[風のルンの竜巻の経験から16日後]
■スピリチュアルでの「感じること」の意味
竜巻の4日後くらいから瞑想が変化して、その頃から眉間に意識を当てて感覚の観察をすると雑念が「ひらがな2〜3文字」で消えるようになりましたが、今日は雑念がほとんどなしで感覚を観察し続ける瞑想がある程度(30秒〜数分?)続きました。時間ははっきりとはわからないのです。と言いますのも、心でカウントしたりマントラ唱えたりするんのであればどのくらいの長さかわかるのですが、「感覚」の観察をして、その間の雑念が出てきてもすぐに雑念をなくす方向に意識が動いていますので時間はよく分からないのです。とても表現し辛いのですが、この観察瞑想の基本は「感覚」で、具体的には「息」を「感覚で感じる(観察する)」ことが基本で、それに加えて体の各所の感覚を感じます。その観察は意識の「深い」ところで行なっているのですが、その一方で、意識の「浅い」ところでいわゆる「心」が雑念として動き出すのですが、浅いところで「心」が動くと何かちょっと苦しさを感じるので雑念が「ひらがな1文字」出るか出ないかで体が拒否反応を示して「心」の雑念を押さえ込んでしまいます。この時、雑念がいわゆる「心」として出てくると「トゲトゲしい」感覚があって拒否してしまうのです。それは、雑念が「ひらがな0.5文字くらい」で消える感じです。こうなるのは瞑想が深まった時のお話で常にそうというわけでもないのですが、この種の状態になると観察だけがずっと続いて時間の感覚が薄れてゆきます。その上で、いわゆる「心」の荒い感覚には興味がなくなってゆきます。おそらくは、微細な感覚にフォーカスが当たっているのでそれよりも荒い心の動きは激しすぎて苦しく感じてしまうのかなとも思います。リラックスと言えばそうなのですが、喜びというのとはちょっと違っていて、安堵や安らぎと言った方が近いです。意識が「感覚」を観察し続けることが「細かな」感覚だとすれば、「心」の動きは「荒い」感覚です。昔はこの「心」と「意識」の違いがあまり区別できなかったのですが、最近は割とこの「細かな感覚」と「荒い感覚」の違いがよくわかります。これが、スピリチュアルでよく言われる「感じること」の意味なのかもしれません。この種の「微細な意識」は、いわゆる雑念を「(心で)聞く」とか「(心で)思う」とは違っていて、もっと根源の「感じる」感覚です。
心であれば「聞く(受信)」と「思う(発信)」が対になっていますが、今のところ、微細な意識に関しては「感じる(受信)」のみです。心が「発する」機能もあるのであれば「感じる(受信)」だけでなく感覚を「送る(送信)」機能もきっとあるのではないかと思いますが、それはまだわかりません。今は相手がいなくて1人で座って瞑想しているだけなので「(感覚を)送る(送信)」は今は試せていません。とりあえずは「感じる(受信)」ことをもっと続けてみたいと思います。
■いわゆる「無」と今回の状態の違い
以前に書いた「いわゆる無」は割と雑念が多い時のお話で、(微細な)意識も(荒い)心も両方「ギュッ」と抑えて停止させて一時的なくつろぎを得ていました。しかし、今回の場合は微細な意識は動いたままで、心はほぼ停止するものの以前のように力強く意思の力を働かせて「ギュッ」と抑え込む必要なしに心に雑念が浮かぶか浮かばないかの瞬時のうちに感覚的に自動的に「なにかの触媒」に反応してその心の動きが勝手に止まってゆく、と言う種類のものです。その状態を、(意識と比較すると荒い)心の動きのみに注目すれば「いわゆる無」と似てはいますが、意識で押さえ込んでいるわけではありませんし、今回の場合「意識」は動いていますので、今回の状態を「いわゆる無」とは言えない感じです。言うなればヴィパッサナー瞑想と言えるのかもしれませんが、私の知っている各流派のヴィパッサナー瞑想とも細かなところが違うので、そのまんまヴィパッサナー瞑想とも言い辛い感じです。別に、何か学んでこうした訳ではありませんが、色々と違う感じです。