子供の頃に先生から習ったでしょう。「我思う故に我あり」とか説明されて、「心が自分なんだ」「思いが君なんだ」「思考が君なんだ」と教えこまされたでしょう。 それ、嘘ですから。
いわゆる「頭の良い人」とは思考をフル回転させることができる人だと習ったでしょう。
延々と思考が続いて論理がフル回転し、話をし出したら止まらない人。いますよね。
学校の教育では「答え」を出す必要がありますから「問題」がインプットで頭をフル回転させて「答え」を出す機械の人間が頭が良いとされます。
それ自体は問題ないのですが、フル回転しなければ「自分」がいなくなってしまう、という根本理解が問題です。
だって、「我思う故に我あり」ですからね。
頭を回転させていなくて思考していなければ「私がない」ってことになってしまいますから、私が存続するためには必死になって頭をフル回転させる訳です。
思考を止めてしまったら「私」がいなくなる、ってことですから。
・・・これが、普通の教育で教えられることです。
「思考を止めるな」と教わります。・・・学校にもよるかもしれませんけど、少なくとも受験や勉強ではこの辺りが根本的思想になっていると思います。
思考を止めると私がいなくなってしまうのでしょうか? という子供の質問に対して先生は「そうだ」と答えたり、曖昧な答えでぼかします。子供は素直ですから、思考が私であるならば先日私が思い描いた残忍な思考や下ネタも全てが自分だと思って嫌悪感に浸ります。
この辺りの、「自分とは何か」という教えが、ヨーガやヴェーダで教えられているところと、学校教育で教えられている「我思う故に我あり」とで全く異なっています。
学校教育では「我思う故に我あり」ですから思考がなくなったら自分が消えて無くなり、残酷な考えを抱いたら自分が残忍だということであり、下ネタを思い描いたら自分がすけべだということになります。しかも、思考を止めたら自分がなくなってしまいますから考えを止めずに24時間ずっと思考を続けていることを強要します。・・・・まあ、先生によるのかもしれませんけどね。
昨今ではネットでの情報も増えて学校の先生のお話を真に受けることも少なくなったかもしれませんけど、一部ではまだこんな意味不明な教育が行われているように思います。
その愚かさの根本は、思考が自分だと思っている点です。じゃあ、思考がなくなったら自分もなくなるのでしょうか? 一部の教育者は思考がなくなったら自分がなくなると思っています。それが自我であると一部の教育者は主張します。
実際、考えるべきことはそんなに多くないのに、「自分」を失わないために思考を頭の中に詰め込んで24時間ずっと頭を動かし続けるというこの社会・・・・。まともではありませんよ。
その思考の中に、マスコミが埋め込む宣伝を入れたら消費者は一斉にそれを買うので会社は大儲けするでしょうし、戦争やヘイトスピーチ、いくらでも他人が大衆をコントロールできるようになります。
根本には、「我思う故に我あり」という間違った考えが浸透しているから大衆コントロールが簡単になっているのですよね。
何かの疑問やトピックに対しては全て答えを用意しておいて、その答えこそが正しいとすり込みさえすれば「反応」しかしないようになり、大衆の反応が予想可能になり、商売にせよ政治にせよいくらでも掌で踊らせることができるようになります。
その根本は「我思う故に我あり」だと思っているから、自分の頭を自分でコントロールできていないのですよね。ヨーガ的に言えば思考なんてのは一時的なものであって「自分」ではないです。思考を自分だと思っているから自己が汚れたとか自分が間違っているとか勘違いをするのですよ。
最近はこういうことを教えてくれる人も多いので、昔ほどは教育で汚されることも少なくなった気もしますけどね。それでも、特に年配に昔の教育の弊害が残っているような気が致します。