■「ムーラダーラ・スワディスタナ・マニプラ」の段階から「アナハタ・ヴィシュッダ・アジナ」の段階へ
上記を総合すると、どうやらこの後はアナハタ・ヴィシュッダ・アジナが段階に進むと言うよりはアナハタとヴィシュッダとアジナの3つが協調して成長する段階だと解釈できます。これは、最近の瞑想でアナハタだけでなくヴィシュッダやアジナ(眉間、後頭部など)の感覚が竜巻経験後に急に色々と感じられているので、きっとそうなのかなと言う気がしています。この3つが次第に優勢になってゆくのかな、と言う気がしています。
■感情の変化。「熱」が喜びで「暖」は落ち着き。禅定との関連。
感情的にも変化があって、第2回目のクンダリーニ後はとにかく喜びがありましたが、今は喜びよりも落ち着きがあります。前記事に記載したように第一禅定が「喜び」で第二禅定が「思考が止まり、楽になる」ですが、禅定の深まりがチャクラの段階と似ているのが興味深いです。言うなれば第2回目のクンダリーニ後・竜巻前が第一禅定と似ていて「喜び」で、竜巻後が「思考が止まり、楽になる」という感覚と似ています。
第2回目のクンダリーニ後は「ムーラダーラ・スワディスタナ・マニプラ」が優勢になり、感情的にも「喜び」になり、今はとりあえずアナハタ優勢で、ヴィシュッダとアジナはそれほど優勢ではありませんが感覚が出てきており、感情的にも「落ち着き」と言うか、鏡で自分の表情を見ても割と普通な感じになってきています。第2回目のクンダリーニ後は変化が激しくて、とにかく嬉しくて表情に喜びが出るくらいでしたが、今は表情は割と普通な感じです。それでも胸のポカポカはあるのですが、外目にはもしかしたら以前の第2回目クンダリーニ後・竜巻以前の方が輝いて見えていたかもしれませんね。人間っぽさを醸し出すいわゆる情とか感情的な愛着を司るのはマニプラで、アナハタは愛を司るとは言っても情とは違う愛を司るので、なかなかこの感覚を表現するのは難しいかもしれません。感情的に言うなれば竜巻後は上のように第二禅定での「思考が止まり、楽になる」とでも言うのでしょうが、マニプラでは物事に対して良い悪いの区別があってそれに「共感」をして情で癒すような愛着のような執着のような感覚があったのに対し、アナハタにおいては良いことも悪いことも全て宇宙の法則に従って動いているのだから何一つ悪いこともないのだと言う平安な境地が得られるのだと思います。マニプラにおいては他人に同情して助けたりする感情や哀愁が働きますが、アナハタにおいては感情や哀愁で動くと言うよりはもっと深いところからの訴えというか要求が伝えられた時に必要ならば助けるというか勝手に体が動く、というような違いがあると思います。
■性的欲求の違い
前記事に書きましたように第2回目クンダリーニでは性的欲求がかなり減ってエネルギーがポジティブなものに変化と言いますか性的なものに根元エネルギーが使われずによりポジティブなものに使われるようになりましたが、それでも、多少は性的欲求は残っていました。その時点でかなり性的欲求は減り、コントロールがとてもし易くはなったものの、性的な欲求に惹かれると時々は下の世界に落ち込むこともあったように思います。その都度、ポジティブなものに集中し直したり瞑想したりして一時的に下の世界に落ち込んでいた自分の状態をポジティブで上向きな状態に引き戻していました。今回の竜巻の経験の後はその落ち込み具合が軽傷になったと言いますか、性的欲求自体が一段上のポジティブな状態に変化したような気がします。もともと第2回目クンダリーニの時点でかなり性的欲求はポジティブなものに解消され、数値化するならば性欲が10分の1になってその分だけポジティブなエネルギー、生命力に使われるようになって元気になりましたが、その時点では残された性欲のコントロールやその質の「ポテンシャル」はまだ元の質で性欲の量だけが10分の1になったように思います。竜巻後は、その残された性欲の質自体が変わってきたように思います。以前は、性欲が減ったとはいえ質は元のままで、性欲が優勢になると割と昔ながらの肉欲と言いますか普通の性的欲求がそれでも残っている感じではありましたが、今は、完全とは言えませんが性欲の質自体がポジティブなエネルギーに変わってきましたので、今の状態で性欲が優勢になったとしてもそれはポジティブなエネルギーの活性化に近いものに変わってきたように思います。この辺り、なかなか言葉で説明するのが難しいです。性欲自体がなくなったわけではないのですが。 数値で書くと以下のようになります。
- ヨガを始める前は性欲150で制御が困難な状態
- ヨガを初めて性欲がコントロールしやすくなる。性欲100、その後少しずつ低下
- 第2回目クンダリーニで性欲10へ
- 今回の竜巻の経験で性欲1へ
第2回クンダリーニ後はポジティブになって「喜び」の状態が続きました。それは愛とも言えますが相手に対する愛ではなく自分自身への愛でしたので誰かと話してニコニコしていて外目には私がその人を好きかのように見えたとしても、そのニコニコと喜びは誰に対しても同じく感じるニコニコと喜びでしたので、勘違いされているかもしれない場面もありました。その時の「喜び」は情愛というほどドロドロしてはいなくて割とクールな喜びではありますが、それでも「熱」のある喜びでした。そんな感じで、近くにいるものや人に対して自然に分け隔てなく喜びを感じていました。自分自身がポカポカして喜んでいるのが基本にあって、割と周囲のものや人に対しても同じように接しているような感覚です。誰がいるから好きだとか、そういう条件付きの感覚ではありません。でも、それはその後次第にその感情は落ち着いてきて、「喜び」は感情の少ないものに変わってきて、時々平衡感覚を失って調子が狂う時もあったのですが、今回の竜巻でこのあたりに大きな変化がありました。
今回の竜巻の後は、とにかく「好き」な感覚が続くようになりました。前の「熱」ほどはポカポカしていませんが、「暖」というくらいがちょうど良いかもしれません。「好き」とは言いましても、特に何か対象がある訳でもありません。不思議な感覚です。私の心はこの種の感覚を味わったことがあまりないので、困惑しています。困惑しているので、心は何か対象を求めてしまっている感じです。心が言うには、「これは何か理由があるのだろうか。この好きな感覚の対象はどこにあるのだろうか」と。昔ながらの癖で何か対象を求めてしまいがちですが、好きであることに特に何か理由がある訳でもなさそうです。誰かを好きになったり何かを楽しみにしていたり何かに期待していたりという訳でもなく、とにかく理由もなく「好き」なのです。あえて言うのであれば「地球さん大好き」とでも言うのでしょうが、確かにこの地球は素晴らしいとは思うのですが、この「好き」の感覚は特に対象がなくてもいいというか実際に対象はないので「地球さん大好き」と言うのも微妙に違う気もします。恋愛などにおける「情」に基づいた「恋」や「好き」とは違う感じです。理由はありませんがとにかく「好き」なのです。家族愛に近いものでしょうか? 家族が近くにいるとこんな感じかもしれません。この感覚は家族がいるいないに限らず続く、不思議な感覚です。まだ竜巻経験後数日しか経っていないので様子見ではありますが。おそらくは、私の心の「癖」がまだ残っていて、今まではこの感覚に対して対象があったので昔の癖で「心」が「対象」を求めてしまっているのだと思います。しかし、やがて心は対象を探すのに疲れるかあるいは探すのを諦めて、「好き」の状態のまま留まるのかな、という予感がしています。今はちょっと過渡期なので心が混乱していますし、心がその対象を探してもどこにも見つかりませんし、「好き」の対象は「ハート」でもなくて心それ自身でもなくて、どこを探しても見つかりません。今の所は、瞑想と同じように心を集中して落ち着かせることで混乱を治めていますが、おそらくはそのうち落ち着くだろうという予感がしています。又、これは瞑想中だけでなく平素の生活の中で心を落ち着かせる段階、いわば生活そのものを瞑想としてゆく段階にそろそろ来ているのかもしれないと感じています。その予感もあります。
■目に見えない自分の体から異物を取り除く
そういえば、この竜巻の経験をした日の前日の晩だったか当日の朝でしたか、とても気分が悪かったことを思い出しました。このことと風のルンの竜巻とがどれだけ関係しているのかは分かりませんが、これらは時間的に半日以内に起きたことですので、一応、書いておきます。その時、根拠はないのですが何か体の上半身から右腕にかけて引き裂かれているような気がしていました。この感覚は、外出後にたまにある感覚です。おそらくは外で何か目に見えない重いものを拾ってきたのかなと理解していました。大体の場合は軽くシャワーを浴びれば治るのですが、この時はまだ感覚が残っていました。その時、布団の中で横たわりながら、私はそれは何なのかイメージを試みていました。おそらく、としか言えませんが、右腕の肘の上あたりから心臓にかけて、蔓のような、あるいは、触覚のある意識体かもしれない何かが絡んでいるイメージが出てきたので、これまたイメージで右手をピースの形にしてから人差し指と中指を少し折り曲げて絡んでいる蔓のようなものを引っ掛けて引っ張り出して外に放り投げたところ、楽になりました。頭のズシンとした感覚が急に緩んで緊張が取れたので、これは確かなものです。何かエネルギーを吸い取られていたのかもしれません。スピリチュアルなことって最近は楽しいことばかりフォーカスされていますけど、この種の異物に限りませんけど割と怖いことが多いと言うのが私の印象です。蔓を出したことで大分楽にはなったのですがまだ何か体の中に残っていないか更に探りを入れて、心臓のハートのあたりにまだ絡んで残っている細い糸のようなものも引き抜いて、ハート周囲にあるネバネバとした蜘蛛の巣あるいはネットのようなものも掃除しました。引き抜いた後はイメージ上でその傷跡を埋めるような感じで表面を揃えて処置完了しました。まあ、イメージ上のことですけど、緊張は急に取れましたし、これだけでもかなり心境は違うのです。実際はプラシーボかもしれませんけど、たとえプラシーボだったとしてもメンタル的に効果があるのならばそれはそれでOKだと思っています。スピリチュアル的な観点から言えば、エネルギーを好物にしている異界の変な意識体が絡みついてきた可能性、あるいは、誰かの能力で他人からエネルギーを吸い取るパイプを植え付けられた可能性があります。まあ、ほとんどの人はこう言うことに無頓着で、信じられない人も多いでしょうけどね。スピリチュアル的な「技」ってのはかなり危険で、自分が力をつけるかあるいは強力な守護霊に守られてでもいないと割とこの世界は危ないと思います。前にも書きましたが、術としての強さと霊的な成長とは比例しないので邪悪で強い存在もいますから怖いのです。