ニューエイジ時代にスピリチュアルでよく言われたことですが、これは真実だと思います。
ですから、理想を言うのであればそれを踏まえた上で多くの流派の良いとこ取りをするのが一番成長が早いと言えます。まず基本として答えは自分の中にあるのですから外にあるものは全て「確かめ」でしかなく、どんな流派のどんな高度な説明であっても基本は「外」の「ノイズ」に過ぎないと言えます。
真理を求めるのは完全なる自立した個人が行うべきであり、その完全なる個人が自らの中に答えを求めるのが理想であり、外にある聖典やグルなどはその自分が知り得たものを確かめるためのコンサルタントとして存在していると言えます。
それを勘違いして、答えを外に求めてしまうと流派に拘ったり他の流派を批判したりしてしまいます。
ヨーガや宗教の流派で「多くの流派をかじっても悟りには到達しない。1つの流派に従うべき」とか言われていますけど、「答えは全て自分の中にある」ということを踏まえたのならば本質は自分の中にあるのですから、何の流派をしていてどの流派でもあちこちかじっていたとしても大差ないと言えます。
人によって得手不得手があるように流派に向き不向きがありますから、自分にあった流派を探すのはいいと思いますが、理想をいうのならば、多くの流派をかじって良いところを組み合わせた方が成長が早いと思います。
実際は、ちょっと通っただけでは教えてはくれませんので、1つの流派に集中することになることが多いかとは思います。
ですが、完全なる独立した個人が自らの中に答えを求める、というのが基本にあるべきなのです。
1つの流派に従うべきと言っているのは、目的地ではなく中継地であると心に留めるべきです。まだ自立していない子供に対して広い世界を見てこいと簡単に言う親がいないのと同様に、まだ本質を知らない子供に対しては1つの流派に従うべきと言うのは親心と言えるかもしれませんが、その流派は単なる経由地であり、やがて子供は大人になり羽ばたいてゆくものです。羽ばたいて行けるようにするのが流派の役割であると言えます。
時に人は「多くの流派を彷徨っても悟りには到達しない」と言います。それは答えを外に求めている人のお話で、自らの内にあると知っていて自らの中を探求しているのならば流派は大差ないわけです。
答えを外に求めている、あるいは、内に求めてはいるもものまだ見つかっていない人だけが流派にこだわり、流派の差を気にするわけです。
答えが自らの中に見つかったとしても、成長するにおいてそれを説明してくれる人が自分の属する流派にいないかもしれません。だとしたら、他の流派のグルを頼ることに何の躊躇があると言うのでしょうか。
他派の説明を聞いて、何やら前提条件が違ったとして混乱するかもしれません。その混乱に何の罪があると言うのでしょうか。
闇雲に1つの流派だけを信じていれば悟りに至ると思い描くことこそ混迷の原因であり、答えが自らの中にあるのだとすれば、その説明として外にあるものを何でも利用すると言うのが真理を探求する人の本来の姿なのではないでしょうか。
流派に属する人は、やもして多くの流派を勉強する人を「多くをかじっている」と言って批判します。
確かに、答えを外に求めている人が多くの流派を勉強していたらその批判は正しく、「1つの流派に集中すべき」と言えます。その意味においては批判は正しいと言えます。
しかしながら、理想はと言うと答えは自らの中にあるのですから、自らの中を探求している完全なる独立した個人がたまたま1つの流派に属しているとして、その流派の中に自分の見つけた答えに対応するものが見つからないとすれば、他派を見たところで全く問題ないと言えます。
本意は「外を探してばかりいないで自分の中を探しましょう」と言うところに帰着するのであれば、1つの流派だろうが多くの流派だろうが理想的には大差ないと言えます。
とは言いましても、属する先として1つはあった方が落ち着きますし実際的な活動もしやすいのも確かです。
ですから、現実解としては1つの流派に一応は属しておいて、心の中では「私は完全なる独立した個人である」として、広く多くの流派に対してオープンでいることが大切であると言えます。