オーラの交換と浄化と心のふらつき
■オーラの交換
誰かを気にする時、エーテル体(幽体)が伸びてゆき、一部が混ざる。
混ざることにより相手のことがわかる。
接続を切り離すと、自分に相手のオーラが残る。相手にも自分のオーラが残る。
よって、相手を思うだけでオーラ交換がなされる。
これが基本的な仕組み。
エーテルの筋を自分が伸ばす場合もあれば、向こうから伸びてくる場合もある。
であれば、自分があまり汚れずに相手を知るには細いエーテルの筋を伸ばす。
鋭く、細く意識する。なるべく少ないオーラで相手と繋がり、少ないオーラの交換で多くを知る。
又、意識しなくとも誰かの近くにいだけで自然にオーラ交換が行われます。
ちなみに、憎い相手を思えば思うほど同一化するのもこの仕組み。
逆に、自分より精神的に進んでいる人と付き合うと成長するのもこの仕組み。
この真実性はオーラが見えなければわからないかもしれないですが。
■カフナ式
上記は私が子供の頃に幽体離脱した時に知ったことですが、似たような記述を見つけました。
カフナ式に言えば、エーテル体をターゲットに突き刺す。すると自動的に内容物は漏れ出てくる。この時に、対象をじっと見ている体制で情報は入ってくる訳ではない。(中略)ターゲットにエーテル体という情報ケーブルを接続した後、情報は他者的に流れ込んでくるのではなく、あたかも自分の体験として受け止められる。「精神世界の教科書(松村 潔 著)」
このカフナ式の説明が私の内容にとても似ています。ちなみにこの後、著者は量子論だとか自我とか自己意識だとかに結びつけてこのことを説明していますけど、カフナ式の話はそういうことでもなくて単純にオーラの使い方と性質を言っているだけだと思います。量子論はオーラの元になっている分子の一つ一つのもっと細かなお話ですし、自我だとか自己意識というのもかなり微細なお話ですけど、このカフナ式のエーテルの話はかなり肉体に近いオーラの性質のお話だと思います。エネルギーの法則的なところに似ていると思います。ケーブルが繋がれば情報が流れるしエネルギー的に高いところと低いところが混ざり合って一定に落ち着く、という単純なお話です。
完全に混ざり合うことはほとんどないですが、心を許せば許すほど同一化します。繋がって勝手に同一化するのが基本で、自分が許せばそれが加速される、という感じです。
■愛し合う人
恋人同士が同一化するのも同じ仕組みです。
■奪う人、奪われる人
他人の活力を奪って活動する人の仕組みも同じ。周囲にエネルギー供給者を配置して、強制あるいは操作あるいは共依存で離れないようにした上でエネルギーを吸い取る。パワハラな人ほど出世するのもこの仕組み。周囲からパワーを奪う仕組みを構築している。
■「個」が重要
だから、精神的に成長すればするほど「個」が重要になる。そうでないと足を引っ張られる。個を重視するのは穢れを避けるため。エネルギーを奪われないようにするため。精神的に成長すればするほど「根源」と繋がって落ち着いてゆきますが、穢れた人との接触が成長を妨げるようになってゆきます。
■他人を気にするのをやめる
であれば、電車の中で他人を気にするのはやめる。そうすると穢れが抑えられる。エネルギーのレベルが低い人との付き合いは辞める。そうすることでエネルギーを奪われないようにする。他人からエーテルの筋が伸びてきた場合は意思で叩き落とします。そうすることで穢れを妨ぎます。あるいは鏡のような防御膜を作ってエーテルの筋突き破らせないようにします。あるいは守護霊にお願いしてエーテルの融合が起こらないように監視してもらいます。最後のはそう心の中でお願いするだけです。
そこまで行かなくても、基本的には細々とした雑念に惑わされるのはやめる。テレビのニュースもあまり気にしない。芸能人にウキウキしない。
芸能というのは、その人を(遠隔であっても)気にかける人が多ければ多いほどオーラ同一化して芸能人のエネルギーが高まるのです。その最たるものが戦前の昭和天皇で、日本全国民のエネルギーを集めて奇跡が行えたと言います。戦後に天皇に対する信仰が薄れればエネルギーレベルも下がり、奇跡を起こせなくなったのも当然と言えます。
人々がこれらのことに無頓着ですので、例えば品のない芸能人が脚光を浴びることで善人からエネルギーを奪い取るシステムが長らく構築されてきました。芸能ほどではないですが会社の上司部下というシステムもエネルギーを奪い取る構造が見て取れます。
本来はエネルギーを奪わないシステムが必要なのですが、この世の中はそうはなっていません。奪い合うシステムに組み込まれている人はなかなか抜け出せない。精神的に穢れている人ほど他人の共感を必要としていますが、共感すれば共感した側も闇に引きずり込まれてゆきます。引きずり込まれるということはカルマでもあるわけですけれども。
■精神不安定とオーラ
オーラが混ざるのは、精神的に混乱している時が一番混ざりやすいです。ですから、とても嫌なパワハラ上司が純粋な部下と溶け合って両方の中間くらいに落ち着く、みたいなことがよく起こりえるわけです。精神的に未熟で他人から奪うことで生きている上司がいたとして、その上司を助けようとしても実際はオーラが混ざり合うのです。混ざり合わずにお互いがそれぞれ成長するか、あるいは混ざるか、の二択ではあるのですが、助けるという選択をしただけで助ける方も引きずり込まれてゆきます。
■学校教育とオーラ
ですから、特に子供は付き合う相手を選ばなくてはなりません。朱に混じれば赤くなる、というのは真実ですから。
学校教育はその点、協調を重視していますから精神性にとっては最悪です。エネルギーヴァンパイアの隣の席を強要されたらどんどん穢れてゆきます。その一方でエネルギーヴァンパイアは回復してゆくでしょうけど、巻き込まれる方はいい迷惑です。拒否できませんし。虐待に近いですよ。一旦混じり合うと、かつて精神的に安定していた人が穢れて簡単に落ちてゆくのです。学校が荒れているのも当然ですよね。真面目だった人がキレるようになるのも同じ仕組みです。そりゃ、穢れを貯め続ければキレもしますよ。
これからネガティブが世界的に増加するでしょうが、付き合う相手を選ぶのがますます重要になってくるでしょうね。学校選びも重要。同じ学校の生徒は同レベルに均一化します。
社会や学校で、エネルギーを奪いたい人は言葉巧みに「交流」だとか「社交性」とかいう罠を張ってきますが、それが本物なのかあるいは強制・操作・共依存のエネルギーヴァンパイアなのか見極める必要があります。子供はなかなか厳しいですけど、登校拒否と転校をもっと気軽できるシステムが必要だと思いますし、学校内でも同一化を先生が強要せずに学校というジャングルの中でそれぞれのグループを守るような運用が必要ですよね。社交とかは同程度のレベルの人の間で行えばいいのです。程度の低い人ほど社交だとか人付き合いとか言ってエネルギーを奪ってゆきますから気をつけねばなりません。
■防御法
エーテルの管が延びてきたら、それを避けるかエーテルの何かで防御します。ブログではなかなか書けませんが、守護霊に聞けば教えてくれると思います。エネルギー的なストーカーへの対処は迅速に。何か違和感があれば瞑想してエーテルの管をまず切ること。気付かぬうちにエネルギーのパイプを繋がれていてエネルギーを抜かれている時があります。基本は、エネルギーのパイプを断ち切る、と意識するだけで良いです。
世の中には酷い人がいて、平気で足を引っ張ってきます。そのような人への対処は色々と考えられますが、直接対応しますとこのような同一化で自分も引きずり込まれますから、それよりも、守護霊に頼んでその人が自主的に離れるよう仕向けた方がいいと思います。もちろん自分で精神的なバリアを張って物理的に離れるのが大前提ではありますけど。精神的に奴隷にならないようにするのも大事です。最終手段として攻撃あるいは封印に近い方法もありますけどお勧めはしませんしできる人も限られてきます。
■経済的自立の必要性
穢れないためには、経済的自立も本当に重要です。経済的自立していなければ上司の強要に精神的に屈服せざるを得なくて穢れてゆきます。
■パワハラとカルマ
メンタルやられる人はかなりの高確率で他人の穢れを沢山引き受けたと思われますし、パワハラでメンタル壊す人の場合は上司の穢れを引き受けているわけですから、本来は上司自身にその穢れを引き受けさせるべきなのです。実際はオーラが部下に移って部下がカルマの償いをすることになります。
これって、道徳的に考えると上司が何か罰則を受けそうな気もしますけど、部下が「受け入れる」ことをしたがためにカルマは部下に移るわけです。カルマの法則って時に不平等に見えますね。上司は穢れを作り続け、カルマは部下が引き受けるわけです。部下がパワハラで退職しても上司は部下を取り替えるだけです。この世の姿は仮の姿で自分も相手も実は一緒ですからこんなことも起こり得るわけです。まあ、一旦仕組みをわかってしまえばパワハラ上司には関わらずに会社辞めるか部署移動するのが一番だとわかるわけですけど。そんなカルマをわざわざ引き受ける必要はないわけです。基本は自由意志に基づきますので、カルマを引き受ける代わりに高い給与をもらうことを受け入れるとか、そういう判断はできます。ただ、世間では安月給とパワハラが結びついていることが多いように思いますので、この種のカルマの引受は割に合わない気が致します。
■2種類の人:穢れの人と浄化の人
この世の中は2種類の人でできていて、穢れを作り出す人と穢れを浄化する人がいます。穢れは誰でも作りますし、浄化もしています。1人の人を一定期間見たときに、穢れを作り出すよりも浄化する方が多ければ「浄化の人」で、浄化よりも穢れを作る方が多ければ「穢れの人」です。数式は「既に溜まっている穢れ」+「穢れの増加」 ー「穢れの浄化」のようになります。穢れが段々と増えるか、段々と減るのかの違いです。「浄化の人」が世界に必要ですが、「穢れの人」の方が勝っている気がします。であれば世の中に穢れはどんどんと増えてゆきます。これからどんどん危なくなっていきそうです。
■付き合う相手を選ぶ。自分を成長させるのが基本。他人にカルマを渡さない。
メンタル的に不安定で穢れを増加させるような人とは付き合うべきではなく、個人のすべきこととして自分自身の浄化と心の平静を訓練し、心のふらつきをなくすように努めるべきです。メンタル的な不安定を解消させるために他人と交わるのは穢れを分散させているだけであり、穢れの正しい浄化方法ではありません。今はこの辺りの理解が低いために穢れを引き受ける方が意図せずして穢れを引き受けているだけで、仕組みがよく理解されたら、穢れている人とは誰も付き合いたくなくなると思います。既にその兆候は現れてきていて、底辺のオーラを持った人には近づき難くなっていますよね。底辺のオーラの人とも等しく付き合いなさいとか言うのは学校の先生と道徳の授業くらいで、実際には、そのような穢れを引き受ける必要はなくて、単に離れているべきです。基本は自分の浄化をすることですから、自分の浄化すらできていない人と付き合う必要はないわけです。
■オーラを鎮める
オーラが発散していると周囲の穢れたオーラと混ざってしまいますから、以前書いたようにオーラを体の近くに留める必要があります。実際は、その記事のようにお腹に集めるというよりは、皮膚の近くに留める、という感じです。HUNTER x HUNTER の「纏(テン)」の方がイメージに近いです。
■穢れは誰のもの?
ですから、穢れている人がいた時、それがその人自身が作った穢れなのか、もらってしまった(貰うことを強要された)穢れ(=カルマ)なのか、という点が重要になるわけです。自分で作った穢れを他人に引き受けてもらいたい人とは付き合うべきではありませんが、他人から穢れを引き受けてしまった人は単に可哀想な人です。後者は助ける意義がありますが、前者は孤立させて自分で穢れを対処させるべきです。実際には複合要因になるわけですけれども。上の数式に加えますと、「既に溜まっている穢れ」+「(自分が原因の)穢れの増加」 ー「(自分による)穢れの浄化」+「他者からもらった穢れ」ー「他者に引き取ってもらった穢れ」のようになります。
■穢れを引き受ける人
時々、他人の穢れを引き受ける役割を持った宗教関係者のような方もいらっしゃいますが、なかなか大変な役割を引き受けてご苦労かとは思いますが、穢れを大量生産して何とも思わない人(本人は苦しんでいるのでしょうが)の苦労を引き受けても、当人は現状のままでいいと思うだけなのでよろしくないと思うのですけれども。それよりも、本人の穢れは本人に任せてカルマの何たるかを本人にわからせる方がよっぽど世のためになるかと思いますけど。まあ、カルマを引き受けるのもその人の自由ですので私が禁止はできないのですけれども。この世は自由意志が優先される世界ですから。
■全部自分のせいだと思わなくて良い
自分で作り出す穢れよりも、拾ってきたり押し付けられた穢れの方が大きいのが現代では普通です。社会がストレスに溢れていて、穢れがバケツリレーのように人から人へと移っています。街を歩けば穢れを拾い、誰かが自分の穢れを引き受けてくれたりします。それが普通の人たちの人生で、社会に翻弄されて生きる人生が大半です。ですから、穢れを自分でなるべく作らないようにして、穢れをなるべく浄化するのは基本ではありますが、穢れを全部自分が原因だと思う必要はないです。
■オーラを発散させない
スピリチュアルのことを一旦知ったのならばオーラを発散させずに生活することを基本にします。他人のオーラが発散しているのはどうしようもありませんから、なるべく人混みには近づかない。混雑している電車にはなるべく乗らない。穢れがつかないように人混みでは他人に興味を持たず、自分のオーラをより皮膚に近付けて他の人となるべくオーラが混ざらないように気をつけます。
■波動の法則よりもオーラ接触の方に気をつける
よく聞くお話で「似た者同士の法則」だとか「波動が似ていると引き付け合う」だとか言われることがありますけど、もちろんそれもありますが、それよりも、自分のオーラが発散しているか相手のオーラが発散していてオーラ同士が接触して穢れが移ることの方が現代ではよほど多いと思います。昔は人口も少なかったので波動の法則とかの方が重要だったかもしれませんが今は都会の電車も満員ですし道に人が溢れています。地球の人口は爆発してきています。現代においては波動の法則よりも、単にオーラが接触してしまうことで起こる現象の方を気をつけた方がいいと思います。
続き: 雑念とオーラとエーテルコード
誰かを気にする時、エーテル体(幽体)が伸びてゆき、一部が混ざる。
混ざることにより相手のことがわかる。
接続を切り離すと、自分に相手のオーラが残る。相手にも自分のオーラが残る。
よって、相手を思うだけでオーラ交換がなされる。
これが基本的な仕組み。
エーテルの筋を自分が伸ばす場合もあれば、向こうから伸びてくる場合もある。
であれば、自分があまり汚れずに相手を知るには細いエーテルの筋を伸ばす。
鋭く、細く意識する。なるべく少ないオーラで相手と繋がり、少ないオーラの交換で多くを知る。
又、意識しなくとも誰かの近くにいだけで自然にオーラ交換が行われます。
ちなみに、憎い相手を思えば思うほど同一化するのもこの仕組み。
逆に、自分より精神的に進んでいる人と付き合うと成長するのもこの仕組み。
この真実性はオーラが見えなければわからないかもしれないですが。
■カフナ式
上記は私が子供の頃に幽体離脱した時に知ったことですが、似たような記述を見つけました。
カフナ式に言えば、エーテル体をターゲットに突き刺す。すると自動的に内容物は漏れ出てくる。この時に、対象をじっと見ている体制で情報は入ってくる訳ではない。(中略)ターゲットにエーテル体という情報ケーブルを接続した後、情報は他者的に流れ込んでくるのではなく、あたかも自分の体験として受け止められる。「精神世界の教科書(松村 潔 著)」
このカフナ式の説明が私の内容にとても似ています。ちなみにこの後、著者は量子論だとか自我とか自己意識だとかに結びつけてこのことを説明していますけど、カフナ式の話はそういうことでもなくて単純にオーラの使い方と性質を言っているだけだと思います。量子論はオーラの元になっている分子の一つ一つのもっと細かなお話ですし、自我だとか自己意識というのもかなり微細なお話ですけど、このカフナ式のエーテルの話はかなり肉体に近いオーラの性質のお話だと思います。エネルギーの法則的なところに似ていると思います。ケーブルが繋がれば情報が流れるしエネルギー的に高いところと低いところが混ざり合って一定に落ち着く、という単純なお話です。
完全に混ざり合うことはほとんどないですが、心を許せば許すほど同一化します。繋がって勝手に同一化するのが基本で、自分が許せばそれが加速される、という感じです。
■愛し合う人
恋人同士が同一化するのも同じ仕組みです。
■奪う人、奪われる人
他人の活力を奪って活動する人の仕組みも同じ。周囲にエネルギー供給者を配置して、強制あるいは操作あるいは共依存で離れないようにした上でエネルギーを吸い取る。パワハラな人ほど出世するのもこの仕組み。周囲からパワーを奪う仕組みを構築している。
■「個」が重要
だから、精神的に成長すればするほど「個」が重要になる。そうでないと足を引っ張られる。個を重視するのは穢れを避けるため。エネルギーを奪われないようにするため。精神的に成長すればするほど「根源」と繋がって落ち着いてゆきますが、穢れた人との接触が成長を妨げるようになってゆきます。
■他人を気にするのをやめる
であれば、電車の中で他人を気にするのはやめる。そうすると穢れが抑えられる。エネルギーのレベルが低い人との付き合いは辞める。そうすることでエネルギーを奪われないようにする。他人からエーテルの筋が伸びてきた場合は意思で叩き落とします。そうすることで穢れを妨ぎます。あるいは鏡のような防御膜を作ってエーテルの筋突き破らせないようにします。あるいは守護霊にお願いしてエーテルの融合が起こらないように監視してもらいます。最後のはそう心の中でお願いするだけです。
そこまで行かなくても、基本的には細々とした雑念に惑わされるのはやめる。テレビのニュースもあまり気にしない。芸能人にウキウキしない。
芸能というのは、その人を(遠隔であっても)気にかける人が多ければ多いほどオーラ同一化して芸能人のエネルギーが高まるのです。その最たるものが戦前の昭和天皇で、日本全国民のエネルギーを集めて奇跡が行えたと言います。戦後に天皇に対する信仰が薄れればエネルギーレベルも下がり、奇跡を起こせなくなったのも当然と言えます。
人々がこれらのことに無頓着ですので、例えば品のない芸能人が脚光を浴びることで善人からエネルギーを奪い取るシステムが長らく構築されてきました。芸能ほどではないですが会社の上司部下というシステムもエネルギーを奪い取る構造が見て取れます。
本来はエネルギーを奪わないシステムが必要なのですが、この世の中はそうはなっていません。奪い合うシステムに組み込まれている人はなかなか抜け出せない。精神的に穢れている人ほど他人の共感を必要としていますが、共感すれば共感した側も闇に引きずり込まれてゆきます。引きずり込まれるということはカルマでもあるわけですけれども。
■精神不安定とオーラ
オーラが混ざるのは、精神的に混乱している時が一番混ざりやすいです。ですから、とても嫌なパワハラ上司が純粋な部下と溶け合って両方の中間くらいに落ち着く、みたいなことがよく起こりえるわけです。精神的に未熟で他人から奪うことで生きている上司がいたとして、その上司を助けようとしても実際はオーラが混ざり合うのです。混ざり合わずにお互いがそれぞれ成長するか、あるいは混ざるか、の二択ではあるのですが、助けるという選択をしただけで助ける方も引きずり込まれてゆきます。
■学校教育とオーラ
ですから、特に子供は付き合う相手を選ばなくてはなりません。朱に混じれば赤くなる、というのは真実ですから。
学校教育はその点、協調を重視していますから精神性にとっては最悪です。エネルギーヴァンパイアの隣の席を強要されたらどんどん穢れてゆきます。その一方でエネルギーヴァンパイアは回復してゆくでしょうけど、巻き込まれる方はいい迷惑です。拒否できませんし。虐待に近いですよ。一旦混じり合うと、かつて精神的に安定していた人が穢れて簡単に落ちてゆくのです。学校が荒れているのも当然ですよね。真面目だった人がキレるようになるのも同じ仕組みです。そりゃ、穢れを貯め続ければキレもしますよ。
これからネガティブが世界的に増加するでしょうが、付き合う相手を選ぶのがますます重要になってくるでしょうね。学校選びも重要。同じ学校の生徒は同レベルに均一化します。
社会や学校で、エネルギーを奪いたい人は言葉巧みに「交流」だとか「社交性」とかいう罠を張ってきますが、それが本物なのかあるいは強制・操作・共依存のエネルギーヴァンパイアなのか見極める必要があります。子供はなかなか厳しいですけど、登校拒否と転校をもっと気軽できるシステムが必要だと思いますし、学校内でも同一化を先生が強要せずに学校というジャングルの中でそれぞれのグループを守るような運用が必要ですよね。社交とかは同程度のレベルの人の間で行えばいいのです。程度の低い人ほど社交だとか人付き合いとか言ってエネルギーを奪ってゆきますから気をつけねばなりません。
■防御法
エーテルの管が延びてきたら、それを避けるかエーテルの何かで防御します。ブログではなかなか書けませんが、守護霊に聞けば教えてくれると思います。エネルギー的なストーカーへの対処は迅速に。何か違和感があれば瞑想してエーテルの管をまず切ること。気付かぬうちにエネルギーのパイプを繋がれていてエネルギーを抜かれている時があります。基本は、エネルギーのパイプを断ち切る、と意識するだけで良いです。
世の中には酷い人がいて、平気で足を引っ張ってきます。そのような人への対処は色々と考えられますが、直接対応しますとこのような同一化で自分も引きずり込まれますから、それよりも、守護霊に頼んでその人が自主的に離れるよう仕向けた方がいいと思います。もちろん自分で精神的なバリアを張って物理的に離れるのが大前提ではありますけど。精神的に奴隷にならないようにするのも大事です。最終手段として攻撃あるいは封印に近い方法もありますけどお勧めはしませんしできる人も限られてきます。
■経済的自立の必要性
穢れないためには、経済的自立も本当に重要です。経済的自立していなければ上司の強要に精神的に屈服せざるを得なくて穢れてゆきます。
■パワハラとカルマ
メンタルやられる人はかなりの高確率で他人の穢れを沢山引き受けたと思われますし、パワハラでメンタル壊す人の場合は上司の穢れを引き受けているわけですから、本来は上司自身にその穢れを引き受けさせるべきなのです。実際はオーラが部下に移って部下がカルマの償いをすることになります。
これって、道徳的に考えると上司が何か罰則を受けそうな気もしますけど、部下が「受け入れる」ことをしたがためにカルマは部下に移るわけです。カルマの法則って時に不平等に見えますね。上司は穢れを作り続け、カルマは部下が引き受けるわけです。部下がパワハラで退職しても上司は部下を取り替えるだけです。この世の姿は仮の姿で自分も相手も実は一緒ですからこんなことも起こり得るわけです。まあ、一旦仕組みをわかってしまえばパワハラ上司には関わらずに会社辞めるか部署移動するのが一番だとわかるわけですけど。そんなカルマをわざわざ引き受ける必要はないわけです。基本は自由意志に基づきますので、カルマを引き受ける代わりに高い給与をもらうことを受け入れるとか、そういう判断はできます。ただ、世間では安月給とパワハラが結びついていることが多いように思いますので、この種のカルマの引受は割に合わない気が致します。
■2種類の人:穢れの人と浄化の人
この世の中は2種類の人でできていて、穢れを作り出す人と穢れを浄化する人がいます。穢れは誰でも作りますし、浄化もしています。1人の人を一定期間見たときに、穢れを作り出すよりも浄化する方が多ければ「浄化の人」で、浄化よりも穢れを作る方が多ければ「穢れの人」です。数式は「既に溜まっている穢れ」+「穢れの増加」 ー「穢れの浄化」のようになります。穢れが段々と増えるか、段々と減るのかの違いです。「浄化の人」が世界に必要ですが、「穢れの人」の方が勝っている気がします。であれば世の中に穢れはどんどんと増えてゆきます。これからどんどん危なくなっていきそうです。
■付き合う相手を選ぶ。自分を成長させるのが基本。他人にカルマを渡さない。
メンタル的に不安定で穢れを増加させるような人とは付き合うべきではなく、個人のすべきこととして自分自身の浄化と心の平静を訓練し、心のふらつきをなくすように努めるべきです。メンタル的な不安定を解消させるために他人と交わるのは穢れを分散させているだけであり、穢れの正しい浄化方法ではありません。今はこの辺りの理解が低いために穢れを引き受ける方が意図せずして穢れを引き受けているだけで、仕組みがよく理解されたら、穢れている人とは誰も付き合いたくなくなると思います。既にその兆候は現れてきていて、底辺のオーラを持った人には近づき難くなっていますよね。底辺のオーラの人とも等しく付き合いなさいとか言うのは学校の先生と道徳の授業くらいで、実際には、そのような穢れを引き受ける必要はなくて、単に離れているべきです。基本は自分の浄化をすることですから、自分の浄化すらできていない人と付き合う必要はないわけです。
■オーラを鎮める
オーラが発散していると周囲の穢れたオーラと混ざってしまいますから、以前書いたようにオーラを体の近くに留める必要があります。実際は、その記事のようにお腹に集めるというよりは、皮膚の近くに留める、という感じです。HUNTER x HUNTER の「纏(テン)」の方がイメージに近いです。
■穢れは誰のもの?
ですから、穢れている人がいた時、それがその人自身が作った穢れなのか、もらってしまった(貰うことを強要された)穢れ(=カルマ)なのか、という点が重要になるわけです。自分で作った穢れを他人に引き受けてもらいたい人とは付き合うべきではありませんが、他人から穢れを引き受けてしまった人は単に可哀想な人です。後者は助ける意義がありますが、前者は孤立させて自分で穢れを対処させるべきです。実際には複合要因になるわけですけれども。上の数式に加えますと、「既に溜まっている穢れ」+「(自分が原因の)穢れの増加」 ー「(自分による)穢れの浄化」+「他者からもらった穢れ」ー「他者に引き取ってもらった穢れ」のようになります。
■穢れを引き受ける人
時々、他人の穢れを引き受ける役割を持った宗教関係者のような方もいらっしゃいますが、なかなか大変な役割を引き受けてご苦労かとは思いますが、穢れを大量生産して何とも思わない人(本人は苦しんでいるのでしょうが)の苦労を引き受けても、当人は現状のままでいいと思うだけなのでよろしくないと思うのですけれども。それよりも、本人の穢れは本人に任せてカルマの何たるかを本人にわからせる方がよっぽど世のためになるかと思いますけど。まあ、カルマを引き受けるのもその人の自由ですので私が禁止はできないのですけれども。この世は自由意志が優先される世界ですから。
■全部自分のせいだと思わなくて良い
自分で作り出す穢れよりも、拾ってきたり押し付けられた穢れの方が大きいのが現代では普通です。社会がストレスに溢れていて、穢れがバケツリレーのように人から人へと移っています。街を歩けば穢れを拾い、誰かが自分の穢れを引き受けてくれたりします。それが普通の人たちの人生で、社会に翻弄されて生きる人生が大半です。ですから、穢れを自分でなるべく作らないようにして、穢れをなるべく浄化するのは基本ではありますが、穢れを全部自分が原因だと思う必要はないです。
■オーラを発散させない
スピリチュアルのことを一旦知ったのならばオーラを発散させずに生活することを基本にします。他人のオーラが発散しているのはどうしようもありませんから、なるべく人混みには近づかない。混雑している電車にはなるべく乗らない。穢れがつかないように人混みでは他人に興味を持たず、自分のオーラをより皮膚に近付けて他の人となるべくオーラが混ざらないように気をつけます。
■波動の法則よりもオーラ接触の方に気をつける
よく聞くお話で「似た者同士の法則」だとか「波動が似ていると引き付け合う」だとか言われることがありますけど、もちろんそれもありますが、それよりも、自分のオーラが発散しているか相手のオーラが発散していてオーラ同士が接触して穢れが移ることの方が現代ではよほど多いと思います。昔は人口も少なかったので波動の法則とかの方が重要だったかもしれませんが今は都会の電車も満員ですし道に人が溢れています。地球の人口は爆発してきています。現代においては波動の法則よりも、単にオーラが接触してしまうことで起こる現象の方を気をつけた方がいいと思います。
続き: 雑念とオーラとエーテルコード
雑念とオーラとエーテルコード
先日のオーラ交換の記事の続きです。
同じ仕組みで、雑念も伝わってきます。
例えば、遠くで誰かがこちら(私、自分)の噂話をしていたとします。
その際、エーテル体(幽体)が細い線になって伸びてきています。
ですから、噂をすれば相手も気付くのです。よほど鈍感ではない限り。
こういうのはいわゆる「雑念」ではあるのですけれども、雑念は必ずしも「自分(私)」が原因ではないのです。ですから、雑念が現れたとしても、あまり深刻になる必要はないのです。
オーラが千切れて飛んできてそれをキャッチしてしまっただけでも雑念は発生します。
ましてや、付き合いのある人が噂話をすれば自分(私)とその人の間にケーブルが繋がるので雑念が入り込んでくるのです。
その雑念がポジティブなら聞いていてもいいのですが、ネガティブな場合は意図的にそのケーブルを「切る」と良いです。やり方は、そう念じるだけで良いです。具体的にカッターのようなものを画像でイメージして、ケーブルっぽいものを切るようにイメージしましょう。それだけで十分効きます。エーテルの世界は念次第でどうにでもなりますから。
これを、人によってはエーテルコードとか言ったりします。
雑念くらいならいいのですが、ネガティブな噂話、しかもそれがこちらを馬鹿にするようなものでしたらかなりきついです。相手がこちらのくだらない噂話をしたりこちらのことをバカにしていたりしますと、その不快な感覚がケーブルを伝わってきます。同じく思念波でやり返すと相手にそれが伝わるのですが、前の記事で書いたように、結局はそれはオーラの交換でしかないのでお互い同じくらいのところに落ちてゆきます。であれば、やり返すべきではなく、落ちないための対処方法は「切る」しかないですよね。
相手が精神的な成長を目標にしているのならばともかく、そこらの一般人の噂話に付き合う必要はありません。たとえそれが雑念の上であったとしても。本当にその人と一蓮托生とまではいかないまでもある程度一緒に歩むつもりがあるならばネガティブな雑念に付き合うのも時にはありかもしれませんが、基本的には「切る」のがいいと思います。
なんでこんなことを書いたかと言いますと、そろそろお盆の長期休みに入りますのでみなさん仕事がなくなって噂話に熱が出る時期だからです(苦笑)
せっかく長期休みだと思って瞑想でもしてみたら、どっかの誰かが噂話していて雑念が途切れない、なんてことになったら不幸ですので対処方法をちょっと書いてみました。
他の対処方法として、オーラで「鏡」のような銀のシールドを卵の形のように360度張り巡らす、という方法もあるみたいですけど、これは初心者は全方向にこんなシールドするのは難易度が高いと思います。挑戦してみてもいいと思いますけど、初心者はきっとうまくいかないです。
それよりは、雑念が現れたら「切る」方がよっぽど簡単です。
ちなみに、自分で作り出してしまっている雑念でしたらこの対処方法じゃ駄目ですけどね。雑念の原因は大きく分けて二つあって、どっかから流れてくる(この記事の場合)と、自分の中に眠っている場合です。前者は防御すれば良いですけど、後者はきちっとカルマの元になっているヨーガで言うところのサムスカーラという「印象」に向き合って瞑想するのがいいと思います。
なんとなくそれと分かった時に切るのが基本ですけれども、そうでなくても、毎日してもいいかもしれません。いつの間にかネガティブなものに繋がっているなんてこともありますから。スピリチュアルって楽しいイメージですけれども、実は結構怖いことも多いのです。
悪意を持っている相手でしたら徹底的に対処した方が良いですけどね。でも、雑念程度ならばこんなものです。
同じ仕組みで、雑念も伝わってきます。
例えば、遠くで誰かがこちら(私、自分)の噂話をしていたとします。
その際、エーテル体(幽体)が細い線になって伸びてきています。
ですから、噂をすれば相手も気付くのです。よほど鈍感ではない限り。
こういうのはいわゆる「雑念」ではあるのですけれども、雑念は必ずしも「自分(私)」が原因ではないのです。ですから、雑念が現れたとしても、あまり深刻になる必要はないのです。
オーラが千切れて飛んできてそれをキャッチしてしまっただけでも雑念は発生します。
ましてや、付き合いのある人が噂話をすれば自分(私)とその人の間にケーブルが繋がるので雑念が入り込んでくるのです。
その雑念がポジティブなら聞いていてもいいのですが、ネガティブな場合は意図的にそのケーブルを「切る」と良いです。やり方は、そう念じるだけで良いです。具体的にカッターのようなものを画像でイメージして、ケーブルっぽいものを切るようにイメージしましょう。それだけで十分効きます。エーテルの世界は念次第でどうにでもなりますから。
これを、人によってはエーテルコードとか言ったりします。
雑念くらいならいいのですが、ネガティブな噂話、しかもそれがこちらを馬鹿にするようなものでしたらかなりきついです。相手がこちらのくだらない噂話をしたりこちらのことをバカにしていたりしますと、その不快な感覚がケーブルを伝わってきます。同じく思念波でやり返すと相手にそれが伝わるのですが、前の記事で書いたように、結局はそれはオーラの交換でしかないのでお互い同じくらいのところに落ちてゆきます。であれば、やり返すべきではなく、落ちないための対処方法は「切る」しかないですよね。
相手が精神的な成長を目標にしているのならばともかく、そこらの一般人の噂話に付き合う必要はありません。たとえそれが雑念の上であったとしても。本当にその人と一蓮托生とまではいかないまでもある程度一緒に歩むつもりがあるならばネガティブな雑念に付き合うのも時にはありかもしれませんが、基本的には「切る」のがいいと思います。
なんでこんなことを書いたかと言いますと、そろそろお盆の長期休みに入りますのでみなさん仕事がなくなって噂話に熱が出る時期だからです(苦笑)
せっかく長期休みだと思って瞑想でもしてみたら、どっかの誰かが噂話していて雑念が途切れない、なんてことになったら不幸ですので対処方法をちょっと書いてみました。
他の対処方法として、オーラで「鏡」のような銀のシールドを卵の形のように360度張り巡らす、という方法もあるみたいですけど、これは初心者は全方向にこんなシールドするのは難易度が高いと思います。挑戦してみてもいいと思いますけど、初心者はきっとうまくいかないです。
それよりは、雑念が現れたら「切る」方がよっぽど簡単です。
ちなみに、自分で作り出してしまっている雑念でしたらこの対処方法じゃ駄目ですけどね。雑念の原因は大きく分けて二つあって、どっかから流れてくる(この記事の場合)と、自分の中に眠っている場合です。前者は防御すれば良いですけど、後者はきちっとカルマの元になっているヨーガで言うところのサムスカーラという「印象」に向き合って瞑想するのがいいと思います。
なんとなくそれと分かった時に切るのが基本ですけれども、そうでなくても、毎日してもいいかもしれません。いつの間にかネガティブなものに繋がっているなんてこともありますから。スピリチュアルって楽しいイメージですけれども、実は結構怖いことも多いのです。
悪意を持っている相手でしたら徹底的に対処した方が良いですけどね。でも、雑念程度ならばこんなものです。
体のオーラに取り憑いているエネルギー体
ここ数日はちょっと体が重くて瞑想しても微妙な感じでしたので、瞑想中に体のオーラを探ってみました。すると、やっぱりいました。
まず、アナハタチャクラに爬虫類のカマキリみたいなのが取り憑いていてエネルギーを吸っていたのでイメージ上の腕で片側を持ってゆっくりと引き抜いたらハサミで威嚇されました(汗)引き抜いてポイっと捨てたら随分と気分が楽になりましたね。肩の辺りには顔だけの亡霊っぽいのがくっついていました。おー、怖い怖い・・・。これは、意識したら発見されたのに気付いたらしくて自分から離れていきました。肩が重い感じがなくなりました。首には何やら赤い腫れ物のような、血の充血した塊みたいなのがくっついていました。これは取り除くというよりはエネルギーを当てて治す必要がある部分のようです。頭が硬かったのですが、前頭葉の左側からカラスのような黒い鳥が何十匹もバタバタと音を立てて出てきて飛んでゆきました。頭の上には鳥の巣があって、最初は可愛いペンギンの子供かと思ったのですがガチョウの子供のようで、餌を欲しがっていましたので座っている横に移動させました。右脳には可愛いキタキツネと深海魚っぽい魚と縮尺小さめのクジラがいましたので出てきてもらいました。
体の色々なところに動物がいるなんて、古事記とかインドの神話っぽいです。瞑想中のお話ですけどね。
これで、随分とスッキリしましたね。
こういうのはイメージでしかないですけど、アストラルの世界は何でもありですので、何か混沌としたエネルギーが具現化して取り外しやすくなったのだ、と解釈しています。きっと、本当にそれ自体が寄生していたのではなくて、エネルギー的なものが溜まったかあるいはどこかから拾ってしまって、それが分かりやすい形でイメージ上で具現化したのだと思っています。エネルギーがその質に応じて具現化するのはよくあることです。誰かの術の可能性もありますけど、おそらくは自然発生的なものかなと。
そういえば、アナハタ優勢になる前日くらいにも似たようなことをしましたね(該当記事)。以前と同様、プラシーボかもしれないですけどそれで効果があるなら全然OKなのです。この種のセラピーも世の中にはあって効果が出ていますしね。人間には科学的に分からないことも多いのですから、科学で証明された以上のことがあっても不思議ではないのです。
関連:
・両肩に刺さっていた見えないものを引き抜く
・床屋で取り憑いてきた意識体
まず、アナハタチャクラに爬虫類のカマキリみたいなのが取り憑いていてエネルギーを吸っていたのでイメージ上の腕で片側を持ってゆっくりと引き抜いたらハサミで威嚇されました(汗)引き抜いてポイっと捨てたら随分と気分が楽になりましたね。肩の辺りには顔だけの亡霊っぽいのがくっついていました。おー、怖い怖い・・・。これは、意識したら発見されたのに気付いたらしくて自分から離れていきました。肩が重い感じがなくなりました。首には何やら赤い腫れ物のような、血の充血した塊みたいなのがくっついていました。これは取り除くというよりはエネルギーを当てて治す必要がある部分のようです。頭が硬かったのですが、前頭葉の左側からカラスのような黒い鳥が何十匹もバタバタと音を立てて出てきて飛んでゆきました。頭の上には鳥の巣があって、最初は可愛いペンギンの子供かと思ったのですがガチョウの子供のようで、餌を欲しがっていましたので座っている横に移動させました。右脳には可愛いキタキツネと深海魚っぽい魚と縮尺小さめのクジラがいましたので出てきてもらいました。
体の色々なところに動物がいるなんて、古事記とかインドの神話っぽいです。瞑想中のお話ですけどね。
これで、随分とスッキリしましたね。
こういうのはイメージでしかないですけど、アストラルの世界は何でもありですので、何か混沌としたエネルギーが具現化して取り外しやすくなったのだ、と解釈しています。きっと、本当にそれ自体が寄生していたのではなくて、エネルギー的なものが溜まったかあるいはどこかから拾ってしまって、それが分かりやすい形でイメージ上で具現化したのだと思っています。エネルギーがその質に応じて具現化するのはよくあることです。誰かの術の可能性もありますけど、おそらくは自然発生的なものかなと。
そういえば、アナハタ優勢になる前日くらいにも似たようなことをしましたね(該当記事)。以前と同様、プラシーボかもしれないですけどそれで効果があるなら全然OKなのです。この種のセラピーも世の中にはあって効果が出ていますしね。人間には科学的に分からないことも多いのですから、科学で証明された以上のことがあっても不思議ではないのです。
関連:
・両肩に刺さっていた見えないものを引き抜く
・床屋で取り憑いてきた意識体
オーラと子供の教育
先日のオーラと雑念 の話とその続きのお話 を踏まえた、子供の教育のお話です。
学校で子供が苦しんでいるのも、オーラの知識がない大人の理不尽な対応のせいである場合も多い気がします。
例えば、学校で「仲良く」というのは本来オーラを安定させて体の近くに留めて「自分」を確立してから自由意志を持って相手と繋がるべきであるのに、学校教育では表面上の仲良さを重視していますのでオーラ的に言えば「オーラを繋げる」教育をしていますので、しっかりしていた筈の真面目な子も悪い子に引っ張られて落ちて行き、いじめっ子がエネルギーヴァンパイアになって支配する構図を助長しています。ここでポイントになるのは「自由意志の尊重」であり、支配体制を作るような関係は避ける必要があるのです。
学校というのは社会の縮図であり、社会が支配体制であるが故に学校もその支配体制を維持する為に「オーラを繋げる」「自由意志を尊重しない」という教育になっているのだと思います。きっと学校の先生はこれに反論するでしょうが、オーラ的に言えばそうなっています。
あるべき国のあり方や、グループのあり方、友達のあり方、学校のあり方。基本的に考え方は同一で、「自由意志の尊重」「オーラの安定、独立」というところを元にすれば、自ずと解決策は出てきます。例えば国であれば「自由意志が尊重される単位で国を分割する」ということになりますし、学校でも「自由意志が尊重される単位でクラスを分割する」ということになるでしょう。
子供の自由意志やオーラを無視し、ごちゃ混ぜにして「仲良く」とか言う言葉でオーラをつなげてしまって表面上は仲の良い従属関係を作り、自由意志をなくしてハイハイ従わせる為の教育が世間にまかり通っていますので子供が苦しんでいるのだと思います。
ただ、社会もこの構図で出来ていますので、子供が抜け出たとしても大人になってから社会の一員で働くのが辛くなってしまうのが困ったところ。子供だけでなく社会の仕組みもこの種の隷属関係を抜け出ないと大人も子供も生き辛い世の中が続くと思います。
問題の基本は、大人も子供も対多数が「瞑想をしない」ところにあると思います。瞑想をすることでオーラの発散を抑えてオーラを体の近くに安定させることが全ての基本であるべきなのに、それをしないからオーラが発散したままになり、おかしくなるのです。
「いじめ」と言う現象だけを見ていてもこのあたりはわかりません。いじめっ子の目的は言葉では色々と説明があるでしょうし、本人の自覚はないかもしれませんが根本は「オーラのパイプを繋げてエネルギーを吸い取ること」が目的です。その根本を理解しさえすれば、「いじめる(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」とか言う行為は「エネルギーのパイプを繋げる、あるいは、維持する為の手段」になりますから、「いじめる」という行為は従わせる為の「手段」であり、いじめられっ子が大人しく従っている間は「いじめる(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」行為をする必要がないわけです。いじめっ子からすればエネルギーヴァンパイアをする為あるいは維持する為にこそ行動が必要であり、最初は頻繁ないじめが必要かもしれませんが、一旦エネルギーのパイプを繋げてしまえば時々いじめをすればいいだけですから、維持だけでしたら影で時々嫌がらせをするだけでもいいわけですからね。であれば、学校の先生なんてほとんど気付けなくなる場合もあるでしょう。
時々は大人が代わりにこのエネルギーのケーブルを切ってあげる必要があると思いますけどね。大人は子供のそのくらいの面倒は見るべきだと思います。「いじめ」という行為を見抜けなくても、オーラに対する理解さえあれば、要はエネルギーヴァンパイアを防げば良いのですから生徒1人1人をしっかりと自立させれば良いわけです。その為に、時々はエネルギーのパイプを切ってあげて、オーラを安定させる助けをすれば良いわけです。色々と現象としては出てくるとは思いますが、根本は結局これだと思います。
大人は「いじめる目的は何なのだ?」と子供を問い詰めるかもしれませんし、子供は色々な回答をするかもしれませんけど、そんなこと聞かなくても根本はエネルギーヴァンパイアであることがほとんどです。場合によっては本人の混乱でそういうことしている場合もあるかもしれませんけど、継続的な「いじめ(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」であればほとんどの場合エネルギーヴァンパイアが目的でしょう。
大人がこの根本の理解をせずに表面上の仲良さだけを見ていても子供の苦しみは分かりません。基本は、いじめっ子といじめられっ子がいたらお互いに引き離して接触させないことです。表面上の仲良さなんてのも不要です。接触を断ちます。今の学校では「無視」と思われてしまって悪い印象になるのかもしれませんが、オーラ的に自立してきちんと対応できるようになる為には接触させるべきではないのです。数ヶ月あるいは数年という単位になるかもしれませんが。それをしなければ、エネルギーヴァンパイアの関係になるかあるいは不登校になるのかのどちらかです。この場合、自立するまでは「仲直り」などは不要で、きちんと自立するまではむしろ「しばらくの間、お互い相手には接触しないという同意」が必要になります。
学校の先生がこのことに理解がなくて改善が見られなければクラス替えの要求あるいは転校しても良いと思います。
あるいは、今の学校はクラス全員の同質化を前提にしていますから、そもそも変な人がいない学校に行くことですね。田舎では難しいかもしれませんけど。
子供が孤立していた時、この種のオーラに理解のない大人は事あるごとに「仲良く」させようとしますけど、オーラの理解があれば「仲良く」なんてのは大きなお世話どころか、害が大きいことがわかるでしょう。オーラに理解のない大人の薄っぺらな「仲良く」なんて、多くの場合、子供からしたら従属関係の強要になってしまうのです。
教師が教育をとても勉強すればこのあたりも問題なくなるのかもしれませんが、そんなに色々と勉強しなくても、このオーラの法則さえわかっていれば他の法則を次々に自分で導き出せる筈です。実際、日本の学校では学級崩壊が問題になっていますし、であれば、教師はそんなに勉強できていないのが実情なのではないでしょうか。オーラの法則は簡単ですので、ただ単にその存在を受け入れて理解するのはあっという間です。でも、もしかしたら素養がないとその簡単な法則すら理解できないのかもしれませんけど。
やっぱり、学校教育から精神世界を追い出してしまったのが問題ですよね。であれば、偏りは色々とあるのかもしれませんけど宗教系の学校、キリスト教とか仏教とか、そういう母体があるところに行かせるのが無難なのかもしれません。精神的な素養がない教師に教えられた子供は荒みますから。
学校で子供が苦しんでいるのも、オーラの知識がない大人の理不尽な対応のせいである場合も多い気がします。
例えば、学校で「仲良く」というのは本来オーラを安定させて体の近くに留めて「自分」を確立してから自由意志を持って相手と繋がるべきであるのに、学校教育では表面上の仲良さを重視していますのでオーラ的に言えば「オーラを繋げる」教育をしていますので、しっかりしていた筈の真面目な子も悪い子に引っ張られて落ちて行き、いじめっ子がエネルギーヴァンパイアになって支配する構図を助長しています。ここでポイントになるのは「自由意志の尊重」であり、支配体制を作るような関係は避ける必要があるのです。
学校というのは社会の縮図であり、社会が支配体制であるが故に学校もその支配体制を維持する為に「オーラを繋げる」「自由意志を尊重しない」という教育になっているのだと思います。きっと学校の先生はこれに反論するでしょうが、オーラ的に言えばそうなっています。
あるべき国のあり方や、グループのあり方、友達のあり方、学校のあり方。基本的に考え方は同一で、「自由意志の尊重」「オーラの安定、独立」というところを元にすれば、自ずと解決策は出てきます。例えば国であれば「自由意志が尊重される単位で国を分割する」ということになりますし、学校でも「自由意志が尊重される単位でクラスを分割する」ということになるでしょう。
子供の自由意志やオーラを無視し、ごちゃ混ぜにして「仲良く」とか言う言葉でオーラをつなげてしまって表面上は仲の良い従属関係を作り、自由意志をなくしてハイハイ従わせる為の教育が世間にまかり通っていますので子供が苦しんでいるのだと思います。
ただ、社会もこの構図で出来ていますので、子供が抜け出たとしても大人になってから社会の一員で働くのが辛くなってしまうのが困ったところ。子供だけでなく社会の仕組みもこの種の隷属関係を抜け出ないと大人も子供も生き辛い世の中が続くと思います。
問題の基本は、大人も子供も対多数が「瞑想をしない」ところにあると思います。瞑想をすることでオーラの発散を抑えてオーラを体の近くに安定させることが全ての基本であるべきなのに、それをしないからオーラが発散したままになり、おかしくなるのです。
「いじめ」と言う現象だけを見ていてもこのあたりはわかりません。いじめっ子の目的は言葉では色々と説明があるでしょうし、本人の自覚はないかもしれませんが根本は「オーラのパイプを繋げてエネルギーを吸い取ること」が目的です。その根本を理解しさえすれば、「いじめる(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」とか言う行為は「エネルギーのパイプを繋げる、あるいは、維持する為の手段」になりますから、「いじめる」という行為は従わせる為の「手段」であり、いじめられっ子が大人しく従っている間は「いじめる(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」行為をする必要がないわけです。いじめっ子からすればエネルギーヴァンパイアをする為あるいは維持する為にこそ行動が必要であり、最初は頻繁ないじめが必要かもしれませんが、一旦エネルギーのパイプを繋げてしまえば時々いじめをすればいいだけですから、維持だけでしたら影で時々嫌がらせをするだけでもいいわけですからね。であれば、学校の先生なんてほとんど気付けなくなる場合もあるでしょう。
時々は大人が代わりにこのエネルギーのケーブルを切ってあげる必要があると思いますけどね。大人は子供のそのくらいの面倒は見るべきだと思います。「いじめ」という行為を見抜けなくても、オーラに対する理解さえあれば、要はエネルギーヴァンパイアを防げば良いのですから生徒1人1人をしっかりと自立させれば良いわけです。その為に、時々はエネルギーのパイプを切ってあげて、オーラを安定させる助けをすれば良いわけです。色々と現象としては出てくるとは思いますが、根本は結局これだと思います。
大人は「いじめる目的は何なのだ?」と子供を問い詰めるかもしれませんし、子供は色々な回答をするかもしれませんけど、そんなこと聞かなくても根本はエネルギーヴァンパイアであることがほとんどです。場合によっては本人の混乱でそういうことしている場合もあるかもしれませんけど、継続的な「いじめ(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」であればほとんどの場合エネルギーヴァンパイアが目的でしょう。
大人がこの根本の理解をせずに表面上の仲良さだけを見ていても子供の苦しみは分かりません。基本は、いじめっ子といじめられっ子がいたらお互いに引き離して接触させないことです。表面上の仲良さなんてのも不要です。接触を断ちます。今の学校では「無視」と思われてしまって悪い印象になるのかもしれませんが、オーラ的に自立してきちんと対応できるようになる為には接触させるべきではないのです。数ヶ月あるいは数年という単位になるかもしれませんが。それをしなければ、エネルギーヴァンパイアの関係になるかあるいは不登校になるのかのどちらかです。この場合、自立するまでは「仲直り」などは不要で、きちんと自立するまではむしろ「しばらくの間、お互い相手には接触しないという同意」が必要になります。
学校の先生がこのことに理解がなくて改善が見られなければクラス替えの要求あるいは転校しても良いと思います。
あるいは、今の学校はクラス全員の同質化を前提にしていますから、そもそも変な人がいない学校に行くことですね。田舎では難しいかもしれませんけど。
子供が孤立していた時、この種のオーラに理解のない大人は事あるごとに「仲良く」させようとしますけど、オーラの理解があれば「仲良く」なんてのは大きなお世話どころか、害が大きいことがわかるでしょう。オーラに理解のない大人の薄っぺらな「仲良く」なんて、多くの場合、子供からしたら従属関係の強要になってしまうのです。
教師が教育をとても勉強すればこのあたりも問題なくなるのかもしれませんが、そんなに色々と勉強しなくても、このオーラの法則さえわかっていれば他の法則を次々に自分で導き出せる筈です。実際、日本の学校では学級崩壊が問題になっていますし、であれば、教師はそんなに勉強できていないのが実情なのではないでしょうか。オーラの法則は簡単ですので、ただ単にその存在を受け入れて理解するのはあっという間です。でも、もしかしたら素養がないとその簡単な法則すら理解できないのかもしれませんけど。
やっぱり、学校教育から精神世界を追い出してしまったのが問題ですよね。であれば、偏りは色々とあるのかもしれませんけど宗教系の学校、キリスト教とか仏教とか、そういう母体があるところに行かせるのが無難なのかもしれません。精神的な素養がない教師に教えられた子供は荒みますから。
オーラと共に移動するカルマ
カルマの法則について色々なところで言われています。例えばヨーガではサンスカーラという「印象」がカルマの輪を回すと説きます。しかし、多くの人は「カルマの法則を正しく理解するのは難しい」というところで一致しているように思います。
私も同様にカルマの理解は難しいと思いますが、理解するヒントとして、オーラとカルマの関係を理解すると現世で生きるのに役立つと思います。
カルマの基本的な仕組みは、まず、楽しいとか苦しいとか怒りとか悲しみとか全ての「印象」によって蓄積され、その「印象」が奥深くに眠り、やがてはその「印象」が刺激されることで再度現象として表に現れてきます。その輪がぐるぐると回るわけです。ヨーガでは以下のカルマがあると説きます。
・サンチッタカルマ 過去の輪廻で貯められたカルマ
・プララブタカルマ 今生の転生のきっかけになったカルマ。今生でのメインテーマ
・クリヤマナカルマ 今生でのカルマ。コントロール可能なカルマ
・アーガミカルマ 来世に引き継がれるカルマ
まあ、それはいいのですが、我々今生に生きている人にとって大切なのは今生での生き方です。
今生に関係するのはプララブタカルマとクリヤマナカルマですね。
そして、実は、カルマはオーラと共に移動します。サンチッタカルマが移動するかどうかはちょっと不明確です。しかし、プララブタカルマとクリヤマナカルマは移動する感じがします。ちなみに、こんなこと言っている人は見たことありません。これは私の実体験と子供の頃に幽体離脱および過去生の記憶らしきものを繋ぎ合わせて類推するとこうなる、というお話です。ですから、あまり信じないで下さい。いわゆる仮説です。私はたぶんこうだろう、とは思っていますが、読者が信じる必要はなくて、「ふうん」とでも思っておいて頂ければ良いです。
さて、オーラでカルマが移動する、とは一体どういうことでしょう?
簡単な例で言いますと、例えばとても葛藤があって怒りや悲しみに満ちている人がいたとします。オーラも真っ赤で、オーラがブワッと発散して近く人は誰それ構わずオーラが接触します。以前書きましたように、オーラの接触とはつまりは「混ざる」ということですから、混ざった瞬間に相手も自分もなくなって、どこで切り離されるかによって自分のところに来たオーラが自分のものになるわけです。ですから、もともと相手のオーラでも、そのオーラが接触して「混ざって」、感知すると「雑念」やらになるのが基本ですが、そのオーラが真っ赤ですとそのまま「荒み」にもなって悪影響を及ぼします。そして、その「荒み」が激しい場合は、もともとそのオーラを持っていた人と同質化して同様に自分のオーラが赤に少し染まるわけです。少しの接触なら少し赤に染まるだけですが、ずっと毎日(学校や職場などで)荒んでいる人の近くにいたら周囲でオーラ接触している人の方が参ってくる訳です。それは、ただ単に荒むだけでなく、まさにカルマも引き受けてしまっているのです。ですから、ずっとオーラの接触が起こっているとオーラが同質化して、例えば、今まで平穏に暮らしていた人が次第に怒りや悲しみに満ちたりするようになるのです。これは「同質化」という現象でも捉えられますけど、それと同時に「カルマの移動」にもなっているわけです。
怒りのカルマが溜まっている人のオーラを、他の人が引き受けた訳です。そうすることで、元の人の怒りは少し落ち着きますし、カルマも減りますが、その分、周囲の人にカルマを分けている訳です。トータルのカルマの量では変わっていないと言えます。
ですから、自分の悪い行いが自分に返ってきますよ、という、一部で言われているカルマの法則は半分本当ですが、このように、誰かにカルマを押し付けることで避けることができてしまうのです。ほんと、世の中って不公平だと思いますよ。ですから、自分がとても気をつけて生活をしなくてはなりません。
これを悪用した場合、自分はカルマを作り出し続けて怒りや悲しみを作り続け、周囲の人にカルマを渡し続けることで自分の活動を維持しようとする悪人ができてしまいます。実際、例えばエネルギーヴァンパイアはエネルギーを吸い取るだけでなくて自分の悪いオーラをいじめられっ子あるいは奴隷相当の人に押し付けることで自分の葛藤を抑えていたりします。エネルギーヴァンパイアは、例えばいじめっ子や、意地悪い上司やパワハラ上司や、あるいは、ドメスティックバイオレンスな家庭などが典型だと思います。
ですから、オーラの仕組みを知らないが故に他人のカルマを引き受けてしまっている人が世の中にはとてもとても大勢いるのだと思っています。なんでそんな理不尽な扱いに我慢し続けるのか、理解に苦しみますが。おそらくは学校で奴隷としての教育を受けてエネルギーを与え続けるウサギ役として調教され、社会においても一部のボスに従うように調教され続けている人が多いのでしょう。
オーラの仕組みを知っていれば、そんな他人のオーラ(カルマ)を引き受ける必要なんてないと分かる訳ですが、これは広く知られると社会の仕組みが根底から崩れてしまうので、知られてはまずい知識に属するのでしょう。いや、考えすぎですかね。
カルマを引き受ける代わりに多額の報酬とかもらえているのならば納得の上ということになるのでしょうが、そんな高い報酬なしに安月給で我慢している人が多いのではないでしょうか。
すぐには逆らえないにしても、先日書きましたように時々オーラのケーブルを切ってエネルギーヴァンパイアさせないようにして、それに加えてオーラの壁を作って相手のオーラを受け取らないようにすれば、エネルギーを奪ったりカルマを他人に引き受けさせようとする人は自然にエネルギー枯渇と自分のカルマに押し潰されて自滅すると思います。案外、これは時間かからないと思いますよ。どっちか片方だけでも効果がありますが、両方やるとすぐ効果があると思います。
もちろん、自分に繋がっているオーラのケーブルを切るのと、自分がオーラのカルマを受け取らない、というのが基本です。
それに加えて、自分が煩わしいと思っているエネルギーヴァンパイアあるいはパワハラ君に対しては、こっそりと(意識の中でやるだけです)その人のエネルギーのパイプを切ってあげてエネルギー枯渇させると良いです。家族からエネルギー抜いている場合は時間かかるかもしれませんけど、このご時世、そんなに我慢し続ける家族も少なくなっていると思いますが。そうすることで、勝手に自滅していく場合がほとんどだと思います。
これ、みんながやるだけで意外に世の中変わっていくと思いますよ。
■それじゃ、ヒーラーはどうなの?
この仕組みが分かった時、「じゃあ、ヒーラーは悪者の延命をしているだけなのですか?」という疑問が浮かんできました。これに対して私のガイドから回答があったのですが「ヒーラーは、何に対して奉仕するのか、という目的意識が重要になります。目的は、例えば、苦しんでいる人を助けたい、とか、そういうことになるでしょう。ヒーラーのレベルに対してこのくらいの荒みならば良い方向に導ける、という程度問題があって、本当の悪者、すなわち自分のキャパシティを超えている者に対しては体が無理だと拒絶する筈です。理屈で言えば無制限に受け入れて良い方向に導けるべきですが、そうは言っても、キャパシティの問題はあるでしょう。ヒーリングする時にはオーラの接触があって、ある程度は同質化しますが、どの程度の同質化を許すのかはヒーラーとしてコントロールできなくてはなりません。無制限に相手の荒みを受け入れてしまうようなヒーリングは避けるべきで、ヒーリングの質と量をコントロールできるのがヒーラーの技術として必要になります。」とのことでした。納得です。まあ、私はヒーラーではないですけどね。
私も同様にカルマの理解は難しいと思いますが、理解するヒントとして、オーラとカルマの関係を理解すると現世で生きるのに役立つと思います。
カルマの基本的な仕組みは、まず、楽しいとか苦しいとか怒りとか悲しみとか全ての「印象」によって蓄積され、その「印象」が奥深くに眠り、やがてはその「印象」が刺激されることで再度現象として表に現れてきます。その輪がぐるぐると回るわけです。ヨーガでは以下のカルマがあると説きます。
・サンチッタカルマ 過去の輪廻で貯められたカルマ
・プララブタカルマ 今生の転生のきっかけになったカルマ。今生でのメインテーマ
・クリヤマナカルマ 今生でのカルマ。コントロール可能なカルマ
・アーガミカルマ 来世に引き継がれるカルマ
まあ、それはいいのですが、我々今生に生きている人にとって大切なのは今生での生き方です。
今生に関係するのはプララブタカルマとクリヤマナカルマですね。
そして、実は、カルマはオーラと共に移動します。サンチッタカルマが移動するかどうかはちょっと不明確です。しかし、プララブタカルマとクリヤマナカルマは移動する感じがします。ちなみに、こんなこと言っている人は見たことありません。これは私の実体験と子供の頃に幽体離脱および過去生の記憶らしきものを繋ぎ合わせて類推するとこうなる、というお話です。ですから、あまり信じないで下さい。いわゆる仮説です。私はたぶんこうだろう、とは思っていますが、読者が信じる必要はなくて、「ふうん」とでも思っておいて頂ければ良いです。
さて、オーラでカルマが移動する、とは一体どういうことでしょう?
簡単な例で言いますと、例えばとても葛藤があって怒りや悲しみに満ちている人がいたとします。オーラも真っ赤で、オーラがブワッと発散して近く人は誰それ構わずオーラが接触します。以前書きましたように、オーラの接触とはつまりは「混ざる」ということですから、混ざった瞬間に相手も自分もなくなって、どこで切り離されるかによって自分のところに来たオーラが自分のものになるわけです。ですから、もともと相手のオーラでも、そのオーラが接触して「混ざって」、感知すると「雑念」やらになるのが基本ですが、そのオーラが真っ赤ですとそのまま「荒み」にもなって悪影響を及ぼします。そして、その「荒み」が激しい場合は、もともとそのオーラを持っていた人と同質化して同様に自分のオーラが赤に少し染まるわけです。少しの接触なら少し赤に染まるだけですが、ずっと毎日(学校や職場などで)荒んでいる人の近くにいたら周囲でオーラ接触している人の方が参ってくる訳です。それは、ただ単に荒むだけでなく、まさにカルマも引き受けてしまっているのです。ですから、ずっとオーラの接触が起こっているとオーラが同質化して、例えば、今まで平穏に暮らしていた人が次第に怒りや悲しみに満ちたりするようになるのです。これは「同質化」という現象でも捉えられますけど、それと同時に「カルマの移動」にもなっているわけです。
怒りのカルマが溜まっている人のオーラを、他の人が引き受けた訳です。そうすることで、元の人の怒りは少し落ち着きますし、カルマも減りますが、その分、周囲の人にカルマを分けている訳です。トータルのカルマの量では変わっていないと言えます。
ですから、自分の悪い行いが自分に返ってきますよ、という、一部で言われているカルマの法則は半分本当ですが、このように、誰かにカルマを押し付けることで避けることができてしまうのです。ほんと、世の中って不公平だと思いますよ。ですから、自分がとても気をつけて生活をしなくてはなりません。
これを悪用した場合、自分はカルマを作り出し続けて怒りや悲しみを作り続け、周囲の人にカルマを渡し続けることで自分の活動を維持しようとする悪人ができてしまいます。実際、例えばエネルギーヴァンパイアはエネルギーを吸い取るだけでなくて自分の悪いオーラをいじめられっ子あるいは奴隷相当の人に押し付けることで自分の葛藤を抑えていたりします。エネルギーヴァンパイアは、例えばいじめっ子や、意地悪い上司やパワハラ上司や、あるいは、ドメスティックバイオレンスな家庭などが典型だと思います。
ですから、オーラの仕組みを知らないが故に他人のカルマを引き受けてしまっている人が世の中にはとてもとても大勢いるのだと思っています。なんでそんな理不尽な扱いに我慢し続けるのか、理解に苦しみますが。おそらくは学校で奴隷としての教育を受けてエネルギーを与え続けるウサギ役として調教され、社会においても一部のボスに従うように調教され続けている人が多いのでしょう。
オーラの仕組みを知っていれば、そんな他人のオーラ(カルマ)を引き受ける必要なんてないと分かる訳ですが、これは広く知られると社会の仕組みが根底から崩れてしまうので、知られてはまずい知識に属するのでしょう。いや、考えすぎですかね。
カルマを引き受ける代わりに多額の報酬とかもらえているのならば納得の上ということになるのでしょうが、そんな高い報酬なしに安月給で我慢している人が多いのではないでしょうか。
すぐには逆らえないにしても、先日書きましたように時々オーラのケーブルを切ってエネルギーヴァンパイアさせないようにして、それに加えてオーラの壁を作って相手のオーラを受け取らないようにすれば、エネルギーを奪ったりカルマを他人に引き受けさせようとする人は自然にエネルギー枯渇と自分のカルマに押し潰されて自滅すると思います。案外、これは時間かからないと思いますよ。どっちか片方だけでも効果がありますが、両方やるとすぐ効果があると思います。
もちろん、自分に繋がっているオーラのケーブルを切るのと、自分がオーラのカルマを受け取らない、というのが基本です。
それに加えて、自分が煩わしいと思っているエネルギーヴァンパイアあるいはパワハラ君に対しては、こっそりと(意識の中でやるだけです)その人のエネルギーのパイプを切ってあげてエネルギー枯渇させると良いです。家族からエネルギー抜いている場合は時間かかるかもしれませんけど、このご時世、そんなに我慢し続ける家族も少なくなっていると思いますが。そうすることで、勝手に自滅していく場合がほとんどだと思います。
これ、みんながやるだけで意外に世の中変わっていくと思いますよ。
■それじゃ、ヒーラーはどうなの?
この仕組みが分かった時、「じゃあ、ヒーラーは悪者の延命をしているだけなのですか?」という疑問が浮かんできました。これに対して私のガイドから回答があったのですが「ヒーラーは、何に対して奉仕するのか、という目的意識が重要になります。目的は、例えば、苦しんでいる人を助けたい、とか、そういうことになるでしょう。ヒーラーのレベルに対してこのくらいの荒みならば良い方向に導ける、という程度問題があって、本当の悪者、すなわち自分のキャパシティを超えている者に対しては体が無理だと拒絶する筈です。理屈で言えば無制限に受け入れて良い方向に導けるべきですが、そうは言っても、キャパシティの問題はあるでしょう。ヒーリングする時にはオーラの接触があって、ある程度は同質化しますが、どの程度の同質化を許すのかはヒーラーとしてコントロールできなくてはなりません。無制限に相手の荒みを受け入れてしまうようなヒーリングは避けるべきで、ヒーリングの質と量をコントロールできるのがヒーラーの技術として必要になります。」とのことでした。納得です。まあ、私はヒーラーではないですけどね。
共感力が高いエンパスが学校教育で「心が自分」と教わると心の病になる
エンパスでない人が「心が自分ですよ」と学校教育で学んでも「ふーん」と思うくらいでしょうが、エンパスがそう習ったら大変です。色々と感じ取れてしまいますから、以下の全てが「自分」と言われて「どーゆーこと??」となります。
今まで何回も書きましたが、オーラに雑念が含まれていますのでオーラ接触しただけで雑念が入ってきて、あまりよく分かっていない子供がその雑念を感じるにつれて「私って、こんなに酷い人間なんだ」と思うようになるかもしれません。それは「心が自分です」という間違った教育による勘違いです。ですが、学校教育じゃそんなこと教えてくれませんから、子供は訳が分からなくなって心の病になるかもしれません。真面目なエンパスほど病むかもしれませんね。
学校教育では「思う」とか「心」って言葉と「自分」を安易に結びつけすぎなのかな、という気もしますし、そもそも学校の先生もよく分かっていない気もします。「心」というのは英語で「マインド」が対応するのであれば、それは「雑念」「想念」というよりも「思考」とか「意思」に近いものだと思うので、「意思が自分だ」ということであれば、まあ、分からなくもありません。ヨーガ的には意思すらも道具ですので、子供に教える方法としては「心が自分」ですと「雑念も自分」と理解してしまって上記のように心の病になるかもしれないですが「意思が自分だ」ということであれば、まあ、そこまで重症にはならない気もします。
そもそも心が何なのか、学校の先生がきちんと教えられる気もしませんけど。学校ではせいぜい道徳くらいしかやらないでしょう。
教えられないことを何となく教えるよりは、学校の先生は「私は分からない」と答えた方がいい気もしますけどね。仏教やら何やらの識者に聞くのがいいと思います。仏教やら何やらにしてもピンキリなので微妙なこともありますけど、学校の先生よりはマシでしょうし。
ある先生が「心が自分」と教えて、ある先生が「意思が自分」と教えたとすると、素直な子供は両方本当だと思うでしょう? これはどちらも間違っているのです(苦笑)なんだか意地悪クイズみたいで、世界には落とし穴だらけで生きるのが難しいです。どちらも真実ではありませんが、片方を信じるとしたら「意思が自分」の方がマシ、というくらいのお話です。
- 自分の思考や雑念
- 他人の思考や雑念
- そこらへんに浮かんでいるオーラに含まれている雑念
今まで何回も書きましたが、オーラに雑念が含まれていますのでオーラ接触しただけで雑念が入ってきて、あまりよく分かっていない子供がその雑念を感じるにつれて「私って、こんなに酷い人間なんだ」と思うようになるかもしれません。それは「心が自分です」という間違った教育による勘違いです。ですが、学校教育じゃそんなこと教えてくれませんから、子供は訳が分からなくなって心の病になるかもしれません。真面目なエンパスほど病むかもしれませんね。
- 自分の思考や雑念 → 「心が自分」とすればその思考や雑念は自分そのもの(それは勘違い)。→ ヨーガ的には、思考は道具。
- 他人の思考や雑念 → 「心が自分」としてしまうと、他人の思考や雑念も自分のものになる(それは勘違い)。理解不能な考えや雑念までもが感じられて、混乱するかもしれません。→ オーラの観点からすれば、オーラのケーブルが繋がって相手と同化するか、あるいは、オーラが接触して相手のオーラと混ざることで思念や雑念が伝わってくる。それは相手の考えなのだから自分のことではない。
- そこらへんに浮かんでいるオーラに含まれている雑念 → 「心が自分」としてしまうと、全く関係のない雑念も自分のものになってしまう(それは勘違い)。→ オーラの観点からすれば、どっかの誰かが飛ばしたオーラを拾ってしまっただけのこと。
学校教育では「思う」とか「心」って言葉と「自分」を安易に結びつけすぎなのかな、という気もしますし、そもそも学校の先生もよく分かっていない気もします。「心」というのは英語で「マインド」が対応するのであれば、それは「雑念」「想念」というよりも「思考」とか「意思」に近いものだと思うので、「意思が自分だ」ということであれば、まあ、分からなくもありません。ヨーガ的には意思すらも道具ですので、子供に教える方法としては「心が自分」ですと「雑念も自分」と理解してしまって上記のように心の病になるかもしれないですが「意思が自分だ」ということであれば、まあ、そこまで重症にはならない気もします。
そもそも心が何なのか、学校の先生がきちんと教えられる気もしませんけど。学校ではせいぜい道徳くらいしかやらないでしょう。
教えられないことを何となく教えるよりは、学校の先生は「私は分からない」と答えた方がいい気もしますけどね。仏教やら何やらの識者に聞くのがいいと思います。仏教やら何やらにしてもピンキリなので微妙なこともありますけど、学校の先生よりはマシでしょうし。
ある先生が「心が自分」と教えて、ある先生が「意思が自分」と教えたとすると、素直な子供は両方本当だと思うでしょう? これはどちらも間違っているのです(苦笑)なんだか意地悪クイズみたいで、世界には落とし穴だらけで生きるのが難しいです。どちらも真実ではありませんが、片方を信じるとしたら「意思が自分」の方がマシ、というくらいのお話です。
神社にある自己祓い用大麻で穢れのオーラを取り除く
近所の神社には「自己祓(はら)い用大麻(おおあさ)」というものが置いてあって、町で変なオーラを拾ってしまった場合はこれで清めることがよくあります。説明書きには「この大麻(おおあさ)を、左、右、左、と振り、ご自身でお祓いをしてからお参り致しましょう」と書いてありますので基本はその通りにするのですが、空いている時は私は頭から足まで満遍なく時間をかけてお祓いをすることもあります。
両肩を祓うだけでもかなり肩が軽くなります。よほど色々なものを拾ってしまっているのでしょうね。
こういうこと書くと「気のせいだよ」とか言う人がいますけど、何年も何回もずっとやっていますし、毎回効果を感じますので気のせいではないですし、気のせいだとしても効果があって気分が晴れやかになるのならばプラシーボだとしてもそれは「プラシーボでも効果がある」と言うことなので、完全にOKだと思っています。プラシーボで効果があるのであれば、薬のような本来は毒のようなものを体に取り入れなくても効果が出ると言うことなので、むしろプラシーボで効果がある方が嬉しいです。
実際のところ、この原理としては、拾ってしまったオーラを落とすということなのでとても理にかなっていると思います。
何度も書いていますけど、自分のオーラがブワッと発散して他人のオーラと接触する場合と、他人のオーラがブワッと発散していてオーラが接触してしまう場合が基本の2パターンで、これに加えて、プカプカと浮いているオーラと接触する場合とがあります。どちらにせよ、そのオーラはとりとめのない、変なものなので祓って捨ててしまって問題ないわけです。
基本は変なオーラを拾わないのが一番ですけど、拾ってしまったのならば捨てればいいわけです。
まあ、これは神道的な解釈ではなくて、私の解釈ですが。
■神道的な解釈
神道的な解釈は「神道の神秘(山蔭 基央 著)」を読むと色々書いてあります。例えば以下の部分です。
「神霊の霊光」による祓いは、神霊を礼拝して、その聖なる波動を賜って清めを受けることであるが、これをいわば一般的にしたものが、祓い麻による修祓(しゅうばつ)である。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」
私はこの効果が神霊の霊光によるものかそうでないかまではわかりませんけど、いつも有り難く使わせて頂いております。
両肩を祓うだけでもかなり肩が軽くなります。よほど色々なものを拾ってしまっているのでしょうね。
こういうこと書くと「気のせいだよ」とか言う人がいますけど、何年も何回もずっとやっていますし、毎回効果を感じますので気のせいではないですし、気のせいだとしても効果があって気分が晴れやかになるのならばプラシーボだとしてもそれは「プラシーボでも効果がある」と言うことなので、完全にOKだと思っています。プラシーボで効果があるのであれば、薬のような本来は毒のようなものを体に取り入れなくても効果が出ると言うことなので、むしろプラシーボで効果がある方が嬉しいです。
実際のところ、この原理としては、拾ってしまったオーラを落とすということなのでとても理にかなっていると思います。
何度も書いていますけど、自分のオーラがブワッと発散して他人のオーラと接触する場合と、他人のオーラがブワッと発散していてオーラが接触してしまう場合が基本の2パターンで、これに加えて、プカプカと浮いているオーラと接触する場合とがあります。どちらにせよ、そのオーラはとりとめのない、変なものなので祓って捨ててしまって問題ないわけです。
基本は変なオーラを拾わないのが一番ですけど、拾ってしまったのならば捨てればいいわけです。
まあ、これは神道的な解釈ではなくて、私の解釈ですが。
■神道的な解釈
神道的な解釈は「神道の神秘(山蔭 基央 著)」を読むと色々書いてあります。例えば以下の部分です。
「神霊の霊光」による祓いは、神霊を礼拝して、その聖なる波動を賜って清めを受けることであるが、これをいわば一般的にしたものが、祓い麻による修祓(しゅうばつ)である。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」
私はこの効果が神霊の霊光によるものかそうでないかまではわかりませんけど、いつも有り難く使わせて頂いております。
電車で眠くなったら座席に結界を張る
以前の話の続きです。
オーラのケーブルを切りつつ、意識すればそれは結界にもなります。
本日電車に乗っていたら、席が空いていた時は快適だったのですが人が増えてきたら何処かからエネルギーを抜かれている感じがしてきました。具体的にはちょっと眠い感じになったのですが、眠くなったらそれはエネルギーを抜かれている可能性があります。
何となくイメージできますよね。元気であればそんなに眠くはなりませんが、エネルギーがなくなってきたら回復のために眠くなるのです。
ですから、電車に座っていて急に眠くなってきた場合。それも、人が少ない時は何でもなかったのに急に眠くなったのであれば、それはエネルギーを抜かれている可能性があります。
そんな時、普通の人は何の手立てもなく抜かれるがままなのがこの世の中です。エネルギーとかオーラに関する知識がありませんからね...
エネルギーを抜かれているのならば、それはオーラのケーブルが繋がっているということですので、例えば自分が座っている座席の四方を囲んで意識の「刀」でぐるりと一周すればケーブルは切れます。
今日の場合も同様にして急に眠気がなくなりましたので、オーラのケーブルは切れたようです。
それだけでは再度ケーブルが繋がるかもしれませんので、意識して薄い壁のようなものを作って結界にしました。これは、単にそうイメージするだけで効果がある筈ですが、他の人がうまくできるかどうかは知りません。
この種のエネルギーの移動ってよく行われていることですけれども、エネルギーが枯渇している人は何かで無駄遣いしているかあるいはまた他の人に抜かれているので、エネルギーをあげてもキリがないのですよね。
エネルギーを抜かれるのを防ぐのは「分離の意識だ」っていう人もいますけど、それは相手がスピリチュアルな人の場合だけであって、この世の中はエネルギーを高めていこうとしている人とエネルギーを奪って消費しようとしている人とに二分されると思いますので、前者にエネルギーを与えるのはたまには良いですが後者に与えても無駄にするだけです。後者は、例えるならば水道の蛇口が全開になっている人、あるいは、お風呂の栓が止まっていないのにお湯を貯めようとしている人なのですから、いくらエネルギーを注ぎ込んでも抜けてしまって貯まらないのです。であれば、エネルギーを与える前に本人のエネルギーの無駄使いあるいはエネルギーの他の人への奪われを阻止してからエネルギーを注ぎ込まないと状況は良くならないですよね。ですから、私は外で見知らぬ人にエネルギーを抜かれたらすぐにオーラのケーブルを切ってエネルギーを奪われるのを阻止しているのです。エネルギーを与えるのならば意識的にしたいですし、相手が、自分の意思でエネルギー的でスピリチュアル的な成長をしていこうと思っていなければあまり意味がないように思います。
オーラのケーブルを切りつつ、意識すればそれは結界にもなります。
本日電車に乗っていたら、席が空いていた時は快適だったのですが人が増えてきたら何処かからエネルギーを抜かれている感じがしてきました。具体的にはちょっと眠い感じになったのですが、眠くなったらそれはエネルギーを抜かれている可能性があります。
何となくイメージできますよね。元気であればそんなに眠くはなりませんが、エネルギーがなくなってきたら回復のために眠くなるのです。
ですから、電車に座っていて急に眠くなってきた場合。それも、人が少ない時は何でもなかったのに急に眠くなったのであれば、それはエネルギーを抜かれている可能性があります。
そんな時、普通の人は何の手立てもなく抜かれるがままなのがこの世の中です。エネルギーとかオーラに関する知識がありませんからね...
エネルギーを抜かれているのならば、それはオーラのケーブルが繋がっているということですので、例えば自分が座っている座席の四方を囲んで意識の「刀」でぐるりと一周すればケーブルは切れます。
今日の場合も同様にして急に眠気がなくなりましたので、オーラのケーブルは切れたようです。
それだけでは再度ケーブルが繋がるかもしれませんので、意識して薄い壁のようなものを作って結界にしました。これは、単にそうイメージするだけで効果がある筈ですが、他の人がうまくできるかどうかは知りません。
この種のエネルギーの移動ってよく行われていることですけれども、エネルギーが枯渇している人は何かで無駄遣いしているかあるいはまた他の人に抜かれているので、エネルギーをあげてもキリがないのですよね。
エネルギーを抜かれるのを防ぐのは「分離の意識だ」っていう人もいますけど、それは相手がスピリチュアルな人の場合だけであって、この世の中はエネルギーを高めていこうとしている人とエネルギーを奪って消費しようとしている人とに二分されると思いますので、前者にエネルギーを与えるのはたまには良いですが後者に与えても無駄にするだけです。後者は、例えるならば水道の蛇口が全開になっている人、あるいは、お風呂の栓が止まっていないのにお湯を貯めようとしている人なのですから、いくらエネルギーを注ぎ込んでも抜けてしまって貯まらないのです。であれば、エネルギーを与える前に本人のエネルギーの無駄使いあるいはエネルギーの他の人への奪われを阻止してからエネルギーを注ぎ込まないと状況は良くならないですよね。ですから、私は外で見知らぬ人にエネルギーを抜かれたらすぐにオーラのケーブルを切ってエネルギーを奪われるのを阻止しているのです。エネルギーを与えるのならば意識的にしたいですし、相手が、自分の意思でエネルギー的でスピリチュアル的な成長をしていこうと思っていなければあまり意味がないように思います。
初見の人と接した際に自らの知らない面が出てくるのではなく自分が相手の鏡になっているだけ
先日のオーラ融合による想念受信のお話の続きです。
オーラ接触すると相手の想念が伝わってくるわけですが、例えば初見の人と接した時にふとしたことで自分が今まで思いもよらなかった考えが心に浮かんでくることがあります。
具体的には、私が数ヶ月前に少し話した女性の場合ですと、一言二言話しただけで相手の女性の悩みが伝わってきました。その女性は割と資産家らしく、お金目当ての男性がわらわらと近づいてくるようです。その悩みのオーラがブワッと私の方に降りかかってきて、私の心の中にこの女性を食い物にしている男性のイメージがポンと浮かんできたと同時にその女性も何かトラウマを思い出したように苦しみ出して少しヒステリーになったのですぐにその場を離れたのですが、これはオーラ接触によりその女性の悩みが伝わってきた例ですね。この女性はアルコール依存症のようで、まだ50歳前後だと思うのですが少し手が震えていました。お金持っていても不幸せなことがあるんですね。
オーラの基本的な知識と観察力があればこれは相手のオーラに含まれる想念だとすぐにわかるわけですけれども、そうでなくとも、それ以前あるいはその後数ヶ月経っても私は同様の思いを描いたことがありませんのでこの想念は相手の女性にまつわる物だったとわかるわけです。ですが、オーラや想念に関する知識がない人ですともしかしたら「ああ、これが私の本性なんだ」と思ってしまうかもしれません。
実のところ、ヨーガ的な「私」というのは「思い(想念)」ではありませんので、何を思おうがそれは自己の本質とは無関係なわけです。ヨーガ 的な「私」というのは純粋な観察者ですので、思いとは関係ないわけです。
ですが、一般的には「何を思うか」によって「私」が形作られています。ですから、一般的にはこのような場合に「ああ、私って実は凄く醜い人間なんだ」と思ってしまうかもしれませんが、それはヨーガ的に言えば間違いなわけです。だって、単に相手のオーラと接触してその情報が入ってきただけですから。
誤解して欲しくないのですが、「それなら、何を思ったっていいんですね。上のように女性を食い物にしていいんですね」と思う人がいらっしゃるかもしれませんが、微妙に違います。「何を思っても良い。女性を食い物にしたらそのカルマに巻き込まれますが、それも貴方の自由です。」と言ったところでしょうか。本質を理解していればわざわざそんな面倒なトラブルに巻き込まれることを選択しないとは思いますが、自分の行為のアリバイとして理屈を捏ね回したとしても、結局は自分の行為の尻拭いは自分で取るわけですから、好きにしてください、としか言いようがありません。言い訳をしても何も変わらないわけです。
誤解の話はこのくらいにして元の話に戻しますが、その女性はオーラが不安定で発散していたから周囲の他人のオーラと次々に接触していたわけですね。
オーラの働きを一度理解したならば、このようなことがあったらまず正しく理解して、その想念は自分のものではないことを理解して、あとはくよくよ考えないことです。一般人ですと「あぁ、私ってそんな人間だったんだ...」とくよくよずっと考え続けるかもしれませんが、「考える」ことによってどんどんと自分の性質がそれに近づいていきますので考え続ける方が危険です。
これらはオーラの働きとしても説明できますし、昔ながらの古典的な例えですと「鏡」だと説明されます。自分は相手を映し出す鏡だ、というわけですね。
ですが、鏡の説明は色々と誤解がありますので、私個人としては鏡よりもオーラの法則の方が説明としてしっくりきます。
オーラ接触すると相手の想念が伝わってくるわけですが、例えば初見の人と接した時にふとしたことで自分が今まで思いもよらなかった考えが心に浮かんでくることがあります。
具体的には、私が数ヶ月前に少し話した女性の場合ですと、一言二言話しただけで相手の女性の悩みが伝わってきました。その女性は割と資産家らしく、お金目当ての男性がわらわらと近づいてくるようです。その悩みのオーラがブワッと私の方に降りかかってきて、私の心の中にこの女性を食い物にしている男性のイメージがポンと浮かんできたと同時にその女性も何かトラウマを思い出したように苦しみ出して少しヒステリーになったのですぐにその場を離れたのですが、これはオーラ接触によりその女性の悩みが伝わってきた例ですね。この女性はアルコール依存症のようで、まだ50歳前後だと思うのですが少し手が震えていました。お金持っていても不幸せなことがあるんですね。
オーラの基本的な知識と観察力があればこれは相手のオーラに含まれる想念だとすぐにわかるわけですけれども、そうでなくとも、それ以前あるいはその後数ヶ月経っても私は同様の思いを描いたことがありませんのでこの想念は相手の女性にまつわる物だったとわかるわけです。ですが、オーラや想念に関する知識がない人ですともしかしたら「ああ、これが私の本性なんだ」と思ってしまうかもしれません。
実のところ、ヨーガ的な「私」というのは「思い(想念)」ではありませんので、何を思おうがそれは自己の本質とは無関係なわけです。ヨーガ 的な「私」というのは純粋な観察者ですので、思いとは関係ないわけです。
ですが、一般的には「何を思うか」によって「私」が形作られています。ですから、一般的にはこのような場合に「ああ、私って実は凄く醜い人間なんだ」と思ってしまうかもしれませんが、それはヨーガ的に言えば間違いなわけです。だって、単に相手のオーラと接触してその情報が入ってきただけですから。
誤解して欲しくないのですが、「それなら、何を思ったっていいんですね。上のように女性を食い物にしていいんですね」と思う人がいらっしゃるかもしれませんが、微妙に違います。「何を思っても良い。女性を食い物にしたらそのカルマに巻き込まれますが、それも貴方の自由です。」と言ったところでしょうか。本質を理解していればわざわざそんな面倒なトラブルに巻き込まれることを選択しないとは思いますが、自分の行為のアリバイとして理屈を捏ね回したとしても、結局は自分の行為の尻拭いは自分で取るわけですから、好きにしてください、としか言いようがありません。言い訳をしても何も変わらないわけです。
誤解の話はこのくらいにして元の話に戻しますが、その女性はオーラが不安定で発散していたから周囲の他人のオーラと次々に接触していたわけですね。
オーラの働きを一度理解したならば、このようなことがあったらまず正しく理解して、その想念は自分のものではないことを理解して、あとはくよくよ考えないことです。一般人ですと「あぁ、私ってそんな人間だったんだ...」とくよくよずっと考え続けるかもしれませんが、「考える」ことによってどんどんと自分の性質がそれに近づいていきますので考え続ける方が危険です。
これらはオーラの働きとしても説明できますし、昔ながらの古典的な例えですと「鏡」だと説明されます。自分は相手を映し出す鏡だ、というわけですね。
ですが、鏡の説明は色々と誤解がありますので、私個人としては鏡よりもオーラの法則の方が説明としてしっくりきます。
ハートに寄り添うことを妨げるトラウマ
人は誰でもトラウマがあるように思いますが、ハートに入る、あるいはハートに寄り添う時にトラウマが妨げることがあるようです。
私の場合、トラウマは次第に小さくなってきていますが未だゼロではありません。ゼロってことがあるのですかね? とも思ったりもしますが。
そのトラウマの対処法として、以前は時間をかけてネガティブな感情に向き合ったわけですけれども、最近は、トラウマが出てきたらその状態を保持したまま否定せずに味わう(?)ことでネガティブが消えていくようになりました。そろそろ本格的にトラウマがゼロになってゆく前触れかなとも思っていますけれども。以前はトラウマが出たら一旦否定の反応が反射的に自律的に出て、その後にネガティブな反応が出ていましたが、最近は、トラウマが出たら意識的に否定の反応を抑えて否定の反応が出ないようにし、トラウマの状態をあえて維持して味わうことで否定の反応なしにトラウマを味わうようにすることでトラウマを理解し、その状態を味わっているとやがて緊張がほぐれていってトラウマが解消してゆくプロセスを経験できるようになりました。
もしかしたら、これが仏教で言われている、ブッダが伝えたいわゆる「魔境」かもしれない、とも思っているわけですけれども。魔境かもしれないと言うのは仮説ですが。
このトラウマは、一般的には、ハートに入ることを妨げているようです。
ヨーガ、ヴェーダ、あるいはスピリチュアルなどではハートのいわゆるアナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)の奥には更に小さな空間があると言います。私の場合、アナハタ優勢にはなってはいるのですが、この、アナハタの中にある小さな空間、いわゆる聖なる空間に入ることができないでいます。
ハートの中に入れなかったり、入ってもそこにいられなかったりするのには理由があります。(中略)人生においてトラウマを経験した人々、なかでも特に人間関係や愛情に関して否定的な経験があると、ハートの聖なる空間に入るときに再びその痛みを味わうようです。するとその痛みがつらすぎて、そこにいることに耐えられないのです。「ハートの聖なる空間へ(ドランヴァロ メルキゼデク著)」
これは確かにそうかもしれない、と感じます。
最近は私の次の課題は何かなと探っていたのですが、ハートのこの辺りが次の課題かなあ、と思っている次第です。
私の場合、トラウマは次第に小さくなってきていますが未だゼロではありません。ゼロってことがあるのですかね? とも思ったりもしますが。
そのトラウマの対処法として、以前は時間をかけてネガティブな感情に向き合ったわけですけれども、最近は、トラウマが出てきたらその状態を保持したまま否定せずに味わう(?)ことでネガティブが消えていくようになりました。そろそろ本格的にトラウマがゼロになってゆく前触れかなとも思っていますけれども。以前はトラウマが出たら一旦否定の反応が反射的に自律的に出て、その後にネガティブな反応が出ていましたが、最近は、トラウマが出たら意識的に否定の反応を抑えて否定の反応が出ないようにし、トラウマの状態をあえて維持して味わうことで否定の反応なしにトラウマを味わうようにすることでトラウマを理解し、その状態を味わっているとやがて緊張がほぐれていってトラウマが解消してゆくプロセスを経験できるようになりました。
もしかしたら、これが仏教で言われている、ブッダが伝えたいわゆる「魔境」かもしれない、とも思っているわけですけれども。魔境かもしれないと言うのは仮説ですが。
このトラウマは、一般的には、ハートに入ることを妨げているようです。
ヨーガ、ヴェーダ、あるいはスピリチュアルなどではハートのいわゆるアナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)の奥には更に小さな空間があると言います。私の場合、アナハタ優勢にはなってはいるのですが、この、アナハタの中にある小さな空間、いわゆる聖なる空間に入ることができないでいます。
ハートの中に入れなかったり、入ってもそこにいられなかったりするのには理由があります。(中略)人生においてトラウマを経験した人々、なかでも特に人間関係や愛情に関して否定的な経験があると、ハートの聖なる空間に入るときに再びその痛みを味わうようです。するとその痛みがつらすぎて、そこにいることに耐えられないのです。「ハートの聖なる空間へ(ドランヴァロ メルキゼデク著)」
これは確かにそうかもしれない、と感じます。
最近は私の次の課題は何かなと探っていたのですが、ハートのこの辺りが次の課題かなあ、と思っている次第です。
床屋で取り憑いてきた意識体
昨日床屋に行ったとき、散髪中に急に緊張が走って顔が強張ったので周囲をぐるりと「切る」動作をしました。以前に書いたように、イメージで刀のようなものを作って、それを体の周囲に回してオーラのケーブルを切る動作です。それと、結界のようなものも意識して作ってみました。
それで多少は回復したのですが、すぐにまた元に戻ってしまいました。
久々に、この種の「顔が強張る」ほどの状態になりました。これはやばい。
そのまま帰宅したのですが、調子はそんなによくありません。
翌朝、目が覚めてみるとどうも調子が悪く、体の中で何かが詰まった感覚になっています。
最近は骨折でヨガのアサナもしていないし、何か変なものでも食べたかなぁ... カット野菜はやはり薬品漬けで良くないのかな? とか思っていたのですが、どうやら今回はそれが原因ではなさそうです。
今朝の瞑想で体の中を探ってみると、右肩から心臓のあたりに緊張と詰まりがあるように思われましたので、意識の「手」でそのあたりを探って、塊のようなものを摘んでゆっくりと右肩の方に抜いてみました。
すると、急に右肩の緊張が取れて右肩が動くようになりました。心臓のあたりの詰まりも取れてきました。
どうやら、意識体が取り憑いていたようです。 いや〜、怖い怖い。
緊張は顔に来ていたのですが、瞑想で探ってみると体の左は普通なのに対して右側、特に右肩から肘にかけての筋肉が硬っていて、それが心臓にまで到達していたのです。右肩を中心に取り付いていて、パイプのようなものを心臓に伸ばしてエネルギーを奪い取っていたようです。引き抜いたら、それ以上は抵抗することなく何処かへと去って行きました。
床屋で髪の毛を切っているときに理容師を経由して侵入したのかなあ? と推測しています。
床屋は顧客のオーラを指から吸い取りやすい、とはどこかで聞いたことがありますね。髪の毛というのはオーラの交換が起こりやすい場所なので、髪の毛を触る理容師は顧客のネガティブを受け取りやすいのだとか。
もしかしたら、顧客に取り憑いていた意識体が理容師に移って、それが私に取り憑いてきたのかもしれないですね。
床屋に行った後に具合が悪くなることが以前も度々あったのですが、今回は特に酷かったです。
意識体を引き抜いた後も右手に筋肉痛のような感覚と痺れた感覚が残っています。部屋の中に意識は感じないのでどこかに行ってしまったようですが、油断大敵ですね。久々にこの種の憑依がありました。
最近は身内の葬儀などで疲れていてヨガのアサナも瞑想もそれほどできていなかったので脇が甘くなっていたかもしれないですね。
関連:
・体のオーラに取り憑いているエネルギー体
・両肩に刺さっていた見えないものを引き抜く
それで多少は回復したのですが、すぐにまた元に戻ってしまいました。
久々に、この種の「顔が強張る」ほどの状態になりました。これはやばい。
そのまま帰宅したのですが、調子はそんなによくありません。
翌朝、目が覚めてみるとどうも調子が悪く、体の中で何かが詰まった感覚になっています。
最近は骨折でヨガのアサナもしていないし、何か変なものでも食べたかなぁ... カット野菜はやはり薬品漬けで良くないのかな? とか思っていたのですが、どうやら今回はそれが原因ではなさそうです。
今朝の瞑想で体の中を探ってみると、右肩から心臓のあたりに緊張と詰まりがあるように思われましたので、意識の「手」でそのあたりを探って、塊のようなものを摘んでゆっくりと右肩の方に抜いてみました。
すると、急に右肩の緊張が取れて右肩が動くようになりました。心臓のあたりの詰まりも取れてきました。
どうやら、意識体が取り憑いていたようです。 いや〜、怖い怖い。
緊張は顔に来ていたのですが、瞑想で探ってみると体の左は普通なのに対して右側、特に右肩から肘にかけての筋肉が硬っていて、それが心臓にまで到達していたのです。右肩を中心に取り付いていて、パイプのようなものを心臓に伸ばしてエネルギーを奪い取っていたようです。引き抜いたら、それ以上は抵抗することなく何処かへと去って行きました。
床屋で髪の毛を切っているときに理容師を経由して侵入したのかなあ? と推測しています。
床屋は顧客のオーラを指から吸い取りやすい、とはどこかで聞いたことがありますね。髪の毛というのはオーラの交換が起こりやすい場所なので、髪の毛を触る理容師は顧客のネガティブを受け取りやすいのだとか。
もしかしたら、顧客に取り憑いていた意識体が理容師に移って、それが私に取り憑いてきたのかもしれないですね。
床屋に行った後に具合が悪くなることが以前も度々あったのですが、今回は特に酷かったです。
意識体を引き抜いた後も右手に筋肉痛のような感覚と痺れた感覚が残っています。部屋の中に意識は感じないのでどこかに行ってしまったようですが、油断大敵ですね。久々にこの種の憑依がありました。
最近は身内の葬儀などで疲れていてヨガのアサナも瞑想もそれほどできていなかったので脇が甘くなっていたかもしれないですね。
関連:
・体のオーラに取り憑いているエネルギー体
・両肩に刺さっていた見えないものを引き抜く
トラウマは向き合うことで消える
先日の続きです。
トラウマは否定せずに味わうと消える、というお話でしたけれども、プレアデスのワークの中にも似たようなお話しが書いてありました。
つらく感じたときには、それを無理に追い払おうとしないで、その気持ちと一緒にいてあげることが大切なの。うんと深く呼吸して、もっとその気持ちを感じるようにしてごらんなさい。すると本当に魔法のように、数分後に突然そのつらい気持ちがなくなって、いつ消えてしまったのかもわからないくらいよ。(中略)だけど、そのつらい気持ちが消えてなくなるまで十分に感じてあげなければ、それはそのまま身体の奥深くに居すわって、あなたたちが気がついてくれるのをずっと待ちつづけるわ。だから、それが戻ってくるのをこわがっているよりも、いま感じてあげるほうがいいのよ。「プレアデス覚醒への道(アモラ・クァン・イン著)」
これは、スピリチュアルなワークであることはもちろんですが、同書によればむしろ「瞑想」の一部として紹介されています。
ヨーガ的な瞑想においては雑念の観察が重視されていて、「雑念は重視せず、受け答えせず、受け流す」というのが基本ですが、プレアデス系では観察というよりも「味わう」という感情面に重きが置かれている印象を受けます。表現を変えれば「癒し」ということにもなりますが、「癒し」にはヨーガ的な「観察」が基本として横たわっているような気が致しますし、逆に、ヨーガ的な「観察」の根底には「癒し」といいますかヨーガ的には「パワー」「エネルギー」と言うべきポジティブな力が横たわっていて、言葉こそ違ども、「癒し(パワー、エネルギー)」と「観察」とは密接な関係があるのだな、と思いました。流派によって重視すべきところは違えども、それはその流派の気質の違いによるもので、基本はどちらも一緒なのかなと思いました。
流派によりますが一部のヨーガあるいは一部のスピリチュアルでは「観察」のみに重点を置いている気がしないでもありませんし、逆に、一部の流派は「癒し」あるいは「エネルギー」に重点を置きすぎている場合もあるように思いますが、その重点に目をとられて基本を押さえていないと先には進めないのかな、と言う気が致しました。
「観察」のみをしていてエネルギー不足でしたら成長しにくそうですし、エネルギーを高めても「観察」が不足していたらそのエネルギーの使い方に無理・無駄・ムラが生じて転んでしまいそうです。
両方大事ですね。
外から眺めただけですので勘違いかもしれませんが、例えばヴィパッサナー瞑想の一部の流派は観察重視のような気も致しますし、クリヤヨガの一部の流派はエネルギー重視のような気が致します。
余談になりますが、クリアヨガはヨガの中でも特殊で、瞑想の観察や集中ということには重きをおかず、エネルギーを高めれば良いというスタンスが特徴的です。クリアヨガは流派が分裂していて色々ありますので全てがそうかはわかりませんが。
スピリチュアルでは「癒し」と言う観点からエネルギー・ワークが突出している流派が多い気も致します。
それぞれの特徴がありますので自分に合ったところを選べば良いのかなとは思いますが、それでも、基本は「観察」と「エネルギー」かな、と最近は思います。そもそも対比するものでもない気もしますしね。どっちを選ぶとか、そう言うものではない筈なのに、何故か分離して見えてしまっていますね。両方大切だと思います。
トラウマの話に戻しますが、トラウマは「観察」だけでは消えず、「エネルギー(癒し)」だけでも消えず、「観察」と「エネルギー(癒し)」の両方があって初めて消えるのかな、とそう思います。
個人的な経験で言いますと、すぐに1回の瞑想で消えるような軽いものはトラウマとは言わない気が致します。トラウマのうち少しを味わって消して、次の瞑想でまた少し味わって消して、を繰り返すのかなと思います。
ちょっとしたわだかまりであれば瞑想中にちょっとこの種のワークをすれば消えてしまいます。
本来は、可能であれば子供の頃からこのようなワークに親しんでトラウマをそれほど溜め込まないのがいいかとは思います。
トラウマは否定せずに味わうと消える、というお話でしたけれども、プレアデスのワークの中にも似たようなお話しが書いてありました。
つらく感じたときには、それを無理に追い払おうとしないで、その気持ちと一緒にいてあげることが大切なの。うんと深く呼吸して、もっとその気持ちを感じるようにしてごらんなさい。すると本当に魔法のように、数分後に突然そのつらい気持ちがなくなって、いつ消えてしまったのかもわからないくらいよ。(中略)だけど、そのつらい気持ちが消えてなくなるまで十分に感じてあげなければ、それはそのまま身体の奥深くに居すわって、あなたたちが気がついてくれるのをずっと待ちつづけるわ。だから、それが戻ってくるのをこわがっているよりも、いま感じてあげるほうがいいのよ。「プレアデス覚醒への道(アモラ・クァン・イン著)」
これは、スピリチュアルなワークであることはもちろんですが、同書によればむしろ「瞑想」の一部として紹介されています。
ヨーガ的な瞑想においては雑念の観察が重視されていて、「雑念は重視せず、受け答えせず、受け流す」というのが基本ですが、プレアデス系では観察というよりも「味わう」という感情面に重きが置かれている印象を受けます。表現を変えれば「癒し」ということにもなりますが、「癒し」にはヨーガ的な「観察」が基本として横たわっているような気が致しますし、逆に、ヨーガ的な「観察」の根底には「癒し」といいますかヨーガ的には「パワー」「エネルギー」と言うべきポジティブな力が横たわっていて、言葉こそ違ども、「癒し(パワー、エネルギー)」と「観察」とは密接な関係があるのだな、と思いました。流派によって重視すべきところは違えども、それはその流派の気質の違いによるもので、基本はどちらも一緒なのかなと思いました。
流派によりますが一部のヨーガあるいは一部のスピリチュアルでは「観察」のみに重点を置いている気がしないでもありませんし、逆に、一部の流派は「癒し」あるいは「エネルギー」に重点を置きすぎている場合もあるように思いますが、その重点に目をとられて基本を押さえていないと先には進めないのかな、と言う気が致しました。
「観察」のみをしていてエネルギー不足でしたら成長しにくそうですし、エネルギーを高めても「観察」が不足していたらそのエネルギーの使い方に無理・無駄・ムラが生じて転んでしまいそうです。
両方大事ですね。
外から眺めただけですので勘違いかもしれませんが、例えばヴィパッサナー瞑想の一部の流派は観察重視のような気も致しますし、クリヤヨガの一部の流派はエネルギー重視のような気が致します。
余談になりますが、クリアヨガはヨガの中でも特殊で、瞑想の観察や集中ということには重きをおかず、エネルギーを高めれば良いというスタンスが特徴的です。クリアヨガは流派が分裂していて色々ありますので全てがそうかはわかりませんが。
スピリチュアルでは「癒し」と言う観点からエネルギー・ワークが突出している流派が多い気も致します。
それぞれの特徴がありますので自分に合ったところを選べば良いのかなとは思いますが、それでも、基本は「観察」と「エネルギー」かな、と最近は思います。そもそも対比するものでもない気もしますしね。どっちを選ぶとか、そう言うものではない筈なのに、何故か分離して見えてしまっていますね。両方大切だと思います。
トラウマの話に戻しますが、トラウマは「観察」だけでは消えず、「エネルギー(癒し)」だけでも消えず、「観察」と「エネルギー(癒し)」の両方があって初めて消えるのかな、とそう思います。
個人的な経験で言いますと、すぐに1回の瞑想で消えるような軽いものはトラウマとは言わない気が致します。トラウマのうち少しを味わって消して、次の瞑想でまた少し味わって消して、を繰り返すのかなと思います。
ちょっとしたわだかまりであれば瞑想中にちょっとこの種のワークをすれば消えてしまいます。
本来は、可能であれば子供の頃からこのようなワークに親しんでトラウマをそれほど溜め込まないのがいいかとは思います。
右腕に絡まっていた見えないものを引き抜く
ここしばらく右腕に緊張がありましたので瞑想中に右腕を探ってみまして、右腕に絡まっている強張っているものを引っ張り出したら緊張がほぐれました。
これは何かの憑依なのかそれともネガティブなものが絡みついていたのか、そこのあたりはよくわかりません。いつしかにも同じように右腕から心臓にかけて何かが憑依していたのを引き抜いたことがあったのですが、その時よりは傷が浅いです。その時は心臓にまで触覚のようなものが到達していましたが、今回は右腕だけでした。
引き抜いた後、その傷口を意識の糸で縫うようにしたら傷口のあたりのオーラが安定しました。縫う時は、ピリピリした感覚があって痺れていました。
その後しばらく右腕が不自由で、痺れの感覚が数日は続いていたかと思います。
引き抜いた翌日は大分良くなりまして、数日経過したらほぼ回復。1週間くらいしたらほぼ普通に戻りました。
それでも、左腕と比べますと左腕はオーラがかなり安定しているのに対し、右腕は左腕ほどは安定していません。
今まであまり気にしておりませんでしたが、オーラの状態を全身細かくチェックするようなことを定期的にした方が良いかもしれないですね。
おそらくはオーラに亀裂が入っていて何かの意識体かネガティブなオーラが入り込みやすい状態になっていたのかなという気がしていますので。
これは何かの憑依なのかそれともネガティブなものが絡みついていたのか、そこのあたりはよくわかりません。いつしかにも同じように右腕から心臓にかけて何かが憑依していたのを引き抜いたことがあったのですが、その時よりは傷が浅いです。その時は心臓にまで触覚のようなものが到達していましたが、今回は右腕だけでした。
引き抜いた後、その傷口を意識の糸で縫うようにしたら傷口のあたりのオーラが安定しました。縫う時は、ピリピリした感覚があって痺れていました。
その後しばらく右腕が不自由で、痺れの感覚が数日は続いていたかと思います。
引き抜いた翌日は大分良くなりまして、数日経過したらほぼ回復。1週間くらいしたらほぼ普通に戻りました。
それでも、左腕と比べますと左腕はオーラがかなり安定しているのに対し、右腕は左腕ほどは安定していません。
今まであまり気にしておりませんでしたが、オーラの状態を全身細かくチェックするようなことを定期的にした方が良いかもしれないですね。
おそらくはオーラに亀裂が入っていて何かの意識体かネガティブなオーラが入り込みやすい状態になっていたのかなという気がしていますので。
とある食用豚さんの呪いと成仏
ある時、食用で飼育されて殺されて食べられてしまう豚さんはどんな気持ちなのかなあ... と思っていたら夢だったか瞑想中だったか、豚さんの姿をかなり前に見たことを思い出しました。
なんで今更思い出したのかな... と思ったのですが、少しメモ的に書いておくことにします。
豚さんは、よく知られているように綺麗好きです。飼育小屋ではストレスが高くて、最終的に捕まえられて屠殺されて食べられてしまいます。
夢だったか瞑想中でしたか、とある豚さんの魂を眺めていたら、やはり飼育小屋ではストレスのある黒いオーラを発していて、屠殺された時は屠殺人を凄く恨んで黒いオーラのままあの世に旅立ったわけですが、恨みの気持ちと、自分の体がどうなってしまうのだろう... という疑問があったのでその豚さんは成仏できなくて、地上を漂っていたようです。その豚さんは、自分を食べてしまう人を呪ってやろうとまで思っていたようです。動物と言っても、そのくらいのことは考えるようです。
豚さんは屠殺人をまず強く呪い、次に、肉屋さんを少し呪い、更には、自分を食べようとする人を呪おうとしました。
ある日、豚さんの魂が肉屋の空中に漂って呪いの準備をしつつ、自分を買おうとしている人を待っていました。
すると、やがて、家族連れがやって来ました。
その家族は、豚さんの呪う気持ちとは裏腹に、とても嬉しそうに喜びながら談笑して自分の肉を選んで買っていました。これから家に帰って楽しく食べるようです。
それを見た豚さんは、恨みの気持ちが若干弱まりました。恨みの気持ちは完全には解けないものの、こんなに喜んで自分を食べてくれるなら、まあ、いいか... という気持ちになって成仏できたのです。
これは、全ての豚さんの魂がこのように成仏できるとは思いませんが、私がたまたま見たのがこのような豚さんの魂でした。おそらくは成仏できなくて人間に恨みを持っている豚さんの魂も地上に多く漂っていることと思いますが、そのような未浄化の豚さんがどの程度いるかまではわかりません。この状況から察するに、苦しんで死んだ豚さんのお肉には多少なりとも呪いの念が染み込んでいると思われますので、あまり食べない方がいい気が致します。
なんで今更思い出したのかな... と思ったのですが、少しメモ的に書いておくことにします。
豚さんは、よく知られているように綺麗好きです。飼育小屋ではストレスが高くて、最終的に捕まえられて屠殺されて食べられてしまいます。
夢だったか瞑想中でしたか、とある豚さんの魂を眺めていたら、やはり飼育小屋ではストレスのある黒いオーラを発していて、屠殺された時は屠殺人を凄く恨んで黒いオーラのままあの世に旅立ったわけですが、恨みの気持ちと、自分の体がどうなってしまうのだろう... という疑問があったのでその豚さんは成仏できなくて、地上を漂っていたようです。その豚さんは、自分を食べてしまう人を呪ってやろうとまで思っていたようです。動物と言っても、そのくらいのことは考えるようです。
豚さんは屠殺人をまず強く呪い、次に、肉屋さんを少し呪い、更には、自分を食べようとする人を呪おうとしました。
ある日、豚さんの魂が肉屋の空中に漂って呪いの準備をしつつ、自分を買おうとしている人を待っていました。
すると、やがて、家族連れがやって来ました。
その家族は、豚さんの呪う気持ちとは裏腹に、とても嬉しそうに喜びながら談笑して自分の肉を選んで買っていました。これから家に帰って楽しく食べるようです。
それを見た豚さんは、恨みの気持ちが若干弱まりました。恨みの気持ちは完全には解けないものの、こんなに喜んで自分を食べてくれるなら、まあ、いいか... という気持ちになって成仏できたのです。
これは、全ての豚さんの魂がこのように成仏できるとは思いませんが、私がたまたま見たのがこのような豚さんの魂でした。おそらくは成仏できなくて人間に恨みを持っている豚さんの魂も地上に多く漂っていることと思いますが、そのような未浄化の豚さんがどの程度いるかまではわかりません。この状況から察するに、苦しんで死んだ豚さんのお肉には多少なりとも呪いの念が染み込んでいると思われますので、あまり食べない方がいい気が致します。
首都圏イヤシロチ計画
ここ数ヶ月、何度か首都圏イヤシロチ計画を進めるように内なる存在から促されてます。イヤシロチとは平たく言えばパワースポットのことですが、首都圏をパワースポットにする計画があるようです。
自主的に一人でも進める、という意味合いと、大いなる意思に参賀するように、という意味合いが半々のようです。
おそらくいつもの内なるガイドとは別の存在で、グループソウルの一部の意志のようなのですが、それは集合意識ですので「私が行う」と「私達が行う」のと同一であるという意識による意志です。
ですから、私が首都圏イヤシロチ計画を行う、とも言えれば、私達が首都圏イヤシロチ計画を行う、とも言えて、内容的には同一なのです。
具体的には何をすれば良いのかというと、通勤路あるいは良く行く場所に光の柱を天から降ろして建てて、日々の祈りや感謝でそれを育てるのが第一弾のようです。
それは動いていても良いようで、電車でも良いみたいです。
基本的には駅が最初のターゲットで、駅に作る光の柱で人々を癒やすのが目的の1つですが、イヤシロチが本格的に起動したら線路が龍脈のような役割をして、魔法陣を作れるとのことです。
線路はもともとその意図で作られていないにしても、結界や法術を起動させるエネルギー・ルートの一部になり得るようです。
もともと京都や東京には寺院による結界・魔法陣が作られていますから、近代の鉄道ルートをそのまま利用した首都圏イヤシロチ計画はなかなか面白そうな話ですね。
とりあえず私は通勤路やよく行く場所で光の柱を建ててみたいと思いますが、平行世界にいる私のグループソウルならちゃんとできますけど私はそんなにうまくできませんので、この世界(タイムライン)におけるセンサーと位置を示す為のポインター役からスタートかなあ、という感じです。
古典的には神社や寺院がそのような光の柱を降ろす場所として使われておりましたが、最近はうまく機能していたりしていなかったりするようです。それと、今回の計画を意図している意識体と古くから神社や寺院でイヤシロチ化を行っていた意識体とはちょっと違うようですので、古来のイヤシロチではなく新たな魔法陣を作ろう、という意図があるようです。
それはべつに対立しているというわけではなく、新たな時代に向けた実験のような位置付けでもあるようです。
例えば新宿駅や原宿駅、渋谷駅などがイヤシロチ化することを目指しています。
既に十数年前と比べては随分と浄化されてきておりますが、これから本格的に光の柱を立てていくというのが大いなる意志のようです。
これは最初の柱を立てるのが難易度が高いですが、既に立っている柱を強化するのは割と誰でもできることなので協力してほしい、とのことです。
私の過去生とパラレルワールドの記憶を辿ってみますと、まず、自分のクンダリーニ覚醒を基本にして天からのエネルギーと繋がることで自分という地点と天との光の柱は作り上げることができます。ですが、それは自分という地点に対する光の柱でしかなくて、今回はとある場所に光の柱を作ることになるわけですけれども、自分の光の柱を作ることができる人が自分から光を分岐させて天に伸ばして、天から近くの地点にグイッと光の柱を分岐させることで好きな場所に光の柱を打ち立ててイヤシロチ化することができます。
その光の柱は、自分の光の柱を分離させて作ることもできますし、あるいは、根本自体をちょっと離れた場所を起点にして天からエネルギーを降ろすこともできます。
この光の柱の根本の先がどうなっているのか、そこのところはよく分かりません。おそらくは大いなる存在、いわゆるハイヤーセルフ、あるいはハイヤーセルフ以上の存在などと繋がっているのかな、と推測しております。
その光の柱をまずは鉄道駅に何本も作るのが最初の目標で、それにより、駅を通るだけで人々が浄化されて活性化してゆきます。
駅がある程度浄化されれば、駅を通る電車やそれに乗る人によって線路が龍脈のようにエネルギー・ルートになり、魔法陣を形作ってゆきます。
その光の柱を最初から作るのは難易度が高いので、駅などで光の柱っぽいものを感じたら、それに同調して、育てていってほしい、とのことです。具体的には、立ち止まらなくても良いので少し祈りを捧げるとか、心の静寂を思い出すとか、光の柱をイメージするとか、キリスト教徒であれば十字を切るとか、仏教徒であれば祈るとか、なんでも構わないので、光の柱を強化する意図を日々の活動に取り入れてほしい、とのことでした。できる範囲でやれば良いようです。
目的は「首都圏」だけのイヤシロチ化ではなくてもっと大きな範囲がターゲットで、首都圏はその一部のようです。
自主的に一人でも進める、という意味合いと、大いなる意思に参賀するように、という意味合いが半々のようです。
おそらくいつもの内なるガイドとは別の存在で、グループソウルの一部の意志のようなのですが、それは集合意識ですので「私が行う」と「私達が行う」のと同一であるという意識による意志です。
ですから、私が首都圏イヤシロチ計画を行う、とも言えれば、私達が首都圏イヤシロチ計画を行う、とも言えて、内容的には同一なのです。
具体的には何をすれば良いのかというと、通勤路あるいは良く行く場所に光の柱を天から降ろして建てて、日々の祈りや感謝でそれを育てるのが第一弾のようです。
それは動いていても良いようで、電車でも良いみたいです。
基本的には駅が最初のターゲットで、駅に作る光の柱で人々を癒やすのが目的の1つですが、イヤシロチが本格的に起動したら線路が龍脈のような役割をして、魔法陣を作れるとのことです。
線路はもともとその意図で作られていないにしても、結界や法術を起動させるエネルギー・ルートの一部になり得るようです。
もともと京都や東京には寺院による結界・魔法陣が作られていますから、近代の鉄道ルートをそのまま利用した首都圏イヤシロチ計画はなかなか面白そうな話ですね。
とりあえず私は通勤路やよく行く場所で光の柱を建ててみたいと思いますが、平行世界にいる私のグループソウルならちゃんとできますけど私はそんなにうまくできませんので、この世界(タイムライン)におけるセンサーと位置を示す為のポインター役からスタートかなあ、という感じです。
古典的には神社や寺院がそのような光の柱を降ろす場所として使われておりましたが、最近はうまく機能していたりしていなかったりするようです。それと、今回の計画を意図している意識体と古くから神社や寺院でイヤシロチ化を行っていた意識体とはちょっと違うようですので、古来のイヤシロチではなく新たな魔法陣を作ろう、という意図があるようです。
それはべつに対立しているというわけではなく、新たな時代に向けた実験のような位置付けでもあるようです。
例えば新宿駅や原宿駅、渋谷駅などがイヤシロチ化することを目指しています。
既に十数年前と比べては随分と浄化されてきておりますが、これから本格的に光の柱を立てていくというのが大いなる意志のようです。
これは最初の柱を立てるのが難易度が高いですが、既に立っている柱を強化するのは割と誰でもできることなので協力してほしい、とのことです。
私の過去生とパラレルワールドの記憶を辿ってみますと、まず、自分のクンダリーニ覚醒を基本にして天からのエネルギーと繋がることで自分という地点と天との光の柱は作り上げることができます。ですが、それは自分という地点に対する光の柱でしかなくて、今回はとある場所に光の柱を作ることになるわけですけれども、自分の光の柱を作ることができる人が自分から光を分岐させて天に伸ばして、天から近くの地点にグイッと光の柱を分岐させることで好きな場所に光の柱を打ち立ててイヤシロチ化することができます。
その光の柱は、自分の光の柱を分離させて作ることもできますし、あるいは、根本自体をちょっと離れた場所を起点にして天からエネルギーを降ろすこともできます。
この光の柱の根本の先がどうなっているのか、そこのところはよく分かりません。おそらくは大いなる存在、いわゆるハイヤーセルフ、あるいはハイヤーセルフ以上の存在などと繋がっているのかな、と推測しております。
その光の柱をまずは鉄道駅に何本も作るのが最初の目標で、それにより、駅を通るだけで人々が浄化されて活性化してゆきます。
駅がある程度浄化されれば、駅を通る電車やそれに乗る人によって線路が龍脈のようにエネルギー・ルートになり、魔法陣を形作ってゆきます。
その光の柱を最初から作るのは難易度が高いので、駅などで光の柱っぽいものを感じたら、それに同調して、育てていってほしい、とのことです。具体的には、立ち止まらなくても良いので少し祈りを捧げるとか、心の静寂を思い出すとか、光の柱をイメージするとか、キリスト教徒であれば十字を切るとか、仏教徒であれば祈るとか、なんでも構わないので、光の柱を強化する意図を日々の活動に取り入れてほしい、とのことでした。できる範囲でやれば良いようです。
目的は「首都圏」だけのイヤシロチ化ではなくてもっと大きな範囲がターゲットで、首都圏はその一部のようです。
日常生活のヴィパッサナー瞑想で体の緊張に気付いて解除する
普段の生活でなるべくヴィパッサナー状態を保つように心がけて生活していたところ、細かな体の緊張に良く気がつくようになりました。
私はヨガのアサナ(体操)が苦手な方なのですが、もしかしたら、この日常の緊張が理由で体が硬くなっているのかもしれません。
まだ変化は見て取れませんが、ひとまず、緊張に気がついたら意図的に力を抜いてあげるようにしています。
一説にはこの種の緊張は過去の記憶やトラウマなどが筋肉や奥深いところ、ヨーガで言うところのサムスカーラという「印象」に深く染み込んでいて、それが緊張に現れると言います。ですから、本来はその大元に向き合う必要があるにはあるのですが、それはそれとしても、ひとまず筋肉の緊張は気づいたら取り除くようにしています。
ちょっと前まではこれほど自分の緊張に気付いていませんでしたが、ヴィパッサナー状態になるとかなり自分の状態が日常的に見えてきますね。この種の緊張の意図的な解除をしばらく続けてみて、ヨガのアサナ(体操)に変化が起きるかどうか観察してみたいと思います。
これは別にアサナ(体操)のためにしているわけではなくて、気付いたから解除する、という単純なお話です。緊張がほぐれてアサナ(体操)がうまくできるようになるというのは補助的な副次効果のお話ですね。
同じ場所であっても何度も何度も緊張の解除をしないといけない感じです。一度解除しても少しすると無意識で緊張が強まっていますので再度解除して... の繰り返しのような感じですね。でも、何度か解除しているとほんの少し筋肉が柔らかくなったようなそうでもないような...? これは続けてみてどう変化するか様子見するような感じですね。
私はヨガのアサナ(体操)が苦手な方なのですが、もしかしたら、この日常の緊張が理由で体が硬くなっているのかもしれません。
まだ変化は見て取れませんが、ひとまず、緊張に気がついたら意図的に力を抜いてあげるようにしています。
一説にはこの種の緊張は過去の記憶やトラウマなどが筋肉や奥深いところ、ヨーガで言うところのサムスカーラという「印象」に深く染み込んでいて、それが緊張に現れると言います。ですから、本来はその大元に向き合う必要があるにはあるのですが、それはそれとしても、ひとまず筋肉の緊張は気づいたら取り除くようにしています。
ちょっと前まではこれほど自分の緊張に気付いていませんでしたが、ヴィパッサナー状態になるとかなり自分の状態が日常的に見えてきますね。この種の緊張の意図的な解除をしばらく続けてみて、ヨガのアサナ(体操)に変化が起きるかどうか観察してみたいと思います。
これは別にアサナ(体操)のためにしているわけではなくて、気付いたから解除する、という単純なお話です。緊張がほぐれてアサナ(体操)がうまくできるようになるというのは補助的な副次効果のお話ですね。
同じ場所であっても何度も何度も緊張の解除をしないといけない感じです。一度解除しても少しすると無意識で緊張が強まっていますので再度解除して... の繰り返しのような感じですね。でも、何度か解除しているとほんの少し筋肉が柔らかくなったようなそうでもないような...? これは続けてみてどう変化するか様子見するような感じですね。
両肩に刺さっていた見えないものを引き抜く
以前にも似たようなことがありましたけど、今回も、不意に意識に緊張が走って肩や頭の緊張が抜けなくなりました。ここ最近は体の感覚を観察してスローモーションのヴィパッサナー瞑想を行うなどしておりましたが、そのヴィパッサナー状態も解除されてしまいました。
ヴィパッサナー状態になったからと言ってこの種の緊張と無縁になるわけではないようです。
瞑想で意識を統一しようかな... と最初は思いましたが、特に意識が乱れているというわけではありませんのでそれはちょっと違うなと思い、代わりに体を観察しましたところ、両肩、特に右肩とうなじの中間くらいに大きな何かが刺さっているような気がいたしましたので、前回は瞑想中に取り除きましたけど今回は椅子で意識を保ったままそのあたりにある”なにか”を引き抜いたところ、急に右肩の緊張が取れてきました。
どうやら、何かの意識体の塊かトゲのようなものが刺さっていたような感じです。
以前に右腕に絡まっていた見えないものを引き抜くことをした際はおそらく何かの意識体が刺さってエネルギーの吸血状態になっていたのですが、今回は吸血状態というわけではなく、ただ単に、意識の何かが刺さってしまったので引き抜いた、という感じです。
もともと私は右側のオーラのガードが弱くて、左肩よりも右肩の方が影響を受けやすいのです。
これは、私に対しての念かなと最初は思ったのですが、どうも、ただ単にそこらへんにぷかぷか浮いていた見えないトゲがぶつかってオーラが怪我してしまった、という感じのような気が致します。
そのトゲは誰かが作り出した残存物に過ぎないのですが、ぶつかるとこうして被害を被るようです。というか、昔からよくぶつかって被害受けていました。
霊視できればそういう障害物とかは避けられると思うのですけど、今生の私はまだ見れないです。
定期的にこういう被害を受けていますのでその度に引き抜いて治療しています。
今回のことを踏まえますと、具合が悪くなったら以下のように対処が必要のように思います。
0.肉体の問題かどうか確認します。肉体の問題の場合は普通に対処。
1.まず、体に見えない何かが刺さっていないか確認する。具体的には、体が極度に緊張しているところを探す。
2.体の極度の緊張を確認したら、目に見えない自分の「手」を使って緊張しているあたりを「つまんで」引っ張る。うまく行けば何かの塊が抜けてゆくような感覚がします。オーラを吸引している吸血性の意識体であれば触手を奥深くのチャクラまで伸ばしているかもしれませんので触手が千切れないようにゆっくりと引き抜きます。
3.引き抜いたら、オーラがその部分だけ損傷しているので団子や粘土を丸めてくっつけるようなイメージでオーラの裂け目を修復します。目に見えない自分の「手」を使うとやりやすいかもしれません。
このようにまずはオーラを整えないとヴィパッサナー状態に入れないような気がいたします。
極度の緊張が取れたらスローモーション的に認識するヴィパッサナー状態になって、以下を確認します。
4.体を日常的に観察して緊張が現れたらすぐに気づく。
5.気付いた緊張を意識的に解除してリラックスする。
ヴィパッサナー状態に入れるかどうかはともかくとして、その前段階はやってみさえすれば割と誰でもできる気が致します。
このようなことって、可能なのだということを誰も言ってくれないので誰もやっていないだけで、具合が悪くなったらその部分を上記のように手当てしてあげると良いと思います。
もちろん、肉体の怪我や病気や不調もありますので全部がこれで治るわけではありません。
この種の具合の悪さは分かる人にはわかる筈で、これを読んで「ああ、あれのことか」とわかるのであればやってみれば良いし、何のことかわからなければスルーするのがいいと思います。
割と簡単なことでも、こうすれば良い、ということを知らないが故にエネルギー・ヴァンパイアに長い間ずっとエネルギーを吸われ続けて具合を悪くしている人がこの世界には割と多くいらっしゃる気が致します。
関連:
・体のオーラに取り憑いているエネルギー体
・床屋で取り憑いてきた意識体
ヴィパッサナー状態になったからと言ってこの種の緊張と無縁になるわけではないようです。
瞑想で意識を統一しようかな... と最初は思いましたが、特に意識が乱れているというわけではありませんのでそれはちょっと違うなと思い、代わりに体を観察しましたところ、両肩、特に右肩とうなじの中間くらいに大きな何かが刺さっているような気がいたしましたので、前回は瞑想中に取り除きましたけど今回は椅子で意識を保ったままそのあたりにある”なにか”を引き抜いたところ、急に右肩の緊張が取れてきました。
どうやら、何かの意識体の塊かトゲのようなものが刺さっていたような感じです。
以前に右腕に絡まっていた見えないものを引き抜くことをした際はおそらく何かの意識体が刺さってエネルギーの吸血状態になっていたのですが、今回は吸血状態というわけではなく、ただ単に、意識の何かが刺さってしまったので引き抜いた、という感じです。
もともと私は右側のオーラのガードが弱くて、左肩よりも右肩の方が影響を受けやすいのです。
これは、私に対しての念かなと最初は思ったのですが、どうも、ただ単にそこらへんにぷかぷか浮いていた見えないトゲがぶつかってオーラが怪我してしまった、という感じのような気が致します。
そのトゲは誰かが作り出した残存物に過ぎないのですが、ぶつかるとこうして被害を被るようです。というか、昔からよくぶつかって被害受けていました。
霊視できればそういう障害物とかは避けられると思うのですけど、今生の私はまだ見れないです。
定期的にこういう被害を受けていますのでその度に引き抜いて治療しています。
今回のことを踏まえますと、具合が悪くなったら以下のように対処が必要のように思います。
0.肉体の問題かどうか確認します。肉体の問題の場合は普通に対処。
1.まず、体に見えない何かが刺さっていないか確認する。具体的には、体が極度に緊張しているところを探す。
2.体の極度の緊張を確認したら、目に見えない自分の「手」を使って緊張しているあたりを「つまんで」引っ張る。うまく行けば何かの塊が抜けてゆくような感覚がします。オーラを吸引している吸血性の意識体であれば触手を奥深くのチャクラまで伸ばしているかもしれませんので触手が千切れないようにゆっくりと引き抜きます。
3.引き抜いたら、オーラがその部分だけ損傷しているので団子や粘土を丸めてくっつけるようなイメージでオーラの裂け目を修復します。目に見えない自分の「手」を使うとやりやすいかもしれません。
このようにまずはオーラを整えないとヴィパッサナー状態に入れないような気がいたします。
極度の緊張が取れたらスローモーション的に認識するヴィパッサナー状態になって、以下を確認します。
4.体を日常的に観察して緊張が現れたらすぐに気づく。
5.気付いた緊張を意識的に解除してリラックスする。
ヴィパッサナー状態に入れるかどうかはともかくとして、その前段階はやってみさえすれば割と誰でもできる気が致します。
このようなことって、可能なのだということを誰も言ってくれないので誰もやっていないだけで、具合が悪くなったらその部分を上記のように手当てしてあげると良いと思います。
もちろん、肉体の怪我や病気や不調もありますので全部がこれで治るわけではありません。
この種の具合の悪さは分かる人にはわかる筈で、これを読んで「ああ、あれのことか」とわかるのであればやってみれば良いし、何のことかわからなければスルーするのがいいと思います。
割と簡単なことでも、こうすれば良い、ということを知らないが故にエネルギー・ヴァンパイアに長い間ずっとエネルギーを吸われ続けて具合を悪くしている人がこの世界には割と多くいらっしゃる気が致します。
関連:
・体のオーラに取り憑いているエネルギー体
・床屋で取り憑いてきた意識体
卵が うらめしや〜 と叫んだ
とある日、卵を割ったら黄色い黄身の向こう側に「ひよこ」の姿がうっすらと見えた気がして、それと同時に恨みと呪いの念が卵の殻の中から見えない煙のように出てきて「うらめしや〜」と言っているような気がして、ゾッとしました。
ううう。今まで卵はあまり気にせず食べていたのですが、今後、ちょっと食べにくくなってしまいました。
お肉は食べる量を減らしていたわけですけれども、それでも、卵はあまり気にせずに食べていました。栄養分ありますし、お肉の栄養の代わりに卵で取ろうと思っていたわけです。しかし、今回その卵にも「うらめしや〜」と叫ばれてしまいましたので、ますます食べ物の選択に困る事態になってしまいそうです。思い出すだけでちょとしたトラウマになりそうです。
これ、安い卵だからこんななのでしょうかね・・・。高い卵は違うのでしょうかね・・・。そう言うのは多少あるかもしれませんね。ぎゅうぎゅう詰めで暮らす親鳥のストレスの気持ちが卵にまず植え付けられて、卵それ自体にしても生まれることができずにそのまま食べられてしまうのですから、恨みもしそうです。
お肉はかなり微妙で牛肉はマシですが鶏肉も物によっては酷くて豚肉は全然ダメなことが多いです。ですから選択肢がない時を除いてお肉はあまり食べないのですが、卵は食べていたのです。
植物にしても、実は植物にも命があって包丁で切られる時に「痛い痛い」と言っている気がして、食べた時に微妙な感じを受けることがあります。
アナハタが優勢になって以降、植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むようになってしまったわけですけれども、お肉だけでなく植物を食べても微妙に感じることがあって、普通に食べる分には割と大丈夫なのですが、スーパーで並べられている植物を見ると痛ましく思うこともあります。
ですから・・・、何を食べたらいいのか、最近は選択に困ります。
ベジタリアンがいいのかと思えば実際、上記のようにそう言う単純なお話ではないことがわかります。お肉は一番悪いですが、ベジタリアンがいいのかと言えば必ずしもそうではないようなのです。
これは、日本の栽培の仕方にもよるのかもしれませんし、有機栽培などでは違うのかもしれませんし、同じ有機栽培でも農地によっても異なるのかもしれません。農法は同じでも育てる人が違えば味と言いますかオーラは変わってくると言うのは理にかなっています。
植物にもオーラがあるようで、感情もあるようですので、日本のそこらで売っている植物がそんな感じで痛がってお皿に出されている、と言うことなのかもしれません。
自分で料理するとそのあたりはマシですが、外で食べることも多いですしね。
卵料理屋とかで食べると普通に美味しかったりしますので、卵の種類にもよるかもしれません。恨みを持っていて呪われている卵もある、と言うことなのかもしれませんし、植物にしてもストレスを抱えた植物というのがあっても不思議ではありません。
人間は食べないと生きられない生き物ですので、食べるという行為が既に業を積んでいるのかもしれないと思うことも最近はありますが、そのあたりはよく分かりません。あまりにも業を強調しすぎるとキリスト教のように罪の意識で人間の奴隷かのように使われてしまうかもしれませんので、そのあたりの説明には注意が必要そうです。自分で実感してわかるようになるまではあまり人に言わない方がいいことの1つかもしれませんね。
これは、他人にこうしろとか、何を食べた方がいいとか、何を食べない方がいいとか、そういうことを言うつもりはありません。ただ単に、私は最近こういうことがあって、卵を食べるのがちょっと苦手になりました、というだけのお話です。きっと今後も卵を食べるでしょうが、昔とは変わってしまった、ということです。
やはり、処方箋は食事をする時に食材に感謝をするくらいしかないのでしょうかね。ベジタリアンで感謝して食べるのが今のところ一番良さそうです。
ううう。今まで卵はあまり気にせず食べていたのですが、今後、ちょっと食べにくくなってしまいました。
お肉は食べる量を減らしていたわけですけれども、それでも、卵はあまり気にせずに食べていました。栄養分ありますし、お肉の栄養の代わりに卵で取ろうと思っていたわけです。しかし、今回その卵にも「うらめしや〜」と叫ばれてしまいましたので、ますます食べ物の選択に困る事態になってしまいそうです。思い出すだけでちょとしたトラウマになりそうです。
これ、安い卵だからこんななのでしょうかね・・・。高い卵は違うのでしょうかね・・・。そう言うのは多少あるかもしれませんね。ぎゅうぎゅう詰めで暮らす親鳥のストレスの気持ちが卵にまず植え付けられて、卵それ自体にしても生まれることができずにそのまま食べられてしまうのですから、恨みもしそうです。
お肉はかなり微妙で牛肉はマシですが鶏肉も物によっては酷くて豚肉は全然ダメなことが多いです。ですから選択肢がない時を除いてお肉はあまり食べないのですが、卵は食べていたのです。
植物にしても、実は植物にも命があって包丁で切られる時に「痛い痛い」と言っている気がして、食べた時に微妙な感じを受けることがあります。
アナハタが優勢になって以降、植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むようになってしまったわけですけれども、お肉だけでなく植物を食べても微妙に感じることがあって、普通に食べる分には割と大丈夫なのですが、スーパーで並べられている植物を見ると痛ましく思うこともあります。
ですから・・・、何を食べたらいいのか、最近は選択に困ります。
ベジタリアンがいいのかと思えば実際、上記のようにそう言う単純なお話ではないことがわかります。お肉は一番悪いですが、ベジタリアンがいいのかと言えば必ずしもそうではないようなのです。
これは、日本の栽培の仕方にもよるのかもしれませんし、有機栽培などでは違うのかもしれませんし、同じ有機栽培でも農地によっても異なるのかもしれません。農法は同じでも育てる人が違えば味と言いますかオーラは変わってくると言うのは理にかなっています。
植物にもオーラがあるようで、感情もあるようですので、日本のそこらで売っている植物がそんな感じで痛がってお皿に出されている、と言うことなのかもしれません。
自分で料理するとそのあたりはマシですが、外で食べることも多いですしね。
卵料理屋とかで食べると普通に美味しかったりしますので、卵の種類にもよるかもしれません。恨みを持っていて呪われている卵もある、と言うことなのかもしれませんし、植物にしてもストレスを抱えた植物というのがあっても不思議ではありません。
人間は食べないと生きられない生き物ですので、食べるという行為が既に業を積んでいるのかもしれないと思うことも最近はありますが、そのあたりはよく分かりません。あまりにも業を強調しすぎるとキリスト教のように罪の意識で人間の奴隷かのように使われてしまうかもしれませんので、そのあたりの説明には注意が必要そうです。自分で実感してわかるようになるまではあまり人に言わない方がいいことの1つかもしれませんね。
これは、他人にこうしろとか、何を食べた方がいいとか、何を食べない方がいいとか、そういうことを言うつもりはありません。ただ単に、私は最近こういうことがあって、卵を食べるのがちょっと苦手になりました、というだけのお話です。きっと今後も卵を食べるでしょうが、昔とは変わってしまった、ということです。
やはり、処方箋は食事をする時に食材に感謝をするくらいしかないのでしょうかね。ベジタリアンで感謝して食べるのが今のところ一番良さそうです。
トラウマを頭の中から摘んで抜き出す
今朝、意識がヴィパッサナーに近い状態で頭の周辺のオーラも静かになっており、意識の深いところを見通せる状態になっておりました。
すると、今までもやがかかって見えにくかったトラウマがすぐ手の届くところにあるような気がしましたので、オーラの手で摘んで、感触を確かめながら少し引っ張ってみましたところ動いた気がしましたのでそのまま引き抜いてみました。
今までもトラウマを引き抜こうとしたことはありますが、ヴィパッサナー状態で意識が静かになっていない状態ですとなかなかうまく引き抜けなかったような気が致します。
この種のトラウマはいわゆるトランス状態と言いますか集中状態と観察状態が合わさった状態になると障害になるもので、どうにかしたいと思っておりました。
意識の深いところに横たわっていて、何かを観察&集中して作業する時に妨げになっていたのです。
ここでいう観察&集中状態とは、観察のヴィパッサナー状態を保ちつつある種の集中を同時に行って物事をつぶさに観察したり考察したりすることを指します。
トラウマは、その作業の妨げになるのです。
意識の深いところに潜って作業を行いますのでいわゆる「答え」がすぐに出てくる状態で、作業の方も意識が直接行いますので素早く行えるのですが、その状態ですとトラウマが出てきやすいのです。
トラウマは出てくる時と出てこない時があって、関連した時に出てくる、あるいは、特定の状態に似てくると出てくるような周期性と言いますか癖のようなものがありましたが、今回、ふとしたことでそのトラウマが浮かび上がっていましたので、摘んで抜き出してみましたのです。
場所は、後頭部のあたりに浮かんでおりましたので後頭部の方から摘んで抜き出しました。
トラウマは基本的に向き合うことで消えるわけですけれども、最後に残った小さな根のようなものの一部を抜き出した感じが致します。
完全には抜き取れなくて、だいたい3分の1から2分の1くらいは取れたかな、という感じです。
以前は肩のあたりに絡まっていた意識体を抜き出したりしたこともありましたが、やっていることは似たようなものです。意識体なのか、あるいは固まってしまった意識の固定部分なのか、という違いがあるくらいです。
意識体の場合は割と柔らかくて、手に持つときに感触を確かめて、千切れないように引き抜く必要がありました。
今回は、イメージで「取っ手」のようなものが感じられて、取っ手の先にコンクリートのブロックのようなものがついていました。そのコンクリートのブロックが何かの穴を塞いでしまっているような感じで、オーラの手でゆっくりと感触を確かめつつその「取っ手」を掴んで、一生懸命、そのコンクリートのブロックを持ち上げようとしたのです。
ちょっと浮いたかな・・・ という感じで、ちょっとは取れたかな・・・ と思ったのですが、その後の様子を見ると、上記のように3分の1から2分の1くらいの解消でした。まあ、あの重いコンクリートを片付けるにしては上出来だったかもしれません。
ですが、重いコンクリートですから油断していたらその周囲にまた泥が溜まってしまいそうですので、また度々、トラウマを引き抜いて行こうと思います。
すると、今までもやがかかって見えにくかったトラウマがすぐ手の届くところにあるような気がしましたので、オーラの手で摘んで、感触を確かめながら少し引っ張ってみましたところ動いた気がしましたのでそのまま引き抜いてみました。
今までもトラウマを引き抜こうとしたことはありますが、ヴィパッサナー状態で意識が静かになっていない状態ですとなかなかうまく引き抜けなかったような気が致します。
この種のトラウマはいわゆるトランス状態と言いますか集中状態と観察状態が合わさった状態になると障害になるもので、どうにかしたいと思っておりました。
意識の深いところに横たわっていて、何かを観察&集中して作業する時に妨げになっていたのです。
ここでいう観察&集中状態とは、観察のヴィパッサナー状態を保ちつつある種の集中を同時に行って物事をつぶさに観察したり考察したりすることを指します。
トラウマは、その作業の妨げになるのです。
意識の深いところに潜って作業を行いますのでいわゆる「答え」がすぐに出てくる状態で、作業の方も意識が直接行いますので素早く行えるのですが、その状態ですとトラウマが出てきやすいのです。
トラウマは出てくる時と出てこない時があって、関連した時に出てくる、あるいは、特定の状態に似てくると出てくるような周期性と言いますか癖のようなものがありましたが、今回、ふとしたことでそのトラウマが浮かび上がっていましたので、摘んで抜き出してみましたのです。
場所は、後頭部のあたりに浮かんでおりましたので後頭部の方から摘んで抜き出しました。
トラウマは基本的に向き合うことで消えるわけですけれども、最後に残った小さな根のようなものの一部を抜き出した感じが致します。
完全には抜き取れなくて、だいたい3分の1から2分の1くらいは取れたかな、という感じです。
以前は肩のあたりに絡まっていた意識体を抜き出したりしたこともありましたが、やっていることは似たようなものです。意識体なのか、あるいは固まってしまった意識の固定部分なのか、という違いがあるくらいです。
意識体の場合は割と柔らかくて、手に持つときに感触を確かめて、千切れないように引き抜く必要がありました。
今回は、イメージで「取っ手」のようなものが感じられて、取っ手の先にコンクリートのブロックのようなものがついていました。そのコンクリートのブロックが何かの穴を塞いでしまっているような感じで、オーラの手でゆっくりと感触を確かめつつその「取っ手」を掴んで、一生懸命、そのコンクリートのブロックを持ち上げようとしたのです。
ちょっと浮いたかな・・・ という感じで、ちょっとは取れたかな・・・ と思ったのですが、その後の様子を見ると、上記のように3分の1から2分の1くらいの解消でした。まあ、あの重いコンクリートを片付けるにしては上出来だったかもしれません。
ですが、重いコンクリートですから油断していたらその周囲にまた泥が溜まってしまいそうですので、また度々、トラウマを引き抜いて行こうと思います。
魑魅魍魎の世界がこの世の真の姿
多くの人は物質を見てこの世は美しいだとか言っていますが、実際には魑魅魍魎の世界です。アストラルな視力を使えばこの世は見るもおぞましい世界であることがわかるのです。
昔は森が広がっていて妖精が住んでいたりもしましたが、今はどこも人で埋め尽くされていて、そこかしこに魑魅魍魎がたむろしているように思われます。
神智学で言うところのアストラル視力あるいはメンタル視力があったとして、魑魅魍魎が見えるのはアストラル視力によってです。メンタル視力は時空をある意味超越していて時間の枠組みに囚われず、過去・現在・未来とまでが一続きで様々なタイムラインを眺めることができます。一方、アストラル視力ですと魑魅魍魎などいわゆる霊の姿が見えます。
その他にエーテル視力というものもありますけど、これは肉体に近い視力です。以下まとめます。
・肉体の視力
・エーテル視力:肉体に付随する視力。肉体に近いオーラを見る。エクトプラズムを見る。
・アストラル視力:霊を見る。魑魅魍魎を見る。
・メンタル視力:時空を超えたタイムラインを見る。例:パリ郊外での人生のお話
・ブッディ視力:過去・現在・未来が同時に存在している。完全な先見力。私は未経験。
仏教やヨーガ等で「瞑想中に見えるものは重要ではない」というのはアストラル視力のことを言っているのではないかと私なんかは思います。魑魅魍魎を見たところで意味はないですからね。ですから、ヨーガスートラでも「悟りに近づくと神が誘ってくるが、誘いを退けること」と書いてあります。
私の場合、女性バージョンで生まれた時は上記のリンク先のようにメンタル視力で先読みをして各種のタイムラインを把握することは容易だったように思いますが、男性バージョンで生まれるとあまり能力が使えません。せいぜいアストラル視力までです。
私の場合、女性の時と男性の時で使える能力に違いが出ています。魔女と言うと女性のことですし、これはきっと一般的にもそうなのではないでしょうか。体の構造に違いがありそうです。女性の場合は特殊な訓練をさほどしなくても能力が普通に出るように思います。
このアストラル視力ですけど、数百年くらい前までであれば人口密度もそれほど高くなく魑魅魍魎もぼちぼちいるくらいで避けることも容易でしたが、最近はそこら中が魔物の巣窟のようになっていて歩いているとすぐに魑魅魍魎とぶつかるくらいの酷い状況になっていると思います。
そもそも人間の方が怖いので魑魅魍魎とすれ違ったりしても肉体にさほどの危害はないのですが、なんとも気持ちが悪いものがあります。人通りが少なければ魑魅魍魎を避けて歩きますが、混雑している場合は仕方なく魑魅魍魎と体が一瞬重なって通過したりします。
まあ、通り抜けてすれ違うくらいであれば基本的に害はないようです。なんとも気持ちが悪いですけど、肉体があるとそこに魂とオーラが殻で保護されていますので安全のようです。
この種のアストラル視力は厄介で、心を惑わせますし、一般の人には見えないものが見えるようになったことで優越感も生まれやすく、はっきり言って修行の邪魔になるだけで大して役に立たないものです。
以前にも余談で少し書きましたけど、この厄介なアストラル視力を閉じるために特殊な霊界の布を用いたマントを使った転生方法があります。生まれる前にあらかじめその特殊なマントで包み、アストラル視力を封じ込めるのです。
アストラル視力がないと魑魅魍魎と接触してしまう可能性があるために、そのマントはある程度のアストラル的な防御膜の役割も果たします。ですので、ちょっと魑魅魍魎とすれ違ったくらいでは影響を受けないようになります。
それでも、魑魅魍魎はしつこく迫ってきますし言葉巧みにエネルギーを吸い取ろうとしてきますので、このマントを使った修行方法は危険と隣り合わせになります。
アストラル視力で魑魅魍魎が見える場合、子供の頃にそれが判明したら精神病院に連れて行かれて見えなくなるまで薬漬けにされる可能性もありますので、アストラル視力のある人が呪術を得意とする家系ではないところに転生して生まれる場合などはこのようなマントを使う場合もあります。
アストラル視力を持っている人は割とそこら中にいるように思われます。それがアジナチャクラの力だとか言われていますけど、古来、呪術を得意としてきた家系、神道系や仏教や陰陽師の家系には珍しくないと思います。王族にも多いと言う噂を聞きます。
アストラル視力を持っていて精神病院に連れて行かされるのは庶民の家庭が多いと思います。
そのような守られていないところに飛び込んで普通の人生を送るのは、まさに修行であるわけです。命がけの修行です。それを、このようなマントを使って行う人がいるわけで、昔はよく使われていたようですけれども、最近はあまり使われなくなったと管理者の人が嘆いていました。
アストラル視力は上に書きましたように魑魅魍魎が見えて、時には神様の姿も見えるかもしれませんが、基本的にはあまり役に立たないことが多いです。
いわゆる「修行」にはあまり役立ちませんね。上に書いたように、おごりの心が生まれたりして修行の邪魔になることが多いように思います。アストラル視力くらいですと精神的にも未熟で、まだこの世の利益に絡めとられていることが多いように思います。
その上のメンタル視力が持てるくらいにまで成長すると心は平安で、物事を超越した視点を持てるように思います。
オーラ的にも、アストラル視力があるくらいですとオーラが弱くて魑魅魍魎にエネルギーを奪われたり不安にさせられたりしますが、メンタル視力があるくらいにまでエネルギーが高まってオーラが純化されれば魑魅魍魎に影響されることもほとんどなくなると思います。
それを目指すのであれば、このような特殊な霊界の布を使ったマントを使ってアストラル視力を制限するのは有用であるように思います。
私の場合、今世では目的達成のために有用と思ってこれを使っています。・・・たぶんそうだと思っています。そうなっていることを知ったのは子供の頃に幽体離脱した時ですが、昔はその意図が完全に理解できていませんでしたけど、今では確かに有用だと理解しています。本来は今生全てをマント強制使用で過ごすつもりでしたが、意外に早くカルマ浄化の目的を達成できましたので、今後どうしようかな... とは思っていますが。今はマントが体にロックされていて、特殊なマントラを唱えるとロックが解除されてるようになっていますが、私は覚えていなくて守護霊に聞かないといけないのですが、どうしましょうかね、と言うところです。
昔は森が広がっていて妖精が住んでいたりもしましたが、今はどこも人で埋め尽くされていて、そこかしこに魑魅魍魎がたむろしているように思われます。
神智学で言うところのアストラル視力あるいはメンタル視力があったとして、魑魅魍魎が見えるのはアストラル視力によってです。メンタル視力は時空をある意味超越していて時間の枠組みに囚われず、過去・現在・未来とまでが一続きで様々なタイムラインを眺めることができます。一方、アストラル視力ですと魑魅魍魎などいわゆる霊の姿が見えます。
その他にエーテル視力というものもありますけど、これは肉体に近い視力です。以下まとめます。
・肉体の視力
・エーテル視力:肉体に付随する視力。肉体に近いオーラを見る。エクトプラズムを見る。
・アストラル視力:霊を見る。魑魅魍魎を見る。
・メンタル視力:時空を超えたタイムラインを見る。例:パリ郊外での人生のお話
・ブッディ視力:過去・現在・未来が同時に存在している。完全な先見力。私は未経験。
仏教やヨーガ等で「瞑想中に見えるものは重要ではない」というのはアストラル視力のことを言っているのではないかと私なんかは思います。魑魅魍魎を見たところで意味はないですからね。ですから、ヨーガスートラでも「悟りに近づくと神が誘ってくるが、誘いを退けること」と書いてあります。
私の場合、女性バージョンで生まれた時は上記のリンク先のようにメンタル視力で先読みをして各種のタイムラインを把握することは容易だったように思いますが、男性バージョンで生まれるとあまり能力が使えません。せいぜいアストラル視力までです。
私の場合、女性の時と男性の時で使える能力に違いが出ています。魔女と言うと女性のことですし、これはきっと一般的にもそうなのではないでしょうか。体の構造に違いがありそうです。女性の場合は特殊な訓練をさほどしなくても能力が普通に出るように思います。
このアストラル視力ですけど、数百年くらい前までであれば人口密度もそれほど高くなく魑魅魍魎もぼちぼちいるくらいで避けることも容易でしたが、最近はそこら中が魔物の巣窟のようになっていて歩いているとすぐに魑魅魍魎とぶつかるくらいの酷い状況になっていると思います。
そもそも人間の方が怖いので魑魅魍魎とすれ違ったりしても肉体にさほどの危害はないのですが、なんとも気持ちが悪いものがあります。人通りが少なければ魑魅魍魎を避けて歩きますが、混雑している場合は仕方なく魑魅魍魎と体が一瞬重なって通過したりします。
まあ、通り抜けてすれ違うくらいであれば基本的に害はないようです。なんとも気持ちが悪いですけど、肉体があるとそこに魂とオーラが殻で保護されていますので安全のようです。
この種のアストラル視力は厄介で、心を惑わせますし、一般の人には見えないものが見えるようになったことで優越感も生まれやすく、はっきり言って修行の邪魔になるだけで大して役に立たないものです。
以前にも余談で少し書きましたけど、この厄介なアストラル視力を閉じるために特殊な霊界の布を用いたマントを使った転生方法があります。生まれる前にあらかじめその特殊なマントで包み、アストラル視力を封じ込めるのです。
アストラル視力がないと魑魅魍魎と接触してしまう可能性があるために、そのマントはある程度のアストラル的な防御膜の役割も果たします。ですので、ちょっと魑魅魍魎とすれ違ったくらいでは影響を受けないようになります。
それでも、魑魅魍魎はしつこく迫ってきますし言葉巧みにエネルギーを吸い取ろうとしてきますので、このマントを使った修行方法は危険と隣り合わせになります。
アストラル視力で魑魅魍魎が見える場合、子供の頃にそれが判明したら精神病院に連れて行かれて見えなくなるまで薬漬けにされる可能性もありますので、アストラル視力のある人が呪術を得意とする家系ではないところに転生して生まれる場合などはこのようなマントを使う場合もあります。
アストラル視力を持っている人は割とそこら中にいるように思われます。それがアジナチャクラの力だとか言われていますけど、古来、呪術を得意としてきた家系、神道系や仏教や陰陽師の家系には珍しくないと思います。王族にも多いと言う噂を聞きます。
アストラル視力を持っていて精神病院に連れて行かされるのは庶民の家庭が多いと思います。
そのような守られていないところに飛び込んで普通の人生を送るのは、まさに修行であるわけです。命がけの修行です。それを、このようなマントを使って行う人がいるわけで、昔はよく使われていたようですけれども、最近はあまり使われなくなったと管理者の人が嘆いていました。
アストラル視力は上に書きましたように魑魅魍魎が見えて、時には神様の姿も見えるかもしれませんが、基本的にはあまり役に立たないことが多いです。
いわゆる「修行」にはあまり役立ちませんね。上に書いたように、おごりの心が生まれたりして修行の邪魔になることが多いように思います。アストラル視力くらいですと精神的にも未熟で、まだこの世の利益に絡めとられていることが多いように思います。
その上のメンタル視力が持てるくらいにまで成長すると心は平安で、物事を超越した視点を持てるように思います。
オーラ的にも、アストラル視力があるくらいですとオーラが弱くて魑魅魍魎にエネルギーを奪われたり不安にさせられたりしますが、メンタル視力があるくらいにまでエネルギーが高まってオーラが純化されれば魑魅魍魎に影響されることもほとんどなくなると思います。
それを目指すのであれば、このような特殊な霊界の布を使ったマントを使ってアストラル視力を制限するのは有用であるように思います。
私の場合、今世では目的達成のために有用と思ってこれを使っています。・・・たぶんそうだと思っています。そうなっていることを知ったのは子供の頃に幽体離脱した時ですが、昔はその意図が完全に理解できていませんでしたけど、今では確かに有用だと理解しています。本来は今生全てをマント強制使用で過ごすつもりでしたが、意外に早くカルマ浄化の目的を達成できましたので、今後どうしようかな... とは思っていますが。今はマントが体にロックされていて、特殊なマントラを唱えるとロックが解除されてるようになっていますが、私は覚えていなくて守護霊に聞かないといけないのですが、どうしましょうかね、と言うところです。
オーラの塊を使って体の各所にエネルギーを通す
最近は瞑想でオーラを凝縮させているわけですけれども、その凝縮したオーラの使い方として、最初は頭の後ろから頭頂にかけてのエネルギーのルートや体の前面を通るルートを開拓しておりました。
その後、色々と試してみて、例えばお腹にまで下ろしたエネルギーを使って足の方まで通してみたところ、足の感覚が高まりました。あるいは、頭のエネルギーを肩の方に動かして手先まで往復させたりすると、手の感覚が敏感になったりしました。
これは、以前からヨーガ等で手先や足先の感覚を高める方法として似たようなものはありましたが、それはただ単に意識を通すというもので、今回の場合はあらかじめ頭で凝縮したオーラを体の各所に移動させてエネルギーのルート、いわゆるナディを開拓するという点が異なります。
最近はヴィパッサナー状態で視界や体の感覚を観察したりしているわけですけれども、それも、今回のようにエネルギーをあらかじめ通してあげるとよく観察できるようになる気が致します。
観察の粒度も細かくなったような気も致します。
例えば、食事をする時に箸の動きが細かく把握できるようになったりしました。
そうして瞑想をここ何日か続けておりましたところ、手足だけでなく、背骨の、いわゆるスシュムナのルートにも凝縮したエネルギーを通してみました。
すると、どうしたことでしょう。背中の、ちょうど心臓の後ろくらいのところにエネルギーを通そうとしたら激しい抵抗があって、一気にトラウマが吹き出してきたのです。子供の頃からあったトラウマも含めて出てきましたので急に目を開けて立ち上がってしまったくらいのトラウマが出てきました。
こんなところに眠っていたのですね。
確かここは、中学校時代に金網を通り抜けようとしたら背骨をひっかけてしまって背骨を傷つけた箇所だったと思います。そうした損傷と、おそらくはエネルギー的な淀みができてしまっていて過去のトラウマがそこに溜まりやすくなっていたのだと思います。
そういえば、以前は肩や胸の横にトラウマが眠っていたことに気づいたこともありますが、この背骨の部分に眠っていたトラウマはそれなりに巨大でした。とは言いましても過去に退治してきたものと比べるとそれほどでもないのですが、久々に中くらいのものを発見した感じです。
それがあったのは1日だけで、次の日にエネルギーを通しましたら多少のしこりがあるくらいでエネルギーは通りました。
おそらくはスシュムナ、あるいはその周囲を通ってエネルギーがお腹から頭頂まで達し、頭頂のエネルギーの状態がまた少し変わった気が致します。
頭で凝縮したエネルギーは一度凝縮してしまえばある程度の凝縮をその後も保つようで、このようなことにも使えることがわかりました。
それとは別に、
今までは両肩に刺さっていた見えないものを引き抜くとかエネルギーを吸い取る意識体とか取り憑いてきた意識体とかに対して引き抜くような対処をしていたわけですけれども、この凝縮したエネルギーがあれば体の中から意識体を外に押し出すこともできそうな感じです。内側から防御膜を作るような感じでしょうか。これはまだ様子見段階ではありますが、使えそうな気がしております。
その後、色々と試してみて、例えばお腹にまで下ろしたエネルギーを使って足の方まで通してみたところ、足の感覚が高まりました。あるいは、頭のエネルギーを肩の方に動かして手先まで往復させたりすると、手の感覚が敏感になったりしました。
これは、以前からヨーガ等で手先や足先の感覚を高める方法として似たようなものはありましたが、それはただ単に意識を通すというもので、今回の場合はあらかじめ頭で凝縮したオーラを体の各所に移動させてエネルギーのルート、いわゆるナディを開拓するという点が異なります。
最近はヴィパッサナー状態で視界や体の感覚を観察したりしているわけですけれども、それも、今回のようにエネルギーをあらかじめ通してあげるとよく観察できるようになる気が致します。
観察の粒度も細かくなったような気も致します。
例えば、食事をする時に箸の動きが細かく把握できるようになったりしました。
そうして瞑想をここ何日か続けておりましたところ、手足だけでなく、背骨の、いわゆるスシュムナのルートにも凝縮したエネルギーを通してみました。
すると、どうしたことでしょう。背中の、ちょうど心臓の後ろくらいのところにエネルギーを通そうとしたら激しい抵抗があって、一気にトラウマが吹き出してきたのです。子供の頃からあったトラウマも含めて出てきましたので急に目を開けて立ち上がってしまったくらいのトラウマが出てきました。
こんなところに眠っていたのですね。
確かここは、中学校時代に金網を通り抜けようとしたら背骨をひっかけてしまって背骨を傷つけた箇所だったと思います。そうした損傷と、おそらくはエネルギー的な淀みができてしまっていて過去のトラウマがそこに溜まりやすくなっていたのだと思います。
そういえば、以前は肩や胸の横にトラウマが眠っていたことに気づいたこともありますが、この背骨の部分に眠っていたトラウマはそれなりに巨大でした。とは言いましても過去に退治してきたものと比べるとそれほどでもないのですが、久々に中くらいのものを発見した感じです。
それがあったのは1日だけで、次の日にエネルギーを通しましたら多少のしこりがあるくらいでエネルギーは通りました。
おそらくはスシュムナ、あるいはその周囲を通ってエネルギーがお腹から頭頂まで達し、頭頂のエネルギーの状態がまた少し変わった気が致します。
頭で凝縮したエネルギーは一度凝縮してしまえばある程度の凝縮をその後も保つようで、このようなことにも使えることがわかりました。
それとは別に、
今までは両肩に刺さっていた見えないものを引き抜くとかエネルギーを吸い取る意識体とか取り憑いてきた意識体とかに対して引き抜くような対処をしていたわけですけれども、この凝縮したエネルギーがあれば体の中から意識体を外に押し出すこともできそうな感じです。内側から防御膜を作るような感じでしょうか。これはまだ様子見段階ではありますが、使えそうな気がしております。
強制・操作・共依存の時代の終わり
昭和は強制・操作・共依存の全盛期であり、平成まではその影響が強い時代でした。
令和になり、コロナになり、いよいよその影響力が減ってゆきます。
強制・操作・共依存ではパワハラ・圧力が当たり前のものになっていました。
平成に生まれて令和で社会人になった人は既に上記のような社会に生きていませんから、昭和時代から生き残っている会社に入社してすぐに辞めたとしても咎めるべきではありません。むしろ、昭和時代の会社であるのにあたかも健全であるかのような会社説明会をしている会社は本質と表現が一体になっておりませんのでやがて力を失ってゆくでしょうし、そのような会社を選ぶような方も勉強だったと言えるでしょう。
まだ政権が大企業重視で日銀が月に1兆円もばら撒いて株を買い支えている状況ではまだまだ旧体制の大企業は存続するでしょうが、いきなり梯子を外される時が来るでしょう。いつまでも実体のない企業は存続できません。
そして、梯子を外される時とは、旧体制の強制・依存・共依存が不要になった時でもあり、新たな軸が作られた後であれば政権も躊躇なく旧体制の大企業を縮小しようとするでしょう。ということは、新体制の会社が出てくれば旧体制は弱体化するということでもあります。
旧体制とは強制・依存・共依存に結びついたものであり、会社のシステムおよび社会のシステムも根強くそのために最適化されておりますから、それが崩れる時はかなりの痛みを伴いますが、このコロナの騒ぎはチャンスとも言えます。
であれば、このコロナで旧体制が弱ったチャンスを見て新体制が力を伸ばせばいいわけです。
旧体制においては「プロセス」が重視されてきましたが、言い換えれば「強制・操作・共依存」のプロセスを重視するということでした。更に言い換えると「パワハラによる無抵抗の強制・無意味なプロセスを強制することで他人を思考停止させ操作する・判定者を曖昧にすることによる共依存」などが相当します。
新体制においてはある意味、旧来とは違った「成果主義」になり、プロセスであるところの「強制・操作・共依存」は重視されません。
旧来は成果主義が評価と結びついておりましたが新体制においては評価とは結び付かず、単に、プロセスを重視しないというだけのシンボルとしての成果主義になります。
生きるだけであれば生活費は割と十分な時代になりますから、贅沢をしたい人は十分に努力して頂くとして、そうでない人は自分の興味に基づいた仕事を選ぶようになります。それが報酬と結びつくかというとそうでもない時代ですが、努力や結果とは別の軸で、ふとしたことで大きな報酬が得られる時代になります。本来は人生とはそういうものですがサラリーマンになるのが当然と思われている時代には失われてしまったことが取り戻されるようになります。サラリーマンでは浮き沈みがない分、自由を奪われ、報酬も一定になります。しかし、本来は、成果や努力と報酬とはある程度の相関関係しかなく、ふとしたことで大きな報酬を得られることがあるのです。そのように、普段の小さな報酬に気にすることなく時々の、成果や努力とは無関係な報酬の方が遥かに大きな時代になります。となれば、日常生活における小さな収入など気にならなくなってゆくのではないでしょうか。
これらの変化は意識の変化が先に現れ、現実は後追いになります。であれば、今のうちから強制・操作・共依存の関係は断ち切ってゆくべきです。
それらのループにはまり込んでいて、他人に対して盲目的になって奴隷のように付き従っている人は、小さなところから抵抗を始め、「じぶん」というものを取り戻す必要があります。
スピリチュアルや宗教では「自分をなくす」ことを盛んに言われていたりしますけど、実際は、「自分が強くなって、自分が広がって、自分がなくなる」という順番ですので、自分が消え去って奴隷のように無抵抗になることがスピリチュアルや宗教ではないのです。
そして、その新たなる秩序はもしかしたらスピリチュアルや宗教というところから出てこないかもしれません。しかし、言っていることは同じことだったりします。時代の変化に敏感な人であればビジネスであっても時代の要求に応えるものになります。その基本が、昭和の価値観である強制・操作・共依存のループから断ち切ることであり、ようやく令和になって、このコロナがその良いきっかけになると思われるのです。
令和になり、コロナになり、いよいよその影響力が減ってゆきます。
強制・操作・共依存ではパワハラ・圧力が当たり前のものになっていました。
平成に生まれて令和で社会人になった人は既に上記のような社会に生きていませんから、昭和時代から生き残っている会社に入社してすぐに辞めたとしても咎めるべきではありません。むしろ、昭和時代の会社であるのにあたかも健全であるかのような会社説明会をしている会社は本質と表現が一体になっておりませんのでやがて力を失ってゆくでしょうし、そのような会社を選ぶような方も勉強だったと言えるでしょう。
まだ政権が大企業重視で日銀が月に1兆円もばら撒いて株を買い支えている状況ではまだまだ旧体制の大企業は存続するでしょうが、いきなり梯子を外される時が来るでしょう。いつまでも実体のない企業は存続できません。
そして、梯子を外される時とは、旧体制の強制・依存・共依存が不要になった時でもあり、新たな軸が作られた後であれば政権も躊躇なく旧体制の大企業を縮小しようとするでしょう。ということは、新体制の会社が出てくれば旧体制は弱体化するということでもあります。
旧体制とは強制・依存・共依存に結びついたものであり、会社のシステムおよび社会のシステムも根強くそのために最適化されておりますから、それが崩れる時はかなりの痛みを伴いますが、このコロナの騒ぎはチャンスとも言えます。
であれば、このコロナで旧体制が弱ったチャンスを見て新体制が力を伸ばせばいいわけです。
旧体制においては「プロセス」が重視されてきましたが、言い換えれば「強制・操作・共依存」のプロセスを重視するということでした。更に言い換えると「パワハラによる無抵抗の強制・無意味なプロセスを強制することで他人を思考停止させ操作する・判定者を曖昧にすることによる共依存」などが相当します。
新体制においてはある意味、旧来とは違った「成果主義」になり、プロセスであるところの「強制・操作・共依存」は重視されません。
旧来は成果主義が評価と結びついておりましたが新体制においては評価とは結び付かず、単に、プロセスを重視しないというだけのシンボルとしての成果主義になります。
生きるだけであれば生活費は割と十分な時代になりますから、贅沢をしたい人は十分に努力して頂くとして、そうでない人は自分の興味に基づいた仕事を選ぶようになります。それが報酬と結びつくかというとそうでもない時代ですが、努力や結果とは別の軸で、ふとしたことで大きな報酬が得られる時代になります。本来は人生とはそういうものですがサラリーマンになるのが当然と思われている時代には失われてしまったことが取り戻されるようになります。サラリーマンでは浮き沈みがない分、自由を奪われ、報酬も一定になります。しかし、本来は、成果や努力と報酬とはある程度の相関関係しかなく、ふとしたことで大きな報酬を得られることがあるのです。そのように、普段の小さな報酬に気にすることなく時々の、成果や努力とは無関係な報酬の方が遥かに大きな時代になります。となれば、日常生活における小さな収入など気にならなくなってゆくのではないでしょうか。
これらの変化は意識の変化が先に現れ、現実は後追いになります。であれば、今のうちから強制・操作・共依存の関係は断ち切ってゆくべきです。
それらのループにはまり込んでいて、他人に対して盲目的になって奴隷のように付き従っている人は、小さなところから抵抗を始め、「じぶん」というものを取り戻す必要があります。
スピリチュアルや宗教では「自分をなくす」ことを盛んに言われていたりしますけど、実際は、「自分が強くなって、自分が広がって、自分がなくなる」という順番ですので、自分が消え去って奴隷のように無抵抗になることがスピリチュアルや宗教ではないのです。
そして、その新たなる秩序はもしかしたらスピリチュアルや宗教というところから出てこないかもしれません。しかし、言っていることは同じことだったりします。時代の変化に敏感な人であればビジネスであっても時代の要求に応えるものになります。その基本が、昭和の価値観である強制・操作・共依存のループから断ち切ることであり、ようやく令和になって、このコロナがその良いきっかけになると思われるのです。
死霊は右の肩に憑く
私は度々、右肩が弱くてそこに絡まっている見えないものを引き抜くと言うことをしていますけど、陰陽師の解釈に基づくとそれは死霊だとのことです。
確かに、自分で生気を作り出すことができずに吸血鬼のように他人の生気を引き抜くことでしか生きられないのだとしたら死霊である可能性が高いです。
死霊が人に憑く際は、人の肩の右側に、そして、生霊は人の肩の左側に憑きます。「陰陽師の使命(安倍成道 著)」
実際のところ、私に取り憑いていたのが死霊かどうかはわかりません。ですが、このような解釈もあるのだな、と言うところが興味深いです。どうしたらこれを確かめることができるのですかね?
同書によれば、陰陽師は死霊を取り除くのではなく存在を消し去ってしまうようです。
私がやったのはただ単に引き抜いただけであとはその見えない意識体はどこかへ行ってしまいましたけど、陰陽師だったら消されていたのかもしれませんね。消す場合は慎重に行う必要があって、害が出ている場合にのみ消すようです。
前にも書いたような気がしますが、私の魂の記憶を辿りますと、幽体でこの地上界を探検していたら急に殺気を感じて消されるかもしれない、と思ったことがあります。それがこの種の人々なんだと思います。とても恐ろしいです。何十と言う転生で積み重ねてきた英知を丸々と消し去ってしまうわけですから。
同書によれば害を及ぼす死霊だけ消すとありましたけど、世間にはもっと荒っぽい人がいて、霊が漂っていたら片っ端から消す人がいます。そう言う人にも判断の基準はあるのでしょうけど、その基準がとても低い人もいて、霊でこの地上界を彷徨うのは実はかなりおっかないことだったりします。
確かに、自分で生気を作り出すことができずに吸血鬼のように他人の生気を引き抜くことでしか生きられないのだとしたら死霊である可能性が高いです。
死霊が人に憑く際は、人の肩の右側に、そして、生霊は人の肩の左側に憑きます。「陰陽師の使命(安倍成道 著)」
実際のところ、私に取り憑いていたのが死霊かどうかはわかりません。ですが、このような解釈もあるのだな、と言うところが興味深いです。どうしたらこれを確かめることができるのですかね?
同書によれば、陰陽師は死霊を取り除くのではなく存在を消し去ってしまうようです。
私がやったのはただ単に引き抜いただけであとはその見えない意識体はどこかへ行ってしまいましたけど、陰陽師だったら消されていたのかもしれませんね。消す場合は慎重に行う必要があって、害が出ている場合にのみ消すようです。
前にも書いたような気がしますが、私の魂の記憶を辿りますと、幽体でこの地上界を探検していたら急に殺気を感じて消されるかもしれない、と思ったことがあります。それがこの種の人々なんだと思います。とても恐ろしいです。何十と言う転生で積み重ねてきた英知を丸々と消し去ってしまうわけですから。
同書によれば害を及ぼす死霊だけ消すとありましたけど、世間にはもっと荒っぽい人がいて、霊が漂っていたら片っ端から消す人がいます。そう言う人にも判断の基準はあるのでしょうけど、その基準がとても低い人もいて、霊でこの地上界を彷徨うのは実はかなりおっかないことだったりします。
同調圧力に屈しない、あるいは逃げる必要性
特に義務教育の現場では同じ人と長く付き合いますので同調圧力が生まれ、先生もそれに加担しますので同調圧力に屈しないのは並大抵のことではありません。人は自由意志がありますから付き合う人を選べるのが本当ですが、義務教育あるいは狭いコミュニティにおいては他人を強制・操作・共依存に落とし込もうと言う罠が沢山あります。
子育てであれば子供が警告を発しているサインを見逃さないことが重要ですが、親が同調圧力に加担している場合もあります。
子供は親を選んで生まれてきたなんて言いますけど、そう言う人もいる、と言うお話であって、全てではありません。
なんとなく生まれた場合は、適当にそこらの親を選んだだけです。
よくスピリチュアルで言うように「母親を選んで生まれてきたのです!」なんて大そうな選び方をする場合ももちろんありますけど、半分以上の場合は なんとな〜く 選んだと言うのが現状です。
ですから、親も なんとな〜く でしょうし、子供が生まれても なんとな〜く です。 そんなもんです(苦笑)
意識的に霊的成長を願って親を選ぶ場合ももちろんありますけど、その場合はわざわざこんなこと言わなくても本人はわかっています。
選ぶと言うことで言えば、厳しい環境に自分を突き落とすことで社会勉強をする場合もあります。
宗教や精神的なこと、あるいは自然に基づくことに興味を持っている親を選んでいる場合は、人生ゲームの難易度は「スーパー・イージー」です。まあ、それで十分です。別に悪いことではありません。それで全く問題ありません。
なんとな〜く 選んだ場合は人生の難易度は「ノーマル」です。
宗教や精神的なことを否定する唯物論の親の子供として生まれる場合は人生の難易度は「ハード」です。
ドメスティック・バイオレンスの親の子供として生まれる場合の人生の難易度は「エクストリーム」です。
人生ゲームは、一つ間違えるとライフが1つ減ります。なくなるとゲームオーバーです。そんなもんです。
ただ、復活の呪文みたいなのがあって、ライフがゼロになってもある程度は復活したりしますけど、難易度は変わりません。
私の場合はこの復活の呪文は胸の中にある「光の玉」で認識していて、生まれる時に私の場合は3つ持って生まれました。そして、小学校の頃までに早速その3つを使い果たしてしまいました(苦笑)私の場合、難易度は「ハード」でした。
エクストリームの人生は私には無理ですねえ・・・、きっと。エクストリームでゲームオーバーで死亡する人は致し方ない気も致します。人生ゲームの難易度が高すぎます。
難易度「ノーマル」以上ですと周囲に強制・操作・共依存をしてくる人がわらわらと寄ってきますので、それに囚われてしまったらライフがどんどんと減ってゆきます。
人生の第一目的は生き残ることですから、立場が悪ければ逃げればいいのです。そして、ゲームのように、うまく立ち回れる場所で活動すればいいわけです。相手の術中にはまってライフを奪われ続ける必要はないわけです。
強制・操作・共依存をしてくる相手は「逃げるな」とか言ってくるでしょうけど、それこそ相手の思う壺で、相手のルールにのっとる必要は全くなくて、人生ゲームは自分でルールを作れますから自分のルールで生きればいいわけです。強制・操作・共依存をしてくる相手は自分のルール上に相手を乗せたいだけで、相手のことを思っているわけではありませんから、そこは見抜く必要があります。
古典のヨーガスートラや仏教の四無量心(慈悲喜捨)のうち「捨」として語られていることに、「不徳の人に会ったら無関心になりましょう(捨)」と言うことがあります。これが正しいのであって、相手と付き合う必要はないのです。相手は選べばいいだけです。
オーラ的にも相手に関心を持つとオーラ融合してしまって相手と一緒になって落ちてしまいますから関心を持たない方がいいですし、瞑想という観点からもそのような不徳な思いに囚われずに流してしまうことが正解です。
この世は魑魅魍魎の世界ですから、修羅たちが争っているところに混ざる必要は全くないわけです。
子育てであれば子供が警告を発しているサインを見逃さないことが重要ですが、親が同調圧力に加担している場合もあります。
子供は親を選んで生まれてきたなんて言いますけど、そう言う人もいる、と言うお話であって、全てではありません。
なんとなく生まれた場合は、適当にそこらの親を選んだだけです。
よくスピリチュアルで言うように「母親を選んで生まれてきたのです!」なんて大そうな選び方をする場合ももちろんありますけど、半分以上の場合は なんとな〜く 選んだと言うのが現状です。
ですから、親も なんとな〜く でしょうし、子供が生まれても なんとな〜く です。 そんなもんです(苦笑)
意識的に霊的成長を願って親を選ぶ場合ももちろんありますけど、その場合はわざわざこんなこと言わなくても本人はわかっています。
選ぶと言うことで言えば、厳しい環境に自分を突き落とすことで社会勉強をする場合もあります。
宗教や精神的なこと、あるいは自然に基づくことに興味を持っている親を選んでいる場合は、人生ゲームの難易度は「スーパー・イージー」です。まあ、それで十分です。別に悪いことではありません。それで全く問題ありません。
なんとな〜く 選んだ場合は人生の難易度は「ノーマル」です。
宗教や精神的なことを否定する唯物論の親の子供として生まれる場合は人生の難易度は「ハード」です。
ドメスティック・バイオレンスの親の子供として生まれる場合の人生の難易度は「エクストリーム」です。
人生ゲームは、一つ間違えるとライフが1つ減ります。なくなるとゲームオーバーです。そんなもんです。
ただ、復活の呪文みたいなのがあって、ライフがゼロになってもある程度は復活したりしますけど、難易度は変わりません。
私の場合はこの復活の呪文は胸の中にある「光の玉」で認識していて、生まれる時に私の場合は3つ持って生まれました。そして、小学校の頃までに早速その3つを使い果たしてしまいました(苦笑)私の場合、難易度は「ハード」でした。
エクストリームの人生は私には無理ですねえ・・・、きっと。エクストリームでゲームオーバーで死亡する人は致し方ない気も致します。人生ゲームの難易度が高すぎます。
難易度「ノーマル」以上ですと周囲に強制・操作・共依存をしてくる人がわらわらと寄ってきますので、それに囚われてしまったらライフがどんどんと減ってゆきます。
人生の第一目的は生き残ることですから、立場が悪ければ逃げればいいのです。そして、ゲームのように、うまく立ち回れる場所で活動すればいいわけです。相手の術中にはまってライフを奪われ続ける必要はないわけです。
強制・操作・共依存をしてくる相手は「逃げるな」とか言ってくるでしょうけど、それこそ相手の思う壺で、相手のルールにのっとる必要は全くなくて、人生ゲームは自分でルールを作れますから自分のルールで生きればいいわけです。強制・操作・共依存をしてくる相手は自分のルール上に相手を乗せたいだけで、相手のことを思っているわけではありませんから、そこは見抜く必要があります。
古典のヨーガスートラや仏教の四無量心(慈悲喜捨)のうち「捨」として語られていることに、「不徳の人に会ったら無関心になりましょう(捨)」と言うことがあります。これが正しいのであって、相手と付き合う必要はないのです。相手は選べばいいだけです。
オーラ的にも相手に関心を持つとオーラ融合してしまって相手と一緒になって落ちてしまいますから関心を持たない方がいいですし、瞑想という観点からもそのような不徳な思いに囚われずに流してしまうことが正解です。
この世は魑魅魍魎の世界ですから、修羅たちが争っているところに混ざる必要は全くないわけです。
特定の人や会社と付き合うことを守護霊が拒絶させることがある
面接や何かの機会で誰かに会う時、守護霊がそのお付き合いをしない方がいいと判断したら何某かの方法で関係を絶たせようとします。
例えば、就職の面接に向かうとします。守護霊がその会社に入らない方がいいと判断したら面接の直前から具合が悪くなって顔色が悪くなり、表情は硬くなり、言葉も出なくなって面接に落ちます。面接官からしたらそんなことはわかりませんから「この人はダメな人」と嘲笑って面接を落とすこともあるでしょうし、面接に赴いた人は自分のことに自信がなくなるかもしれません。ですが、それは往々にして守護霊が「ここはダメ」と判断しているのです。その判断は守護霊がすることもありますし、自分のハイヤーセルフというかグループソウルがすることもありますし、自分のスピリットが時空を超えていわゆる過去あるいは未来からインスピレーションを送っている時もあります。
面接なんてのは呼ばれれば割と通りますけど守護霊が介入してきたらほぼ通らないです。
本来であれば応募する前にインスピレーションを感じるべきことではありますが、何となく見過ごしてしまったり関係性で断れずに関わりを持ってしまいそうになった時に、いざとなればどうにかして関係を持たないように介入してくるということです。
面接官あるいは相手の立場からしたら、そんな初対面の人の判断をファーストインプレッションでするわけですけど、相手の態度がおかしかったら自分が拒否されていると思った方がいいと思います。この世の中に、変な人はそんなにいませんよ。
割と面接官は自信家ですので相手を判断して「この応募者はこのような人でした」とレポートを出すわけですけど、月日が経つにつれて実際の姿と違っていることが分かってきて、世間では「面接なんて意味あるのか」と言われたりしますけど、面接はやっぱり必要だと思います。そこで応募者を選別していると思っている会社側は、実際は応募者によって選別されているわけです。
この一時的なことが原因で面接官が応募者を見下したとしたら、応募者は単に入社しなければいいだけのことです。面接官は往々にして人事担当者ですから、そんな人生経験が足りなくて見る目のない人事がいる会社にでも入ったら人事評価で正しく見られることはありませんから入社しないのが正解なわけです。面接官が業務担当者だったとしても同じことで、上司に正しく評価されないのであれば入社しない方がいいわけです。
会社は応募者を選別していると思っているかもしれませんが、実際は応募者によって会社が選別されているということです。
とてもいい会社に見えてもその人の人生に不利益だと思えば守護霊は面接でどうにかして失敗させたりします。普段しないのにどうしてあんな変な態度を面接でしてしまったのだろう・・・ と思い悩むよりも、それは失敗して良かったのだと思った方がいいです。
どんな会社にいようとも、それは、その環境が一番良いからそこにいるわけです。
・・・確かに、本当に単純に失敗した、ということはあります。入社する筈だったのにできなかった、ということはあります。単純なアクシデントの失敗はあります。ミッション失敗で入社できなかった、ということはあります。でも、実際はそこまで難易度は高くありませんので、本来入るべきところには入れます。合わないと感じるところは守護霊が避けさせていることがほとんどです。・・・とは言いましても、積極的に関与してくる守護霊と、見守る方針の守護霊がいたりしますので、この表現はちょっと語弊があるかもしれませんが、少なくとも守護霊の意思は働きます。
人付き合いにしても同様で、異性とのお付き合いや結婚などは顕著にそれが働きます。
ですから、初対面の人への振る舞いで何か失敗して関係が作られなかったとしてもそれを自分のせいだと自責の念に駆られる必要はあまりないですし、変な人と会ったとしても、初対面だけで相手を判断するよりは自分が避けられているのだと思った方が良いです。
・・・実際は、本当に根本から変な人は一目でそうだとわかりますし、何か一時的におかしくなって関係を持たないように相手が拒否しているのだな、というのもはっきりとわかります。これらを見分けることができないのは人生経験が足りない、とも言えるかもしれませんね。ただ、見分けられていると思っていても初対面で見間違えることがあります。120%の自信があって相手を判断していると思っていても明らかに間違っている場合も多々あります。そんなもんです。
ですから、安全のためにも相手をそう簡単に判断しない方がいいと思うわけです。そもそも相手の人生なのですから、あなたがどうこう思い悩んだり卑下したりする必要はなくて、放っておけばいいだけのお話です。
印象を受け取ったら、それは相手の姿ではなく自分あるいは自社がそう相手から判断されていると思った方がいいと思います。相手にいい印象があれば、相手が自社あるいは自分にいい印象を持っているということ。逆も同様。それは一時的な姿でしかないわけです。
人生の奥深さがわからなくて簡単に相手を判断してしまう人も多いので、そういう人と会って自分や自社が表面的に判断されたら、逆に相手の人生経験の浅さを思ったりもします。とは言っても、それすらも実際は本質とは関係ない、所詮は雑念ですので、根本的にはやはり、単に相手は放っておけばいいだけのお話です。
実際のところ、会社の面接であればそのように守護霊が強く関与して拒絶させるような人は積極的に会社に入れるべきだと思いますけどね。いわゆる「運の強い人」でもあるわけで、様々に強運や縁を呼び込む人材であるわけです。守護霊に拒絶されているのだから会社の方に問題があるか、あるいは、応募者のやりたいことに合わないわけですから、あまり深く考えずに「縁がなかったのだ」、と思うくらいで十分かもしれないですね。
例えば、就職の面接に向かうとします。守護霊がその会社に入らない方がいいと判断したら面接の直前から具合が悪くなって顔色が悪くなり、表情は硬くなり、言葉も出なくなって面接に落ちます。面接官からしたらそんなことはわかりませんから「この人はダメな人」と嘲笑って面接を落とすこともあるでしょうし、面接に赴いた人は自分のことに自信がなくなるかもしれません。ですが、それは往々にして守護霊が「ここはダメ」と判断しているのです。その判断は守護霊がすることもありますし、自分のハイヤーセルフというかグループソウルがすることもありますし、自分のスピリットが時空を超えていわゆる過去あるいは未来からインスピレーションを送っている時もあります。
面接なんてのは呼ばれれば割と通りますけど守護霊が介入してきたらほぼ通らないです。
本来であれば応募する前にインスピレーションを感じるべきことではありますが、何となく見過ごしてしまったり関係性で断れずに関わりを持ってしまいそうになった時に、いざとなればどうにかして関係を持たないように介入してくるということです。
面接官あるいは相手の立場からしたら、そんな初対面の人の判断をファーストインプレッションでするわけですけど、相手の態度がおかしかったら自分が拒否されていると思った方がいいと思います。この世の中に、変な人はそんなにいませんよ。
割と面接官は自信家ですので相手を判断して「この応募者はこのような人でした」とレポートを出すわけですけど、月日が経つにつれて実際の姿と違っていることが分かってきて、世間では「面接なんて意味あるのか」と言われたりしますけど、面接はやっぱり必要だと思います。そこで応募者を選別していると思っている会社側は、実際は応募者によって選別されているわけです。
この一時的なことが原因で面接官が応募者を見下したとしたら、応募者は単に入社しなければいいだけのことです。面接官は往々にして人事担当者ですから、そんな人生経験が足りなくて見る目のない人事がいる会社にでも入ったら人事評価で正しく見られることはありませんから入社しないのが正解なわけです。面接官が業務担当者だったとしても同じことで、上司に正しく評価されないのであれば入社しない方がいいわけです。
会社は応募者を選別していると思っているかもしれませんが、実際は応募者によって会社が選別されているということです。
とてもいい会社に見えてもその人の人生に不利益だと思えば守護霊は面接でどうにかして失敗させたりします。普段しないのにどうしてあんな変な態度を面接でしてしまったのだろう・・・ と思い悩むよりも、それは失敗して良かったのだと思った方がいいです。
どんな会社にいようとも、それは、その環境が一番良いからそこにいるわけです。
・・・確かに、本当に単純に失敗した、ということはあります。入社する筈だったのにできなかった、ということはあります。単純なアクシデントの失敗はあります。ミッション失敗で入社できなかった、ということはあります。でも、実際はそこまで難易度は高くありませんので、本来入るべきところには入れます。合わないと感じるところは守護霊が避けさせていることがほとんどです。・・・とは言いましても、積極的に関与してくる守護霊と、見守る方針の守護霊がいたりしますので、この表現はちょっと語弊があるかもしれませんが、少なくとも守護霊の意思は働きます。
人付き合いにしても同様で、異性とのお付き合いや結婚などは顕著にそれが働きます。
ですから、初対面の人への振る舞いで何か失敗して関係が作られなかったとしてもそれを自分のせいだと自責の念に駆られる必要はあまりないですし、変な人と会ったとしても、初対面だけで相手を判断するよりは自分が避けられているのだと思った方が良いです。
・・・実際は、本当に根本から変な人は一目でそうだとわかりますし、何か一時的におかしくなって関係を持たないように相手が拒否しているのだな、というのもはっきりとわかります。これらを見分けることができないのは人生経験が足りない、とも言えるかもしれませんね。ただ、見分けられていると思っていても初対面で見間違えることがあります。120%の自信があって相手を判断していると思っていても明らかに間違っている場合も多々あります。そんなもんです。
ですから、安全のためにも相手をそう簡単に判断しない方がいいと思うわけです。そもそも相手の人生なのですから、あなたがどうこう思い悩んだり卑下したりする必要はなくて、放っておけばいいだけのお話です。
印象を受け取ったら、それは相手の姿ではなく自分あるいは自社がそう相手から判断されていると思った方がいいと思います。相手にいい印象があれば、相手が自社あるいは自分にいい印象を持っているということ。逆も同様。それは一時的な姿でしかないわけです。
人生の奥深さがわからなくて簡単に相手を判断してしまう人も多いので、そういう人と会って自分や自社が表面的に判断されたら、逆に相手の人生経験の浅さを思ったりもします。とは言っても、それすらも実際は本質とは関係ない、所詮は雑念ですので、根本的にはやはり、単に相手は放っておけばいいだけのお話です。
実際のところ、会社の面接であればそのように守護霊が強く関与して拒絶させるような人は積極的に会社に入れるべきだと思いますけどね。いわゆる「運の強い人」でもあるわけで、様々に強運や縁を呼び込む人材であるわけです。守護霊に拒絶されているのだから会社の方に問題があるか、あるいは、応募者のやりたいことに合わないわけですから、あまり深く考えずに「縁がなかったのだ」、と思うくらいで十分かもしれないですね。
霊能力を持っている人を怒らせてマスコミ産業は衰退した
マスコミはインタビューの一部を取り上げて本来の意図とは違った報道をして面白おかしく視聴率優先でネタを作り上げていますけど、そのネタにされて捏造報道されてしまった方はたまったものではありません。
そう言う被害者本人、あるいはその守護霊が能力を持っていたりしますと、かなりの確率で仕返しされます。
直接的には無害で何も言い返さなかったりするかもしれませんけど、わからないようにしつこくしつこく仕返しをしたりします。
ですから、捏造報道をする人は気をつけた方がいいと思います。特に矢面に立つ人は真っ先に狙われます。本人はきっと、単に運が悪かっただとか思うだけで原因はわからないでしょうけど、人に恨まれるってのはそう言うことです。
狙われた方は「正々堂々と言ってこい」とか思うかもしれませんけど、正々堂々と抗議したのに貴方が無視したから能力を使ってことごとく人生を破壊しに行っているわけで、最初の1回目の警告を無視したらもうそれで終わりなのです。
2度目の警告があると思わない方が良いです。
最初の警告をした時に「なんだこいつ」と思って無視したら最後、人生が破綻するまで足を引っ張ったり転ばせたりします。呪われる、とはそう言うことです。
マスコミ産業はそのような恨み・呪いが蔓延していますから、足の引っ張り合いや転ばし合いを繰り返すことでどんどんと衰退して行っています。
本来のマスコミの在り方は「真実の報道」と言うことでしたが、今はもやはやそれは自己正当化のための言い訳あるいはアリバイにしかなっておらず、実態は捏造報道が蔓延しています。それは視聴率優先ということですが、本来の根っこの思想が固まっていないからそのようなことになっているのでしょう。「面白さ」と言いつつも他人の足を引っ張ることに喜びを見出すマスコミ関係者がマスコミを崩壊させて行っていると言えます。
真実の報道がしたいと思っているマスコミ関係者もいらっしゃいますけど、このような足を引っ張る人たちが生み出した恨み・呪いはその直接的原因を作り出した人のみならず業界全体を呪ってそれらしき人を次々に巻き込みますから、特に能力のある人が恨んだり呪ったりしたら業界が丸ごと転ぶことになります。
現状のマスコミはそんな感じなのではないでしょうか。バブル時代のテレビには二度と戻らないでしょうし、それは本人たちが自分で招いた結果であるわけです。
そんな業界のことなんて私はあまり気にしていなくて好きにすればいいと思っていて、放っておけばいいとしか思っていないですけど、ただ、一つ言えることは、人に呪われたり恨まれたりするようなことをしない方がいい、ということです。
呪いというのは厄介で、一度呪われたらかなりの長い期間、引きずりますからね。マスコミの捏造報道が原因で被害者から呪われて人生を棒に振った人がかなりいると思いますし、人だけでなく会社が潰れることだってあります。
むしろ、力のある能力者の場合は人ではなく会社を狙いますから、会社が傾くような呪いをかけて不祥事やら被害やらが出たりするようになります。実際、世間を騒がせている有名どころはそういう呪いが原因のところもあると思いますよ。
まあ、あんまり他人に呪われるようなことをしないことです。特に高貴な人、能力のある人を怒らせない方がいいと思います。そういう人はそうそう怒らないですけど怒って呪ったりしたらかなり怖いです。そんじょそこらの上場企業が傾くなんて普通にありますからね。
20年くらい前にね、NHKの記者と話をしたことがあって、私が「NHKの中には捏造報道や中韓よりの人がいますよね」と言ったら、その記者は「NHKの人全員が捏造報道をするとか全員が中韓寄りだなんていう貴方とはもう話をしません」とか言ってきて、この人は一体何を言っているんだろう? と呆れ返ったことがあります。私は「NHKの中にはそういう人がいますよね(一部にはそういう人がいますよね)」と言ったのであって「全員」がそうだとは一言も言っていないのにNHK記者は文脈を取り替えて自己正当化してきたのです。
NHK記者は言葉の専門家でしょう。言葉の専門家が他人の言っていることを正しく理解しないでどうやって仕事をしているのでしょうかね。
私の文脈を読み取ることができなかったのであれば記者として基本的な日本語理解能力が欠けているということで問題外ですし、わかっていて文脈をすり替えたのであれば自己正当化あるいは目的の記事を作るためには現実をねじ曲げても良いというスタンスがそこにあることがわかります。どちらにしても記者としてまともだとは思えません。こうして捏造記事が作られていくのだなあ、というのがよくわかった出来事でした。マスコミの捏造記者には関わらない方がいいですね。他人の話を理解するよりも自分の主張のために現実をねじ曲げるのだということがよくわかった出来事でした。知らないマスコミの記者とはそもそも話をしない方がいいですよ。自分のエゴが強すぎて、主張を通すために他人のあら探しをするような人たちでした。あんなの、誰にも相手されなくなってゆくのではないでしょうか。日本企業は甘いですよね。なんで首を切らないのでしょうか。
私は呆れたくらいですみましたけど、これを大々的に日本中に報道されたらかなり怒って仕返ししていたでしょうね。直接的に三次元的には何もしないですけど呪って、例えばアクセルを踏み間違えさせて崖から転落させるとか自動車運転中に気を散らせてトラックに衝突させるとか、やろうと思えばいくらだってできますからね。
まあ、それほどの恨みや仕返しをする時はこちらもそれなりの覚悟を持ってしますから普通はしないですけどね。その人が本来する筈だった目的とか全部キャンセルになってしまうわけですから、そんじょそこらの恨みや呪いじゃそこまではしませんけど、そうして始末されていく人も実際、この世の中にはいるわけです。
人に仕返しするよりも会社にダメージを与える方がジワジワと効いていいですよね。
そう言えば20年くらい前に悪徳商法に引っかかって会社を遠回しに潰したこともありますが・・・ それは呪いだけじゃなくてネットの力も使いましたけどね。そうして会社も簡単に傾くので、甘く見て他人に呪われない方がいいと思います。案外、会社は脆いもので、すぐに傾きます。
そう言う被害者本人、あるいはその守護霊が能力を持っていたりしますと、かなりの確率で仕返しされます。
直接的には無害で何も言い返さなかったりするかもしれませんけど、わからないようにしつこくしつこく仕返しをしたりします。
ですから、捏造報道をする人は気をつけた方がいいと思います。特に矢面に立つ人は真っ先に狙われます。本人はきっと、単に運が悪かっただとか思うだけで原因はわからないでしょうけど、人に恨まれるってのはそう言うことです。
狙われた方は「正々堂々と言ってこい」とか思うかもしれませんけど、正々堂々と抗議したのに貴方が無視したから能力を使ってことごとく人生を破壊しに行っているわけで、最初の1回目の警告を無視したらもうそれで終わりなのです。
2度目の警告があると思わない方が良いです。
最初の警告をした時に「なんだこいつ」と思って無視したら最後、人生が破綻するまで足を引っ張ったり転ばせたりします。呪われる、とはそう言うことです。
マスコミ産業はそのような恨み・呪いが蔓延していますから、足の引っ張り合いや転ばし合いを繰り返すことでどんどんと衰退して行っています。
本来のマスコミの在り方は「真実の報道」と言うことでしたが、今はもやはやそれは自己正当化のための言い訳あるいはアリバイにしかなっておらず、実態は捏造報道が蔓延しています。それは視聴率優先ということですが、本来の根っこの思想が固まっていないからそのようなことになっているのでしょう。「面白さ」と言いつつも他人の足を引っ張ることに喜びを見出すマスコミ関係者がマスコミを崩壊させて行っていると言えます。
真実の報道がしたいと思っているマスコミ関係者もいらっしゃいますけど、このような足を引っ張る人たちが生み出した恨み・呪いはその直接的原因を作り出した人のみならず業界全体を呪ってそれらしき人を次々に巻き込みますから、特に能力のある人が恨んだり呪ったりしたら業界が丸ごと転ぶことになります。
現状のマスコミはそんな感じなのではないでしょうか。バブル時代のテレビには二度と戻らないでしょうし、それは本人たちが自分で招いた結果であるわけです。
そんな業界のことなんて私はあまり気にしていなくて好きにすればいいと思っていて、放っておけばいいとしか思っていないですけど、ただ、一つ言えることは、人に呪われたり恨まれたりするようなことをしない方がいい、ということです。
呪いというのは厄介で、一度呪われたらかなりの長い期間、引きずりますからね。マスコミの捏造報道が原因で被害者から呪われて人生を棒に振った人がかなりいると思いますし、人だけでなく会社が潰れることだってあります。
むしろ、力のある能力者の場合は人ではなく会社を狙いますから、会社が傾くような呪いをかけて不祥事やら被害やらが出たりするようになります。実際、世間を騒がせている有名どころはそういう呪いが原因のところもあると思いますよ。
まあ、あんまり他人に呪われるようなことをしないことです。特に高貴な人、能力のある人を怒らせない方がいいと思います。そういう人はそうそう怒らないですけど怒って呪ったりしたらかなり怖いです。そんじょそこらの上場企業が傾くなんて普通にありますからね。
20年くらい前にね、NHKの記者と話をしたことがあって、私が「NHKの中には捏造報道や中韓よりの人がいますよね」と言ったら、その記者は「NHKの人全員が捏造報道をするとか全員が中韓寄りだなんていう貴方とはもう話をしません」とか言ってきて、この人は一体何を言っているんだろう? と呆れ返ったことがあります。私は「NHKの中にはそういう人がいますよね(一部にはそういう人がいますよね)」と言ったのであって「全員」がそうだとは一言も言っていないのにNHK記者は文脈を取り替えて自己正当化してきたのです。
NHK記者は言葉の専門家でしょう。言葉の専門家が他人の言っていることを正しく理解しないでどうやって仕事をしているのでしょうかね。
私の文脈を読み取ることができなかったのであれば記者として基本的な日本語理解能力が欠けているということで問題外ですし、わかっていて文脈をすり替えたのであれば自己正当化あるいは目的の記事を作るためには現実をねじ曲げても良いというスタンスがそこにあることがわかります。どちらにしても記者としてまともだとは思えません。こうして捏造記事が作られていくのだなあ、というのがよくわかった出来事でした。マスコミの捏造記者には関わらない方がいいですね。他人の話を理解するよりも自分の主張のために現実をねじ曲げるのだということがよくわかった出来事でした。知らないマスコミの記者とはそもそも話をしない方がいいですよ。自分のエゴが強すぎて、主張を通すために他人のあら探しをするような人たちでした。あんなの、誰にも相手されなくなってゆくのではないでしょうか。日本企業は甘いですよね。なんで首を切らないのでしょうか。
私は呆れたくらいですみましたけど、これを大々的に日本中に報道されたらかなり怒って仕返ししていたでしょうね。直接的に三次元的には何もしないですけど呪って、例えばアクセルを踏み間違えさせて崖から転落させるとか自動車運転中に気を散らせてトラックに衝突させるとか、やろうと思えばいくらだってできますからね。
まあ、それほどの恨みや仕返しをする時はこちらもそれなりの覚悟を持ってしますから普通はしないですけどね。その人が本来する筈だった目的とか全部キャンセルになってしまうわけですから、そんじょそこらの恨みや呪いじゃそこまではしませんけど、そうして始末されていく人も実際、この世の中にはいるわけです。
人に仕返しするよりも会社にダメージを与える方がジワジワと効いていいですよね。
そう言えば20年くらい前に悪徳商法に引っかかって会社を遠回しに潰したこともありますが・・・ それは呪いだけじゃなくてネットの力も使いましたけどね。そうして会社も簡単に傾くので、甘く見て他人に呪われない方がいいと思います。案外、会社は脆いもので、すぐに傾きます。
度々取り憑かれている意識体を引き抜く
もうこれは定期的な現象になってしまっていますけど、ここ最近日常的なヴィパッサナー状態が安定しないな... と思っていて瞑想中に確認しましたところ、何やら透明な意識体が体の右半身に取り憑いていました。またですか。
最近は体の中から違和感を感じていて、何だろう... と思っていました。
そこで、瞑想中に、オーラの手で体の各所を掴むようにしてゆっくりと体の右側に引き抜くようにしたら急に右肩の緊張が取れました。
更に、「私の魂の由来ではないものは体から出て行ってください」と念じたら、何やらおぼろげにお爺さんのような魂の炎のような、白黒の半透明な魂の炎にお爺さんの顔が写っているかのようなものが見えたので「出て行ってください」と言ったのです。
それだけでなく、どこで拾ってきたのか虫のような変なものが体の各所に挟まっていたり埋まっていたりして、非常に気持ち悪い!!! 普通の人はこんなの気にしないでしょうから、もっと埋まっていたりするのでしょうね。
その気持ち悪いものをオーラの手で掴んだり探ったりして一つづつ引き抜きました。それで更に楽になりました。
体の各所を探って、大きなものは取れた感じです。
こういうのって、外に出ると気付かずに拾ってきてしまう感じなので定期的な掃除が欠かせない感じが致します。
一旦引き抜いた炎のお爺さんはなかなか近くから離れないようでしたから「まとわりつくようならば消滅させますよ」と言ったら渋々と離れて行ったようですが、こういうのってしつこいですから度々チェックが必要です。いきなり消滅させるのはよろしくなくて、きちんと警告を何度かしてそれでも警告を無視するのならばこちらに落ち度はありませんから消滅なりなんなりしてあげるのが良いですが、そんな場合でも全部を一気にするのではなく部分的に消滅させればびっくりして逃げてゆくことがほとんどです。
最近は体の中から違和感を感じていて、何だろう... と思っていました。
そこで、瞑想中に、オーラの手で体の各所を掴むようにしてゆっくりと体の右側に引き抜くようにしたら急に右肩の緊張が取れました。
更に、「私の魂の由来ではないものは体から出て行ってください」と念じたら、何やらおぼろげにお爺さんのような魂の炎のような、白黒の半透明な魂の炎にお爺さんの顔が写っているかのようなものが見えたので「出て行ってください」と言ったのです。
それだけでなく、どこで拾ってきたのか虫のような変なものが体の各所に挟まっていたり埋まっていたりして、非常に気持ち悪い!!! 普通の人はこんなの気にしないでしょうから、もっと埋まっていたりするのでしょうね。
その気持ち悪いものをオーラの手で掴んだり探ったりして一つづつ引き抜きました。それで更に楽になりました。
体の各所を探って、大きなものは取れた感じです。
こういうのって、外に出ると気付かずに拾ってきてしまう感じなので定期的な掃除が欠かせない感じが致します。
一旦引き抜いた炎のお爺さんはなかなか近くから離れないようでしたから「まとわりつくようならば消滅させますよ」と言ったら渋々と離れて行ったようですが、こういうのってしつこいですから度々チェックが必要です。いきなり消滅させるのはよろしくなくて、きちんと警告を何度かしてそれでも警告を無視するのならばこちらに落ち度はありませんから消滅なりなんなりしてあげるのが良いですが、そんな場合でも全部を一気にするのではなく部分的に消滅させればびっくりして逃げてゆくことがほとんどです。
精神病のエネルギーヴァンパイアは隔離すべき
これは、精神病を卑下するように言っているのではありません。精神病はオーラの境目が曖昧で激しく揺れ動いているために近くに誰かが近づくと精神病患者のオーラが健常者と混ざってしまって病気が移ってしまうからです。
特定病原菌にかかった患者は隔離するでしょう。病原菌であれば三次元の物体で隔離できますのでやりやすいですがオーラの場合はある程度は壁も通り抜けますので絶対的な距離を保たなければ周囲の人のオーラが破損してゆきます。
昔と違って学校などでは精神病患者と健常者が同じ教室で過ごすようになって来ているようですが、私も子供の頃にオーラが不安定な人の横の席に座らされてオーラを延々と引き抜かれたことがあります。横にいるだけでオーラが奪われて、私が精神的に不安定になってイライラしやすくなる一方で、どんどんとその知恵遅れの人の症状が回復してゆくのです。
まったく、いい迷惑です。
これは、先日書いたようにオーラを混ぜてはいけないと言う宇宙の法則に反しています。
生命体はそれぞれの進化の度合いがあってそれぞれの学びがありますから、オーラを奪うことでその学びを飛び越えてしまうと「抜け」ができてしまうのです。
私もどうしてこんな宇宙の法則ができたのかその根元までは知りませんが、どうやら地球以外では広く行き渡っている法則のようです。
ですから、精神病患者は単に動物から人間になる成長過程を学んでいるだけであってそれが悪いことではなくて卑下する必要もなくてそれなりに生活しさえすればいいのに人間は平等だからとか言う訳の分からないイデオロギーに洗脳された教育現場で「知恵遅れの動物人間」と「普通の人間」とを隣に座らせたら普通の人たちの精神が不安定になるのも当然と言えます。
その状況を見て「学級崩壊」とか言っていますけど、一体、どこをどう見て学級崩壊だと嘆いているのかサッパリわかりません。
そもそもの原因は精神の成長段階が異なる人たちを同じ部屋に詰め込むから学級崩壊と呼ばれていることが起こるのです。
今の学校教育は最悪ですよ。
昨今、コロナでネット授業になってホッとしている人も多いのではないでしょうかね。
近くにいるだけで精神が病む人がいて、その人と対面で会う必要がありませんからね。
今の学校教育、もっと言えば社会のほとんどでエネルギーヴァンパイアが有利なようにできています。嫌がらせをして精神病でいた方がエネルギーが奪えると言う社会構造が出来上がっています。
まずは教育から変えないといけませんよね。
子供はある程度は耐えてしまいますけど、耐える必要はないと私は考えます。
合わない人とは付き合う必要がありません。
学校の先生に「誰々君は友達がいなくてかわいそう」とか言われても、エネルギーヴァンパイアと友達のふりをしてエネルギーを奪われ続けるよりは友達なんて作らない方が良いです。そのような多様性を学校の先生は理解する必要があります。先生はあまりにも1つのステレオタイプに合わせようとしすぎます。学校や先生によるところは大きいとは思いますけど、所詮は人間ですから子供のことなんて真には分からないのです。子供は、そんな程度の先生を信じすぎないことですね。特に、友達と仲良くしましょうとか言ってくる先生には要注意で、複雑な人間関係を理解していない、魂として成熟していない若い魂である可能性があります。
動物上がりの動物人間とどうやって理解し合えと言うのでしょうかね。学校の先生が言うことは訳が分かりませんよ。
先生の強制や、会社での強制で動物上がりの動物人間と付き合った結果、まともな人の精神が崩壊するのです。
そうして、精神が崩壊した人を指して「あいつは頭がおかしい」とか、まさにその動物人間が状況も理解せずにエネルギーヴァンパイアしつつ他人を蔑むのが現在の社会の姿です。頭がおかしいのは動物人間であるのに、そんな動物人間と付き合って精神が疲れてしまったまともな人が頭がおかしいと動物人間に言われると言う奇妙な現象が起きています。
ですからね。最初から動物人間のような精神病のエネルギーヴァンパイアとは付き合わないことですよ。
子供の頃から、最初から付き合わないことです。会社でも付き合わないことです。
学校では登校拒否していいし、会社であればすぐに辞めてもいいです。
ちょっと前なら人生に困りましたけど、今はいくらでも手がありますし、やがてはそう言う子供がどんどんと増えて行きますから、お互いに同じような子供たちでシステムを作り上げてゆくことと思います。
その時、新しいシステムに入ることができるのはまともな人間だけであり、エネルギーヴァンパイアの動物人間はそのシステムに加わることを拒否されることになります。
そろそろその入れ替わりの時期なのでは、と思います。
エネルギーヴァンパイアしてこの世の春を謳歌していた動物人間たちは、そのうち、いつの間にか自分たちの居場所がなくなっていることに気が付くと思いますよ。
エネルギーヴァンパイアにエネルギーを与える人がいるから現在の社会が継続するのです。まずは意識の中で「私はもうエネルギーを奪わせません。私はもうエネルギーを奪いません。」と宣言しましょう。そうすることで自分のエネルギーの動きが変わっていって、自分をカモだと思っている人が少しずつ減ってゆきます。
エネルギーヴァンパイアは、親切かどうかとは関係がないですよ。親切そうに見せておいて他人のエネルギー、他人の労力、成果を奪おうとしている人はいくらでもいます。そう言う人は全員、エネルギーヴァンパイアです。奪われることを拒否して、「自分でやってください」と宣言することです。
「仲良くしましょう」みたいなのはエネルギーヴァンパイアの常套句です。そんなことを言う人がいたら気を付けましょう。
本当に仲良くすべき人はそんなこと言わなくてもお互いに分かりますよ。まずは、エネルギーヴァンパイアのエネルギー供給元であることを辞めることからですね。そうして自立して、それからようやく本当に仲良くすべき人が現れます。自立していない人には仲良くとかそう言うお話はありませんからね。
まずはエネルギーヴァンパイアを拒否し、次は、自立することですね。
見分け方として、一見良い人のように見えるが何か違和感を感じる人がいたとします。違和感があるので仲良くするのをやんわりと拒否したら「潰す」とか脅してくるのがエネルギーヴァンパイアです。分かりやすいでしょう? 最初に感じた違和感を大切にしましょう。騙されないことですよ。
自立するまでは仲良しごっこを拒否すると言うのも手ですね。子供は、本当の自立が何かすら分からないかもしれませんから、社会がわかるようになるまで他人には気を付けることです。
大人は、子供に向かって「友達と仲良くしましょう」なんて無責任なことを言わないことです。よく見て友達は選ばせましょう。そうしないと同質化してエネルギーヴァンパイア化してしまいます。それが子供というものです。
多くの人は、エネルギーヴァンパイアして他人からエネルギーを奪うことが自立だと勘違いしていますからね。それって自立じゃなくて他に依存していることに気がついていないんですよね。世の中、その程度ですよ。その程度の認識で自立だとか言っている人が大勢います。
まあ、この世の中は難易度高いですからね。かなりの場合にゲームオーバーになりますからね。本来の目的を達成できずに寿命を迎えます。そんなものですよ。
子供が変になったとしても、あまり嘆かないことです。難易度高いゲームに挑む子供が失敗しても、そんなものだと思った方が気が楽かもしれません。
親も同類なら逆にエネルギーヴァンパイアになることが成功だと思ったりしますからね・・・。勝手にしてくれ、って感じです。私に関与しないでください。
今の世の中で子供を育てるのはなかなか難易度が高いですからね。今の時代に子供は作らない方がいいと私なんかは思います。前世まで普通でも、この時代に生まれたらおかしくなる可能性が高いですから。
特定病原菌にかかった患者は隔離するでしょう。病原菌であれば三次元の物体で隔離できますのでやりやすいですがオーラの場合はある程度は壁も通り抜けますので絶対的な距離を保たなければ周囲の人のオーラが破損してゆきます。
昔と違って学校などでは精神病患者と健常者が同じ教室で過ごすようになって来ているようですが、私も子供の頃にオーラが不安定な人の横の席に座らされてオーラを延々と引き抜かれたことがあります。横にいるだけでオーラが奪われて、私が精神的に不安定になってイライラしやすくなる一方で、どんどんとその知恵遅れの人の症状が回復してゆくのです。
まったく、いい迷惑です。
これは、先日書いたようにオーラを混ぜてはいけないと言う宇宙の法則に反しています。
生命体はそれぞれの進化の度合いがあってそれぞれの学びがありますから、オーラを奪うことでその学びを飛び越えてしまうと「抜け」ができてしまうのです。
私もどうしてこんな宇宙の法則ができたのかその根元までは知りませんが、どうやら地球以外では広く行き渡っている法則のようです。
ですから、精神病患者は単に動物から人間になる成長過程を学んでいるだけであってそれが悪いことではなくて卑下する必要もなくてそれなりに生活しさえすればいいのに人間は平等だからとか言う訳の分からないイデオロギーに洗脳された教育現場で「知恵遅れの動物人間」と「普通の人間」とを隣に座らせたら普通の人たちの精神が不安定になるのも当然と言えます。
その状況を見て「学級崩壊」とか言っていますけど、一体、どこをどう見て学級崩壊だと嘆いているのかサッパリわかりません。
そもそもの原因は精神の成長段階が異なる人たちを同じ部屋に詰め込むから学級崩壊と呼ばれていることが起こるのです。
今の学校教育は最悪ですよ。
昨今、コロナでネット授業になってホッとしている人も多いのではないでしょうかね。
近くにいるだけで精神が病む人がいて、その人と対面で会う必要がありませんからね。
今の学校教育、もっと言えば社会のほとんどでエネルギーヴァンパイアが有利なようにできています。嫌がらせをして精神病でいた方がエネルギーが奪えると言う社会構造が出来上がっています。
まずは教育から変えないといけませんよね。
子供はある程度は耐えてしまいますけど、耐える必要はないと私は考えます。
合わない人とは付き合う必要がありません。
学校の先生に「誰々君は友達がいなくてかわいそう」とか言われても、エネルギーヴァンパイアと友達のふりをしてエネルギーを奪われ続けるよりは友達なんて作らない方が良いです。そのような多様性を学校の先生は理解する必要があります。先生はあまりにも1つのステレオタイプに合わせようとしすぎます。学校や先生によるところは大きいとは思いますけど、所詮は人間ですから子供のことなんて真には分からないのです。子供は、そんな程度の先生を信じすぎないことですね。特に、友達と仲良くしましょうとか言ってくる先生には要注意で、複雑な人間関係を理解していない、魂として成熟していない若い魂である可能性があります。
動物上がりの動物人間とどうやって理解し合えと言うのでしょうかね。学校の先生が言うことは訳が分かりませんよ。
先生の強制や、会社での強制で動物上がりの動物人間と付き合った結果、まともな人の精神が崩壊するのです。
そうして、精神が崩壊した人を指して「あいつは頭がおかしい」とか、まさにその動物人間が状況も理解せずにエネルギーヴァンパイアしつつ他人を蔑むのが現在の社会の姿です。頭がおかしいのは動物人間であるのに、そんな動物人間と付き合って精神が疲れてしまったまともな人が頭がおかしいと動物人間に言われると言う奇妙な現象が起きています。
ですからね。最初から動物人間のような精神病のエネルギーヴァンパイアとは付き合わないことですよ。
子供の頃から、最初から付き合わないことです。会社でも付き合わないことです。
学校では登校拒否していいし、会社であればすぐに辞めてもいいです。
ちょっと前なら人生に困りましたけど、今はいくらでも手がありますし、やがてはそう言う子供がどんどんと増えて行きますから、お互いに同じような子供たちでシステムを作り上げてゆくことと思います。
その時、新しいシステムに入ることができるのはまともな人間だけであり、エネルギーヴァンパイアの動物人間はそのシステムに加わることを拒否されることになります。
そろそろその入れ替わりの時期なのでは、と思います。
エネルギーヴァンパイアしてこの世の春を謳歌していた動物人間たちは、そのうち、いつの間にか自分たちの居場所がなくなっていることに気が付くと思いますよ。
エネルギーヴァンパイアにエネルギーを与える人がいるから現在の社会が継続するのです。まずは意識の中で「私はもうエネルギーを奪わせません。私はもうエネルギーを奪いません。」と宣言しましょう。そうすることで自分のエネルギーの動きが変わっていって、自分をカモだと思っている人が少しずつ減ってゆきます。
エネルギーヴァンパイアは、親切かどうかとは関係がないですよ。親切そうに見せておいて他人のエネルギー、他人の労力、成果を奪おうとしている人はいくらでもいます。そう言う人は全員、エネルギーヴァンパイアです。奪われることを拒否して、「自分でやってください」と宣言することです。
「仲良くしましょう」みたいなのはエネルギーヴァンパイアの常套句です。そんなことを言う人がいたら気を付けましょう。
本当に仲良くすべき人はそんなこと言わなくてもお互いに分かりますよ。まずは、エネルギーヴァンパイアのエネルギー供給元であることを辞めることからですね。そうして自立して、それからようやく本当に仲良くすべき人が現れます。自立していない人には仲良くとかそう言うお話はありませんからね。
まずはエネルギーヴァンパイアを拒否し、次は、自立することですね。
見分け方として、一見良い人のように見えるが何か違和感を感じる人がいたとします。違和感があるので仲良くするのをやんわりと拒否したら「潰す」とか脅してくるのがエネルギーヴァンパイアです。分かりやすいでしょう? 最初に感じた違和感を大切にしましょう。騙されないことですよ。
自立するまでは仲良しごっこを拒否すると言うのも手ですね。子供は、本当の自立が何かすら分からないかもしれませんから、社会がわかるようになるまで他人には気を付けることです。
大人は、子供に向かって「友達と仲良くしましょう」なんて無責任なことを言わないことです。よく見て友達は選ばせましょう。そうしないと同質化してエネルギーヴァンパイア化してしまいます。それが子供というものです。
多くの人は、エネルギーヴァンパイアして他人からエネルギーを奪うことが自立だと勘違いしていますからね。それって自立じゃなくて他に依存していることに気がついていないんですよね。世の中、その程度ですよ。その程度の認識で自立だとか言っている人が大勢います。
まあ、この世の中は難易度高いですからね。かなりの場合にゲームオーバーになりますからね。本来の目的を達成できずに寿命を迎えます。そんなものですよ。
子供が変になったとしても、あまり嘆かないことです。難易度高いゲームに挑む子供が失敗しても、そんなものだと思った方が気が楽かもしれません。
親も同類なら逆にエネルギーヴァンパイアになることが成功だと思ったりしますからね・・・。勝手にしてくれ、って感じです。私に関与しないでください。
今の世の中で子供を育てるのはなかなか難易度が高いですからね。今の時代に子供は作らない方がいいと私なんかは思います。前世まで普通でも、この時代に生まれたらおかしくなる可能性が高いですから。
錆び付いた胸の扉を開く
ずっと眉間に集中する瞑想をしてきて、今まで胸に意識を合わせる瞑想はほとんど行ってきませんでした。
クンダリーニが活性化してマニプラ優勢になったりアナハタ優勢になった時も基本的にはずっと眉間のアジナチャクラに集中しておりました。
しかし、ここにきて統合されたチャクラとでも言えるようなハートを感じる瞑想状態に達したことでハートに意識を合わせる瞑想を試みるようになりました。
眉間の瞑想は基本として存在しており、まずは眉間に集中して意識が凪の状態になるまで瞑想した後、集中ポイントを胸のあたりに移してみました。
すると、最初は慣れていないせいか、何やら古傷のような鈍い痛みが走って胸への集中を拒みました。
何だろうと思って再度ゆっくりと胸に意識を合わせてみますと、ちょうど胸のあたりに古傷のような鈍い塊のようなものがあるのがなんとなくわかります。肉眼では何もわかりませんけど、感覚的なものです。
そこで、あまり無理せずにその辺りに意識を合わせてみると、意外にすぐにその胸の古傷は消えてゆきました。9割以上なくなったように思います。
おそらく30分かそこらですぐになくなりました。
これ、30分と言うとそんなに大したことがないと思われるかもしれませんが、今まで何度か同様に胸に意識を合わせて瞑想を試みてもしっくりこなかったので、今回、たった30分でこのような変化が現れたのは大きな変化であると言えます。個人的にはそうです。
これで、眉間の瞑想以外に胸への瞑想という選択肢が増えました。
安定感で言うとまだ眉間ほどではないですが、これから少しずつ様子を見ていきます。
クンダリーニが活性化してマニプラ優勢になったりアナハタ優勢になった時も基本的にはずっと眉間のアジナチャクラに集中しておりました。
しかし、ここにきて統合されたチャクラとでも言えるようなハートを感じる瞑想状態に達したことでハートに意識を合わせる瞑想を試みるようになりました。
眉間の瞑想は基本として存在しており、まずは眉間に集中して意識が凪の状態になるまで瞑想した後、集中ポイントを胸のあたりに移してみました。
すると、最初は慣れていないせいか、何やら古傷のような鈍い痛みが走って胸への集中を拒みました。
何だろうと思って再度ゆっくりと胸に意識を合わせてみますと、ちょうど胸のあたりに古傷のような鈍い塊のようなものがあるのがなんとなくわかります。肉眼では何もわかりませんけど、感覚的なものです。
そこで、あまり無理せずにその辺りに意識を合わせてみると、意外にすぐにその胸の古傷は消えてゆきました。9割以上なくなったように思います。
おそらく30分かそこらですぐになくなりました。
これ、30分と言うとそんなに大したことがないと思われるかもしれませんが、今まで何度か同様に胸に意識を合わせて瞑想を試みてもしっくりこなかったので、今回、たった30分でこのような変化が現れたのは大きな変化であると言えます。個人的にはそうです。
これで、眉間の瞑想以外に胸への瞑想という選択肢が増えました。
安定感で言うとまだ眉間ほどではないですが、これから少しずつ様子を見ていきます。
オーラのためにソーシャルディスタンスを保つ
コロナは割と茶番ですけどオーラのためにソーシャルディスタンスを保った方がいいと思います。
特にエネルギー・ヴァンパイアの近くに行ったらエネルギーを根こそぎ吸い取られます。
スピリチュアルな成長は意識としての成長とエネルギー的な成長があり、両者が組み合わさると能力としえ現れたりしますけど、エネルギー的な成長がなくてエネルギーを外から奪い取るような形でスピリチュアルな成長をしてしまうと変なオーラになります。
エネルギー・ヴァンパイアは一見すると強い光を放ってはいるものの、どこか禍々しいオーラを放つようになります。
チャクラがそれほど動いていなくてクンダリーニも動いていないのでエネルギーを自分で取り入れることができません。
自分自身でエネルギーを取り入れることができないのにも関わらずアジナチャクラや松果体等が活性化してエネルギーが使えるようになった人はエネルギーをどこかから入手しようとします。
能力を使うためにはどうしてもエネルギーが必要になるわけで、自分でエネルギーを作り出すことができないので周りの人から構わず奪い取るようになるわけですね。
恐ろしいですよ。
触手がグワーーーーーーーー と伸びてきて、特にお腹のあたりからエネルギーを奪い取っていきます。
触手は、例えるならば「鋼の錬金術師」で出てきた黒い影を持つ大ボス(名前忘れました)が影を伸ばして相手を捕まえるのに似ています。感じとしてはそうですが、エネルギーヴァンパイアの場合はその触手からエネルギーをグングン吸い取ってゆきます。触手は結構速いです。
オーラも禍々しく歪んでいて、他人が近づくと自動的に触手が触れてエネルギーを奪うようです。
本人はそれに気がついているのか気がついていないのか? 自覚しているとしたら大悪人ですし自覚していなくてスピリチュアリストを名乗っているのだとしたら大迷惑な人です。
それは、また違うものに例えるならば、「ナルト」に出てきた「屍鬼封尽 (しきふうじん)」の術にも感じが似ています。漫画では封じるための術でしたがそこは似ていなくて、封じると言うより、相手のオーラをお腹から根こそぎ無理やり引き抜く、というところが似ています。
この種のエネルギーヴァンパイアは世間によくいますけど、他人からエネルギーを奪わない限りは好きに生きればいいと思います。この世界は自由な世界ですから自分で勝手に生きるのは全く問題ないわけです。ですから、エネルギーヴァンパイアが悪いと言うよりも、他人のエネルギーを奪うことだけが問題です。
誰しもクンダリーニ覚醒がうまくいくわけでもないですし、エネルギー不足の状態でエネルギーを使おうと思ったらオーラが勝手に伸びて周囲の人から奪おうとするでしょう。エネルギー保存の法則じゃないですけどエネルギーというのは高いところから低いところに流れるのです。
能力が使えるからと言ってスピリチュアルで成長しているとは言えない、というのは有名なお話ですけど、エネルギーが足りていないのに能力を使おうとするからエネルギーヴァンパイアになるのです。
この辺り、よく分かっていない人も大勢いらっしゃるように思います。
セミナーとかで人を集めて顧客からエネルギーを奪って能力を保っている人もいらっしゃるようです。あるいは対談をして対談相手からエネルギーを奪って生活しているような人ですね。
そのような人と関わり合いを持つべきではありません。
関わり合いを持ってしまった時の対処法としては、これは可能な人に限りますけど、可能であるならばエネルギーヴァンパイアのオーラを封印してしまえば良いです。
オーラがゆらゆらと禍々しい輝きをして周囲からエネルギーを奪うのですから、そのオーラを封印してしまって、ついでにアストラルの視界と聴覚も封印してしまえばスピリチュアルな能力は一時的に封印されます。
封印できる人がどのくらいいるか知りませんけど、とある人の例で言いますと、道を歩いていて自分に危害を加えようとしている人、あるいは数分後、数十分後、あるいは翌日にエネルギーバンパイアしてくるような人がいたらあらかじめ霊的に相手を封印しちゃいます。
特に悪気がないようでしたら自分と関わり合いがなくなった頃、例えばすれ違った後に封印を解いてあげますけど、解かないとその後どうなるのかよくわかりません。ずっと封印されたままということはない気もしますけど、しばらくは封印されているように思います。
それは、道を歩いていて、急に攻撃を仕掛けられたようなものです。
オーラのエネルギーヴァンパイアをするということは、霊的に言えば「攻撃」ですよ。攻撃されたのだから反撃しても全く問題ありません。
かと言って相手を傷つけるのは大変ですから、相手のオーラを包帯みたいなのでグルグル巻きにして全身を囲ってしまえば相手のオーラは周囲を感知できなくなりますし、エネルギーヴァンパイアもできなくなります。
本人にしてみればいきなり周囲を全く感じられなくなるので恐怖でしょうけど、それは自分が先に攻撃を仕掛けてきたのが悪いのです。
職場とかでもね、エネルギーヴァンパイアで生きている人は大勢いらっしゃいますよ。そんな人とは関わらないことです。近くの席にいて攻撃を仕掛けられているのならば相手を封印してしまえばいいのです。それは相手が悪いのですからそのくらいの自己防衛は問題ありません。
特にエネルギー・ヴァンパイアの近くに行ったらエネルギーを根こそぎ吸い取られます。
スピリチュアルな成長は意識としての成長とエネルギー的な成長があり、両者が組み合わさると能力としえ現れたりしますけど、エネルギー的な成長がなくてエネルギーを外から奪い取るような形でスピリチュアルな成長をしてしまうと変なオーラになります。
エネルギー・ヴァンパイアは一見すると強い光を放ってはいるものの、どこか禍々しいオーラを放つようになります。
チャクラがそれほど動いていなくてクンダリーニも動いていないのでエネルギーを自分で取り入れることができません。
自分自身でエネルギーを取り入れることができないのにも関わらずアジナチャクラや松果体等が活性化してエネルギーが使えるようになった人はエネルギーをどこかから入手しようとします。
能力を使うためにはどうしてもエネルギーが必要になるわけで、自分でエネルギーを作り出すことができないので周りの人から構わず奪い取るようになるわけですね。
恐ろしいですよ。
触手がグワーーーーーーーー と伸びてきて、特にお腹のあたりからエネルギーを奪い取っていきます。
触手は、例えるならば「鋼の錬金術師」で出てきた黒い影を持つ大ボス(名前忘れました)が影を伸ばして相手を捕まえるのに似ています。感じとしてはそうですが、エネルギーヴァンパイアの場合はその触手からエネルギーをグングン吸い取ってゆきます。触手は結構速いです。
オーラも禍々しく歪んでいて、他人が近づくと自動的に触手が触れてエネルギーを奪うようです。
本人はそれに気がついているのか気がついていないのか? 自覚しているとしたら大悪人ですし自覚していなくてスピリチュアリストを名乗っているのだとしたら大迷惑な人です。
それは、また違うものに例えるならば、「ナルト」に出てきた「屍鬼封尽 (しきふうじん)」の術にも感じが似ています。漫画では封じるための術でしたがそこは似ていなくて、封じると言うより、相手のオーラをお腹から根こそぎ無理やり引き抜く、というところが似ています。
この種のエネルギーヴァンパイアは世間によくいますけど、他人からエネルギーを奪わない限りは好きに生きればいいと思います。この世界は自由な世界ですから自分で勝手に生きるのは全く問題ないわけです。ですから、エネルギーヴァンパイアが悪いと言うよりも、他人のエネルギーを奪うことだけが問題です。
誰しもクンダリーニ覚醒がうまくいくわけでもないですし、エネルギー不足の状態でエネルギーを使おうと思ったらオーラが勝手に伸びて周囲の人から奪おうとするでしょう。エネルギー保存の法則じゃないですけどエネルギーというのは高いところから低いところに流れるのです。
能力が使えるからと言ってスピリチュアルで成長しているとは言えない、というのは有名なお話ですけど、エネルギーが足りていないのに能力を使おうとするからエネルギーヴァンパイアになるのです。
この辺り、よく分かっていない人も大勢いらっしゃるように思います。
セミナーとかで人を集めて顧客からエネルギーを奪って能力を保っている人もいらっしゃるようです。あるいは対談をして対談相手からエネルギーを奪って生活しているような人ですね。
そのような人と関わり合いを持つべきではありません。
関わり合いを持ってしまった時の対処法としては、これは可能な人に限りますけど、可能であるならばエネルギーヴァンパイアのオーラを封印してしまえば良いです。
オーラがゆらゆらと禍々しい輝きをして周囲からエネルギーを奪うのですから、そのオーラを封印してしまって、ついでにアストラルの視界と聴覚も封印してしまえばスピリチュアルな能力は一時的に封印されます。
封印できる人がどのくらいいるか知りませんけど、とある人の例で言いますと、道を歩いていて自分に危害を加えようとしている人、あるいは数分後、数十分後、あるいは翌日にエネルギーバンパイアしてくるような人がいたらあらかじめ霊的に相手を封印しちゃいます。
特に悪気がないようでしたら自分と関わり合いがなくなった頃、例えばすれ違った後に封印を解いてあげますけど、解かないとその後どうなるのかよくわかりません。ずっと封印されたままということはない気もしますけど、しばらくは封印されているように思います。
それは、道を歩いていて、急に攻撃を仕掛けられたようなものです。
オーラのエネルギーヴァンパイアをするということは、霊的に言えば「攻撃」ですよ。攻撃されたのだから反撃しても全く問題ありません。
かと言って相手を傷つけるのは大変ですから、相手のオーラを包帯みたいなのでグルグル巻きにして全身を囲ってしまえば相手のオーラは周囲を感知できなくなりますし、エネルギーヴァンパイアもできなくなります。
本人にしてみればいきなり周囲を全く感じられなくなるので恐怖でしょうけど、それは自分が先に攻撃を仕掛けてきたのが悪いのです。
職場とかでもね、エネルギーヴァンパイアで生きている人は大勢いらっしゃいますよ。そんな人とは関わらないことです。近くの席にいて攻撃を仕掛けられているのならば相手を封印してしまえばいいのです。それは相手が悪いのですからそのくらいの自己防衛は問題ありません。
思いが浮かぶごとに「苦」を感じる境地
意識がモワッとしていて、想念が浮かぶ度に「苦」を感じることがあります。
基本は静寂の境地ですが多少はモワッとしていて、そのモヤモヤとしたところにポコポコと思いが浮かびます。その思いが大きくて完全に飲み込まれた場合は普通の雑念になるのですが、雑念というほどまでに大きくはなくて小さくポコポコと生まれては消える思いの波は大きな雑念よりも意外に「苦」として感じられるように思います。
波のない湖で小さな波が現れると大きく感じるのと同様、静寂の境地における「苦」の感覚は意外に大きく認識されるように思います。
以前は湖がかなり激しく波打っておりましたからそんな余裕もなく単に雑念を沈める瞑想をしていたわけですが、心が安心しきっているところに不意に想念の波が現れると意外にも大きなものに感じられて「苦」として認識されるように思います。
その「苦」の瞬間、緊張が少し強くなります。
しかし、その「苦」を見つめていると、すぐに消えてゆきます。苦が消えると共に緊張も解れます。
そうしてモワッとした状態からしばらく経つと、不意に平穏の境地が現れます。
おそらくは、こうして瞑想をすることで深いところにあるカルマを吸い出しているのかな、という気も致します。
過去や未来の思いもやってきます。それに付随する感情も疑似的に体験します。
そのいくつかは大きなカルマで多少は激しいトラウマを伴うこともありますが、基本は全て見つめることでやがては消えてゆきます。
仏教とかですと人生は全て「苦」だ、とか言ったりもしますけど、ここでいう「苦」とは人生のことではなくて、単に、思いの波が「苦」として感じられるということです。
人生そのものが「苦」かどうかは分かりません。個人的には人生は自由に楽しめばいいと思います。ただ、瞑想においてはある種の状態においては想念は「苦」として感じられるということです。
これは、瞑想状態にいる人を驚かせてはいけない、という理由にも繋がります。
日本は瞑想状態ということに対する理解が薄いですから特に子供とかは他人を驚かせたりしてふざけたりしますけど、普段の生活においても静かに暮らすべきで、驚かせたり驚かされたりするべきではありません。精神的に深刻なダメージを負ってしまうこともあるからです。このあたりの理解が日本では薄いですし、他人を貶めるための手段として驚かすという手法が使われることもあるように思います。
瞑想中の人がいる場合は大きな物音を立ててはいけない、という基本的なルールもこのあたりが根拠になっているように思います。騒がしいところで瞑想は進まないと思います。
基本は静寂の境地ですが多少はモワッとしていて、そのモヤモヤとしたところにポコポコと思いが浮かびます。その思いが大きくて完全に飲み込まれた場合は普通の雑念になるのですが、雑念というほどまでに大きくはなくて小さくポコポコと生まれては消える思いの波は大きな雑念よりも意外に「苦」として感じられるように思います。
波のない湖で小さな波が現れると大きく感じるのと同様、静寂の境地における「苦」の感覚は意外に大きく認識されるように思います。
以前は湖がかなり激しく波打っておりましたからそんな余裕もなく単に雑念を沈める瞑想をしていたわけですが、心が安心しきっているところに不意に想念の波が現れると意外にも大きなものに感じられて「苦」として認識されるように思います。
その「苦」の瞬間、緊張が少し強くなります。
しかし、その「苦」を見つめていると、すぐに消えてゆきます。苦が消えると共に緊張も解れます。
そうしてモワッとした状態からしばらく経つと、不意に平穏の境地が現れます。
おそらくは、こうして瞑想をすることで深いところにあるカルマを吸い出しているのかな、という気も致します。
過去や未来の思いもやってきます。それに付随する感情も疑似的に体験します。
そのいくつかは大きなカルマで多少は激しいトラウマを伴うこともありますが、基本は全て見つめることでやがては消えてゆきます。
仏教とかですと人生は全て「苦」だ、とか言ったりもしますけど、ここでいう「苦」とは人生のことではなくて、単に、思いの波が「苦」として感じられるということです。
人生そのものが「苦」かどうかは分かりません。個人的には人生は自由に楽しめばいいと思います。ただ、瞑想においてはある種の状態においては想念は「苦」として感じられるということです。
これは、瞑想状態にいる人を驚かせてはいけない、という理由にも繋がります。
日本は瞑想状態ということに対する理解が薄いですから特に子供とかは他人を驚かせたりしてふざけたりしますけど、普段の生活においても静かに暮らすべきで、驚かせたり驚かされたりするべきではありません。精神的に深刻なダメージを負ってしまうこともあるからです。このあたりの理解が日本では薄いですし、他人を貶めるための手段として驚かすという手法が使われることもあるように思います。
瞑想中の人がいる場合は大きな物音を立ててはいけない、という基本的なルールもこのあたりが根拠になっているように思います。騒がしいところで瞑想は進まないと思います。
雑念が多いまま死ぬと彷徨う浮遊霊になります
個人には自由がありますから求めるものになるだけです。良いも悪いもありません。
生きている間に欲望に従って生きれば死んだ後も同様の生活が続くだけのことです。死んだ後に「無」になると思っている方も大勢いらっしゃいますけど、死んだ後のことを知らないのにそんなことを信じるなんてのは無神論という宗教に入信しているのと同じことです。それもまた個人の自由で、好きにすればいいと思います。生きている間に精神的なことに興味がなくて欲望に従って生きるのも自由ですし、そうなれば死んだ後もその欲望に従って生きることになります。死んでいますけど意識は生き続けますからね。死んだ後に「無」になると思うのであればそれも個人の自由です。好きに信じればいいと思います。
雑念が多いと死んだ後も欲望を満たそうとして想像を自分の周囲に作り出して欲望を満たしているかのような「夢見」の状態が続いたり、あるいは、地上のものを手に入れようとしてちょっかいを出したりするようになります。生きている人に話しかけて「○○が欲しい」「○○がしたい」「○○は面白そう」とかけしかけて生きている人間に自分の欲望を代理で叶えさせようとしたりします。あるいは憑依して行動させるということもあります。
これらは幽霊と言えばそうですけど、幽霊にも色々とあって、それは生きている人間と同じことです。
生きている人間で元気な人もいれば落ち込んでいる人もいて、欲望に生きている人もいれば清貧に安らかに暮らしている人もいます。あの世も一緒です。あの世の生活を謳歌している幽霊も大勢いらっしゃいますし、幽霊は幽霊でもふらふらとどこ行く宛もなく彷徨う地縛霊あるいは悪霊とも呼べる霊もいます。
これは、宗教を信じているかどうかとは直接的には関係がありませんけど、宗教的な事柄に多少なりとも理解があれば地縛霊あるいは悪霊になりにくいのは確かだと思います。生きているうちに宗教やスピリチュアル的なものを避けて物欲に生きた人は死後にふらふらと宛もなく彷徨う浮遊霊になる割合が多いような気が致します。
人は完全なる自由がありますから、その人の好きにすればいいと思います。地縛霊になって彷徨うからと言って悪いことはなくて、その人の勝手にすればいいのです。
直接的には雑念があるかどうかが関係していて、心が綺麗であればあるほど死後も幸せになれます。
ですから、物欲まみれの生活を送っていても最終的に満足して雑念と物欲が消えた状態で死ねば死後も幸せになれます。しかし、欲望を抱えたまま死ぬと死後もその満たされない欲求が頭の中をぐるぐると回って欲望に支配される生活を続けることになります。
生きている間は体があるので体の制約によって例えば「お腹がすいた」とか「どこかが痛い」とかで強制的に「我に帰る」ということが起きますけど、死んでしまったらそんな感覚はなくなりますので、かなりの長い間、物欲の思いにずっと囚われることになります。
お腹が空いたとかどこかが痛いとかいう感覚に惑わされずに物欲の思いにずっと浸ることができるのですから、その人の好きなだけずっと浸ればいいのです。
これも程度があって、かなり低い欲望を抱えていたりすると悪霊ですし、普通の人であっても「幸せな生活をもう一度送りたい」とか「良い嫁、良い旦那とまた地上で生活したい」みたいなささやかな願望もあったりします。ですから欲望とは完全に無縁ではありえないのです。
地上の方が制約が多くて欲望を解消しやすいですけど、死んだ後でも欲望を解消できなくもないです。想像すれば周囲にパッとそれが魔法のように現れますから、あっという間に欲望を実現できます。あの世には制約はないのでやろうと思えばなんでもできます。ただし、相手の魂は自由にはならないです。自分のことであれば勝手にすればいいのです。その人の自由です。
ある程度の幸せな死に方をすればいいですけど、欲望と不満がかなり残っていたりすると彷徨って浮遊霊とか呼ばれたりします。それはこの地上の欲望があの世までずっと続いている人たちです。
実際、そのような霊はこの世界に大勢いるのですけど、他人のことですからどうしようもありませんし、自分に関係がないのであれば放っておけばいいのです。あの世は時空の制約を超えていますからその物欲に何百年も浸り続ければいいのです。好きなだけ浸っていてください。誰もそれを妨げたりはしません。
その一方で、物欲とは関係ないところで静かに暮らしている霊もあります。あの世は広いですから、同じ意識の状態の人たちとは交流があってもその他の人たちのことは見えないことが多いです。
ですから、物欲まみれの人はそれなりの世界に住みますし、それは「欲求」「妬み」「恨み」「欲望」と言った種類のものですからその霊同士でトラブルも当然起こりますけど、私なんかからすればそんな他人のことに興味はありませんし放っておけばいいと思うので口にも出しません。
ただ、こちらに危害を加えてきた場合は別で、まずは「あっち行け」「威嚇」をして、それでもしつこい場合は何段階かに分けての「封印」、そして最悪の場合は「魂を消去する」という方法も取られます。そんなことはほとんどしませんけど、かなりの危害を加えてきたら相手の魂を消し去ることもあり得るわけです。これは、干渉してきた場合のお話です。
ですが、基本的にはあの世は自由が基本ですので、欲望に生たければその人の好きにすればいいと思います。
私の生き方とは違いますけどね。他人のことなのでその人の好きに生きればいいと思うのです。
死後の生活に興味がなくて死後は「無」になると思っていて欲望のままに生きている人は好きにすればいいと思います。なるようになるだけのお話です。
生きている間に欲望に従って生きれば死んだ後も同様の生活が続くだけのことです。死んだ後に「無」になると思っている方も大勢いらっしゃいますけど、死んだ後のことを知らないのにそんなことを信じるなんてのは無神論という宗教に入信しているのと同じことです。それもまた個人の自由で、好きにすればいいと思います。生きている間に精神的なことに興味がなくて欲望に従って生きるのも自由ですし、そうなれば死んだ後もその欲望に従って生きることになります。死んでいますけど意識は生き続けますからね。死んだ後に「無」になると思うのであればそれも個人の自由です。好きに信じればいいと思います。
雑念が多いと死んだ後も欲望を満たそうとして想像を自分の周囲に作り出して欲望を満たしているかのような「夢見」の状態が続いたり、あるいは、地上のものを手に入れようとしてちょっかいを出したりするようになります。生きている人に話しかけて「○○が欲しい」「○○がしたい」「○○は面白そう」とかけしかけて生きている人間に自分の欲望を代理で叶えさせようとしたりします。あるいは憑依して行動させるということもあります。
これらは幽霊と言えばそうですけど、幽霊にも色々とあって、それは生きている人間と同じことです。
生きている人間で元気な人もいれば落ち込んでいる人もいて、欲望に生きている人もいれば清貧に安らかに暮らしている人もいます。あの世も一緒です。あの世の生活を謳歌している幽霊も大勢いらっしゃいますし、幽霊は幽霊でもふらふらとどこ行く宛もなく彷徨う地縛霊あるいは悪霊とも呼べる霊もいます。
これは、宗教を信じているかどうかとは直接的には関係がありませんけど、宗教的な事柄に多少なりとも理解があれば地縛霊あるいは悪霊になりにくいのは確かだと思います。生きているうちに宗教やスピリチュアル的なものを避けて物欲に生きた人は死後にふらふらと宛もなく彷徨う浮遊霊になる割合が多いような気が致します。
人は完全なる自由がありますから、その人の好きにすればいいと思います。地縛霊になって彷徨うからと言って悪いことはなくて、その人の勝手にすればいいのです。
直接的には雑念があるかどうかが関係していて、心が綺麗であればあるほど死後も幸せになれます。
ですから、物欲まみれの生活を送っていても最終的に満足して雑念と物欲が消えた状態で死ねば死後も幸せになれます。しかし、欲望を抱えたまま死ぬと死後もその満たされない欲求が頭の中をぐるぐると回って欲望に支配される生活を続けることになります。
生きている間は体があるので体の制約によって例えば「お腹がすいた」とか「どこかが痛い」とかで強制的に「我に帰る」ということが起きますけど、死んでしまったらそんな感覚はなくなりますので、かなりの長い間、物欲の思いにずっと囚われることになります。
お腹が空いたとかどこかが痛いとかいう感覚に惑わされずに物欲の思いにずっと浸ることができるのですから、その人の好きなだけずっと浸ればいいのです。
これも程度があって、かなり低い欲望を抱えていたりすると悪霊ですし、普通の人であっても「幸せな生活をもう一度送りたい」とか「良い嫁、良い旦那とまた地上で生活したい」みたいなささやかな願望もあったりします。ですから欲望とは完全に無縁ではありえないのです。
地上の方が制約が多くて欲望を解消しやすいですけど、死んだ後でも欲望を解消できなくもないです。想像すれば周囲にパッとそれが魔法のように現れますから、あっという間に欲望を実現できます。あの世には制約はないのでやろうと思えばなんでもできます。ただし、相手の魂は自由にはならないです。自分のことであれば勝手にすればいいのです。その人の自由です。
ある程度の幸せな死に方をすればいいですけど、欲望と不満がかなり残っていたりすると彷徨って浮遊霊とか呼ばれたりします。それはこの地上の欲望があの世までずっと続いている人たちです。
実際、そのような霊はこの世界に大勢いるのですけど、他人のことですからどうしようもありませんし、自分に関係がないのであれば放っておけばいいのです。あの世は時空の制約を超えていますからその物欲に何百年も浸り続ければいいのです。好きなだけ浸っていてください。誰もそれを妨げたりはしません。
その一方で、物欲とは関係ないところで静かに暮らしている霊もあります。あの世は広いですから、同じ意識の状態の人たちとは交流があってもその他の人たちのことは見えないことが多いです。
ですから、物欲まみれの人はそれなりの世界に住みますし、それは「欲求」「妬み」「恨み」「欲望」と言った種類のものですからその霊同士でトラブルも当然起こりますけど、私なんかからすればそんな他人のことに興味はありませんし放っておけばいいと思うので口にも出しません。
ただ、こちらに危害を加えてきた場合は別で、まずは「あっち行け」「威嚇」をして、それでもしつこい場合は何段階かに分けての「封印」、そして最悪の場合は「魂を消去する」という方法も取られます。そんなことはほとんどしませんけど、かなりの危害を加えてきたら相手の魂を消し去ることもあり得るわけです。これは、干渉してきた場合のお話です。
ですが、基本的にはあの世は自由が基本ですので、欲望に生たければその人の好きにすればいいと思います。
私の生き方とは違いますけどね。他人のことなのでその人の好きに生きればいいと思うのです。
死後の生活に興味がなくて死後は「無」になると思っていて欲望のままに生きている人は好きにすればいいと思います。なるようになるだけのお話です。
エネルギーヴァンパイアをする本
エネルギーヴァンパイアとはエネルギーを奪う者(物)という意味ですが、入手した本の中にはエネルギーヴァンパイアをしてくるものがあります。古本だったりもしますので前の持ち主がそうなのかなとも勘繰っていたのですが、傾向を見ると前の持ち主の場合は単にオーラが残っているだけで、エネルギーヴァンパイアの場合は本の著者であることが多いように思います。
本に前の持ち主のオーラが残っているだけの場合はしばらくすればそのオーラが発散して消えますので普通になります。
一方で、本の著者がエネルギーヴァンパイアである場合は、おそらくは本を読んだ時点で呪術が発動してエネルギーヴァンパイアするのではないかなと思います。
魔法とかは一般的には想像上の産物だと思われていますけど、普通に書いた文字であってもそこには魔術と同じような特殊な波動が込められますので、読んでその波長に同調しただけで術が発動することになります。
最近でいうととあるスピリチュアル系でそれなりに有名な著者の本がことごとくエネルギーヴァンパイアしていました。
たまたまかと思っていくつかその著者の本を並べてもみましたけど、やっぱりその著者に限ってエネルギーヴァンパイアしているようでした。
瞑想中に探ってみると、どうやらその著者がエネルギーを周囲から奪い続けているようでした。瞑想中ですから本当かはわかりませんし、なりすましの別人、あるいは、イメージが重なっているだけで別の存在かもしれません。ですが、誰かがエネルギーを吸い取っているということは確かなようです。
そのエネルギーヴァンパイアから管のようなものがスルスルスルっと伸びてきて私の方に触手のように絡んでくるのが見えます。とても気持ちが悪いです。さっきからエネルギー吸われている気がしていたのはこのせいだったのですね。
その人はどうやらエネルギーが枯渇して周囲にオーラの触手を伸ばしているようです。
スピリチュアルな能力のうち、チャクラ開花ばかりしてクンダリーニ によるエネルギーの開発が行われていないとこのようにエネルギーが足りなくなって周囲から奪い続けるエネルギーヴァンパイアになるような気が致します。
この著者は松果体とかチャクラ開花のことを本で書いていますが、エネルギー的な開発が足りていなくて、実際のところエネルギーは周囲から奪うことで自分を維持しているのかな、と思いました。
本人の課題はどうであれ、私に危害を加えていることがはっきりしましたので対処をします。
放っておけば危害を加えてこないのであれば何もしないのですが、本があるだけで読者にまでオーラの触手を伸ばしてきてエネルギーを奪うのであれば問題です。
私の対処としては、瞑想中に包帯のようなものをイメージで作り出してからその人の体をミイラのようにグルグル巻きにしてオーラの触手がその人から伸ばせないようにしました。最初は隙間からオーラの触手が伸びてきて気持ちが悪かったですが、文字通りミイラのように隙間なく全身を覆うことでその動きも治りました。
これでしばらくはその本人はエネルギー枯渇状態になるかもしれませんけど松果体とかチャクラ開発だけでなく自分のエネルギー開発(クンダリーニ開発)にもっと熱心になってくれればなと思います。
私が巻いた包帯がいつになれば元に戻るのかはよくわかりません。誰か気がついたら解いてくれるのではないでしょうかね。自分のオーラを動かせないのできっと自分では解けません。そのうちインスピレーションで助けを求めて来たら何かするかもしれないですけど。
その後、その著者の本は全てメルカリで売っ払ってしまいましたけどね。割と有名な人なのですぐに売れてすっきりしました。
こういうのは瞑想中で起こっていることなので、本当のことかはわかりません。ですけど、いいのです。単なる瞑想録ですから。
本に前の持ち主のオーラが残っているだけの場合はしばらくすればそのオーラが発散して消えますので普通になります。
一方で、本の著者がエネルギーヴァンパイアである場合は、おそらくは本を読んだ時点で呪術が発動してエネルギーヴァンパイアするのではないかなと思います。
魔法とかは一般的には想像上の産物だと思われていますけど、普通に書いた文字であってもそこには魔術と同じような特殊な波動が込められますので、読んでその波長に同調しただけで術が発動することになります。
最近でいうととあるスピリチュアル系でそれなりに有名な著者の本がことごとくエネルギーヴァンパイアしていました。
たまたまかと思っていくつかその著者の本を並べてもみましたけど、やっぱりその著者に限ってエネルギーヴァンパイアしているようでした。
瞑想中に探ってみると、どうやらその著者がエネルギーを周囲から奪い続けているようでした。瞑想中ですから本当かはわかりませんし、なりすましの別人、あるいは、イメージが重なっているだけで別の存在かもしれません。ですが、誰かがエネルギーを吸い取っているということは確かなようです。
そのエネルギーヴァンパイアから管のようなものがスルスルスルっと伸びてきて私の方に触手のように絡んでくるのが見えます。とても気持ちが悪いです。さっきからエネルギー吸われている気がしていたのはこのせいだったのですね。
その人はどうやらエネルギーが枯渇して周囲にオーラの触手を伸ばしているようです。
スピリチュアルな能力のうち、チャクラ開花ばかりしてクンダリーニ によるエネルギーの開発が行われていないとこのようにエネルギーが足りなくなって周囲から奪い続けるエネルギーヴァンパイアになるような気が致します。
この著者は松果体とかチャクラ開花のことを本で書いていますが、エネルギー的な開発が足りていなくて、実際のところエネルギーは周囲から奪うことで自分を維持しているのかな、と思いました。
本人の課題はどうであれ、私に危害を加えていることがはっきりしましたので対処をします。
放っておけば危害を加えてこないのであれば何もしないのですが、本があるだけで読者にまでオーラの触手を伸ばしてきてエネルギーを奪うのであれば問題です。
私の対処としては、瞑想中に包帯のようなものをイメージで作り出してからその人の体をミイラのようにグルグル巻きにしてオーラの触手がその人から伸ばせないようにしました。最初は隙間からオーラの触手が伸びてきて気持ちが悪かったですが、文字通りミイラのように隙間なく全身を覆うことでその動きも治りました。
これでしばらくはその本人はエネルギー枯渇状態になるかもしれませんけど松果体とかチャクラ開発だけでなく自分のエネルギー開発(クンダリーニ開発)にもっと熱心になってくれればなと思います。
私が巻いた包帯がいつになれば元に戻るのかはよくわかりません。誰か気がついたら解いてくれるのではないでしょうかね。自分のオーラを動かせないのできっと自分では解けません。そのうちインスピレーションで助けを求めて来たら何かするかもしれないですけど。
その後、その著者の本は全てメルカリで売っ払ってしまいましたけどね。割と有名な人なのですぐに売れてすっきりしました。
こういうのは瞑想中で起こっていることなので、本当のことかはわかりません。ですけど、いいのです。単なる瞑想録ですから。
胸の奥にある粘着テープを剥がすような感覚
瞑想をしているといつものように段階的に静寂の意識が訪れました。そうなると同時に、体の各所の緊張がほぐれてリラックスしてゆきます。
更に瞑想を続けていると、胸のあたりに、粘着テープあるいはバッグの口に昔はよく貼ってあった剥がせるプラスチックの細かいプチプチのようなものがくっついているのが見えました。二枚のプラスチックのシートがそのプラスチックのプチプチでくっついているような感じです。
なんだろう・・・? と思って観察を続けていると、どうも、そのシートは2枚に剥がせるような感じがしました。
しかし、一気に外そうとしても痛い感覚があって少しの躊躇がありましたので少しずつ剥がしたところ、片側から剥がれてゆきました。そのシートが剥がれてゆくにつれて更に体の緊張が取れ、深いところの筋肉がほぐれてリラックスの度合いが深まってゆきます。やがてはそのシートの面積は次第に小さくなり、3分の1位にまで小さくなりました。
シートは完全になくなったわけではないですが、胸の奥にある錆び付いた胸の扉をまた一段階、少し開いた感じが致します。
その状態になってみると、ふと、体の各所に細かな針のようなものが突き刺さっているのに気が付きました。とても微細なものなので、きっと今までその存在に気付かなかったような気が致します。ただ単に緊張としてそれは体に現れていたわけですが、試しに1つ抜こうとしてみました。針ですし奥深いところにありましたのでゆっくりと動かして体の外にポイっと捨ててみます。それほど劇的な変化が現れたわけではないですが少し緊張が抜けた気が致します。
なんとなく、この針はHUNTER×HUNTERでキルアが頭の針を取るシーンに似ている気が致しました。1つだけだけでなく沢山埋まっているようです。何か気がつかないところで色々としてやれているのかもしれません。
これから、気がついたら少しずつこの針も抜いていきたいと思います。
更に瞑想を続けていると、胸のあたりに、粘着テープあるいはバッグの口に昔はよく貼ってあった剥がせるプラスチックの細かいプチプチのようなものがくっついているのが見えました。二枚のプラスチックのシートがそのプラスチックのプチプチでくっついているような感じです。
なんだろう・・・? と思って観察を続けていると、どうも、そのシートは2枚に剥がせるような感じがしました。
しかし、一気に外そうとしても痛い感覚があって少しの躊躇がありましたので少しずつ剥がしたところ、片側から剥がれてゆきました。そのシートが剥がれてゆくにつれて更に体の緊張が取れ、深いところの筋肉がほぐれてリラックスの度合いが深まってゆきます。やがてはそのシートの面積は次第に小さくなり、3分の1位にまで小さくなりました。
シートは完全になくなったわけではないですが、胸の奥にある錆び付いた胸の扉をまた一段階、少し開いた感じが致します。
その状態になってみると、ふと、体の各所に細かな針のようなものが突き刺さっているのに気が付きました。とても微細なものなので、きっと今までその存在に気付かなかったような気が致します。ただ単に緊張としてそれは体に現れていたわけですが、試しに1つ抜こうとしてみました。針ですし奥深いところにありましたのでゆっくりと動かして体の外にポイっと捨ててみます。それほど劇的な変化が現れたわけではないですが少し緊張が抜けた気が致します。
なんとなく、この針はHUNTER×HUNTERでキルアが頭の針を取るシーンに似ている気が致しました。1つだけだけでなく沢山埋まっているようです。何か気がつかないところで色々としてやれているのかもしれません。
これから、気がついたら少しずつこの針も抜いていきたいと思います。