アスリートやコンピュータエンジニアリングなどではゾーンと呼ばれている歓喜を伴う極度の集中状態がよく知られています。人によっては一生に一度だけかもしれませんが、瞑想をしますと割と簡単にその状態に至れるようになります。
瞑想をしない場合は仕事や趣味などに没頭してそれと一体になることでゾーンに入ります。
私の場合はもともとスピリチュアルで子供の頃に幽体離脱とかしていたわけですけれどもその頃はまだ瞑想をしていたわけではなくて、むしろ、コンピュータのプログラミングを集中して行うことでゾーンに入って歓喜を得ていたような気が致します。
仕事においてもゾーンに入っていたわけですが、昔にも少し書いたように日本の会社は集中できない環境でことあるごとにゾーンを破るような人が話しかけてきますから、ゾーン中に(意図的にせよそうでないにせよ)ゾーンを急に破るような人が多い場合は精神的にも不安定にもなります。
このあたり、日本であまりにもゾーンの理解が薄くて日本の仕事は単なる単純作業でしかないことが多い、ということの現れだと思います。
ゾーンに入ると入る前の理解を超えたものが自然に現れてきて、ゾーンに入る前の計画以上のものが手に入りますから、周囲からしてみるとそれは本人がやったようには見えなくてただ何処かから持ってきただけに見えるのですよね。
実際、ゾーンに入ることで自分の意識が広がって、ある意味、時空を超えて未来からの観点も含めて微細なイメージを受け取って次々に判断や新たな視点が繰り広げられて行きますので、ゾーンに入ったことのない人やゾーンにほとんど入れないような人には理解できないでしょう。
そんな中でも、割とコンピュータはゾーンに入りやすい気が致します。
日本の企業の習慣はゾーンに入っている人の集中を途切れさせてしまいますのでゾーンに入ること自体が危険ではあります。ゾーンをことあるごとに途切れさせてしまうと、時々いるような、ちょっと精神不安定なコンピュータエンジニアができてしまうのです。本人が悪いのではなく会社の環境が悪いことが多いような気が致します。このあたり、日本の企業がいかにゾーンに対して理解がないのか、ということの現れだと思います。だから、日本の企業の生産性が上がらない。
一方、幸いにしてゾーンが妨げられずに歓喜の状態で作業が続けられた場合、それは効率的な結果をもたらすわけです。
これは、瞑想でいうところの「集中」「シャマタ」という状態です。瞑想において極度の集中をすれば歓喜に至ります。
ですから、瞑想をしていなくても仕事で極度の集中をして歓喜に至ることができればそれは瞑想でシャマタをしているのと同じことになります。
そして、そのゾーン状態を続けていると、年単位の時間経過が私の場合には必要でしたが、やがて、その歓喜が静まって行きます。
これは私だけの状況ではなく、一般的にもそうであるようです。
歓喜が鎮まったからと言って特に不幸になったわけでもなく、次第に、静かな歓喜がそれに取って代わるようになりました。
この当時は瞑想をしておりませんでしたので、激しい歓喜から静かな歓喜に移行するのはゾーンを体験するごとに次第に少しずつ遷移する、という感じのゆっくりとした遷移ではありました。しかし、はっきりとした変化であり、元に戻ることはありませんでした。
もともとの激しい歓喜の状態こそがおそらくはゾーンと一般的に呼ばれているもので、静かな歓喜もゾーンと呼んでも良いのかもしれませんが、それはもはやわざわざゾーンとは呼ばなくても良い気が致します。
これらの2つのゾーンが実際にはあるのですが、前者のゾーンであったとしても、日本の企業ではあまり知られていないように思います。