強制・操作・共依存の時代の終わり


昭和は強制・操作・共依存の全盛期であり、平成まではその影響が強い時代でした。

令和になり、コロナになり、いよいよその影響力が減ってゆきます。

強制・操作・共依存ではパワハラ・圧力が当たり前のものになっていました。

平成に生まれて令和で社会人になった人は既に上記のような社会に生きていませんから、昭和時代から生き残っている会社に入社してすぐに辞めたとしても咎めるべきではありません。むしろ、昭和時代の会社であるのにあたかも健全であるかのような会社説明会をしている会社は本質と表現が一体になっておりませんのでやがて力を失ってゆくでしょうし、そのような会社を選ぶような方も勉強だったと言えるでしょう。

まだ政権が大企業重視で日銀が月に1兆円もばら撒いて株を買い支えている状況ではまだまだ旧体制の大企業は存続するでしょうが、いきなり梯子を外される時が来るでしょう。いつまでも実体のない企業は存続できません。

そして、梯子を外される時とは、旧体制の強制・依存・共依存が不要になった時でもあり、新たな軸が作られた後であれば政権も躊躇なく旧体制の大企業を縮小しようとするでしょう。ということは、新体制の会社が出てくれば旧体制は弱体化するということでもあります。

旧体制とは強制・依存・共依存に結びついたものであり、会社のシステムおよび社会のシステムも根強くそのために最適化されておりますから、それが崩れる時はかなりの痛みを伴いますが、このコロナの騒ぎはチャンスとも言えます。

であれば、このコロナで旧体制が弱ったチャンスを見て新体制が力を伸ばせばいいわけです。

旧体制においては「プロセス」が重視されてきましたが、言い換えれば「強制・操作・共依存」のプロセスを重視するということでした。更に言い換えると「パワハラによる無抵抗の強制・無意味なプロセスを強制することで他人を思考停止させ操作する・判定者を曖昧にすることによる共依存」などが相当します。

新体制においてはある意味、旧来とは違った「成果主義」になり、プロセスであるところの「強制・操作・共依存」は重視されません。

旧来は成果主義が評価と結びついておりましたが新体制においては評価とは結び付かず、単に、プロセスを重視しないというだけのシンボルとしての成果主義になります。

生きるだけであれば生活費は割と十分な時代になりますから、贅沢をしたい人は十分に努力して頂くとして、そうでない人は自分の興味に基づいた仕事を選ぶようになります。それが報酬と結びつくかというとそうでもない時代ですが、努力や結果とは別の軸で、ふとしたことで大きな報酬が得られる時代になります。本来は人生とはそういうものですがサラリーマンになるのが当然と思われている時代には失われてしまったことが取り戻されるようになります。サラリーマンでは浮き沈みがない分、自由を奪われ、報酬も一定になります。しかし、本来は、成果や努力と報酬とはある程度の相関関係しかなく、ふとしたことで大きな報酬を得られることがあるのです。そのように、普段の小さな報酬に気にすることなく時々の、成果や努力とは無関係な報酬の方が遥かに大きな時代になります。となれば、日常生活における小さな収入など気にならなくなってゆくのではないでしょうか。

これらの変化は意識の変化が先に現れ、現実は後追いになります。であれば、今のうちから強制・操作・共依存の関係は断ち切ってゆくべきです。

それらのループにはまり込んでいて、他人に対して盲目的になって奴隷のように付き従っている人は、小さなところから抵抗を始め、「じぶん」というものを取り戻す必要があります。

スピリチュアルや宗教では「自分をなくす」ことを盛んに言われていたりしますけど、実際は、「自分が強くなって、自分が広がって、自分がなくなる」という順番ですので、自分が消え去って奴隷のように無抵抗になることがスピリチュアルや宗教ではないのです。

そして、その新たなる秩序はもしかしたらスピリチュアルや宗教というところから出てこないかもしれません。しかし、言っていることは同じことだったりします。時代の変化に敏感な人であればビジネスであっても時代の要求に応えるものになります。その基本が、昭和の価値観である強制・操作・共依存のループから断ち切ることであり、ようやく令和になって、このコロナがその良いきっかけになると思われるのです。