瞑想をして眉間に集中します。最初はオーラが安定していないこともありますが、日によっては最初から安定していて、あるいは、自動的な小周天あるいは大周天が起きる瞑想から凪の状態へと移行します。
その時、段階的に体の各所の緊張が取れてリラックスしてゆきます。
これは、意図してそうなるということではなくて、行うのは単に眉間に集中を続けているだけです。行動としては眉間への集中の瞑想で、結果としてこれらの凪の状態およびリラックスが起こります。
そして、リラックスが目的であればここで瞑想を辞めても良いのですけど、その状態でも更に瞑想を続けます。その先を見るためです。
リラックスして瞑想を続けているとサハスララにオーラが満ち、その結果、雑念がまた一段階減ります。
雑念が減った状態が目的であればそこで瞑想を辞めても良いのですけど、更に瞑想を続けて様子を見ます。その先を見るためです。
そうして雑念が減った状態、サハスララにそれなりにオーラが満ちた状態で瞑想を続けていると、やがて、目の前に雲で覆われている自分が見えてきます。これは、潜在意識を覆い隠している雲です。
この雲は、雑念がまだ多い状態ですとそのまた上に一層、雑念の雲が乗っています。サハスララにそれなりにオーラが満ちた状態ですと、上に乗っていた雑念の雲は取り払われた状態なのですが、まだ、その下に雲がかかっているのが見えます。
雲は2層になっているわけですね。
上に被さっている雑念の雲。そして、今見えてきた(潜在意識を覆い隠している)雲です。
この、潜在意識を覆い隠している雲はそれなりに厚いのですが雨雲のように暗くはなくて、雨が降っていない曇りの日の雲のような感じです。
その雲を観察しながら瞑想を続けていると、ふと、雲が薄くなってきて向こうにある光がうっすらと輝き出します。
私の場合、時折強く光る程度で常に輝いているというわけではありませんけど、それでも、雲の途切れ目から太陽がうっすらと見えるかの如く、雲が晴れて晴天になる前触れのようなものを感じます。
聖典やヨーガの行者が「光り輝くものを見る」と言っているのは、このことなのかもしれません。ただ同時に、聖典が伝えることによれば、そのような光は一定の瞑想の進歩を示すものではあるものの、さほど重要ではない、とも伝えています。実際のところ聖典が伝える光と私の言う光とが同一であるかどうかは微妙なところではあります。光それ自体であればもっと昔から度々見ておりましたけど、今回のように、意識の状態とサハスララの状態とが一致して光になる、という感じではなく、うっすらと見えていたり時折光っていただけでしたから。集中だけでも光というのは感じられたり強く光ったりしますから、光というだけではなかなか判別は難しいものです。
ですけど、本山博先生の著作によれば、サハスララチャクラでは、光り輝いているということであり、カーラナ(コーザル、原因)に達すると光り輝くということでもあるようですので、私の段階がカーラナ(コーザル)に達しつつある、ということなのかもしれません。
個人的な解釈としては、カーラナ(コーザル)というのはカルマやトラウマの蓄積のことですからカルマの解消という意味では随分と前から行ってきていて、光り輝くというのはカーラナ(コーザル)への対処を卒業しつつある時にそうなるのではないか、というのが私の理解です。カーラナ(コーザル)に入り始めるときにカルマやトラウマの整理が本格的に始まって、その段階では雲は光を通さないほど厚くて暗いわけです。それがアストラルの下層及び上層という段階で、アストラルの段階ではカーラナ(コーザル)の厚い雲がまだ残っていて、カーラナ(コーザル)のカルマやトラウマに対処しているのがアストラルの段階なわけです。そして、カルマやトラウマの解消が終わってくるとカーラナ(コーザル)の雲が取り払われてきて、そうすると輝いてくるのかなと思います。ですから、本山博先生がおっしゃっているアストラルの段階とかカーラナの段階というのは、見え始めた段階から対処が終わる段階、というところに細分されるのだと思います。それは、本山博先生がいうところのサマーディというのはアストラル、カーラナ(コーザル、原因)、プルシャ、それぞれにあるということに相当すると思いますので、物理的な次元からアストラルのサマーディで合一する時もあれば、今回の私のように(アストラルの段階でカーラナに対処していた段階から進んで)カーラナを卒業して次の段階へ進みつつある段階でサマーディが起こって合一する、ということもあるのだと思います。カーラナに進むことを妨げていてカルマやトラウマの厚い雲が薄くなってきて、カーラナの次元と合一しつつあるということなのかな、という気も致します。
実際のところ段階としてはカーラナ(コーザル)の次にプルシャ(個としての神霊)、更に次には創造神、という段階があるようですのでカーラナ(コーザル)の段階はまだまだ途中ではあるのですけど、それでも、一つ重要な一歩を踏んだ気が致します。
この時、意識の状態としては凪の状態なわけですけれども、顕在意識の意識は静かに止まっていて、一方、特に重要だと思うのですけど、潜在意識としての意図する意識の方も努力して静止し続けているという点です。これが重要な違いで、単に思考(ブッディ)が止まっているだけでなく、意図する潜在意識の方もそれなりに静かになっていることがこの状態において必要のように思います。
■呼吸の変化
この、光り輝く段階になると体へも変化が出てきて、光り輝くのと同時に呼吸が自動的に止まります。とは言いましてもずっと息を止めていることはできませんので顕在意識を強制的に働かせて呼吸を回復するのですけど、とても強い力でまた光り輝くのと同時に呼吸が停止する状態に引っ張られてゆきます。そのまま呼吸を止めていても実際のところ平気なのかもしれませんけど、今のところ、あまり長い間は呼吸を止めることなく顕在意識を働かせるようにしています。
ヨーガで呼吸を止める方法とかも色々あって修行方法の1つではありますけど、私の場合、呼吸を止める(クンバカ)は割と苦手な方だったのですけど、ここにきて急に呼吸が止まることが起きました。
今から思い返せば、この、クンバカが苦手な段階と自動的な止息(ケヴァラ・クンバカ)が起こる段階とは交互に起きていたように思います。元々クンバカが苦手で、その後、自動的に止息(ケヴァラ・クンバカ)が起こるようになって、しかしながらクンダリーニ経験後にはクンバカが苦手になり、それなりに今は普通に戻りつつあったのですけど、ここにきて再度、自動的な止息(ケヴァラ・クンバカ)が起こるようになった感じです。
一説によればクンバカができる時間は「器÷エネルギーの強さ=クンバカの時間」とのことですので、器が大きくなったり、エネルギーが強くなったり、という変化によってクンバカの苦手や自動的な子息(ケヴァラ・クンバカ)が変化してきているのかもしれません。
そのようなクンバカの変化がありつつも、視界としては光り輝いているわけです。