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七つの目覚めの要員(七覚支)と執着の放棄・貧欲の終わり・欲の止滅

2019-07-29
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

私はこれから具体的にどうすれば良いのでしょう? と思っていて、調べてみました。すると、手がかりが「ブッダの〈呼吸〉の瞑想(ティク・ナット・ハン 著)」に掲載されているヴィパッサナー関連の経典にありました。それは、アーナンダ尊者による質問という形式になっています。

「修行が実を結んだ暁に、四種の気づきの確立(四念処、身体・感覚・心・心の対象に対する気づき)と、七つの目覚めの要員(七覚支)と、智恵と解放というふたつの要因を保ち続ける力を獲得できるような、そうした修行の仕方はあるだろうか?

・・・(中略)・・・活力(精進)という要因が完成したとき、それは喜び(喜)という目覚めの要因を成就するための道を開く。それによって、心が自然に喜びに満たされるからだ。

これは、明示はしてありませんが、第一禅定に似ています。この経典は一般ではヴィパッサナー瞑想として解釈されていると思いますけど、先日書きましたようにヴィパッサナー瞑想もサマタ瞑想もそうは変わらないと仮定しますと、一般的にはサマタ瞑想だと考えられている禅定とこの説明が結びつくわけです。これは個人的な解釈ですので、他所で言っても通じないと思います。あくまでも仮説です。

(中略)安らぎという要因が完成したとき、身心は満たされ、それは集中(定)という目覚めの要因を成就するための道を開く助けになる。

これも、明示はしてありませんが、第二禅定に似ています。

(中略)集中という要因が完成したとき、貧欲は消え、それは平静(捨、しゃ)という目覚めの要因を成就するための道を開く。

これも明示はしてありませんが、第三禅定に似ています。

「高潔な弟子が、感覚において感覚の観察を行い、心の活動において心の活動の観察を行い、現象において現象の観察を行うとき、ちょうど身体において身体の観察を行うのと同じように、七つの目覚めの要員を完成させることができる。
「アーナンダよ、これは七つの目覚めの要員の観察を目指すための四種の気づきの確立の修行と呼ばれる

と、言うことは、第三禅定(明記はありませんが)に到達するために行うのは四念処(身体・感覚・心・心の対象に対する気づき)だと言うことになります。もちろん前提条件としてヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想が前記の意味でほぼ同じという仮定が成り立つ場合においての話です。
この後、アーナンダはいわゆる「悟り」であると思われる「理解と解放」に至る方法を訪ねています。

七つの目覚めの要員によって理解と解放を完成するには、どんな修行をすればいいのでしょうか?

ブッダはアーナンダに説いた。
「比丘(びく、男子修行者)が、目覚めの一要因である気づきを、執着の放棄をよりどころに、貧欲の終わりをよりどころに、欲の止滅をよりどころにして修行するとき、彼は平静さへと向かう道を歩み、気づきという目覚めの一要因の力によって、くもりなき理解と解放の修行の成就に至るだろう。比丘が、執着の放棄をよりどころに、貧欲の終わりをよりどころに、欲の止滅をよりどころにして、その他の目覚めの諸要因 ーーー 現象の識別、活力、喜び、安らぎ、集中、平静の修行をするとき、これらの目覚めの諸要因の力によって、同じように、くもりなき理解と解放の修行の成就に至るだろう。

以前の記事( 1, 2, 3 )で引用しましたが、第四禅定の要件はこれとは微妙に異なりますね。拡大解釈すれば同じとみなせなくもないですが、第三禅定まではかなり似ていて第四禅定だけ違うのはどういうことでしょう? 謎です。その差は保留するにしても、ここでのポイントは「執着」「貧欲」の克服ですね。これは「煩悩」ですので悟る前に煩悩があるのは当然で、悟ることで煩悩がなくなる、という方向性が理解できます。であれば、ここでブッダが説いているのは悟りへの道ですね。このブッダの言葉をそのまま解釈すれば、第三禅定相までで悟るための「目覚めの要員、七覚支」は一通り揃うことになります。その上で、その目覚めの要員(七覚支)を使うことで悟り(あるいは第四禅定?)に至ることができる、と読めます。

「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」に基づきますと、アビダンマ仏教では第四禅定が悟りではありません。ですが、仏教原典では度々、第四禅定で悟りのように読めなくもない表現に遭遇します。解説書よりも原典の方がスッキリしていてシンプルですし、実は悟りとはかなり単純なものなのかもしれない気がしています。

もしかしたら一般的に「悟り」と言われているのは第四禅定くらいのことを意味しているのかもしれません。

先日、十牛図とヨーガスートラとウパニシャッドの段階を引用しましたけど、第四禅定より先があるのにも関わらず一般的には第四禅定が悟りと見なされるのだとすれば、それはそうかもしれない、という気もします。

もちろんここで言う第四禅定とは、先日考察しましたようにサマタ瞑想だけの第四禅定ではなくヴィパッサナー的な第四禅定のことで、身心脱落していて”意(顕在意識)”が止まっていて”識(潜在意識、いわゆるアートマン)”が現れている第四禅定のことです。

■許す瞑想
先日の続きです。
一連の「許す瞑想」の変化ですが、最後の「(太陽に)許されています」から「(太陽に)癒やされています」に変わりました。癒やしとはこういうことかもしれません?

昼間はそんな感じですけど、夜は「(星々に)癒されています」という感じです。

最初から変化を書きますと「(私が)許します」→「(神よ)許してください」→「(主体なしに)許されています」→「(太陽に)許されています」→(昼間は)「(太陽に)癒やされています」&(夜は)「(星々に)癒されています」に変化してきました。



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