心身脱落と禅定との関係

2019-07-30 記
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

今朝、息や体の感覚を観察しつつ執着や貧欲が体のどこかに眠っていないか探るように瞑想していました。すると、いつの間にか足の存在の感覚が半分くらい薄れて、手を足に乗せているところが触れている感覚だけが残っていました。完全に足がないわけではありませんが、感覚が薄れています。今回は「体の一部がなくなる感覚」と言えばそうなのですが、今まではそもそも体の感覚がそれほど認識できていなかったのが、今回は体の全体に意識が行き届いたために体の一部がないかのような感覚になった、とでも言いますか。体が意識できていなければそもそも「なくなる感覚」なんてできないので以前はこんな感じにはなりませんでした。言葉でうまく表現できているかどうかわかりませんが。今までは息の観察や体の観察をするにしても部分的に観察をしていました。息であれば鼻とか肺とか、気の流れであれば体の内的感覚であるとか、皮膚の感覚であれば皮膚の反応があった時にそこを観察するとか。ですが、今朝の場合は体全体に薄い感覚が広がっていて、オーラっぽいものが体の全体に広がっているのを感じつつ、瞑想中に足の一部が何か薄れて存在がなくなるかのような感じになったのです。これはひょっとしたら、なくなったのではなくて、そこだけオーラが薄れたとか、エネルギー的な偏差が体の一部で生じたとか、そのようなものかもしれないと思いました。様子見ではありますけど。

「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」には、「最初の身の脱落は、空間に溶けてゆく感覚だが、そこに全身全霊で浸りきることが、心の作用の止滅へと繋がってゆく。」とあります。

先日引用した部分に相当しますね。私のやっていることの方向性は合っていそうですのでこのまま続けてみることにします。座った方がしやすそうですが必ずしも座った瞑想中でないとできないようなものでもなさそうですので、普段の生活でも感覚を眺めつつ様子をみることにします。同書によりますと「体」の脱落が先で「心」の脱落が後だと言います。個人的にはこれは同じもので体が脱落すれば心も脱落すると言いますか全部一度に落ちるわけではなくて体が少し落ちれば心も少し落ちて、心が少し落ちれば体も少し落ちて、というように協調して落ちて行く気がしていますが、今後は体が先に脱落するようになるのでしょうか? 同書の理屈でいえばその順番になるのは理屈ではわかる気もしますけど、実際のところどうなのかな? という気もします。まあ、この辺りも様子見ですね。

■心身脱落と禅定との関係
先日の続きです。書籍ではこのような分類は見つけられませんが、私自身の感覚に基づいて心身脱落と禅定との関係をまとめてみます。他で言っても通じないとは思います。メモ相当です。

  • ステップ1(禅定以前):心身脱落前の(意・顕在意識による)サマタ瞑想あるいは心身脱落前の(意・顕在意識による)ヴィパッサナー瞑想で基本的な集中力と基本的な観察力を鍛える。
  • ステップ2:心身脱落前の(意・顕在意識による)サマタ瞑想で第一禅定(心はまだ動いており、基本的な集中による喜びの感覚があります)
  • ステップ3:心身脱落前の(意・顕在意識による)サマタ瞑想で第二禅定(心が静寂になり統一され、本当の意味での禅定の達成)
  • ステップ4:心身脱落の初期段階で第三禅定を達成し、識(潜在意識)によるヴィパッサナー瞑想が可能になる。
  • ステップ5:(今後)おそらくは・・・ 心身脱落の完成によって意・顕在意識が完全に落ちて第四禅定に至り、識(潜在意識)によるヴィパッサナー瞑想の状態になるのだと推測します。ヴィパッサナー瞑想的に見ればこれは禅定とは言わずにヴィパッサナー瞑想なのでしょうが、先日の記事のような視点でサマタ瞑想的に見れば第四禅定となり、実際の状態は同じなのではないでしょうか。もともとブッダの言葉で第四禅定が悟りになっているのはこの種の意味で第四禅定であれば確かに悟りとも言えるのかな、という気もします。禅定とヴィパッサナー瞑想が別々にあるのではなく、実質は一緒なのかな、という気がします。
今はサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想が手法や流派によって分かれているので理解が難しいことになっていますが、実際のところ、ブッダはこのような区別はしていなかったのではないか・・・??? という気がしています。もちろん、これは私がそう勝手に思っているだけで、書物で見たことはありませんので、他のところで言っても通用しないと思いますが。単なる個人的な推測です。

サマタ瞑想論者は「集中していけば第四禅定に至って悟ることができる・・・」と思っているかもしれませんし、一方で、ヴィパッサナー瞑想の論者は基本的な集中力の必要さは認めているものの「観察さえしていけば悟ることができる・・・」と思っているかもしれません。少なくとも、私の基本的な両者への理解はこんな感じです。ですが、ブッダがそんな分類なんてしていなくて、本当に単純なことを言っていただけだったような気がします。それは例えば「意(顕在意識)を止めて心身脱落すれば(それまでは隠れていた)識(潜在意識・アートマン)が現れてきて、識(潜在意識・アートマン)で観察をすれば悟りに至ることができる」というようなことかなという気がいたします。

■心身脱落なし(心身脱落前)でのサマタ瞑想
対比のために、心身脱落なし(心身脱落前)でサマタ瞑想を考えてみます。

  • ステップ1(禅定以前):上と同じ
  • ステップ2:上と同じ。第一禅定
  • ステップ3:上と同じ。第二禅定
  • ステップ4:第三禅定は心身脱落なし(心身脱落前)に可能なのでしょうか・・・?
  • ステップ5:第四禅定も、心身脱落なし(心身脱落前)に可能なのでしょうか・・・?
第三禅定と第四禅定が心身脱落なしに可能だとしたら、よく見る禅定の説明にあるように「(心身脱落前のサマタ瞑想による)禅定は一時的な安らぎ」というのも、そうなのかもしれない、という気がします。

■心身脱落なし(心身脱落前)でのヴィパッサナー瞑想
対比のために、心身脱落なし(心身脱落前)でヴィパッサナー瞑想を考えてみます。この場合、意・顕在意識による観察ということになります。この場合、心身脱落なし(心身脱落前)ですので識(潜在意識)による観察はできません。

  • ステップ1(禅定以前):上と同じ
  • ステップ2:ヴィパッサナー瞑想と言いつつも意・顕在意識による観察ですから集中力がある程度にまで高まれば第一禅定には至る気がします。
  • ステップ3:ステップ2と同様。実のところ集中瞑想をして第二禅定に至ることはある気がします。
  • ステップ4:第三禅定は心身脱落なし(心身脱落前)に可能なのでしょうか・・・?
  • ステップ5:第四禅定も、心身脱落なし(心身脱落前)に可能なのでしょうか・・・?
おそらくは、ヴィパッサナー瞑想と言いつつも実態は集中をある程度高めないとステップを進まない気がしますが・・・ どうなのでしょう。

それぞれ簡単に考察してみましたが、サマタとかヴィパッサナーとか拘らずにステップごとに必要なものを学んだ方がいいような気がします。そもそもブッダの原文を見ますとそれほどこの分類に拘っているような感じは受けませんし。ブッダの禅定の発言の中にもヴィパッサナー的な視点は読み取れますし、ブッダのヴィパッサナー瞑想の説明の中に禅定的な視点も読み取れます。

ヴィパッサナー論者は「観察瞑想とは言ってもある程度の集中は必要」と言いますが、サマタ瞑想とかヴィパッサナー瞑想とかいう区分けを取っ払って、第二禅定に至るまではサマタ(観察)瞑想8割、ヴィパッサナー(観察)瞑想2割くらいで基本は集中瞑想にして心を平穏にして、第三禅定以降でヴィパッサナー瞑想の割合を増やして行くのがいいのかな、という気もします。流派によってはサマタ瞑想を最初にやってヴィパッサナー瞑想をその後にするそうですが、その理屈はこんなところかもしれません。その流派にこの辺りを聞いたことはありませんが、そのうち機会があれば聞いてみたいとは思います。サマタ瞑想からヴィパッサナー瞑想への移行はそれなりに瞑想が進まないと移らないとすれば、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の切り替えは数ヵ月から年単位になる気がします。



十牛図とナーダ音(次の記事)