トラウマは向き合うことで消える


先日の続きです。

トラウマは否定せずに味わうと消える、というお話でしたけれども、プレアデスのワークの中にも似たようなお話しが書いてありました。

つらく感じたときには、それを無理に追い払おうとしないで、その気持ちと一緒にいてあげることが大切なの。うんと深く呼吸して、もっとその気持ちを感じるようにしてごらんなさい。すると本当に魔法のように、数分後に突然そのつらい気持ちがなくなって、いつ消えてしまったのかもわからないくらいよ。(中略)だけど、そのつらい気持ちが消えてなくなるまで十分に感じてあげなければ、それはそのまま身体の奥深くに居すわって、あなたたちが気がついてくれるのをずっと待ちつづけるわ。だから、それが戻ってくるのをこわがっているよりも、いま感じてあげるほうがいいのよ。「プレアデス覚醒への道(アモラ・クァン・イン著)」

これは、スピリチュアルなワークであることはもちろんですが、同書によればむしろ「瞑想」の一部として紹介されています。

ヨーガ的な瞑想においては雑念の観察が重視されていて、「雑念は重視せず、受け答えせず、受け流す」というのが基本ですが、プレアデス系では観察というよりも「味わう」という感情面に重きが置かれている印象を受けます。表現を変えれば「癒し」ということにもなりますが、「癒し」にはヨーガ的な「観察」が基本として横たわっているような気が致しますし、逆に、ヨーガ的な「観察」の根底には「癒し」といいますかヨーガ的には「パワー」「エネルギー」と言うべきポジティブな力が横たわっていて、言葉こそ違ども、「癒し(パワー、エネルギー)」と「観察」とは密接な関係があるのだな、と思いました。流派によって重視すべきところは違えども、それはその流派の気質の違いによるもので、基本はどちらも一緒なのかなと思いました。

流派によりますが一部のヨーガあるいは一部のスピリチュアルでは「観察」のみに重点を置いている気がしないでもありませんし、逆に、一部の流派は「癒し」あるいは「エネルギー」に重点を置きすぎている場合もあるように思いますが、その重点に目をとられて基本を押さえていないと先には進めないのかな、と言う気が致しました。

「観察」のみをしていてエネルギー不足でしたら成長しにくそうですし、エネルギーを高めても「観察」が不足していたらそのエネルギーの使い方に無理・無駄・ムラが生じて転んでしまいそうです。

両方大事ですね。

外から眺めただけですので勘違いかもしれませんが、例えばヴィパッサナー瞑想の一部の流派は観察重視のような気も致しますし、クリヤヨガの一部の流派はエネルギー重視のような気が致します。

余談になりますが、クリアヨガはヨガの中でも特殊で、瞑想の観察や集中ということには重きをおかず、エネルギーを高めれば良いというスタンスが特徴的です。クリアヨガは流派が分裂していて色々ありますので全てがそうかはわかりませんが。

スピリチュアルでは「癒し」と言う観点からエネルギー・ワークが突出している流派が多い気も致します。

それぞれの特徴がありますので自分に合ったところを選べば良いのかなとは思いますが、それでも、基本は「観察」と「エネルギー」かな、と最近は思います。そもそも対比するものでもない気もしますしね。どっちを選ぶとか、そう言うものではない筈なのに、何故か分離して見えてしまっていますね。両方大切だと思います。

トラウマの話に戻しますが、トラウマは「観察」だけでは消えず、「エネルギー(癒し)」だけでも消えず、「観察」と「エネルギー(癒し)」の両方があって初めて消えるのかな、とそう思います。

個人的な経験で言いますと、すぐに1回の瞑想で消えるような軽いものはトラウマとは言わない気が致します。トラウマのうち少しを味わって消して、次の瞑想でまた少し味わって消して、を繰り返すのかなと思います。

ちょっとしたわだかまりであれば瞑想中にちょっとこの種のワークをすれば消えてしまいます。

本来は、可能であれば子供の頃からこのようなワークに親しんでトラウマをそれほど溜め込まないのがいいかとは思います。