エネルギーの覚醒と癒し - 瞑想録 2019年10月

2019-10-01 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

首や肩の力が抜け、上半身がよりニュートラルな瞑想

先日の続きです。

今朝の瞑想では肩の力が一段と抜けていました。おそらくは首のあたりのエネルギーのブロックが解消されたことによるものかなと思います。

天のエネルギーを頭に降ろすと頭の中にまず入るのですがすぐに首を通じて胸のアナハタあたりまで充満するのを感じます。先日に首のあたりのブロックが解消される前は頭だけでエネルギーが溜まっていて少し下に漏れるという感じでしたが、今朝はスムーズにエネルギーが首を通ります。そうして何度か天のエネルギーを頭に下ろし、胸のアナハタあたりから順にエネルギーを充満させ、頭まで天のエネルギーで満たした状態で瞑想をしました。

サハスララはエネルギーが通るようになったとはいえ、まだ完全ではない感じです。それでも、何度もエネルギーを下ろそうとすれば少しずつエネルギーが入ってきます。
外のエネルギーをあまり簡単に取り入れない方がいい時もありますので、このくらいでちょうど良いのかもしれませんが。

天のエネルギーとは言いましても、地球の周辺のエネルギーですので、大気汚染みたいなものも少し混ざっていて、必ずしも純粋なエネルギーではない感じです。それでも、地のエネルギーに比べれば随分と上等な感じが致します。

この状態で瞑想をすると、肩の力が抜けているのを感じました。首が自然な角度で頭がちょこんと上に乗っています。ブロックがあった時は頭が割と前に倒れがちでした。

特に上半身がよりニュートラルになった感じです。

今日は昨日と同様に事あるごとに日常生活の中で天のエネルギーを頭から取り込んでいました。

これとどのくらい関係があるのかわかりませんが、今日はその他にも以下のことが起こりました。

・リクライニングチェアで意識が朦朧としている時にどこかの知らない女の人の全く心当たりのない会話が聞こえた。声のみ。すぐに内容は忘れてしまいました。
・瞑想中、体の各所が静電気を帯びていた。先日とはまた違った場所。例えば胡坐をかいている足の裏とか、腕とか。あとは全体的にほんわりとした感じです。
・頭の中で火花かプラズマがバチバチと鳴るような音がした。1〜2秒程度。映像はなし。この時、意識は普通にありました。

■天のエネルギーで緊張をほぐす
天のエネルギーを体に通していると、体が少しずつ柔らかくなるのを感じます。

瞑想中は眉間に集中していたとしても肉体的には力を入れないのが基本ではあるのですが、こわばりが多少なりとも瞑想中はできてしまっているようで、今までは度々口を大きく開けたり目を見開いたりして緊張を解いていたのですが、今日の瞑想で天のエネルギーを頭から入れて体に下ろしていると、顔の表情が柔らかくなって筋肉が解けていくのを感じます。

顔だけでなく、体の各所、例えば股関節なども緊張が解けるのを感じます。すぐに開脚がすごくできるようになるわけではないのですが、感覚的に緊張が解けてゆく感じです。

肉体が大きめの細胞の塊で構成されている隙間に天のエネルギーが細かく入り込んで潤滑油のようになっている感覚があります。まだまだ緊張が解け始めたばかりですが、これからもっと緊張が解けてゆくのだとすれば素晴らしいです。



瞑想中に一瞬見えた小悪魔の影

先日 の続きです。

今日も天のエネルギーを頭のサハスララから下ろして体に満たし、体の組織の塊の隙間に光を通して緊張をほぐす瞑想をしました。

その時、上から水が体を通って各所を満たすのと同時に、スポットライトのように各所を照らす作業も行うわけですが、ふと体のどこかに洞窟っぽい空間が見え、洞窟の奥が暗闇になっていて、そこをスポットライトで照らしたらシルエットのような黒い雲が見えて目も光って見えたのです。その姿は羽の生えた小悪魔のように見えました。コオロギが立ち上がった姿に似ているかもしれません。中腰なのかもしれませんがシルエットで霧状なのでよくわかりません。一瞬ゾッとしたのですが、スポットライトを照らしてよく見ようとしたら姿は消えてしまいました。どうしたことでしょう。もはや、探しても見つかりません。

そうこうしているうちに、胸のあたりの少しの緊張が解けて柔らかくなってきました。緊張があるとは思っていなかったところに実は緊張があったようで、胸の少し左あたりの緊張が解けたような気が致します。胸のあたりに何かブロックがあったのかもしれません。

これは何かのガーディアンだったのでしょうか??? 謎です。 姿はゾッとしたのですが、特に怖い感じはしませんでした。

どうやら、小悪魔は消えてしまったか、あるいは、退散してしまったように思います。もはや気配も全く感じません。

■体が消える感覚
天のエネルギーで体を包んでいると、次第に体が消える感覚になってきました。完全には消えませんが、存在が軽くなった感じです。
体がほぐれていくにつれてこんな感じになってゆきました。

■母親のテレパシー? 虹色の波紋?
今日も、日常生活中に事あるごとに天のエネルギーを頭のサハスララから取り入れていました。

そんなとき、ふと私の母親が私を呼びかけるテレパシーっぽい感覚を受信しました。ただ単に私の名前を呼んでいるだけですが、その時、頭の上3分の1くらいが不思議な感じに光りつつ、そこの中で母親の声がリアルにしていました。イメージはありません。声を聞いている間、頭の上3分の1が活発に動きつつ虹色っぽい感じで不思議に光っていました。完全な虹色ではないのですが虹色がかかったふにゃふにゃな波紋のような感じに見えました。だいたい5〜10秒程度の間だったと思います。

声が聞こえる事はあっても、こんな感じで頭の中が活動的になった事は今までほとんどなかったように思います。何か今までとは違う感じを受けます。まだ1回だけですけどね。

肉体が光ったわけではなくて瞑想中にそんな感じに認識したということです。

■体をほぐす
先日に続いて、体の各所に天のエネルギーを通して少しずつほぐしていっています。これはもうちょっと時間がかかりそうです。と言いますか、ずっと定期的に続けるべきものかもしれません。



シュタイナーの説く「境域の守護者」

シュタイナーは以下のように述べています。

高次の世界に向かって上昇するとき、私たちは「境域の守護者 Huter der Schwelle」と出会うという重要な体験をします。境域の守護者は1人ではなく、実際には「境域の小守護者」と「境域の大守護者」の2人がいます。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」

最初に遭遇する「境域の小守護者」について、以下のように描写しています。

恐ろしい幽霊のような存在が学徒の前に立っています。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」

これは、先日の瞑想の中で見たぞっとする小悪魔のことかもしれません。同書の説明は以下のように続きます。

どんなに恐ろしい姿をしているとしても、それは学徒自身の過去の人生の結果であり、学徒の外で独立した生活を営むようになった、学徒本人の特性なのです。(中略)このように、自分自身が霊的な存在を生み出した、と初めて感じることこそが、すでに学徒にとって意味深い体験になります。このとき学徒はまったく恐怖を抱かないで、恐ろしい姿を見ることに耐えなければなりません。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」

そして、この状態で行う活動は全て、個人的なものだけでなく家族や民族や人種にまで影響を及ぼすとのことです。ですので、この状態に達したら民族や人種の使命のために働くべきだ、とも述べられています。そして、以下のような警告が記されています。

目の前に広がる暗闇を自分自身で照らし出さなくてはならない、ということを理解するまで、あなたは私の領域を超えてはなりません。(中略)これまであなたが頼りにしてきた、導き手たちのランプは、これから先の未来においては存在しないのです。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」

これらは最初読んだ時は単なる比喩表現かと思って流して読んでいたのですが、改めて読み返してみると、先日見た小悪魔に通じるものがあって興味深いです。

私の場合は、これが見えたかと思ったらすぐに消えてしまったので、超えたのか何なのかはいまいちよくはわかりませんが。すぐに消えてしまったということは通って良いということだと理解して良いのかどうか。どうでしょうかね。

このあたりは様子見です。



マインドフルネスな欧米企業と頭の回転を重視する日本企業の違い

マインドフルネスな欧米企業には例えばグーグルなどがありますが、以下のように業務の効率を最大化しています。

  • 雑念を取り払い、彷彿状態(トランス状態)を作り出す。
  • インプットを「ありのまま」(雑念に囚われる事なく)受け取ります。
  • 必要な事項のみを(雑念に囚われることなく)高速に処理(論理思考)します。
  • アウトプットを「ありのまま」(雑念に囚われる事なく)作成・提供します。
  • 「思考していない状態」(マインドフルネス)を受け入れている。オンとオフの切り替えがうまい。
  • 行動よりも結果で評価。
よって、グーグルでは仕事は「とても楽しい」ものになります。

一方、多くの日本企業の場合は、以下のようになるでしょう。

  • 雑念の溢れる中で必要な事のみをピックアップする。例えば居酒屋などで世間話を挟みながら必要な情報を引き出す。
  • インプット(見聞きする事)に雑念が含まれる。思い込みや自分の拘りなどで入力データが曇る。
  • 雑念が論理思考を邪魔して正しい論旨を組み立てることに時間がかかる。雑念で論理が捻じ曲げられる場合すらある。
  • アウトプットに雑念が含まれる。思い込みや自分の拘りが含まれる。出力データが曇る。
  • 「思考していない状態」(マインドフルネス)は「働いていない」「怠けている」と判断されて評価が下がる。オンとオフの切り替えが下手。常に手を動かしていないと評価が下がる。
  • 無駄な頭の回転だったとしても動き続けることが評価される。結果での評価ではなく行動自体が評価される。結果主義(結果を評価する主義)ではなく努力評価主義(努力自体を評価する主義)。
  • そもそもマインドフルネスができないし、何なのか分かっていない。自分の思考や会話を止めたら雑念が止めどなく出てくるので思考を途切れさせるのを嫌がる。よって、マインドフルネスができる人のことを嫌う。思考を次々に出せる人こそが頭が良いと勘違いしている。
  • 結果、日本企業が益々マインドフルネスから遠ざかる。
  • であるから、日本企業の業務効率は改善しない。
ちょっと極端なこともありますし、そうでない会社も色々とあるとは思いますが、私の知っている限りではこんな感じだと思います。

日本企業ではマインドフルネスはいわば「敵」ですので、マインドフルネスを妨げるような行為、例えば騒音ですとか大声を出すとか、そういう行為も思いっきり許容されます。

悲しいくらい日本企業はマインドフルネス的ではありませんね。

■創造性とマインドフルネス
他から持ってきた理屈を論理思考することと、新しい事を創造するのはやり方が根本的に違います。

  • 他から持ってきた理屈を論理思考することは、一見すると「知識があって」「頭が良い」「頭の回転が良い」とみなされますが、それだけです。やがてはAIに取って代わられるかもしれません。日本企業で評価される頭の良さとはこれです。頭や口をフル回転させてグルグルと思考を動かし続ければ続けるほど「頭が良い」とみなされます。
  • 新しい事を創造するには、一旦「停止」する事が必要です。それはマインドフルネスです。思考を停止させ、自分の奥底から「出てくる」瞬間を「待つ」必要があります。その時、「何もしていない」期間が必要なのです。
後者は、時々異論があるかもしれません。「いや、世の中に出ている新しいものというのは、実際には昔のものの組み合わせに過ぎない」と。確かにそれは基本としてはその通りではあるのですが、2つのものが「組み合わさる」時は、組み合わせ方にセンスがいるわけで、そのセンスが生まれ出る根本のところがマインドフルネスなわけです。ロジックで生み出そうとする場合は組み合わせの何千もの組み合わせの中から最適なものを選ばなければなりませんが、マインドフルネスで答えを「内」から「出てくる」ことによりロジックを超えたところで「創造」することができます。

ここで色々と誤解があって、新製品を作った時の組み合わせ方すらも既に世の中にある応用だとすればそれはここで言う「創造」ではなく単なるロジックの組み合わせということになります。これは、後から見ると全てこう見える、ということもあります。後から見て分析をしたらその組み合わせ方は他の何かの応用でしかない、ということになることがほとんどです。ですが、ここでいう創造とはそういうことではなく、あらかじめ勉強したり知ることなしに「内」から「浮かび上がってくる」ものを意味しているのです。

多くの場合、組み合わせすらもノウハウ化されていて発明のノウハウ化などもされており、「組み合わさり方」すらも既に世の中にあるのであれば、そのノウハウを使って作った新製品や新サービスは一見すると新しい創造ですが、本当は創造ではなくて組み合わせて見た目を変えているだけです。まあ、一般的にはそれでも創造と言いますし商売では十分かもしれません。

マインドフルネス的な「創造」とは、もっと経験的で彷彿的なものです。結果としては似たようなものができてしまうかもしれませんが、全く新しいものができるかもしれません。その、創造の幅の広さがマインドフルネス的な創造のメリットです。

グーグルがマインドフルネスで新しい事を創造しようとしているのはそのレベルで何かを作ろうとしているのであって、組み合わせで見た目が新しいものを作り出すのであれば他の企業がいくらでもやれると思います。そのあたりが一流と二流の違いという事でしょうか・・・。

その筋の一流は瞑想をしてマインドフルネスを理解しますが、三流は瞑想をしないしマインドフルネスもよく分からないのだと思います。二流は何となく分かっているという人でしょうかね。

どちらにせよ、日本でマインドフルネスは当分理解されないでしょうし、やろうとすら思わないでしょう。日本企業の闇は深過ぎます。もう1世代変われば随分と違ってくるでしょうが。

日本の場合、アイデアは自分で浮かぶものではなくて奪うものになっているような気がいたします。以前少し会議のアイデアとオーラの関係について書きましたけど、本来、同レベルの人が集う会議で浮かび上がってくるアイデアに自分も相手もないのです。日本では飲み会などで相手のオーラをふにゃふにゃにして引き出してアイデアを奪うようなことが日常茶飯事で行われているような気が致します。そんな状況が続くとすれば今後も日本の状況はそうそう変わらないでしょうね。



テレパシーとオーラ融合による想念受信との違い

先日 オーラの交換について書きましたが、オーラ交換をするとオーラに含まれている情報が伝わってきます。一方で、テレパシーによるコミュニケーションもあります。以前、テレパシーについても少し書きました。

■オーラ交換(融合)の場合
自分が意図的にエーテルの筋(オーラの筋)を伸ばしていって情報交換する場合もあれば、他人のオーラと混ざって情報が伝わってくる場合もあります。無意識に他人のオーラと混ざる場合もありますし、他人が意図的にこちらに接触してくる時にこちらが気付く場合もあります。

一番単純な場合では、浮いているオーラと自分のオーラが接触する場合です。この場合、自分の体のちょっと外側、体の周囲の50cm~1mほど離れたあたりでオーラの接触があって、そこから情報が伝わってきます。

今日の瞑想中にあったことで言いますと、頭のちょっと上、50cm前後離れたところでフワフワっとエネルギーの反応があって思考といいますか想念が化学反応のように出てきて、情報が入ってきました。その想念はおそらくそこらへんの空中に浮いてプカプカとどこかから飛んできたものですので、情報的はとりとめのない単なる雑念だったのですが、まあ、今日はそんなオーラの雑念を受け取りました。

■テレパシーの場合
一方で、今日の瞑想中に首の後ろあたりで直接的な想念も受信しました。これは、感じが違います。いきなり想念が出てくる感じです。

上記のオーラ交換(融合)の場合は科学反応みたいなザワザワした感覚があって、それは一瞬の間ですがその感覚があった後に状態が落ち着いて、続いてすぐに情報が伝わってきます。一方、こちらのテレパシーの場合は何もない空間にいきなり声が浮き出てくる感覚です。音の出ていなかったスピーカーがいきなり振動して声が聞こえるのに似ています。その受信機は、もしかしたら首の後ろにあるのかもしれません。

喉のヴィシュッダ・チャクラは声だけでなく耳の方も司っていてテレパシーの送受信の機能があると言われていますけど、今回の場合、喉からはちょっとだけ離れてはいますが、オーラは体と重なっているとはいえ少しズレたりすることもありますのでこのくらいは誤差かもしれませんし、あるいは、ちゃんとその場所に何かがあるのかもしれません。どちらにせよ、首の後ろの少し上のあたりで想念を受信したのですが、それは体の外側で感じるものとは別物でした。

その首の後ろは体の内側ではなないのですが、オーラ的に言えばオーラの外縁部ではありませんのでオーラ的には内側と言えると思います。オーラの外縁部から情報が伝わってくるという感じではありませんでした。

もともと昔から悪い予感や見えない存在からの何かの忠告がありそうな時には喉仏のあたりがグリグリとしていましたので、喉仏には何かがあって、そこがヴィシュッダ・チャクラかなあ、と前から思っていたのですが、今日の瞑想でテレパシーっぽいものを受信したのは喉仏ではなく首の後ろでした。何か違いがあるのでしょうか。

テレパシー受信した時、その直前と直後はラジオのノイズのようにザワザワした感じで音量ONでボリューム有りの状態で、声になって聞こえている間だけ意味のある日本語で聞こえました。前後が音量ゼロだったわけではなく、前後共に音量があって、ラジオで言うところのチューニングされている状態のノイズから急にチューニングが合って音量がゼロに近づくと同時に声が聞こえ始めて、声が終わるとまたチューニングが外れて音量はそのままでラジオのようにノイズが聞こえているような感じでした。ノイズと言うのは比喩で、ラジオのようにうるさい感じではなくて、ノイズはノイズですけれども意味のないザーーと言う感じのノイズになると言うことです。

ナーダ音の高周波がテレパシーになるのかどうか・・・? は、そこまで気付きませんでした。一部のスピリチュアルやヨーガではナーダ音がそのうち意味のある声として聞こえてくると言われたりしていますけど、今回のは急でしたのでその変化までは気付けませんでした。

■宇宙人のテクノロジーによるテレパシー
一方で、子供の頃に宇宙船の宇宙人とテレパシーをした時は、おそらくはそれは能力というよりも宇宙人のテクノロジーでそういう機械があって、その機械を使えば誰でもテレパシーできるのだとは思いますが、その場合は頭の上方、斜め上の50cm前後から響いて、指向性スピーカーのように内なる声として、上から聞こえる声として聞こえていましたね。これは、能力で行うテレパシーともまた違ったものかもしれません。想念的なものを指向性で飛ばしているような気がいたします。だから、上から下にテレパシーが聞こえるのだと思いますし、範囲も半径1mくらいにいれば他人でもそのテレパシーを盗み聞きできてしまいますので、使い方に制限のあるテレパシーの技術なんだなあ、と思います。これはテレパシーというよりも想念を使った指向性スピーカーと思った方が良さそうですね。


宇宙人のテクノロジーはもはや検証できませんのでとりあえず置いておくとして、オーラの融合はたぶんそんな感じかなあ、と思っていて、これからもっと謎解きしたいのは首の後ろあたりで感じたテレパシーですね。オーラの交換によるテレパシーですと毎回情報交換するのも大変ですし、情報の伝達も一方的になりますし、そもそもオーラ交換なんてそう度々したくないですし。単に感覚的なもの・振動的なものだけでテレパシーできた方がオーラ交換するよりも健全な気も致します。

首の後ろだけでなく後頭部のあたりで感じることもありますので、これは何なのかなぁ、と。そういう違いについても少し観察をしてゆきます。



癒しとはエネルギーの高まり

女性的に言えば癒しですし、男性的に言えば男らしさ。それがエネルギーの高まりです。
エネルギーの高い女性に近づけば癒しを感じますし、エネルギーの高い男性に近づけば男らしさを感じます。

男性性、女性性という視点を取っ払えば、両方ともエネルギーの高まりです。

ですから、女性がエネルギーの高い男性に近づけば癒しを感じてエネルギーをもらって女らしくなるのです。
逆に、男性がエネルギーの高い女性、女らしい女性に近づけば自分がエネルギーを受け取ることで男らしくなるわけです。
これはあくまでも例でわかりやすく男と女の話で言っているだけで、LGBTのパターンもあると思います。

私の場合、ヨガを始める前はエネルギーが少ない状態で、様々な葛藤や問題があってエネルギーのルート(ヨガ的に言うナディ)が詰まった状態で生活していましたのでエネルギー枯渇状態だったこともあります。ヨガを始める前は旅行などでエネルギーチャージをしていましたが、ヨガを始めてから体の各所のエネルギーの詰まりが少しずつ取れてきてエネルギーが通るようになってきました。

それで多少はエネルギーが入るようになったのですが、根本的に変わったのはクンダリーニの覚醒です。
最初は下半身が熱くなってエネルギーが高まりました。これだけでかなりエネルギーが高まりました。ヨーガ的に言うところのマニプラ・チャクラが優勢の頃です。

次に胸が引いてエネルギーの質が変わりました。ヨーガ的にいうとアナハタ・チャクラが優勢になりました。
その後、頭のあたりまでエネルギーが通ってきました。

この時点までは下の方のエネルギー、いわゆる地のエネルギーを使っていました。

しかし、頭までエネルギーが通った後、少しだけですが天のエネルギーを使えるようになってきました。
地のエネルギーのように本格的な覚醒はしていないものの、天のエネルギーを少しずつ体にまで下ろしてエネルギーを満たせるようになってきて、体のエネルギーの質が変わってきています。

色々と「愛」だとか「平和」だとか言われていますけど、結局のところ、エネルギーが高まればほとんどは解決するのかなあ... という気も最近してきています。

物理的世界でも世界の抗争の原因はオイルなどのエネルギーの奪い合いでしょう。

精神的にも他人のエネルギーを奪ったり奪われたりという争奪戦が繰り広げられていますけど、世界の構図も人間の構図も一緒なのかなあ... という気も致します。結局はエネルギー問題なのかな、と。

人間のエネルギーも他人から奪ったりしている人、いわゆるエネルギー・ヴァンパイアもいますけど、世界にも他人のエネルギーを奪っている人がいますよね。

本当はエネルギーなんてそこらに溢れていて奪う必要なんてない... というところに状態が進んでいけば世界の抗争も人間の争いもほとんど解決するような気が致します。



クンダリーニを頭まで上げてから心臓に戻す

どの書籍かは忘れてしまいましたので後ほど見つけたら記録したいと思いますが、流派によってはクンダリーニを頭まで上げた後に心臓に戻す流派があるようです。詳しくはグルの指示がなければこの種の行法はすべきではないとは思いますが、これを私なりに解釈すると以下のようになります。

まず、クンダリーニは以前書きましたように「地のエネルギー」ですので、アナハタくらいまでは適応しますが頭より上には適応し辛く、不安定になることがあると思います。おそらくはクンダリーニが危険と言われている所以はこの辺りにあるのかなと思います。エネルギーに対する感度が上がっていなければこの不調の原因を特定することは難しいように思います。

ですから、クンダリーニの地のエネルギーを頭に上げるためには段階的に、まずはマニプラで体に順応させ、アナハタで波動を上げて、それからようやく頭に上げる方がいいとは思いますが、何度か書きましたように、それよりは頭には天のエネルギーを下ろした方がよりスムーズでスッキリするように思います。

サハスララのルートが開いていなければ天のエネルギーが使えませんので、まずはクンダリーニの地のエネルギーを使うことになるでしょう。おそらくはその段階で危険性があるのです。地のエネルギーを頭まで上げることと、頭で地のエネルギーを使うことがまず危険です。更には、地のエネルギーでサハスララのルートを開くことも危険で、少しずつ注意深く行わなくては危ないのかなと思います。

そうして、地のエネルギーでサハスララへのルートが開けてきたら天のエネルギーにアクセスできますので、あとは地のエネルギーを上げることをやめて天のエネルギーを使って上半身を満たしてエネルギー・ルート(ヨーガで言うところのナディ)を開拓して行くのがいいのかな、と解釈しています。

ですから、クンダリーニ的にはこのように、最初は頭まで上げて、後ほどアナハタまで戻す、みたいなニュアンスにもなるのかなと思います。

サハスララへのルートができていなくて天のエネルギーを使えない状態でクンダリーニの地のエネルギーを頭まで上げてアナハタへと戻す、と言うのは、ずっと頭に地のエネルギーを貯めておくと不安定になることがあるので、それはそれで理に適っているような気が致します。そして、サハスララへのルートができたあとは「天のエネルギーを代わりに上から下ろして上半身に満たす」と言うことなのかなと思います。前者はまさに指示そのままですけど、後者も、見方によっては同様に、もともと頭まで上げていたエネルギーをアナハタ(胸)まで戻す、と解釈できなくもないですので、時間軸が短いものと長いもの、両方の視点でどちらもクンダリーニを頭まで上げてからアナハタ(胸)まで戻す、みたいな解釈もできそうです。後者は私の解釈では「戻す」のではなくて、「頭まで上げないようにする」と言うことですけど、神秘行ではあえて(?)分かりにくい表現を使っていたりしますし、まあ、そう言う言い方もできるのかもしれない、と言うくらいに思っています。

・クンダリーニ(地のエネルギー)が使える状態で、天のエネルギーがまだ使えない状態:毎回の瞑想の中でクンダリーニ(地のエネルギー)を頭まで上げて、同じ瞑想の中で胸(アナハタ)あるいは下半身(マニプラ、あるいはムーラダーラ)まで戻す。
・クンダリーニ(地のエネルギー)と天のエネルギーの両方が使える状態:クンダリーニ(地のエネルギー)は胸(アナハタ)まで上げる(流派によってはマニプラとアナハタの中間まで上げる、としているような雰囲気もあります?)。天のエネルギーをサハスララから入れて頭に満たした後にアナハタまでその一部を降ろし、同エネルギーを身体中の隅々まで浸透させる。塊を降ろすと言うよりは頭に充満させた後は水が滴り落ちるかのごとく上から下へ、体の隅々まで浸透させる。

ですから、一部の流派でクンダリーニのエネルギーをサハスララ(頭のてっぺん)から外に逃がす、みたいなことはしなくてもいいのではないかな... と個人的には思います。何故なら、そもそもクンダリーニの地のエネルギーを使うよりも天のエネルギーを使う方が波動が高くて良いと思うからです。地のエネルギーはアナハタ(胸)まで上げて、上半身は天のエネルギーを使う方がより安定するような気が致します。

そもそも、クンダリーニというのは見ようによっては俗称だとも解釈できると思っていまして、背骨のエネルギー・ルート(ヨーガで言うスシュムナ)が開いたときにそこを流れるエネルギーを比喩的に表現したものですので、そのエネルギーが地から来るものもあれば天から来るものもあるわけでして... 地のエネルギーだけを使わなければならないなんて縛りはそこには無いはずです。 であれば、天のエネルギーの方が合っていそうであれば使う、と言う、ただそれだけのお話です。



ムーラバンダが完成すると精が漏れなくなる

ヨーガでそう言うお話がありますけど、私的には、それっぽい感じでエネルギーを止めてしまうと流れが悪くなって下半身の調子が逆に悪くなります。ヨーガのこういった行法はグルの元で行わないと危険と言われていますけど、うまく行うことができていないのかもしれません。ですので、私はムーラバンダはせずに下へのエネルギーは半解放状態で常に繋げています。

ムーラバンダというのはヨーガである3つのバンダのうちの1つで、ムーラダーラ・チャクラのあたり(男性は会陰、女性は膣の奥、子宮の入り口)で行うエネルギー・ロックで、エネルギーの引き上げ効果があります。

その効果として、一部の流派では精が漏れなくなるとか、エネルギーが漏れなくなる、というような解釈をしているようです。その原典がどこに書かれていたのか忘れてしまいましたのですぐには見つけられませんけど。

その流派のグルに付けばその流派なりの体系があってうまくいくのかもしれませんが、私が試したところでは、ムーラダーラあたりは地のエネルギーと繋がっていて、常にエネルギー交換できる状態にしておかなければ体の中に溜まった悪いエネルギーが外に出ていかないような気が致します。

ある程度は地のエネルギーから体に取り込まないと体のエネルギーが枯渇してしまいますので完全に閉じるべきではなく、逆に、あまりにも解放してしまうと地のエネルギーが高まって重い感じになってしまうので開けすぎは良くなく、程々に、体の悪いエネルギーが出ていけるくらい解放にしておくのが良さそうな感じです。

これは、おそらくエネルギーの質にもよるかと思います。ヨーガを始める前はエネルギーの質が「軽い」「発散しがち」(語弊があるかもしれません)という感じでしたので、この状態ではエネルギーが体に保持されにくかったように思います。一方で、ヨーガを始めてから次第にエネルギーの質が「密度のある」「粘着性のある気体」(語弊があるかもしれません)のように変わってきましたので、ムーラダーラから地のエネルギーと繋がっていてもそれほどエネルギーが漏れることはない感じです。

きっと、エネルギーの質によってムーラバンダで固定してエネルギーを高めるべき時と、そうでもない時があるのかな、という気も致します。

ムーラバンダについて、ハタヨガプラピディカには以下のように記されています。

(3-61) [ムーラ・バンダ] カカトで会陰部を圧してコーモンを収縮し、アパーナの気を上方へ引き上げるならば、それはムーラ・バンダとよばれるムドラーである。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」

他にもバンダがありますけど、それらは全てエネルギー制御のためのものです。

今までバンダは割とスルーしていましたけど、エネルギー制御という視点から見たらなかなか理に適っている理屈だと今更ながら思うようになりました。

関連: 馬陰蔵相とムーラバンダ



天のエネルギーと混ぜたクンダリーニを頭に上げる

先日の続きです。先日の時点では、クンダリーニの地のエネルギーは下半身から胸まで、天のエネルギーは上半身、というように区分けをするのが良さそう、と言うお話でした。一方、以前書きましたように天のエネルギーを体中に満たして緊張をほぐす、みたいなことは度々瞑想中に行なっていました。

今日、ふと気づくとクンダリーニの地のエネルギーが天のエネルギーと混ざっていて、随分と違う感じでしたので試しにその混ざったエネルギーを頭まで上げてみましたところ、違和感なく上げることができました。

順番としては以下になります。

・天のエネルギーを身体中に満たして緊張を解す。天のエネルギーをクンダリーニの地のエネルギーと混ぜる。
・その後、天と地のエネルギーが混ざった状態のクンダリーニを頭まで上げる。

これをすると、随分と頭の中が充実した感じがして、なおかつ、以前にクンダリーニの地のエネルギーを上げた時のような違和感はほとんどありません。

天のエネルギーは軽いので天のエネルギーを上半身に満たしてもそれほど活発な感じにはならないのですが、この混ざったエネルギーは随分と力があって尚且つ天の軽いエネルギーの質も兼ね備えていますので、体にとてもよく合っている感じが致します。

以前のようにふらつく感じや違和感、不快感などがほとんどありません。以前は気をつけて行わないと瞑想後にまで緊張感が残ったり目の緊張や意識が合わなくなったりしていわゆる禅病っぽい感じになることもありましたが、今日はそんなことありませんでした。

■ムーラバンダでせき止めたエネルギーを使うとどうなるか?
先日書きましたようにムーラバンダはムーラダーラでエネルギーを止める効果がありますが、天のエネルギーとクンダリーニの地のエネルギーを混ぜる時にムーラバンダして試してみました。・・・結果、うまくいきませんでした。ムーラバンダがうまくいっていないのか、あるいは、しない方がいいのかもしれません。

やりたかったことは、天のエネルギーから下ろす時にムーラバンダして下半身のエネルギーを充満させてからムーラバンダしたまま頭まで上げると良いのではないかと考えたのですが、実際には、天のエネルギーを下ろそうとしたら下半身のエネルギーが既にそこに詰まっているので下半身のエネルギーがムーラダーラ経由で地下に少し逃げていかないと天のエネルギーが入るスペースができない感じでした。天と地が混ざったクンダリーニを頭まで上げるときにムーラバンダした時にうまく上がらなかったのは、おそらくはムーラバンダしていなければエネルギーを上げる時に下半身にエネルギー的空白ができますのでそこにムーラダーラ経由で地のエネルギーが入ってくるのに対し、ムーラバンダしてしまうと地のエネルギーが入ってこれないからエネルギーが動き辛いのではないかと思いました。エネルギーのルートであるスシュムナが土管あるいは注射器のようなものだとすればムーラバンダしていると言うことは土管の片方が閉じられているようなもので、もう片方を動かしてエネルギーの圧力が高まったり弱まったりするよりはもう片方も開けておいて圧力を調整できる状態にした方がエネルギーが動きやすいのは当然なのかなと言う気がしました。これは実験してみてそう感じたことです。



ハートを意識する瞑想

最近はハートのあたりがザワザワといいますかチリチリと微細な静電気を帯びた感じになってきています。
一方で、以前のように眉間に集中しても大した変化はなく、眉間の肉体的な集中感はありますがザワザワ感はほとんどありません。今はザワザワ感はハート中心になってきています。あとは時々、ムーラダーラの会陰で静電気のザワザワ感があるくらいです。

ハートのザワザワ感を感じて瞑想していると、体の背骨に沿ったいわゆるスシュムナというエネルギー・ルートを感じることができます。

特に、喉のあたりに圧力を感じます。以前度々感じたような喉のイガイガ感ではなく、単なる圧力です。喉がプクッと膨らんだような感じですので、おそらくは喉のヴィシュッダ・チャクラのあたりにまでエネルギーが充満してきているのかなと感じます。

この状態で下半身のエネルギーを回転させてから頭まで上げると、前日書いたような理由からエネルギーが軽くなっていると思われて頭の中でエネルギーがすぐに発散しました。同様に、天のエネルギーを頭から入れて胸のあたりまで詰めようとしても、エネルギーがハートのザワザワ感のあたりで発散してその周囲にすぐに吸収されてしまう感じになりました。

ですので、今はエネルギーを詰めるという感じではなく、それぞれ地のエネルギーも天のエネルギーもハートの外側の上下でそれぞれ動いていて、ハートがそれらを統合している、という感じになってきています。

以下を違和感ない程度にそれぞれ統合して行なっている感じです。

・天のエネルギーをサハスララから入れて上半身に満たす。
・天のエネルギーを下半身や体の隅々まで浸透させてエネルギーを柔軟にする。
・天のエネルギーと混ざって柔軟になったクンダリーニの地のエネルギーを頭まで上げる。
・ハート(アナハタ)が地のエネルギーと天のエネルギーを統合する要になる。

これをしばらくすることでエネルギーが満ちてエネルギーの質も均一化されてくると、次第に天のエネルギーを降ろさなくても充実した感じになってきました。その状態で瞑想をしたのですが、呼吸を吸った時にエネルギーが下半身から頭まで上がり、吐く時に頭から下半身に下ろすようにすると身体中が満たされた感じになって行きました。それでいて以前のように頭のあたりに違和感があったりせず、調子が悪くなることもありません。

■これぞ小周天あるいはソーハム瞑想法?
今まで小周天やソーハム瞑想法(ソーハン瞑想法)をしてきたつもりでしたが、この状態になってようやく小周天あるいはソーハム瞑想法(ソーハン瞑想法)と言えるのかな、という気になってきました。

この状態ですと、エネルギーの束のようなものが背骨のいわゆるスシュムナというエネルギー・ルート上に充満して充実した感じになっています。そのエネルギーの束の中で上下にエネルギーが循環するのです。

小周天のように体の表面を回るという感じではないので、小周天とは言わないのかもしれません。最初の頃に試した小周天は体の表面を空気の集まったようなコインくらいの大きさのものが動く感じでした。今はそんな空気の集まりはなくて、体全体をスシュムナ沿いに上下にエネルギーが動いている感じです。

■全身周天
「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」によると、小周天の後は古典的には大周天ですが、同氏が全身周天と呼ぶものがその中間にあるといいます。

やがて陽気は、小周天のときのような線状の感じから、棒状の太い感じに変わってくる。(中略)陽気はだんだん太い感じになり圧力をもつ。(中略)小周天を行い頭部に陽気を上げただけで、あとはひとりでに、陽気が腕や足の末端まで流れていくようになる。(中略)全身に満ちた陽気はどんどん強まり圧力をもってくる。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」

これはよくわかります。今の状態はエネルギーの圧力が高まってきています。比べてみると、私の場合はもうちょっと手足の先まで満遍なくエネルギーを充満させた方が良いようなことが書かれてあります。私はどうも背骨のスシュムナを意識しすぎているというか周囲までまだ気が回っていないようです。

これは陽気が体の奥のほうまで達したことを意味する。(中略)ここまでくると、普通は、ひとりでに陽気が体から空間に放射しはじめる。(中略)この空間は、自分の意識ともつながっていて、その縁に触れた気をすばやくキャッチできる。(中略)ここまで達すれば、全身周天はほぼ完成である。あとは、この生体エネルギー的空間を、意識でコントロールできるようにするだけである。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」

このあたりは私の場合、まだのようですね。それとも、表現の違いだけで、オーラの接触による雑念の感知とかがこれを意味しているのであればある程度できているとも言えますが。どうなのでしょう。まあ、とりあえずこれはあまり気にせずスシュムナにエネルギーを通す瞑想を続けてみたいと思います。



地のエネルギーを取り入れる瞑想

以前はクンダリーニの地のエネルギーを頭まで上げつつ天のエネルギーを取り入れて瞑想したわけですけれども、その時、地のエネルギーとは言いましても下半身にあるクンダリーニのエネルギーを使っていたわけですが、ここに来て地下から地のエネルギーを取り入れてみました。今まで地下のエネルギーを使うのは避けていたのです。と言いますのも、以前にも少し書きましたように地下のエネルギーはちょっとネバネバしていてちょっと腐臭といいますかおしっこの匂いがする子供のようなエネルギーですので、ムーラダーラ経由で下半身に取り入れるとお腹が拒否反応を示していたからです。

今日、改めて試してみようと思ったのは、天のエネルギーを下半身まで循環させていたので少し違うかなと思ったから試してみたわけですが、結果はといいますと、ある程度は読み通りでした。この状態で地のエネルギーを地下から取り入れるとそれほど不調にはなりませんでした。

ですが、しばらくすると体の地のエネルギーが若干優勢気味になってきたのか頭がクラクラしてきましたのでバランスを取るために天のエネルギーを取り入れようとしたわけですが、一旦地のエネルギーが優勢になるとなかなか天のエネルギーが優勢にならなかったです。

今回試したことにより、今までと違って地のエネルギーも使えることがわかったわけですが、注意が必要なこともわかりました。

今まではムーラダーラから自然に流入してくる地のエネルギーが下半身で少しずつ体と順応するに任せていたわけですが、意識的に地のエネルギーを取り入れることもできるわけですね。

ですが、そのエネルギーの質というものが違いますから、そこは注意が必要なようです。

私の場合、上半身が天のエネルギーが優勢でないとフラフラするような感じが致します。他の方はどうなのか知りませんけど。



集中の瞑想から観察の瞑想へ

■初心者の瞑想
集中します。集中がこの段階での瞑想です。眉間などに集中します。この段階では、小難しい理屈は考える必要ありません。
この時、あまり長い瞑想をしないようにします。不快感が出てきたらすぐに瞑想を中断します。

■瞑想に少し慣れた状態。観察ができてくる前
心だけが存在していて、観察できていない状態が長い間続きます。雑念が多い状態です。
心がロジックで「観察している」と自分を誤魔化したりする段階です。
この段階でも、あまり長い瞑想はしません。
古典的には瞑想はグル(霊的教師)につくべきだ、とされておりますので、気をつけて行いましょう。

■観察ができてくる
観察が全く違う視点で現れてきます。観察しているのは心ではなく、心が観察しているのではなく心の背後に観察者が存在していることを理解します。

■観察ができてくると、瞑想とは集中のことではないと理解できてくる
瞑想のきっかけに集中が使われます。しかし、その後は集中しません。集中することで意識を統一してふらつかないようにした後、観察をするのがこの段階での瞑想です。

一般にはサマタ瞑想(集中瞑想)とヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)とがあると言われていますが、これは流派の違い、あるいは、段階の違いで表現が異なってきます。流派によっては同じことをサマタ瞑想と呼んだりヴィパッサナー瞑想と呼んだりします。しかし、本質はどちらも変わりません。その筈です。

瞑想のために、最初は集中を行います。この段階における集中は瞑想の目的ではなく、手段です。

観察の瞑想(ヴィパッサナー瞑想)に辿り着くには手段としての集中が必要です。その集中瞑想をサマタ瞑想と呼ぶかもしれませんし、流派によっては集中であってもヴィパッサナー 瞑想と呼ぶかもしれません。呼び方は流派ごとに違えども、やっていることはそう変わりありません。最終的に瞑想の目的は「観察」になります。サマタ瞑想(集中瞑想)であってもそれは観察になっていくのです。このあたりは以前にも少し書きました。

本質はサマタ瞑想でもヴィパッサナー瞑想でも一緒なのですが、観察については流石にヴィパッサナー瞑想の方が詳しく述べられている気が致します。例えば以下の文章です。

ヴィパッサナーの目的は、何にも妨げられることなくひたすら呼吸に集中することではありません。(中略)ヴィパッサナーの目的は、途切れることなく気づくことです。気づく、この気づくことによってのみ、覚ることができるのです。「マインドフルネス 気づきの瞑想(バンテ・H・グナラタナ 著)」

視点が違うだけでサマタ瞑想も同じです。サマタ瞑想の目的は眉間やハートや呼吸に集中することではありません。サマタ瞑想の目的も同様に、途切れることなく気づくことです。言い方が違うだけのお話です。 時々、このことで言い争いになったりしているようですけど、私は、表現が違うだけだと思っております。

ですから、一般的に瞑想は集中から始めますが、瞑想とは本来、観察のことです。

一般的には集中だけであっても瞑想と呼ばれますし、観察も瞑想と呼ばれます。ですから、瞑想と言った時に何を意味するのかコンテキストによって異なってきます。

瞑想においてはまず集中することで心を落ち着かせていわゆる雑念を抑え、体の感覚などを観察するのです。あるいは、瞑想中に雑念が出てきたら集中して雑念を抑え、そして再度観察して瞑想を再開するのです。

その時、眉間に集中したりハートに集中したり息に集中したりします。流派や、人によってやりやすさが異なるでしょうから先生の指示に従うかあるいは選んでも良い流派の場合は選びますし、先生がいなければそれぞれ試してみたりすると良いでしょう。


何度か書いたことではありますが、改めて少し書いてみました。



寝るときに聞こえた不気味な呟く声

寝る時に体が帯電していてハートから電気というかオーラが身体中に飛び出てゆらゆら動いているような感じになっていました。

今日は遠出をしたので疲れたのかな... と思ってそのまま寝ようとしたのですが、その状態で目を瞑っていたら、何やら意識が「後ろ」に次第に引き込まれていって、視線も後ろに行く感じで、まるで(スタートレックやスターウォーズでの)「ワープ」の逆方向(後ろ方向へ進む)のような感じになっていました。

そして、ふとその速度が上がって意識が圧縮された不思議な感じになったかと思ったら、おそらくオーラというか幽体がちょっと体からズレた状態になったのでしょうかね。幽体っぽいものがちょっとだけ頭の上、頭の斜め上方向にズレた感じになりました。

何とも中途半端な感じで幽体離脱っぽくなったかな??? と思っていたのですが、その状態はあまり心地の良いものではありませんでしたのでおそらく30秒もしないうちに意識的に感覚を戻して元に戻ったのですが、その何十秒かの間に、ちょっと不気味な感じになりました。

特に不気味だったのが、頭の右上すぐのところで、明らかに他の意識体の声で、まるで念仏のようにブツブツと呟く声が聞こえてきていたのです。ちょっとゾッとしました。内容的には延々と、途切れなく「アリガトウゴザイマスアリガトウゴザイマスアリガトウゴザイマスアリガトウゴザイマス...」と繰り返す感じなのですが、こんな均等のトーンで繰り返す内容でもないので、まるで感情の入っていない念仏のようで不気味です.... 何だこれ...

まるでホラーでした(苦笑)



偶発的な霊視

神智学協会のC.W.リードビーターによりますと、完全な目覚めには至らなくても偶発的に透視が起こると言います。

完全な目覚めに至らなくても、人はしばしばアストラル的領域を垣間見ることがある。特別に強い波動は、蛇の火が全く活動していなくても、いつでもチャクラを活動させることがあるからである。また蛇の火がいくらか活動を始めて、発作的な透視がしばらく生じることもある。(中略)次第に深く掘り下げてゆくことによって、この火の表層が刺激されるだけに止まらず、火の核心そのものが全面的に活動するまでに至るのである。「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」

これは私にも覚えがあって、ふとした拍子に他の人のオーラの表層にとてもはっきりと視覚的にその人の生活の一面を垣間見たことがあります。10秒前後続きました。その間、一瞬消えることはありましたが10秒ほどの間、ずっとその人の生活の一部が見えていました。

それはたしかクンダリーニ覚醒の第2回目、マニプラ優勢になったばかりの頃だったと思います。その後はそんなこともありませんので、おそらくは一時的にアジナかどこかが活性化して透視の能力が出たのかなと思います。これぞ偶発的な透視、というものだと思いました。ちょうど1年くらいまえの事ですかね。

一種の勘のようなものでしたら以前からずっとありましたし、直感としての透視であれば想像上のものであってずっとありましたけど、その時はまるで物理的なディスプレイが現れたかと思 うくらいはっきりと肉眼で見えるかのように見えていました。

てっきり、透視ができるようになっても想像とか夢とか、その種の直感的なものかとばかりずっと思っていましたので、その時は、まるで肉眼で見えるかのように見えたのには驚きました。こういう風に見えることもあるんだ、と。

その人はちょっと情緒不安定でしたのできっとオーラが発散していて読み取りやすい状態になっていたのかなぁ、という気もしますし、相手の守護霊があえて見えやすくしていた可能性もあるにはありますけど。

どちらにせよ、あんなにはっきり見えたことには驚きました。

とは言いましても、おそらくあれは肉体のレベルに近い、いわゆる低いレベルの透視だったのかなぁ、と今は思います。見えているのは単に生活の一部ですし、深い洞察やその場面の裏側に横たわっている背景までが見通せるわけでもありません。ただ単に過去の一場面を見たというだけで、それはそれで面白いことではありますけど、見たからと言ってその人や私の精神的成長の役に立つかと言われると、ほとんど役に立たないと思われるわけです。

おそらくは本当の上位の透視はそんな生活の場面ではなくもっと深いところが見えるのだと思っています。

そこまで行くのはまだまだ遠い道のりな気がしますけど。



イダとピンガラの覚醒

■スシュムナ、イダ、ピンガラの通説
ヨーガではエネルギーの通り道、いわゆる経絡のようなものをナディと呼んでおりますが、これら3つは主要なものです。
以下はヨーガ行者の本山博先生の書籍に載っている図です。「密教ヨーガ(本山博 著)」より



このように、スシュムナは背骨に沿っていて、イダとピンガラはそれら周囲を螺旋状に回っています。イダが左、ピンガラが右です。
これがヨーガにおける通説だと思います。

■クンダリーニの比喩
インドのリシケシにあるヨガニケタンを創設したスワミ・ヨーゲシヴァラナンダによると、以下のように記されています。

脊髄は、中空の管のようになっており、その一般的な形は蛇のような形をしていると言って良いでしょう。ですから、脊髄中にある光り輝く微細な導管が、比喩としてクンダリニーという名前で呼ばれているとも言えるわけです。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」



体の左右にそれぞれスシュムナを図示したものが描かれています。右に描かれている2番が実際にスワミが霊視したもので、左に描かれている3番が通説でヨーギに伝えられているものです。そこに類似性を見て取れます。

■イダとピンガラの比喩
イダとピンガラは上図の通りグルグルと螺旋状に回っているとのことですが、私は自分の経験として螺旋状のものを認識できておりません。

と、言いますか、ちょうど1年くらい前に経験したクンダリーニっぽい経験ですが、どうもこれはクンダリーニではなくイダとピンガラの目覚めだったのではないかと最近思うようになってきました。

鍵になるのは、当時の記事にある以下の部分です。

腰あたりに2つの小さなエネルギーが発生し、左右それぞれ1本づつ光のエネルギーの光線が腰から目の上の頭蓋骨あたりに向けて2〜3秒かけて真っ直ぐ上昇し、頭蓋骨に当たってちょっと曲がったところで停止。そのまま10秒ほどエネルギーの筋はそのまま保っていたのですが、やがてエネルギーが消えてゆきました。(過去記事より引用)

こう思うようになったのは、上と同じスワミ・ヨーゲシヴァラナンダによる記載です。

■イダとピンガラは直線
スワミ・ヨーゲシヴァラナンダは以下のような図を示しています。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」より



スワミは、同書でスシュムナのことは多く記載しておりますが、イダとピンガラが螺旋だとか真っ直ぐだとか、そのあたりに関する記述は見つかりません。スワミは自分の記載は実際に瞑想して霊視したものだと言っておりますので、この図も正確な筈です。それとも、本当はグルグルとスシュムナの周りを回っているのにも関わらずこのような真っ直ぐな図を描いたのでしょうか? そうは思えません。であれば、イダとピンガラは真っ直ぐだ、というのがスワミの主張のような気が致します。

であれば、私の違和感もなくなります。

約1年前にあったクンダリーニっぽい経験ですが、1本ではなく2本の光の筋が「真っ直ぐ」登ったので、これがクンダリーニなのかイダなのかピンガラなのかはっきりと判別できずにいました。

このスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの記述が正しいのであれば、私の約1年前の経験はスシュムナではなくイダとピンガラが目覚めたのだ、と解釈できます。

このあたり、以前に少しSwami Satyananda Saraswatiの言及を引用しました。同氏のKundalini Tantraによると、スシュムナからクンダリーニを上げることが通例のようになっているけれども、古典には必ずしもスシュムナから上げる必要はないと記載しており、ピンガラからは外部に働きかける力を得て、イダは魔女のような透視能力、スシュムナは生きながらの解脱を得る、と書いてあります。

私は今のところそんなすごい変化はまだありませんけど、以前よりも自分の状態に納得がいった感じです。

その後、真っ直ぐ中央を駆け上るようなクンダリーニ上昇は経験しておりませんけれども、オーラの優勢は上の方に少しずつ変わってきておりますので、私の場合、スシュムナは少しずつ活性化してきているのかなぁ、と思っております。

■スシュムナから目覚める人と、イダとピンガラから目覚める人がいる?
以前引用したゴーピ・クリシュナによるクンダリニー体験ですが、彼はどうやらピンガラから最初上げて死にそうになったようです。

ヨーギの中にはイダとピンガラより前にいきなりスシュムナから上げる人がいて、だからイダとピンガラに関する記述が少ないのかなぁ... という気がしました。そうであれば納得がいきます。

私の場合、おそらくはイダとピンガラを同時に活性化したのでおかしくならなかったのだと思います。もともと私の内なるガイドから説明があって、いきなりスシュムナを活性化させると不安定になるのでこの方法でやるよ、とのお話でしたので、それはこういうことだったのか、とようやく納得できました。内なるガイドの案内なしにイダとピンガラどちらからか活性化させていたらおかしくなっていたかもしれませんし、いきなりスシュムナを活性化させたら、それこそ危険だったような気が致します。

その上で、おそらくはスシュムナが目覚めればイダとピンガラも(少しずつ)目覚めるし、イダとピンガラが目覚めれば(少しずつ)スシュムナも目覚めるのかな、と思います。そんな気がしています。

であれば、私の場合はまずイダとピンガラが目覚めた後、少しずつスシュムナが目覚めてきているのかなと思います。

■スシュムナ、イダ、ピンガラ、いずれも真っ直ぐだが、行法あるいはエネルギー操作の方法として「回転」がある
そういうことかな? という気も致します。

■スシュムナの先は螺旋状になっている
スワミ・ヨーゲシヴァラナンダは以下のように記載しております。

クンダリニーは(中略)ちょうど蛇のように男根状のものの回りを三巻半しながら、全体が貝殻のような形となって眠っております。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」

このことは通説でも多くのヨーギが言っておりますが、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダが言うのですから、それはそうなのでしょう。

であれば、イダとピンガラがグルグルと回っていると言う通説は間違いであるが、クンダリーニが螺旋状に蛇のように眠っている、と言うのは正しいのだと思います。

だから、ヨーガのクンダリーニ覚醒行法で螺旋状の動きが重要になってくるのかな、と思います。

きっと、その行法がごっちゃになってイダとピンガラが回転しているかのような誤解が生まれたのかな... という気も致します。

まあ、仮説ですけどね。

■時系列
以前に書いたものを少し修正しておきます。

  • 2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。
  • 2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分
  • 2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分
  • 2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。
  • 2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後
  • 2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。
  • 2018年11月 イダとピンガラの目覚め(第2回目のクンダリーニ体験)。マニプラ優勢になる。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブランマチャリア(禁欲、ブラフマチャリア)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。
  • 2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。アナハタ優勢になる。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1)
  • 2019年9月 ムーラダーラの活性化。 足の気力が少し増加。足の感覚が少し敏感になる。手の感覚も足ほどではないが少し敏感になる。「におい」に敏感になる。「におい」だけで「味」も感じるようになる。淀んだ空気(の匂い?)が苦手になる。いわゆるグラウンディングの力が若干上昇。他人の淀んだオーラによる自分への悪影響が低下し、自立力が高まる。優勢なのは依然としてアナハタ。


歯痛や疲れている時は予知の感覚が働かないようです

数日前から親知らずの根本が痛み出して抜く予定なのですが、歯が痛いと予知能力が鈍りますね。

旅行中に疲れているとスリなどにあいやすいのと同じで、スリにしても元気ですと予知能力が働いてあらかじめ避けられますけど、疲れていると予知能力が働きません。と言いますか、働いているとは思うのですが感知能力が鈍ってしまっているようです。

ここ数日、自転車に乗ったら他のバイクや自転車の動きが読めずに衝突しそうになったり、歩行者をひっかけそうになったり、ほんの1km前後の移動でしかないのですが、その間に何回か危ない場面がありました。こんな短い距離でそんな頻繁に危ない状況になることは今までほとんどなかったのです。

ただでさえ歯が痛くて注意散漫になっている上、普段の予知の感覚が働かないので、二重の意味で危なかったです。

親知らずを抜いて数日は痛みが続くようなので、抜いた後もしばらく気をつけたいと思います。

この状態でする瞑想もあまり深くは入れませんので、しばらくは瞑想も軽くするだけですね。

病気の時は精神的な成長のチャンスの筈なので良い方向に捉えたいです。


[追記 10/19]
下の親知らずを抜きました。油断大敵。親知らずって怖いですね。
抜く3日くらい前から親知らずの周辺が智歯周囲炎と言う炎症になって夜もあまり眠れないくらい辛い痛みが数日続き、単なる虫歯かと思っていたら親知らずが原因でした... 親知らずを舐めていました。こんなに辛くなるとは。痛くなったので無理言って当日に診察してもらったら、腫れているし当日は時間がなくて抜けないので抗生物質と痛み止め(ロキソニン)を処方してもらって、その数日後、ようやく昨日抜いてもらいました。
抜いたら、炎症の痛みはほとんどなくなりました。こんなにスッキリするのならばもっと早く抜いておけばよかったです。
でも、抜いたことによる傷口と炎症がまだ残っているせいか、今日は抜いたところを中心にとても熱っぽいです。脇の下の熱が37.0度なのに口の体温は37.7度もあります(苦笑) 額も熱いし。
今まで、下の親知らずは抜かない方がいいと言われていたので抜かなかったのです。ブラッシングでマッサージすればなんとかなると言われていたのですが、今回はブラッシングでは無理と言われて抜くことにしました。
結果としては、抜いて良かった! のですが、今日は熱でツライ...
来月はもう片方の(下の)親知らずも抜いてもらいます。こっちはもっと埋まっているらしいです...

今は、痛みが出たり出なかったり、不思議な状況が続いています。
・施術中:麻酔の針が気持ち悪い。もともと血が苦手。歯医者も苦手ですが、私が行ったところは新しいのでそれでも痛まない方らしいです。昔はどれだけ辛かったのでしょう...
・施術後1時間くらい:同じく気持ち悪い。寝込みたいくらい。
・2時間後:急に気分が良くなってきた。痛みもない。炎症の痛みもなし。
・その夜:快適
・翌日の午前中〜午後:快適
・翌日の夕方:夕食後、急に熱が出てきて上記のように変化
・と思ったら、その1時間後くらいに急に熱が治ってきたのです。なんだこれ... 過渡的な反応だったのでしょうか... まだ微熱がありますけど。今日は調子が良かったのでちょっと外出して買い物などしていたので抵抗力が落ちていたのかもしれないです。あるいは、食べたものが傷口に挟まったとか、飲み物が炎症に反応したとか。どちらにせよ、あと数日は無理せず落ち着いていた方が良さそうです。

私の症状よりももっと酷い場合は大学病院とかで入院する人もいるらしいです。私はそれでもまだ軽傷のうちに歯医者行って薬もらって抜いてもらったのでこのくらいで済みそうです。これが長期旅行中だったりしたらもっと怖かったですね。

今年は骨折にしろ何にせよ身体的には辛いことが続いています。一方、精神的には進歩が見られるので辛いことも精神的な成長の糧かなとも思っています。



霊とマニプラ

胃のあたり、いわゆるマニプラ、ソーラプレクサス・チャクラと霊との間には関係があるようです。

ヨーガの大家、本山博先生は以下のように説明されています。

マニプラチャクラの目覚めは、霊の世界にヨギを目覚ませるように思います。「密教ヨーガ(本山博 著)」

実はここ数週間、特に先週から身内の入院・危篤・葬儀まで立て続けに起こり、人の死に立ち向かいました。親戚の葬儀に参列するのと入院中や最後の瞬間に立ち会うのとではかなり認識の違いがありました。親戚の葬儀に参列するだけでは人の死に対して深く思い描く機会も少なかったのですが、今回のことで色々と学びもありました。

■マニプラで霊を感じる
人の最後の瞬間に立ち合い、葬儀をしていると、特に、胃のあたりにジワジワと感じるものがあって、胃のあたりが弱まるのを感じました。胃のあたりにあるのは、いわゆるマニプラ・チャクラです。これは、単に疲れというだけではないと思います。何かメッセージを受信しているような、そんな感じです。疲れてうとうとしている時とか夜の夢の中でイメージを感じたのです。その時、死んだ霊が漂って見ている世界を私が垣間見たような気が致します。それは、死んだ霊が見ている場面を私が感じる、ということです。

死んだ霊が特に苦しんでいるというわけではなさそうなのですが、故人の職業の最中に見たであろう視界が色々と延々と見えてくるのです。延々と続いていて、これは夢と言っても、死んだ霊が実際に自分が生きていた頃を回想しているのかなあ... と思いました。それがマニプラのあたりを伝わってイメージとして伝わってくるのです。

少なくとも苦しんでいるわけではなく、もうしなくても良い自分の職業を死後の世界でも続けているのかなぁ... と思うと、目覚めていない魂はこうなるのかな... とちょっと悲しくなりました。でも、苦しんでいるわけではないのが救いです。

時々、その故人の顔が思い浮かびます。これはきっと、思い浮かぶというよりは実際に漂っている、あるいは、そこに眠っているのかなと思います。苦しんでいるわけではないのですが、まだ意識は眠っている感じです。そのうち目が覚めるのでしょうか。49日になるまで霊は地上を漂うと言いますけど、どうなのでしょう。最長が49日、というお話もありますね。

■私の感情
入院中、意識が少し戻ったりして動いていた体が少しずつ弱まって遺体に変わってゆく最後を何日にもわたって看取るのは初めてでしたので色々と思うことがありました。

ここ数週間でいわゆる喪失感、悲しみ、思い出などを次々と体験することになったわけですが、勉強したり瞑想したりしてあの世のことや世界のことを学ぶのは必要だとしても、実際に直面してみるとわかるものがあります。

頭では霊は転生するとか理解していたとしても、実際の感情面やマニプラのレベルでは喪失感や共感、悲しみといったものをしっかり感じるわけです。アナハタ以上のレベルではそのような悲しみはありませんけど、アナハタ以上の感覚で安定した感覚を保ちつつも下半身のマニプラ以下ではしっかりと悲しみを感じているわけです。人間というのは一枚岩ではなくて、悲しみが全身を覆うのではなく、チャクラによって状態が違うのだな、と今回は学びました。

もしかした人によっては全身同じ、という人もいるのかもしれませんが、私の場合はこんな感じでした。もしかしたらアナハタが閉じ気味でマニプラ優勢の場合は感情が優先するのかもしれませんけど。

アナハタ以上の高い波動の神の世界の視点だけで人間が生きているわけではなく、低いマニプラ以下の視点もあるのが人間で、アナハタ以上の高い波動だけでなく低いマニプラ以下の波動も持っているからこそこの地上を生きられるのであって、マニプラにおける感情としての悲しみを感じるのも必要なのだと改めて思いました。

人によってそのバランスは違っているにしても、アナハタ以上の高い波動だけ持っていてマニプラの悲しみがない人間というのも何だか違う気がしますし、そもそも人間界に生まれるということは様々な感情を味わうことを学ぶことでもある筈ですから、マニプラもしっかり動かしてみるのがいいのかな、という気も致します。

それでもきっと、やがては人類の成長はアナハタ以上に進んでいくのでしょうけど、今の世界ではまだまだマニプラ的要素はこの世界で生きるのに必要かなと思います。

■やがて迎えがやってくる
私が子供の頃に幽体離脱して理解したことに基づきますと、死ぬとやがて縁のある人(霊)が迎えにきます。
ですから、きっと今はまだ死んだばかりで夢見のような状態で微睡んでいるのだと思います。



地縛霊と守護霊は紙一重

先日の続きです。

死んだ後、地上への欲望に縛られると地縛霊になり、天へと帰ることができれば守護霊や高級霊になります。

地縛霊は黒いオーラを帯びていて、それはまるで地獄の黒い炎のように見えます。これはもしかしたら仏教でいう地獄の烈火として言い伝えられているものかもしれませんが、オーラが黒くなってゆらゆら揺れているので炎のように私には見えました。

■霊を繋ぎ止める
身内がいよいよ死ぬとなった時、そのまま死んでしまうと霊がどこかに夢見の状態のままフラフラと行ってしまい、行方不明になって救われないと直感で感じましたので、そうなってはいけないので私のオーラと結んで繋ぎ止めておくために私がインドのリシケシで買ってきた木のブレスレットをお守りとしてつけたまま火葬してもらうことにしたのでした。

そうして身内は火葬して骨壺になってしまったわけですが、その魂はちゃんと繋ぎ止められていました。

その身内はもともと素行があまり良くないと言いますか、割と一般的な人でしたので世間的な欲望に沿って生きていて、一般社会ではそんなものかなと思ったりもするのですが、そのように悟っていない状態で死んでしまいますとなかなか苦労しそうなことが直感でわかりました。

上で書きましたように、まず、死んだ後に未だに地上への未練が残っていますので地縛霊になる可能性が非常に高いです。

欲望があってもそれほどでなければ身内が迎えにきて天に登ることもできるのですが、聞く耳を持たない性格ですとか、自分が死後の世界を受け入れないでいると苦労するようです。死んでいるのに死んでいないと思い込んだり、死んだら無になる筈だからとか思い込んでいて身内の呼びかけに答えなかったりするようです。

■黒いオーラ
今回の場合は身内の霊が黒いオーラで囲まれて地獄の黒い炎のようになっていました。このままですと周囲が見えなくて、本人は眠りの状態のように延々と欲望のイメージと言いますか夢のようなものを見るループに落ち込んでしまい、抜け出すことが困難になってしまうかもしれません。

人によっては多少は人生の振り返りなんてするようですけど、それはこのようなループに落ち込んでいる場合のことで、ある程度悟っている魂の場合は人生の振り返りなんて生きているうちに済ませていますのでそのまますんなり天に登ることができるようです。

今回の場合、まず私が木のブレスレットで結び付けておきましたので、葬儀が終わって家に帰っていたら、どことなくずっと繋がっているのを感じました。ここまでは想定通りです。

■夢見のループ
そして、とりあえずその晩は寝たら、その身内が死後の霊の状態で見ているであろう映像が私の夢と繋がって延々とループで見せられました。これはキツい(苦笑)

まあ、霊が苦しんでいたり悲しんでいたりしないのが幸いですけど、このままループを続けたら更に何も見えない暗闇にもっと落ち込むかもしれません。その危険性があると思いました。

■瞑想で状態を見極める
ですので、翌日、瞑想をして状態をまず見極めることにしました。

そうしたら、まさに上に書いたように魂が黒いオーラを帯びていて地獄の黒い炎のようにゆらゆらと揺れて私の視界全体を覆うくらいの大きさで漂っていたのが直感で見えたのです。しかも、かなりドロドロとしたオーラを帯びていて、そのままにしておいたら地縛霊になってしまうかもしれないと直感で思いました。私の肌がゾゾゾっと感じるくらいの黒い濁ったオーラです。

瞑想に入ってすぐにこれが見えたのでちょっとビビりました。

他人でしたら自分との間に結界を張ったり九字切りしたりして追い払うところですけど、身内ですので、色々と試してオーラを浄化してみることにしたのです。

■浄化する
最初試したのが、自分のオーラから光を放って地縛霊になりかけの霊に変化がないか見極めました。結果、少しだけ肌感覚に変化があって、最初はかなり肌にゾゾゾっと感じていたのが、少し弱まりました。オーラがちょっとだけ浄化されたようです。

次に、ヨーガのマントラを心の中で唱えてみました。これもちょっと効果があるようですが、一定以上の変化はなさそうに感じました。

次は、アジナから光を出すイメージをしてみました。これは効果があるのかないのか不明でした。

そして、先日から行っていたように天のエネルギーを下ろして、自分にではなくその霊の黒いオーラに浴びせたところ、これはかなり効果がありました。何度も何度も行わないと変化がなかなか現れませんでしたが、ひとまず、応急処置としてはかなり浄化ができたかなと思っております。

最初感じた肌のゾゾゾっというおぞましい感覚はほとんどなくなりました。

まだ完全ではないにせよ、いきなり1日で悟るわけもないですし、地縛霊を防ぐという意味ではとりあえず十分ではないでしょうか。

■顔が見えるようになる
霊が黒いオーラに包まれていた時は顔が全く見えなかったのですが、今は半分眠っているような細い目の顔が見えるようになりましたので、まだ意識としては寝ているのかもしれませんけどオーラは浄化されつつあるように思います。先ほどの瞑想である程度の天のエネルギーを充填したので、身内の霊は割と元気になった感じです。

まあ、まだ霊はこのまま寝ている状態がしばらく続くと思いますので、迎えが来るまでは度々このようにして天のエネルギーを満たしてあげて地縛霊になるのを防ごうかな、と思っております。

■葬儀での住職の役割
おそらくは、本来のお寺の住職の葬儀における読経の役割はこんなところにあるのかなぁ、と思ったりしますけど、全員がその能力があるようにも思えませんから微妙なところです。能力があったとしてもお経を何回か唱えたくらいで救われるとも限りませんからね。やらないよりマシというくらいかもしれませんけど。単に見様見真似で唱えても効果があるように思えませんし。

■オーラを食する
この種の黒いオーラを帯びている人は自分で地や天のエネルギーを取り入れることができないので、他人のオーラをもらうしかないようです。ですから生きている間は肉を食べたり植物を食べたりしていたわけですけれども、死んでしまうとどうしていいのか最初はわかりませんのでどんどんと黒くなっていくような気が致しました。死んだ後の状態に慣れれば同じように周囲からエネルギーを貰えばいいみたいですけど、オーラを閉ざしているというかエネルギーの通り道が詰まっているとうまく取り入れられないようです。

そんなこんなで死後にエネルギーを取り入れることができなくて黒いオーラになってしまっていたわけですが、お寺の住職や葬儀でお祈りをする時のエネルギー供給は意外に重要なのかもしれませんね。

悟っていればあまり関係ないみたいですけど、悟っていないと死後すぐにエネルギーを供給してもらうのは重要なのかなあ、と今回のことで思いました。

■紙一重
ですから、もしかしたら地縛霊と天に登る霊(やがて守護霊や高級霊になる)は紙一重なのかなあ、という気がしました。

■職業としてやるのは微妙
これ、今回は身内ですから良いですけど、他人ですとオーラが混ざるので色々なものを拾ってしまうので嫌だなあ、と思いました。実力のある住職とかスピリチュアルのヒーラーとかは時々こういうことしてたりしますけど、めちゃくちゃ大変な割に相手には理解されにくいので大変そうです。



天のエネルギーを真っ直ぐ下ろして取り入れる瞑想

ここ最近は天のエネルギーを上半身に満たしたり、地のエネルギーを取り入れたりしていたわけですけれども、天のエネルギーを取り入れるときはグルグルと回転させて下ろす必要がありました。

ここ最近の瞑想で、スシュムナを上下に延長したパイプ、一部のスピリチュアルで言われている、自分の上下に繋がるパイプのようなものを感じるようになりました。今までは自分の体の範囲しか把握できていなかったのです。

その感覚を探っていくと、どうも頭の上のサハスララの上のあたりにゴミのようなものがパイプに詰まっているのを感じ、ここしばらくの瞑想ではその周囲のエネルギーを上下に動かして詰まりを取ろうとしていたのです。瞑想中でそれが取れた感覚はなかったのですが、ふと先日に瞑想をしてその辺りを探ってみたら、いつの間にかその詰まりのゴミがなくなっていて、パイプの中を上下にエネルギーがスムーズに動くようになっていました。

その状態で瞑想をすると、以前のようにグルグルと天のエネルギーを回して下ろすことなしに、そのまま真っ直ぐ素直に天のエネルギーが降りてくるようになりました。

地のエネルギーも同様です。意識するだけで地のエネルギーと天のエネルギーが入ってくるようになりました。

どうやら、今までは何かが詰まっていて流れが悪くなっていたからグルグルとエネルギーを回転しなくてはいけなかったのかな、と解釈しています。

であれば、これからは地のエネルギーも天のエネルギーも素直に取り入れることができるのでしょう。

■一部のスピリチュアルで言う「カー」
例えば「ハトホルの書(トム・ケニオン著)」には以下のような図が記されています。

この図ですと上下の線が切れていて横から入るように見えますけど、私の場合は上下のパイプがそのまま真っ直ぐ上下に伸びている感じです。

■上の突っかかりが取れると、緊張しにくくなった
今までは、瞑想して眉間やサハスララに意識を合わせるとそこに圧力のようなものが生まれて、瞑想を終える前にその意識を頭の下半分あるいはハートなどに下ろしてから瞑想を終えないと不快感が残ってしまうことがありました。場合によってはそれは緊張としても残り、肉体的にはそれは多少の血圧上昇に結びついていたように思います。

■緊張と血圧上昇
このように、頭の緊張が残ると血圧上昇することに気づいたのは、たまたま病院で足の骨折のリハビリを受診したからです。リハビリ前に血圧を測るのですが、この緊張状態では血圧が高いことに気がついたのです。

■今は、緊張していた頃の癖が残っている状態
前は眉間や頭上に意識を合わせると緊張していましたので、体がそれを覚えているので抵抗を試みるのですが、そもそも緊張がなくなっているのに抵抗だけが癖として残っている状態です。体としては、昔の感覚がある筈だけれども感覚がない、と言う感じで体が不思議がっています。おそらくこれは、いつも反応していた体が、その反応の元がなくなってしまったが故に反応しなくても良いのに反応しているだけですので、そのうちこの癖はなくなってゆくのかなと思います。

これで、眉間への集中が、よりしやすくなりました。ただ、どうやらエネルギーが強く流入するようになりましたので、その点、あまり長く集中できない感じになりつつありますけど。集中というよりは軽く意識を当てて観察するだけでいいのかもしれません。これは今後、様子見をします。







(前の記事)LGBTと魂の性別