■意識の拡大? 光の広がり・強まり?
心を動かさずに息などを観察していると胸の意識が拡大してきました。胸のあたりが「グッ」と広がる感覚。と同時に、意識がよりはっきりしてきました。それを「意識の拡大」とも言えるかもしれないし、「光の広がり・強まり」とも言えるかもしれないです。
■心の無常の体感について補足
先日書いた「心の有限さを感じること」を少し補足します。今回、ヴィシュヌ・グランティを超えてアナハタ(ハート)優勢になることでいわゆる「意識」が活性化していわゆる「心」の半分から同程度にまで意識が表に出てきました。その状態で「意識」が「心」を観察することで無情を(ハートで)体感する、という意味になります。アナハタ優勢になる以前は「意識」がはっきりしておらず「心」が「意識」よりも優勢な状態ですので瞑想で「心」を観察しようとしても「観察する側(見る側)」である「意識」がぼんやりとしているのでうまく観察できなかったのです。アナハタ優勢になることで「観察(見る)側」である「意識」が活性化して、その状態でようやく「心」を観察できるようになりました。
■アナハタ優勢になるまではヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)とサマタ瞑想(集中瞑想)は同じ?
以前にも書きましたが、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の基礎は同じだと思います。この辺りは「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」にも記載があって、外見的なやり方や必要な集中力はほとんど同じであると書かれています。どの辺りから違いが出てくるのかあまりピンときていませんでしたが、どうやら今回のアナハタ優勢になる段階くらいで違いが出てくるような気がしてきました。
ただ、これは流派によって違う言い方をすることがあって、実際のところヨガ系瞑想(一般にはそれはサマタ瞑想だと思われている)であっても内実はヴィパッサナー瞑想だったりしますので、一般論としてのお話をそのまま流派での瞑想の手法とをそのまま結びつけることはできないことを補足しておきます。
■心で観察するか、意識で観察するか。
今回竜巻の経験でアナハタ優勢になる前には、上に書きましたように「意識」がぼんやりとしていて観察がうまくできなかったのですが、それでもヴィパッサナー瞑想を試みる時は「心」で「感覚」を観察しようとしていましたが、これはうまくいきませんでした。そして、アナハタ優勢になった後は「意識」が「見る側(観察する側)」になったように思います。これは大きな違いです。
「心」で見るというのは、随分と回りくどい(というか本質的ではない?)ことだと今は思います。感覚が体のどこかで感じられて「意識」にザワッと来るのをそのまま観察すればいいだけなのに、わざわざそこから「心」が反応して「触れた」「離れた」「チクチクする」「サワサワする」とか、いわゆる雑念を作り出さなければならないからです。その心の動きにはエネルギーが必要ですから、意識で感じるだけであればとても省エネですし。
むしろ、「心」すらも「見られる側」であるとすればスッキリします。「意識」が「感覚」だけでなく「心」も観察するのであれば、感覚の動きも心の微細な動きもよく観察できることになります。この状態においては、ありきたりの感覚は意識で観察して終わりですけど、普段あまり感じていない感覚が来た時に心が言語化するところまで観察できます。どのように感じていて、心がその感覚をどのように言葉として解釈するのかまで事細かに見るのがヴィパッサナー的瞑想だと思います。「感覚」は「ありのまま」で、「心」が「解釈」を司る仕組みを分離できることは、「ありのまま(の感覚)」は変化させずに後から「(心の)解釈」だけをやり直すことだってできますから。
それはそうで、ヨガ的には「心」は「道具」であって、見る側(観察する側)ではありません。更には、ヨガでは「心は自分ではない」と言いますが、世間一般の精神分析などでは「心が私」とか言いますので、このあたりに混乱があります。ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)では「観察」という言葉に惑わされて、「私(であるところの心)が観察する」と勘違いしてしまいがちですが、実際は「心」ではなく「意識」で観察するということです。この辺り、人によっては「心」を「心と意識」という意味で使っていたりしますのでコンテキストの解釈が難しい時もあるのですが、ここでは心が「道具」で雑念や分析を司るとすれば、それを観察する側が「意識」という位置付けで書いています。
■「統合されたチャクラ」と「チャクラがわからない」感覚
以前何度か(1回目,2回目)「統合されたチャクラ」を取り上げましたけど、この種の状態ではチャクラがわからなくなることもありました。私のチャクラに関する感覚を以下にまとめておきます。
- クンダリーニ2回目経験前はチャクラの感覚がほとんどなく、特に下半身の感覚はゼロ。せいぜい瞑想やマントラ時に眉間がザワザワというかジワジワとした感覚になる程度。ムーラダーラは電気ショックのようなジワっというかピリピリした感覚が時々あり(特にプラナヤーマの時)。ハートに何かあるような無いようなぼんやりとした感覚のみ。他人の思いを感じると喉のあたりがイガイガすることあり。この段階は「チャクラが(ほとんど)わからない」状態だったと言えます。
- クンダリーニ2回目以降は体全体がポカポカと「熱」を浴びて熱かったです。特に下半身が熱かったですがムーラダーラからアナハタくらいまでの区別なく満遍なく暖かかったです。以前の記事2回目に書きましたように、オーラが発散している状態だったのだと思います。この時も、割と「チャクラが分からない」状態でした。
- やがて熱が収まり、今回の竜巻の経験で「暖」の状態になってアナハタ優勢になりました。ここに来てようやくアナハタとマニプラの区別がよくつくようになりました。その一方で、アナハタが優勢に変わっていわゆる「統合されたチャクラ」として次第に他のチャクラと合わさってゆくのを感じます。ただ、それはチャクラの区別がないのではなくて調和してチャクラが動作する種類のものです。ですから、チャクラは確かに存在するけれども、(私の場合は)チャクラの区別がつくようになったら割とすぐに「統合されたチャクラ」として協調して動き出したので、またすぐにチャクラが分からない状態になるのかな・・・ という気もします。
私は完全なベジタリアンではないですが、今回の竜巻の経験の数ヶ月くらい前からお肉はほとんど食べなくなっていました。ベジタリアンは栄養に不安がありますしお肉やお魚もバランスよく食べたいとは思っていましたが、2年くらい前から少しだけお肉の頻度が下がって鶏肉中心に選ぶようになり、その後、1年くらい前から更にお肉の頻度が下がり始め、ここ数ヶ月に至ってはほとんど食べなくなっていました。とは言いましても日本では調味料や出汁および醤油などに魚などが使われていますので、厳密なベジタリアンを目指していたわけではありません。主なモチベーションとしては、単純に「お肉を食べると気持ち悪くなるようになってきた」というものです。ただ単に、食べてフレッシュできる新鮮な野菜や果物や何かを食べたいと思うようになっただけのことで、それがたまたまお肉の頻度を減らしただけのことでした。
特に豚肉は苦手で、たまに栄養のために味噌で味付けして食べたりもしましたが、最近はほとんど食べません。牛肉も栄養のために食べたりもしましたが、以前は美味しく食べていた気がするのですが、最近は食べても美味しく感じませんし、牛肉のステーキなどを食べたいとも思わないようになってきています。鶏肉はそれでも最近までたまに食べていたのですが、頻度はかなり落ちています。お肉が美味しいというよりもタレが美味しく感じていただけかもしれないです。昔の記憶で美味しい高い焼肉屋とかの記憶とかはありますけど、別にそんなの食べなくてもいいかな、という感じです。まあ、高い焼肉屋はそれはそれで美味しいのだとは思いますが。たぶん。
ベジタリアン食に関しては今回の竜巻がはっきりとした境になっているわけではありませんが、お肉の頻度が下がってきてある程度の閾値に達したところで今回の竜巻の経験が起きたような感じです。竜巻の経験の前後にはお肉はほとんど食べたいと思わなくなっており、貰い物や外食などで頂くときは食べますが、積極的にお肉を食べたいというモチベーションはほとんどなくなっています。
そもそも、最近の食事があまりにもシンプル過ぎて、特徴もなくなってきているというのもあるのですが。それでも修行者のように「おかゆと塩と1品」ってことはないですけどね。そこまでシンプルではありませんので、たぶん十分なのだと思います。