最近の瞑想では内なる雲が晴れわたり、夜明けのように光を感じるようになりました。
長い夜がいよいよ明けるのでしょうか。
以前ですと瞑想における「観察」はいずれか1つが対象になっていました。体の感覚を観察するときは感覚のみ。想念・雑念を観察するときも基本的にはそれだけの観察でした。
しかし、最近の瞑想では2つ以上の観察に変わってきました。
例えば、体の感覚と想念の両方を観察できています。聞こえる音・声も観察できていますので3つ以上とも言えるかもしれません。瞑想はあぐらを組んで目を瞑っっているので視覚情報はありません。
瞑想中、以前はヴィパッサナー瞑想をしていたとしても体の感覚の観察をしているときは基本的にそれだけ意識しており、想念や雑念の観察あるいは雑念に囚われているときはそれだけの観察でした。
今でも雑念に囚われることがゼロではありませんが、基本的には想念や雑念と体の観察および外の音の観察が同時にできています。
おそらくは、これは内面が晴れ渡ることにより可能になったことなのかな? と思っております。
ヴィパッサナー瞑想は本来こういうものなのかもしれないですね。
この状態を「力が抜けた」と言うこともできるかもしれませんが、エネルギー的には高まった状態です。
以前は力が入っていてエネルギーが少なくて観察がうまくできていなかったのかな、とも思います。
以前との違いですが、以前は感覚を観察したのと同時ではなく時系列で反応的に想念や雑念が観察されていましたが、今は両方が独立して反応しているのを観察している、と言う違いがあります。以前は、体の感覚を観察してサワサワする肌感覚とかチクリとする感覚などを感じることとに精一杯で、感覚がトリガーとなって想念や雑念が発生すると感覚は観察できずに想念や雑念に囚われて、次はまた体の感覚の観察に戻って、と言う行ったり来たりを繰り返していました。当時はそれが観察だと思っていました。今の状態は、体の感覚と想念・雑念が並行に存在していることを同時に観察できています。現象としてはさほど違いがありませんが、観察の仕方に違いがあります。そして、これが可能になったのは、おそらくは上記のような状態になってからだと思うのです。
マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの弟子であるボブ・フィックスは以下のように記しています。
瞑想がはかどり、ストレスやカルマの記憶が消え始めると、内なる空がじつに澄み渡る。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」
光は、スピリチュアルやヨーガでよく言われていることで、やがて光源状態になると言われています。私はここ最近しばらくアナハタ優勢ですが、光というのはわかるようでいてわかりませんでした。ここに来て、例えばスワミ・ヨーゲンヴァラナンダが「魂の科学」で言うところの「光輝状態の始まり」が始まりつつあるのかもしれないです。
「魂の科学」によれば、クンダリニーの覚醒は2つの形態があると言います。
(1) 生気の上昇(Pranottana)
(2) 光輝状態の始まり
同書によれば生気の上昇とはチャクラで光を伴わずに動き出すことで、覚醒すると光り輝くと言います。
どうやら私は「生気の上昇」としてのクンダリーニ覚醒をしてオーラがアナハタ優勢になっていたとしても、光輝状態にはまだなっていなかったのかな、と推測しています。
ボブ・フィックスは上の引用文の後に次のように記載しています。
知覚にともなう感覚も高まり、色彩はより鮮明に見え始める。結果として生じるそんな変化が、新たな次元の扉をあけ、見るものや知りたいことをすべて知覚する能力をひらく。それを知覚の鋭敏化と呼んでも良い。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」
と、言いますのも、本日この観察状態で瞑想を続けていたところ、ふと目の前に学生服っぽい服を着た人のシルエットが見えて、私の方に近づいてきてすれ違いました。それだけのことですけど、これは何でしょう? たまたま通り過ぎただけかもしれません。この部分に関しては様子見ですね。単なる想像かもしれませんけど、何かが横切ったのかもしれません。
とは言いましても、ボブ・フィックスは次のように記しています。
しかし瞑想で重要なことは、感覚に生じる種々の妨げを超えて、無限の静寂に吸収される能力だ。(中略)空(くう)は、宇宙を超越している。完全に意識があって、完全に目覚めている。空にいるとき、私たちは宇宙を超え、それをとりかこむ無限の空間にいる。空に慣れてくると、宇宙を外側から観察しているような感じがする。(中略)この体験が、いわゆる観照だ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」
確かに、言われてみれば本日の瞑想は観照(のほんの入り口)のようなものだったかもしれません。わずかながらの経験ですが、随分と瞑想は奥深いものだなと改めて思いました。まさかこのような状態を経験できるとは思ってもいませんでした。
内面が澄み渡ると知覚が鋭敏になりつつ光輝状態になり、観照に至る、と。 そう言うことなのかなと解釈しました。