サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想と”意”と”識”

2019-07-27 記
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

■心が一枚岩だという誤解によりヴィパッサナー瞑想が生まれた?
先日引用した「釈尊の生涯 (中村 元 著)」の通り、仏教経典には第四禅定で悟りになっているようです。禅定というのはいわゆるサマタ瞑想です。一般にはそのように考えられています。アビダンマ仏教などではヴィパッサナー瞑想という概念を使って、禅定の後に観察瞑想を行うことで悟りに至ると説明されています。

ブッダが第四禅定で悟ったとは、一体どういうことでしょう? 仮説ではありますが、ブッダの時代の禅定はヴィパッサナー瞑想相当だった、とも考えられます。 このあたり、本当に混乱するのですが、前提条件として「心」が何なのかが異なっていると意味合いも異なってくるのです。まず、心が「顕在意識(いわゆる論理思考の表面な意識)」のみであるという前提がサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想という2つの概念を作り出しているような気がします。一方で、ブッダの言う「心」は「顕在意識」のみならず「潜在意識」をも含み、むしろ「潜在意識」を中心に「心」と言っているのでサマタだとかヴィパッサナーだとか言う区分はなくなると思います。

■サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想と”意”と”識”
区分けしてみますと、本当にスッキリします。

意(顕在意識)身心脱落識(潜在意識)
1ありなし(未達)なし(隠れている)
2あり/なしあり(可能)あり

・顕在意識での瞑想がサマタ瞑想。瞑想初心者はここから開始。禅定で達成できるのもサマタ瞑想の禅定のみ。
・潜在意識での瞑想がヴィパッサナー瞑想。先日の記事の「身心脱落 」に至ることで潜在意識が表に出てくるとすれば、その段階に至って初めてヴィパッサナー瞑想が可能になるのだと思います。それ以前は潜在意識でのヴィパッサナー瞑想は不可能。それ以前は形式だけヴィパッサナー瞑想だとしても潜在意識を使ったヴィパッサナー瞑想は不可能だと思います。この状態での禅定で達成できるのはヴィパッサナー瞑想的な禅定。最近の用語ではこれは禅定とは言わないようですが、推測ですがブッダの時代にはこれも禅定と言っていたのではないでしょうか。仮説ですが。自分で禅定を体験してみると、禅定の状態でも潜在意識は停止しませんので、よく書籍で見るように「禅定はサマタ瞑想だから心が停止してしまうだけなので一時的な安らぎに過ぎない」とか書いてあることの意味がわかるようでいてしっくりきません。先日の引用記事にて、ヨーガで止滅させるのは”意”であって”識”ではない、とありますが、この説明を流用して、「禅定はサマタ瞑想だから意が停止します。身心脱落に至っていれば識がありますが至っていなければ識はまだありません(あるいはぼんやりとしています)」とだけ言ってもらった方がスッキリします。一時的な安らぎとかなんとか言われても、なんだかお茶を濁しているように感じてしまいます。禅定で「意」が止まると言うことならそれはそうですけど、身心脱落の後であればそれでも同時に「識」は動いていますから、その禅定は同時にヴィパッサナー瞑想でもあるわけです。その状態になった時、その瞑想をサマタ瞑想と呼ぶのでしょうか? それともヴィパッサナー瞑想と呼ぶのでしょうか? 微妙ですよね。

同じ禅定で”意”を停止した場合、”識”が動いていなければ(身心脱落の前)それをサマタ瞑想と呼んで、”識”が動いている(身心脱落の後)のであればそれをヴィパッサナー瞑想と呼ぶのであれば、それはそうかなと思いますが、そのような区分けは聞いたことがありません。従来の瞑想の区分けですと、”意”で観察している時も(形式によって)ヴィパッサナー瞑想と呼んでしまうので、何が何だかよく分からなくなります。”識”で観察している時だけヴィパッサナー瞑想と呼べばいいのにと思うのですが、それよりも瞑想の形式でヴィパッサナー瞑想と呼んだりしていると思います。

今の混乱した用語のままですと、”意”を停止させてサマタ瞑想をしていても”識”が動いているのであればヴィパッサナー瞑想相当ですが本人は自分の瞑想のことをサマタ瞑想と言ったりするかもしれません。もしかしたら仏教原典に書かれたブッダの禅定とはこのことかなと推測するのですが。であれば、身心脱落により”識”が動いているブッダが禅定でサマタ瞑想に入って”意”を止めて”識”だけで観察するヴィパッサナー瞑想で悟った、と言うのはすんなり理解できます。

どうも、この種の用語はブッダ本人ではなく、後の世代の人が身心脱落に至ることなく、”識”とは何なのかを体感することなく”意”のみでブッダの瞑想を理解したことによってサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想という区分が出来てしまったのではないかと推測したりするのですが、どうですかね。もちろん仮説ですけれども。仮説はさておき、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想との区分けは今日の考察で私的には随分とスッキリしました。