仏教では静寂の境地と煩悩の克服の度合いが組み合わさって理解されていることに対し、私の場合はちょっと違うなとは思っていたのですが、私のスピリット・ガイド(見えないガイド、いわゆる守護霊)が教えてくれたことによると、やっている修行によって静寂の境地と煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)の度合いは異なるようです。
仏教など特にマントラを使って修行する流派の場合は概ね仏教が定義しているような順番になって、静寂の境地への到達と煩悩の克服が割と同時期に起きるようです。
しかしながら、本来は煩悩の克服と静寂の境地への到達は別のもので、最終ゴールとしてはどちらも達成するものの、その到達度合いは必ずしも関連しているわけではないようです。
静寂の境地は雑念が抑えられた状態ですので、マントラを唱えていると静寂の境地に達することがあります。これは最初に静寂の境地に達すれば預流果(よるか) ですし、度々達すれば一来果(いちらいか)です。
ですけど、マントラに頼っている以上、それ以上の上の不還果(ふげんか)にはなかなか到達しない、とのことです。
マントラは顕在意識を鎮める効果がありますので、マントラを唱え終わったら雑念がまたふつふつと湧いてきて、実際のところ雑念があったとしても本来の安定した静寂の境地に達していればそれにさほど迷わされることがないのですが、マントラで一時的に抑えていた場合はまだ本来のサマーディの力が弱くて煩悩(カルマ)にそれなりに影響されてしまうようです。
本来のサマーディの力を強めればマントラに頼らずとも静寂の境地を維持することができますので、そうなると次の段階に進むとのことですが、マントラに頼っている以上は一来果(いちらいか)で足踏みし、不還果(ふげんか)にはなかなか到達しないとのことでした。
これは私がガイドから聞いたことですので本当にそうなのかどうかはわかりませんけど、理には叶っています。ガイドには「私はそのことはあまり気にする必要はない」と言われていますので、一応の知識として知っておくというくらいです。
このマントラは、レベルは違うものの、例えば白人のスピリチュアルでは大音量のクラブのミュージックが相当するようです。クラブやテクノあるいはダンスホール等で流れている大音量のDJミュージックのような外部の音を利用して一時的に自分の心をそれに惹き付けたり麻痺させたりして心を停止させる手法が白人たちの間では利用されています。それは、白人たちの自我があまりにも強くてそのくらいしないと自我を停止できない、ということでもあります。日本人の場合はそれほど自我が強くありませんからそこまでしなくてもマントラ程度で素早く自我を静止させることができますが、マントラに頼っている以上はマントラを止めたらまた自我が動きはじめてしまうわけです。
自我の奥底にある神の面の自分(ハイヤーセルフ、キリスト意識、アートマン)が目覚めてしまえばそのようなものに頼る必要はないのですが、マントラに頼っている以上、なかなか一時的な静寂の境地である一来果(いちらいか)から先に到達できない、ということのようです。
マントラに頼ると一来果(いちらいか)の静寂の境地にまでは割と素早く達するものの煩悩の克服が後回しになるので静寂の境地の到達と煩悩の克服への到達が割と同じ時期になることが多いようですが、必ずしも一致するわけではないようです。一来果(いちらいか)から不還果(ふげんか)へのステップでは煩悩がかなり克服されなくてはいけませんので、マントラに頼って素早く一時的な静寂の境地の一来果(いちらいか)に達した場合に煩悩の克服に時間がかかって不還果(ふげんか)へなかなか達しない場合もあるようです。
一方で、マントラに頼らず沈黙の瞑想をした場合は煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)が割と先に来て、しばらく経った後に静寂の境地に達して一来果(いちらいか)になるようです。そして、沈黙の瞑想の場合は静寂の境地に達した段階で煩悩が既にかなり克服されておりますので一来果(いちらいか)から不還果(ふげんか)へのステップで足踏みせずに割とスムーズに移行できるとのことです。
これはトータルで見れば途中でどちらを先にやるかという違いがあるくらいで、実際のところそれほど違いはなく、好きな方をすればいい、好きな道を通ればいい、好きな順番でやればいい、ということのようです。自分の流派のやり方に従いたければそうすればいいですし、直感に頼りたければそうすればいい、ということにもなると思います。
煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)を重視している流派なのか、あるいは、静寂の境地への到達を重視している流派なのかで視点が異なるということですね。
[2020/12/30 更新] 流派によって涅槃という言葉の意味は異なりますので元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。