先日の続きです。
フォーカスポイントに玉のような感覚が出来て雑念が浮かびにくくなったわけですけれども、それに加えて、次のような変化がありました。
以前は、集中と雑念がそれぞれ依存関係にあると言いますか、集中すれば雑念がそれに引っ張られて雑念が止まったり、あるいは、雑念が起これば集中が途切れる、というように相関関係が見られました。
今回の変化の以降は、この結びつきがかなり緩くなりました。
集中は集中として眉間のフォーカスポイントに玉を作り続け、かと言って、その集中が時折聞こえる雑念・・・ ともまた違う感じですがとりあえず雑念としておきますが、その雑念を妨げないのです。逆も同様で、とりあえず雑念としておきますが雑念のような何かのインプットがあっても集中を妨げずに眉間のフォーカスポイントに玉を作り続けるのです。
雑念よりももっと微細な意思のような気もしますので、雑念と言ってしまうといわゆる心というかマインド的なものを意味しますけど、それよりも微細な感覚な気が致します。言葉にするとどちらも「心」だったり「マインド」だったり「雑念」と言うことになるのかもしれませんけど。
そのように、「集中」と「雑念(心、マインド)」が分離してきたわけです。
「集中と雑念(心、マインド)が分離」と言う表現はちょっと誤解がありそうですので、別の表現をすると以下のようになります。
「集中」は顕在意識における「思考」としての心、マインド、雑念と結びついており、集中している間は「思考」は止まり、同レベルにおける雑念も止まる。
一方、集中して思考が止まっている間であっても「想念」としての心、マインド、雑念は動いている。あるいは、その想念はどこかから流れたりしてきている。
と、このようなことなのかな? と言う気が致します。
以前は「思考」と「想念」がごっちゃになっていて、今回のことで「想念」が見えてきた、と言うことなのかもしれません。
「想念」と言う言い方が必ずしも正しいとは限りませんけど、対比して言うならばこんな感じです。
■客観視
これを、人によってはもしかしたら古来から「客観視」とか言ってきたのかもしれないですけど、この感覚をそのまんま表現するならば客観視と言うのは語弊がある言い方のような気が致します。と言うのも、客観視というと「自分」がどこか「彼方」から、例えばゲームキャラクタのように俯瞰することをイメージしてしまいがちですけれども、この種の想念の観察は自分がどこにも行かなくて、むしろ完全に「ここ」にいて、「いま」「ここ」にいるからこそ想念が見えるので、それを客観視と言ってしまうと「なんのこっちゃ?」となる気が致します。分かっている人同士ならば「ああ、客観視ですか。ああ、そうですね」と納得できるでしょうが、その状態を知らない人に対する説明として「客観視」は誤解がかなりあると思います。ミスリードしてしまいそうな表現です。
本当の客観視は幽体離脱のように外から見ることだと個人的には思います。
客観視と言うよりも、状況そのままに言えば「思考と想念が分離して認識できるようになり、それが思考ではなく想念だと認識しつつ想念の観察が可能になった状態」とでも言いますか。
きっと古来からこのことを客観視だとか言ってきたのかなあ、という気がしました。古来から、という部分は推測で仮説ですけど。「自分」というのはどこにも行ったりせずに「いま、ここ」にいて「想念の観察」をしているので「客観」というのはよく分かりませんけど、この種の「想念の観察」のことをきっと「客観視」と世間では言ったりするのかなと思います。流派にもよるのかもしれないですけど。