肉体の口が何も喋らず黙っているのと同じように、思考する心であるマインドも黙ることができます。
そのようにマインドが黙った状態でも意識は働いていて、観察をしています。
しかしながら、瞑想をそれほどしていなくて意識が曇っている場合はマインドが黙ることはほとんどないですし、意識の観察もほんの僅かにしか動いていないわけです。それは厚い雲で覆われているかのように意識が見えなくなっている状態で、厚い雲の中に含まれている感情が度々マインドに現れてきて心の声・雑念がループしている状態になっているわけです。
その厚い雲を取り払う手法としてヨーガなどではクリア(浄化)の手法があったり瞑想そのものを訓練して少しずつ意識を覆い隠している覆いを取り除いていくわけです。
これらのことはヨーガの聖典であるヨーガ・スートラに述べられているように「心の波を止めること」ではあるのですけど、ここで止めるのはマインド(ヨーガでいうチッタ)の揺らぎを止めることであって、日本語訳では「止滅」とか表現されていますけど、文字通り捉えてしまうと「心をなくしてしまうこと」みたいな誤解がよくあるのですけど、そういうことではないのですよね。
止滅というよりは、もっと簡単なお話で、日常生活において道徳的な人は無駄なお喋りをせずに黙って静かにいることができますよね。道徳で言っているのは肉体の言葉として黙ることですけど、ヨーガスートラでは心の声を黙って静かにいましょう、と言っているだけなのです。
もちろん、肉体の口が黙っていたとしても必要な時は喋ることができますし、それと同様に、マインドとしての心の声が黙っていたとしても必要な時はマインドが動いて思考することができるわけです。
よくある誤解として、「心をなくしてしまって、一体どうするつもりなのだろうか」という批判がありますけど、ヨーガ・スートラで言っているのはそういうことではなくて、もっと単純で、肉体の口が黙って静かにいるのと同じように、心のマインドも静かにしましょう、と言っているだけなのですよね。
そうして、心の声が静かになって黙ることができるようになる時、ヨーガスートラではその次の節で「その時、見るものはそれ本来の状態に留まる」と書いてあって、文字通り読むとよくわからなかったりしますけど、これも文字通りというよりはもっと単純なことで、意識を覆い隠している厚い雲を取り除けばその奥にある意識がそれ本来の状態に戻って意識が働き出す、と言っているだけなのですよね。
ですから、そのように心の声が静かになることと厚い雲を取り除くことは割と同時に進展して行くことということもできますし同じことを違った表現しているだけ、とも言えるわけです。
そうして、マインドの心が黙ることができるとその奥にある意識がありありと現れてきて、意識がマインドを動かして、かつ、意識がマインドを観察している、ということがはっきりと識別できるようになるわけです。
そのように、意識が背後にある状態でマインドが意識的に黙ることもできますし、意識的にマインドを使って思考することもできるわけです。マインドが意識的に黙る、というのは語弊があるかもしれませんけど、意識的に黙る、というよりは、意識を明示的に働かせずに静かな状態に保つことによってマインドを動かさない状態に意図する、というのが表現的には正しいかもしれません。
それは肉体の口が黙るのと同じで、肉体の口が黙る時は2つの方法があって、何か他のものに意識を集中させることで黙る方法と、あとは、単に静かに座って黙る方法とがありますけど、ここで言っているのは後者に近くて、意識がマインドを働かせないことによって黙ることができるわけです。
最初は、マインドとしての心の動きがなくなってしまうと何もないかのように感じられてしまって「自分がない」状態として感じられるかもしれません。それは意識が厚い雲に覆われていて意識があまり現れていないからそのように思うわけで、そのような状態では次々にマインドを働かせることによって「自分」としての存在を維持しているわけです。ですけど、ヨーガやヴェーダンタが伝えるところによればマインドは「自分」ではないのですよね。マインドはただの「道具」にしか過ぎなくて、「自分」は意識の方なわけです。
マインドとしての自分しか感じられなくて意識の方の自分を感じられない人が割と現代には多くて、そのような状態ですと、「マインドとしての自分をなくしてしまったら、それで一体どうすればいいというのか」みたいな誤解をしてしまうわけです。マインドは道具でしかなくて意識の方が自分なのですから、マインドが黙ったとしても意識としての自分は存在し続けるわけで、ですから、マインドが黙っても全く問題なくて必要な時に必要な思考をすれば良いだけなのですけど、マインドが自分だと思っている人は次々に思考を繰り広げて思考を止めようとしないわけです。そのようなマインドの働きの作用が「自分」という錯覚を作り上げているというのはヨーガ的に言えば「アハンカーラ」の働きで、マインドを働かせた反作用として本来ないものである感覚が生まれて「自分」という錯覚を作り上げているわけです。
そのような錯覚を乗り越えて、マインドが働かなくても自分が「意識」として存在していることを認識すればマインドが黙ろうが働こうがあまり関係がなくて、慣用句で言われているように「意識的な生活」を送ることができるわけです。