集中の瞑想から観察の瞑想へ

2019-10-10 記
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

■初心者の瞑想
集中します。集中がこの段階での瞑想です。眉間などに集中します。この段階では、小難しい理屈は考える必要ありません。
この時、あまり長い瞑想をしないようにします。不快感が出てきたらすぐに瞑想を中断します。

■瞑想に少し慣れた状態。観察ができてくる前
心だけが存在していて、観察できていない状態が長い間続きます。雑念が多い状態です。
心がロジックで「観察している」と自分を誤魔化したりする段階です。
この段階でも、あまり長い瞑想はしません。
古典的には瞑想はグル(霊的教師)につくべきだ、とされておりますので、気をつけて行いましょう。

■観察ができてくる
観察が全く違う視点で現れてきます。観察しているのは心ではなく、心が観察しているのではなく心の背後に観察者が存在していることを理解します。

■観察ができてくると、瞑想とは集中のことではないと理解できてくる
瞑想のきっかけに集中が使われます。しかし、その後は集中しません。集中することで意識を統一してふらつかないようにした後、観察をするのがこの段階での瞑想です。

一般にはサマタ瞑想(集中瞑想)とヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)とがあると言われていますが、これは流派の違い、あるいは、段階の違いで表現が異なってきます。流派によっては同じことをサマタ瞑想と呼んだりヴィパッサナー瞑想と呼んだりします。しかし、本質はどちらも変わりません。その筈です。

瞑想のために、最初は集中を行います。この段階における集中は瞑想の目的ではなく、手段です。

観察の瞑想(ヴィパッサナー瞑想)に辿り着くには手段としての集中が必要です。その集中瞑想をサマタ瞑想と呼ぶかもしれませんし、流派によっては集中であってもヴィパッサナー 瞑想と呼ぶかもしれません。呼び方は流派ごとに違えども、やっていることはそう変わりありません。最終的に瞑想の目的は「観察」になります。サマタ瞑想(集中瞑想)であってもそれは観察になっていくのです。このあたりは以前にも少し書きました。

本質はサマタ瞑想でもヴィパッサナー瞑想でも一緒なのですが、観察については流石にヴィパッサナー瞑想の方が詳しく述べられている気が致します。例えば以下の文章です。

ヴィパッサナーの目的は、何にも妨げられることなくひたすら呼吸に集中することではありません。(中略)ヴィパッサナーの目的は、途切れることなく気づくことです。気づく、この気づくことによってのみ、覚ることができるのです。「マインドフルネス 気づきの瞑想(バンテ・H・グナラタナ 著)」

視点が違うだけでサマタ瞑想も同じです。サマタ瞑想の目的は眉間やハートや呼吸に集中することではありません。サマタ瞑想の目的も同様に、途切れることなく気づくことです。言い方が違うだけのお話です。 時々、このことで言い争いになったりしているようですけど、私は、表現が違うだけだと思っております。

ですから、一般的に瞑想は集中から始めますが、瞑想とは本来、観察のことです。

一般的には集中だけであっても瞑想と呼ばれますし、観察も瞑想と呼ばれます。ですから、瞑想と言った時に何を意味するのかコンテキストによって異なってきます。

瞑想においてはまず集中することで心を落ち着かせていわゆる雑念を抑え、体の感覚などを観察するのです。あるいは、瞑想中に雑念が出てきたら集中して雑念を抑え、そして再度観察して瞑想を再開するのです。

その時、眉間に集中したりハートに集中したり息に集中したりします。流派や、人によってやりやすさが異なるでしょうから先生の指示に従うかあるいは選んでも良い流派の場合は選びますし、先生がいなければそれぞれ試してみたりすると良いでしょう。


何度か書いたことではありますが、改めて少し書いてみました。