自動的な小周天あるいは大周天が起きる瞑想から凪の状態へ
特に意識してそうしたわけではないのですが、最近は瞑想をしていると自動的に小周天が起こります。小周天とは気功やヨーガの本山博先生が紹介している基本的な修行方法で、ざっくり言ってしまうとオーラの塊を体の中心軸に沿って背中沿いに上げてから前面を通して下げる、という方法です。
これは元々は修行法として明示的にそのように意図するもののようですけど私はこれはあまりしたことがなくて、かなり昔に試したことはありますけどそのくらいで、その時は小さな小さな塊のオーラが少しずつ動く、というくらいでした。
最近は、特に意識していたわけでもなく小周天が起こるのですがしていることはいつもと同じで眉間に集中した瞑想なのですけど、そうしていると小周天、しかしながら昔よりも遥かにしっかりとしたオーラ頭に集まっては下半身にまた下がる、というのが繰り返されていることがわかります。
朝起きてすぐなど、オーラに滞りがあって意識があまりはっきりしていない時はオーラの移動と共に意識がはっきりしてくる、という効果があります。
昔のように小さなオーラの塊が動くという感じではなくて、背中のどこを通って、というよりは体の中も使って体の後ろ半分全部を通ってオーラが頭に集まり、しばらく集まるとそれがストンと一気に、高いところからものが落ちるように急に一気にお腹のマニプラの辺りまで落ちた後、更にムーラダーラの方にまで拡散して浸透します。
そうするとまた頭の辺りにオーラが集まり始めて、ある程度集まるとまたマニプラ及びムーラダーラの方にオーラがストンと落ちます。
1サイクルはおそらく30秒から1分くらいで、瞑想でしていることは上記の通りずっと眉間に集中しているだけなのですけど、このようなオーラの移動が自動的に起こります。
これは明示的な小周天というより違った言い方をする流派もある気も致しますが、とりあえず小周天としておきます。
最初、あまりまだオーラが動いていない状態で眉間に集中していると頭の辺りにオーラが集まって、その時点ではまだ意識は少しぼやけていますけどオーラが集まるにつれ少し意識がはっきりしてきて、集まったオーラが下半身に落ちると意識が更に割とクリアになりますけど頭の感覚はほんの少し弱くなります。そしてまたオーラが頭に集まると知覚が少し冴えてきて意識が少しはっきりとしてくるのですが、またしばらくするとそのオーラが下半身に落ちて意識がクリアになって、かつ、オーラが下半身に落ちたことで頭の感覚がまたほんの少し弱くなりますけど元の意識よりははっきりした状態になります。言葉で表現するのは難しいですけど、意識の明晰さに関して三歩進んで二歩下がる、ということを繰り返します。これを繰り返していると、よりクリアな意識のまま頭が冴えた状態になるわけです。
以前は割と1サイクルあるいは1ステップだけが起きて瞑想を満足していましたけど、最近は何サイクルも起きるようになりました。昔はそもそも1ステップ起きるために30分とか1時間とか座らないといけなくて、例えば、オーラを頭に集めて下半身に落とす、というステップだけにそのくらいかかっていました。今は割とすぐにそれができて30秒とか1分でステップ及びサイクルが進みますので、瞑想それ自体の時間も割と短くて済むようになりました。とは言いましても日にもよりますが。
この段階は、人によっては全身周天あるいは全周天と言っていたりもするようです。
小周天が後天の気を識神の力(意識作用)で体にめぐらせるのに対し、大周天は先天の気を不識神(無意識のこと。つまり普通にいう意識作用を止めた状態)の力で発動させ動かす点にある。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」
後天の気とは普通の気功の気のことで、先天の気とはざっくりいうとクンダリーニの事のようです。他にも条件がいくつかあるようですけどポイントは割とここのように思います。実際のところ、体全体に気が充満するという点に関しては割と昔からそうなっていましたけど、ここに書いてあるように「(気が)めぐる」というようになったのはここ最近のことです。この本は割とエンターテイメント系の本でスノで私はスルーしがちでしたけど改めて見てみるとこういうポイントは意外にもしっかりと抑えていて、エンターテイメントを抜きにして見れば参考になる点もあるように思います。
瞑想をすることでオーラが動き出すのですが、一旦オーラが動き出してしまえば瞑想を終えた後も日常生活をしながらでもゆっくりとオーラが回転するように思います。
思い返してみれば、次のような段階を踏んだように思います。
1.オーラがサハスララにまで満ちていない状態(オーラはまださほど動いていない)
2.オーラがサハスララに満ちた状態(オーラはまださほど動いていない)
3.オーラがサハスララから少し落ちた状態。あるいはオーラがサハスララに集まり過ぎた状態。
4.眉間に集中する瞑想をしているとオーラをサハスララに集める
5.眉間に集中する瞑想をしているとオーラが下半身に下がる
6.4に戻る(回転する)
→ 4と5のループが大周天。やがて日常生活で同様のループが起こるようになる。
実際のところ、サハスララにまでバランスよくオーラが行き渡っていれば大周天は不要で、少し前はそのようにバランスが取れた状態だったように思います。しかしながら日常生活を送る上でオーラのバランスが崩れたりしますので大周天のような手法を使うと効果的にオーラのバランスが取れるのだと思います。
・・・そして、そのように大周天(あるいは全身周天)をしていくと、再度、元のように全身のオーラが充満した状態になり、そうすると大周天は止まってオーラが凪のような状態になります。もはや明示的なオーラの回転はしていませんが下半身のオーラが充満していて上半身及び特に頭のあたりのオーラも満遍なく行き渡っている状態になります。
そのようになると意識もクリアになり、ざわざわとした感覚がほぼなくなってスッキリした状態になります。
おそらくは、大周天(あるいは全身周天)はこのようにオーラが全身に充満するまでの過渡的な状態なのかな・・・ という気も致します。
まだオーラが全身に充満していない段階で行うか、あるいは、一旦は充満したものの日常生活を送ってオーラのバランスが崩れた時にこのように大周天(あるいは全身周天)を回すとオーラの状態の回復が早い、ということなのかなと思います。
これは元々は修行法として明示的にそのように意図するもののようですけど私はこれはあまりしたことがなくて、かなり昔に試したことはありますけどそのくらいで、その時は小さな小さな塊のオーラが少しずつ動く、というくらいでした。
最近は、特に意識していたわけでもなく小周天が起こるのですがしていることはいつもと同じで眉間に集中した瞑想なのですけど、そうしていると小周天、しかしながら昔よりも遥かにしっかりとしたオーラ頭に集まっては下半身にまた下がる、というのが繰り返されていることがわかります。
朝起きてすぐなど、オーラに滞りがあって意識があまりはっきりしていない時はオーラの移動と共に意識がはっきりしてくる、という効果があります。
昔のように小さなオーラの塊が動くという感じではなくて、背中のどこを通って、というよりは体の中も使って体の後ろ半分全部を通ってオーラが頭に集まり、しばらく集まるとそれがストンと一気に、高いところからものが落ちるように急に一気にお腹のマニプラの辺りまで落ちた後、更にムーラダーラの方にまで拡散して浸透します。
そうするとまた頭の辺りにオーラが集まり始めて、ある程度集まるとまたマニプラ及びムーラダーラの方にオーラがストンと落ちます。
1サイクルはおそらく30秒から1分くらいで、瞑想でしていることは上記の通りずっと眉間に集中しているだけなのですけど、このようなオーラの移動が自動的に起こります。
これは明示的な小周天というより違った言い方をする流派もある気も致しますが、とりあえず小周天としておきます。
最初、あまりまだオーラが動いていない状態で眉間に集中していると頭の辺りにオーラが集まって、その時点ではまだ意識は少しぼやけていますけどオーラが集まるにつれ少し意識がはっきりしてきて、集まったオーラが下半身に落ちると意識が更に割とクリアになりますけど頭の感覚はほんの少し弱くなります。そしてまたオーラが頭に集まると知覚が少し冴えてきて意識が少しはっきりとしてくるのですが、またしばらくするとそのオーラが下半身に落ちて意識がクリアになって、かつ、オーラが下半身に落ちたことで頭の感覚がまたほんの少し弱くなりますけど元の意識よりははっきりした状態になります。言葉で表現するのは難しいですけど、意識の明晰さに関して三歩進んで二歩下がる、ということを繰り返します。これを繰り返していると、よりクリアな意識のまま頭が冴えた状態になるわけです。
以前は割と1サイクルあるいは1ステップだけが起きて瞑想を満足していましたけど、最近は何サイクルも起きるようになりました。昔はそもそも1ステップ起きるために30分とか1時間とか座らないといけなくて、例えば、オーラを頭に集めて下半身に落とす、というステップだけにそのくらいかかっていました。今は割とすぐにそれができて30秒とか1分でステップ及びサイクルが進みますので、瞑想それ自体の時間も割と短くて済むようになりました。とは言いましても日にもよりますが。
この段階は、人によっては全身周天あるいは全周天と言っていたりもするようです。
小周天が後天の気を識神の力(意識作用)で体にめぐらせるのに対し、大周天は先天の気を不識神(無意識のこと。つまり普通にいう意識作用を止めた状態)の力で発動させ動かす点にある。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」
後天の気とは普通の気功の気のことで、先天の気とはざっくりいうとクンダリーニの事のようです。他にも条件がいくつかあるようですけどポイントは割とここのように思います。実際のところ、体全体に気が充満するという点に関しては割と昔からそうなっていましたけど、ここに書いてあるように「(気が)めぐる」というようになったのはここ最近のことです。この本は割とエンターテイメント系の本でスノで私はスルーしがちでしたけど改めて見てみるとこういうポイントは意外にもしっかりと抑えていて、エンターテイメントを抜きにして見れば参考になる点もあるように思います。
瞑想をすることでオーラが動き出すのですが、一旦オーラが動き出してしまえば瞑想を終えた後も日常生活をしながらでもゆっくりとオーラが回転するように思います。
思い返してみれば、次のような段階を踏んだように思います。
1.オーラがサハスララにまで満ちていない状態(オーラはまださほど動いていない)
2.オーラがサハスララに満ちた状態(オーラはまださほど動いていない)
3.オーラがサハスララから少し落ちた状態。あるいはオーラがサハスララに集まり過ぎた状態。
4.眉間に集中する瞑想をしているとオーラをサハスララに集める
5.眉間に集中する瞑想をしているとオーラが下半身に下がる
6.4に戻る(回転する)
→ 4と5のループが大周天。やがて日常生活で同様のループが起こるようになる。
実際のところ、サハスララにまでバランスよくオーラが行き渡っていれば大周天は不要で、少し前はそのようにバランスが取れた状態だったように思います。しかしながら日常生活を送る上でオーラのバランスが崩れたりしますので大周天のような手法を使うと効果的にオーラのバランスが取れるのだと思います。
・・・そして、そのように大周天(あるいは全身周天)をしていくと、再度、元のように全身のオーラが充満した状態になり、そうすると大周天は止まってオーラが凪のような状態になります。もはや明示的なオーラの回転はしていませんが下半身のオーラが充満していて上半身及び特に頭のあたりのオーラも満遍なく行き渡っている状態になります。
そのようになると意識もクリアになり、ざわざわとした感覚がほぼなくなってスッキリした状態になります。
おそらくは、大周天(あるいは全身周天)はこのようにオーラが全身に充満するまでの過渡的な状態なのかな・・・ という気も致します。
まだオーラが全身に充満していない段階で行うか、あるいは、一旦は充満したものの日常生活を送ってオーラのバランスが崩れた時にこのように大周天(あるいは全身周天)を回すとオーラの状態の回復が早い、ということなのかなと思います。
瞑想が進むと別々の世界に生きるようになる
この世界は雑多な人が交わって生きる世界でありますけど、瞑想が進むにつれ、人の良い人しか視界に入らないようになってきます。人との関わり合いにおいても、欲望まみれの人に会う機会がどんどんと少なくなってゆきます。
スピリチュアルの分野においては波動の法則が言われていて、自分と似たような人が集まる、みたいなことが言われていますけどそれは真実で、欲望にまみれた人は視界に入らなかくなってゆきます。
ただ、このスピリチュアルのお話を文字通り理解してしまうと「分離」の意識になってしまうかもしれなくて、勘違いしてしまうと「汚い誰それたちとは違って私は綺麗な世界で生きるのです」みたいなおかしなお話になってしまいますけど、ここで言っているのは分離のお話ではなくて、基本としては周囲の人全てが悟っているように感じられると言う段階があって、その状態においては分離ではなくて、全て統合されていて、全ての人が唯一の「わたし」として感じられる状態なわけです。
その状態においては、何故か、欲望に塗れた人が近寄ってこないわけです。
ですから、実際は近寄ってきているのかもしれませんけど、相手からしても私のことが見えなくなっていますから、あまり影響がないわけです。流石に完全に見えないわけではありませんけど、お互いに気づきにくくなっているわけです。ですから、たまに事故で欲望まみれの人に会うこともありますけど、かなり頻度は少なくなるわけです。
じゃあ、その状態を目指して「私はこれから、欲望まみれの人と付き合わないようにします」とか思っても無駄なことで、これは「結果」ですから「手段」ではないわけです。
結果として欲望まみれの人と付き合わないようにするための手段がそのままストレートに「欲望まみれの人と付き合わなければ良い」と言うことではないわけです。それは最終的な結果であって、手段は違うわけです。
そのための手法は色々とありますけど効果的なものの1つが瞑想で、瞑想が進むにつれてエネルギーが高まり、周囲の人が全て悟っているかのように感じられるようになり、そして、欲望まみれの人は周囲から消えてゆきます。瞑想ですから、瞑想の手法の基本は集中になります。
欲望まみれの人は目的があって誰かに付きまとっているわけですけど、それは、体から発せられているエネルギーを絡め取って奪い取ることが主目的であるわけです。ですから、体のエネルギーの質および形態が変わることによってエネルギーを絡め取ることができなくなったらそれを直感的に感じ取って欲望まみれの人は去ってゆくわけです。欲望まみれの人をスピリチュアル的に言えばエネルギー・ヴァンパイアとなるわけですけど、欲望と言うのはエネルギーの渇望ですから、誰かからエネルギーを奪うことで生きているわけです。
防御法としては自分のエネルギーを高めたり、エネルギーのケーブル(エーテルのケーブル)を切ったりする手法もあるにはありますけど、それよりも、ある程度の瞑想に達してエネルギーを満ちた状態にして、かつ、周囲に広がっているエネルギーのフィールドを自分中心に集中させて周囲に奪われないようにするのが良いと思います。
奪われないようにする、と言うのは、オーラの質が変わることによっても達成できます。オーラの形及びケーブルを切るだけでなく、自分のオーラの波動が微細になれば粗い欲望まみれの人が必要としているオーラとは違ってきますから、ないものは奪えませんので、粗いオーラがなければ欲望まみれのエネルギー・ヴァンパイアは近寄らなくなってきます。
お互いに相手のことが見えなくなりますので、お互いに幸せなわけです。
スピリチュアルの分野においては波動の法則が言われていて、自分と似たような人が集まる、みたいなことが言われていますけどそれは真実で、欲望にまみれた人は視界に入らなかくなってゆきます。
ただ、このスピリチュアルのお話を文字通り理解してしまうと「分離」の意識になってしまうかもしれなくて、勘違いしてしまうと「汚い誰それたちとは違って私は綺麗な世界で生きるのです」みたいなおかしなお話になってしまいますけど、ここで言っているのは分離のお話ではなくて、基本としては周囲の人全てが悟っているように感じられると言う段階があって、その状態においては分離ではなくて、全て統合されていて、全ての人が唯一の「わたし」として感じられる状態なわけです。
その状態においては、何故か、欲望に塗れた人が近寄ってこないわけです。
ですから、実際は近寄ってきているのかもしれませんけど、相手からしても私のことが見えなくなっていますから、あまり影響がないわけです。流石に完全に見えないわけではありませんけど、お互いに気づきにくくなっているわけです。ですから、たまに事故で欲望まみれの人に会うこともありますけど、かなり頻度は少なくなるわけです。
じゃあ、その状態を目指して「私はこれから、欲望まみれの人と付き合わないようにします」とか思っても無駄なことで、これは「結果」ですから「手段」ではないわけです。
結果として欲望まみれの人と付き合わないようにするための手段がそのままストレートに「欲望まみれの人と付き合わなければ良い」と言うことではないわけです。それは最終的な結果であって、手段は違うわけです。
そのための手法は色々とありますけど効果的なものの1つが瞑想で、瞑想が進むにつれてエネルギーが高まり、周囲の人が全て悟っているかのように感じられるようになり、そして、欲望まみれの人は周囲から消えてゆきます。瞑想ですから、瞑想の手法の基本は集中になります。
欲望まみれの人は目的があって誰かに付きまとっているわけですけど、それは、体から発せられているエネルギーを絡め取って奪い取ることが主目的であるわけです。ですから、体のエネルギーの質および形態が変わることによってエネルギーを絡め取ることができなくなったらそれを直感的に感じ取って欲望まみれの人は去ってゆくわけです。欲望まみれの人をスピリチュアル的に言えばエネルギー・ヴァンパイアとなるわけですけど、欲望と言うのはエネルギーの渇望ですから、誰かからエネルギーを奪うことで生きているわけです。
防御法としては自分のエネルギーを高めたり、エネルギーのケーブル(エーテルのケーブル)を切ったりする手法もあるにはありますけど、それよりも、ある程度の瞑想に達してエネルギーを満ちた状態にして、かつ、周囲に広がっているエネルギーのフィールドを自分中心に集中させて周囲に奪われないようにするのが良いと思います。
奪われないようにする、と言うのは、オーラの質が変わることによっても達成できます。オーラの形及びケーブルを切るだけでなく、自分のオーラの波動が微細になれば粗い欲望まみれの人が必要としているオーラとは違ってきますから、ないものは奪えませんので、粗いオーラがなければ欲望まみれのエネルギー・ヴァンパイアは近寄らなくなってきます。
お互いに相手のことが見えなくなりますので、お互いに幸せなわけです。
瞑想がある程度進めば心理学等はあまり必要でなくなる
心理学や哲学は、アリストテレスやプラトンなど古典の書物を読むとそれなりに瞑想が進んだ方が書いていると思われることも多々ありますが、近年の心理学・哲学は思考する心(マインド)が認知できる範囲のみを扱っていて、マインド以上の領域を扱っていために、思考で問題を解決する、というお話に終始してしまうわけです。
古典の人々は人の思考する心(マインド)以上の世界を受け入れていて、それはイデアとか色々な言葉で言われていたりしますけど、瞑想はその辺りのお話を扱うわけで、思考する心(マインド)は瞑想で言うとまだ入口なわけです。その入口を主に扱っている最近の近代心理学は瞑想者にとっては興味が薄い分野になるわけです。
近代の心理学を作った方々はおそらく本人が思考する心(マインド)以上のことがわからなかったのでしょうし、一方、古典のアリストテレスやプラトンはそれ以上の世界を認知していたと言うことでしょうから、それぞれの立場において正直なのはいいのですけど、古来の人々が扱ってきたマインド以上の世界を扱っていない以上、近代の心理学は瞑想者にとって物足りないお話になるわけです。
基本的に、瞑想者は自分の意識を高めることで超越しようとします。そのことを瞑想の流派によって色々と言葉で言われていたりしますけど、表現が違うだけで同じことだったりします。人によってはパワーを上げる、というでしょうし、波動を高める、と言ったり、あるいは、愛を高める、とか、至福、とか、慈愛、とか、あるいは高次元とか神とか言ったりします。言葉を読むだけですと分類してこれとこれは違う、みたいなお話になりますけど、瞑想者としては結局のところ同じことなわけです。
心理学で自分の思考に対処する、とか、他人の葛藤をなだめる、とか、自分の葛藤を沈める、とか、怒りを抑える、とか色々ありますけど、瞑想が進むとそれらは全て超越してきて、そのような問題とは関わりがなくなってゆきます。
人間ですから日常生活を送る上でそれらの感情とは無縁ではありませんけど、対処方法として心理学がいうように思考を工夫して違う面を理解するようにする、とか、相手を理解する、とか、相互理解を深める、とか、避けるようにする、とか、問題を軽減する、とか、そのような手法はそれなりに有用ではありますけど本質ではなくて、本質は、それらの問題を超越するというところにあるわけです。
そうは言いましても道徳や教養として避けるべきことというのは瞑想していても残りますから不道徳になるということではなくて、問題が発生した時の対処方法として、基本は道徳とか教養とかの手法に一応は頼るわけではありますけど、根本の本質からいうとそれら心理学や道徳、あるいは教養ではなくて瞑想的な視点で超越することによって根本の解決を図るわけです。
超越、ということは、そもそも問題が問題でなくなる、ということでもあります。言うなれば、ゲームの中で起こった問題やイベントが、ゲームを終えてみたら大したことではないのと同様です。日常生活で問題が起こったとしてもゲームのようなもので、本質には関係がないのです。こう言ったからと言ってゲームのように適当に日常生活の問題を軽く扱うということではなく、日常生活は淡々と普通に送るのではありますけど、そのように昔と変わらず普通に生活する中で、その奥の根本に瞑想的な本質があって、その本質が超越した視点を持つということであって、ゲームだから好きにしていいということではなく、ゲームだからいい加減にしてもいい、というわけではないのです。そもそも、瞑想が進めばいい加減とかそういうお話はなくなってゆきますから、いい加減でいい、とか思うのであればそれは瞑想が進んでいない証拠なわけです。日常生活が普通に送ることができて、その中で、その根本の寄り添うところとして根源の瞑想的な意識があって、その根源を超越と言ったりしますけど、超越という言い方が誤解があるのであれば根源、と言ってもいいですし、静寂の心、と言っても良いです。あるいは神意識と呼んでも良いですし、慈愛とか至福とか呼んでも同じことです。そのように、日常の普通の心(マインド)を超えたものがあって、超えたところで生活するのであれば心理学等はあまり必要でなくなる、ということです。
古典の人々は人の思考する心(マインド)以上の世界を受け入れていて、それはイデアとか色々な言葉で言われていたりしますけど、瞑想はその辺りのお話を扱うわけで、思考する心(マインド)は瞑想で言うとまだ入口なわけです。その入口を主に扱っている最近の近代心理学は瞑想者にとっては興味が薄い分野になるわけです。
近代の心理学を作った方々はおそらく本人が思考する心(マインド)以上のことがわからなかったのでしょうし、一方、古典のアリストテレスやプラトンはそれ以上の世界を認知していたと言うことでしょうから、それぞれの立場において正直なのはいいのですけど、古来の人々が扱ってきたマインド以上の世界を扱っていない以上、近代の心理学は瞑想者にとって物足りないお話になるわけです。
基本的に、瞑想者は自分の意識を高めることで超越しようとします。そのことを瞑想の流派によって色々と言葉で言われていたりしますけど、表現が違うだけで同じことだったりします。人によってはパワーを上げる、というでしょうし、波動を高める、と言ったり、あるいは、愛を高める、とか、至福、とか、慈愛、とか、あるいは高次元とか神とか言ったりします。言葉を読むだけですと分類してこれとこれは違う、みたいなお話になりますけど、瞑想者としては結局のところ同じことなわけです。
心理学で自分の思考に対処する、とか、他人の葛藤をなだめる、とか、自分の葛藤を沈める、とか、怒りを抑える、とか色々ありますけど、瞑想が進むとそれらは全て超越してきて、そのような問題とは関わりがなくなってゆきます。
人間ですから日常生活を送る上でそれらの感情とは無縁ではありませんけど、対処方法として心理学がいうように思考を工夫して違う面を理解するようにする、とか、相手を理解する、とか、相互理解を深める、とか、避けるようにする、とか、問題を軽減する、とか、そのような手法はそれなりに有用ではありますけど本質ではなくて、本質は、それらの問題を超越するというところにあるわけです。
そうは言いましても道徳や教養として避けるべきことというのは瞑想していても残りますから不道徳になるということではなくて、問題が発生した時の対処方法として、基本は道徳とか教養とかの手法に一応は頼るわけではありますけど、根本の本質からいうとそれら心理学や道徳、あるいは教養ではなくて瞑想的な視点で超越することによって根本の解決を図るわけです。
超越、ということは、そもそも問題が問題でなくなる、ということでもあります。言うなれば、ゲームの中で起こった問題やイベントが、ゲームを終えてみたら大したことではないのと同様です。日常生活で問題が起こったとしてもゲームのようなもので、本質には関係がないのです。こう言ったからと言ってゲームのように適当に日常生活の問題を軽く扱うということではなく、日常生活は淡々と普通に送るのではありますけど、そのように昔と変わらず普通に生活する中で、その奥の根本に瞑想的な本質があって、その本質が超越した視点を持つということであって、ゲームだから好きにしていいということではなく、ゲームだからいい加減にしてもいい、というわけではないのです。そもそも、瞑想が進めばいい加減とかそういうお話はなくなってゆきますから、いい加減でいい、とか思うのであればそれは瞑想が進んでいない証拠なわけです。日常生活が普通に送ることができて、その中で、その根本の寄り添うところとして根源の瞑想的な意識があって、その根源を超越と言ったりしますけど、超越という言い方が誤解があるのであれば根源、と言ってもいいですし、静寂の心、と言っても良いです。あるいは神意識と呼んでも良いですし、慈愛とか至福とか呼んでも同じことです。そのように、日常の普通の心(マインド)を超えたものがあって、超えたところで生活するのであれば心理学等はあまり必要でなくなる、ということです。
潜在意識で手放しを意図して、顕在意識では意図しない
何かの問題から離れようとするとき、スピリチュアルではよく「手放し」が行われたりしますけど、普通に文字通り読んでしまうと顕在意識で「手放します」と宣言することかなと思ってしまうかもしれませんけど、この種の「手放し」は顕在意識で行うものではなくて、潜在意識で手放しを意図するものなわけです。
同じくスピリチュアルで「思いが実現する」みたいなことも言われていますけど、ここで言う思いとは顕在意識のことではなくて潜在意識で意図することを「思いが実現する」「願いは実現する」みたいに表現しているわけです。ですけど、普通に文字通り読むだけですと顕在意識で願い事をすれば実現するように思えてしまうかもしれませんけど、顕在意識でいくら願ったところでも大して現実は変わらないわけです。
一方、潜在意識で意図すれば割とスムーズに物事は変わっていきます。
それは、良いこと悪いこと全てそうなります。実際のところ物事に善悪なんてありませんから意図すればその通りになります。
かと言ってなんでも好きになるかというと、潜在意識で意図した時にどのくらいスムーズに意図できるか次第でどのくらい現実化するかが決まります。意図した時に何やら抵抗があるようであればなかなか難しいでしょうし、意図がすんなり受け入れられたと思ったならば割とその通りになります。
その、潜在意識で意図する時、意図が「(何かを)手放します」であればそれはスピリチュアル的な「手放し」になるわけです。
同じ意図を使って「何かを成し遂げます」とか「何かを手に入れます」と意図することもできるわけです。意図は意図でしかなくて、その意図により手放しをしようが何を願おうが自由なわけです。
一方、顕在意識では何も考えないようにします。潜在意識は実際のところ潜在意識にさほど影響を与えませんけど、顕在意識が常に混乱しているような状態ですとなかなか潜在意識で意図するなんてできませんし、であれば、顕在意識を鎮めて潜在意識をうまく使っていくためには瞑想が有効になるわけです。
では、潜在意識が使えるようになると何でも思い通りかというと、実際のところそのくらいになりますと自分と他人の区別がなくなってゆきますので自分のためというよりは社会のため、コミュニティのために潜在意識を働かせることが多くなってゆきます。とは言いましても個人的な願望も多々あって、個人的なお話で現実を動かすこともあるわけですけど、そのくらいになりますと割と調和の視点から個人的な願望を捉えるようになります。
過渡期には色々と個人的な願望を叶えたりもしますけどその時点ではまだ現実を変える力は弱くて、潜在意識の力も限られているわけです。このくらいの時期が一番「手放し」とか「引き寄せの法則」が意図して働きやすくて、それ以上になると現実が意図通りに動くのが当たり前すぎてわざわざ手放しとか引き寄せとか言うのが微妙な気も致します。そもそも手放しが必要なのは何か苦しいからで、苦しくなければわざわざ手放しとか不要ですし、引き寄せの法則が必要なのは願望があるからで、願望がなければ引き寄せの法則なんて不要なわけです。かと言って必要があれば意図して手放しとか引き寄せはできますのでたまには意図して使いますけどそれなりにスピリチュアルに成長してしまえばそれらを意図する原因がかなり減っていますから、まだスピリチュアルにさほど成長していなくて手放しとか引き寄せとかを求めている段階と比べると手放しとか引き寄せとかの重みは減っているわけです。手放しとか引き寄せとか言っているのは顕在意識が苦しいからで、顕在意識の働きかけが減ってゆくのならばこれらの同じ法則は無意識・潜在意識の領域でだけ働くようになって、それは当たり前の働きとして無意識が感じて無意識が働きかけを行うようになります。無意識とは言っていても瞑想すればその無意識を把握して無意識に対して働きかけをすることができるようになりますからもはや無意識というのは不適切かもしれませんけど、言葉を変えるならば集合無意識とでも呼べるものに対して働きかけをするわけで、潜在意識と言ってもいいわけです。一方、手放しとかわざわざ言っているのは割とスピリチュアルでそれほど成長していない人向けのように思います。スピリチュアルにさほど成長していない段階で「手放し」を求めていて、いざ本当に手放しができる段階に達してみるとその「手放し」は顕在意識ではさほど必要ではなくなるけれども潜在意識的にとっては当たり前になる、という感じです。
同じくスピリチュアルで「思いが実現する」みたいなことも言われていますけど、ここで言う思いとは顕在意識のことではなくて潜在意識で意図することを「思いが実現する」「願いは実現する」みたいに表現しているわけです。ですけど、普通に文字通り読むだけですと顕在意識で願い事をすれば実現するように思えてしまうかもしれませんけど、顕在意識でいくら願ったところでも大して現実は変わらないわけです。
一方、潜在意識で意図すれば割とスムーズに物事は変わっていきます。
それは、良いこと悪いこと全てそうなります。実際のところ物事に善悪なんてありませんから意図すればその通りになります。
かと言ってなんでも好きになるかというと、潜在意識で意図した時にどのくらいスムーズに意図できるか次第でどのくらい現実化するかが決まります。意図した時に何やら抵抗があるようであればなかなか難しいでしょうし、意図がすんなり受け入れられたと思ったならば割とその通りになります。
その、潜在意識で意図する時、意図が「(何かを)手放します」であればそれはスピリチュアル的な「手放し」になるわけです。
同じ意図を使って「何かを成し遂げます」とか「何かを手に入れます」と意図することもできるわけです。意図は意図でしかなくて、その意図により手放しをしようが何を願おうが自由なわけです。
一方、顕在意識では何も考えないようにします。潜在意識は実際のところ潜在意識にさほど影響を与えませんけど、顕在意識が常に混乱しているような状態ですとなかなか潜在意識で意図するなんてできませんし、であれば、顕在意識を鎮めて潜在意識をうまく使っていくためには瞑想が有効になるわけです。
では、潜在意識が使えるようになると何でも思い通りかというと、実際のところそのくらいになりますと自分と他人の区別がなくなってゆきますので自分のためというよりは社会のため、コミュニティのために潜在意識を働かせることが多くなってゆきます。とは言いましても個人的な願望も多々あって、個人的なお話で現実を動かすこともあるわけですけど、そのくらいになりますと割と調和の視点から個人的な願望を捉えるようになります。
過渡期には色々と個人的な願望を叶えたりもしますけどその時点ではまだ現実を変える力は弱くて、潜在意識の力も限られているわけです。このくらいの時期が一番「手放し」とか「引き寄せの法則」が意図して働きやすくて、それ以上になると現実が意図通りに動くのが当たり前すぎてわざわざ手放しとか引き寄せとか言うのが微妙な気も致します。そもそも手放しが必要なのは何か苦しいからで、苦しくなければわざわざ手放しとか不要ですし、引き寄せの法則が必要なのは願望があるからで、願望がなければ引き寄せの法則なんて不要なわけです。かと言って必要があれば意図して手放しとか引き寄せはできますのでたまには意図して使いますけどそれなりにスピリチュアルに成長してしまえばそれらを意図する原因がかなり減っていますから、まだスピリチュアルにさほど成長していなくて手放しとか引き寄せとかを求めている段階と比べると手放しとか引き寄せとかの重みは減っているわけです。手放しとか引き寄せとか言っているのは顕在意識が苦しいからで、顕在意識の働きかけが減ってゆくのならばこれらの同じ法則は無意識・潜在意識の領域でだけ働くようになって、それは当たり前の働きとして無意識が感じて無意識が働きかけを行うようになります。無意識とは言っていても瞑想すればその無意識を把握して無意識に対して働きかけをすることができるようになりますからもはや無意識というのは不適切かもしれませんけど、言葉を変えるならば集合無意識とでも呼べるものに対して働きかけをするわけで、潜在意識と言ってもいいわけです。一方、手放しとかわざわざ言っているのは割とスピリチュアルでそれほど成長していない人向けのように思います。スピリチュアルにさほど成長していない段階で「手放し」を求めていて、いざ本当に手放しができる段階に達してみるとその「手放し」は顕在意識ではさほど必要ではなくなるけれども潜在意識的にとっては当たり前になる、という感じです。
意識が静まると雲が見え、やがて輝き出す
瞑想をして眉間に集中します。最初はオーラが安定していないこともありますが、日によっては最初から安定していて、あるいは、自動的な小周天あるいは大周天が起きる瞑想から凪の状態へと移行します。
その時、段階的に体の各所の緊張が取れてリラックスしてゆきます。
これは、意図してそうなるということではなくて、行うのは単に眉間に集中を続けているだけです。行動としては眉間への集中の瞑想で、結果としてこれらの凪の状態およびリラックスが起こります。
そして、リラックスが目的であればここで瞑想を辞めても良いのですけど、その状態でも更に瞑想を続けます。その先を見るためです。
リラックスして瞑想を続けているとサハスララにオーラが満ち、その結果、雑念がまた一段階減ります。
雑念が減った状態が目的であればそこで瞑想を辞めても良いのですけど、更に瞑想を続けて様子を見ます。その先を見るためです。
そうして雑念が減った状態、サハスララにそれなりにオーラが満ちた状態で瞑想を続けていると、やがて、目の前に雲で覆われている自分が見えてきます。これは、潜在意識を覆い隠している雲です。
この雲は、雑念がまだ多い状態ですとそのまた上に一層、雑念の雲が乗っています。サハスララにそれなりにオーラが満ちた状態ですと、上に乗っていた雑念の雲は取り払われた状態なのですが、まだ、その下に雲がかかっているのが見えます。
雲は2層になっているわけですね。
上に被さっている雑念の雲。そして、今見えてきた(潜在意識を覆い隠している)雲です。
この、潜在意識を覆い隠している雲はそれなりに厚いのですが雨雲のように暗くはなくて、雨が降っていない曇りの日の雲のような感じです。
その雲を観察しながら瞑想を続けていると、ふと、雲が薄くなってきて向こうにある光がうっすらと輝き出します。
私の場合、時折強く光る程度で常に輝いているというわけではありませんけど、それでも、雲の途切れ目から太陽がうっすらと見えるかの如く、雲が晴れて晴天になる前触れのようなものを感じます。
聖典やヨーガの行者が「光り輝くものを見る」と言っているのは、このことなのかもしれません。ただ同時に、聖典が伝えることによれば、そのような光は一定の瞑想の進歩を示すものではあるものの、さほど重要ではない、とも伝えています。実際のところ聖典が伝える光と私の言う光とが同一であるかどうかは微妙なところではあります。光それ自体であればもっと昔から度々見ておりましたけど、今回のように、意識の状態とサハスララの状態とが一致して光になる、という感じではなく、うっすらと見えていたり時折光っていただけでしたから。集中だけでも光というのは感じられたり強く光ったりしますから、光というだけではなかなか判別は難しいものです。
ですけど、本山博先生の著作によれば、サハスララチャクラでは、光り輝いているということであり、カーラナ(コーザル、原因)に達すると光り輝くということでもあるようですので、私の段階がカーラナ(コーザル)に達しつつある、ということなのかもしれません。
個人的な解釈としては、カーラナ(コーザル)というのはカルマやトラウマの蓄積のことですからカルマの解消という意味では随分と前から行ってきていて、光り輝くというのはカーラナ(コーザル)への対処を卒業しつつある時にそうなるのではないか、というのが私の理解です。カーラナ(コーザル)に入り始めるときにカルマやトラウマの整理が本格的に始まって、その段階では雲は光を通さないほど厚くて暗いわけです。それがアストラルの下層及び上層という段階で、アストラルの段階ではカーラナ(コーザル)の厚い雲がまだ残っていて、カーラナ(コーザル)のカルマやトラウマに対処しているのがアストラルの段階なわけです。そして、カルマやトラウマの解消が終わってくるとカーラナ(コーザル)の雲が取り払われてきて、そうすると輝いてくるのかなと思います。ですから、本山博先生がおっしゃっているアストラルの段階とかカーラナの段階というのは、見え始めた段階から対処が終わる段階、というところに細分されるのだと思います。それは、本山博先生がいうところのサマーディというのはアストラル、カーラナ(コーザル、原因)、プルシャ、それぞれにあるということに相当すると思いますので、物理的な次元からアストラルのサマーディで合一する時もあれば、今回の私のように(アストラルの段階でカーラナに対処していた段階から進んで)カーラナを卒業して次の段階へ進みつつある段階でサマーディが起こって合一する、ということもあるのだと思います。カーラナに進むことを妨げていてカルマやトラウマの厚い雲が薄くなってきて、カーラナの次元と合一しつつあるということなのかな、という気も致します。
実際のところ段階としてはカーラナ(コーザル)の次にプルシャ(個としての神霊)、更に次には創造神、という段階があるようですのでカーラナ(コーザル)の段階はまだまだ途中ではあるのですけど、それでも、一つ重要な一歩を踏んだ気が致します。
この時、意識の状態としては凪の状態なわけですけれども、顕在意識の意識は静かに止まっていて、一方、特に重要だと思うのですけど、潜在意識としての意図する意識の方も努力して静止し続けているという点です。これが重要な違いで、単に思考(ブッディ)が止まっているだけでなく、意図する潜在意識の方もそれなりに静かになっていることがこの状態において必要のように思います。
■呼吸の変化
この、光り輝く段階になると体へも変化が出てきて、光り輝くのと同時に呼吸が自動的に止まります。とは言いましてもずっと息を止めていることはできませんので顕在意識を強制的に働かせて呼吸を回復するのですけど、とても強い力でまた光り輝くのと同時に呼吸が停止する状態に引っ張られてゆきます。そのまま呼吸を止めていても実際のところ平気なのかもしれませんけど、今のところ、あまり長い間は呼吸を止めることなく顕在意識を働かせるようにしています。
ヨーガで呼吸を止める方法とかも色々あって修行方法の1つではありますけど、私の場合、呼吸を止める(クンバカ)は割と苦手な方だったのですけど、ここにきて急に呼吸が止まることが起きました。
今から思い返せば、この、クンバカが苦手な段階と自動的な止息(ケヴァラ・クンバカ)が起こる段階とは交互に起きていたように思います。元々クンバカが苦手で、その後、自動的に止息(ケヴァラ・クンバカ)が起こるようになって、しかしながらクンダリーニ経験後にはクンバカが苦手になり、それなりに今は普通に戻りつつあったのですけど、ここにきて再度、自動的な止息(ケヴァラ・クンバカ)が起こるようになった感じです。
一説によればクンバカができる時間は「器÷エネルギーの強さ=クンバカの時間」とのことですので、器が大きくなったり、エネルギーが強くなったり、という変化によってクンバカの苦手や自動的な子息(ケヴァラ・クンバカ)が変化してきているのかもしれません。
そのようなクンバカの変化がありつつも、視界としては光り輝いているわけです。
その時、段階的に体の各所の緊張が取れてリラックスしてゆきます。
これは、意図してそうなるということではなくて、行うのは単に眉間に集中を続けているだけです。行動としては眉間への集中の瞑想で、結果としてこれらの凪の状態およびリラックスが起こります。
そして、リラックスが目的であればここで瞑想を辞めても良いのですけど、その状態でも更に瞑想を続けます。その先を見るためです。
リラックスして瞑想を続けているとサハスララにオーラが満ち、その結果、雑念がまた一段階減ります。
雑念が減った状態が目的であればそこで瞑想を辞めても良いのですけど、更に瞑想を続けて様子を見ます。その先を見るためです。
そうして雑念が減った状態、サハスララにそれなりにオーラが満ちた状態で瞑想を続けていると、やがて、目の前に雲で覆われている自分が見えてきます。これは、潜在意識を覆い隠している雲です。
この雲は、雑念がまだ多い状態ですとそのまた上に一層、雑念の雲が乗っています。サハスララにそれなりにオーラが満ちた状態ですと、上に乗っていた雑念の雲は取り払われた状態なのですが、まだ、その下に雲がかかっているのが見えます。
雲は2層になっているわけですね。
上に被さっている雑念の雲。そして、今見えてきた(潜在意識を覆い隠している)雲です。
この、潜在意識を覆い隠している雲はそれなりに厚いのですが雨雲のように暗くはなくて、雨が降っていない曇りの日の雲のような感じです。
その雲を観察しながら瞑想を続けていると、ふと、雲が薄くなってきて向こうにある光がうっすらと輝き出します。
私の場合、時折強く光る程度で常に輝いているというわけではありませんけど、それでも、雲の途切れ目から太陽がうっすらと見えるかの如く、雲が晴れて晴天になる前触れのようなものを感じます。
聖典やヨーガの行者が「光り輝くものを見る」と言っているのは、このことなのかもしれません。ただ同時に、聖典が伝えることによれば、そのような光は一定の瞑想の進歩を示すものではあるものの、さほど重要ではない、とも伝えています。実際のところ聖典が伝える光と私の言う光とが同一であるかどうかは微妙なところではあります。光それ自体であればもっと昔から度々見ておりましたけど、今回のように、意識の状態とサハスララの状態とが一致して光になる、という感じではなく、うっすらと見えていたり時折光っていただけでしたから。集中だけでも光というのは感じられたり強く光ったりしますから、光というだけではなかなか判別は難しいものです。
ですけど、本山博先生の著作によれば、サハスララチャクラでは、光り輝いているということであり、カーラナ(コーザル、原因)に達すると光り輝くということでもあるようですので、私の段階がカーラナ(コーザル)に達しつつある、ということなのかもしれません。
個人的な解釈としては、カーラナ(コーザル)というのはカルマやトラウマの蓄積のことですからカルマの解消という意味では随分と前から行ってきていて、光り輝くというのはカーラナ(コーザル)への対処を卒業しつつある時にそうなるのではないか、というのが私の理解です。カーラナ(コーザル)に入り始めるときにカルマやトラウマの整理が本格的に始まって、その段階では雲は光を通さないほど厚くて暗いわけです。それがアストラルの下層及び上層という段階で、アストラルの段階ではカーラナ(コーザル)の厚い雲がまだ残っていて、カーラナ(コーザル)のカルマやトラウマに対処しているのがアストラルの段階なわけです。そして、カルマやトラウマの解消が終わってくるとカーラナ(コーザル)の雲が取り払われてきて、そうすると輝いてくるのかなと思います。ですから、本山博先生がおっしゃっているアストラルの段階とかカーラナの段階というのは、見え始めた段階から対処が終わる段階、というところに細分されるのだと思います。それは、本山博先生がいうところのサマーディというのはアストラル、カーラナ(コーザル、原因)、プルシャ、それぞれにあるということに相当すると思いますので、物理的な次元からアストラルのサマーディで合一する時もあれば、今回の私のように(アストラルの段階でカーラナに対処していた段階から進んで)カーラナを卒業して次の段階へ進みつつある段階でサマーディが起こって合一する、ということもあるのだと思います。カーラナに進むことを妨げていてカルマやトラウマの厚い雲が薄くなってきて、カーラナの次元と合一しつつあるということなのかな、という気も致します。
実際のところ段階としてはカーラナ(コーザル)の次にプルシャ(個としての神霊)、更に次には創造神、という段階があるようですのでカーラナ(コーザル)の段階はまだまだ途中ではあるのですけど、それでも、一つ重要な一歩を踏んだ気が致します。
この時、意識の状態としては凪の状態なわけですけれども、顕在意識の意識は静かに止まっていて、一方、特に重要だと思うのですけど、潜在意識としての意図する意識の方も努力して静止し続けているという点です。これが重要な違いで、単に思考(ブッディ)が止まっているだけでなく、意図する潜在意識の方もそれなりに静かになっていることがこの状態において必要のように思います。
■呼吸の変化
この、光り輝く段階になると体へも変化が出てきて、光り輝くのと同時に呼吸が自動的に止まります。とは言いましてもずっと息を止めていることはできませんので顕在意識を強制的に働かせて呼吸を回復するのですけど、とても強い力でまた光り輝くのと同時に呼吸が停止する状態に引っ張られてゆきます。そのまま呼吸を止めていても実際のところ平気なのかもしれませんけど、今のところ、あまり長い間は呼吸を止めることなく顕在意識を働かせるようにしています。
ヨーガで呼吸を止める方法とかも色々あって修行方法の1つではありますけど、私の場合、呼吸を止める(クンバカ)は割と苦手な方だったのですけど、ここにきて急に呼吸が止まることが起きました。
今から思い返せば、この、クンバカが苦手な段階と自動的な止息(ケヴァラ・クンバカ)が起こる段階とは交互に起きていたように思います。元々クンバカが苦手で、その後、自動的に止息(ケヴァラ・クンバカ)が起こるようになって、しかしながらクンダリーニ経験後にはクンバカが苦手になり、それなりに今は普通に戻りつつあったのですけど、ここにきて再度、自動的な止息(ケヴァラ・クンバカ)が起こるようになった感じです。
一説によればクンバカができる時間は「器÷エネルギーの強さ=クンバカの時間」とのことですので、器が大きくなったり、エネルギーが強くなったり、という変化によってクンバカの苦手や自動的な子息(ケヴァラ・クンバカ)が変化してきているのかもしれません。
そのようなクンバカの変化がありつつも、視界としては光り輝いているわけです。
アストラル次元は感情の心を扱う
先日、ゾーン状態はアストラルのサマーディということを書きましたが、本山博先生の分類に基づけばアストラル領域は感情の世界ということですから、瞑想者はもとよりアスリートや技術者が入り込む極度の集中および歓喜の状態である「ゾーン」はアストラル領域に相当するわけです。
アストラルの次元の場合は、「心」と言っても、主に感情や想像が主になっているものです。 「本山博著作集5」
はっきりとはそう記述されてはおりませんが、アストラルに相当すると解釈するのが妥当と思われます。ただ、アストラルでは感情が強い一方で、その次の段階であるカーラナ(コーザル、原因)の段階でも感情はあるとのことです。しかしながら、強い歓喜ということであればアストラルが相当するように思います。
アストラルの次元での合一の状態(=三昧)が起きると、非常に気持ちがいい。アストラルの次元で起きる合一には、感情や感情的な要素が入ってくる場合が多いのです。非常に気持ちがいいとか、悪いとかそういう快感・不快感というのがある。「本山博著作集8」
物理的な次元を超えてアストラルの段階で合一が起きると目的となっている集中の対象との合一がなされて、アスリートならばゾーンの状態になったり、技術者であればゾーンに入って物事がスムーズに進んで良い作品を作れたりします。それはそれで素晴らしいことではありますけど、瞑想者としてはそこはゴールではないということです。目的が結果を出すという現世利益であるならばゾーンが目的なのも当然かとは思いますし、仕事のパフォーマンスをあげるための瞑想、あるいはストレス解消のための瞑想というものも世の中にはありますから、そのような目的であればゾーンはとてもうまく働くと思います。
ただし、ゾーンはあくまでもアストラル次元の三昧(サマーディ)ですから、本質的に心の問題を解決するわけではありませんが、ゾーンであっても一時的には心の問題を解決しますので、全く解決しないよりはるかによくて、それゆえに、ゾーンはそれなりに有益であるわけです。
アストラルの次元の場合は、「心」と言っても、主に感情や想像が主になっているものです。 「本山博著作集5」
はっきりとはそう記述されてはおりませんが、アストラルに相当すると解釈するのが妥当と思われます。ただ、アストラルでは感情が強い一方で、その次の段階であるカーラナ(コーザル、原因)の段階でも感情はあるとのことです。しかしながら、強い歓喜ということであればアストラルが相当するように思います。
アストラルの次元での合一の状態(=三昧)が起きると、非常に気持ちがいい。アストラルの次元で起きる合一には、感情や感情的な要素が入ってくる場合が多いのです。非常に気持ちがいいとか、悪いとかそういう快感・不快感というのがある。「本山博著作集8」
物理的な次元を超えてアストラルの段階で合一が起きると目的となっている集中の対象との合一がなされて、アスリートならばゾーンの状態になったり、技術者であればゾーンに入って物事がスムーズに進んで良い作品を作れたりします。それはそれで素晴らしいことではありますけど、瞑想者としてはそこはゴールではないということです。目的が結果を出すという現世利益であるならばゾーンが目的なのも当然かとは思いますし、仕事のパフォーマンスをあげるための瞑想、あるいはストレス解消のための瞑想というものも世の中にはありますから、そのような目的であればゾーンはとてもうまく働くと思います。
ただし、ゾーンはあくまでもアストラル次元の三昧(サマーディ)ですから、本質的に心の問題を解決するわけではありませんが、ゾーンであっても一時的には心の問題を解決しますので、全く解決しないよりはるかによくて、それゆえに、ゾーンはそれなりに有益であるわけです。
チャクラは気・アストラル・カーラナの次元それぞれにある
本山博先生の著作によればチャクラは「気の次元」「アストラルの次元」「カーラナの次元」それぞれにある、とのことです。
次元で言いますと肉体(物理的)・アストラル・コーザル・プルシャ、という順番になるわけですけれども、一応は「コーザル」までが「物」になって、プルシャは物ではない、という分類になります。コーザルは微細ではありますけど、それでも一応は「物」として分類されているようです。それゆえに、プルシャの段階になるとプルシャは物ではないのでチャクラというものはないようです。微細とは言っても一応は物なものに分類されるカーラナまでにチャクラは存在するようです。
サマーディはアストラル・カーラナ・プルシャの段階それぞれにあるということですけれども、それと似たような話で、本山博先生の世界ではアストラルとコーザルとプルシャが厳密に分類されているようです。これは、他のヨーガの流派では見られない点です。
ヴェーダンタとかで言いますと肉体がストゥーラ・シャリーラ(粗大な体)、アストラルやカーラナ等がスークシュマ・シャリーラ(微細な体)、そして、それではないものがアートマン、という3分類になっています。
ストゥーラ・シャリーラ(粗大な体)とスークシュマ・シャリーラ(微細な体)の2つを本山博先生は「物」と言っているようで、一方、その上にプルシャを置いていますけど、プルシャは物ではない、という点においてアートマンに相当すると思います。
そもそもプルシャという言い方はヨーガ・スートラ等のサンキャ哲学の言い方で、ヴェーダンタではプルシャとは言わなくてアートマンだったりブラフマンだったりしますけど、ひとまずここでは本山博先生の著作を見ていますからプルシャでいいと思います。
本山博先生の分類に基づくと、粗大な体(肉体)に結びついている気の次元のチャクラと、アストラルの次元に結びついているチャクラ、そして、カーラナ(コーザル、原因)に結びついているチャクラがあるようです。
ムーラダーラチャクラは、肉体の次元では背骨の尾骨の中にあるわけですが、背骨の真ん中には水がたまっている中心管があって、普通はこの中心管がスシュムナと言われています。この中にさらにチトリニナディとかブラフマナディというのがあって、スシュムナは物理的次元ー気の次元の督脈に対応し、チトリニナディというのはアストラルに対応し、ブラフマナディというのがカーラナに対応しています。(中略)どの次元でこのムーラダーラが目覚めてくるかによって、その働き方とか状態とかはまったく違うわけです。(中略) 例えばアストラル次元では色や形があるが、カーラナの次元になると色はない、光って見えるけれども。「本山博著作集5」
これはヨーガにはない考え方で非常に興味深いです。
確かに、チャクラの活性化においてヨーガでは「一旦ムーラダーラからアジナに行ったのち、アナハタに戻ってから再度上がる」みたいなことを言っていますけど、戻ってから上がるというよりは、それぞれアストラルの次元あるいはカーラナの次元あるいはプルシャでの次元での目覚めだと考えて分類しなおした方がスッキリするように思います。
今後、この視点も加えて観察していきたいと思います。
次元で言いますと肉体(物理的)・アストラル・コーザル・プルシャ、という順番になるわけですけれども、一応は「コーザル」までが「物」になって、プルシャは物ではない、という分類になります。コーザルは微細ではありますけど、それでも一応は「物」として分類されているようです。それゆえに、プルシャの段階になるとプルシャは物ではないのでチャクラというものはないようです。微細とは言っても一応は物なものに分類されるカーラナまでにチャクラは存在するようです。
サマーディはアストラル・カーラナ・プルシャの段階それぞれにあるということですけれども、それと似たような話で、本山博先生の世界ではアストラルとコーザルとプルシャが厳密に分類されているようです。これは、他のヨーガの流派では見られない点です。
ヴェーダンタとかで言いますと肉体がストゥーラ・シャリーラ(粗大な体)、アストラルやカーラナ等がスークシュマ・シャリーラ(微細な体)、そして、それではないものがアートマン、という3分類になっています。
ストゥーラ・シャリーラ(粗大な体)とスークシュマ・シャリーラ(微細な体)の2つを本山博先生は「物」と言っているようで、一方、その上にプルシャを置いていますけど、プルシャは物ではない、という点においてアートマンに相当すると思います。
そもそもプルシャという言い方はヨーガ・スートラ等のサンキャ哲学の言い方で、ヴェーダンタではプルシャとは言わなくてアートマンだったりブラフマンだったりしますけど、ひとまずここでは本山博先生の著作を見ていますからプルシャでいいと思います。
本山博先生の分類に基づくと、粗大な体(肉体)に結びついている気の次元のチャクラと、アストラルの次元に結びついているチャクラ、そして、カーラナ(コーザル、原因)に結びついているチャクラがあるようです。
ムーラダーラチャクラは、肉体の次元では背骨の尾骨の中にあるわけですが、背骨の真ん中には水がたまっている中心管があって、普通はこの中心管がスシュムナと言われています。この中にさらにチトリニナディとかブラフマナディというのがあって、スシュムナは物理的次元ー気の次元の督脈に対応し、チトリニナディというのはアストラルに対応し、ブラフマナディというのがカーラナに対応しています。(中略)どの次元でこのムーラダーラが目覚めてくるかによって、その働き方とか状態とかはまったく違うわけです。(中略) 例えばアストラル次元では色や形があるが、カーラナの次元になると色はない、光って見えるけれども。「本山博著作集5」
これはヨーガにはない考え方で非常に興味深いです。
確かに、チャクラの活性化においてヨーガでは「一旦ムーラダーラからアジナに行ったのち、アナハタに戻ってから再度上がる」みたいなことを言っていますけど、戻ってから上がるというよりは、それぞれアストラルの次元あるいはカーラナの次元あるいはプルシャでの次元での目覚めだと考えて分類しなおした方がスッキリするように思います。
今後、この視点も加えて観察していきたいと思います。
下実上平で呼吸がないようになる
下実上平とは本山博先生の造語ですが、透明なエネルギーが体全体にバランス良く充満していて上半身が非常に平らな状態とのことです。その時に、 カーラナ(コーザル、原因)との合一(三昧)がなされる、とのことです。
その記述の中で、下実上平の特徴として「呼吸がないようになる」という文言を発見致しました。
下実上平ははっきりと目が覚めている。光り輝いているような感じがして、ずーっと自分が一帯に拡がっているのです。(中略)「呼吸がないようになる」ということが非常に大事なのです。普通の呼吸をしている間は深い瞑想や三昧には決して入れない。(中略)呼吸がまるでないような状態にならなければだめなのです。呼吸をしなくてもいつまでも楽でいられ、心臓の鼓動もなく、意識ははっきりと覚めていて、平安であり、次第に体の意識がなくなるが、意識は依然として明晰である。次第に自分の存在が広がってゆく。「本山博著作集8」
これを読むと、最近の呼吸が止まったかのような状態(クンバカ)が相当するような気が致します。実際のところクンバカが自動に起こるというだけであればそのかなり前の段階でも起きていたわけですけど、クンバカだけでは判別が難しいですけど、その他の手がかりを元に判断すると私の今の状態を表していると言えると思います。
自動的にクンバカが起こる、というのは他の流派でも重要な段階と捉えられていて、思えばインドでクリヤ・ヨガのお話を聞いた時に何段階か以降に進むためには息を止める瞑想(サマーディ、三昧)に入る必要があって、ある程度の段階以降になると息を止めたサマーディの状態でテレパシーで教えが伝授される、ということでした。当時は「そんなの無理でしょう」と思っていたのですけど、案外、それは可能なのかもしれません。私はまだ長い間息を止めていることはできなくて、できないというよりは常識が邪魔して顕在意識で息を再開してしまっていますけど、実際のところ、顕在意識が邪魔をせずになるがままにさせておけば息を止めておいても案外平気なのかもしれません。
ただ、心臓が止まる、というのはよくわかりませんけど。本当のことなのか、比喩的にそのように感じられるだけなのか。心臓が動いていないように感じられるだけであれば私は既に経験済ではありますし、最近の呼吸が止まる時も心臓のことなんて意識しておりませんから、ただ単に意識していないだけだと思いますけど、心臓が止まる、というのはよくわかりません。ただ単に心臓の鼓動が意識されない、というだけのようにも思いますが、本当に止まるかどうか、そこはよくわかりません。
その記述の中で、下実上平の特徴として「呼吸がないようになる」という文言を発見致しました。
下実上平ははっきりと目が覚めている。光り輝いているような感じがして、ずーっと自分が一帯に拡がっているのです。(中略)「呼吸がないようになる」ということが非常に大事なのです。普通の呼吸をしている間は深い瞑想や三昧には決して入れない。(中略)呼吸がまるでないような状態にならなければだめなのです。呼吸をしなくてもいつまでも楽でいられ、心臓の鼓動もなく、意識ははっきりと覚めていて、平安であり、次第に体の意識がなくなるが、意識は依然として明晰である。次第に自分の存在が広がってゆく。「本山博著作集8」
これを読むと、最近の呼吸が止まったかのような状態(クンバカ)が相当するような気が致します。実際のところクンバカが自動に起こるというだけであればそのかなり前の段階でも起きていたわけですけど、クンバカだけでは判別が難しいですけど、その他の手がかりを元に判断すると私の今の状態を表していると言えると思います。
自動的にクンバカが起こる、というのは他の流派でも重要な段階と捉えられていて、思えばインドでクリヤ・ヨガのお話を聞いた時に何段階か以降に進むためには息を止める瞑想(サマーディ、三昧)に入る必要があって、ある程度の段階以降になると息を止めたサマーディの状態でテレパシーで教えが伝授される、ということでした。当時は「そんなの無理でしょう」と思っていたのですけど、案外、それは可能なのかもしれません。私はまだ長い間息を止めていることはできなくて、できないというよりは常識が邪魔して顕在意識で息を再開してしまっていますけど、実際のところ、顕在意識が邪魔をせずになるがままにさせておけば息を止めておいても案外平気なのかもしれません。
ただ、心臓が止まる、というのはよくわかりませんけど。本当のことなのか、比喩的にそのように感じられるだけなのか。心臓が動いていないように感じられるだけであれば私は既に経験済ではありますし、最近の呼吸が止まる時も心臓のことなんて意識しておりませんから、ただ単に意識していないだけだと思いますけど、心臓が止まる、というのはよくわかりません。ただ単に心臓の鼓動が意識されない、というだけのようにも思いますが、本当に止まるかどうか、そこはよくわかりません。
無意識のトランス状態からの脱却
無意識のトランスというのは良くない状態で、意識を常に保つのが瞑想者としてはあるべき姿です。
私の場合、元々アストラルな感情や諸々を感じやすくて、子供の頃の生活環境及び学校生活や近所付き合いなどが原因によるトラウマにより高校生までの間に葛藤を抱えてしまい、無意識的なトランスに度々入る体質になってしまっていました。家族から人並には愛されたとは思いますけどそれでも色々と家庭環境に問題があって、色々とメンタルを壊す原因がありましたし、学校生活での同級生の葛藤や近所のめんどくさいいじめっ子のガキ大将みたいなのがいたりして、何かと面倒な環境でした。大学で東京に出ましたのでそのような環境とは無縁になったのですが、大学以降にそれを解消する意図を始めてから数十年を費やしてトラウマの解消および無意識的なトランスに入らないように心がけてきたわけですけれども、今、特にサハスララにオーラが満ちて以降は無意識的なトランスに陥ることはほぼなくなって、ようやく本質的にほぼ解消したと言えます。段階的に解消してきて、そのトラウマは若い頃は普段の日常生活で突如トランスになるような感じだったのが日常生活での突如のトランスに関しては次第に減ってゆき、やがては、ストレスを抱えたりゾーンに入った時だけトランスに入ってトラウマ等が出てくるような感じになりました。
トランスに入ると根源とも言える無意識に繋がるのですが、トラウマを抱えていない状態ではゾーン状態として成果が上がったり歓喜に満ちたりするのですがトラウマを抱えているとそのトラウマと強く結びついてしまい、自意識が働かなくて自分が何をしているのかも気付かずに何かを行動していたり、時にはボソボソと何かを呟いたりしていました。トラウマを抱えているトランス状態は一般的に言ってメンタルに問題がある状態だったと言えます。
トランスに入った時、トラウマに囚われなければ良いトランスとしてゾーンになり、トラウマが湧き上がってくると良くないトランスになっていたように思います。ですけど、そもそもトランスに入ること自体、あまり良くないことであるように思います。トランスというと自意識がない状態、というのが基本でありますけど、私の場合、自意識がない状態から始まって半覚醒の状態に戻り、そして通用の顕在意識に戻る、というような遷移がありました。自意識がない状態では自分が何をしているのかわからず、制御に困ることになります。
特に4〜5年ほど前にヨガと瞑想を始めてから自動的なトランスに入ることが激減してきたわけですけれども、ここにきて、ほぼ解消されたと言えます。
もともと、小学校の頃に幽体離脱して以降、アストラル的な目に見えない世界と結びつきやすくなって、メンタル的な不安定さと重なってコントロールが難しくなっていたようにも思います。
ただ、私が幽体離脱したときに見て理解した、私が生まれてくることになった理由を確かめてみると、このようにしたのがベストだったと言えます。パラレルワールドもいくつかあって、もっと裕福だったり悩みのないタイムラインもあるのですけど、そのように楽な生活だとスピリチュアル的に成長できないので厳しい環境を選んだ、ということのようです。基本にあるのは「今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つ 」ということですから、その目的に対してベストな選択であったと言えます。裕福で楽な生活を送っていると、少なくとも私のパラレルワールドの場合はそれほどスピリチュアルに成長できなかったようです。
世間からするとメンタル的に厳しく見えたかもしれませんけど、長い目で見れば他のタイムラインと比べて今のタイムラインが一番スピリチュアル的に成長しているように思います。
スピリチュアルで厳しい段階にあるのがアストラルの感情的あるいは無意識の段階を通り抜ける時で、私の場合は小学校の頃に幽体離脱をして以降、度々アストラルな世界と対峙してきたわけですけれども、基本はゾーンに入ってアストラルの世界を扱っていたように思います。アストラルの世界は感情が基本となっていて、ゾーンだけでなく、無意識のトランスの世界でもあります。アストラルの世界は最初は無意識でも次第にアストラルの世界が意識的なものへと変わってゆきます。その、アストラル的な世界への対峙は私の場合は転生も含めると何十もの人生の間でずっとアストラルの感情の世界を扱ってきたように思います。
ですけど、アストラルの感情の世界における喜びや悲しみ、そして未来予知などはあくまでもアストラルの世界に限られるものであって、わかったからと言って、それ以上の世界のお話と比べるとちっぽけなものなのだと思います。
基本的に人生はアストラルの世界で行われていて感情が主ではありますけど、その先の世界に行こうとしたら一歩手前の世界を否定しなくてはいけない、ということだと思います。アストラルの世界に行くためには肉体を否定する必要がありますし、カラーナ(コーザル、原因)の世界に行くためにはアストラルの感情の世界を否定しなくてはならないのだと思います。私の場合はちょっと粗治療でしたけど割と今となっては全てが完璧だったように思います。
アストラルの世界は魑魅魍魎が闊歩していて危ない世界でもありますから、ヨーガや仏教では魔境と言われていたり、アストラルな世界に踏み出さずに肉体だけの世界で生きることを推奨しているように思われる流派もあります。
ですけど、私が思うには、アストラルの世界と対峙して時には精神的に不安定になることが必ずスピリチュアルにおける一定の段階において必要でありそこを通り抜ける必要があって、精神的に不安定にならないようなスピリチュアルは偽物で、そのように気をつけないといけない段階だからこそ正しいグルの見守りというものが必要のように思います。人によっては数年で通り抜けるようですけど、私の場合、がっつりと経験して三十年くらいかかったように思います。それは、私の人生の目的だった、グループソウルのカルマをも含めた解消をする必要があったので時間がかかったという点もありますけど、更には、学びのために、覚醒への階梯を確かめるためにはこのくらいの時間が必要だった、ということでもあると思います。
私の場合、元々アストラルな感情や諸々を感じやすくて、子供の頃の生活環境及び学校生活や近所付き合いなどが原因によるトラウマにより高校生までの間に葛藤を抱えてしまい、無意識的なトランスに度々入る体質になってしまっていました。家族から人並には愛されたとは思いますけどそれでも色々と家庭環境に問題があって、色々とメンタルを壊す原因がありましたし、学校生活での同級生の葛藤や近所のめんどくさいいじめっ子のガキ大将みたいなのがいたりして、何かと面倒な環境でした。大学で東京に出ましたのでそのような環境とは無縁になったのですが、大学以降にそれを解消する意図を始めてから数十年を費やしてトラウマの解消および無意識的なトランスに入らないように心がけてきたわけですけれども、今、特にサハスララにオーラが満ちて以降は無意識的なトランスに陥ることはほぼなくなって、ようやく本質的にほぼ解消したと言えます。段階的に解消してきて、そのトラウマは若い頃は普段の日常生活で突如トランスになるような感じだったのが日常生活での突如のトランスに関しては次第に減ってゆき、やがては、ストレスを抱えたりゾーンに入った時だけトランスに入ってトラウマ等が出てくるような感じになりました。
トランスに入ると根源とも言える無意識に繋がるのですが、トラウマを抱えていない状態ではゾーン状態として成果が上がったり歓喜に満ちたりするのですがトラウマを抱えているとそのトラウマと強く結びついてしまい、自意識が働かなくて自分が何をしているのかも気付かずに何かを行動していたり、時にはボソボソと何かを呟いたりしていました。トラウマを抱えているトランス状態は一般的に言ってメンタルに問題がある状態だったと言えます。
トランスに入った時、トラウマに囚われなければ良いトランスとしてゾーンになり、トラウマが湧き上がってくると良くないトランスになっていたように思います。ですけど、そもそもトランスに入ること自体、あまり良くないことであるように思います。トランスというと自意識がない状態、というのが基本でありますけど、私の場合、自意識がない状態から始まって半覚醒の状態に戻り、そして通用の顕在意識に戻る、というような遷移がありました。自意識がない状態では自分が何をしているのかわからず、制御に困ることになります。
特に4〜5年ほど前にヨガと瞑想を始めてから自動的なトランスに入ることが激減してきたわけですけれども、ここにきて、ほぼ解消されたと言えます。
もともと、小学校の頃に幽体離脱して以降、アストラル的な目に見えない世界と結びつきやすくなって、メンタル的な不安定さと重なってコントロールが難しくなっていたようにも思います。
ただ、私が幽体離脱したときに見て理解した、私が生まれてくることになった理由を確かめてみると、このようにしたのがベストだったと言えます。パラレルワールドもいくつかあって、もっと裕福だったり悩みのないタイムラインもあるのですけど、そのように楽な生活だとスピリチュアル的に成長できないので厳しい環境を選んだ、ということのようです。基本にあるのは「今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つ 」ということですから、その目的に対してベストな選択であったと言えます。裕福で楽な生活を送っていると、少なくとも私のパラレルワールドの場合はそれほどスピリチュアルに成長できなかったようです。
世間からするとメンタル的に厳しく見えたかもしれませんけど、長い目で見れば他のタイムラインと比べて今のタイムラインが一番スピリチュアル的に成長しているように思います。
スピリチュアルで厳しい段階にあるのがアストラルの感情的あるいは無意識の段階を通り抜ける時で、私の場合は小学校の頃に幽体離脱をして以降、度々アストラルな世界と対峙してきたわけですけれども、基本はゾーンに入ってアストラルの世界を扱っていたように思います。アストラルの世界は感情が基本となっていて、ゾーンだけでなく、無意識のトランスの世界でもあります。アストラルの世界は最初は無意識でも次第にアストラルの世界が意識的なものへと変わってゆきます。その、アストラル的な世界への対峙は私の場合は転生も含めると何十もの人生の間でずっとアストラルの感情の世界を扱ってきたように思います。
ですけど、アストラルの感情の世界における喜びや悲しみ、そして未来予知などはあくまでもアストラルの世界に限られるものであって、わかったからと言って、それ以上の世界のお話と比べるとちっぽけなものなのだと思います。
基本的に人生はアストラルの世界で行われていて感情が主ではありますけど、その先の世界に行こうとしたら一歩手前の世界を否定しなくてはいけない、ということだと思います。アストラルの世界に行くためには肉体を否定する必要がありますし、カラーナ(コーザル、原因)の世界に行くためにはアストラルの感情の世界を否定しなくてはならないのだと思います。私の場合はちょっと粗治療でしたけど割と今となっては全てが完璧だったように思います。
アストラルの世界は魑魅魍魎が闊歩していて危ない世界でもありますから、ヨーガや仏教では魔境と言われていたり、アストラルな世界に踏み出さずに肉体だけの世界で生きることを推奨しているように思われる流派もあります。
ですけど、私が思うには、アストラルの世界と対峙して時には精神的に不安定になることが必ずスピリチュアルにおける一定の段階において必要でありそこを通り抜ける必要があって、精神的に不安定にならないようなスピリチュアルは偽物で、そのように気をつけないといけない段階だからこそ正しいグルの見守りというものが必要のように思います。人によっては数年で通り抜けるようですけど、私の場合、がっつりと経験して三十年くらいかかったように思います。それは、私の人生の目的だった、グループソウルのカルマをも含めた解消をする必要があったので時間がかかったという点もありますけど、更には、学びのために、覚醒への階梯を確かめるためにはこのくらいの時間が必要だった、ということでもあると思います。
人生が良くなれ、と思う必要はない
スピリチュアルをやっていると、人生を良くしたいだとか悩みを解消したいだとか、そういう願望実現のお話をよく耳にします。ですけど、実際のところ、願望実現を願ったところであまり意味がないのですよね。
人生は全て完璧で、良いと思うことも悪いと思うことも全て含めて完璧なのですから、あれこれ思い悩むことをやめて目の前の物事に対処しさえすれば良いわけです。それはロボットになれといっているわけではなくて、悩みから問題へと昇華して解決あるいは問題を問題ではなくしてしまえばよいわけです。
これは一見するとプロジェクトの進め方として問題解決方法としてのビジネス手法として見えてしまうかもしれませんけど、意外にもスピリチュアルとプロジェクトとは似ていて、問題があるのであれば悩む必要はなくて問題をはっきりと見て、問題を解決してなくしてしまうか、他のことを解決することで問題を問題ではなくしてしまうか、あるいは、問題を軽減するか、あるいは、問題を受け入れる、みたいな選択肢があるわけです。制約条件があって問題をどのように解決するのか道は色々あって、問題は解決できないので受け入れるしかない、ということもありますけど、どの選択をしたとしてもありのままで完璧なわけです。
スピリチュアルで悩んている人は一定のパターンで動いていて、悩みや問題があったらそれを解決したいとは思っていても、大抵の場合はその問題がなくなってほしい、としか思っていないように思います。プロジェクトを対処するときのように、まず、問題そのものをはっきりと見て、そうすれば問題をどのように解決したらいいのかは自ずと出てくるわけです。物事をはっきりと見極めさえすれば答えが自然に自分の中から出てくるのがスピリチュアルなやり方ですけど、それを自らの中から出さずにロジックだけで解決しようとするのがプロジェクトの扱い方で、ですけど、答えだけ見てみると同じになっているわけです。スピリチュアルではプロジェクトを直観的に扱うのに対し、仕事のプロジェクト手法ではロジックで解決する、という違いがありますけど、どのように解決すべきかという指針においてはプロジェクト手法は参考になります。
仕事のプロジェクトで、問題がなくなれ! と願っても何も起きませんし、問題を解決したい、と思っても何も解決しないわけです。
スピリチュアルな人は、問題を解決しようと思えばそう願えばいいのです、みたいなことを言う人がいますけど、確かにそれなりにスピリチュアルが成長すれば次第にそれは真実になりますけど普通の人が願ったところで何も変わらないわけです。スピリチュアルの中には、普通の人が願えば願望実現して人生うまくいきます、とか言っている人もいますけど、実際はほとんどの場合、何も変わらないわけです。そのようにスピリチュアルで成長した人の場合でも、願って現実を変えなくてはならないことは割と少なくて、大抵の場合は、それなりのことが起こっても「ふうん」くらいにしか思わないものです。普通の人が大問題と思われることでもなんとなくこなしてしまう、というのがスピリチュアルな人の基本姿勢であって、そうして問題を解決・軽減・回避・様子見・受け入れ、みたいな選択肢がある中で、どうしても自分ではどうしようもない時にだけ願うのであって、欲望のためにスピリチュアルに懇願する人が何を願っても何も起きないのは当然であると言えます。
ですから、基本的には自分の人生を普通に生きればよくて、人生が良くなれ、と思う必要はないわけです。人生が良くなる時は特別に願わなくても自然に「あ、人生よくなるかも」と思って勝手に良くなります。自分の普通の生活の満足が最初にきて、その普通の満足の上にもうちょっと「良いこと」が積み重なるのが基本であって、現実の現在の人生を楽しめていない人が一発逆転を狙ったとしても、スピリチュアルではそういう一発逆転を煽る場合もそれなりにありますけど、そのような逆転劇は基本的に起こらなくて、起こったとしてもスピリチュアルとはあまり関係ないことの方が多いわけです。
本当にスピリチュアルに成長していればそのような逆転劇のような人生の転換は普段から当たり前のように起きますけど、それはわざわざ願ったりせずに、それが当たり前と思って「あ、いいこと起こるかも」とひらめいて、実際にそのように勝手に自動的に良いことが起きるだけのことです。自分の顕在意識でわざわざ願ったりすることなしに、物事が好転してゆくわけです。そうなると、わざわざ人生良くなれ、と思うことも少なくなっていって、人生が良くなっていくのは当然でしょ、と思ったり、たぶんこれは人生が良くなって行っているということだとは思うけれども、最初から全て良い人生だったから、良くなるとかそういうの、よくわからない、という心持ちになるわけです。実際はいろいろな問題が起こっていてもそれが苦と感じなければ全て完璧で素晴らしい人生として認識されるわけです。実際、良い人生だったり、問題が多少あったりしても、本人はそれを気にしないわけです。幸せな人生とそんなものです。
人生は全て完璧で、良いと思うことも悪いと思うことも全て含めて完璧なのですから、あれこれ思い悩むことをやめて目の前の物事に対処しさえすれば良いわけです。それはロボットになれといっているわけではなくて、悩みから問題へと昇華して解決あるいは問題を問題ではなくしてしまえばよいわけです。
これは一見するとプロジェクトの進め方として問題解決方法としてのビジネス手法として見えてしまうかもしれませんけど、意外にもスピリチュアルとプロジェクトとは似ていて、問題があるのであれば悩む必要はなくて問題をはっきりと見て、問題を解決してなくしてしまうか、他のことを解決することで問題を問題ではなくしてしまうか、あるいは、問題を軽減するか、あるいは、問題を受け入れる、みたいな選択肢があるわけです。制約条件があって問題をどのように解決するのか道は色々あって、問題は解決できないので受け入れるしかない、ということもありますけど、どの選択をしたとしてもありのままで完璧なわけです。
スピリチュアルで悩んている人は一定のパターンで動いていて、悩みや問題があったらそれを解決したいとは思っていても、大抵の場合はその問題がなくなってほしい、としか思っていないように思います。プロジェクトを対処するときのように、まず、問題そのものをはっきりと見て、そうすれば問題をどのように解決したらいいのかは自ずと出てくるわけです。物事をはっきりと見極めさえすれば答えが自然に自分の中から出てくるのがスピリチュアルなやり方ですけど、それを自らの中から出さずにロジックだけで解決しようとするのがプロジェクトの扱い方で、ですけど、答えだけ見てみると同じになっているわけです。スピリチュアルではプロジェクトを直観的に扱うのに対し、仕事のプロジェクト手法ではロジックで解決する、という違いがありますけど、どのように解決すべきかという指針においてはプロジェクト手法は参考になります。
仕事のプロジェクトで、問題がなくなれ! と願っても何も起きませんし、問題を解決したい、と思っても何も解決しないわけです。
スピリチュアルな人は、問題を解決しようと思えばそう願えばいいのです、みたいなことを言う人がいますけど、確かにそれなりにスピリチュアルが成長すれば次第にそれは真実になりますけど普通の人が願ったところで何も変わらないわけです。スピリチュアルの中には、普通の人が願えば願望実現して人生うまくいきます、とか言っている人もいますけど、実際はほとんどの場合、何も変わらないわけです。そのようにスピリチュアルで成長した人の場合でも、願って現実を変えなくてはならないことは割と少なくて、大抵の場合は、それなりのことが起こっても「ふうん」くらいにしか思わないものです。普通の人が大問題と思われることでもなんとなくこなしてしまう、というのがスピリチュアルな人の基本姿勢であって、そうして問題を解決・軽減・回避・様子見・受け入れ、みたいな選択肢がある中で、どうしても自分ではどうしようもない時にだけ願うのであって、欲望のためにスピリチュアルに懇願する人が何を願っても何も起きないのは当然であると言えます。
ですから、基本的には自分の人生を普通に生きればよくて、人生が良くなれ、と思う必要はないわけです。人生が良くなる時は特別に願わなくても自然に「あ、人生よくなるかも」と思って勝手に良くなります。自分の普通の生活の満足が最初にきて、その普通の満足の上にもうちょっと「良いこと」が積み重なるのが基本であって、現実の現在の人生を楽しめていない人が一発逆転を狙ったとしても、スピリチュアルではそういう一発逆転を煽る場合もそれなりにありますけど、そのような逆転劇は基本的に起こらなくて、起こったとしてもスピリチュアルとはあまり関係ないことの方が多いわけです。
本当にスピリチュアルに成長していればそのような逆転劇のような人生の転換は普段から当たり前のように起きますけど、それはわざわざ願ったりせずに、それが当たり前と思って「あ、いいこと起こるかも」とひらめいて、実際にそのように勝手に自動的に良いことが起きるだけのことです。自分の顕在意識でわざわざ願ったりすることなしに、物事が好転してゆくわけです。そうなると、わざわざ人生良くなれ、と思うことも少なくなっていって、人生が良くなっていくのは当然でしょ、と思ったり、たぶんこれは人生が良くなって行っているということだとは思うけれども、最初から全て良い人生だったから、良くなるとかそういうの、よくわからない、という心持ちになるわけです。実際はいろいろな問題が起こっていてもそれが苦と感じなければ全て完璧で素晴らしい人生として認識されるわけです。実際、良い人生だったり、問題が多少あったりしても、本人はそれを気にしないわけです。幸せな人生とそんなものです。
ちょこっとヒーリングの真似事して急に老ける人
ヒーリングを教えてもらったとかで安易にヒーリングし始めて、すぐに老けてしまった女の人が私の近くにいました。最近は会っていませんけど、こういう、ヒーリングまがいをして自分のオーラをごっそり取られて老けてしまう人、あるいは、エネルギーのレベルが下がってしまってネガティブになってしまうような人は一定数いるものです。
ヒーリングは2つの方法があって、自分のオーラを分け与える方法と、天のオーラなどのよくわからない場所から来る普遍的なエネルギーを使ってヒーリングする方法とがあります。
前者をしてしまうと自分のオーラが取られてしまうわけですけど、そうは言いましても人は自分でエネルギーを蓄えたり引き出したりすることができますから、枯渇してもしばらくすれば復活するわけです。ですけど、枯渇するまで他人をヒーリングした挙句に休息を取ってエネルギー回復するとまたヒーリングをするような繰り返しループをする人が時々いますけど、私からすると、よくもまあ、そこまでしてヒーリングするのですか、とでも思ってしまいますけどそれは個人の自由ですから特にとやかく本人に言うことはありません。きっと思うところがあってやっているのでしょう。
自分のエネルギーを使ってヒーリングする場合、上記の2つの組み合わせのパターンもあって、自分を通して天のエネルギーを取り込んだ上で自分のエネルギーを分け与えることでヒーリングをする、という手法もあります。この場合、自分は単にエネルギーを通すパイプになるだけですから自分のオーラは急激に減ることはあまりないと言えますけど、それはエネルギーを与える量と取り入れる量のバランスですから、自分のオーラが下がってしまう、あるいは、ヒーリングすると天から取り入れたエネルギーの方が多くて自分が元気になる、ということもあるかと思います。
天のエネルギーを取り入れる時、自分に一旦入れた方が相手にヒーリングしやすいのはそうですけど、それよりも、天のエネルギーをそのままヒーリング相手に繋げてしまう方が自分のオーラが相手のオーラと混ざらないのでヒーリング相手の悪いカルマの影響を受けてしまうことを防げます。
天のエネルギーは、まず自分が光の柱を打ち立てて、自分から天に向かってまっすぐエネルギーのルートを通します。その後、天にオーラの触手と言いますか右手をぐっと伸ばすようにして天のエネルギーの根元のところに働きかけて、自分のところに降りてきているエネルギーの行き先を少し変えて、水路を作るかのように、自分の目の前にいるヒーリング相手のところまでまっすぐエネルギーを伸ばしてあげます。何度かその意図・エネルギー操作を繰り返すと、うまく行く時はエネルギールートが繋がって、天のエネルギーがヒーリング相手に降りてくるようになります。一旦繋がってしまえばあとは簡単で、そのエネルギールートが保たれるように少し調整してあげるだけでよくて、エネルギーが拡散してしまわないことと、エネルギーのルートがきちんと通るように詰まりを取ったり収束させたりしてそのルートを保っているだけでどんどんとヒーリングが進んでゆきます。
実際のところ、天のエネルギーがどこに繋がっているのかはよく分かりません。申し訳ないですけど、これはよく分からない、と言うのが回答ですけど、天に伸ばすとエネルギーが伸びてきますので、そんなものかな・・・ と思っています。そのうち答えが出るのかもしれませんけど、天のエネルギーの根元に関しては謎のままです。
ヒーリングは、そのように、よくわからないけれども無尽蔵に存在するエネルギーを使って行う方法と、自分の中に蓄えられているオーラを使って行う方法があるわけで、その組み合わせもありますけど、どちらにせよ、自分のオーラを使うとその分消耗してしまうわけで、消費しすぎると老けてしまうのです。
ヒーリングは2つの方法があって、自分のオーラを分け与える方法と、天のオーラなどのよくわからない場所から来る普遍的なエネルギーを使ってヒーリングする方法とがあります。
前者をしてしまうと自分のオーラが取られてしまうわけですけど、そうは言いましても人は自分でエネルギーを蓄えたり引き出したりすることができますから、枯渇してもしばらくすれば復活するわけです。ですけど、枯渇するまで他人をヒーリングした挙句に休息を取ってエネルギー回復するとまたヒーリングをするような繰り返しループをする人が時々いますけど、私からすると、よくもまあ、そこまでしてヒーリングするのですか、とでも思ってしまいますけどそれは個人の自由ですから特にとやかく本人に言うことはありません。きっと思うところがあってやっているのでしょう。
自分のエネルギーを使ってヒーリングする場合、上記の2つの組み合わせのパターンもあって、自分を通して天のエネルギーを取り込んだ上で自分のエネルギーを分け与えることでヒーリングをする、という手法もあります。この場合、自分は単にエネルギーを通すパイプになるだけですから自分のオーラは急激に減ることはあまりないと言えますけど、それはエネルギーを与える量と取り入れる量のバランスですから、自分のオーラが下がってしまう、あるいは、ヒーリングすると天から取り入れたエネルギーの方が多くて自分が元気になる、ということもあるかと思います。
天のエネルギーを取り入れる時、自分に一旦入れた方が相手にヒーリングしやすいのはそうですけど、それよりも、天のエネルギーをそのままヒーリング相手に繋げてしまう方が自分のオーラが相手のオーラと混ざらないのでヒーリング相手の悪いカルマの影響を受けてしまうことを防げます。
天のエネルギーは、まず自分が光の柱を打ち立てて、自分から天に向かってまっすぐエネルギーのルートを通します。その後、天にオーラの触手と言いますか右手をぐっと伸ばすようにして天のエネルギーの根元のところに働きかけて、自分のところに降りてきているエネルギーの行き先を少し変えて、水路を作るかのように、自分の目の前にいるヒーリング相手のところまでまっすぐエネルギーを伸ばしてあげます。何度かその意図・エネルギー操作を繰り返すと、うまく行く時はエネルギールートが繋がって、天のエネルギーがヒーリング相手に降りてくるようになります。一旦繋がってしまえばあとは簡単で、そのエネルギールートが保たれるように少し調整してあげるだけでよくて、エネルギーが拡散してしまわないことと、エネルギーのルートがきちんと通るように詰まりを取ったり収束させたりしてそのルートを保っているだけでどんどんとヒーリングが進んでゆきます。
実際のところ、天のエネルギーがどこに繋がっているのかはよく分かりません。申し訳ないですけど、これはよく分からない、と言うのが回答ですけど、天に伸ばすとエネルギーが伸びてきますので、そんなものかな・・・ と思っています。そのうち答えが出るのかもしれませんけど、天のエネルギーの根元に関しては謎のままです。
ヒーリングは、そのように、よくわからないけれども無尽蔵に存在するエネルギーを使って行う方法と、自分の中に蓄えられているオーラを使って行う方法があるわけで、その組み合わせもありますけど、どちらにせよ、自分のオーラを使うとその分消耗してしまうわけで、消費しすぎると老けてしまうのです。
お金が儲かるというスピリチュアルは大抵使い物にならない
世の中に現世利益、特にお金儲けのスピリチュアルが溢れていますけど、基本的にそう言うのは使い物になりません。
と言いますのも、本来、スピリチュアルにはお金儲けはなくて、あるとすれば「お金をあまり使わない」と言う行動の「結果」としてお金が溜まったり、その余剰資金を運用してみたらお金が増えてしまった、という予想外の結果でお金が儲かることはあるにはありますけど、スピリチュアルそのものがお金儲けを目的としているわけではなく、その前段階として欲望の克服とかをした結果、使うお金が減って、そのことによりお金が手元に残るようになって、残ったお金を運用したらお金が増えてしまった、という、割とお金儲けの王道的なお話になってくるわけです。
一方、世の中に溢れているスピリチュアルではお金儲けを第一の目的としていますけど、じゃあ、何故お金が必要なのですか? と言うところを個々のに落とし込んでいった結果、それが「欲望」から来るお金儲けであれば、それが例え一時的に叶ったとしてもそのお金は「使う」ためのお金ですから、一時的に入ってきたお金は目的の欲望のためにすぐに消えて無くなってしまうわけです。ある意味、願い通りの現実になっているといえます。
一方、王道のお金儲けは意外とスピリチュアル的なお話に基づいていて、節約して質素に生活しましょう、などというお金持ちの教訓は欲望を抑えて静かに生きましょうと言うことですし、それはまさに精神的な生活であるわけです。
スピリチュアルに生きていて、欲望もある程度抑えることができて、結果として出費が抑えられて、それでいて普通に社会生活を送っていて定期収入があるのであればそこまでお金が困らない世の中であるわけです。これは異論があるかもしれませんし、人によっては質素に暮らしているのに足りないだとか、そういうこともあるかと思います。そういう場合ももちろんあって、個々の場合の原因はそれぞれ見ていかなければ貧困の本当の理由は分かりませんけど、スピリチュアルの基本としては欲望を抑えることで出費を抑えて質素に日々幸せに生きることであるわけです。
じゃあ、その質素で幸せな生活を送るために足りないものを求めたり障害になっているものを取り除けば良いわけで、欲望が邪魔になっているのであれば欲望を解消してゆく必要があるわけです。ですけど、繰り返しになりますけど世の中の多くの現世利益のスピリチュアルは欲望を叶えるために例えばお金儲けができるとか言って世間を騒がせているわけです。
結局、スピリチュアルでお金儲けはできなくて、お金を稼ぐのは日々の普通のお仕事で稼ぐわけです。そして、必要以上に余ったお金を運用してたまたま多く増えたりあるいは投資に失敗して無くなってしまったり、それはそれぞれですけど、そこはあくまでも余剰資金のお話であって、人が生きる根本のところはスピリチュアルで稼ぐのではなく日々の仕事で稼ぐのが基本であるわけです。
確かに、本当にスピリチュアルに上達してそれなりに達すればお金儲けとかそう言うのも自由になりますけど、普通の人にはあまり関係のないお話だと思います。
例えば「無意識」の領域にプログラムを書き込んでお金儲け、とか言っている人もいますけど、それってお金儲けのプログラムじゃなくて「お金を使います」と言うプログラムなことがほとんどですからね。本筋じゃないですよね。それで本当にお金が儲かったとしてもそれを使うためのプログラムなら結局は欲望を叶えるためのプログラムということですから、お金が儲かって大きくお金を使った後にまた大きな欲望が出てきて更にお金を大きく稼ぐために無意識にプログラムする、なんてことを繰り返して、それって何か面白いのですかね? 単なる欲望を叶えることが目的なら、そんな小さなお話はどこかで好きにやってください、と思ってしまいます。別に、他の人がやっていることを止めもしませんし好きにすればいいのですけど、私には興味のないお話です。
それよりも、まず欲望を克服して、無意識を書き換えるとかではなくて無意識が意識下に入って集合意識に入って集団のために尽くすとか地域あるいは国とか大きなものに尽くすことになったらそんなお金儲けとか小さなお話は出てこなくなる筈なのです。本当のスピリチュアルは欲望よりも一歩上の世界へと超越して欲望から無縁になることであって、欲望と同じレベルでいると欲望を抑えるという欲望と戦う姿勢になってしまいますけど超越すれば欲望とは関係のない心境になりますから、そのように欲望を超越して欲望とは無縁の世界に入っていくことこそがスピリチュアルの基本姿勢であるわけです。
と言いますのも、本来、スピリチュアルにはお金儲けはなくて、あるとすれば「お金をあまり使わない」と言う行動の「結果」としてお金が溜まったり、その余剰資金を運用してみたらお金が増えてしまった、という予想外の結果でお金が儲かることはあるにはありますけど、スピリチュアルそのものがお金儲けを目的としているわけではなく、その前段階として欲望の克服とかをした結果、使うお金が減って、そのことによりお金が手元に残るようになって、残ったお金を運用したらお金が増えてしまった、という、割とお金儲けの王道的なお話になってくるわけです。
一方、世の中に溢れているスピリチュアルではお金儲けを第一の目的としていますけど、じゃあ、何故お金が必要なのですか? と言うところを個々のに落とし込んでいった結果、それが「欲望」から来るお金儲けであれば、それが例え一時的に叶ったとしてもそのお金は「使う」ためのお金ですから、一時的に入ってきたお金は目的の欲望のためにすぐに消えて無くなってしまうわけです。ある意味、願い通りの現実になっているといえます。
一方、王道のお金儲けは意外とスピリチュアル的なお話に基づいていて、節約して質素に生活しましょう、などというお金持ちの教訓は欲望を抑えて静かに生きましょうと言うことですし、それはまさに精神的な生活であるわけです。
スピリチュアルに生きていて、欲望もある程度抑えることができて、結果として出費が抑えられて、それでいて普通に社会生活を送っていて定期収入があるのであればそこまでお金が困らない世の中であるわけです。これは異論があるかもしれませんし、人によっては質素に暮らしているのに足りないだとか、そういうこともあるかと思います。そういう場合ももちろんあって、個々の場合の原因はそれぞれ見ていかなければ貧困の本当の理由は分かりませんけど、スピリチュアルの基本としては欲望を抑えることで出費を抑えて質素に日々幸せに生きることであるわけです。
じゃあ、その質素で幸せな生活を送るために足りないものを求めたり障害になっているものを取り除けば良いわけで、欲望が邪魔になっているのであれば欲望を解消してゆく必要があるわけです。ですけど、繰り返しになりますけど世の中の多くの現世利益のスピリチュアルは欲望を叶えるために例えばお金儲けができるとか言って世間を騒がせているわけです。
結局、スピリチュアルでお金儲けはできなくて、お金を稼ぐのは日々の普通のお仕事で稼ぐわけです。そして、必要以上に余ったお金を運用してたまたま多く増えたりあるいは投資に失敗して無くなってしまったり、それはそれぞれですけど、そこはあくまでも余剰資金のお話であって、人が生きる根本のところはスピリチュアルで稼ぐのではなく日々の仕事で稼ぐのが基本であるわけです。
確かに、本当にスピリチュアルに上達してそれなりに達すればお金儲けとかそう言うのも自由になりますけど、普通の人にはあまり関係のないお話だと思います。
例えば「無意識」の領域にプログラムを書き込んでお金儲け、とか言っている人もいますけど、それってお金儲けのプログラムじゃなくて「お金を使います」と言うプログラムなことがほとんどですからね。本筋じゃないですよね。それで本当にお金が儲かったとしてもそれを使うためのプログラムなら結局は欲望を叶えるためのプログラムということですから、お金が儲かって大きくお金を使った後にまた大きな欲望が出てきて更にお金を大きく稼ぐために無意識にプログラムする、なんてことを繰り返して、それって何か面白いのですかね? 単なる欲望を叶えることが目的なら、そんな小さなお話はどこかで好きにやってください、と思ってしまいます。別に、他の人がやっていることを止めもしませんし好きにすればいいのですけど、私には興味のないお話です。
それよりも、まず欲望を克服して、無意識を書き換えるとかではなくて無意識が意識下に入って集合意識に入って集団のために尽くすとか地域あるいは国とか大きなものに尽くすことになったらそんなお金儲けとか小さなお話は出てこなくなる筈なのです。本当のスピリチュアルは欲望よりも一歩上の世界へと超越して欲望から無縁になることであって、欲望と同じレベルでいると欲望を抑えるという欲望と戦う姿勢になってしまいますけど超越すれば欲望とは関係のない心境になりますから、そのように欲望を超越して欲望とは無縁の世界に入っていくことこそがスピリチュアルの基本姿勢であるわけです。
別の種類の無意識状態の瞑想
以前は、瞑想中に意識がなくなる時は割と意識にモヤがあって、意識がどこかに漂ってしまって想念の渦の中で自分という意識が消える、という感じでした。その後、意識が明確になるにつれて瞑想中に意識が漂ってしまうようなことは少なくなってはきたのですけど、ここにきて、また別の種類の無意識状態に瞑想中に入るようになりました。
これは説明が難しくて、元々は、瞑想中に意識が漂ってしまって想念の渦と自分の意識とが一体になることにより自分という意識が消える、という感じでした。それはそれでアストラル次元の感情および思いの世界における合一(サマーディ)の一種ではあったかと思うのですが、その次元でのサマーディはあくまでも感情的な想念の合一であって、それより高い次元での合一ではないのですよね。
一方、ここ最近は瞑想が進んできて、それでも少し進んではまた戻り、また少し進む、という感じで行ったり来たりではあるものの基本的にはベースが進んできて、そうなってくると、感情的な合一というのはほとんど起きなくなってくるわけです。
感情的な合一で意識がなくなる、と比喩することもできますけど、意識がなくなるというよりは、意識が全体に包まれることで全体のアストラルな意識になる、という感じの合一(サマーディ)でした。それはそれでサマーディであることには違いはないのですけど、アストラルの次元の合一とカラーナ次元での合一、そしてプルシャの次元での合一とがありますので、アストラルの感情のサマーディ(合一)をしたからといってそれほどでもないわけです。
最近は割と感情よりも、知性のブッディが優勢に働く状態になってきて、それはオーラ的に言えばサハスララにオーラが満ちている状態ではあるのですけど、完全には満ちなくてもそれなりに満ちれば知性のブッディが有効に働いてくるわけです。
その状態において意識が高みに近づいた時、意識がなくなるのです。
意識がなくなる、というと語弊がありますが、顕在意識で知覚できなくなります。
顕在意識で知覚できないので少し状態を戻す、ということをするとまた知覚できるようになるのですが、再度挑戦してオーラを満たし、意識を高みに近づけるとまた意識がなくなってしまいます。
これは、アストラルの時に意識がなくなって感情的に周囲と合一(サマーディ)した時と異なり、ただ単に、知覚できないなにかと一体化している、としか顕在意識にはわかりません。
それは上位の意識、次元の高い意識ともいうことができますけど、その次元の高い意識は顕在意識でなかなか知覚できないようです。
書物を読むと、最初はトランス状態になって知覚できないけれども数年すれば顕在意識で知覚できるようになる、と書いてあったりもしますので、これは時間の問題かもしれません。
今のところ、意識が高みに辿り着くと顕在意識で知覚できなくなって、ですけど、そこには確かに何かの意識があって、高みの意識が何かを意図したり認識しているような気がします。気がするだけで具体的にはわからず、気がした瞬間に顕在意識が働かなくなってしまって知覚できなくなってしまいますので、それ以上のことはわからなくなるのです。
ですけど、瞑想を終えてみると何かがあったことがわかりますけど、具体的なことはその瞬間にはちょっと覚えていたりしますけど、夢と同じで、すぐに忘れてしまいます。
これは、夢を知覚する技能と同じように瞑想を知覚する技術が必要なのかもしれませんし、それは技術というより瞑想が進めば知覚できるようになるということかもしれませんけど、ひとまず、今は意識が消えてしまって無意識状態になる瞑想になっています。
これは説明が難しくて、元々は、瞑想中に意識が漂ってしまって想念の渦と自分の意識とが一体になることにより自分という意識が消える、という感じでした。それはそれでアストラル次元の感情および思いの世界における合一(サマーディ)の一種ではあったかと思うのですが、その次元でのサマーディはあくまでも感情的な想念の合一であって、それより高い次元での合一ではないのですよね。
一方、ここ最近は瞑想が進んできて、それでも少し進んではまた戻り、また少し進む、という感じで行ったり来たりではあるものの基本的にはベースが進んできて、そうなってくると、感情的な合一というのはほとんど起きなくなってくるわけです。
感情的な合一で意識がなくなる、と比喩することもできますけど、意識がなくなるというよりは、意識が全体に包まれることで全体のアストラルな意識になる、という感じの合一(サマーディ)でした。それはそれでサマーディであることには違いはないのですけど、アストラルの次元の合一とカラーナ次元での合一、そしてプルシャの次元での合一とがありますので、アストラルの感情のサマーディ(合一)をしたからといってそれほどでもないわけです。
最近は割と感情よりも、知性のブッディが優勢に働く状態になってきて、それはオーラ的に言えばサハスララにオーラが満ちている状態ではあるのですけど、完全には満ちなくてもそれなりに満ちれば知性のブッディが有効に働いてくるわけです。
その状態において意識が高みに近づいた時、意識がなくなるのです。
意識がなくなる、というと語弊がありますが、顕在意識で知覚できなくなります。
顕在意識で知覚できないので少し状態を戻す、ということをするとまた知覚できるようになるのですが、再度挑戦してオーラを満たし、意識を高みに近づけるとまた意識がなくなってしまいます。
これは、アストラルの時に意識がなくなって感情的に周囲と合一(サマーディ)した時と異なり、ただ単に、知覚できないなにかと一体化している、としか顕在意識にはわかりません。
それは上位の意識、次元の高い意識ともいうことができますけど、その次元の高い意識は顕在意識でなかなか知覚できないようです。
書物を読むと、最初はトランス状態になって知覚できないけれども数年すれば顕在意識で知覚できるようになる、と書いてあったりもしますので、これは時間の問題かもしれません。
今のところ、意識が高みに辿り着くと顕在意識で知覚できなくなって、ですけど、そこには確かに何かの意識があって、高みの意識が何かを意図したり認識しているような気がします。気がするだけで具体的にはわからず、気がした瞬間に顕在意識が働かなくなってしまって知覚できなくなってしまいますので、それ以上のことはわからなくなるのです。
ですけど、瞑想を終えてみると何かがあったことがわかりますけど、具体的なことはその瞬間にはちょっと覚えていたりしますけど、夢と同じで、すぐに忘れてしまいます。
これは、夢を知覚する技能と同じように瞑想を知覚する技術が必要なのかもしれませんし、それは技術というより瞑想が進めば知覚できるようになるということかもしれませんけど、ひとまず、今は意識が消えてしまって無意識状態になる瞑想になっています。
瞑想で心の殻が破れるときにリラックスが深まる
主に2つ。感情の段階(アストラル次元)と、個人的な静寂の段階(コーザル、カーラナの次元)、それぞれで殻が破れるように思います。
まず最初は感情を抑えるための集中から始まって、集中して感情の殻が破れるとリラックスできます。感情が豊かな人が感情を超えて静寂の世界へと踏み込む段階です。
その時点ではまだ個人的な静寂ですが、静寂が深まるにつれて個人的な静寂の殻が破れて、場所的な意識へと変わってゆくように思います。
ヨーガや修験道あるいは仏教などの行者は主に前者の感情の段階(アストラル次元)を扱っているように思います。そこでは主に感情を抑えて静寂の境地に至ることを目的としています。
仏教などで言われているように、楽しみの感情であったとしても苦しみの感情であったとしてもそれは一時的なもので、その一時的なものに執着しているから苦しみが生まれるのであって、その執着を手放しましょう、というお話はそれ自体は確かにその通りではあるのですけど、そこで言われているのは主に感情の段階(アストラル次元)のお話なのですよね。
修行するようになった最初の目的に則して修行が進んで、感情への執着から離れて静寂の境地になったとして、それはまだ個人的な静寂であって、場所的な意識へとまだ昇華していないわけです。ですけど、多くの流派では個人的な静寂の境地を持ってして解脱に至ったとか悟りと同じ(阿羅漢など)と見做していますけど、それはまだアストラル次元のお話なのですよね。
昔はこの辺りがよくわからなくてごっちゃにしていましたけど、静寂の境地のアストラル次元とその先のコーザル(原因、カーラナ)の次元とは別物で、多くの流派の悟りというのはコーザルに至ったことを意味していますけど、実際は、コーザルではまだ悟りではないと思うのです。それなりに修行が進んだのは確かですけど、コーザルではまだ個人的な静寂の境地に達しただけで、その段階でも他人の心が少しは読めたり過去や未来も多少はわかったりしますけど、限定的なわけです。この段階のヨーガ行者とかは山ほどいて、まだ感情を完全い克服できていなくて、瞑想をすることで一時的に感情の段階(アストラル次元)を克服してカーラナの静寂の境地、それは静寂であるのと同時に論理のブッディ(理知的な感覚)が働く段階でもあるのですけど、一時的にブッディが優勢な状態になる、という人が多いように思います。
一時的なものから始まって常にその状態になる、という遷移を経るわけですけど、一時的な状態に留まっている人が割と多いように思われます。
静寂の境地をゴールとしてしまっているのは、おそらくは最初に立てた目標が苦しみからの開放だったということで、最初の目標いかんでゴールがほぼ決まってしまうわけです。もっと先に行くことができたとしてもそこがゴールと思ってしまったらゴールになってしまうわけで、静寂の境地から先へと進まなくなってしまうわけです。
ですけど、実際には静寂の境地というのはベールがまだ被せられている状態で、神様にはまだ一歩届かないわけです。
まず最初は、感情の上に被せられたベールを剥がすことから始まって、感情というのはアストラル次元ですからそこから静寂の境地かつ論理の世界(ブッディが優勢な世界)であるコーザルの世界(カーラナの次元)に移って、カーラナの次元で静寂の境地に至ったとしても、それはベールが被せられている状態なわけです。
スピリチュアルではよく「意識にヴェールが被せられている」みたいなことを言いますけど、それは主に感情と静寂の境地の間にあるヴェールのことではありますけど、実際にはそれは2つあるわけです。
そして、そのどちらにおいても、ヴェールが少しずつ剥がれるときにリラックスが深まります。
感情の渦にまみれている時は緊張していて、瞑想をして眉間に集中することでその感情に被せられているヴェールが少しずつ剥がれて、剥がれるにつれてリラックスが深まり、静寂の度合いが増えてゆくわけです。
そして、静寂がそれなりに深まった後は、静寂の境地の上に被せられているヴェールを少しずつ剥がしていって場所的な意識、それはざっくりいえば場所的な神様と言ってしまってもそう間違いではないのですけど、そのような空間的な意識へと少しずつ変わってゆくわけです。
私の場合、今の段階としては静寂の境地の上のヴェールが少しずつ剥がれてきている段階でまだ場所的な意識を少しずつ垣間見ている状態でまだ完全に剥がれてはいませんけど、概ね、このような段階を辿るように思えます。
まず最初は感情を抑えるための集中から始まって、集中して感情の殻が破れるとリラックスできます。感情が豊かな人が感情を超えて静寂の世界へと踏み込む段階です。
その時点ではまだ個人的な静寂ですが、静寂が深まるにつれて個人的な静寂の殻が破れて、場所的な意識へと変わってゆくように思います。
ヨーガや修験道あるいは仏教などの行者は主に前者の感情の段階(アストラル次元)を扱っているように思います。そこでは主に感情を抑えて静寂の境地に至ることを目的としています。
仏教などで言われているように、楽しみの感情であったとしても苦しみの感情であったとしてもそれは一時的なもので、その一時的なものに執着しているから苦しみが生まれるのであって、その執着を手放しましょう、というお話はそれ自体は確かにその通りではあるのですけど、そこで言われているのは主に感情の段階(アストラル次元)のお話なのですよね。
修行するようになった最初の目的に則して修行が進んで、感情への執着から離れて静寂の境地になったとして、それはまだ個人的な静寂であって、場所的な意識へとまだ昇華していないわけです。ですけど、多くの流派では個人的な静寂の境地を持ってして解脱に至ったとか悟りと同じ(阿羅漢など)と見做していますけど、それはまだアストラル次元のお話なのですよね。
昔はこの辺りがよくわからなくてごっちゃにしていましたけど、静寂の境地のアストラル次元とその先のコーザル(原因、カーラナ)の次元とは別物で、多くの流派の悟りというのはコーザルに至ったことを意味していますけど、実際は、コーザルではまだ悟りではないと思うのです。それなりに修行が進んだのは確かですけど、コーザルではまだ個人的な静寂の境地に達しただけで、その段階でも他人の心が少しは読めたり過去や未来も多少はわかったりしますけど、限定的なわけです。この段階のヨーガ行者とかは山ほどいて、まだ感情を完全い克服できていなくて、瞑想をすることで一時的に感情の段階(アストラル次元)を克服してカーラナの静寂の境地、それは静寂であるのと同時に論理のブッディ(理知的な感覚)が働く段階でもあるのですけど、一時的にブッディが優勢な状態になる、という人が多いように思います。
一時的なものから始まって常にその状態になる、という遷移を経るわけですけど、一時的な状態に留まっている人が割と多いように思われます。
静寂の境地をゴールとしてしまっているのは、おそらくは最初に立てた目標が苦しみからの開放だったということで、最初の目標いかんでゴールがほぼ決まってしまうわけです。もっと先に行くことができたとしてもそこがゴールと思ってしまったらゴールになってしまうわけで、静寂の境地から先へと進まなくなってしまうわけです。
ですけど、実際には静寂の境地というのはベールがまだ被せられている状態で、神様にはまだ一歩届かないわけです。
まず最初は、感情の上に被せられたベールを剥がすことから始まって、感情というのはアストラル次元ですからそこから静寂の境地かつ論理の世界(ブッディが優勢な世界)であるコーザルの世界(カーラナの次元)に移って、カーラナの次元で静寂の境地に至ったとしても、それはベールが被せられている状態なわけです。
スピリチュアルではよく「意識にヴェールが被せられている」みたいなことを言いますけど、それは主に感情と静寂の境地の間にあるヴェールのことではありますけど、実際にはそれは2つあるわけです。
そして、そのどちらにおいても、ヴェールが少しずつ剥がれるときにリラックスが深まります。
感情の渦にまみれている時は緊張していて、瞑想をして眉間に集中することでその感情に被せられているヴェールが少しずつ剥がれて、剥がれるにつれてリラックスが深まり、静寂の度合いが増えてゆくわけです。
そして、静寂がそれなりに深まった後は、静寂の境地の上に被せられているヴェールを少しずつ剥がしていって場所的な意識、それはざっくりいえば場所的な神様と言ってしまってもそう間違いではないのですけど、そのような空間的な意識へと少しずつ変わってゆくわけです。
私の場合、今の段階としては静寂の境地の上のヴェールが少しずつ剥がれてきている段階でまだ場所的な意識を少しずつ垣間見ている状態でまだ完全に剥がれてはいませんけど、概ね、このような段階を辿るように思えます。