我思わなくても我あり - 瞑想録 2020年6月

2020-06-01 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

水晶で瞑想と同様の効果

石にも色々あって、形が良くてもパワーストーンではない場合があります。

昔、インドで安い石を大量に買って帰ったことがありますけど、それはインドの疲れた石、と言う感じでした。石には現地のオーラが宿るのですね。インドならインド人の感じがしますし、他の土地もそうです。

現地の人がそこらで拾った石が外国人には高く売れるらしくてインド人はたいそう喜んでいました。

かなり昔に水晶が良いと聞いてなんとなく買ってみた水晶は何にもパワーがありませんでした。ですので、水晶と言っても色々のようです。

今回は、なんとなくメルカリで購入してみたのです。前は形を重視したのですが、今回は量重視で安いさざれ石を買ってみました。

すると・・・ これが驚く効果があったのです。

部屋にあるだけで、特に頭のあたりに瞑想の効果が出ています。置いておくだけでも効果がありますが、ザラザラと少し動かすだけで更に効果が出ます。

仕事中にPCを使っているとどうしても頭にモヤモヤ感が出てきてしまいますが、今回の水晶さざれ石が近くにあるだけでもやもや感が一気に解消したのです。

これはびっくり・・・。 瞑想で解消しようとすると数時間はかかる効果です。それがものすごく安い水晶でこんな効果が現れるとは。

水晶が近くにあるだけで頭、特に後頭部がピリピリしています。首の方や背筋および両肩の方にまでその電気が続いているような感じです。肩こりにも良さそうです。水晶を近づけて少しザラザラと動かすだけで体の各所の血の巡りも良くなりそうな気がします。

今回買ったのは500gで送料込千円くらいのブラジル産です。ブラジルと言っても広いですが、今回のは当たりでした。同じものを1kgくらい追加で買ってみます。



非我を働かせる、とは良い表現

最近入手した本が意外に瞑想について詳しく書いてありまして、元カトリック教徒の外国人が禅を習った記録とのことですが、そこに「非我を働かせる」と言う表現がありました。

これはヴィパッサナー状態(観察状態)を示すのにとても良い表現だと思います。そうですか。こう言う表現方法がありましたか。

そういえばOSHOの本で「無心」と言う表現をしていましたね。西洋の人や、インド人であっても西洋に受け入れられる人の表現は否定形が多いのかもしれませんね。否定形で表すことによって西洋の人に「そうか」と理解されるのかもしれません。

日本人にとっては「ふむふむ」と言う感じですし、実際にそれがどう言うことなのか、わかるようでいてわからなかったりする気もします。

「非我」にせよ「無心」にせよ、心を超えた何か、あるいは、心ではない何かをどうにかして表現しようとしているように思います。

ただ単に「非我」「無心」としてしまうと何某かの境地であるように理解されてしまい、それはトランス状態か何か、彷彿状態か何かだと理解されてしまうかもしれません。

しかし、「非我を働かせる」と表現すればそれは「行動」が伴いますので、超感覚および超思考が働く世界であると言うことが明らかになるわけです。

それは、顕在意識での行動ではありませんので行動とは言っても違う種類の行動であるわけですし、行動と言うと肉体と五感による活動と理解されてしまいますので私なんかは行動という言葉はあまり使わないようにしておりますが、同書のコンテキストから言えば「非我を働かせる」というのはとてもわかりやすい表現になっているわけです。

「非我」ですから通常の心ではなく、しかも、それが活動する、ということは、それができているかどうかが読む人にとって自分で判断できると思うのです。

読んでいる人ができているつもりにならずに、これは何某か、自分が知らない何かであるということを理解するには「非我を働かせる」という表現は十分だと思います。

というのも、この種のスピリチュアルは色々なところで語られていますので、なんとなく自分が高次な意識を持っているかのように錯覚しがちだからです。しかし、「非我を働かせる」という表現は錯覚させないだけのはっきりとした表現になっていると思います。

「自我の妨げなしに、行為の秘めた力が働くにまかせる」ということを私は学んでいたのでした。私が学んでいたのは「自我を働かせない」ということではありません。私が学んでいたのは「非我を働かせる」ということでした。「生きているのは、もはや私ではない」ということが、ようやく日々の生活に現れつつありました。「禅入門(イレーヌ・マネキス著)」



人はみんな神様! とか思っていても実際には鉱物霊とかもいます

割合は少ないですけど鉱物霊とかもいますし、人の魂の出どころを知らないと神様なんて安易には言えません。

人の魂は神様と一緒で万能なのに忘れているだけ! とか言っている人がいますけど、そういう人がいるというだけで、そうでない人もいます。

現実として自分の立場はそうは変わらないですし、鉱物霊とまでは言いませんけど、精霊出身だったり妖精出身だったり爬虫類出身だったりするわけです。割合として国ごとに同じ出自の人が多いのであまり気にすることはないですけど、多種多様な魂が混在している、という表現の方が実態に近いです。

神様は分け隔てなく全てに行き渡っている・・・ とか言う人がいますけど、それは確かにそうですけど、あまり個人には関係のないことかなとも思います。知識として知っておけばそれはそれでいいですけどね。相手に与えたものは返ってくる・・・ それは本当ですし、そのくらいの知識でとりあえずは十分かと思います。

人はみんな神様とか思ってしまうと分け与えたりすることに躊躇しなくなってゆきますけど、変な人の相手をしていたらキリがありませんし、割合として奪う人がこの世界に多いので、そんな人の相手をしていたら持ちません。

自分と分かり合える人と静かに暮らすくらいがちょうど良いと思います。人はみんな神様なのは根元においてはそうでしょうけど、魂としては出自がそれぞれ違いますから、合わない人とはやっぱり合わないのです。



能力があっても他人に言わない

スピリチュアル業界とかヨーガとかしていますと、ちょっとした能力がある人を時々見かけます。

スピリチュアルな人は割とオープンで自分のことを他人に言ったりしますけど、ヨーガの人は能力があっても他人に言わない、というのが歴史的・文化的・伝統的にそうみたいです。

ヨーガの人に言わせると、能力は修行の妨げになるとかエネルギーの無駄使いだとか色々言っていますけど、物事はもっと単純なんですよ。

それは、能力を見せてしまうと面白がってくる野次馬が単に面倒なだけです。それが理由の90%くらいで、ヨーガの人とかがしたり顔で論じてくるような、能力は修行の妨げだとかエネルギーの無駄使いだとか・・・ そういうのも確かにありますけど、それよりは、野次馬がめんどくさい、というのが見せない理由だと思いますよ。

あるいは、見せている能力はほんの一部、という場合もありますね。

どちらにせよ、大そうな理由はあんまりないです。

たぶん、多くの人はそんなものじゃないかな・・・。

昔は魔女狩りとか有力者に誘拐されて能力を使われたりしましたのでリスクがかなりありましたが今はお金で動いてくれる有力者がたくさんいますしそのような人がどこにいるのか情報も出回っていますから、以前のように誘拐リスクもほとんどありませんしね。昔はこのような怖い理由で能力を言わなかった人も多かったです。

例えばナチスが魔女をさらって遠隔視をさせていたりしましたからね。怖い時代でした。

今は、単に面倒なだけ、という理由が多いのではないですかね。あるいは、今後また怖い時代が来ると予見して言わない人もいるかもしれないですね。



チャクラは左回転、かも

今日の瞑想では、ふと気がつくと空から落ちていました。空から手を広げて大の字になって頭から地上に落ちてきていました。地上まであと数百メートルになった時、ふと手とお椀(何故か持っていた)を前に向けたらその中に風が入り、やがて周囲が光に包まれて落下が止まり、空を浮き始めました。そして再度、地上の空高く舞い上がったのです。

その時、何か渦のようなものが見えました。



白黒で、私の顔の真正面から見ると円のように見えましたが、渦が左回転(反時計回り)をして、中心が手前(私の方)に向かってぐるぐると竜巻のように伸びているのが見えました。

その光を浴びたことによって浄化されたような感じになったのです。

この渦巻がチャクラかどうかはわかりませんけど、昔、本で見たチャクラの図に似ている感じです。


「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」

この渦巻は、かなりの速さで回転していることがはっきりと分かりました。

花弁らしきものはありませんでした。同書にはチャクラごとに図がありますが、回転のくびれ部分を数えて花弁、としているのですね。花弁がないということはアジナチャクラだったのかもしれませんね?

アジナチャクラの色について以下の記述があります。

アジナチャクラの光色(オーラ)について、サッチャナンダは興味深いことを述べています。つまり、人によっては透明に見えるというが、自分には煙色、または黒色に見えるというのです。リードビーターは、エーテル体のアジナチャクラのオーラは黒紫色だと言っています。多少のちがいはあっても、二人の間には、暗いという点で一致が見られます。この黒または煙色の光色は、サッチャナンダによると、アストラル体のオーラだということです。「密教ヨーガ(本山博 著)」

これは、前に引用した瞑想中に見えるアストラル体の色とも繋がります。

同書と照らし合わせると、私が見た白黒の回転は「浅い精神集中の状態におけるアストラルの色」に相当するような気が致します。

確かに、その時はちょっと疲れていてうつらうつらしていましたので、瞑想というよりもちょっと意識が飛んでいましたのでそういう状態でこそ白黒(灰色)で見えるのかもしれません。

となれば、チャクラの回転が見えるということはあまり集中できていなくてよろしくない、という解釈にもなります。

とは言いましても、このあたりは本質ではなくてただのメモ書きですので、あまり気にすることでもなさそうです。結局のところ、もっと意識が進まないと正解もよくわかりませんしね。見えたところで今のところなんてことはないです。



否定的思いを打ち消すために反対である肯定的思いを用いるのは悪いことか?

最近は色々と理屈っぽい人が多くなって、古典に書かれてあるこの手法を否定する人がそれなりに世間にいるように思います。

大元のお話はヨーガスートラに記載されています。

2.33 否定的想念によって撹乱されたときは、反対のもの(肯定的想念)が念想されるべきである。「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」

これは古典ですが、最近の精神セラピーでも同様の手法が取られていると思います。

しかし、意外にもこれを否定する人が多いのです。言わんとしていることはわからないでもありませんが、しっかりと理解していないように思われるのです。

まず、これを否定する人の言論は以下のようなものです。

・思いは否定されるべきではなく観察されるべきものだ。
・否定的想念を肯定的想念で打ち消すのは本当の瞑想ではない。それは間違っている。

これらの発言には共通点があって、おそらくはヴィパッサナー瞑想やスピリチュアルな本で学んで感化されて、しかしながらきちんと理解していないのかな、という印象を受けます。

まず、はっきりさせておくべきことは、意識の段階においてそれぞれ何が正しいのかが違うということです。

瞑想は「集中」と「観察」の両方の要素がありますが、集中が出来ていない人に観察だけを示唆しても瞑想はうまくいきません。

否定的想念が出てきたらそのまま放っておけばなくなる、というのは中級者以上のお話です。否定的想念が出てきたら反対の想念(肯定的想念)を出して打ち消す、というのは初心者のお話です。

このヨーガスートラの話を聞くとすぐにヒステリーになって否定しだす人がぼちぼちいて、なぜそんなにヒステリーになるのか私には全く理解できませんが、そのようにヒステリーに否定する人が実際にこの世の中にいますので、そのような人は瞑想の段階としてはまだ理解が全然足りていないのかな、という印象を受けます。

確かに、瞑想の意識が進んでヴィパッサナー状態になると否定する必要もなくて観察すれば良いですし、否定的想念を肯定的想念で打ち消すのは本当の瞑想ではないという人の意見も分からなくはないですけど、私なんかからすればどちらも瞑想で、それぞれ深さが違うだけだと思うのです。

そんなにヒステリーになって否定することもないと思うのですけどねえ。

そういえば最近手に入れた本で以下のような記述がありました。

真の瞑想とは強いることなき自然なものである。物質的なことであれ霊的なことであれ、瞑想から何かの見返りを得ようと、決まった時間に決まった想いに心を集中させることによって、対立するすべての想いを打ち消そうと悪戦苦闘するのが瞑想ではない。「チベット永遠の書(テオドール・イリオン著)」

これ、読む人によって違った印象を与えるでしょうね。

瞑想をよく分かっていない人が読むと「偽物の瞑想があるんだ! 私は真の瞑想を知っている」と思って、偽物の瞑想を吊し上げてヒステリーになってしまうこともあるでしょう。同書では著者が大袈裟に「真の瞑想」とか「偽の瞑想」とか書いているので、これを読んでいる人は真に受けて偽物を吊るし上げようとするかもしれないですね。こういうのはいけないですね。理解不足ですね。

瞑想をよく分かっている人が読むと、「そりゃそうです」としか思いません。特に凄いことが書いてあるわけでもないし、当たり前のことです。

このような、何か凄いことのような印象を与える宣伝が一部でなされていて、それによって不愉快な思いを受ける人がそれなりにいるのは悲しいことです。

以前にも書きましたけど、瞑想に不慣れな最初は力を入れて集中して思いを打ち消すのです。そういうものです。その後、やがてはヴィパッサナー状態になってゆきますけど、それは瞑想がそれなりに進んだ後のお話です。



ゾーンでの激しい歓喜とその先の静かな歓喜

アスリートやコンピュータエンジニアリングなどではゾーンと呼ばれている歓喜を伴う極度の集中状態がよく知られています。人によっては一生に一度だけかもしれませんが、瞑想をしますと割と簡単にその状態に至れるようになります。

瞑想をしない場合は仕事や趣味などに没頭してそれと一体になることでゾーンに入ります。

私の場合はもともとスピリチュアルで子供の頃に幽体離脱とかしていたわけですけれどもその頃はまだ瞑想をしていたわけではなくて、むしろ、コンピュータのプログラミングを集中して行うことでゾーンに入って歓喜を得ていたような気が致します。

仕事においてもゾーンに入っていたわけですが、にも少し書いたように日本の会社は集中できない環境でことあるごとにゾーンを破るような人が話しかけてきますから、ゾーン中に(意図的にせよそうでないにせよ)ゾーンを急に破るような人が多い場合は精神的にも不安定にもなります。

このあたり、日本であまりにもゾーンの理解が薄くて日本の仕事は単なる単純作業でしかないことが多い、ということの現れだと思います。

ゾーンに入ると入る前の理解を超えたものが自然に現れてきて、ゾーンに入る前の計画以上のものが手に入りますから、周囲からしてみるとそれは本人がやったようには見えなくてただ何処かから持ってきただけに見えるのですよね。

実際、ゾーンに入ることで自分の意識が広がって、ある意味、時空を超えて未来からの観点も含めて微細なイメージを受け取って次々に判断や新たな視点が繰り広げられて行きますので、ゾーンに入ったことのない人やゾーンにほとんど入れないような人には理解できないでしょう。

そんな中でも、割とコンピュータはゾーンに入りやすい気が致します。

日本の企業の習慣はゾーンに入っている人の集中を途切れさせてしまいますのでゾーンに入ること自体が危険ではあります。ゾーンをことあるごとに途切れさせてしまうと、時々いるような、ちょっと精神不安定なコンピュータエンジニアができてしまうのです。本人が悪いのではなく会社の環境が悪いことが多いような気が致します。このあたり、日本の企業がいかにゾーンに対して理解がないのか、ということの現れだと思います。だから、日本の企業の生産性が上がらない。

一方、幸いにしてゾーンが妨げられずに歓喜の状態で作業が続けられた場合、それは効率的な結果をもたらすわけです。

これは、瞑想でいうところの「集中」「シャマタ」という状態です。瞑想において極度の集中をすれば歓喜に至ります。

ですから、瞑想をしていなくても仕事で極度の集中をして歓喜に至ることができればそれは瞑想でシャマタをしているのと同じことになります。

そして、そのゾーン状態を続けていると、年単位の時間経過が私の場合には必要でしたが、やがて、その歓喜が静まって行きます。

これは私だけの状況ではなく、一般的にもそうであるようです。

歓喜が鎮まったからと言って特に不幸になったわけでもなく、次第に、静かな歓喜がそれに取って代わるようになりました。

この当時は瞑想をしておりませんでしたので、激しい歓喜から静かな歓喜に移行するのはゾーンを体験するごとに次第に少しずつ遷移する、という感じのゆっくりとした遷移ではありました。しかし、はっきりとした変化であり、元に戻ることはありませんでした。

もともとの激しい歓喜の状態こそがおそらくはゾーンと一般的に呼ばれているもので、静かな歓喜もゾーンと呼んでも良いのかもしれませんが、それはもはやわざわざゾーンとは呼ばなくても良い気が致します。

これらの2つのゾーンが実際にはあるのですが、前者のゾーンであったとしても、日本の企業ではあまり知られていないように思います。



未来が見えたところでそれを指摘するなんて野暮なことはしない

<瞑想中になんとなく感じたことです>

所詮はゲームなのですから失敗しようが成功しようがあまり変わりがないことです。明日失敗することが見えていたとしてもそれをわざわざ指摘するなんて野暮なことはしないです。

深刻になる、というゲームをみんなが真剣にやっているのにそれを邪魔しちゃ悪いでしょ。遊ぶ時はとことん遊べばいいのです。

芸能人とかでも、おそらくは未来が見えていそうな人はいらっしゃいますよ。

それで、人によっては自覚があって未来が見えると自分で言う人もいるし、単に勘が鋭いと思っているだけの人もいます。自分で未来が見えると思っていても実際には勘が鋭いと思っているだけの人より能力が劣っている場合もあります。

基本的には、みんな何某かの予知能力があると思っていた方がいいですし、わかっていて選択しているのですから、放っておけばいいのです。それもまた勉強というか遊びです。

勉強というと教訓のように聞こえてしまいますけど、教訓なのはそうだとしても、もっと広い視野で見ればそれは単なる人生のお遊びにしかすぎないわけです。

ですから、他人から見て失敗のように見えることがあっても、それをわざわざ指摘なんてするのは影響を与えたいというエゴの仕業かあるいは人生というものがよく分かっていないのです。

放っておけばいいんです。この世界は自由なのですから、成功して楽しむ人もいれば失敗して深刻になることで遊んでいる人もいるんです。もちろんその瞬間においては苦しかったりするかもしれませんけど、それはその人が人生の選択をしてそうなったのです。

この世の中は残酷ですので成功もキリがなければ失敗もキリがないです。

実際、誰かからの助けなんてのはあるようでいてなくて自分で助かろうと思えば一瞬で助かるわけですが、そもそもの動機は何かというと「知りたい」というところにたどり着きます。

悩んでいる人がいるのを見て「なんで悩んでいるのだろう?」と思ったら、人生のとある時、あるいは未来において自分が同じ悩みに落ち込んでその悩みを深く知ることができるようになります。

一方で、金持ちを見て「お金儲けの何が面白いのだろう?」みたいに「知りたい」と思えばそうなります。金持ちも楽しいばかりじゃないということがわかれば金持ちに興味がなくなり、自分もお金がそんなには必要じゃないと分かったりするかもしれません。

そんな感じで、失敗するということは基本的には失敗を知りたいからするわけです。

ですから、失敗してその失敗を深く知りたいと思っている人の邪魔をすることはないわけです。失敗することが目的なはずなのにそれを邪魔しては悪いです。放っておくべきであるわけです。

とは言いましても、そうではなく、単に、本当のアクシデントによる失敗というものはあります。これは、指摘して構いません。目的とは違いますからね。

ですが、普通の人はその差なんてわからないのではないでしょうか?

ですから、基本的には他人の未来が分かったとしても放っておけばいいわけです。



否定形で非我を表現すると自我が分かったつもりになる

非我と自我とは似て異なるものなのに、否定形で表現すると自我が分かったつもりになるので満足してしまいますが、実際は非我と自我は相入れないものなので自我が非我を理解することはありません・・・ というと語弊がありますが、非我が現れ始めた後であれば非我と自我がわかり合うことができますが、非我が出てくる前に自我が非我を理解することはありません。その場合、否定形で非我を表現したところで自我が分かったつもりになるだけです。

自我が理解するのはそれはそれで重要な一歩ではあるわけですが、実際に分かったのとは異なる状態ということです。

ですので、分かったつもりになるのは大切なわけですけれども、その理解と非我が働き始めるのとは異なる状態だということです。

たまにはボーディダルマの言葉を引用してみましょう。

この無心が仏だ。この無心を超えて仏は見出せない。この無心を超えて悟りや涅槃は求めえない。「無心」とは、本性の実在、因果の不在をいう。自らの無心が涅槃だ。「ボーディダルマ(和尚OSHO)」

原文には「心」と書いてあるところを解説者が「無心」と置き換えて説明しています。

心が自我だとすれば原文のままですと自分の自我がそのまま悟りや涅槃ということになってしまいます。

・・・確かに、それは最終的な理解においては正しいのですけど、実際はそこまでの意識にない人がほとんどでしょうからこうして否定形を用いることで自我を超えた何ものかが存在することを表現しているわけです。

そうすることでまず自我が納得して、それから、それを実感するために瞑想するなりして確かめるわけです。



ヴィパッサナーを超えた瞑想で自我が戸惑う

瞑想の階梯において最初はシャマタ(集中)があり、それは自我が押し留められて自我が一時的に消滅している状態における静寂でした。

そのシャマタ(集中)にも2種類あって、最初はゾーンでの激しい歓喜から始まって静かな歓喜に変化してゆくわけですが、静かな歓喜の状態にある程度留まるとその先はスローモーションのヴィパッサナー(観察)瞑想あるいはカニカ・サマーディ(瞬間定)と呼ばれる状態に遷移するわけですが、その先で、次第に自我を留めおく力が不要になってくると自我が動き出して戸惑うようになります。

シャマタ(集中)の瞑想をしている間は自我が止まっていますので歓喜が湧き起こります。自我が止まると歓喜になるのかと思いきや、慣れてくると歓喜が治ってゆき、やがてはヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディと呼ばれている状態になるわけですが、その状態ではまだ力がどこか入っていて自我をコントロールしている力が入っているわけですね。

おそらくは、そのあたりが自我とそれ以上の存在、いわゆる非我とか無我とかあるいは真我(アートマン)との主従の入れ替わりの段階なのかなと思います。

ヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディの段階ではまだ自我の方が主で真我(アートマン)はあまり動いておらず、せいぜい奥深くの感覚で何となくそれがあるという感じ、あるいは、ヴィパッサナーによって観察しているのがアートマンなのだと何となく認識している段階です。

ヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディを超えた段階で真我(アートマン)が主になって、その段階では自我が従へと入れ替わるのだと思います。

すぐに完全に入れ替わるというよりは、そのあたりの段階でようやく自我のコントロールが不要になって自我を縛っている手綱を緩めることができるのだと思います。

そうして、真我(アートマン)が自我をコントロールするにあたって、自我としては今まで認識していなかった何ものかに自分がコントロールされるのだという、えもいわれぬ不安で戸惑うわけです。

それが、私の瞑想で最近起こっています。

この段階になると、もはやシャマタ(集中)の時のようにどっぷりと瞑想の中に沈み込むというか落ち込むというか時間を忘れて瞑想だけに浸って時間を過ごすという感じではなくなり、意識が常に起きているので自我の戸惑いを幾度となく常に認識するようになります。

昔のように瞑想に落ち込むという感じでもなく、そうなる気配もなく、ただ意識がずっと動き続けるので、もはや瞑想として座る必要もないのではないかと時には思ってしまいますが、それでも座ると多少は違うので座ることは続けています。

この戸惑いは、瞑想を始めた時の雑念に惑わされる混乱とは全く別のものです。

自我がもはや雑念に囚われなくなって、自我が何も活動しなくても良い、と真我(アートマン)から指示されて、それでも時々は雑念に囚われもしますが、自我が何もしなくても良くなって戸惑う時間の方が雑念によって惑わされている時間よりも多くなってきているような感じがいたします。

人によってはこれを恐怖と表現するのかもしれませんが、恐怖というほど怖いわけではなく、ただ単に、自我がどうしていいのかわからず戸惑っている、という感じを受けます。

おそらくはしばらくすれば自我は自らが何もしなくても安全だと分かって落ち着くのかな・・・ という気がしています。きっと時間の問題なのかなと。まだしばらく様子を見てみたいと思います。



自我が戸惑った後、時間が経てば自我が静まる

先日の続きです。自我が戸惑う段階に来て、その後は特にすることはありません。瞑想でその戸惑いを静かに観察し続けるだけです。そうすると、ふとした瞬間に ふっ と戸惑いが消えて自我が鎮まります。その時は、特に力は必要ありません。

シャマタ(集中)の境地においてはある種の集中「力」が必要でした。最初は特別に強い力が必要で、同じシャマタでも次第に力が要らなくなってゆきます。

そうしてヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディになってもまだ多少の力は必要ですが、ここに来て、ようやく力が不要な状態になります。

不要とは言っても、お盆を片手で持っているかのような、あるいは、頭の上に荷物を載せているかのような体幹によるしっかりとした土台が瞑想の力として必要にはなりますが、それは力を入れているというよりは、心の体幹がどっしりとしていて、もはや特別な努力が要らなくなる、と言った種類のものです。

ですから、その体幹を力とは言わないですけど、体幹がしっかりしていることで心が揺れ動かなくなり、それにより、意識で力を加えなくても心が安定しているのです。

その状態になれば、自我が最初は戸惑ったとしてもやがては戸惑いが薄れ、自我が自分の安全さに気付くかの如く自我が鎮まってゆきます。

それは丸い鉄の玉が磁石によって引き寄せられているかの如く、自我それ自体は何者かによってきちんと制御されている状態になります。

この状態をなんというのか微妙なところです。ヴィパッサナーと呼ぶこともできるでしょうし、サマーディの一形態と呼ぶこともできるかもしれません。

今まで自我が何某か反応をしていたことに対しても自我が表面的には反応しなくなり、むしろその奥にある真我と呼ぶべきかあるいは潜在意識と呼ぶべきものだけが受け答えをするようになります。

その時、奥にある潜在意識が反応する度に自我が「自分は答えなくても良いのですよね?」と言わんばかりに、都度、戸惑いを見せます。これは単なる戸惑いを言葉で表現しているだけですので自我がこのように意識を発するわけではなく、単に、戸惑いが広がるのみです。この段階では、自我はいわゆる「待て」の状態で待機しています。それでも、周囲で何が起こっているのだろう、と気になって戸惑いを見せるのです。

真我と自我の関係は、まるで飼い主とよく躾けられた犬との関係に似ているような気が致します。真我が自我に対して「伏せをして待て」と命令すれば、まるで犬が、飼い主の意図はわからないまでもそれに従って、それでいて犬ですから周囲が気になって仕方がない、という、その関係によく似ているような気が致します。

戸惑いはするものの、自我は雑念に対しては何も反応しなくて良いのだと訓練されていますから戸惑うだけで終わりで、深い潜在意識が少し反応を見せたり見せなかったり、時によって色々です。


昔からよく聞く例え話で、真実を知るためには「力を抜かなくてはならない」とか、「握り締めてしまうから真実を失う。握りしめる手を緩めなくてはならない」みたいなお話は、ひょっとしたらこの段階のことを表現しているのかもしれません。



ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は五感を鋭くするサマタ瞑想(集中瞑想)

数年前に受けたゴエンカ式はヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)と謳っていますが、実際には五感、特に皮膚の感覚を使った集中瞑想(サマタ瞑想)です。

ですから、ゴエンカ式をやればやるほど五感が鋭くなって細かな感覚に敏感に反応するようになり、それがコントロールできる範囲を超えてしまうと禅病の如く、怒りの沸点が低くてすぐにキレてしまうようになるわけです。

受けた時は何故にゴエンカ式を受けた人のエゴがそれほどまでに拡大して自尊心あるいは自虐心の塊になって他人に対してすぐにキレたり精神混乱になったりするのか理解できずにいました。

たわいのないことを言うだけですぐに大声を出してキレたり自己嫌悪に陥ったりする受講者を見て、なんだこれ・・・ と疑問に思っていたものでした。

今、数年経ち、その謎がほとんど解けたように思います。

ヴィパッサナー瞑想は五感を超えたものですが、ゴエンカ式は五感、特に皮膚の感覚でヴィパッサナー瞑想をしていると思い違いをしているのです。

皮膚の感覚をいくら敏感にしたところでそれは五感のお話で、それは本来なら分類するのであれば集中瞑想(サマタ瞑想)に分類されるのです。

受講した時はその辺りの言説が微妙に理解し難く思いましたが、そのように捉えてみるとゴエンカ式の説明の内容に納得がいきます。

ゴエンカ氏は瞑想はしておりましたがヴィパッサナーの領域にまで達したのかあるいは達しなかったのか、それは分かりません。本人が到達していてもうまく伝えることができなかった、ということはあります。ですが、少なくともあそこで行われているのは単なるサマタ瞑想(集中瞑想)であって、ヴィパッサナー瞑想ではありません。

こんなことを本人たちに言っても激しく否定されるだけでしょうから、そんな野暮なことは本人には言いませんけどね。そもそも私がゴエンカ式を受けたことすら他人に言いたくはないほどゴエンカ式の人はエゴが増大して、「私も受けた」とでも言おうものなら自分の優越感が傷つけられたかと思って私を精神的に延々と攻撃してくることすらありますから、ゴエンカ式を受けたなんて言わずに単に他人のゴエンカ式経験者に対しては「そうなんだ。どうでした?」というくらいにしておいて、自分が受けたことを言わない方がいいと思います。ゴエンカ式を受けた人でめんどくさい人が多すぎます。

ヴィパッサナー瞑想は五感を超えているのに五感がその入り口なのかどうかというと、確かに最初はサマタ瞑想(集中瞑想)で心を落ち着かせる必要があります。ですがそれはあくまでも集中瞑想なのであって、ヴィパッサナー瞑想ではありません。

思うに、そうそうヴィパッサナーなんて辿り着かないのですからヴィパッサナーなんて言う必要すらないと思います。あそこで行われていることのほとんどはサマタ(集中)瞑想に属することです。

ヴィパッサナー瞑想は各種の流派がありますが、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想だけが皮膚の感覚をヴィパッサナーだと思っているわけです。

他のヴィパッサナー瞑想は基本的に次のように考えています。

ヴィパッサナー瞑想は、思考を止めて、事実をありのままに観ることができれば、一切のドゥッカ(苦)から解放されるだろう、という理論に基づいています。「ブッダの瞑想法(池橋優雄著)」

これは、半分はサマタ(集中)瞑想のことです。サマタ(集中)瞑想をしてからヴィパッサナー瞑想に入るのです。ミャンマーのマハーシ長老によるヴィパッサナーも同様のようです。

確かに、ゴエンカ式でも似たような段階が取られています。最初の3日くらいは息を観察するサマタ瞑想、そのあとはヴィパッサナー瞑想だと言っていますけど、実際のところは両方ともサマタ瞑想(集中瞑想)であるわけです。そこがゴエンカ式の大きな勘違いです。ヴィパッサナー瞑想だと思ってやっているのは実際はサマタ(集中)瞑想なのです。

ヴィパッサナー瞑想の流派の中には、手法として体の感覚を観察するという瞑想をする流派があります。しかしそれはヴィパッサナー瞑想に入るための方便(手法)ですので、それ自体がヴィパッサナー瞑想ではありません。

流派としてヴィパッサナー瞑想をしていて、最初に体の観察をする瞑想を教えられたからと言ってそれがヴィパッサナー瞑想であるとは限らないですし、流派によっては、最初からヴィパッサナー瞑想を教えてもわからないからヴィパッサナー瞑想っぽいサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想として教えているところがあります。本人に気付かせるという意図があるのかもしれませんね。全てをわかっていながら皮膚の感覚をあえて本来の意味とは違ってヴィパッサナー瞑想だと言っているところもあるということです。

そんな中、ゴエンカ式だけが皮膚の感覚をヴィパッサナーだと思っています。

ここが、ゴエンカ式とその他の流派の違いです。

ですから、ゴエンカ式をしたところで五感が鋭くなるだけで混乱し、エゴが拡大して他人にキレやすくなるわけです。



瞑想中、頭のてっぺんに感覚が現れる

少し前までは頭の真ん中から下半分にかけてのみ感覚が出ていて、てっぺんの辺りは感覚がほとんどありませんでした。

時々、頭の上の方にまでエネルギーが行くこともありましたけど、砂浜で時折強い波が上の方まで上がってくるのと同じで、時々そういうことがあるだけで基本的には頭の上の方は感覚がありませんでした。

しかし、ここ最近、頭の上の方にまで感覚が出てきました。

一番のてっぺんにだけまだ感覚が出ていませんけど、頭の9割は感覚が出てきたように思います。

つむじより少し上の辺りに少しだけ感覚がない部分が残されていて、しかし、その周囲を感じてみますとちょっとだけぽっこりとオーラが上の方に押されたかのように膨らんでいるのを感じます。

少し前までは同じように頭までオーラが届いた際もそのまま体の前面を下に降りて行っていましたので、まるで小周天のように背中から頭、そして体の前面へと回転していました。

しかし、ここ最近は頭でオーラが止まって、上の方に圧力をかけています。

かなり昔に小周天を試した頃はちっちゃな感覚がモゾモゾと動くくらいでした。その後、クンダリーニ覚醒後は小周天がよくわからなくなって、単にエネルギーが上下するだけの感覚になっていました。それが、ここに来てしばらくは、本当の小周天っぽくなってきたところでした。しかし、それがまた、動かなくなりました。

瞑想で動かなくなった頭の上のオーラを観察していると、その圧力は上の方に継続してかかり続け、やがて何か隙間を見つけたのか何なのか、エネルギーが上の方に少しずつ抜けてゆきました。

上へのルートが完全に開いたというわけでもなく、時間をかけると少しずつ抜ける、という感じです。

これは、クンダリーニがマニプラ優勢からアナハタ優勢になった時の遷移に似ています。その当時は、最初マニプラ優勢でエネルギーがなかなかアナハタに上がらない状態でした。瞑想をしてもマニプラでエネルギーが溜まっていて、時間をかけると少しだけアナハタに抜ける、という状態でした。その時は、まだアナハタに感覚がなかったのです。

今回においては頭の9割に感覚は出ているものの頭の上、サハスララの上の感覚は出ていません。やっていることが同じだとすれば、次第にサハスララを超えて上の感覚が出始める前兆なのかな、とも思います。

アナハタ優勢になった時はその変化は一気に来ましたので、今はサハスララのところでブロックされていてその上に行くことができなくて、やがて、時が来たら一気にサハスララを超えられるのかな??? と思っていますが、どうでしょうね。

少し前にインスピレーションが与えられて、ある程度の次のレベルに達するにはあと3年だと瞑想中に言われたのでそんなに慌てることもないですね。3年って意外にあっという間ですしね。

そう言えば似たような物語を読んだことがあって、「貴方はあと〇回の転生で悟る」と言われた2人のうち、一人はそんなに転生が必要なのかと嘆いて、もう一人はたった○回でいいのかと喜んだらその瞬間に悟ったという割と有名と思われるお話がありますけど、私はどっちかというと「あとたった3年でいいのね」って感じでした。3年で悟るかどうかは言われてなくて単に次のレベルってだけですけど、それでも十分です。



今後来るスピリチュアルな世界に備えて論理思考を磨く

いずれ50年100年経った時にはスピリチュアルな世界になります。歴史を見ると今の時代が異常なだけで昔からスピリチュアルというか陰陽道というか魔法というか魔女の系統と言いますか、そのような超常的能力を使いこなす人々は一定数いました。

前世紀までに魔女狩りで魔女は減り、日本の陰陽道は明治政府の弾圧により惨殺され、今や残っているのは大した能力のない人たちだけです。本当に能力のある人は表に出ないか、あるいは、今生では能力を持たずに転生しています。そもそも能力がないのが一番安全ですからね。能力というのはいくらでも出し入れできるのですが、いったん生まれたら基本的に変えることはできません。

それは、ある意味、今後来るべきスピリチュアルな世界に備える、ということでもあるかもしれません。

次の世代あるいはそのまた次の世代になる頃には再度、スピリチュアルが当たり前の時代になります。

その時、今の時代に培った論理思考能力であるとかビジネス遂行能力とスピリチュアルが組み合わさって能力が倍増することになります。

昔のスピリチュアルな世界はどちらかというと論理思考が弱かったものでした。インスピレーション重視で物事の本質が全てわかったような気がしていたものでした。

今の時代はスピリチュアルを否定して論理思考に偏っていますが、それは、今までスピリチュアルで生きて来た人が論理思考を訓練する良い機会を与えていると言えると思います。

実際、今の時代に論理思考を避けてスピリチュアルを貫いている人は次の世代になってもそれを継続することが見えています。

むしろ、今の時代に論理思考にどっぷりと浸かってスピリチュアルを軽視している人たちが来世になってスピリチュアルな能力を開花させ、論理思考とスピリチュアルを統合して限りない能力を発揮してゆくのが見えます。

ですので、今は次のスピリチュアルな時代に備えるための重要な期間であると思うのです。

論理思考を毛嫌いせずに、今の時代は論理思考でだけ生きることができる稀有な時代であることを喜んで、論理思考をどんどんと学べば良いのです。

例えばコンピュータなど論理思考を学ぶ良い教材です。そのような仕事について論理思考を高めることで今までスピリチュアルな人に欠けていた論理思考を養うことができます。

私の場合にしてもまさにこれで、前にも書きましたが私の魂はいくつかのカルマの統合として成り立っていて、主たる魂は前世まででも男性でビジネスとかもしてきましたが論理思考より印象を重視するきらいがありました。このままでは次のスピリチュアルな時代において論理思考が足りないと思い、コンピュータを仕事にすることにしたのです。はっきり言って、今までの流れからしたら真逆です。かなり苦手な部類に入りますが、小学生の頃からコンピュータに触れて趣味でプログラミングなどもしたことで論理思考能力を養いました。他の人はもっとすぐに学ぶことができたりしましたが、私は時間がかかりました。それでも同年代の人よりはコンピュータに詳しいですが、それは単に長くやってきたからです。それだけ今世ではコンピュータを重視しました。

いくつかの前世では会社経営とか貿易ビジネスとか様々して来ましたが、どちらかというと人付き合いを重視していたように思います。今世では、特に苦手な論理思考を養うためにコンピュータを仕事に選んだと言えます。そして、それが次に来るスピリチュアルな時代に備えることになるわけです。

今の時代に論理思考を鍛えた人とスピリチュアルなまま通り抜けた人とでは、次の世代においてスピリチュアルが当たり前になった時に「論理思考+スピリチュアル」なのかスピリチュアルだけなのかで大きな違いになります。

今は、今後来るスピリチュアルな世界に備える時期だと思います。

その時になればスピリチュアルな方は大勢の方に自然に訪れますから、今から心配する必要はないと思います。スピリチュアルが普通に語られるようになりますのでスピリチュアルな能力を伸ばしやすくなります。



スピリチュアルな人は印象で他人をすぐに判断しがち

そうでない人も大勢いらっしゃいますけど、割と昔からスピリチュアルな人ほど他人をすぐに初印象で判断しがちな気が致します。特に生まれながらに能力がある人たちがその傾向が強い気が致します。

他人を理解する時に印象はある程度は参考になりますけど、深いところまで見ていないことがほとんどです。しかし、それでも人をすぐに判断してしまうという過ちをよく犯します。そして、時々、それが絶対的に正しいと思っていたりするのです。

本当にある程度他人を理解しようと思ったら、幽体離脱して他人の人生の過去と未来をある程度見る必要があります。それは時空を超えた活動でありますので時間でそのまま言い表すことは難しいですが、エネルギー的な消費量と幽体離脱の時の活動を普通の時間経過と合わせてみた場合は、だいたい3時間くらいで基本的なことは把握できます。

スピリチュアルな人が他人の印象を読み取って他人を理解したと思っているのは単なるファーストインプレッションであって、表面的な基本的な性質であり、それで読み取ったイメージを自分の好きなように解釈してしまうという過ちを犯しがちです。

実際のところ、人間というものはもっと複雑な生き物です。

基本的なことを理解するだけでも大体3時間はかかります。カウンセラーで優秀な人たちは翌日に来る相談者のことを前夜に3時間ほどかけて把握する、ということを行います。

そして、実際のカウンセリングで確認しつつ1時間なり数時間なり再度かけるわけです。

そこまでして、ようやく他人の内面に入り込んで現在の解決方法まで導き出してあげることができます。

それは、スピリチュアルな人がインスピレーションを元にして簡単に他人を判断してしまうのとは全く次元の異なる作業でもあります。

次元は異なりますけど、やっていることは割と似ているとも言えます。

印象で判断する、と言うのは幽体離脱においてもそれはそうです。そうして周囲から観察して判断するしかないわけですけれども、葛藤が作り出された大本の出来事にまで遡ってその時の時空に移動し、その人が感じた感情や表情を近くで観察して大本の原因を突き止めるわけですから、幽体離脱なしに印象を対面で受け取るのとは全く違うものです。

そのほかに、他人の中に潜り込んでオーラを同一にすることで相手を理解する、という方法もありますけど、宇宙の波動の法則からするとそれは他人への干渉になりますので世界によっては厳密に禁止されていたりします。地球じゃ割と野放しですけど、一人一人の成長や学びは違うのですから他人に迷惑をかけますし自分の成長も滞ってしまいます。オーラを同一にして他人を理解すると言う方法を抜かせば幽体離脱して時空を超えて過去の根本原因を観察すると言う方法が最上です。

それでも、他人の更に奥底を知るにはまたその大本の原因にまで遡らなければなりません。それは3時間では足りないかもしれませんし、見逃す可能性もあります。ですが、基本的には3時間で十分でしょう。慣れれば1〜2時間で基本的なことはわかります。そうして他人を理解することができたとしても、所詮はそれは他人の人生であり、他人の経験ですから、それを知ったところでどうなるものでもない・・・ ということもあります。そもそも、他人のことなんて気にする必要がない、と言う理解に達するわけですね。

ですが、その理解に達するまではスピリチュアルで他人の印象をすぐに判断しがちで、それで他人がわかったつもりになってしまうわけです。それはスピリチュアルの病理みたいなもので、誰しもが初心者のうちは通る道なのかもしれませんね。



我思う故に我ありと教えられて思考をフル回転させようとする愚かさ

子供の頃に先生から習ったでしょう。「我思う故に我あり」とか説明されて、「心が自分なんだ」「思いが君なんだ」「思考が君なんだ」と教えこまされたでしょう。 それ、嘘ですから。

いわゆる「頭の良い人」とは思考をフル回転させることができる人だと習ったでしょう。

延々と思考が続いて論理がフル回転し、話をし出したら止まらない人。いますよね。

学校の教育では「答え」を出す必要がありますから「問題」がインプットで頭をフル回転させて「答え」を出す機械の人間が頭が良いとされます。

それ自体は問題ないのですが、フル回転しなければ「自分」がいなくなってしまう、という根本理解が問題です。

だって、「我思う故に我あり」ですからね。

頭を回転させていなくて思考していなければ「私がない」ってことになってしまいますから、私が存続するためには必死になって頭をフル回転させる訳です。

思考を止めてしまったら「私」がいなくなる、ってことですから。

・・・これが、普通の教育で教えられることです。

「思考を止めるな」と教わります。・・・学校にもよるかもしれませんけど、少なくとも受験や勉強ではこの辺りが根本的思想になっていると思います。

思考を止めると私がいなくなってしまうのでしょうか? という子供の質問に対して先生は「そうだ」と答えたり、曖昧な答えでぼかします。子供は素直ですから、思考が私であるならば先日私が思い描いた残忍な思考や下ネタも全てが自分だと思って嫌悪感に浸ります。

この辺りの、「自分とは何か」という教えが、ヨーガやヴェーダで教えられているところと、学校教育で教えられている「我思う故に我あり」とで全く異なっています。

学校教育では「我思う故に我あり」ですから思考がなくなったら自分が消えて無くなり、残酷な考えを抱いたら自分が残忍だということであり、下ネタを思い描いたら自分がすけべだということになります。しかも、思考を止めたら自分がなくなってしまいますから考えを止めずに24時間ずっと思考を続けていることを強要します。・・・・まあ、先生によるのかもしれませんけどね。

昨今ではネットでの情報も増えて学校の先生のお話を真に受けることも少なくなったかもしれませんけど、一部ではまだこんな意味不明な教育が行われているように思います。

その愚かさの根本は、思考が自分だと思っている点です。じゃあ、思考がなくなったら自分もなくなるのでしょうか? 一部の教育者は思考がなくなったら自分がなくなると思っています。それが自我であると一部の教育者は主張します。

実際、考えるべきことはそんなに多くないのに、「自分」を失わないために思考を頭の中に詰め込んで24時間ずっと頭を動かし続けるというこの社会・・・・。まともではありませんよ。

その思考の中に、マスコミが埋め込む宣伝を入れたら消費者は一斉にそれを買うので会社は大儲けするでしょうし、戦争やヘイトスピーチ、いくらでも他人が大衆をコントロールできるようになります。

根本には、「我思う故に我あり」という間違った考えが浸透しているから大衆コントロールが簡単になっているのですよね。

何かの疑問やトピックに対しては全て答えを用意しておいて、その答えこそが正しいとすり込みさえすれば「反応」しかしないようになり、大衆の反応が予想可能になり、商売にせよ政治にせよいくらでも掌で踊らせることができるようになります。

その根本は「我思う故に我あり」だと思っているから、自分の頭を自分でコントロールできていないのですよね。ヨーガ的に言えば思考なんてのは一時的なものであって「自分」ではないです。思考を自分だと思っているから自己が汚れたとか自分が間違っているとか勘違いをするのですよ。

最近はこういうことを教えてくれる人も多いので、昔ほどは教育で汚されることも少なくなった気もしますけどね。それでも、特に年配に昔の教育の弊害が残っているような気が致します。



我思わなくても我あり

よく「我思う故に我あり」なんて言われてますけど、実際には、我思わなくても我あり、なのですよ。

だって、思考を止めたらあなたの体が消えてしまいますか? 消えないでしょ。

思考を止めても全く安全なのですよ。

「我思う故に我あり」なんて言ってるから精神病が生まれるのですし、あまり考えないで反射的にしか物事を捉えられない人が量産されます。

実際のところ、思わない時に何をしているかというと「じっくりと見る」ということをしています。思っている間は「じっくりと見る」なんてことはできないです。

ヨーガとかゾクチェンではその状態を「むきだしの心(が物事を観察する)」とか言ったりします。

頭でグルグルと物事を考えているときに「じっくりと見る」なんてことできないですよ。頭でグルグルと延々に回転させてできることは過去のノウハウを取り出すことだけで、「じっくりと見る」なんてのは不可能です。

この辺りが、本当の知恵者と小賢しい子知恵を働かせる人との違いですよね。

頭でグルグルと回転させて反応的に生きていたら物事の真の姿は見抜けなくて小賢しい知恵しか出てきません。しかもそれは自分が生み出したというよりは何処かから拾ってきた知恵でしかありませんから自分で生み出したものではない分、たちが悪いです。というのも、自分で生み出していませんから責任感が薄くて、愛着も少なくて、実行時にもやり遂げる責任感が足りず、自分がやっているという主体者意識にも欠けることになります。

小賢しい人はそれでいて知恵は回って自分のエゴを満足させようとしますから更に厄介です。こういう人が国や故郷及び自分がいる会社を売ったりするのですよね。小賢しい知恵者に権限を与えてはいけないですし、それでいて不遇だと思ってしまった小賢しい知恵者が工作することにも気を付けていなければなりません。最初から小賢しい人はグループに入れないことですよね。それでも多少は入ってきてしまうのが小賢しい人の厄介なところですけど、いくつも防波堤を築くことです。

物事を聞いたときにすぐ反応が返ってくる人は頭が良いと言えば良いですが、「我思う故に我あり」と思っているのか「我思わなくても我あり」と思っているのか、そこが大きな違いになります。

単純に頭の回転が早くて「我思わなくても我あり」と思っている人は優秀ですが、頭の回転が早くても「我思う故に我あり」と思っている人は小賢しいだけの人です。

これ、小さな違いに見えるかもしれませんけど、かなり大きな、絶対的な違いであって、そうそう超えられない壁になるほどの大きな違いです。

安全策を取るのであれば、頭の回転を抜きにして自分というものが何だと考えているのかを焦点にするべきかもしれませんね。今の社会はそうはなっていませんけどね。

瞑想的に考えるならば、現時点で頭の回転がそれほどではなくても、瞑想をして行くに連れて頭の回転は早くなります。ですから、本当に瞑想を突き詰めることができる環境があるのであれば根本的な「自分は何だと考えているのか」のみが重要になるのですけど、これはこれで、必ずしも瞑想でそこまでの境地にたどり着けるとは限らないのが困ったところです。

瞑想でそこまでの境地にたどり着くことが出来なくても、「我思わなくても我あり」ということを知っておくだけでも有益だと思います。


思考がなくなると貴方はいなくなるのかどうか? という点に関しては哲学者が様々に答えを考えてきました。ですけど、所詮はそれは頭で考えた答えなのですよね。

例えば意識だけのことを取り上げてみると、思考を止めたら貴方がなくなってしまうのならば、しばらく思考を止めた後にもう一度思考を開始することができるのはどういうことでしょう? 思考が自分で、思考が止まったら自分がなくなるのならば、なくなるというのはゼロですから、もう二度と思考できなくなってしまうわけでしょう。それとも、思考がなくなったら貴方というものはなくなってしまうけれども、また思考をしたら貴方が再度作られる、ということですか? だとしたら、前の貴方と新しい貴方との関係は何でしょう? 繋がりがあると考える哲学者と繋がりがないと考える哲学者がいるらしくて、前の思考と後の思考は繋がっていると考える哲学者と、前の思考と後の思考とは全く別の自分だと考える哲学者がいたりします。

・・・・こんな話を延々と聞いて、何か貴方の役に立ちますか? 単に頭の中でごちゃごちゃ考えているだけですよ。普通の人はそんな哲学者のグルグル思考に付き合う必要はないですよ。

ヨーガは、もっと単純な答えを用意しています。

思考が止まっても再度思考ができるということは、思考よりも根本のところに異なる根元の何かがあるということですよ。その根元の方をヨーガでは「私」と呼んでいて、ヨーガでは思考は「私ではない」としています。

だとしたら、「我思わなくても我あり」なのは当然でしょう。