先日書きましたように、最近は瞑想をして眉間に集中をすることで意(顕在意識)が出てもすぐに消えていわゆる「定(じょう)」とでも言うべき安定した状態には入れるようになったのですが、その状態で、何か奥底からザワザワとしたものが出てきて揺さぶられたり、何かちょっとした重要ではないイメージが見えたり、外が一瞬見えた気がしたり、今更ながら急に雑念がザワッと出てきたりして、なんだこれ??? と思っていたりしました。何かが間違っていて、逆戻りして瞑想が変になった可能性も含めて瞑想を観察して、なるべく取り込まれないように「定(じょう)」に立ち戻ろうとしていましたが、なんだかうまくいかない日もあったりして、どうしたものかと思っていました。ヨーガの瞑想の基本は、何か見えたり聞こえたりしても重要ではないので無視すること、と言うのが基本にありますので何を見たかと言う点に関してはそれほど重要視はしていないのですが、それよりも、このような現象一般が起こることに対しての全般的な理解が欲しかったのです。
そんな時、調べ物をしていたところこの記述を発見しました。私の状態が似ているかもしれません。
誰でも坐に慣れてある程度定力が熟してくると、まず手の感覚がなくなり、次に足の感覚がなくなる、といった具合に自分と外界との隔てがだんだんとなくなってくるであろう。(中略)そのいい気持ちになって陶酔できるほどに定力が練れてきたころになると、定中にいろいろな現象が現れることがある。その現象にはよいものもあれば悪いものもあるが、それらをひっくるめて古来「魔境」と呼んでいる。 (中略)魔境の起こるのは禅定力がある程度熟した証拠であることは間違いない。
先日 から、体の感覚がなくなる、と言う感じになってきたかと思ったら急に次は魔境です。まだ魔境というほど酷い魔境には出くわしていないですが、これから酷くなるのでしょうか? 魔境が禅定力が熟した証拠と言うことは、いわゆる雑念で混乱している状態のことは魔境とは言わないのですね。
われわれが座禅三昧にはいると、いわゆる意馬心猿(いばしんえん、煩悩・欲情・妄想)が静まってくる。静止状態になるのである。そこで潜在意識の煩悩の活動が表面化され、そこにいわゆる魔境を現出するのである。意識の動きが休止して、その底にひそむ無意識層が表面に現れるのだから、これを定力の効験だといっても、いっこうさしつかえないわけである。
無意識に眠っている、ヨーガ的に言えばサムスカーラと言う「印象」が深いところから出てきて魔境を作り出すのだ、と解釈できます。著者は次のように続けます。
真実の自己を悟るために座禅するのだから、いかに無意識界だといっても翻弄されているわけにはいかない。そこで「仏に逢うては仏を斬り、祖に逢うては祖を斬る」で、勇猛心をふるい起こして定中に幻出する一切の現象を粉砕してゆかねばならないのである。(中略)禅定中には、仏が現れても、光明を見ても、絶対の無が現れても、善境悪境ともにひっくるめてこれを魔境と心得、木っ端微塵に粉砕してしまうがいいのである。
仏を斬るのは魔境についてのお話で、いわゆる普通の雑念を斬るのとはちょっと違うのかもしれませんね。両方なのかもしれませんが。ここまで言い切る著者の大森曹玄氏はどのような方かと思いましたが、臨済宗で花園大学学長も勤められた方だとか。そのような方がおっしゃるからには、きっとそう言うことなのでしょう。
おそらくは、基本は今の瞑想を続ければいいのだと解釈しました。