最近は、主に瞑想の中で自らのマインドおよびアートマンが光であることを自覚し始めたわけですけれども、そうして少し瞑想をしていると、割とすぐに、自らの肉体の体も光であることを自覚し始めます。
それは理屈でどうこういうお話ではなくて、割と率直に「あ、光だ」と「わかる」ことであって、「確かに、よく言われているように、私は光だった」と、ただ単にシンプルに自覚するというお話です。
ですから、物理学とかを持ち出してきて量子力学で言われているように光と波動がどうのこうのこうのとか、そういうのも真実なのかもしれませんけどこれはもっと単純なお話で、この体は光だった、と、単純にそれを自覚するだけのお話なのです。
ですから、これ以上の難しいお話は特にないと言えばないのですけど、見ようによって色々な側面があって、光とは言っても体が実際にあるじゃないか、というお話はそれはそうなのですけど、それは光が一時的に体というものに遮られて輝きが今まで失われていただけのことで、本来的には体は光を放っているわけです。
体そのものが光か、というと今のところの感覚では、「たぶんそうだけれども、体という形、光とは違った姿を今は取っている」という感じです。ですから、光が元になっているのはおそらくそうなのですけど、その形はそう簡単に崩れることはなくて、固形の形態を取ってはいるものの、元は光なわけです。
私の場合、周囲にある固形の物体もおそらく光なのだろうは思いつつも周囲の物体に関してはそれほど自覚がなくて、光だと主に感じているのは自らの肉体の体までですけど、肉体の自らの体のことで言いますと、光と物理的な肉体とが混ざっているような感覚があります。
おそらくは、それほど瞑想していない状態では物理的な体が優勢で、瞑想することにより光が高まる、ということかなと思っております。ですから、周囲にある固形物は光をそれほど放っていないわけです。
今はまだまだですけど、おそらくはこれが進んでいけば自らの体が光として溶け去ったり時空を越えやすくなったり、ということもあるのかなと思いますが生きているうちにどこまで行くのかは分かりませんけど。
昔の文献を読むとミラレパなどは肉体を持ったままそのまま時空を越えられたり生きたまま光になって空間に溶け込んだりまた空間から現れたり、ということができるようになったというお話があって、私はまだまだそんな段階ではないですけど、おそらくはそういうこともこの延長線上では可能なのかなと思います。