ヨーガスートラはマニプラ以下を主に扱う?

2019-08-07 記
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

ヨーガスートラの主目的は低次サイキック領域(マニプラ以下)から高位サイキック領域(アナハタ以上)に移行することだと解釈しました。

これはインド系ヨーギの解釈というよりは、神智学的な解釈になります。実際のところ同じなのかとは思いますが幾つかの解説書を確認したところ、ここまではっきりと同様のことを記載してあるのは神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」くらいでした。他の解説書でも高次の認識について記載があるので言及はされているのですが、ヨーガスートラの八支則(アシュタンガ・ヨーガ)は基本的に低次サイキック(マニプラ以下)の克服について記載されています。高次サイキック(アナハタ以上)はウパニシャッドの領域になると思われます。

ヨーガスートラ3章7〜8番にて、八支則の位置付けが示されています。

3章7〜8番)これら3つ((ダーラナ、ディアーナ、サマーディ)は、その前のもの(ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ)よりもっと内面的である。しかしそれらさえ、種子のないもの(サマーディ)の外側である。(「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」)

これは、神智学的には次のように解釈できます。

・八支則の最初の5つ(ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ):準備段階
・八支則の最後の3つ(ダーラナ、ディアーナ、いわゆるサマーディ(サビージャ・サマーディ、有種子三昧)):内的なもの。低位サイキック領域(マニプラ以下)
・八支則を超えたもの。真のサマーディ(いわゆるニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)。高位サイキック領域(アナハタ以上)

ヨーガスートラは基礎なわけですね。何事も基礎が重要なのだと思います。

ヴィヴェーカーナンダは真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に至る前段階のサマーディについて以下のように記しています。

3章9番の解説)サマーディのこの最初の段階では、心の変化は制御されているが完全にはではない。なぜならもし完全に制御されていたなら、様相もないだろう。もしそこに、感覚を通ってとびだすよう心をうながす変化があり、ヨーギーがそれを制御しようと努めるなら、まさにその制御自体が一つの変化であろう。一つの波がもう一つの波でとめられる。ゆえにそれは、すべての波が静まる真のサマーディではないだろう。制御それ自体が一つの波なのであるから。それでも、このより低いサマーディは、心が泡立ち騒いでいる時よりは遥かに、より高いサマーディに近いのである。

と、言うことは、多少の心の波があったとしても基礎的なサマーディと呼んで良いと言うことなのですね。サマーディは色々と種類があり過ぎてどれがどうなのかいまいち解りづらいですが、少なくとも最後の目標地点はこれでかなり明らかになったように思います。瞑想にしてもそうですが、サマーディも自称であったりする場合が多いので、なかなか解りづらいところがあります。

これは、「魂の光(アリス・ベイリー 著)」では以下のように説明されています。

3章9番)メンタル的な状態は以下のようにして連続して起こる。つまり、見たものにマインドが反応し、マインドによる統御の瞬間がそれに続く。さらに、チッタ(マインド・スタッフ)がこの両方の要素に反応する。そして最終的に、これらは消え去り、知覚する意識が完全に支配する。

これまた、分かるような分からないような微妙なお話です。私はこのあたりをもう少し瞑想する必要がありそうです。マインドはいわゆる心で顕在意識であり、チッタはサンスクリットで言うところのマインド相当(微妙に違いますけど)。ちょっと訳が微妙と言いますか。英語とサンスクリットを混ぜずにいっその事全部サンスクリットで書いてもらった方が有難いのですが。ですが、きっと元々のサンスクリットが微妙なのでしょう。

「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」では以下のように訳されています。こちらの方が分かりが良いかもしれません。

生起してくる印象(サンスカーラ、雑念)は、それに代わる新たな心の作用を生むところの抑止の努力の出現によって、止滅される。この、新たな作用と心の結合の刹那が、二ローダ・パリナーマ(止滅転換)である。

どうやら、これこそが「二ローダ」のようです。と言いますのも、ヨーガスートラの最初の方にある有名なヨガの定義にこの「二ローダ」が言われているからです。以前 引用した文章が以下です。

「心(チッタ、Citta)の作用(働き、諸状態)を止滅することがヨーガ」(Yogaヨーガ・Chittaチッタ・Vrittiヴィリッティ・Nirodhahニローダ)
「そのとき、見る者はそれ本来の状態に留まる」(Tadaタダ・Drashtuhドラシュトゥ・Svarupeスワルーパ・Vasthanamヴァスターナ)

と、言うことは、真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に達することで二ローダが達成できる、と言うことなのだと解釈できます。
その次に続くヨーガのもう一つの定義は軽視されがちですけどこちらも重要で、これはいわゆる「アートマンの出現」のことだと思います。

瞑想をしてサマーディに達し、真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に達することで二ローダ(止滅)を達成して、アートマンを出現させる、と言うところがヨーガスートラの範疇であると考えられます。これは以前 禅の十牛図 を調べた時にヨーガスートラとウパニシャッドの領域がそれぞれ明らかになりましたが、同様のことを意味していると思われます。