2分のディヤーナと感謝の瞑想

2019-08-04 記
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

■2分でディヤーナ(瞑想)、30分でサマーディ(三昧)
今朝、雑念なく息を観察する瞑想がしばらく続きました。雑念がないのでカウントすらできませんが、おそらくは数分以内だったように思います。スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャーヨーガ」に以下のようにあります。

もし心がその中心に12秒間集中することができるなら、それはダーラナー(集中)であり、12のそのようなダーラナーはディヤーナ(瞑想)であり、そして12のそのようなディヤーナはサマーディであろう。

実のところはよく分かりませんが。意識がなかっただけでもっと長かったのかもしれません。スワミ・ヴィヴェーカーナンダの定義によりますと「心が集中」ということですが、私の場合「息を観察」という違いはありますけど、おそらく本質は同じことを意味しているかなと思っております。言い換えるならば、「息を観察して12秒続けばダーラナ(集中)、その12倍続けばディヤーナ(瞑想)、その12倍続けばサマーディ」という感じでしょうか。2分でディヤーナ(瞑想)、30分でサマーディ(三昧)、という換算ですね。であれば、私の場合は今の所ディヤーナ(瞑想)の段階にいると判断できそうです。途中で雑念でちょっと途切れた場合などをどうカウントするのかというお話は微妙なところですが。瞑想していてそのような気付いていない中断はちょこちょことありそうです。

■凄いと思われなくなってようやく一流
先日読んだ「参禅入門(大森 曹玄 著)」にそのようなことが書いてあったのを思い出しました。
周囲から凄いとか思われているうちはまだまだで、何にも思われなくなってスルーされるようになってようやく一流であると。

思うに、チャクラ的に言うとマニプラ優勢の場合はエネルギッシュで傍目から見ても元気そうに見える気がします。
しかし、アナハタ優勢になるとそのエネルギッシュさが静かな物になります。マニプラが「熱」だとすればアナハタが「暖」であり、であればマニプラの「熱」の方が一見すると凄そうに見えるのもわかる気がします。

マニプラくらいであれば「暖」なのでなんとなくわかるのですが、それ以上のヴィシュッダとかアジナとかになると書物によればどうやら「冷」になるようなので、きっとますます傍目には分からなくなる気が致します。私は割と今はアナハタ優勢ですので「暖」の状態で、なんと言いますか・・・、割と「普通の人」になってきた感じが致します。特段私が「凄い」とかそう言うことは全然ないですし、むしろ、そこらで歩いている普通のおじさんやおばちゃん、おじいちゃんやおばあちゃんの方がよっぽど真理がわかっているんじゃないかなあ・・・ と思うくらいです。ここ数年は、「あれ? かなりの人は実は既に悟っていて、私の成長が遅れていただけだったのかも?」とすら思っています。特にマニプラ優勢になって以降はそんな思いが強いです。ですから、意外にこの世は悟っている人が多いんじゃないのかなあ・・・ という気もしています。まあ、日本のお話ですけどね。

■瞑想とナーダ音と息
ハタヨガプラピディカにはナーダ音に集中する瞑想も書いてありますけど、今朝の場合は息を観察する瞑想をしていますのでナーダ音は気にしていませんでした。と言いますか、息を観察しているとナーダ音のことが気にならないと言いますか、意識の中にナーダ音が入ってきません。かと言ってナーダ音がなくなったわけでもなく、息の観察が途切れるとナーダ音があることに気づくとでも言いましょうか・・・。普通の音でもそうですよね。ずっと鳴っている何かの音だとしたら特別意識しないでもその音はずっとそこにあるわけですけれどもあまり意識しなくなります。それと同じで、ナーダ音もずっとそこにあるわけですが、息を観察している間は意識からナーダ音は外れると言いますか。

ひょっとしたら、これこそがハタヨガプラピディカの以下の記述に繋がっているのかもしれません。

4章101ー102番)アナーハタ音のひびきが聞こえている間は虚空についての想念はまだ存在している。かの音がないところが至上の梵、至上の我であるとうたわれている。およそ音の形で聞こえるものはシャクティに外ならない。すべての存在の没入する場であり、そしてなんらの形相の無いものこそが至上我である。(アナーハタ音とはナーダ音のことです。至上我とはアートマンのこと。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」より。)他著者のバーションもあります。過去記事参照。

今日の瞑想では、まず、息を観察して瞑想していると自身が静かになってゆきました。息の観察が途切れて顕在意識が動くとナーダ音が聞こえます。息の観察によって顕在意識がほとんど動いていない状態であればナーダ音は意識に入ってきません。現在の瞑想がアートマンを掴んだとは到底思えていませんが、これらの、顕在意識とナーダ音の聞こえ方の関係から、上記のハタヨガプラピディカの記述そのものではないにせよ、部分的に似通った部分があることがわかります。引用文の「虚空」は解釈が微妙ですが、「ナーダ音が聞こえている間は想念は存在している」ということであれば「ナーダ音が聞こえている間は顕在意識は動いている」と読み替えることができると思います。ナーダ音が聞こえないところはどこか・・・? それは「息」。このあたりに秘密がありそうです。

■感謝の瞑想
先日まで「許す瞑想」をしてきましたが、今日は感謝の瞑想に自然になりました。特に計画をしていたわけでもないのですが、なんとなくしっくりくるからしただけです。先日と同じように「〇〇さんありがとうございます。〇〇さんありがとうございます。」を色々と繰り返して、人だけでなく物や自然や地球さんなども気が向くままに感謝をします。先日の方式に倣って、最初は「(私が)〇〇さん ありがとうございます」から始めて、やがて「(神様が)感謝しています」「(神様によって)感謝されています」のように主体を切り替えてみました。

この瞑想をすると眉間に意識が集まって、何やら眉間のところで螺旋状の竜巻みたいなものを感じます。やがて、エネルギーが眉間に集まるのですが、お腹のマニプラあたりに何かネガティブなものが溜まっているらしく、感謝の瞑想をするとそこのエネルギーの通りがあまり良くなくてちょっとじんわりときていましたが、感謝の瞑想を続けるにつれてマニプラあたりのエネルギーの通りも割と良くなってきました。

先日の竜巻の経験 でアナハタ優勢に変わりましたが、その時はまだヴィシュッダやアジナにそれほどエネルギーがある感じではありませんでした。そもそも竜巻の経験の前はヴィシュッダやアジナにエネルギーがあまりなかったので、竜巻の経験でエネルギーが頭の方まで通るようにはなったのですが、それでも、それほどエネルギーがある感じではなかったということです。その後も、瞑想中は集中することでエネルギーがアナハタからヴィシュッダやアジナに一時的には集まるのですがやはりアナハタ優勢でした。だいたい2対8くらいの割合でアナハタ優勢だったでしょうか。

しかし、この感謝の瞑想をしたら4対6くらいに比率が変わりました。依然としてアナハタ優勢ではありますが、ヴィシュッダやアジナにエネルギーが留まりやすくなったように思います。感謝の瞑想に何かの鍵がある気がしてきました。まあ、昔から良いとされてきた感謝の瞑想ですので、悪いわけがないとは思います。この感謝の瞑想をすると、瞑想が終わった後もアジナに静電気のような感覚がしばらく残っています。