雑念が減り、「いま」に生きる

2019-07-20 記
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

[風のルンの竜巻の経験から15日後]

■「今に生きる」ことと「雑念」の相関関係
雑念がほとんどなく、心が曇りの少ない鏡、あるいは、風の少ない水面のように穏やかな状態こそが「今に生きる」ことなのだと思いました。と、言いますのも、雑念は往々にして「過去」あるいは「未来」に心を引っ張っていってしまうからです。未来の希望を想像したり、過去の思いに浸ったり。「雑念」と「今」とはなかなか結びつかないものだと思います。前に書いた、生活上でのヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)も同じようなことを意味しています。今に生きているからこそ日常生活において全身を観察する瞑想ができますし、全身を観察できている時は雑念は少なくて落ち着いていて安らぎを感じられている筈です。

雑念がなければ「今」に生きていて体の状態が隅々まで観察できていて喜びあるいは安らぎを感じることができます。逆に、雑念がある時は「今」に生きていなくて体の状態も隅々まで観察できていなくて喜びあるいは安らぎをあまり感じられないのです。「今に生きる」ことと「雑念」には相関関係があるようです。

スピリチュアルで「今に生きる」ことは重要だと散々色々なところで言われていますし、頭ではその事を理解していましたが、今回は体で強烈にこのことを体験しています。もちろん以前にも段々と雑念が減って、言おうと思えば「今に生きる」と言えなくもない変化もありましたが、それはあくまでも「点(その一瞬だけ)」としての「今」だったことが多く、今回のように「線(10秒以下の連続)」として「行動の間しばらく今に生きている状態を保つ」と言う意味においては竜巻の経験の後で初めて達した状態のように思います。竜巻の経験後、このくらいの状態がスピリチュアルでいう「今に生きる」ことなのかもしれないと自分の中で腑に落ちました。

今後、これが更に時間が伸びるのかあるいは面になってゆくのかわかりませんが、これまた、ありのまま「今」を観察していきたいと思います。ここで私は「今後の変化に期待したいです」とは言わないです。そう言う気持ちもなくはないですが、期待というのは未来への雑念ですので、今に生きるのであればその気持ちは本来不要な筈ですので。

「ライトボディの目覚め」によると、とある段階(第七レベル)において、はるかに「いま」のなか行動するようになると言います。

このカルマ・ゲームではあなたの精神体は未来のなかで生きています。それはいつも「もしもこうなれば」というふうに生きているのです。感情体は過去の中で生きていて、あなたがかつて体験したことによって引き金が引かれます。だから、目の前で起きていることは、正確に言うとほとんど体験していないことになります。ライトボディ第七レベルにおいて、あなたは「いま」を体験しはじめます。それは本当に気持ちのいいものです。

この書籍で言うところの第七レベルが私の状態に近い気がします。このレベルはアナハタ・チャクラが活性化し始める段階です。この文章で言うところの「精神体」とは未来への願望や希望、「感情体」は過去のトラウマなどと考えるとよくわかります。未来への希望や願望を考えることで今に生きることが難しくなり、過去のトラウマがあると今に生きることが難しくなります。確かに、このように2つに分けた方が分かりやすいですね。そして、このレベルに達して初めて「今」に生き始めるのだとすればなかなか面白い段階にまでようやく至ったとも言えると思っています。

このことに気づいてから、瞑想の位置付けが少し変化したように思います。今までは雑念を減らしたり安らぎや平穏の境地が目的でしたが、ここにきて「今に生きる」ために瞑想を使うようになってきました。「今に生きていない時に瞑想をして今に生きるように自分を調整し直す」とでも言いましょうか。もちろん、今までのような瞑想がなくなったわけではなくて目的と言いますか使い方が1つ加わったと言うことですが。

これは、竜巻の経験でアナハタ優勢になる前は(私にとって)なかなかできなかったことです。

「ライトボディの目覚め」の言葉を借りると「なんとなく追いついた」感じがしています。「いま」に生きることもそうですし、魂(スピリット)に従って生きることもそうです。以前は、頭でそうは分かっていてもどこかピンときていないところがありました。アナハタ優勢になって初めて「いま」に生きることや魂(スピリット)に従って生きることが体全体で理解というかしっくりくるようになって、今まで頭で考えて理解しいたところにようやく体全体の実際のオーラの状態がなんとなく「追いついた」のだと感じれています。「いま」に生きることも魂(スピリット)に委ねて生きることも、今まではどこか深く分かっていなかったのが、この書籍で言うところの第七レベルでようやく実際にそうなってきた、と言う感覚です。



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