが、実際、そこで行われている現象を見てみると、それは感情(アストラル体)でもなく、かと言って、高次のハイヤーセルフ(プルシャ)だけでもないわけで、となれば、コーザル体(カーラナ)が基本となって、それに高次のハイヤーセルフ(プルシャ)が重なっているのではないかと思うのです。
この、コーザル体の一致というのはなかなか起きないわけですけど、スピリチュアルで上達すると意図的に他者とオーラと共有して、情報やカルマを交換しあえたりします。(感情としてはアストラル体ですが)スピリチュアルで意図するのは往々にしてコーザル体としてのオーラになるわけです。これはメリットもあればデメリットもあります。
・自分の情報が相手に(必ず)伝わってしまう。
・知見、能力などの一部が相手に伝わってしまう、身元がばれる。
・相手の情報が入手できる。
これは理屈を考えれば当然のことで、一部のオーラ(コーザル体)が一致したことで、その部分は、文字通り「自分と相手の融合」になるわけですから、その部分は、自分でもあるし相手でもある、しかしながら元々の自分でもなければ元々の相手のオーラでもないわけです。
これのどこが悪いのか、と思われるかもしれませんけど、こういうことをすると、知見の低い方(波動が悪い方)が(波動が高い人の)ストーカーになる可能性があります。
と言いますのも、知見というものができるには時間がかかりますから、オーラの部分的な一致で入手した知見と言いますのは(一応は)「わかる」けれども、何故そうなのかが真にはわからない、という種類のものになるからです。1からその理屈、理解にたどり着くことができないわけです。オーラの融合で入手した情報は「結果」はわかりますけど、根本のところは理解していないのです。
相手の情報が入手できたとしても、その知見は自分で生み出したものではありませんから、そのことを自覚的に行なっていて、そんなものだと思えるならば良いですが、これらの仕組みに無頓着である場合、どうにかしてその知見を手に入れるためには「他者から奪い取る」ことで結果を出そうとしてしまう人が一定数いるわけで、それ故にストーカーになったり、成果泥棒になったり、はたまた、パワハラ、モラハラでネチネチと他人を強制して操って結果を得る、という人が現れてしまうわけです。
ですから、そもそも、最初から、「他者に興味を持たない(他者とオーラを融合しない)」ことが何よりも重要なのです。
そうでなければ、時に数世代、あるいはもっと長い時間にわたってストーカーされて成果泥棒されてしまうことにもなります。
例を出しますと、私の場合、遥か昔の(グループソウルのとある分霊)の人生で私から成果泥棒をしていた人が、ノコノコと私の今回の人生の同級生になったのですけど、案の定、色々と嫌らしいことを私はされたものの、中学卒寮以降は連絡を経って、それっきりです。その後も、この種の、成果泥棒、モラハラ、というのは割と長い間私を悩ませましたけど、30年前はかなり酷くて抵抗が難しいほど縛られていましたが、その呪縛から離れて、今も少しはありますけどあしらうようになって次第に落ち着いてきて、そろそろほぼ完全に卒業しそうな雰囲気です。
そのように、アストラル体(感情)のみならず、コーザル(カーラナ、原因体)を他者と一致させてしまうと輪廻転生に激しく影響します。コーザル体の一致はアストラル体よりも影響が大きいため、安易に(往々にして成果を焦って)そういうことをしない方が良いと思われます。
グループソウル(=コーザル体の集合)が輪廻転生の根源
実際はコーザル体(=カーラナ、原因体)だけでなく多少のアストラル的要素や更に基本となるプルシャ相当あるいはアートマンとしての質ももちろん備わっているのですけど、基本としてはカーラナ(コーザル、原因)体の集合なわけです。それはカルマの種としてのカーラナ(原因)でもあるわけですけど、その集合が、それぞれは個別ではあるけれどもグループとして1つのカーラナ(コーザル)としての体を持っているわけです。
そして、そこから分霊が作られて輪廻転生の1サイクルを開始し、目的を果たしたら昇天してグループソウルに融合するわけです。
目的というのはカルマの種の発芽でもあり、カーラナ(コーザル)とはそのカルマの種の集合体であります。言い換えると、カルマの種の集合としてのカーラナ(コーザル)がグループソウルであり、それは微細ではあるものの物体として存在しているわけです。
それは物体であるが故に永遠ではなく、よって、アートマン(永遠である満ちている意識)ではありません。アートマンではないものであるジーヴァ(仮初の私)としての実態がグループソウルなわけです。未来永劫存在しているわけではないにせよ、グループソウルとしての寿命はとても長く、人間の物差しからするとほとんど永遠のようにも思われますが、一応、終わりはあるわけです。
この宇宙にも終わりがあるように、グループソウルにも終わりがあります。ですが、一応知っておくのは良いにしても、そのような単位のことを考えすぎても致し方ないように思います。それよりも、生を受け、この地上で活動する目的を見極めて最大限に生きること、それが各個人に求められているわけです。それが基本であるわけです。
そして、そこから分霊が作られて輪廻転生の1サイクルを開始し、目的を果たしたら昇天してグループソウルに融合するわけです。
目的というのはカルマの種の発芽でもあり、カーラナ(コーザル)とはそのカルマの種の集合体であります。言い換えると、カルマの種の集合としてのカーラナ(コーザル)がグループソウルであり、それは微細ではあるものの物体として存在しているわけです。
それは物体であるが故に永遠ではなく、よって、アートマン(永遠である満ちている意識)ではありません。アートマンではないものであるジーヴァ(仮初の私)としての実態がグループソウルなわけです。未来永劫存在しているわけではないにせよ、グループソウルとしての寿命はとても長く、人間の物差しからするとほとんど永遠のようにも思われますが、一応、終わりはあるわけです。
この宇宙にも終わりがあるように、グループソウルにも終わりがあります。ですが、一応知っておくのは良いにしても、そのような単位のことを考えすぎても致し方ないように思います。それよりも、生を受け、この地上で活動する目的を見極めて最大限に生きること、それが各個人に求められているわけです。それが基本であるわけです。
神界の住民と日本人の関係(夢で見たお話)
いわゆる神界と呼ばれている世界に昔、遊びに行ったことがあります。夢ですけど。
■神界の住民と昭和的な日本人
ここが神界か、と思って様子を見たのですが、雰囲気は意外に日本と同じでしたね。昭和的な日本人とでも言いますか。その時に知り合ったおじちゃん・おばちゃんが私の両親として転生したわけですけど。
繰り返しますけど、夢ですよ?(笑)
そこの住民はちょっと頑固だったり、ちょっと人をからかうところなども、まさに日本人(苦笑)
噂話とか、楽しく過ごすところなども日本人な感じです。
それより下の餓鬼界とか阿修羅の世界ですと争いや妬みなどが充満しているようですけど、神界になるとそういう低次の欲望は克服されているものの、それでも、他人との軋轢は多少はあるようです。日本の住民の多くは神界出身なのではないかな・・・ と思います。 日本は神の国とか言ったりしますけど、神界と日本は魂の転生で繋がっているようです。
ですから、神界の住民は天使のような高貴な存在というわけではないようですね。
それよりも、ちょっと頑固な昭和のオヤジ、というイメージが合っています。
神界にいる女性も日本の元気なおばちゃんみたいな人が多いです。九州の元気なお母ちゃんだったり。みんなパワフルです。
神界の住民は活力に溢れている気がします。
■神界と天使
天使はまた別のようですね。名前だけで比べますと神界と天使とを結びつけてしまうかもしれませんが、神界と天使は直接的には関係なさそうです。もちろん天使は色々なところに出現しますので神界にもいますけど、神界の住民は日本人ぽい魂が多いのです。
50年以上前の私が生まれる前の話ですけど、神界に天使がいるとナヨナヨしている感じを受けるらしくて、ちょっと小馬鹿にされたり、ちょっと疎んじられたりします。その点、日本の社会で天使っぽい人が疎んじられるのと似ている感じがしますね。天使にとって神界や日本はそれほど心地の良い場所ではなさそうです。神界にしても日本にしても、昭和の頑固オヤジっぽい人が人気のようです。今の神界も少しは変わったのかもしれないですけど。
今ではそうでもなくなりましたけど、昭和の頃は可愛いものに対してバカにする風潮がありましたよね。ちょうちょとか、妖精とか、花とか、女らしくて美しいのに対する興味は平成とか令和になってから重視されている気がしますけど、昭和の頃はそれよりも元気さ優先だったように思います。昭和の頃は女性の女らしさも男らしさの視点から解釈されていましたが今は女性の視点でそのまま解釈されていますよね。日本の住民と神界の住民とで精神の程度がシンクロしていると言いますか、魂が生まれ変わりによって入れ替わりを繰り返しているのだと思います。
ですから、天使の住む天使界は別にありますね。アンドロメダな気もしますけど。
天使界は、地球の進化過程のライン上とはちょっと別な気がするんですよね。
神界は地球に近い話ですけど、天使界はちょっと離れている気がします。
■日本の神々と神界
神界の中で力をつけて神のように扱われるようになった存在もいれば、もともと大天使から派生して神として扱われる存在とがあるようです。
神界の生え抜きと天使の神との違い、とでも言いますか。ですので、日本の神々は神界の中でも力のある魂たちとそれぞれ対応しているのが基本ではありますが、日本の神々は必ずしも神界にいるわけではないのです。地上の日本人は「日本の神々」と一括りにしてしまいがちですけれども、神界の神々と天使の神々とで別になっているわけです。
これは、夢とは言っても実際には子供の頃の幽体離脱の時に知った内容とその後見た夢で知った内容とを統合しています。
30年くらい前の話なのでどこからどこまで幽体離脱で知ってどこが夢で知った話かは詳しくは覚えていないのですが、だいたいこのような内容だったと思います。
■神界の住民と昭和的な日本人
ここが神界か、と思って様子を見たのですが、雰囲気は意外に日本と同じでしたね。昭和的な日本人とでも言いますか。その時に知り合ったおじちゃん・おばちゃんが私の両親として転生したわけですけど。
繰り返しますけど、夢ですよ?(笑)
そこの住民はちょっと頑固だったり、ちょっと人をからかうところなども、まさに日本人(苦笑)
噂話とか、楽しく過ごすところなども日本人な感じです。
それより下の餓鬼界とか阿修羅の世界ですと争いや妬みなどが充満しているようですけど、神界になるとそういう低次の欲望は克服されているものの、それでも、他人との軋轢は多少はあるようです。日本の住民の多くは神界出身なのではないかな・・・ と思います。 日本は神の国とか言ったりしますけど、神界と日本は魂の転生で繋がっているようです。
ですから、神界の住民は天使のような高貴な存在というわけではないようですね。
それよりも、ちょっと頑固な昭和のオヤジ、というイメージが合っています。
神界にいる女性も日本の元気なおばちゃんみたいな人が多いです。九州の元気なお母ちゃんだったり。みんなパワフルです。
神界の住民は活力に溢れている気がします。
■神界と天使
天使はまた別のようですね。名前だけで比べますと神界と天使とを結びつけてしまうかもしれませんが、神界と天使は直接的には関係なさそうです。もちろん天使は色々なところに出現しますので神界にもいますけど、神界の住民は日本人ぽい魂が多いのです。
50年以上前の私が生まれる前の話ですけど、神界に天使がいるとナヨナヨしている感じを受けるらしくて、ちょっと小馬鹿にされたり、ちょっと疎んじられたりします。その点、日本の社会で天使っぽい人が疎んじられるのと似ている感じがしますね。天使にとって神界や日本はそれほど心地の良い場所ではなさそうです。神界にしても日本にしても、昭和の頑固オヤジっぽい人が人気のようです。今の神界も少しは変わったのかもしれないですけど。
今ではそうでもなくなりましたけど、昭和の頃は可愛いものに対してバカにする風潮がありましたよね。ちょうちょとか、妖精とか、花とか、女らしくて美しいのに対する興味は平成とか令和になってから重視されている気がしますけど、昭和の頃はそれよりも元気さ優先だったように思います。昭和の頃は女性の女らしさも男らしさの視点から解釈されていましたが今は女性の視点でそのまま解釈されていますよね。日本の住民と神界の住民とで精神の程度がシンクロしていると言いますか、魂が生まれ変わりによって入れ替わりを繰り返しているのだと思います。
ですから、天使の住む天使界は別にありますね。アンドロメダな気もしますけど。
天使界は、地球の進化過程のライン上とはちょっと別な気がするんですよね。
神界は地球に近い話ですけど、天使界はちょっと離れている気がします。
■日本の神々と神界
神界の中で力をつけて神のように扱われるようになった存在もいれば、もともと大天使から派生して神として扱われる存在とがあるようです。
神界の生え抜きと天使の神との違い、とでも言いますか。ですので、日本の神々は神界の中でも力のある魂たちとそれぞれ対応しているのが基本ではありますが、日本の神々は必ずしも神界にいるわけではないのです。地上の日本人は「日本の神々」と一括りにしてしまいがちですけれども、神界の神々と天使の神々とで別になっているわけです。
これは、夢とは言っても実際には子供の頃の幽体離脱の時に知った内容とその後見た夢で知った内容とを統合しています。
30年くらい前の話なのでどこからどこまで幽体離脱で知ってどこが夢で知った話かは詳しくは覚えていないのですが、だいたいこのような内容だったと思います。
魂の系統によって学びが異なる
肉体としては混ざっているので見分けがつきにくいですが魂の系統としては以下に分類されると思います。
■レムリア系
レムリアの最後に天変地異が起こって半数以上はアセンションし、何割かはアセンションできずに地上に残った。その残りの人たちが各地へと散らばり、スピリチュアルの一角を成している。
元プレアデスの系統。魔術、特に白魔術に長けている。クリスタルを用いた文明。インスピレーション重視。ふわふわしている。
アセンションした人たちの大部分は今は上の次元の別の惑星で暮らしている。
アセンションできなかった大抵の人はどちらかというと地球に囚われているという感じ。縄文人に多い。
レムリアの最後には地上では天変地異が起こって災難が起こったが、アセンションした人たちは割と災難は関係なくてアセンションした時の特異な浮遊体験、上昇体験の強い印象が残っていると思います。
一方、アセンションできなかった人たちは地上の災難をもろに受けていますから悲惨な悲しいイメージおよびアセンションできなかったという悲しみが魂の奥深くに眠っているのでその深い悲しみを癒やしてあげる必要があります。
ちなみに私はレムリアの最後に地球に来てアセンションしたが地球に興味があって残って興味本位で転生を繰り返したレアケース。私がアセンションした時はふわっと浮くような別次元に移行するような面白くてエネルギーに溢れた体験だったような気がします。悲しみとかは全くと言って良いほどないです。素晴らしいという印象だけですね。
現代でレムリア系のお話を聞いていると上記のような地上的な災難の悲しみとアセンションできなくて地上に残されたという悲しみの両方があるようです。私にはピンときませんけど、理屈としてはわかります。
■アトランティス系
理知に優れ、論理および秩序を重視する。
レムリアの生き残りが神官として関与し、その一方で、別の理知的なシリウス等が関わった文明のようです。地球人を使役もしたようです。
アトランティス大陸そのものではないにせよ、この系統の人たちがきっとピラミッドも作ったと思います。
これは、宇宙の存在が神として地上を支配する試みのうちの1つだったように思います。
一部はオリオンの星系行われた長きにわたる大戦争いわゆるオリオン大戦にて病んだ魂も地球に来て合流したようです。
■地球人
魂が主に地球で進化した魂。猿あるいは獣から進化。ごく一部は植物や鉱物などから進化したが大部分は動物から進化。血の気が多い。すぐに力で解決しようとする。不愉快になるとすぐ暴力に訴えて人を殴る。女であればすぐにヒステリーになる。
自分がどの系統に属しているのかを認識できると魂の成長のために何をしなくてはならないのかがよりはっきりとすると思います。
例えば、地球生まれの血の気の多い魂にスピ系のお話をしても通じないでしょうし、レムリア系の人に論理の話をしてもうまく伝わらないでしょうし、アトランティス系の人に感性のお話をしてもあまり通じないかもしれません。地球は人種の違いだけでなくそもそも魂の成り立ちが違う人が混在していますので、お互いに理解し合おうと思っても無理な部分は絶対に存在しているわけです。
地球に生まれている人の中にはオリオン大戦の経験者もいて、そのような人は二元性の対立の克服をテーマとしているようです。簡単に言えばスターウォーズのようなお話が実際にオリオン星系であって、それはもう終息していますけどその戦いで傷ついた魂が二元性を超えて癒やされる必要性があるということのようです。ですからスピ系の一部では二元性のお話がよく出てきますけど、それも全ての人に当てはまるお話ではなくて、特にオリオン大戦の経験者によって二元性の克服がテーマになっているように思います。
オリオン大戦の経験者はマニプラ・チャクラ(お腹のあたり)が強くて、アナハタ・チャクラ(胸のあたり)よりもマニプラが優勢な気がします。マニプラくらいですと二元性の性質が強く出て、それより下のムーラダーラ以下の獣および支配の性質とマニプラの肉体的な愛との段階とが対立し合うというのはあると思います。スターウォーズは物語としてよく出来ていますが、もっとオリオン大戦に似せるならば、悪の帝国はムーラダーラのような獣のような性質、善の反乱軍はマニプラの肉体的な愛として描くともっとそれっぽくなると思います。マニプラ優勢の状態ですとまだ二元性を超えられませんが、少しずつアナハタ以上の段階に至ることで二元性を超えるのがこれらオリオン大戦の経験者のテーマのように思います。
チャクラ優勢に基づいてまとめますと以下になります。
・ムーラダーラ以前 獣から進化した地球由来の魂。血の気が多い。
・ムーラダーラ優勢 オリオン大戦の悪の帝国。ダースベーダのようなイメージ。二元性の世界の悪の側。
・マニプラ優勢 オリオン大戦の善の反乱軍。ジェダイのようなイメージ。二元性の世界の善の側。レムリアでアセンションできなかった魂。
・アナハタ優勢、あるいはそれ以上 レムリアでアセンションした魂。二元性を超えた世界。
スピ系である「思い出そう!」で覚醒できる人はレムリア系とアトランティス系の人のお話で、地球由来の獣から進化した魂にそう言っても「なんのこっちゃ?」という感じです。同様に、「瞑想で静けさを取り戻して愛を思い出しましょう!」とか言われて「ああ、そうか!」なんてすぐに気づいて覚醒できるのもレムリア系かアトランティス系です。これまた、獣から進化した魂に言っても通じません。これはもう、仕方がないですね。だって、思い出すべきものがそもそもないのですから思い出しようがありません。
ヨーガは割と幅広く応用できて、地球由来の獣から進化した魂であっても急速に進化できるように思います。
一方で、スピ系はターゲットをレムリア系あるいはアトランティス系に合わせていることが多くて、地球の獣から進化した魂に同じことを言っても意味不明なことが多いように思われますね。全部ではないですけど、そういう傾向が多いように思います。
これはメモです。上記が全てではないと思います。
■レムリア系
レムリアの最後に天変地異が起こって半数以上はアセンションし、何割かはアセンションできずに地上に残った。その残りの人たちが各地へと散らばり、スピリチュアルの一角を成している。
元プレアデスの系統。魔術、特に白魔術に長けている。クリスタルを用いた文明。インスピレーション重視。ふわふわしている。
アセンションした人たちの大部分は今は上の次元の別の惑星で暮らしている。
アセンションできなかった大抵の人はどちらかというと地球に囚われているという感じ。縄文人に多い。
レムリアの最後には地上では天変地異が起こって災難が起こったが、アセンションした人たちは割と災難は関係なくてアセンションした時の特異な浮遊体験、上昇体験の強い印象が残っていると思います。
一方、アセンションできなかった人たちは地上の災難をもろに受けていますから悲惨な悲しいイメージおよびアセンションできなかったという悲しみが魂の奥深くに眠っているのでその深い悲しみを癒やしてあげる必要があります。
ちなみに私はレムリアの最後に地球に来てアセンションしたが地球に興味があって残って興味本位で転生を繰り返したレアケース。私がアセンションした時はふわっと浮くような別次元に移行するような面白くてエネルギーに溢れた体験だったような気がします。悲しみとかは全くと言って良いほどないです。素晴らしいという印象だけですね。
現代でレムリア系のお話を聞いていると上記のような地上的な災難の悲しみとアセンションできなくて地上に残されたという悲しみの両方があるようです。私にはピンときませんけど、理屈としてはわかります。
■アトランティス系
理知に優れ、論理および秩序を重視する。
レムリアの生き残りが神官として関与し、その一方で、別の理知的なシリウス等が関わった文明のようです。地球人を使役もしたようです。
アトランティス大陸そのものではないにせよ、この系統の人たちがきっとピラミッドも作ったと思います。
これは、宇宙の存在が神として地上を支配する試みのうちの1つだったように思います。
一部はオリオンの星系行われた長きにわたる大戦争いわゆるオリオン大戦にて病んだ魂も地球に来て合流したようです。
■地球人
魂が主に地球で進化した魂。猿あるいは獣から進化。ごく一部は植物や鉱物などから進化したが大部分は動物から進化。血の気が多い。すぐに力で解決しようとする。不愉快になるとすぐ暴力に訴えて人を殴る。女であればすぐにヒステリーになる。
自分がどの系統に属しているのかを認識できると魂の成長のために何をしなくてはならないのかがよりはっきりとすると思います。
例えば、地球生まれの血の気の多い魂にスピ系のお話をしても通じないでしょうし、レムリア系の人に論理の話をしてもうまく伝わらないでしょうし、アトランティス系の人に感性のお話をしてもあまり通じないかもしれません。地球は人種の違いだけでなくそもそも魂の成り立ちが違う人が混在していますので、お互いに理解し合おうと思っても無理な部分は絶対に存在しているわけです。
地球に生まれている人の中にはオリオン大戦の経験者もいて、そのような人は二元性の対立の克服をテーマとしているようです。簡単に言えばスターウォーズのようなお話が実際にオリオン星系であって、それはもう終息していますけどその戦いで傷ついた魂が二元性を超えて癒やされる必要性があるということのようです。ですからスピ系の一部では二元性のお話がよく出てきますけど、それも全ての人に当てはまるお話ではなくて、特にオリオン大戦の経験者によって二元性の克服がテーマになっているように思います。
オリオン大戦の経験者はマニプラ・チャクラ(お腹のあたり)が強くて、アナハタ・チャクラ(胸のあたり)よりもマニプラが優勢な気がします。マニプラくらいですと二元性の性質が強く出て、それより下のムーラダーラ以下の獣および支配の性質とマニプラの肉体的な愛との段階とが対立し合うというのはあると思います。スターウォーズは物語としてよく出来ていますが、もっとオリオン大戦に似せるならば、悪の帝国はムーラダーラのような獣のような性質、善の反乱軍はマニプラの肉体的な愛として描くともっとそれっぽくなると思います。マニプラ優勢の状態ですとまだ二元性を超えられませんが、少しずつアナハタ以上の段階に至ることで二元性を超えるのがこれらオリオン大戦の経験者のテーマのように思います。
チャクラ優勢に基づいてまとめますと以下になります。
・ムーラダーラ以前 獣から進化した地球由来の魂。血の気が多い。
・ムーラダーラ優勢 オリオン大戦の悪の帝国。ダースベーダのようなイメージ。二元性の世界の悪の側。
・マニプラ優勢 オリオン大戦の善の反乱軍。ジェダイのようなイメージ。二元性の世界の善の側。レムリアでアセンションできなかった魂。
・アナハタ優勢、あるいはそれ以上 レムリアでアセンションした魂。二元性を超えた世界。
スピ系である「思い出そう!」で覚醒できる人はレムリア系とアトランティス系の人のお話で、地球由来の獣から進化した魂にそう言っても「なんのこっちゃ?」という感じです。同様に、「瞑想で静けさを取り戻して愛を思い出しましょう!」とか言われて「ああ、そうか!」なんてすぐに気づいて覚醒できるのもレムリア系かアトランティス系です。これまた、獣から進化した魂に言っても通じません。これはもう、仕方がないですね。だって、思い出すべきものがそもそもないのですから思い出しようがありません。
ヨーガは割と幅広く応用できて、地球由来の獣から進化した魂であっても急速に進化できるように思います。
一方で、スピ系はターゲットをレムリア系あるいはアトランティス系に合わせていることが多くて、地球の獣から進化した魂に同じことを言っても意味不明なことが多いように思われますね。全部ではないですけど、そういう傾向が多いように思います。
これはメモです。上記が全てではないと思います。