■眉間で安定
竜巻の経験の前は眉間に集中すると安定しないことが時々あり、後頭部への集中の方が安定していました。頭の上の集中についても同様で安定しませんでしたが、竜巻の経験の後は眉間も頭の上も、どちらも安定します。今は、特別に後頭部への集中ということを意識することもなくなりました。竜巻以前はマニプラ優勢でしたが今はアナハタ優勢ということと、竜巻以前は今ほど後頭部に何かがある感じはしていませんでしたが今は後頭部を特別に意識しなくても何かが常にある感じですので後頭部へ意識を集中する必要がなくて、ただ単に眉間に意識を置いて集中するかどうかだけのシンプルなお話になりました。
■「統合されたチャクラ」とマニプラ
以前引用した「統合されたチャクラ」はアナハタ中心のお話ですが、それ以前にも第2回目クンダリーニ後にマニプラが優勢になった時はチャクラがよくわからない感じになり、マニプラ中心という違いこそあれ「統合されたチャクラ」と言えなくもないものの似て非なる状態になった気がします。一部にチャクラ不要論とかありますけど、この状態なら勘違いするかもしれないです。
このあたりに思いを巡らせていたところ(おそらく私の内なるガイドから)インスピレーションが来て「(第2回目の)クンダリーニ開放直後はオーラが発散していただけだ」と言う説明と「神道の神秘(山蔭 基央 著)」にある「自分の御霊(オーラ)をお腹に収める」図が浮かんできました。同書によると「一般の人々の魂は、身体の周りにブワーッと錯乱している。それを凝集させるのが”鎮魂”である 」とあります。
同書によれば、最近のスピリチュアルやいわゆる霊感が強いと言われている人は実際にはオーラがだらしなく発散していて中心に収まっておらず、発散しているオーラが周囲と無秩序に反応しているだけで、それで霊感が強い気がしているが実際はコントロールされていない、修行が全然足りていない危険な状態だと言います。修行によって御霊(オーラ)を自分の中心(お腹)に収める必要がある、とのことです。あのままクンダリーニ直後で何もせずに「これで完成」とか勘違いしていたら同じようにだらしないオーラのままだったのかもしれない、とふと思いました。オーラは身体に被さるように離れて存在しており、同書の言うようにオーラがお腹の中にすっぽり収まるというのは私には良くわかりませんが、少なくともそれほど発散していない状態に最近はなってきたと思っています。クンダリーニ直後はオーラが発散しがちなのでコントロールが難しいですがそれでもしっかりオーラをコントロールしてチャクラがわかるような状態になって、それからヴィシュヌ・グランティを越えてアナハタに移行してからようやく「統合されたチャクラ」の状態ができてくると解釈しました。
■「心」は有限で無常だった。では、「私」も有限で無常とはどういうことか?
前に書きましたように、瞑想中に眉間の感覚を観察することで「雑念」が「ひらがな3文字」くらいで崩れ去る状態には割とすぐに入れるようになりました。これはいわば「心」が有限で無常であることを体感することだったと思います。今まで、聖典などで心は有限で無常だから心は魂(ヨガやヴェーダで言うアートマン)ではない、などと言う知識はあったものの、具体的にそれがどう言うことなのかあまりわからずにいました。今回、心のあらわれである雑念あるいは何がしかの思いが現れては消えることをまざまざと観察できたことにより、今まで知識だった「心とは無常である」と言うことを「体感」できたと思います。これによって、かなり私の中で「心」に対する執着と言いますか心に対する謎と言いますかベールが取れて、よりスッキリしたように思います。おそらく、単に瞑想して雑念が消えるのを観察しただけでは無常だと体感することはなくて前提条件としてヴィシュヌ・グランティを超えていたから無常だとわかったのだと思います。単なる集中力で観察することとハートで無常を体感することは違うとでも言いますか。
これで、心は有限で無常だと言うことが瞑想で確かめられました。でも、これで瞑想の道が終わりとは思えません。次は何をしたら良いのでしょうか? と思って書籍をあたったところ、次の課題は「私」が無常であることを体感することだと思いました。一応、書籍には答えがそのものズバリ書いてはあります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」には「『私』がいると思っていたが誤解だった。ものの無常だけではない。この『私』さえも、消滅を続ける心・認識の連続だけだった」と書いてあります。これは割と書籍でよく見るお話です。私は今の所「心の無常さ」は体験したものの、ここまでの境地には至っていません。昔に何度も読んだときは「心の無常」がまだ体験できていませんでしたのでこの認識に至る前提条件がまだ整っていなかったように思います。今、「心の無常」を経たことによって、この前提条件が一つ整ったのでは? と言う気がしています。他にも前提条件がまだ必要なのかもしれないのですが、少なくとも1つは前提条件を満たしたと思います。
これは、いわゆる「私とは何か?」「私は誰か?」の瞑想だと思います。ラマナ・マハルシがよく問いかけていますね。そのあたりに更なるヒントがあるかもしれません。同じ書籍でも、自分の認識が変わってから再度読むと新たな発見があって面白いです。
■うなじ下(大椎?)の脈拍&ポカポカと、首後ろのポカポカはほとんど消えました
うなじ下(大椎?)の脈拍とポカポカは前に書きましたように早い段階で消えて、つい数日前まで残っていた首後ろのポカポカはほとんど消え、まだ若干暖かく残っているくらいです。
■日常生活における「努力のいらない」観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)
まだ常にそうできると言うわけではないものの、特に瞑想を終えた後、雑念がなくてそのまま日常生活の動きを続けられるようになってきました。そのとき、「努力のいらない(集中する必要のない、観察しようと思わなくても良い)観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)」ができている感じです。今までは、行動するときは何かの衝動あるいは雑念と共に行動してきましたので、観察すると言うよりは心を見ながら体を動かしていたと思います。しかし、体が動いている時に雑念がなければ努力なしに体の動きを細部まで観察することができることに気が付きました。今まで、ヴィパッサナー瞑想と言うと息だとか思考だとか感覚だとか「何か1点」を観察することだと思っていましたが、このような雑念がない状態ではもっと広く自分の動きを観察できますね。例えば、意識的にこの状態に入るために深呼吸をして最初は息に集中して雑念を停止させ、雑念は停止させたままで、息に対する観察をなるべく体全体に広げて行動します。すると、体が何やらふわふわと浮いているような、とても軽い、不思議な感覚になります。その時、体の各所、皮膚の上に薄くオーラが感じられます。ただ、まだそれほど気付きが深くありませんのですぐに状態が途切れてしまうのですが。
以前には目に意識を集中して似たように視野において隅から隅まで全部の動きを俯瞰するような観察瞑想をして面白く感じたことがありますが、今回は視野ではなく体の感覚で全身を観察瞑想するような感じです。流石に視野と体の感覚の両方は一度には観察瞑想は今のところできませんけど。
■四沙門果(ししゃもんか)
「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」にはテーラワーダ仏教に基いた悟りの4ステージが説明されています。同書から引用します。
- 預流果(よるか)無常だとわかったので「私」や「私の生涯」や「私の家族」や「私の所有物」などについて、何となく諦めがつくようになる。説法を聞くだけで至ることもできる。世間的な欲や怒りは、まだまだかなりある段階。
- 一来果(いちらいか)煩悩がかなり弱まる。相変わらず欲しくなったり怒ったりするのですが、すぐに「まあいいか。こんな程度のこと」などと醒めてしまって、欲や怒りが大きくならない。欲しがっても、すぐに「まあ、別にいらないね」と思い直して気持ちが治る。怒っても、怒鳴ったりとか、夜中にわら人形を打つほどの執念はなく、「まあ、いいか。このくらいのこと」と、すぐに気分が穏やかになる。
- 不還果(ふげんか)煩悩が断ち切れる。お腹が空くなどと言う感覚は残るが、欲望は消える。異性への関心がなくなり、心が揺れ動かなくなる。禅定に熟達している人がほとんど。「私」と言う感覚はまだ残っている。
- 阿羅漢果(あらかんか)「私」がなくなる。「私」と言う感覚が消え、錯覚・誤解だったとわかる。「私」がなくなることで煩悩も完全に消える。完全に清らかな状態。
- 預流果は私の基本で、生まれてこの方、こうではなかった時は思い当たりません。人生においてストレスを感じて調子を崩したりもしましたが、立ち戻るところは常にここでした。(表現としては預流果と言うのは当時は知らなかったとはいえ)
- 一来果は第2回目クンダリーニ後の状態と似ている気がします。
- 不還果は今回の竜巻の後は似た状態になっている気がします。特に性欲。
- 阿羅漢果は「私」に関する謎解きはこれからの課題ですね。