意識がモワッとしていて、想念が浮かぶ度に「苦」を感じることがあります。
基本は静寂の境地ですが多少はモワッとしていて、そのモヤモヤとしたところにポコポコと思いが浮かびます。その思いが大きくて完全に飲み込まれた場合は普通の雑念になるのですが、雑念というほどまでに大きくはなくて小さくポコポコと生まれては消える思いの波は大きな雑念よりも意外に「苦」として感じられるように思います。
波のない湖で小さな波が現れると大きく感じるのと同様、静寂の境地における「苦」の感覚は意外に大きく認識されるように思います。
以前は湖がかなり激しく波打っておりましたからそんな余裕もなく単に雑念を沈める瞑想をしていたわけですが、心が安心しきっているところに不意に想念の波が現れると意外にも大きなものに感じられて「苦」として認識されるように思います。
その「苦」の瞬間、緊張が少し強くなります。
しかし、その「苦」を見つめていると、すぐに消えてゆきます。苦が消えると共に緊張も解れます。
そうしてモワッとした状態からしばらく経つと、不意に平穏の境地が現れます。
おそらくは、こうして瞑想をすることで深いところにあるカルマを吸い出しているのかな、という気も致します。
過去や未来の思いもやってきます。それに付随する感情も疑似的に体験します。
そのいくつかは大きなカルマで多少は激しいトラウマを伴うこともありますが、基本は全て見つめることでやがては消えてゆきます。
仏教とかですと人生は全て「苦」だ、とか言ったりもしますけど、ここでいう「苦」とは人生のことではなくて、単に、思いの波が「苦」として感じられるということです。
人生そのものが「苦」かどうかは分かりません。個人的には人生は自由に楽しめばいいと思います。ただ、瞑想においてはある種の状態においては想念は「苦」として感じられるということです。
これは、瞑想状態にいる人を驚かせてはいけない、という理由にも繋がります。
日本は瞑想状態ということに対する理解が薄いですから特に子供とかは他人を驚かせたりしてふざけたりしますけど、普段の生活においても静かに暮らすべきで、驚かせたり驚かされたりするべきではありません。精神的に深刻なダメージを負ってしまうこともあるからです。このあたりの理解が日本では薄いですし、他人を貶めるための手段として驚かすという手法が使われることもあるように思います。
瞑想中の人がいる場合は大きな物音を立ててはいけない、という基本的なルールもこのあたりが根拠になっているように思います。騒がしいところで瞑想は進まないと思います。