今年の9月頃に平穏な静寂の境地に達したわけですが、テーラワーダ仏教であるミャンマーの上座部仏教にあてはめてみると、最初の涅槃への到達は預流道果(よるどうか)と呼ぶようですね。このあたりは流派によって定義が微妙に異なるような気が致します。涅槃という言葉の定義も流派によってまちまちのようです。
「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」によると以下のような分類になるようです。
・預流道果(よるどうか) 預流とは涅槃に向かう流れの意味。始めて涅槃を発見し達する。
・一来道果(いちらいどうか)
・不還道果(ふげんどうか)
・阿羅漢道果(あらかんどうか)
道果(どうか)は流派によって果(か)とだけ言ったり省略したりするようです。
これら4つの段階は煩悩がどのくらい滅せられるかという分類で今まで理解してきましたし、それも正しいかとは思うのですが、それよりも上記のように涅槃に達しているかどうかという基準の方が重要な気が致します。
これは同じ上座部仏教でもテーラワーダ仏教とかの書物では見たことがない気が致しますが、入信しないと教えてくれないお話なのでしょうかね?
煩悩という観点から判断してしまうと自分が上の段階にいるかもしれないという勘違いを産んでしまうような気が致しますので、それよりも、ここにあるように涅槃に達したかどうかの方がよりはっきりとした基準のように思います。4つの段階のうち一番下の預流道果(よるどうか)に「始めて涅槃を発見」と書いてありますので、まずは涅槃に達しないとこの4つのいずれでもないわけです。涅槃に達していないのに煩悩を基準にして4つの基準と自分を見比べても仕方がないわけです。とは言いましても、この基準は流派によりますから、自分の流派があるのであればその基準に従えば良いとは思います。
同書には、涅槃に関する記述はそれなりに詳しいのですが、その先のステップは割とあっさりとした表記で、不還・阿羅漢に関しての記述は詳しくはありません。
一来に関しては預流の涅槃に熟練したというような書き方で、預流と一来は熟練度が違うくらいなので預流で涅槃に一度でも達したならば一来には容易に達することができる、と書いてあります。であれば以下のような分類ですね。
・預流道果(預流果) 始めて涅槃を発見
・一来道果(一来果) 涅槃に容易に達することができる者
・不還道果(不還果)
・阿羅漢道果(阿羅漢果)
更には、不還道果に関しては、「完全に定(サマーディ)を成し遂げた者」との記述がありますので、サマーディの精神集中と静寂な涅槃の状態が更に完全になったら不還道果になるのでしょう。
阿羅漢はよく知られているように完全に煩悩を滅却した者です。
・預流道果(預流果) 始めて涅槃を発見
・一来道果(一来果) 涅槃に容易に達することができる者
・不還道果(不還果) 完全に定(サマーディ)を成し遂げた者。
・阿羅漢道果(阿羅漢果)全ての煩悩を滅した者
となれば、私は今年9月頃に始めて涅槃に達して預流道果になったわけですね。
そして、基本的には預流道果と一来道果は大差ないようですし、涅槃にも割とすぐに達することができるようになった上、同書によるとまだ不安定なところがあるような記述ですから、私は今は一来道果あたりにいるのだと判断するのが理にかなっていそうです。
不還道果に達すると色欲(情欲)や怒りなどが消え去るみたいですけど、情欲とか怒りなんてとっくの昔にほとんどなくなっていて、確かに生殖行為はまだ可能ですけどそれが色欲かと言われると、まあ、そうかもしれないですけどかなりなくなっています。不還道果に達して完全にゼロなんてあり得るのですかね? 阿羅漢でも完全にゼロなんてことはないような気がしますけど。
この辺りの、煩悩の欲望と照らし合わせての説明の部分は話半分に理解しておいた方がいい気もしますね。煩悩という意味ではきっともっと早く達することができて、涅槃という意味ではかなり後のような気が致します。
おそらくは流派によって解釈が異なっているところがごっちゃになってしまったが故に混乱している気が致しますが、煩悩という意味では涅槃よりももっと手前で起こって、涅槃に関しては2周目か3周目での基準であれば一致している気がしますね。
これは個人的な解釈ですので、仏教の流派の諸派の解釈とは異なるかもしれません。
追記→ 禅宗的には同状態は涅槃と言わなくておそらくは第四禅定のようです。