■西洋の心「マインド」
先日の ”心”と”意識” の続きです。英語でマインド(心)と呼ぶ時、基本的には顕在意識を意味し、潜在意識(無意識)を含みません。しかし、時折、深く精神を語る時には潜在意識(無意識)もマインド(心)の一部として語られます。ここに混乱があります。例えば、先日引用したヨーガスートラ 3章1~3の中で「マインド」という言葉が潜在意識の意味で使われていたりします。
一部の論者は言葉を使い分けて、例えばOSHOラジニーシは通常の心(顕在意識)に対して潜在意識(無意識)をノー・マインド(無心)などと言ったりします。使い分けてもらえるとわかりやすいのですが、両者を共にマインド(心)と言ってしまうところにこの種の話の混乱があるように思います。
私が先日書いた文章も似たような言葉を使っているので混乱があって申し訳ないのですが、先日の記事の”心”は顕在意識で、先日の記事の”意識(で感じる)”は潜在意識(無意識)に対応します。そのまま顕在意識と潜在意識と書いてしまうと精神分析っぽく聞こえてしまって本来言いたいことが伝わらなかったりしますので難しいところです。このあたり、一般的に用語が統一されれば良いのですが。
■銀河鉄道999
たしか銀河鉄道999で「心」がどうのこうの、という印象的な詩的表現があったかと思いますが、詩的表現は潜在意識(無意識)の心(マインド)の方だと思います。
■心と「1なる心」
精神分析のユングは顕在意識と潜在意識を研究した立役者の1人ですが、彼の著書「東洋的瞑想の心理学(C・G・ユング 著)」の中で次のように分析しています。
世間でふつう心とよばれているものについての知識は、広くゆきわたっている。
これは、顕在意識を「ふつう」の心と言っていて、それに対比して説明を試みているようです。
一なる心は、まさに空であり、何らの基礎も持っていない。人の心は、同じように、天空のようにからっぽである。(中略)真なる状態における心は、創造されず、自ら輝いている。(中略)一なる心と無意識が同一であることについて、なお疑いをもっている読者には、この節はその疑いをぬぐい去ってくれるはずである。
ユングは、ヨーガにおいてアートマンとかブラフマンとか呼ばれているいわゆる「魂」を「心」とか「一なる心」と表現しています。時に「心」と言ったり「一なる心」と言ったり紛らわしいところではありますが。そして、心の表現を以下のように羅列しています。
心に与えられた名称
それに与えられていたさまざまの名は、数えきれない。
ある人びとはそれを「心の自己」とよぶ。
ある者たちは、それを「自我」(アートマン)とよぶ。
小乗の者たちによって、それは「教えの本質をなすもの」とよばれる。
ヨーガ学派によって、それは「智恵」とよばれる。
ある人びとはそれを、「彼岸の知恵に達する方法」(般若波羅蜜、プラジュニャー・パーラミタ)とよぶ。
ある人びとはそれを、「仏陀の本質」とよぶ。
ある人びとはそれを、「偉大なる象徴」とよぶ。
ある人びとはそれを、「唯一の種子」(ビンドゥ)とよぶ。
ある人びとはそれを、「真理の潜在的可能力」(法界、ダルマダートゥ)とよぶ。
ある人びとはそれを、「すべての基礎」とよぶ。
日常の言葉では、それにはまた、別な名がつけられている。
中には、ちょっと違うのではないかと思われるものも含まれていますが、ユングが西洋人としてアジアを理解しようとしたのが見てとれますのでこれはこれで興味深いです。