最近は瞑想手法の「集中」だとか「観察」だとかの話が多くなって、基本のところをあまり言及していない気がしましたのでちょっと言及します。
「集中」とか「観察」とかいう「感覚」「行動」を元に分類するのは心理学的とでも言いましょうか。瞑想やヨーガにそういう面はあります。特に仏教は心理学的に内的感覚を分析している気が致しますし、ヨーガでも内的な観察を重視していますから「集中」とか「観察」とかいうお話が出てきます。
しかし、それと同じくらい重要な視点として「パワー」のことがあります。
男性的に言えば「パワー」ですし、女性的に言えば「癒し」だったり、中性的に言えば「エネルギー」とか言ったりしますが、同じことです。
パワー(癒しの力、エネルギー)が高まればポジティブになって雑念が減って「集中」も「観察」もできるようになります。
パワーが高まらずにやっている集中と観察ですと高い瞑想状態に入ることは難しいかと思います。
パワーが高まらなくても行える瞑想として昔から「トランス」とかの手法がありますが、トランスとはオーラを不安定にさせて異常な状態を作り出すことで霊能力やその他の能力、あるいは他の霊に自分を操作しやすくするような特殊な状態を作り出すことであり、トランスは王道とは言えません。むしろ自分がトランスしにくい状態にするのがヨーガや瞑想の王道になります。
パワーが高まるには体の中のエネルギーのルート、ヨーガで言うナディを活性化する必要があります。そして、ナディが活性化することを、ヨーガ的には「浄化が進む」とか言ったりします。ナディが汚れで詰まっているので浄化することによりエネルギーが通りやすくなり、パワーが高まるのです。
そして、俗に言うクンダリーニが活性化してポジティブになり、集中力も観察力も高まります。
ですから、流派によっては集中とか観察とかよりもパワーを上げること、あるいは、癒しの力を増大させること、あるいは、エネルギーを強めること、などを重視しています。どれも見方が違うだけで一緒ですが。
そして、エネルギーが高まれば観察力が高まり、いわゆる観察瞑想のようなことも可能になってゆくわけです。
それぞれの流派にやり方があって、それぞれのやり方に落とし穴やメリットがあると思います。
エネルギーを高める方法ですと最近記述した「タマスの瞑想」「無の瞑想」「眠り込むような瞑想」と言った落とし穴には落ちにくい気も致します。
流派によってはヨガのアサナ(体操)を軽視していますが、瞑想だけ行っているとこの種の落とし穴に落ちやすい気も致します。
瞑想だけで精神修行する場合は特にグルが必要なのかなとも思います。何せ、瞑想は目に見えないものですから。
私の場合、最初はヨガのアサナ(体操)から入って、瞑想も少しはしていましたがクンダリーニが少し活性化した後に瞑想が急にしやすくなって瞑想にのめり込んで行きました。
ある程度のパワーがなければ瞑想がうまくできないような気も致します。
どちらにせよ、最近は瞑想のことばかり書いて来ましたのでパワーに対する言及が不足している気が致しましたので少し書いて見ました。